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2010年08月24日

吉村昭著『ニコライ遭難』

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 ニコライはロマノフ朝第14代にしてロシア帝国最後の皇帝である。


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 そのニコライが皇太子の時、日本にやってきた。この本はそのニコライが大津において、警備にあたっていた巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した事件、大津事件を扱った本である。
 そもそもニコライが日本にやってくることになったのは、ロシアが建設に着手しようとしていたシベリア鉄道のウラジオストックとハバロフスク間の起工式に、父であるアレキサンダー三世の名代として臨席するためであった。その途中、東洋諸国を巡歴して見聞を広め、日本も訪れ、そこからウラジオストックに赴く予定となっていた。
 そんなニコライの世界巡航計画が内定したことを知った明治政府は、ニコライを招請し日本に来てもらうことを考えた。そこには明治政府にあったロシアに対する危機感から、ロシアと友好関係を持てれば日本の将来にとっても有効であると判断したからである。
 当時ロシアは全世界の六分の一の領土を保有し、陸、海軍力とも世界屈指の強力なもので、ことに陸軍は世界一と称されていた。維新後わずか二十年余年しかたたぬ日本は、ロシアが武力行使にでも出ればたちまち圧伏させられる。まして昔から極東地域で不凍港を持たなかったロシアは古くから南進の姿勢を示し、朝鮮、日本をうかがう気配が濃かっていた。そこにシベリア鉄道敷設は、ロシアが侵略による極東政策を実行に移すものと考えられ、危機感がつのっていたのである。
 皇太子ニコライはいずれロシア皇帝になる。ならばここで日本に好感を抱かせ、最上級の歓待で迎え、国賓として歓迎する意味は大いにある。
 そして明治24年4月27日ニコライは長崎に着く。公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王が任命された。
 ニコライは正式に日本に上陸する前に、お忍びで何度も長崎に上陸し、ロシア人相手の遊郭に行ったり、腕に入れ墨をしてもらったりしている。買い物も日本固有のものを多く買い入れている。
 その後ニコライは鹿児島に向かった。ここで面白いのは“西郷隆盛生存説”である。こんな説があったなんて知らなかった。西郷隆盛は西南戦争で敗れ、自刃したが、西郷が生存しているという説は、西南戦争終了後も、折に触れて蒸し返されていた。インドの一島に潜伏しているとか、シベリアで兵士を訓練している西郷と会ったという人物もいたというのがあって、西郷生存説となっていたらしい。そこに本来なら皇太子ニコライが直接東京に来るのが自然なのに、行く必要もない鹿児島をわざわざ訪れるのは、ニコライらが西郷を連れてきているのではないかという話になったという。
 もちろん何事もなく、ニコライは鹿児島を離れ、その後神戸へ向かった。そして京都に着く。ニコライは終始日本に対して好意的であったし、日本の風習を重んじた行動をとっていた。そのため、迎えた日本人もニコライに対して好感を持っていた。
 そして同年5月11日に琵琶湖遊覧から京都に戻る際、大津で事件が起こる。以下本文記述である。

