2008年10月06日

その他西郷隆盛のこと

 以前たまたま家の物置の整理をしていたら、「読売カラー百科145 歴史の旅 西郷隆盛」という小冊子が出てきた。多分読売新聞の販売所が集金の時にもってきたものだろう。それを亡くなった義父が取って置いたものだと思う。生前義父はNHKの大河ドラマであった「翔ぶが如く」のことを自分の出身地も近い関係で、楽しみに見てたから、これも読んだかもしれない。捨てるのもなんなのでそのまま取っておいたのを思い出し、取り出して読んでみた。


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 この小冊子は歴史夜話を盛り込んだ観光ガイドといっていいかもしれない。書かれている歴史夜話は大したことはない。いかにも読売新聞販売所が購読者に洗剤と一緒にサービスに配るといったものだ。ただ、逸話として面白いのは、「西郷の妻たち」である。
 これによると西郷は三人の妻を娶っている。最初の奥さんとは離婚し、二人目が奄美に隠れていたとき島の娘、竜愛可那と暮らしていたが、帰藩命令が出て鹿児島に戻った。竜愛可那はそのまま奄美に残った。そして小松帯刀の媒酌で後家老座書役岩山八郎太の次女イトと結婚した。明治三十一年高村光雲作の上野の西郷像の除幕式にイトも出席したそうだが、その時、「主人はあんな見苦しいなりで人前に出る人ではない」といって泣いたという。
 西南戦争に関する写真は興味深い。二枚ほど借りてみる。最初が私学校跡地と西郷終焉の地城山である。


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 次があの田原坂付近の写真。田原坂旧道の写真を見ていると、地形がよくわかる。道に政府軍、小山の上に薩軍がいたのであろうか?


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 もう一冊西郷に関する雑誌がある。小学館の『週刊新説戦乱の日本史』7巻の「新説西南戦争」である。今もシリーズとして刊行されているので先の小冊子とはちがい写真はきれいだ。またどこでどのような戦いがあったのか図版もわかりやすい。『翔ぶが如く』の7巻の時に使用した西郷たちの逃避行の地図はここから借りた。


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 ここでは可愛岳(えのだけ)の写真を借りる。


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 この写真を見ていると司馬さんが描いた、西郷たちが鹿児島に戻るために越えた可愛岳が、いかに壮絶な逃避行であったか想像できる。
 ところで薩軍は財政的戦略が一切なかった。このことは以前書いた。そのため戦いが長期化すると資金不足となった。そこで「西郷札」という紙幣が日向の佐土原で製造され、発行された。


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 占領下で無理矢理通用させ、物資を調達した。この「西郷札」は当時16万円ほど発行され、通用する期間が3年で、他の紙幣や金銀と交換できない不換紙幣であったため、紙幣に信頼が一切なかった。
 西南戦争後、当然紙屑同然となり、日向の人々に多大な損害を与えたので、その補償を政府に申請したが、賊軍の発行した紙幣に補償などできるかということで、政府がその申請をはねつけた。
 松本清張さんの初期の短編に『西郷札』というのがある。昔読んだことが確かあるはずだが、背景がよくわからなかったため、何となく読んだ記憶があるという程度にしか頭に残っていなかった。それで、松本清張全集の35巻を引っ張り出し読んでみた。


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 要は紙屑同然となった「西郷札」を集めて、政府に高値で引き取ってもらおうと企む輩の話である。その前例があったらしい。
 あの三菱の創業者岩崎弥太郎が廃藩置県でやはり紙屑同然となった藩札集め、政府に引き取ってもらい、莫大な資金を調達して、三菱を発展させたことの二番煎じを企んだのである。
 話の結末は歴史の通り、政府が買い取りを拒否したため、「西郷札」を集めた輩は破産する。それを関係者の嫉妬心など若干を加えてエンターテイメント化した作品で、読んでみて面白かった。やっぱり物語の背景がよくわかると、話も面白くなる。
 で、この話が面白かったので、この巻に収録されている他の短編もちょっと読むことになっちゃった。

2008年10月04日

三浦しをん著『三四郎はそれから門を出た』

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 この本というか、この書名は朝日新聞で見て気になっていた。面白い題名をつけるもんだなと思っていたのである。もちろんこれはすべて夏目漱石の小説である。三浦さんによれば、遠い昔文学史の授業で夏目漱石の代表作を語呂合わせで覚えるために使ったものだそうだ。ちなみにこれは漱石前期三部作といわれる。後期三部作は『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』となる。
 さて、この本は今まで三浦さんがいろいろなところで書いてきたエッセイを一冊の本にまとめたもので、朝日新聞に掲載されたこのエッセイも含まれ、そのまま本の書名となった。主に三浦さんの書評といっていいだろう。
 ただ三浦さんの読まれる本は私が読む本と系統がかなり違うので、私としてはいろいろな本があるんだなというぐらいで、いくつかは除いて今後ほとんど読まない本だろうなと思う。ただ、ちょっと気になる本はいくつかあったので、さっそくメモして、後日読んでみようかと思っている。
 でもそれぞれの本の内容は別として、その内容について三浦さんが語る語り口は最高に面白い。
 基本は自分がしている“ゆる~い生活”を棚に上げて、その分ポジティブシンキングになり、過激なつっこみをいれる。それが大いに笑えるのである。ときに、この人本当に女性なのかなと思うくらい、男性的な過激さでものを言っている。出演者たちが楽しんじゃっていて、視聴者を置いてきぼりにしている最近のバラエティーよりはるかに面白かった。久々に笑わせてくれたという感じだ。
 たとえば、穂村弘さんの『本当はちがうんだ日記』を題材にして次のように語る。

