2009年07月01日

吉村昭著『日本医家伝』

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 この本で取り上げられている医家は主に江戸時代の人物か、あるいは明治にかかる頃までの人物と限定し、しかも先駆的業績を持つ12人である。以下ざっと取り上げてみる。

 山脇東洋(1706~1762)は江戸中期の宝永二年十二月十八日、丹波亀山の医家清水立安(号東軒)の子として生まれた。名を尚徳、通称を道作といい、字は玄飛又は子樹、号を移山、後に東洋と称した。
 東洋は日本で初めて腑分を実際自分の目で見た医家である。東洋はかねがね人体は五臓六腑で成り立っているのだろうかという疑問を持っていた。もしそれが本当なら実際にそれを見てみたいと思っていた。
 宝暦四年京都で斬首刑になった人物の腑分けが行われるのに立ち会うことができた。当時は医者自らがメス(当時メスなんてあったのかどうか知らないが、とにかく体を切る道具)を握って体を開かない。雑役がちゃんといて、それが罪人の体を切り開き、それを医家が見るというものであった。それでも東洋は医家として日本で初めて人体の臓器を見た人物であった。

 前野良沢(1723~1803)は名を熹(よすみ)、字は子悦、号は楽山。筑前藩士谷口新介の子として享保八年江戸の牛込矢来に生まれた。医家として唯一オランダ語研究家であった。良沢は杉田玄白の誘いで腑分けを実見するが、この時オランダ語訳の「ターヘル・アナトミア」という解剖書を持参してきた。玄白もやはり同じ本を持ってそこにいた。その後杉田玄白が良沢を誘ってこの本を日本語に翻訳する。
 しかし玄白にはこの本を翻訳することで名声を得たいという野心があることを良沢は見抜いていた。学究肌の良沢にしてみればそういう野心は許し難かったが、玄白がいなければこの翻訳事業はできなかったので、ただ翻訳のみに没頭していく。玄白も良沢が自分に不快感を持っていることはわかっていたが、良沢がいないと翻訳ができないので、良沢のきげんを損なわないように翻訳の仕事を進めていった。
 翻訳から3年4カ月後「ターヘル・アナトミア」は「解体新書」として刊行されたが、そこには良沢の名前がなかった。良沢は「解体新書」はまだ不完全なものだから、さらに年月をかけて完全なものにすべきであると考えていたが、玄白は刊行を急いだ。その考えに良沢はついていけなくなり、自分の名前を公にすることを辞退したのであった。結果「解体新書」訳者は杉田玄白一人となった。
 その後杉田玄白は経済的にも名誉的にも恵まれたが、良沢はさらにオランダ語の研究を進めたが、生活は貧しかった。享和三年十月十七日に八十一歳で病没したが、玄白はその葬儀にも行かず、日記にただ一言「良沢死」と書き残しただけであった。

 伊藤玄朴の功績は先に読んだ『「お玉ヶ池」散策』にある通りである。ただ玄朴は金銭への執着が強い人物だったらしい。
 ここで気になるのはシーボルト事件である。シーボルト事件とはシーボルトが帰国するときに自分の荷物を積んだ船が台風で座礁しその積荷から日本地図や葵の紋服などの禁制の品が発見された。誰がそれをシーボルトに渡したのかということが問題となり、多くの人間が連座して罰せられ、死罪になった者もいた。なかには獄中死や自殺した者もいた。
 その日本地図は玄朴が頼まれてシーボルトに渡したものであった。しかし玄朴の取り調べはシーボルトに渡したものが中身を知らないということで許される。
 シーボルト事件でオランダ語を知っている人物が少なくなり、玄朴の存在が貴重になりその存在がクローズアップされていく。
 シーボルト事件で葵の紋服を渡したのが土生玄碩であった。土生玄碩は宝暦十二年(1762)安芸吉田で生まれた江戸後期の眼科医である。目の手術の時瞳孔をひらく薬の成分をシーボルトから聞いたが、シーボルトは教えてくれない。シーボルトは薬の成分を教える代わりに葵の紋服が欲しいと要求する。土生玄碩はそれを渡し、薬の作製法を教わるが、シーボルト事件が発覚し、家財すべて没収され、医業にたずさわることも禁じられ、蟄居生活を送るはめとなる。

 楠本いねは遊女屋引田屋が抱える其扇とシーボルトとの間に生まれた。シーボルトが去った後、シーボルトの門人であった二宮敬作のもとで産科医を目指す。その後紆余曲折があるが、明治三年二月に東京府京橋区築地一番地に産科医院を開き、一時は名声を得るが、そのうちいねの持っている医学知識も古くなり患者も減り医院を閉じる。