 皇太子の人力車が下小唐崎の町並の道に入った。
 両側にひしめく人々は頭をさげ、所々に立つ巡査は挙手の礼をする。皇太子は、吊り看板などのさがった店に視線を走らせながら車に体をゆらせていた。
 道の右手にある下小唐崎五番地の津田岩次郎宅の入口の前にも巡査が立ち、皇太子の車が車輪の音を鳴らせて近づいてゆくと、姿勢を正して敬礼した。
 皇太子の車がその前を通り過ぎようとした時、挙手の手をおろした巡査が、急にサーベルをひきぬき、進む人力車の右側一尺(三十センチ強)ほどに走り寄った。
 刀身が陽光を反射してひらめき、その刃先が鼠色に山高帽をかぶった皇太子ニコライの頭に打ちおろされた。
 その衝撃で帽子が飛んだが、皇太子は前をむいたままで、巡査は声を発しなかったので梶棒をとっている車夫の西岡太郎吉二十七歳も気づかず、変わらぬ歩度で車をひいてゆく。
 気づいたのは、車の右側後部を押していた車夫の和田彦五郎二十五歳であった。和田は茫然としながらも、後押しをやめて巡査に駆け寄り、右手で巡査の左脇腹を強く突いた。
 巡査はよろめいたが、再びサーベールをふりあげて皇太子に近づいた。その時、初めて皇太子は巡査の方に顔をむけた。巡査は、無帽の皇太子の頭に再びサーベールをたたきつけた。
 立ちあがった皇太子が叫び声をあげ、その声にふりむいた梶棒をとる車夫の西岡が、異変が起きたことにようやく気がつき、職業上の習性ですぐ足をとめると、梶棒をおろした。
 皇太子は、巡査とは反対側の路面にとびおり、頭を両手でおさえ、あ-、あ-と叫んで前方に走った。巡査はサーベールを手に追ってゆく。
 その出来事を初めから眼にしていたのは、皇太子の車の後方を進む人力車に乗っていたジョージ親王であった。巡査が傷ついた皇太子を追うのを見たジョージ親王は立ち上がり、それに気づいた車夫藤川角次郎二十五歳が梶棒をおろした。
 路上に飛び降りたジョージ親王が巡査にむかって走ると同時に、皇太子の車の左後部を押していた車夫向畑治三郎三十八歳がジョージ親王と肩をならべて走った。その後から、車夫の西岡、和田、それにつづいてジョージ親王の車を後押ししていた北賀市市太郎三十三歳と安田鉄次郎三十歳が駈けた。
 ジョージ親王が巡査に追いつき、手にした竹杖で巡査の後頭部をはげしくたたいた。その杖は、親王が県庁内の物産陳列所で買いあげた栗太郡草津村の木村熊次郎出品のものであった。
 それと同時に、向畑が巡査の腰にしがみつき、両足をかかえると勢いよく後ろへひいた。そのため巡査は前のめり倒れ、制帽が飛んだ。巡査がつかんでいたサーベールが、手からはなれ路上に投げ出された。
 向畑につづいて北賀市が、そのサーベールを拾うと、倒れた巡査に背部にふりおろし、さらに二太刀目を浴びせかけた。

 巡査の名前は津田三蔵である。津田はこの後取り押さえられる。


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 ニコライは右側頭部に9センチ近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。これが大津事件であった。しかしロシア皇太子が殺害されようとしたのである。当然これは大きな外交問題となって、国際問題となりかねない事件であった。この後明治政府の対応は大変であった。俗っぽい言葉で言えば、国力も軍事力もない日本がロシアに攻めてこられたら、ひとたまりもない。だから仲良くしましょうよ、と言ってわざわざ国賓待遇で招いてのにもかかわらず、警備する巡査が凶行に及んだ。戦争になっておかしくないし、賠償問題として、莫大な金額を要求されてもおかしくない。それこそ日本のどこかをよこせと言われかねない。天皇をはじめ、皇族から政府要人、民間からも誠意を示すためお見舞いに向かう。

 「明治維新以来、政府のみならず国民も、欧米の先進国にならうことを願い、努力をかさねてきた。文明開化という言葉はすでにすたれていたが、文明を重んじる国と見られることを悲願としていた。そうした努力にもかかわらず、国賓としてまねいた皇太子ニコライを警備担当の巡査が斬りつけたことは、欧米諸国に日本は野蛮国として印象づけることになる。そのような行為をおかした者がいたことは、日本人として恥しく、見舞いをすることによって、欧米人の印象を好ましい方向にみちびこうとする気持ちがあった」

 日本が欧米なみの文明国となっていないと、政府悲願の不平等条約の改正などももちろん出来ない。このままニコライが気分を害して日本を去られては大変なことである。天皇や政府は当初の予定通り東京にニコライが来てもらわないならなかったが、最終的にはニコライは母国の指示でそのまま日本を後にした。幸いニコライはそれまでしてくれた自分への好意をうれしく思っていたし、ロシアも賠償問題などにも及ばなかった。