 読んでいて、なんだか他人事とは思えない。たとえば私は、見知らぬ男女が親しく言葉を交わして飲み食いするという「合コン」なるものを心から憎んでいるが、そのくせ自分で出会いを演出する技にも気力にも努力にも欠け、現在使用中の化粧水は、タンスの奥に眠っていた試供品だ。
 問題は「過剰な自意識」だ。自意識が邪魔をして、「私も仲間に入れてほしい」と率直に表明することができない。楽しそうな人々をモジモジと遠巻きに眺めるのもである。
 こういう心性を、一言で表す言葉がある。「思春期」だ。この欄をお読みの中高生は、思春期まっただなかで、さぞかし生きにくい日々を送っていることだろう。しかし、いずれは思春期も終わり、楽しい青春が待ち受けているはず、と希望を抱いていると思う。残念ながら、その希望は捨てた方がいい。恐るべきことに、思春期は一生つづくものだからだ。
 その、つらくもあり情けなくもある真実が、笑いと鋭さに満ちたエピソードとなって、『本当はちがうんだ日記』に克明に記されている。

 この「三四郎はそれから門を出た」は中高生のための本の紹介ということになっているから、その年代の合わせてこのようにいっているのだ。他にも、次にようにある。

 え、もしかしてもう夏休み?いいなあ。海、山、恋、冒険と休み中の予定が目白押しかしら?いや案外夏期講習の予定だったりして。ははは、ざまあみろ(と、夏休み自体がないくせに喧嘩を売ってみた)

 気になる文章がある。

 本を売る店で働いていると(三浦さんはアルバイトして古本屋さんで働いていたらしい)、気がつくことがある。新刊、古本問わず、とにかく「本」というものを求めて集う人間は、総じてキャラクターが濃いのだ。お客さんも店員も、浮世離れしていたり、逆に欲望におもむくままに行動しすぎていたりで、見ていて飽きない。

 そうかなぁ、私も以前書店員であったからキャラが濃かったのかなぁ。そして今はどうだろう・・・・?確かに本好きにはどこか世間離れしていて、胡散臭い部分もあるので、個性的なキャラクターの人が集まる可能性は充分ある。そして本好きが本屋に勤めるというパターンが多いだろうから、買う方も売る方も似たようなキャラクターになる可能性も充分ある。まぁそれもそれで面白いと思うのだが、最近の大書店では女性には制服、男性にはネクタイを強制して、個性的なキャラを無臭化しようとしている。その結果書店員もその辺のOLやビジネスマンと何ら変わらないようになっちゃって、機械的で面白くない。検索機械の扱いは詳しいけど、本のことをまるで知らない馬鹿書店員が増えている。
 一方読む側もおかしな(あるいはつまらない)人間が増えているような気がする。三浦さんは次のように憤る。

 「趣味は読書」と、てらいなく履歴書に記入できる人々がうらやましくてならない。いや率直に言って、うらやましさが高じて憎しみすら覚える。
 「私、けっこう本読むんだ-。『冷静と情熱のあいだ』はすっごくよかったよ」なんて言う、おまえらなんてみんな死ね。合コン中の男女を横目に、居酒屋で一人、苦しい思いでビールを飲んだことが何度あっただろう。私にとっちゃあ、読書はもはや「趣味」なんて次元で語れるもんじゃないんだ。持てる時間と金の大半を注ぎ込んで挑む、「おまえ(本)と俺との愛の真剣勝負」なんだよ!

あるいは、

 私は読書を通してお役立ち知識を仕入れたいわけではなく、励ましを期待したためしはなく、癒されたくもなく、自己を肯定してもらいたくもないんじゃ!だいたいそんな甘えた精神で本を読んで、はたして楽しいのか?

 私は三浦さんのこの意見には大賛成で、趣味を「読書」と平気で言えたり、履歴書に書ける神経はちょっと私にも理解しかねる部分がある。あるいは最初から打算的に知識を得ることを期待したり、癒しを求めたりするのはどうかと思う。そんなもの読んでみなきゃわからないだろう。

 さて、ここに収録されている三浦さんのエッセイは本のことだけではない。旅、食事、映画、美容など女性らしい文章もあるのだが、やっぱり三浦節が出てしまう。「『大江戸温泉物語』へ行く」では、

 さっそく大きな風呂場に向かう。光差す真っ昼間の広大な風呂場には、大勢の裸の女性(老いも若きも)が集まっていた。あんまり裸体の数が多いから「風呂に入る」という日常的な行為も、なんだか非日常的な行為に変わる。私は湯船につかりながら、「なんかこう・・・・アウシュビッツのガス室を連想させる不吉さがあるんだよな」と思った。無数の裸体の、無防備さゆえの迫力に圧倒されたのだ。

 ここを読んだとき、飲んでいたアイスコーヒーを噴き出してしまった。何となく想像できちゃうからおかしかった。


評価
★★★★


書誌
書名:三四郎はそれから門を出た
著者:三浦 しをん
ISBN:9784591093566
出版社:ポプラ社 (2006/07/25 出版)
版型:305p / 19cm / B6判
販売価:1,680円 (税込)

2008年10月03日

池谷伊佐夫著『東京古書店グラフィティ』

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 池谷さんの本を入手したのでまた読んでみる。読んでみるというより古本屋さんの店内のイラストや書き込みにある店の蔵書を目をこらして見ているといった方がいいかもしれない。それが楽しいのである。今回は都内のおもだった古本屋さんがここに登場している。池谷さんがこうして古本屋さんのイラストの本を描くのは、新刊書店が品揃えに個性感がないため、面白味がないという理由だ。だから必然的にターゲットは古本屋さんになってしまうという。(もちろん池谷さん自身が古本好きというのが一番の理由だろうが)
 例外的に個性的な新刊書店を最後に紹介している。銀座のイエナと書肆アクセスがなどである。ただ二軒とも今はない。個性的であるが故に潰れちゃったのかもしれないなんて思う。
 都内でもこれだけ面白そうな古本屋さんがあることを改めて知らされるのだが、如何せんお店の場所がまちまちで、しかも私の生活範囲から結構離れている。たとえば神保町のように一カ所にいくつもの古本屋さんがあれば、たとえ一つのお店に入って本がなくても、違うお店に入って本を探すことが出来るから、行ってもいいかなと思う。
 だけれど、スポットであるお店にわざわざ訪ねて行って、何も収穫がなかったら身も蓋もないなと考えちゃうのだ。確かに古本屋さん巡りは楽しいしだろうし、お店の棚を眺めるのも面白そうと思うけど、欲しい本を探しに出かけて何もなかったと考えると「ちょっとなぁ」と二の足を踏んでしまう。
 まして、ネットで探せば簡単に在庫の検索ができる時代である。その便利さを享受してしまっているので余計である。だから面白そうなお店だなということで、ただそれだけで足を運ぶことはないと思う。だから仮に何かの用で近くまで行ったときに寄ってみたいと思うのだ。