 中川五郎治も『「お玉ヶ池」散策』で書いたとおりである。

 笠原良作は文化六年福井で生まれ、名を良、字を子馬、後に白翁と号した。福井で種痘の普及に尽くした医師である。その種痘に使う痘苗をどうやって福井へ運ぶか、その手段がすごい。笠原良作は種痘をした小児を一緒に福井へ連れて行くのである。
 種痘した小児の紅点は7日には消えてしまうので、途中で他の児童に植えかえていき、小児ともども痘苗を福井へ運ぶのである。これはすごい。当時は冬で吹雪く山を越えていくのである。

 松本良順は吉村さんの『暁の旅人』にある通りだ。

 相良知安(1836~1906)は佐賀藩出身の蘭方医である。オランダ人医師ボードインにより医学を学んでいた。
 維新政府は維新戦争で官軍に肩入れしたイギリスのパークスの依頼で戦場に赴いた医師ウイリスの業績を認め、戦後古くなったオランダ医学からイギリス医学を採用する方向へ向かう。
 しかし相良知安はオランダ医学書がドイツの医学書の翻訳が多いことを知っていたので、ドイツ医学こそ世界最高水準のもではないかと考えた。そしてその自説で新政府を動かし、日本にドイツ医学を導入する道筋を開いた人物である。

 荻野ぎん(1851~1913)は埼玉県大里郡秦村に荻野綾三郎の五女として生まれる。十六歳の時結婚するが夫なった男は遊蕩児で遊里でうつされた悪質な淋病を彼女にうつした。この病気の治療は女性とって屈辱的なものであった。ぎんはもし治療に当たる医師が女性であれば患者の苦痛はかなりいやされるのではないかと考え、以来医師を目指す。当時は女性は医師試験を受けることさえ認められなかったが、なんとかして女医になった。ぎんは近代日本における最初の女性の医師であり、女性運動家としても知られた。

 高木兼寛(1849~1920)は嘉永二年日向国東諸県郡白土坂に生まれ、十三歳の時に医学を志し、海軍に入り、イギリスへ医学留学をする。帰国後海軍に脚気が多発することに注目し、その撲滅に尽力する。東京慈恵会医科大学の創設者。

 秦佐八郎(1873~1938)石見国(現在の島根県)濃郡都茂村に生まれた。梅毒の特効薬サルバルサン606号をドイツのパウル・エールリヒと共に開発し、多くの患者を救った。

 この本にあげられた医家は、後に吉村さんの長編歴史小説となっていくものが多い。この本がきっかけになったのであろうか。ちなみに前野良沢は『冬の鷹』、楠本いねは『ふぉん・しーほるとの娘』、中川五郎治は『北天の星』、笠原良作は『雪の花』、松本良順は『暁の旅人』、高木兼寛は『白い航跡』となっている。いずれこれらの作品は読んでみたいと思っているので、この本はいい“前振り”になって、ちょっとしたガイドブックとなった。


評価
★★★


書誌
書名:日本医家伝 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784062733557
出版社:講談社 (2002/01 出版)講談社文庫
版型:377p / 15cm / 文庫判
販売価:660円(税込)

2009年06月29日

吉村昭著『死顔』

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 今まで吉村さんの随筆と歴史小説は読んできたのだが、今回短編小説を初めて読んでみる。今回の本は私小説風のものが四作と短編の歴史小説が一作収録されている。「死顔」と「二人」は似ていて、多少趣を変えて書かれたといった感じだ。
 そしていずれも「死」をテーマにしたものばかりだ。この本の帯にもあるように、吉村さんの自らの「死」を覚悟して書かれたもののように感じることができる。

 「死顔」と「二人」は似ていると書いたが、短編小説としては「二人」の方がいい作品になっているように思えた。「死顔」は同じ兄弟の死を扱っているものの、どちらかと言えば、吉村さんが自分の死の迎え方、あるいは死後の家族の対応を遺書みたいな感じで書いてあって、そのことで、この作品はは失敗じゃないかなと思えた。つまり小説にするものではなかったような気がするのである。
 例えば、「死顔」では幕末の佐藤泰然の死の間際のことを次のように書いている。

 幕末の蘭方医佐藤泰然は、自らの死期が近いことを知って高額な医薬品の服用を拒み、食物をも断って死を迎えた。いたずらに命ながらえて周囲の者ひいては社会に負担をかけぬようにと配慮したのだ。