 ところで津田三蔵はどうしてこういう凶行に及んだのか。津田はロシアが日本に対して強圧な態度をとっていることに不快を感じていたとも言われている。
 ニコライは来日に当たりまず天皇のいる東京に来て、天皇に挨拶をするのが礼儀なのに、長崎、鹿児島、京都、滋賀をへて東京に行くのは、日本の国情を調べるためではないか。いずれは日本を侵略する意思があるのではないか。天皇は最大級の歓待を指示しているのに、ニコライはその好意を感謝していない。むしろ蔑んでいるのではないか。その驕慢さは許し難いと考えていたとも言う。
 あるいはニコライは西郷を連れて来ている。西郷が日本に戻れば、また西郷が政治の頂点に立ち、津田自身西南戦争で軍功を立てたことが、逆に粛清され、勲章を取り上げられるからだと言ったとも言う。
 ただ詳しい、正確な動機ははっきりしていないようだ。日本政府としては津田が精神を病んでいたこともあったので、そうした事情から凶行に及んだとなってくれれば一番有り難かった。
 とにかくロシア政府に対してはかなりの気の使いようであった。その中で犯人の津田の処分が問題となる。政府としては津田は極刑にしてロシアにそれを示したかった。そのため、政府は津田の裁判に介入してくる。津田をどんな罪状で裁くかである。政府は刑法百十六条(皇室罪)を適用し、津田を死刑にしようとした。刑法百十六条とは天皇、三皇(太皇太后、皇太后、皇后)、皇太子に危害を与えた場合、死刑に処すというものである。それを拡大解釈して皇太子ニコライも日本の皇太子と同一に扱い、それを適用することで、津田を死刑にし、ロシアに一つの誠意として示そうとした。しかし司法の大審院はそれを外国の皇族にも適用することは不当であり、今回の事件は、普通人に対して危害を加えたと解釈すべきであり、普通殺傷罪の未遂犯として扱うのが正しいと政府の意見を拒否する。
 面白いのは当時の政府は薩長閥で成り立っており、維新に功績のあったその他の藩は冷遇されていた。だから非薩長閥で構成されていた司法側は断固として政府の強引な司法介入を拒否続けた。これは江藤新平の意識と共通する。そして法律上、たとえニコライが皇太子であっても、あくまでもロシアの皇太子であって、日本の皇族ではない。だからどんなことがあっても日本の皇室罪は適用できないのが正しい。政府は司法の判断に対して、それではロシアと戦争になると脅したりして、何とかしようと介入したが、津田は無期刑に処され、釧路集治監収監される。しかし同年(明治24年)9月29日急性肺炎で獄中で病死した。

 私は大津事件としてニコライ二世が襲われたことは当然知っていたが、その後の経緯はこの本で知ったことが多い。特に政府と司法との間で津田の処遇をどうすべきか、多くの意見が戦わされた経緯は興味深い。明治政府が出来てわずか二十数年である。国として体面はあっても実力と内容が整っていない頃の事件である。だからロシアに気を使う政府の姿勢はわからないことはない。けれどそれを押し通したら、国としての体面が逆に潰れていた可能性があった。特に強引な皇室罪の適用は、文明国を目指していた日本をそういう国ではないと後年思われかねない。それを阻止した非薩長閥の存在があったからであった。非薩長閥は単に政府の薩長閥に対して不満を持っていただけのことかもしれないが、結果それが良かったことになるのは皮肉な話でもある。私はニコライの動向や津田が何故犯行に及んだかよりも、事件後津田を巡る政府と司法側の意見の戦いの方が面白かった。


評価
★★★★


書誌
書名:ニコライ遭難
著者:吉村 昭
ISBN:9784000017008
出版社:岩波書店 (1993/09/06 出版)
版型:359p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年08月20日

山口瞳著『山口瞳対談集』〈4〉

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 また山口瞳さんの対談集に戻る。このシリーズはこの巻を含めてあと二冊であるから、頑張って読んでしまおうと思っていたのだが、実はこの本を読んでいる時、夏バテと夏風邪でヘトヘトなってしまい、途中で投げ出してしまった。やっと身体の状態が回復したのでまた手にとって読み出したが、どうも前半は忘れてしまっているので、後半気になった部分のことを書く。
 とりあえず今回の山口さんの対談相手は、團伊玖磨、近藤日出造・杉浦幸雄、高橋義孝、永井龍男、嵐山光三郎、吉行淳之介、矢口純・井上ひさし、丸谷才一、諸井薫、藤原審爾・鳴瀬速夫、串田孫一、伊丹十三、大原麗子、田村隆一、矢野誠一の面々である。
 例によって対談相手が作家仲間だけでなく、多方面に渡っている。これは山口さんの多趣味から、そうした人脈が出来ていることの証明でもあろう。その中で高橋義孝さん、丸谷才一さん、田村隆一さんとの対談内容にちょっとひかれた。
 高橋義孝さんとの対談は「子どもも学生もぶん殴れ」という題がついていて、その中で高橋さんが言っていることが至極真っ当な
ことなので書いてみる。