 池谷さんは中学生の頃江戸川乱歩に沈溺したらしい。それで近隣の町の古本屋さんを巡り乱歩の本を探したという。その数も相当量になったらしいが、全作品が集まった頃、江戸川乱歩の全集が刊行された。思わず「冗談じゃない。これまでの苦労はどうしてくれるのだ」と地団駄を踏んだという。「だろうな」と思う。全集というのはその名の通り、その作家の全作品が、それこそ絶版本であってもそこに収録されちゃうわけだから、昔の作品を読みたいと思って、苦労して古本を集める意味を失なわせる。しかも全集は統一された装丁できれいに並ぶわけだから、腹も立つ。
 けれど池谷さんは「負け惜しみでいうのではないが、発売当時の単行本は、値段、装丁、造本、はては活字にいたるまでその時代が表れており、ストレートに作品の世界へ入っていくことができる」という。これは私もそう思う。
 何度も書いたけど、私は開高さんの昔の単行本が欲しくて、古本屋巡りをはじめた。それはたとえば文庫でも読めるし、全集でも読める。だけど発売当時の単行本そのものの味わいはそこにはない。集めてみると、発売当時の単行本はいいのである。文庫で読んだ作品の親本である単行本がこれだったのかと、手に取り感慨深くなってしまうのである。池谷さんの言う通り、本にその時代のすべてが表現されているような気がしてしまうのである。好きな作家の作品だから、いろいろな意味でいとおしいのである。
 こうした私の行動を文庫にあるのだから内容は同じじゃないと馬鹿にする。「いやいや違うのだ」と言ってもなかなか理解してくれない。
 私が親本である単行本にこだわる理由は“発売当時の本”に価値があると思っているからである。といっても初版本にはこだわってはいない。少なくても“発売当時の本”の雰囲気を残している単行本であればいいと思っているだけだ。その雰囲気を味わいたいだけなのだ。だから私はビブリオマニアではない。
 先に読んだ『チャリング・クロス街84番地』のヘレ-ン・ハンフが17世紀の頃の本を探し求めたのも、これだったんじゃないかなと思っている。
 最近は阿刀田さんに凝っちゃっているところがあるが、その阿刀田さんの本だって出来れば発売当時の単行本が欲しいと思っているので、文庫では簡単に探せるけど、あえて単行本にこだわっているのも、そんな理由からだ。
 だからといって、文庫が悪いなんて全く思っていない。文庫も好きである。だけど時代の雰囲気を感じたければやっぱり単行本だと思うのだ。


評価
★★★


書誌
書名:東京古書店グラフィティ
著者:池谷 伊佐夫
ISBN:9784487754731
出版社:東京書籍 (1996/11/07 出版)
版型:163p / 21cm / A5判
販売価:1,528 円(税込)

2008年10月02日

ヘレ-ン・ハンフ著『チャリング・クロス街84番地』

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 昔開高健さんの古い本を探すために、神田や早稲田の古本屋さんを回ったが、それでも手に入るものは限られていた。「日本古書通信」に全国の古本屋さんが自分のところ在庫を広告として載せていているので、その中から開高さん未入手の本を探し、はがきで注文した。確か2冊ほどこの方法で手に入れたと思う。中には抽選というやつもあって、外れたのだろう。その本は入手できなかった。
 今ではネットで簡単に日本全国の古本屋さんにアクセスできるので、こんな面倒なことなどすることもなく、在庫の確認も注文も数度のクリックで簡単にできてしまう。後は数日待てば、本と請求書が送られてきて、後は郵便振替で送金すればいいし、アマゾンならそのままカード決済だから、本を受け取るだけでいい。ここには古本を売る人とそれを買う人の顔が一切見えない。
 たとえば昔やったはがきでの注文でも、注文する本の書名などを書くのは当たり前だし、最後には「よろしくお願いします」の一言ぐらいは書き添えるだろう。それだけでも何か見えてくるものがあると思いたいが、ネットの場合それが一切ない。確かにつまらんしがらみがないから、その方が楽といえば楽であるが、どこか寂しさがつきまとう。特に古本という手垢のついた本にかかわるものだから、ちょっとは人との関係が欲しいといえば欲しい気もするのである。

