2008年11月20日
栃折久美子著『モロッコ革の本』
この本はB6版のソフトカバーの本だ。いつも使っているブックカバーじゃ大きいので、新刊書店で買ったときにつけてもらったカバーを取ってあるので、適当に見つくろって、カバーをかける。しかしうまくかけられなくなってきている自分を思い愕然とする。
私はカバーをかける場合、昔やっていたように、きちんと本のサイズにはさみを入れて折り込み、カバーがずれないようにテープで織り込み部分をとめる。その折り込みがきれいに出来なくなっている。それが出来ないと、きれいに本とカバーが合わなくなってしまい、折り込んだ部分が浮き上がったりしてしまうので、見てくれが悪い。
どうでもいいことと思われるかもしれないが、そこは私のこだわりでもあるし、昔書店員時代きれいにカバーをかけてお客様に渡すものだ教え込まれてきたから、どうしてもこだわってしまう。
初めて書店でアルバイトをはじめたとき、まずはこのカバーがけを教わった。教えてくれる先輩のようにきれいにカバーがなかなかかけられないでいた。だから家に帰って、新聞のチラシを使って、カバーがけの練習を何度もしたものだ。
話はこの本と関係なく進みそうだけど、カバーがけの話のついでに、爪のことも書く。
つい最近まで私は自分の爪を切るとき、絶対に深爪はしないようにしていた。変な言い方かもしれないけれど、多少爪を残して切った。なぜなら深爪をしてしまうと、本にカバーをかけるとき、きちんと折り込みのすじがつけられないのと、紙で指先を切ってしまうからだ。しかし、最近は多分普通の人が爪を切るように、切るようになった。爪切りにこだわる必要性がなくなったからだ。
カバーがきれいにかけられなくなったのも、毎日カバーがけをしていた昔とは違うし、最近は市販のブックカバーをさっとかけてしまうから、要はカバーがけが鈍ってしまったのだろう。
本棚の整理をしていたら懐かしいこの本が出てきた。何となく読みたくなり手にする。この本は大学時代友人に“いい本だよ”と勧められて読んだ。確かに読んでみて“いい本”だったと当時は思った。
しかし今読み返してみると、それほどでもないかと思っている。
あのときこの本が“いい本”だと感じたのは、著者が女性一人でブリュッセルでルリユール(製本)を学びに行き、言葉の不自由さの中で、何か生きることの手がかりを模索している姿が、当時自分たちがこれからどう生きていけばいいのか考えあぐね、不安の中にいたことが、この本をして“いい本”と感じたのではないかと思うのだ。たまたまここに書かれた著者の立場と自分たちがいた立場が妙に一致していたのだ。
でも、あれから三十年近く経ってしまった現在、生きることの手がかりなどさがす前に、とにかく生きなきゃならないとしてここまで来てしまったから、今更生きることの手がかりを模索している姿を読んでも、感動もわかないのは当たり前のような気がする。多分昔読んだ本で感動した本を読み返したなら、こんなことは頻繁に起こるに違いない。
いい本がいい本じゃなくなっていくというのは、一抹の寂しさがある。それこそ本のカバーがうまくかけられない寂しさと、私の中で一致する。
正直読み返さなきゃよかったかもしれないと思った。昔よかった本は自分の記憶の中で“いい本”として残っていればそれでいいのかもしれない。
栃折さんが何故、ブリュッセルでルリユールを学びに来たかというと、まず、栃折さんが話せる外国語がフランス語しかなかったこと。そのルリユールはドイツ流、イギリス流、フランス流といくつかの流れがあるうち、フランスのルリユールはとりわけ繊細で、文学書の装幀を主にして深められてきたことに心が引かれていたこと。そしてベルギーがその流れをついで、古い伝統工芸の技術がよく保存されていることで、ブリュッセルでルリユールを学ぼうとしたと書かれている。
「ここに来る前は、製本家になるつもりは少しもありませんでした。ブック・デザインの仕事をもう少し正確にできるようになりたいと思い、洋本というものの正統的な先祖に会いに来たつもりだったのです」と初期の動機をそう語る。
「これは昨夜ケースを仕上げたところなんだ」
本のケースを、大きすぎず、かといって振っても出てこないなどということがないようにつくることが、どんなにむずかしいか。一点制作のルリユールよりはるかに許容範囲の広い量産本の場合でも、ちょうどいい大きさのケースはめったに見られないほどだ。これまでしてきたブック・デザインの仕事を通して、このことは身をもって知っている。
先生がケースの背を下にして机の上に立て、口元に本を持って行って手を放すと、本は何秒かかかって静かに入ってゆき、最後にことりと音を立ててケースの中に収まった。それを手に持つと、斜めに傾けるだけで本が出て来る。その仕事の厳密さ、精度に私は驚嘆した
先生ののものはそれとはちがって、表紙には何の装飾もなかった。特有の美しいしぼのあるモロッコ革の生地そのままのシンプルなものだったが、それだけに技術そのものが生きる。ごまかしがきかない。
それは、動きのよい人間の手以外のものがつくれる筈のないものでありながら、そこにつくり手がいたことを忘れさせてしまうほど、自然なものに見えた。たとえば一個の果物、一輪の花のように、何でもなくただ一冊の本であった
このように精巧にしかもさりげなく装幀された本やケースを見たとき、栃折さんは居間の肘掛け椅子の上に膝を抱えて座り、何もする気になれなくなった。
知らなかったんだ。私は。自分がこの街へ何をしに来たのかということ。なぜ私が今ここにいるかということを。
甘い気持でブリュッセルまできて、本物を見せられたときに衝撃はきっと堪えただろうなと思う。その衝撃を感じたとき栃折さんは何をすべきか悟ったのだろう。だから「ここにくるために今まで生きてきたような気がする。長いことかかったけれど、遠廻りをしたとは思わない」と感じられたのではないだろうか。
最近何でもまがいものばかり見せられているから、本物の良さがわからなくなっている気がする。それで済んじゃっているところが恐ろしいと思ってしまう。もちろん知らなければ知らないでもいいのかもしれないけれど、やっぱり本物の良さ、伝統に基づいた作品などは、現代の人々が作り上げるものとは、きっとどこかつがうはずだと思いたい。そんなもにを目で見て、感じ、その技術を習得していけるのは、ある意味うらやましい。
評価
★★★
書誌
書名:モロッコ革の本
著者:栃折 久美子
ISBN:
出版社:筑摩書房 (1981/04 出版)
版型:206p / 19cm / B6判
販売価:入手不可
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