 だから自分も延命治療は望まないし、葬式も家族だけの密葬を望んだ。確かにそのあたりは吉村昭さんらしいなと感じるし、むしろ吉村昭さんならそうあって欲しいと思っていた。
 司馬遼太郎さんみたいなメジャーな歴史小説家ではなかったけれど、独力で地道に取材を重ね書かれる重厚な歴史小説家であっただけに、その意志の強靱さは、最後はそうさせるだろうと思わせた。
 奥様の津村節子さんの「後書きに代えて」には癌との壮絶な闘いが記されているけれど、最後は「夜になって、かれはいきなり点滴の管のつなぎ目をはずした。私は仰天して近くに住む娘と、二十四時間対応のクリニックに連絡し、駆けつけた来た娘は管を何とかつないだが、今度は首の下の皮膚に埋め込んであるカテーテルポートの針を引き抜いてしまったのである。私には聞き取れなかったが、もう死ぬ、と言ったという」と書かれている。まさしく佐藤泰然が死の間際にとった態度を地でいったようである。
 今まで何冊か吉村さんの随筆を読んでいて感じたことであるけれど、吉村さんの生き様には自分のことで「人様にご迷惑をかけぬよう」というところが至るところで読み取ることができた。だから自分の死も生前から佐藤泰然の死に方をそのまま置き換えていたのだろう。
 それでなくても学生時代結核を患い、辛うじて生き延びてこられた吉村さんである。きっといつも自分の「死」について考えてこられたのではないかと思うのだ。
 ただそうした「死」に対する個人的考えを多く入れてしまったため「死顔」は小説としては駄作としてしまった感が否めない。個人的には先に言ったように同じ兄弟の死を扱った「二人」の方がいい小説に思えた。

 翌日の夜、ウイスキーの水割りを飲んでいると、兄から電話がかかってきた。
 兄も酒を飲んでいるらしく声がはずんでいる。
 「とうとう二人きりになったね」
 兄は、感慨深げに言った。
 「そうですね。お互い体を大事にしましょうよ」
 私は、明るい気分になって答えた。
 兄は、あらたまった口調で、
 「今さらこんなことを言うのも変だが、人は必ず死ぬものなんだね。兄や妹、弟が八人いたのに、一人一人確実に死んでいった。残ったのは、あんたと私だけだ」
 と言った。
 次兄の死で同じことを考えていた私は、かすかに笑った。
 「どうだね、生まれた町の小料理屋にでも行って、二人で飲まないかね」
 「いいですね。ただ、この寒さじゃどうにもならない。桜でも開花した頃ですね」
 「そうね。そうしよう」
 兄は、じゃ、またと言うと、電話を切った。
 桜が開花した頃か、と私は胸の中でつぶやき、ゆっくりした気分でグラスを手にした。

 いい感じだと思いませんか。私はこの終わりが好きであった。


評価
★★


書誌
書名:死顔
著者:吉村 昭
ISBN:9784103242314
出版社:新潮社 (2006/11/20 出版)
版型:257p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2009年06月28日

北尾トロ著『もいちど修学旅行をしてみたいと思ったのだ』

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 久しぶりにトロさんの本を読む。トロさんの面白さは企画にあると思う。といっても、大それたものではなく、小市民的な企画が面白みを誘い。読んでいて、「うん、そうだな!」と共感するところがいいのかもしれない。
 この本は、中学、高校時代の修学旅行の記憶が年齢とともに薄れ、今ではほとんど記憶に残らなくなった歳となっている。忘却の彼方、登録抹消に近くなっている。
 しかし学校あげての一大イベントであったはずの修学力のことをそう簡単に忘れていいのかと、一大決心し、それならもう一度修学旅行をやってみようじゃんという企画本である。だからここでは修学旅行のスッポトがメインになる。
 といっても最近の修学旅行は昔と違い、海外旅行など豪華版になっている。しかしわれわれの時代は日本にある歴史的に価値のある地域がその対象となっていた。たとえば東京に住むわれわれは、修学旅行といえば京都・奈良が当たり前であった。
 今回はそうした当時の状況を踏まえ、当時の修学旅行に行ったであろう日本の観光地域をトロさん含めオヤジ三人で旅をする。しかしオヤジとなったトロさんたちが旅をすれば、やはり中学や高校とは違う感想を持つのは当たり前で、昔を思い出すにはほど遠いオヤジ旅になっている。またオヤジなったからこそ感じる部分も、何となくそうかもしれない。
 たとえば京都や奈良の修学旅行では、学生時代は青臭いところが全面にあるものだから、歴史的価値をどれだけ認識していたか疑問のところがある。教科書や授業で習った建物など生で見ても、果たしてどこまで理解できたか。だからトロたちさんは奈良において次のように言う。

 高校生はもちろん、数年前までの自分なら退屈でしょうがなかっただろう。だが、いまはそこに味わいを感じ、安らぎさえ覚えるようになった。ズボンのベルトがきつくなり、内臓脂肪が気になるくらいに“中高年力”がアップして、初めて良さがわかるのが奈良なのかもしれない。

 確かにそうかもしれない。けれど若いときに何をどのように感じたか、その時しか感じられない純な部分があったのではないかと思う。それはとんでもない取り違えをしていたかもしれないけれど、その時そう感じたことは、その時だからこそ感じられたことで、歳をとって、苦いも甘いも、そしてつまらん雑学的教養にどっぷりつかったオヤジが感じるものとはわけが違うような気がする。そこには新鮮さや驚きもあっただろう。感じたまま陳腐と思ったかもしれない。けれどそれはそれでいいような気がする。
 その年齢で修学旅行を行ったことが何らかの価値があったと思いたいし、オヤジたちが今修学旅行だといってそのスポットに行っても、もう違うものになってしまうのだ。オヤジの修学旅行は「これだよ、これ。オヤジ流の修学旅行は、昼間しっかり観光したら、夜は地のものを味わわなきゃ」であり、「宿に多くは望まない。メシ、風呂、接客がちゃんとしていればそれで嬉しい。潤いの乏しいオヤジ旅では、小さなヨロコビが活力の源になるのだ」みたいなものがどうしても伴う。だからオヤジなのだ。