 なんでこんなことを書いたかといえば、この本を読んだからである。私の持っているこの本は昭和59年発売の初版本である。当時からもう24年経ってしまっている。本もほどよく日焼けして、赤茶けている。多分買ってすぐ読んだと思うけど、内容は覚えていない。先日読んだ池谷伊佐夫さんの本にこの本のことがちょこっと書かれていて、気になったものだから読み返すことにしたのだ。
 この本は、ヘレ-ン・ハンフが『サンデー・レビュー』で絶版本を専門に扱っているイギリスのチャリング・クロス街84番地にあるマークス社の広告を見て、手紙に添え欲しい本のリストと一緒に送ったことから始まる。時は1949年10月5日である。ハンフの担当となったのはマークス社のフランク・ドエルであった。ドエルはハンフの注文した本を探し出し、アメリカにいるハンフの元へ本を送る。
 ヘレ-ン・ハンフは自ら貧乏作家で、古本好きと称しているが、生計はテレビの台本を書くことで立てている。古本好きもこの本を読んでいる限り、主にイギリスの古典作家に興味があって、それらの作家たちの本をドエルに注文している。
 しかし注文した本がすぐハンフの元に届くとは限らない。結構やっかいな作家たちの本を注文しているので、ドエルはそれらの本を探し出すのに苦労している。そのためなかなかハンフの元に本が届かない。ハンフは注文した本はどうなっているの?とキャンキャン吠えるし、本を探さないで、店でぼーっとしてるんじゃないのと毒づく。
 しかしそれは悪意があるわけじゃない。私もハンフの気持はよくわかる。古本好きのとって自分が探している本がなかなか見つからないというのは、結構イライラするものなのだ。まぁその分目当ての本が見つかり、手元でその本をさわり、ページをめくり、読んでみると、うれしさはひとしおなのだが・・・。ハンフも届いた本を見て驚き、感激し、ページにペーパーナイフを入れて読み、また感動するのである。
 この本を読んでいると、当時イギリスでは食料の販売統制がおこなわれていたようである。多分戦争終了後だからだろう。ハンフはドエルに肉やハム、卵(乾燥卵というのもあるらしいが、どんなやつなのだろうか?)や缶詰などをクリスマスや復活祭などのプレゼントして送っている。それはマークス社のドエルたちが苦労してハンフが注文した本を探していることのお礼であった。
 送られてきたプレゼントはマークス社の従業員やドエルの家族に渡り、そのためハンフとの手紙のやりとりが、マークス社の従業員、ドエルの奥さんや子供たちと広がっていく。あるいはプレゼントのお返しとして、ドエルがハンフに送ったテーブルクロスは近所の老婆の手編みで、それをハンフはえらく気に入り、その老婆との手紙のやりとりもある。もちろんハンフから送られた食料品はその老婆にもお裾分けされている。
 ここではハンフとドエル関係が店とお客という商売関係で終わるのではなく、古本を介して人としての関係に変わっていくのが、心地いい。それはドエルがハンフを一番最初に“マダム”と呼び、次に“ハンフ様”に変わり、さらに敬称を省いて“ヘーレン”になっていくのでもわかる。それだけ手紙や本、そしてプレゼントやりとりがお互いを親密化していったのである。いつの日か、ハンフがイギリスに行って、チャリング・クロスにあるマークス社を訪れたいという気持にもなり、ドエルや彼の家族もそしてマークス社の社員もハンフがイギリスに来てくれることを望むようになる。
 しかしハンフのイギリス訪問はなかなか実現せず、1969年1月8日付けのマークス社の秘書からの手紙で、ドエルが死亡したことを知らされる。読む側としては、それまでハンフとドエルの手紙のやりとりが書かれていたのに、いきなり秘書からの手紙でドエルの死亡を知ることになったので、正直驚いてしまった。
 訳者である江藤淳さんは解説で次のように書かれている。

「二十年の歳月にわたってつづけられたこのほのぼのとした交友に終止符を打つのは、フランク・ドエルの突然の死である。私たちが、フランクの死を告げる手紙を見て愕然とし、もう二十年も経ってしまったのか、と思い、人はやはり死んでしまうのだな、と思わざるを得ない。この切断は鮮烈であり、ひとことのコメントも添えられていないためにかえって粛然と襟を正させられる。つまり死が、この往復書簡集に作品の輪郭をあたえたのだということができる」

 たしかにハンフとドエルの往復書簡は読む側にとって、怒ったり、謝ったり、喜んでみたり、感謝してみたりして、素直な人間性とやさしさをそこに感じさせてくれた。だからそれがドエルの死によって終わってしまう残念さを余計に感じるのである。
 ハンフは最後にイギリスに行く友人宛に「イギリスのことは長い年月夢に見てきました。ただ、かの地の町のたたずまいを見るためだけに、よくイギリス映画を見にいきました。何年か前、私の知り合いのある男性が、イギリス旅行をする人は、見ようという目的のものが必ず見られる、って言ったのを覚えています。で、私ならイギリス文学のイギリスが見たいわって言ったら、彼、うなずいて、あるともって言っていたわ。
 あるかもしれないし、ないかもわからない。今私がすわっている敷物のまわりをながめると、一つだけ確実なことが言えます。イギリス文学はここにあるのです。
 ここにある私の古書を全部お世話してくださったありがたいお方は、数カ月前に亡くなってしまいました。その古書店の店主だったマークスさんももうこの世にはいらっしゃいません。でもマークス社は依然として残っています。もしチャリング・クロス街84番地の前をお通りになるようなことがあったら、私からよろしくって言ってくださいね。そうしてくだされば、大いに感謝いたします」と書いている。
 ここでハンフが注文したは、古さもあるけどきっとすばらしい装丁の本なのだろうなと思ってしまった。ウォルトンの『釣魚大全』や『ピープス氏の日記』(私のは岩波新書なのだけれど)などは、私も持っている本とは違い、まるで他の本のような感じがしてしまった。だってハンフがあれほど待ち望んだ本なのだから。
 いい本であった。


評価
★★★★★


書誌
書名:チャリング・クロス街84番地 ― 書物を愛する人のための本
著者:ヘレ-ン・ハンフ 江藤淳訳
ISBN:9784122011632
出版社:中央公論新社 (1984/10 出版) 中公文庫
版型:233p / 16cm / 文庫判
販売価:680円(税込)

2008年10月01日

YOMIURI PC編集部編『パソコンは日本語をどう変えたか』

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 私はWindows Vistaが搭載されたノートパソコンを使ってこのブログの文章を書いているが、最初Vistaの画面の文字を見たとき「あれっ、なんか違うな?」と感じた。普段フォントなどあまり気にしない方なのだが、そんな私でもそんなことを感じた。
 Vistaのシステムフォントを“メイリオ”ということをはじめて知った。私は知らなかったが、このフォントはVista発売前から結構話題になったらしい。“メイリオ”の語源は「明瞭」からきているらしいが、その語源の通り、確かにXPの文字よりスッキリしているかもしれない。そのねらいは①ディスプレイ上(特に液晶ディスプレイに)での可読性向上、②和文と欧文を違和感なく調和させるということにあるらしい。
 ところで漢字をコンピューター上で扱えるようにするためには、一定の数の漢字に番号を振ってソフトに組み込まなければならない。この組み込まれた文字の集合体を「文字セット」といい、多くはJISの文字コードを基準にしている。Vistaは「JIS X 0213:2004」(通称「JIS2004」)という文字コードを使っている。
 ところがVista以前のバージョン、例えばXPでは「90JIS」が組み込まれていて、ここで問題が生じるらしい。下の文字を見てほしい。「かつしかく」を漢字変換すると、上がXPの場合、下がVistaの場合である。違いがわかるであろうか?