山口 帰るときに、「さようなら」といいますね。わたしどもは「お先に失礼します」といったけれど。何か対等であることを主張している感じがありますね。そういうのがいいのかもしれないけれど。

高橋 対等じゃないですよ、ちっとも。同じ人間だろう、対等だろうなんて、生物学的にはそうでしょう。社会学的には違いますよ。だからデモクラシーなんてダメです、ぶっこわしたほうがいい。(笑)・・・まあ対等もいいですよ。でも低いところに対等を持ってきちゃう。いいものを下げちゃう。それで平気だ。そういうわけでしょう。進歩も発展もないじゃないですか。戦後の学校教育は全部そうです。ものを知らない野郎にレヴェルを合わしちゃうでしょう。こっちへ来いじゃなくて、一寸お待ち下さい、そちらへ降りて参りますから、なんです。

 この対談は1970年に行われているが、この当時もこんなことが言われていたんだなと思ってしまう。いや多分もっと昔から見識のある人たちの間ではそう思われていたんじゃないかと思う。そしてそのままズルズルきてしまい、今の日本の学力、科学など低レベルに陥ってしまったのではないかと思ってしまう。対等とか平等だとかいうものをはき違えると、とんでもないことになることを今の私たちは身にしみて感じられるはずだ。

 丸谷才一さんとの対談では「東京を語る」となっていて、その中で面白かったのは、「よそ者を許せる町-東京の生命力」と「山の手文化の正体」であった。
 「よそ者を許せる町-東京の生命力」でお二人は次のように言っているのは“なるほど”と頷ける。

山口 僕が東京を面白いと思うのはね、藤圭子という歌手が「ここは東京嘘の町」と歌ったでしょう。これを大阪でやれるかといったら、やれないと思うんだ。その歌、ある程度ヒットしたんです。つまり「ここは東京嘘の町」に、みんなが喜んだわけですよ。これをたとえば広島なんかでやったら、藤圭子は袋叩きにあいますよ。それが東京という町の面白いところじゃないですか。

丸谷 そうそう。僕はだいたい町の文化程度というのは、プロ野球の場合、その町がフランチャイズでないチーム、つまりビジター・チームをどれだけ大っぴらに応援出来るかどうかということでわかると思うんです。

山口 広島が優勝した時、「広島優勝祝賀会」というのが東京のほうぼうでありましたけれど、広島で「ジャイアンツ優勝祝賀会」というのは出来ないですよね。

丸谷 他人を許す度合いが強いというのは高級な町ですね。東京は、東京者でない人間を許す度合いが非常に強い。それが東京という町の生命力なんじゃないかしら。

 これはある意味東京にいる人間が様々な地域から来て成り立っている町であり、その数がそれなりにまとまるからそういうことが可能なのだろうと思える。そしてそうしたことがお互い許せ、東京の生命力となっている、というのがお二人の意見である。
 まあ多様性を無意識に認めているだけのことで、むしろ他者が関心がないだけのことで、だからいいんじゃないのといった程度の問題のような気がする。そうした多様性の存在を無意識であれ認めていることが、生命力ともなり得るとも言えるから、お二人の意見はある程度妥当性を得ているのだろう。

 「山の手文化の正体」では、

山口 僕は、地方都市から出てきた人のほうが流行に敏感だと思うんです。東京の人って、たとえば串田孫一さんのようにデパートの吊しぼうを買ってきてね、それが擦り切れるまで着ているんです。で、だめになると、また吊しぼうを買う。
    僕はダンディで洒落ているなと思うんだけれど、地方から出てきた人はそうは思わないね。いきなりダンヒルを買う。それで百円ライターを持っている人をいくらか軽蔑したような顔で見る。もちろん全部じゃないけど、そういう傾向があるんじゃないですか?