 大笑いしたところ書いておく。十和田湖で高村光太郎の「乙女像」を見たオヤジたちの感想である。

「嘘だろ!どこが乙女なんだよ」

 見上げると、正面に熟女としか思えない巨大な尻が。乙女像という呼び名とは裏腹に、やたら肉感的な裸婦像が二体、対になっている。少女らしい繊細な造形を予想していたぼくは、あまりのギャップに笑うしかなかった。見れば見るほどダマされた感が募る。
 あきれてそこを去るときも、最後に「あれは、断固乙女の尻じゃない」と言い捨てて、そこを後にするトロさんであった。

 そうだったかなと思った。私は修学旅行ではなかったけれど、高校時代ユースホステルのメンバーになって、東北地方を旅したことがある。安い国鉄の周遊券とヒッチハイクをして回ってきた。泊まったユースホステルの朝早いにほとほと参った記憶がある。旅で知り合った仲間と夜遅くまで消灯になっても、話、大笑いして過ごしていたので寝不足だったのだ。確か6時頃なるとスピーカーから大音響の音楽が流れた。頭に来たわれわれはそのスピーカーに枕を投げつけ黙らした記憶がある。(もう時効だろうから書くけど・・・)
 その時奥入瀬渓流沿いを歩いて十和田湖まで行った記憶がある。その時乙女像を見ている。当時はこの像があの智恵子抄の高村光太郎の作なんだなとしか感じなかった。今見たら熟女の尻だと思うだろうか・・・。


評価
★★★


書誌
書名:もいちど修学旅行をしてみたいと思ったのだ
著者:北尾 トロ/中川 カンゴロー【写真】
ISBN:9784093797849
出版社:小学館 (2008/04/21 出版)
版型:239p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2009年06月26日

阿刀田高著『朱い旅』

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 主人公の“私”は、妻の房子からモリエールの「アンフィトリオン」という芝居のキップをもらい、それを見にいく。“私”はアンフィトリオンという題名の本を昔父親の本棚で見たことがあった。アンフィトリオン、それはギリシア神話であった。アンフィトリオンはテーベの武将で、その妻はアルクメーヌであった。新婚まもない二人は相思相愛の仲なのだが、オリンポスの大神ジュピテル(ゼウス)はアルクメーヌを見初め、わざわざ戦争を起こして、アンフィトリオンを戦場に追いやり、その間に自らアンフィトリオンの姿に変えてアルクメーヌの寝室に忍び込む。そして交わる。その子がエルキュール(ヘラクレス)であった。
 モリエールの劇はこのアンフィトリオン伝説を基に当時のフランス宮廷風俗を諷ししたものであった。しかしこのアンフィトリオン伝説はいろいろな劇作家がそれを基にして劇を作っていた。ローマ時代にはプラウトス等が諸神賛歌として表現したし、17世紀にはこのモリエールやロトール等の手によって宮廷風俗の風刺として、そして二十世紀に入りジロドゥーが「アンフィトリオン38」として実存主義の表現として演じられた。
 問題はこのジロドゥーが「アンフィトリオン38」である。この作品が“私”の両親の秘密と出生の秘密とからみ合って物語は進む。“私”は国立中央図書館で司書として働いていたが、両親はいずれも亡くなっていた。
 あるとき“私”は図書館連盟の親睦会でギリシア旅行へ行くこととなった。そこで“私”の父親の友人だという田辺という人物に声をかけら、結婚前の父親と母親が一緒に写っている鎌倉での集合写真を渡される。その写真を眺めているうちに自分に似た顔の男に目がとまる。
 翌日田辺に男の名前を聞くと不二草薫という経済学部の助教授だと知らされる。しかし不二草は自殺していた。不二草は萩の人であった。そして“私”の母親も萩の生まれであった。さらに母親の遺品から古い本を取り出してみると、そこには“不二草薫”という名前が書かれていた。
 以来“私”は不二草薫と両親の過去を調べ、両親の秘密と自分の出生を推理し始める。
 “私”の母親は上京して、二十歳の時に大学の経済学部の事務員として勤務した。そこに将来を嘱望された不二草がいた。やがて二人は同郷のよしみで近づき、関係が生まれた。しかし不二草は人間的に歪みのある人物で、“私”の母親はこのままでいいのか不安に駆られる。そんな時大学の図書館に勤務する父親と知りあう。次第に二人はお互い好意を持ち始め、愛を育んでいく。父親はこのままではまずいと思い、自分たちの関係を不二草に話そうとする。母親はそんなことをする必要はない。自分は不二草の持ち物でもないし、妻でもない。自分に意志で行動すると言い、大学を辞め、父親の元へ走る。それを知った不二草は自尊心を傷つけられ、もともと精神的に問題があったこともあり、奇行を示すようになり、自殺する。
 父親と母親が同棲を始めた頃、父親が交通事故に遭い、子供を得られない身体となったのに、母親に子供が宿ったことを知る。果たしてその子は自分たちの子供であろうかと疑いを持ち始める。しかし父親は決然と「私たちが信じれば、(その子は)私たちの子だ」と言い、“私”が生まれた。そう推理したのである。
 まさしくこれは漱石の『それから』と『門』の世界である。
 そして“私”の父親が修士論文として、アントフィトリオンをテーマにして書いていたことを知り、その論文を手に入れる。“私”はそれを読んで、ジロドゥーの「アンフィトリオン」にふれている章に至って、「入れ込んでいる」と感じ始る。
 ジロドゥーの「アンフィトリオン」ではジュピテルがアルクメーヌにエルキュールは自分の子で、神の子だと言うのだが、アルクメーヌはそれを認めない。エルキュールは自分の子で、神ではなく人間の子だと言い切るのである。ジュピテルが神としての能力を披露しても、「それが何なの?」と徹底的に否定的である。自分がアンフィトリオンとの間の子で、人間の子だと言えば、そうなのだと言い切るのである。そこには事実はどうであれ、生まれてくる子供が何であるか、その決定は神ではなく、アルクメーヌにかかっている。わが子の誕生はアルクメーヌとアントフィトリオン、つまり人間の夫婦の認識にすべて委ねられる。ここには明らかに実存主義の影響が読み取れる。
 19世紀までは混沌とした世界であっても神が調和の道を用意してくれるというよな思想が一般的であったが、20世紀になると“神が死んだ時代”であり、あるいは“神の否定”がそのまま“人間賛歌”と変わっていく。神であるジュピテルが何と言おうと、人間であるアルクメーヌとアントフィトリオンがまず自分たちがあって、そして自分たちの意志ですべてを決めていく、そういう姿勢が何より大切なのだとジロドゥーの「アンフィトリオン」では言っているのである。
 それを感じた“私”の父親の論文は、当然自分たちの境遇とクロスするところがあるから、必然的に入れ込むしかなく、“私”がそう感じても少しも不思議ではない。そして両親が“私”を自分たちの子だと決意したのだから、“私”は両親の子なのだと思うようになる。