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 XPは「ヒカツ」であり、Vistaは「人カツ」なのである。それをこの本で知ったとき、実際試してみて「へぇ~、そうなんだ!」としげしげとその文字を見てしまった。
 これは大したことじゃないと思われるかもしれないけど、搭載している文字コードの違いがあるということは結構問題なのである。だって双方名前なのだから当然こだわりがあるはずで、いい加減に済ませられる問題じゃない。
 さらにVistaの「JIS2004」の文字コードにはあまり日常生活では使われない第3、第4水準の漢字が収録されているが、XPの「90JIS」はそれが収録されていない。もしVistaで第3、第4水準の漢字を使って、例えばメールなどした場合、XPでは文字化けしてしまうのである。今のところ混乱がないのは、Vistaがまだそれほど普及していなし、そもそも第3、第4水準の漢字が日常生活であまり使われることのない漢字だからであるが、固有名詞にはこの第3、第4水準の漢字が使われる可能性が充分あるので、ネットの取引など支障をきたすおそれがあるという。

 アメリカ生まれのコンピューターはアルファベットしか扱えない。しかし日本でコンピューターを使うためにはどうしても漢字が使えないとその普及は進まない。当然である。しかしコンピューターで漢字が扱えるとなると、大変なシステムが必要になるし、ソフトも複雑になる。
 例えば英語の場合、基本的な文字数はアルファベット26文字と数字と記号だけで100字あれば事足りるし、しかもアルファベットは漢字に比べれば字形が単純だ。ところが日本語の場合、ひらがな、カタカナ、それにいくあるかわからない漢字を扱わないとならない。しかも字形が複雑ときている。さらに同音異義語が日本語にはたくさんある。それらの問題をどうやってクリアーして、パソコンに日本語変換を組み込んでいったかを、その歴史をこの本では書かれている。
 昔、日経新聞から出版された『パソコン革命の旗手たち』という本を楽しく読ませてもらった記憶があるが、まさにそれを日本語変換ということに限って再現した感じだ。
 ところでこの本の題名である「パソコンは日本語をどう変えていったか」が、私としては一番興味のあることがらである。この本ではこのことが最後の章にわずかしか書かれていないのは残念である。
 ここではパソコンで簡単に漢字変換できることが「きちんと漢字を使えない人が増えた」、「難しい漢字は読めるが、『手で』書けない」という状況を生み出したと指摘しているが、それは今までいわれてきたことだし、自分自身もそう感じているから、目新しいことではない。
 パソコンで簡単に漢字に変換してくれるものだから、個人のブログなど見ていると、時に、普段絶対に使わない漢字が使われていることに気がつく。あるいは個人の手記などまとめた本など読んでいると、多分パソコンで原稿を書いたのだろう。「ここでこんな難しい漢字を使うか?」と疑問に思うことがある。これらすべて、日本語変換ソフトの「お節介」から生じたことだろう。
 私はこのブログでよく本の中の文章を引用する。それをそのままパソコンに入力して、変換すると、本の文章では漢字が使われていないのに、ここでは漢字になってしまう。正確を期すため、本に書かれている通りにしたいので、漢字に変換されないようにするか、あるいは戻って直したりする。そのたびにイライラしする。無理に漢字に変換しなくてもいいのにとさえ思う。
 プロの文章家の文章を引用していると、気づくことがある。パソコンでは漢字になってしまうことばがひらがなで書かれることによって、やさしくなっているような気がする。やたら漢字が連なっていると、堅苦しいし、なんか文章にトゲがあるように感じてしまう。そして漢字を思い切って使う時はその漢字が端的に意味を言い表しているときに使われる。それが文章全体を引きしめる。
 それを感じたので、私も無理に漢字は使わないようにしようと思ったのである。もちろん大した文章など素人なので書けはしないのだが、それでもやさしい文章で、引きしまった文章は美しいし、見た目にもきれいだと思う。だから少しでもそうありたいと、パソコンまかせに文章を書かないようにしているつもりである。


評価
★★


書誌
書名:パソコンは日本語をどう変えたか―日本語処理の技術史
著者:YOMIURI PC編集部【編】
ISBN:9784062576109
出版社:講談社 (2008/08/20 出版)ブルーバックス
版型:253p / 18cm
販売価:945円 (税込)

2008年09月29日

文芸春秋編『目でみる日本史 「翔ぶが如く」と西郷隆盛』

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 確か文藝春秋デラックスというムックがあったのだけれど、今もあるのだろうか?なんか最近本屋さんで見たこともあるけれど、ちょっと昔のやつとは違うような感じだ。昔のは内容がもっと“俗っぽい”かったし、サイズも大きかったような気がする。
 この本はそれを文庫化したもので、当時NHKの大河ドラマで「翔ぶが如く」が放映されるのにあやかってというか便乗して出版されたものだろう。もちろんこんな本、今では本屋では手に入らない。きわものぽいもね。
 で、なんでこんな文庫本が私の手元にあるかといえば、以前『翔ぶが如く』を読もうととして、古本屋さんの均一本コーナーで各巻を集めていたときに、この本も見つけたので買っておいたのだ。
 今回やっと『翔ぶが如く』を読み終えたので、この本のことを思い出し、手に取った次第だ。便乗本?にしては面白かったし、内容もしっかりしている。特に明治時代の写真が興味深い。『翔ぶが如く』に出てくる人物たちの肖像写真もあって、「へぇ~、桐野利秋はこんな顔をしていたのか」とか、大久保利通が新築した邸宅の写真を見て、「ふ~ん、これが『大久保はこんな豪邸を建てやがって』と帰郷した薩摩士族に反感を買った家なのか」としげしげと眺めてしまった。
 西郷たちが最後に籠もった城山の写真があったが、竹を組んで土嚢を積み上げ、政府軍の攻撃を防ごうとしている状況がよくわかる。ちょっとした万里の長城みたい。
 後は当時の錦絵がいくとも掲載されているが、それがカラーじゃないのが残念だなと思った。昔「別冊太陽」で明治の新聞や錦絵などがたくさん載ったものを持っていたのだけれど、古本屋さんに売っちゃった。今にして思えば残しておけばよかったなぁ。
 さて、写真も面白いけれど、この本に寄稿している作家や評論家などの文章にも面白ものがあった。特に「鼎談書評」として木村尚三郎さん(いやぁ~懐かしい名前だ)、丸谷才一さん、山崎正和さんの鼎談は興味深かった。
 例えば丸谷才一さんが「(司馬さんは)明治維新以前の西郷への高い評価と、以後の彼に対する極度に低い評価との間で、困りながらこの七冊(『翔ぶが如く』)の本を書いた。この本の最大の読みどころは、その司馬さんの困り方です」といっているのが、確かに!と思ったのだ。そのギャップがあまりにもあるので、司馬さんは『街道をゆく』では「西郷の不思議さ」といっているのだが、それをいろいろな方向からなんとか説明したい、あるいは司馬さん自身納得したいという思いで、この本がこうも長くなってしまったんじゃないかと思うくらいだ。しかし結局司馬さんもそして読む我々も、西郷の極端な変化に理解が及ばない。「こうだから西郷は維新前と維新後で変わらずを得なかった」という説明が出来ない。それを丸谷さんは司馬さんが困っているといっているのである。それがよくわかったのである。