丸谷 それは、山の手文化というものがそういうふうにして出来たものだからだと思うんですね。つまり、山の手文化の中心になった人たちは東京帝国大学の教授たちだとしますね。彼らは、たとえば福島県とか佐賀県とかから出てきて、東京帝国大学を卒業するとすぐロンドンとかベルリンに留学する。そこで生活様式を学んで、佐賀や福島と、ベルリンやロンドンがくっついた生活様式を作った。それが山の手文化だと思うんです。だから山の手文化というのは、地方文化プラス西洋で、本当は東京じゃないんですよ。

山口 本当の東京は、ダウンタウンにわずかに残っているだけなんですね。

丸谷 つまり江戸抜きの東京を作ったのが山の手文化でしょう。

 この考えは面白いし、妙に納得してしまう。

 田村隆一との対談では、「死者のないところに文化はない」と題しているところで、「言葉」の存在感をいう件がある。

山口 いわゆる“内向の世代”の人たちの小説を読むと、舌を巻くほど巧いんで、感心するんですけど、読後五分ぐらいすると、それが一体どうなんだと言いたくなっちゃうんです。

田村 あれは不思議だな。もちろん文学ですから言葉が核をなすんだけれど、結局そういう人は言葉によって救われるという体験がないんじゃないの。言葉を駆使する能力とか、言葉に対するテクニックは訓練によって非常に発達しているけれど、言葉につまずいたり、救われたりという経験が、割合なくなって来ているんじゃないかと思うんです。それは個人だけの問題じゃなくて、状況の問題もありますけどね。実際、昔の人は言葉につまずくんだよ。死んでも言えないという言葉がある。口にしてはいけない言葉がある。それは個人個人がみんな心の底に持っている言葉なんだ。そうなると、言葉は単なる記号じゃなくなり、全人格を支配するようになる。それはもうパワーなんですね。もし言葉を単なる記号として考え、その効果を計算し、小説や詩を構成しようと思ったら、それはいろんなテクニックがあると思う。しかし、言葉で何らかの世界を創造しようと思ったら、言葉につまずいたか、救済されたかという体験がないと、モチーフは成り立たないと思うんです。いまはそういう言葉に傷つくということがないんかないかな。

田村 そこがある意味では救いだと思いますね。確かに祖父たちの時代に較べれば、言葉は乱れているでしょうが、それは順繰りですからね。問題は、言葉に傷ついたり、救われたりという人間的な体験が、文化の底になかったら、どんな言語になったとしても、仕様がないということでしょう。言葉と人間とがそういう関係で結ばれいないのなら、詩や小説もコンピューターで作ればいい。一つのシチュエーションと多少のセンスがあれば、それで出来るんです。日本で詩人が激増したしたことがある。詩人というのはコピーライターでしょう。(笑)だから、これは電通と博報堂のお陰なんですよ(笑)自称他称を含めて一万五千人ぐらいいる。

 さすが詩人である田村さんの言葉である。山口さんも言葉に対しては敏感な人で、この対談集の中で、何度か絶対に使いたくない言葉があるといっている。そのことは我々が普段何気なく使っている言葉なのだが、山口さん自身は絶対に使えないと言う。山口さんは一つの言葉に対して好き嫌いがはっきりしている人だから、そのことにこだわる。
 でも、田村さんが言わんとすることはよく分かる。私たちは言葉を記号として表現の対象としているところがあるが、言葉自体人を傷つけ、あるいは人を殺す力がある。そして逆に一つの言葉で救われることもある。つまり本来記号以上の重みがそこにはあるのだ。しかし最近はそれが伝わってこない文章が多いということなのだろう。そんな言葉の重みと責任を持って使われた小説や詩はやはりそこから滲み出てくる“何か”が違う。あるいは会話の中で発せられた言葉が、単にものを表現しただけのものじゃないということがわかった時、ハッとすることがあるが、多分その時は言葉の裏にある重みと責任を感じた時じゃないだろうかと思う。