 この作品はギリシア神話を基にした劇の中に隠されている思想と、漱石の作品かと思わせる物語がうまくミックスして、なかなか面白い作品であった。


評価
★★★


書誌
書名:朱い旅
著者:阿刀田 高
ISBN:9784877280468
出版社:幻冬舎 (1995/04/26 出版)
版型:277p / 19cm / B6判
販売価:1,528円(税込)

2009年06月25日

清瀬闊著『「お玉ヶ池」散策』

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 お玉ヶ池の種痘所が気になってしょうがない。それでネットで調べていたら、この本がヒットした。なんか面白そうと思い読んでみる。
 この本は文章の素人が書いたためか、主語が省略されていたり、句点で文章をつなげすぎていて、やたら長い文章となっていて、時に何が言いたいのかわからなくなる悪文であった。でもそこに書かれている内容は、私が疑問と思っていたことをほとんど解消してくれた。また新しい発見があって、「へぇ~、そうなんだ」と感心できて、楽しかった。
 まずは私が疑問と感じていたことは、お玉ヶ池のことだ。その池はどこにあり、どんな様子だったんだろうということ。そしてそこに建てられた種痘所がどういう経緯で作られ、その後どう変遷していったのか、そのあたりを知りたかった。
 著者はお玉ヶ池がどこにあったかを、角川書店発行の『日本地名大辞典』を引いて、「千代田区神田岩本町、神田東松下町、神田須田町二丁目一帯にあった池沼」だと書いている。
 何とお玉ヶ池は私がいつも乗り降りしている岩本町近辺にあったのである。岩本町二丁目あたりにその史跡がある。


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 お玉ヶ池はその昔「桜が池」と呼ばれるほどの名所だったそうで、そこで器量よしで、美人のお玉が茶屋をやっていた。


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 そのうち二人の若い男に言い寄られ、お玉はどっちにしていいかわからず、とうとう池に身を投げてしまったことから、この池を「お玉ヶ池」と言うようになったらしい。ただこの池身を投げられるほどの深さがある池ではなかったようで、あくまでも言い伝えである。
 もちろん現在はその形跡すらない。というか、そもそも大きさの割には深い池ではなかったようで、家康が江戸に来る頃にはたいぶ干上がっていたみたいだ。詳しいことは「江戸の原型と神田川の流路」というサイトを見て頂きたい。


http://poco.cool.ne.jp/kanndagawa/kandagawa-mukasi/kanndagawamukasi.htm


 これを見ると1590年より昔では、上野の不忍池とお玉ヶ池が一つの川でつながっていたことがわかる。(しかしこの頃の江戸の地形は今とだいぶ違っており、日比谷あたりは入り江になっていたことを知らされる)そして神田川ができてからは、完全にお玉ヶ池はなくなってしまっている。著者はこのお玉ヶ池がどうしてなくなってしまったのかくどいくらい考察しているが、要は江戸時代住む土地がなくて、完全に埋め立てられてしまったみたいだ。