 さらに、山崎正和さんが明治維新という革命の性質をうまいこと言い当てているなと感じた言葉がある。

 「やってみて悪ければまた考える、というやり方で一貫して明治維新はおこなわれた。ですからそれは西洋流の革命とはまったく性質を異にしたものだと考えていいですね。
 西洋流の革命というのは、マルクス主義の革命もそうですし、ナポレオンの革命ですらそうですけれども、最初にイデオロギーがあり、一つの政体に対する青写真というものがあった。それについては動かない信念があったから、革命家は敗けたら敗けっきり、勝てば官軍です。
 ところが日本の場合、寄り合って相談しながらあっちへ行こう、こっちへ行こうといっているうちにだんだん現状が成り立った。そういう意味ではわたしは西洋流の革命が宗教的革命であるのに対して、日本の革命は自然科学的な革命だと思うんです。しかしこれを裏返していうと、ある短い時点の中では全員が裏切り者になるという性質がある。西郷自身も島津久光から見ればたいへんな裏切り者なんですね。そして、西郷はやがて明治維新に対する裏切り者にもならざるを得ない。そういう必然性がすでに明治維新を用意する運動の中にあったという印象をもちました」

 つまり西洋流革命はぶれないけど、日本の明治維新は試行錯誤しながら変化し発展していくから、状況が刻々と変化していく。最初は革命側であっても、いつの間にか反革命側になりかねない部分があるというのである。これは幕末から明治、あるいは西南戦争まで歴史を追っていくと「なるほど」と頷ける。たとえば西郷が作り上げた明治政府に自ら失望し始めると、今度は西郷が反政府側に立っているというのを見るとますます頷けちゃう。
 それは基本的にしっかりしたイデオロギーが根付いていないからそうなってしまうのだろうけど、その変化についていかないといつの間にか自分が反革命側あるいは反政府側に立っていることになってしまうから恐ろしい。
 それは現代の日本社会まで続いている。体制側にいると思っていたあなた、いつまでも今の地位に安穏としていると、気がついた時は反体制側にいることになりかねませんよ。日本という国はそういう国なんだから。

 さて、話は変な方向に行っちゃいかねないので、もう一つこの鼎談で木村尚三郎さんがいっていることも懐かしかった。「辺境改革説」(ここでは「辺境理論」といっている)である。
 木村さんは、なぜ薩長が明治維新を成し遂げたかを説明するに当たり、彼等が「野蛮」であったからだというのである。その説明が以下の通り。

 「知的エリートは、たしかに江戸にいたわけです。そういう人たちは都会化され、野蛮性を失っていたからこそ、逆に力にならない。こうすればこうなる、ああすればああなる、ということがみんなわかっていると指導力を発揮できず、結果として何もできないわけですよ。
 歴史はいつもそうですよ。都市文明が進むと女性化して野蛮にやられてしまう。ローマが都市文明化すると全く無知蒙昧なしかし男性的なゲルマン人にやられるわけですよ。そのゲルマンの中でさらに田舎のイギリスが近代になって大陸を押さえつける。さらにイギリスの中の野蛮な連中がアメリカに渡って、これがカンカラで豆なんか煮て食って、頑張った。そして二十世紀の初めからヨーロッパを押さえつけるようになった。もちろんこの「辺境理論」で歴史のすべてが理解できるわけではありません。しかし、明治維新も、その一つの典型的な例のように思えるわけです」
 
 これ昔、大学時代にえらく感動した理論だったのだ。文明はいつまでも続かない。腐敗などが起こり、内部崩壊していく。その文明が成熟していればしているほど、腐敗から逃れられない。その文明から一定の距離をおいている(これは肝腎です。だって全く関係のないところから次を担う文明が生まれるわけがないからだ)他の文明が、その成熟した文明の一部を取り入れつつも自分を見失わないところで(要するに新しい血が入ることで)、次の文明が生まれていくというものなのだ。それが歴史的に説明できるというので、えらく感動したのである。それをまさかここで読むとは思わなかったので、ちょっと懐かしくもあったのだ。


評価
★★★


書誌
書名:目でみる日本史 「翔ぶが如く」と西郷隆盛
著者:文芸春秋【編】
ISBN:9784168104060
出版社:文芸春秋 (1989/11/10 出版)文春文庫―ビジュアル版
版型:277p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年09月27日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 7