評価
★★


書誌
書名:山口瞳対談集〈4〉
著者:山口 瞳【ほか著】
ISBN:9784846010164
出版社:論創社 (2009/11/30 出版)
版型:318p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年08月19日

森まゆみ著『路地の匂い 町の音』

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 夏バテと夏風邪をひいてしまい、本を読む気分にもなれず、一週間無為に過ごしてしまった。本も小難しいものは読めずに、何を読んでいいのか分からずいたところ、森さんのこのエッセイを書店で見かけたので、この本を読んだ。
 森さんといえば、「谷根千」から、ちょっと前まであった町の建物、そこでの生活のあり方やその保存に力を注がれている。この本はそうした町での生活と建物の保存について書かれた雑文集である。
 森さんは1954年(昭和29年)生まれだから、私より二つ上である。だからここで描かれる森さんが子供の頃の原風景は、私にも思い至るところがあって、思わず「そうそう、あった、あった!」と言いながらいつも読んでいる。
 私はこうした昔の日本の生活風景が大きく変わったのは東京オリンピックをはさむ前後の高度成長期だろうと思っているが、ちょうどその頃、私たちは子供の時であった。だから日本にかつてあった町並みや生活風景の最後の経験者であれたのではないかといつも思っている。そのためそうした町並みや生活風景などがかろうじて思い浮かべられる世代なのである。そうしたことがかろうじて共有出来るのである。
 そんなことがあって、森さんたちが大切にする町並み、生活風景は私の思い出と重なるものだから、懐かしい。多分それが森さんの著作を読ませるのだろうと思っている。
 かつてあったそうした町並み、生活風景の中には人との関係が濃厚な部分があった。多分それはひとまとまりでまとまって生活しなければならなかった経済的事情がそうさせたのではないかと思われるが、それが日本経済が高度成長期に入ることによって、解放され、それぞれが独立して生きていくことを可能にしたのだろう。そしてそれは家族関係や親族関係、隣近所の関係を希薄にする。建物自体もそうしたことから隔離したような建物がどんどん建っていく。
 一端そうした環境が出来上がってくると、“案外楽だな”ということになってくる。ところがその内、孤独感や疎外感がじわじわと忍び寄ってくる。ここが厄介なところで、人間関係を煩わしいと思う一方、それがまったくないと不安でしようがないのだ。それでも経済が右肩上がりで上がっていき、活気があった頃はまだそうした雰囲気で誤魔化せたところがあったが、ひとたび不景気になり、経済が停滞してくると、孤独感や疎外感がどうしようもないもとなってくる。そのやり場がないことに不安で不安でしょうがなくなってくる。
 これが今かつてあった日本の町並みや生活にあった人間関係に郷愁を感じ始めている理由であろう。だから森さんたちが主催していた「谷根千」が支持され、谷中や根津、千駄木に多くの人が訪れるのだ。ここには森さんたちや町の人びとの努力により、建物だけでなく、人間関係も時代の変化を受け入れながらも残されている。これが森さんたちが言う町並み保存ということなのだ。
 得てして古い建物だけを保存すれば、町並み保存と勘違いしてしまうが、そうではない。この本の「町並み保存てなに」に書かれていることは考えさせられる。

 夫の故郷岩見沢から近い夕張に車で行った。
「ワァ、古い建物がたくさん残っていて、気持ちの落ちつくいいトコだな」と声をあげる私に、運転しながら夫は言った。
「夕張炭坑の大事故以来、炭坑は衰微してついに閉山に至ったわけだし、いま次の産業を探して必死なんだ、べつに町並みを保存しているわけじゃない。お金がないから立て替えられないだけなんだ。そういういい方は無責任だよ」
 私はシュンとした。たしかに歴史や文化の保存といったキレイゴトで町並みが残ったためしがない。日本のように新しもの好きの国民は、経済力さえあれば、家を建て替え、畳も障子も新しくする。古い町並みがあるということは、その町の沈下や停滞を意味する場合が多い。
 町並み保存に成功した所は、多くは過疎地だったり、廃村だったりする。農業、林業、水産業もふるわず、起死回生の策として古い町並みを観光資源として活用し、客を呼ぼうというのだ。