 さてこの種痘所の話に入る前に、日本における種痘の歴史をこの本で知り得たことを書いてみる。
 種痘とは、天然痘の予防接種のことである。イギリスの医師エドワード・ジェンナーが、牛飼いの乳搾りの女性が「痘瘡」に罹らないことをヒントにして、1796年牛の天然痘である牛痘の膿を接種する、より安全な牛痘法を考案し、以後ヨーロッパ各地に広がった。ちなみに牛のことをラテン語でvaccaといい、それにちなんでvaccine(ワクチン)というようになったそうである。
 “安全な”というのは、例えば日本では症状の軽い天然痘患者の瘡蓋を粉末にしてラッパ状のものを使って鼻孔より吹き込み免疫を作る方法が1790年秋月藩の藩医だった緒方春朔によって行われていた。これは成功する場合もあるが、逆に天然痘に罹患してしまう危険性もあったと言う意味で“安全な”と言っている。
 ジェンナーが発見した方法で、日本で初めて種痘を行ったのは、佐賀藩の医師・楢林宗健という人で、1849年長崎で行なったのが最初とされているらしい。
 ただ教科書的には、日本で最初に種痘を行ったのが楢林宗健となっているが、実はそうではないらしい。中川五郎治という人物が最初だという。
 五郎治は択捉島にいた。その五郎治はロシアに拉致され、その後ロシアにおいて種痘を受けた。さらにロシアで医師の助手となって種痘法を習得した。紆余曲折があるが、五郎治はとにかく日本に帰国する。その五郎治が文政五年(七年という説もある)田中正右偉門の娘に施したのが本邦初の種痘術であるという。まぁ最初は誰かなんて個人的にはどうでもいいのだけれど、とにかくそういうことらしい。

 次にお玉ヶ池の種痘所の話である。種痘の重要性を感じた、江戸の蘭方医は、伊藤玄朴、大槻俊齋らが呼びかけてお金を出し合い神田松枝町元誓願寺前の川路聖謨の拝領地に種痘所を作ったのがお玉ヶ池の種痘所である。



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 このお玉ヶ池の種痘所の歴史が面白い。実はこのお玉ヶ池の種痘所が東京大学医学部の発祥となるのである。
 お玉ヶ池に作られた種痘所は最初「私立お玉ヶ池種痘所」としてスタートした。もちろん種痘所は牛痘接種普及を目的で作られたが、別の側面として蘭方医の集会所でもあった。
 ところが設立半年後火事で焼失してしまう。その後しばらくの間、伊藤玄朴の家などで業務を続けたが、翌年種痘所は、下谷和泉橋通りに移転した。移転後「官立お玉ヶ池種痘所」となる。
 この下谷和泉橋通りがどこなのか、それが今度私の知りたいこととなる。その答えが、この本で、今私がいる事務所の近所である三井記念病院だということがわかった。それを知ったときは、へぇ~ここなんだ!とちょっと感動した。
 さて、官立お玉ヶ池種痘所がどう変遷していったのか。まず、最初の呼びかけをした大槻俊齋はすでに死去していたので大阪より緒方洪庵を招き初代頭取に任命し、文久元年(1861年)「西洋医学所」と改称される。そして文久3年にはただの「医学所」と改称される。
 戊辰戦争の負傷者治療するためにそれまで横浜と浅草にあった診療所をまとめ、この地に「東京府大病院」を作り、明治二年(1869年)に種痘所から名を変えた医学所と合併し、「医学校兼病院」と改称される。同年12月には「大学東校」と名を変える。(よく名前を変えるんだな、これが・・・)さらに、「大学東校」から「東校」へ、「東校」から「第一大学区医学校」へ、「第一大学区医学校」が「東京医学校」へ改称される。この東京医学校が本郷に移転し、東京大学医学部となるのである。
 以上変遷をたどると、お玉ヶ池の種痘所が東大医学部の発祥となるわけだ。それを考えると、お玉ヶ池の種痘所は、日本の近代医学史の大本だったことを知らされる。
 一時下谷に借りていた第二医学院も和泉町に来て、「医科大学第二医院」となる。その後「医科大学第二医院」は「東京帝国大学第二病院」と改称される。ただ明治三十四年に火事にあい、その後再建されず、この地は空き地となり、運動場となっていた。
 その空き地に今の三井記念病院である三井慈善病院が設立された。その経緯は次の通りである。
 明治三十六年(1903年)に東京市長尾崎行雄が施療病院の計画をし、それを聞いた三井八郎右衛門・高棟が十万円の寄付をして賛同の意を表す。しかし当時日露戦争の疲弊でその計画が一向に実現する様子がない。仕方がないので高棟は自力で病院を作ることを決意する。三井家より基金百万円を基に、和泉町にあった東京帝国大学第二病院跡地を払い下げを受け、明治四十二年三月に開院した。
 三井慈善病院という名の通り、この病院は生活困窮者を対象とし、患者の診察費、入院費は無料で行われた。その上診察内容は高度であったので、受診者が殺到したという。生活困窮者を対象としいたため、一般の人は受診できなかったので、病院の前に粗末な衣裳を貸し出す貸衣装屋があったという笑い話が残っているらしい。著者は三井記念病院で内科部長、副院長を務められた人で、この経緯は詳しく書かれている。
 また和泉町と言えば、関東大震災で奇跡的に焼け残った地域で、それでも震災時に上野公園へ病院スタッフや患者が避難する記録は著者だから得られた記録だろう。読んでみるとかなりなまなましい。一部のスタッフは病院に残り消火活動をするが、町内の人々もバケツリレーをして懸命な消火活動した。またたまたま近所にあった民間会社のガソリンポンプによる下水水利を得ての放水し、和泉町は震災による火災から免れた。現在「関東大震災協力防災の地碑」が和泉小学校の脇にある。