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 ついに7巻全部読み通した。全体的な気分として重い。それはそうだろう。この巻は薩軍の敗走から始まり、最後は城山での自滅で終わるからだ。
 司馬さんはこの西南戦争の性質を「これは軍隊間の戦争というより、薩軍の場合は宗教一揆に酷似していた。総帥である西郷隆盛への宗教的崇拝心以外に政略も戦略もなく、あとは個々の殉教心をたよりにしているというところでは、まったくそれに似ているというべきであった」といい、その宗教一揆が凄惨な自己消耗のいくさをするように、薩軍も消耗のはてに全軍が消えてしまうのではないかというほどに激しく戦ったという。
 しかも面白いことに、薩軍が起つまえにあった士族の反乱、たとえば江藤新平の佐賀の乱や前原一誠の乱、あるいは神風連の乱にしても、「西郷が起つと聞けば六十余州の士族はことごとく起つであろう」と予想し、西郷に決起を促したのに、西郷はとどまった。結果として他の士族はたちあがらなかったので、自滅した。
 しかし今度自分たちが立ち上がったときはそれを信じ、それをもってして唯一の政略・戦略とした。西郷自身、そう信じた形跡が濃い。西郷のもつ一大声望が満天下を覆っていると信じていた。つまり西郷たちも江藤同様同じ失敗をしたわけである。
 薩軍には何度も言うように「勢い」という以外、戦略らしい思想はなかったし、財務的経略を持たなかった。薩軍は総合的な観点も配慮も準備ももたず、あたかも個人競技のように戦術的勇猛さだけで熊本城も押し潰せると思った。結局は駒とり将棋のように兵を駆けまわらせて政府軍の士卒を殺傷するだけが戦いという没戦略的運動から抜け出せなかった。その責任は西郷がテロリズムだけの経験と能力をもつ人間を将帥の位置に据えたことにある。司馬さんは「西郷は一介のテロリストだった桐野や書生にすぎなかった篠原を泥の中から掘り出して陸軍少将の軍服着せ、たれよりもこの両人を信頼し、結局はかれらの政治的狂躁に乗せられた。人間を見ることにいかに目が無かった」と言い切る。篠原はこの後すぐ戦死してしまったので、薩軍を実質指揮するのは桐野である。
 その桐野は幕末中村半次郎と称していた頃から、相手を言論で説得しようとしたり、根まわしをして相手を排除するところがなく、邪魔立てする者を自分の命を賭けて、一人で斬った。維新後西郷によって桐野という凶器は陸軍少将になり、日本の軍事権の一部を掌握した。桐野という凶器は栄誉と権限を得て自立したために自らの思想と判断で動くようになり、ついには飼い主である西郷を引きずり込んでしまったのである。司馬さんは「西郷が見こんだ桐野利秋という男が、いかに戦略能力において本質的な欠陥者だった」といい、各地で敗戦を繰り返す薩軍の戦略のなさを、桐野を将にかかげたことににあるとしている。
 薩軍は敗走し続ける。田原坂以降、人吉に南下し、そして今度は宮崎には入り、南下する。そして急展開し、宮崎の山奥から鹿児島に一気に戻る。その敗走劇はすさまじい。そして城山で完全に政府軍に包囲される。


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 「新説西南戦争」(週刊新説戦乱の日本史7 小学館刊)より

 その政府軍には薩摩系高級軍人が多くいる。かれらのほとんどは西郷の子飼か、縁戚の者である。政府軍の総帥山県有朋でさえ西郷に恩があった。そのため西郷を逐うことに、気持ちのひるみがあった。できれば、政府軍が躊躇している間、せめて西郷だけでも逃げてくれまいかという気持ちであった。
 西郷は維新最大の功労者であり、かつ士族の精神像の代表的存在でもあったから、その西郷を討ちとりたくないし、討ちとらなければならないことに、名状しがたいつらさを感じていた。そのため政府軍の幹部は敗走する薩軍をその力で一気に押しつぶすことができるのに、それを躊躇したのであった。
 だから政府軍の最先方に、幕末薩摩と戦って破れた会津藩、あるいは東北、越後諸藩の士族を集め、維新の恨みをここで果たさせようとするのである。
 川路利良が放ったポリスもそのほとんどが会津藩から集められた。このことは、恨みを持つ人間を戦争の駒として使っていることになる。彼らは本来、政府を恨んでいいはずのものが、その政府に逆に恨みを持っていることで利用されてしまうのである。考えてみるだけでそ政府幹部のの狡猾さは恐ろしくもある。
 城山に籠もる薩軍は三百七十人ぐらいで、それを五、六万という政府軍の大軍が城山を包囲しただけではなく、城山そのものを檻の中に入れてしまうような規模をもって、すきまなく柵を植えた。それでも攻撃を躊躇った。薩軍の幹部の中にもせめて西郷の命だけは助けて欲しい(桐野は大反対であったが)と政府軍に交渉にいくが、とき既に遅い。総攻撃の前に、総帥山県も西郷に「自決せよ」という手紙を書いたが、総攻撃は始まってしまった。薩軍はほとんど戦いにならない。西郷も前線に出て行く。死を覚悟して。


もう ゆはごはわすめか(もうよくはございますまいか)

まだまだ

しばらくして

晋どん、もうここでよか

別府晋介は「そうじ(そうで)ごわんすかい」といって、駕籠を下り(別府は負傷していた)、西郷の背に立った。

「御免なって賜(た)も」
というや、別府の刀が白く一閃して西郷の首が地上に落ちた。

 司馬さんはあとがきで「倒幕の段階の西郷は陽画的であったが、明治後陰画的であった」と書く。この場合、写真のポジとネガみたいなことをいっているのではなく、単に陽と陰の対照として使っている。言ってみれば、倒幕時代華々しく活動したのに、維新後影が薄くなったということだろう。しかし過去の栄光はいつまでも西郷につきまとう、たとえ西郷自身自ら形骸化することを選んだにせよ、西郷の名前は革命の象徴となり、一人歩きし、担がれることになってしまった。もうそこには昔の西郷はいないのにである。そこにあるのは西郷という虚像と、自分たちの不満解消がそこに見いだせるかもしれないという淡い希望と合致してしまった不幸である。
 西郷には「西郷の人間ばなれした無私さと、高士の風のある独特の愛嬌と長者として寛仁さと、なによりも多量で透明度の高い感情の量が薩人に好まれた」と司馬さん書くが、それは薩人だけでなく、西郷に接した者が皆感じるものであった。
 薩摩の敗走で援軍として立ち上がった豊前中津隊が、今後どうすべきか討議する。増田栄太郎は中津に帰れと隊員にいうが、自分はこのまま薩軍と一緒に戦い続けるという。その理由を増田栄太郎は「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生と接すれば一日の愛生ず。三日接すれば三日愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」というのである。西郷という人間に接してしまった以上もうどうしようもないのだというのだ。そんな西郷の人間性も災いしたかもしれないと思った。


評価
★★★


書誌
書名:翔ぶが如く 7
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617701
出版社:文藝春秋 (1986/07 出版)
版型:350p 19cm(B6)
販売価:入手不可