 新しいものに建て替える予算がないから古い町並みが残っているのだと言われ、町の再生のためにはそれを単に観光資源として使うしかないというのは、どこか悲しいところがある。そこには一切生活感がない。観光客がいなくなればゴーストタウンと同じではないか。森さんも「しかし正直にいうと、町並みが保存された町へ行くと多くの場合、わざとらしい、画一的、息がつまる、という感じがぬぐいきれない」とはっきり言っている。まさしくその通りだろう。むしろ「いろんな時代のいろんな様式の建物が、ズレながら混ざっていたら、けっこうバラエティに富んでおもしろい。その方が自然だ」と当たり前のことを言われている。
 そういうバラエティさはやはり、人が今も暮らしていることが大前提にあると思う。昔と現代を混ぜ合わせ、折り合いをつけながら生活している町が、私たちには郷愁感を誘う。そして今でもそうした町並みで人が暮らしていることに、どこか安心感を感じる。
 もちろんそこで暮らす人達にとって、そうした建物を維持しながら生活するのは大変だろう。でもそんな苦労も含めて、町全体が“生きている”と言えるのではないかと思う。町の歴史とはそういうものではないかと思う。

 もう一つ面白い話がこの本にあった。「天守閣の思想」で、バブル期に数多くの高層ビルを生んだ。その典型が丹下健三の都庁をあげている。森さんは「このビルの使いにくさといったらない」と言い切る。とにかく目的の部署に行くまでに時間がかかりすぎると言うのである。
 これ一度でも都庁に用があっていった人はよく分かると思う。何機もエレベーターがあるのはいいけれど、何階から上は行かないとか、止まらないとか、それぞれ違う。高速エレベーターだけれど、乗るまでに手間取るのである。第一とか第二とか、北側とか南側とか、目的の場所にストレート行けたためしがない。
 だいたいここに来るたびに不思議な感覚にとらわれる。たとえば新宿から都庁に行くと、地上を歩いているのか地下を歩いているのかわからなくなり、都庁も一階から入っているのか、それとも地下から入っているのかわからなくなる。
 大江戸線が出来て、都庁前で降りて、そのまま都庁に入れるようになっても、いったい自分はどこにいるのかわからなくなる。絶えず案内板を見ていないとならないのだ。このビルは役人が入るためのビルであり、民間人をわざと入れにくくしているビルのように思えてくる。
 ただこのビルの不便さを感じているのは民間人だけじゃないようだ。森さんは「昼休みの都庁では職員が多数、机にうつ伏せで昼寝している。忙しく疲れているわけではない。休み時間、下に降りる行き帰りに二十分かかり、都庁内の食堂は混んでいるので、持参のお弁当を食べ終わると、外を散歩したりするのをあきらめて昼寝しているのだ、と聞いてびっくりした」と書いている。
 これを読んで、“ざまあみろ!”と思う一方、休み時間がなくなるほど移動が大変なところで仕事をしていて、一日中そこにいるしかない役人が、外の状況を知り得るのかとも思う。
 このビルの机の上で都市計画を立てられるのである。認可が下りるのである。自ら率先してな無様なデザインの超高層ビルを喜んで建ているのである。だから再開発といって、馬鹿でかいビルを建てることに何の疑問も感じない。その結果どうなったか。あっちこっちに超高層ビルをおっ建て、ヒートアイランド現象を生む。そこで暖まった熱気が練馬区を日本屈指の灼熱地帯を生んでいるのである。こんなこと最初から学者の意見を素直に聞けばわかっていたことじゃないのかと思ってしまう。ここにも民間人や学者を受け入れない都庁の庁舎と同じ姿勢が、役人に移ってしまったのではないか、思えてくるのである。
 斬新なデザインの近代的ビルは機能的に見えるけれど、実はそうではなく、しかもその中で仕事をしていることで、ほとんど隔離された状態と似たものである時、果たしてそれが人間的なのかどうかを考えさせられる。


評価
★★


書誌
書名:路地の匂い 町の音
著者:森 まゆみ
ISBN:9784591119945
出版社:ポプラ社 (2010/08/05 出版)ポプラ文庫
版型:333p / 15cm / A6判
販売価:672円(税込)

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