 そもそも神田和泉町は旧藤堂和泉守高虎(弘治二年~寛永七年、1556~1630年)の屋敷跡で、この地には医療関係の史跡がお玉ヶ池の種痘所以外にもいくつかある。
 近くには漢方医の医学校、躋寿館(せいじゅかん)もあった。場所は佐久間町二丁目から四丁目にかかる二千余坪、旧浅草天文台跡地(現在の清洲橋通りをはさんで和泉町の東側、外神田四丁目十四)である。
  東京衛生試験所もこの地にあった。もともとは明治七年(1874年)に「東京司薬場」の名称で 医薬品試験機関として発足し、医薬品の品質管理行っていた。日本で最も古い国立試験研究機関である。ここにも記念碑があり、次のように書かれている。
 
 国立衛生試験所は, わが国最初の国営の医薬品試験研究機関, 東京司薬場として, 明治7年(1874年)3月、 現在の中央区日本橋馬喰町に発足し同年8月この地、 千代田区神田和泉町2番地で本格的業務を開始した。 昭和20年(1945年)3月の東京大空襲に罹災するまでの70年あまり、 医薬品を主とする日本の厚生行政に多大な貢献をしてきた。 現在は、 世田谷区上用賀において引き続き研究業務を行っている。
 本年, 創立120周年を迎えここに記念碑を設置するものである。
 平成6年11月建立   国立衛生試験所



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 東都病院もこの地にあった。東都病院とは斎藤紀一が開業した(斎藤茂吉は斎藤紀一の養子。北杜夫は茂吉の次男)が明治二十四年(1891年)に浅草区東三筋町に浅草病院を開業したが、ここが繁盛したので和泉町に東都病院を作った。この本によると、この病院の入院費はかなり高額だったらしい。現在当時のレンガの一部が坪井医院の入り口に残されている。

 私はこの和泉町にある会社でずっと働いている。だからこの和泉町の歴史、特に医療関係の歴史にずっと興味を持っていた。今回この本でかなりのことがはっきりわかったので、その点だけでもこの本を読んでよかった思っている。


評価
★★★


書誌
書名:「お玉ヶ池」散策―お玉ヶ池種痘所と三井記念病院周辺余話
著者:清瀬 闊
ISBN:9784895143127
出版社:中央公論事業出版 (2008/12/01 出版)
版型:242p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2009年06月23日

東海林さだお著『トンカツの丸かじり』

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 日曜日に東海林さん本を読もうと決めたのだが、先週は村上春樹さんの本に夢中になってしまい、とてもじゃないが途中でやめることができずに、そのまま読み続けてしまった。そして今週はテレビの映画とドラマに夢中になり、本を読むどころじゃなかった。ということで月曜日までこの本を持ち越してしまった。そしてそうこうしているうちに、このシリーズ30巻目が出ちゃって、こりゃあやばいなと思い始めている。しっかり予定通り読まないと、下手したら今年中で読み終わらないかもしれない。
 というわけで、慌てて読み始める。

 が、つまらない。

 というか、もう三冊目で食傷気味になってきてしまった。毎度毎度同じパターンで繰りかえされる食に関するエッセイは飽きるものだとわかり始めた。正直なところこんなはずじゃなかった。これはまずい。いつもの読書の箸置きみたいな感じで読むならいいのかもしれないが、ノルマとして読んでやろうと目論む本じゃないのではないかと思い始めた。これは“日曜日の読書”を考え直さないといけないかもしれない。
 というわけで、この本を読んでいて「もう、いいや」と思ったのが正直な感想だ。次はちょっと時間をおいてから読もうと思っている。