2008年09月23日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 6

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 さて西郷たちは蜂起した。目指すは熊本城であった。なぜ熊本城であるのか?熊本城は周知の通り加藤清正が築城した。それを許したのは徳川家康であった。家康はここに難攻不落の城を築くことで、薩摩を封じ込めることにしたのである。薩摩がいつ反旗をひるがえしても、ここで食い止めることが出来るようにしたのである。以来明治のこの時期まで熊本城は薩摩を見張ってきたことになる。
 司馬さんは『街道をゆく』で「『肥後の熊本城』というのは薩摩人にとって単なる城ではなく、要するにその伝統意識のなかにあって、中央集権の象徴そのものであった」と書いている。だから「西郷軍にとって、熊本城を攻めつぶすことが、戦略以前の自明の世界に属することであった」と書く。熊本城は薩摩にとっていつでも「官」の象徴であった。「官」に対し立ち上がった西郷たちが当然潰して通るべきものであった。
 その熊本城には政府によって強制的に集められた農民兵が鎮台としていた。当然それ以前の士族たちと比べて質が落ちる。実際西郷たちが立ち上がる前に起こった神風連の乱で、簡単に襲撃され、幹部たちが殺害された。それ以降官兵は弱いと思われ、桐野利秋は熊本城を「この青竹(いらさぼう)で、ひとたたきでごわす」といったくらいなのだ。
 しかし実際攻めてみると、さすが難攻不落の城である。そう簡単に落とせる城ではなかった。しかも政府軍は籠城することで、味方の援軍を待つという作戦に出たから余計である。薩軍にしてみれば、「こんなはずじゃなかった」というところだろう。熊本城の攻撃で「薩軍の作戦心理は自閉的におちいりつつあった。そのことは、途に食物が落ちているのを見つけた犬に似ていた。食物(熊本城)を見すてて先に進めばおもしろい活路がひらけるのもかかわらず、食物にとらわれ、食物のまわりをうろうろしつつ、自分に襲いかかろうとする他の犬の群れに対して、寄るな寄るなと咆えつづけている図に似ていた」と司馬さんは比喩する。
 とにかく薩軍は熊本城を陥落させることにこだわった。ここに時間をさけばさくほど薩軍に不利になるのだが、熊本城見すてることはできなかった。こだわった理由は先に司馬さんが言った精神的風土なのだろう。いってみれば薩軍は熊本城という罠にかかったことになる。「薩軍がもし最初から熊本城を黙殺して一路豊後を衝き、小倉城をおとして連隊の兵器弾薬をうばっていれば、らくらくと成功したに相違なく、あるいは歴史は変わっていたかもしれない」と司馬さんはいう。
 西郷を担いだ薩軍はその精神的風土からくる自分たちの意識下で行動していた。そこには戦略などない。薩軍にあるのは総帥の西郷の天下における威望とこの薩人最強説という神話以外になかった。だから西郷と薩軍の行動は「町内の花見のように、その根拠地である鹿児島県を空っぽにし、全軍をあげて出はらってしまう」のである。
 この西郷の威望は薩摩の私学校生徒だけではなく、近隣の農民たちにも及んだ。薩軍に心を寄せる付近の農民は、彼らに握り飯をはこんでやっている。
 司馬さんはこの時代には「世間一般に人望家を待ち望んだり、恋い慕ったりする異常な偏向が存在した」といい、その説明を次のようにいう。「士族にしても農民にしても、藩といったような緻密で堅牢な封建組織が霧散霧消してしまうと、殻をうしなった剥き肉(み)のやどかりのような心細さをもち、そのくせ『官』というあらたに出現した重量については違和感のみを感じてそこからのがれたくなってしまう。そういう自分たちに方向を与えてくれたり、居場所を決めてくれたり、ときには死に場所をつくってくれるのが、人望家であった」。その人望家が西郷であった。
 農民たちは東京でできた革命政府と、彼らが作りはじめている重苦しい近代国家というものを歓迎しなかった。だから新政府をこわそうとする西郷軍に満腔の厚意をもっていた。農民からみれば、にわかに東京にできた新政府などは税金をとりたてる泥棒も同然といったような印象だったにちがいない。農民たちは馴れなじんだ徳川封建制こそいまにして思えばよかったと一般に考えていたし、それを西郷と薩摩士族がとりもどしてくれることを歓迎していたのだ。
 また薩摩士族にしても戊辰戦争をわずか一年で片づけた「古今無双の英雄」として西郷を担ぎ、西郷の威望で天下を覆うことで、自分たちの存在が政府軍より重いのだと思え、東京の太政官を士気の上で軽んずことができ、太政官を正統の政府というより大久保の「私政府」のように受けとるようになる。

 薩軍はすでに熊本城を包囲していたが、北方から政府軍が南下し、熊本城と連携しようとするのを防ぐため、兵を割って田原坂を中心に布陣し、政府軍と激突する。その攻防はすさまじい。
 田原坂周辺ではいまでも土の中から銃弾が出てくるが、ときに「行きあい弾」と呼ばれるものも出てくる。


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          「週刊街道をゆく」の13巻より

 これは敵味方の弾が空中でぶつかりあってお互い噛みあい、だんごのようになったものである。現在田原坂の坂の上にある通称「弾痕の家」とよばれる家にもこの「行きあい弾」が保存されている。これは偶然のおもしろさといった軽々しいものじゃなく、こういう「行きあい弾」がいくつも見つかるということは、それだけ一定の空間に相当な密度で銃弾が行き交ったという証明である。
 薩軍は田原坂ですさまじい戦いをしたが、結局敗走するところでこの巻は終わる。いくら政府軍が弱いといっても、兵、銃弾の数において薩軍を上回っていたし、兵器の性能も政府軍が上回っていた。さすがの屈強の薩軍も個人の能力だけでは勝負にならなかった。しかも薩軍には戦略を立て、統治し、指揮する人物がいなかった。西郷はこのときも何も言わなかったのである。


書誌
書名:翔ぶが如く 6
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617602
出版社:文藝春秋 (1985/08 出版)
版型:329p 19cm(B6)
販売価:入手不可

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