評価
★★


書誌
書名:トンカツの丸かじり
著者:東海林 さだお
ISBN:9784022560759
出版社:朝日新聞社 (1989/11/30 出版)
版型:217p / 19cm
販売価:入手不可

2009年06月22日

吉村昭著『暁の旅人』

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 この本は松本良順の生涯を描いた小説である。司馬遼太郎さんの『胡蝶の夢』も良順を主人公にした長編小説だが、この時も確かあるイメージが頭にこびりついていて、違和感があったことを思い出す。今回もそうであった。
 私が松本良順に対して思い浮かべるイメージとは子母澤寬さんの『勝海舟』に出てくる松本良順なのである。というのも、私が松本良順という人物を知ったのはこの小説が最初だったからだ。そこには奥医師として将軍のそばで、勝海舟と同様にベランメエ調でやりとりする姿があった。そのため良順という人物も海舟と同じように、なかなか自己を曲げないタイプで、わがままでやりたい放題の人物だったと思っていたのである。
 ところが吉村さんの描く良順像は、確かにそういうところもあるけれど、どちらかといえば当時としては最先端の医療技術を身につけた良順で、律儀で恩義に厚く、それが良順の行動指針となっている人物であった。
 良順は洋医学の大家佐藤泰然の子として生まれ、幕府の奥医師松本良甫の婿養子となり、幕府の医官として長崎に遊学し、オランダ医師ポンペについて西洋医術を身につけた。
 当時は漢方医の力が圧倒的に強く、蘭方医などとんでもないという時代であった。それでもこれからは西洋医術を身につけなければならないと思った良順を幕府の高官たちは終始援助の手を差しのべ、長崎伝習生の名目でオランダ医師ポンペについて西欧の最新医術を身につけられるようした。五年間にわたる長崎遊学費用も幕府はすべて出した。
 江戸にもどって幕府の奥医師となり、医学所頭取となった。「奥医師として身近かに仕えた将軍家茂は、絶えず温情をもって接してくれて、それに対する感謝の念は忘れられない。その臨終に際して手をにぎり心音をうかがっていたことがせめてもの救いで、次第に冷たくなっていった家茂の手の感触は今でもはっきりとおぼえている」。
 幕府が崩壊しつつあるときでも、自分を手厚く扱ってくれた幕府に対して、恩義を感じないわけがなかった。だから幕府への忠誠をくずさぬ会津、庄内両藩のもとで戦傷者の手当につくした。江戸が新政府軍によって踏みにじられるのを眼にするのは堪えがたかったのである。自分は幕府とともにあり、それに殉じるのが人の道だと思う人物であった。
 しかし時代は明らかに変わりつつある。会津、庄内藩も新政府軍に敗れ、良順は仙台で榎本武揚と会う。榎本は良順に蝦夷に一緒に来て、戦傷者の手当をして欲しいと言うのだが、ここにそれを思い止まらせる人物がいた。土方歳三である。土方は次のように言う。
 「先生は、前途有為なお方です。蝦夷などに行かず、この地から江戸におもどりになられるべきです。戦乱に巻きこまれ、命を失うようなことあってはなりません。江戸にお帰り下さい」

 新政府軍が良順という優秀な人材をむやみに殺すわけがないと考えた上での言葉であった。さらに自分は榎本と共に蝦夷へ行くが、それは「私のような武事以外に能なき者は、力のかぎり奮戦し、国のために殉じるべきだと思っております。それがわれわれの定めなのです」から、新政府軍と戦い続けると言うのである。私は新撰組というのはごろつきの集まりだと思っていたので、このあたりはさすが土方歳三と見直しちゃった。
 ここでは生き様の差がはっきりと出ている。大きな時代の変化に必要な人物。滅びるしかない人物。日本という国の未来を考えると、このあたりの線引きははっきりしている。特に土方自身がそうした線引きをして、自分がどこにいるかはっきりと自覚しているところが悲しさを誘う。
 良順は江戸にもどり投獄されるが赦免され、山県有朋などの薦めで軍医総監となる。この時山県は人それぞれに国のために力をつくすべき時だと言ったが、明治新政府には人材がいなく、しばらくの間幕府の有能な人材を登用するしかなかったことを思うと、江戸幕府は本当に有能な人材を持っていたんだなと思う。その証拠に明治新政府に使えた旧幕府の人物たちが沢山いたことがいい証拠である。これらの人物たちがいなければ、明治という時代は成っていなかったかもしれない。そして無骨一辺倒な旧タイプの人物たちは滅びることで、その精神をいい意味でも悪い意味でも、新しい日本という国に残していったんじゃないかという気がする。
 

評価
★★★


書誌
書名:暁の旅人
著者:吉村 昭
ISBN:9784062128704
出版社:講談社 (2005/04/26 出版)
版型:298p / 19cm / B6判
販売価:1,785円(税込)

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