2005年07月27日

村上春樹著『アフターダーク』

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 この『アフターダーク』(講談社刊)は村上ワールドというべき、不思議な世界をがそこには展開している。私達は本を読む時は、そこで展開されている世界を読むことで垣間見ているわけだけど、この本ははじめからその世界を垣間見るもの、人?がいて、私達は更にその上から覗いているのである。
 その世界は真夜中から朝にかけて、マリ世界と姉のエリの世界が進んでいく。 物語は、マリの話はテンポよく進んでいくが、エリはもう二ヶ月以上も眠ったまま。最小限の生理的な欲求は目覚めて行っているようだが、家族がエリの部屋を覗くといつも寝ている姿しか見えない。
 エリの部屋を覗くものがいて、部屋にはコンセントが抜かれたテレビがあるが、画像が写っている。覗いていたものがちょっと視線をそらしたら、エリはテレビの画像の中にいて何かもがいている。そして朝方には又部屋のベッドに戻り寝ている。不思議な世界の展開。意識しない世界でもしかしたら、こんなことを繰り返されているかもしれないというちょっとした恐れを感じさせる。現実と異次元あるいは、現実と夢の世界、その隔たりがはっきりしない世界が真夜中にあるのかもしれないと思わせる不思議な感覚。

 一方現実に起きているマリは真夜中ファミレスで分厚い本を一人で読んでいた。そこに知り合いの高橋という人間に声をかけられる。そこから予想もしなかったことに話が展開していく。人が寝静まった世界でしか暮らせない人達、マリにとってみれば非現実的な世界で暮らす人々との関わり合いが描かれている。
 真夜中とは1日の澱がたまった状態で、身動きできなくなっている時であって、現実と非現実的の壁が不明確になっている。あちらの世界が見えて、非現実が現実化してしまう時間帯なのかもしれない。
 ここではマリを目が覚めている世界に置いて、一方姉のエリを寝ている世界に置くことで、違う世界に生きていると思わせるが、しかし現実に起きていようが寝ていようが、これから起こりうることは誰にも確実に予想できないし、いっけん姉のエリとは全く違う世界を生きているとマリは感じていたが、マリとエリは姉妹であることには変わりがないことを気づかせていく。朝日が昇る時、昨日の澱がリセットされるように。

2005年07月24日

三瓶明雄・太田空真著『三瓶明雄の知恵

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 巨人に松井がいなくなって、野球が面白くなくなった。そのためプロ野球を見なくなった。そのため日曜日に「鉄腕!DASH!」に変わって、プロ野球があるとがっかりしてしまう。それくらいこの番組が気に入っている。
 そのDASH村の農業指導者である三瓶明雄さんを、太田空真さんがインタビューして出来た本がこの『三瓶明雄の知恵』(日テレ)である。
 何でDASH村が自分でもいいのか考えてみると、一昔前まであった当たり前の生活の知恵や、食べ物、農耕具、家造りなどが、今テレビで見るとものすごく新鮮で感心してしまうのだ。造りなどはものすごく素朴で単純なのだけど、その分機能的なのだ。それがホント一昔前まであったものなのに、いつのまにか姿を消しているのが、ある意味不思議と言えば不思議なくらいだ。
 この本を読んでいると明雄さん(テレビでそう言われているので、ここでもそう言いたい)が東北の開拓民の子供として生まれ、育ってきたことを知るが、明雄さんの言葉にはその苦労は微塵も出てこない。明雄さんは言う。「自分の言葉に、多くの人が興味を持ってくれることはうれしいことだ。だけど、別に特別なことをしているわけではないんだ。自分が知っている田舎の知恵は、田舎で暮らしている人なら、誰でも知っていることなんだ」と。
 そうなのだ。その当たり前の知恵を感動して見ているのが、我々なのだ。それは「当たり前のこと」を我々は失ってしまったことを意味するんじゃないだろうか。だから驚きを持って見てしまうのだ。
 そしてテレビで見る「当たり前のこと」はその生活の苦労から生まれたものだと知るべきだろう。苦労したからこそ、生まれてきた、いわば生きるための「知恵」なのではなかろうかと思う。私達は明雄さんの人柄でその奥に隠されている苦労を見ないで済んでいるけど、「生活の知恵」ってそんななまやさしいもんじゃないはずだ。そのことを前提にしてこの本を読むべきだろう。
 その上で改めて明雄さんの言葉は意味を持ってくると思う。明雄さんに農業のこつを聞くと、

 「地元のプロの意見を聞くことで初めて、地域にあった農業が身につくようになるんだよ。
 これはね、家庭菜園でも同じだ。地元の農協やタネ屋さんで、地域にあった作物の育て方聞いて実体験してみる。その繰り返しを何度もすることで、美味しい作物が収穫できるようになるんだ。
 野菜づくりが失敗したら、町のスーパーに行って野菜を買えばすむことだしな。
 来年になれば、いやでも春がやって来る。そのとき、今年の失敗を生かして知恵を働かせて、美味しい野菜をつくればいいんだよ。
 一年間、農業を経験すれば、畑のことはよくわかってくる。
 最初の年に失敗をしても、次の年にもっとがんばって美味しい野菜をつくればいい。失敗を元手に、工夫しながら畑を耕す。これが、楽しく農業をするコツだと思うよ」

 自分たちはそうじゃなかったけど、今は楽しむ農業をするなら、こうすればいいと言えるあたりは、明雄さんの人柄うかがえる。時代が違うことをきちんと知っているのだ。だから失敗したらスーパーで買えばいいなんて言えるのだ。
 そのことは、自家製の味噌を作る時に必要なコウジを手に入れるのにはどうすればいいかを聞いた時に、近所のコウジ屋さんから、タネ・コウジを買えるし、なければインターネットの通販で買うことができると言わせるのだ。明雄さんからインターネットという言葉が出たこと自体が驚きだ。こういう人はいいなぁと思う。やたら「今の若い奴らは・・・」と言って、苦言を呈する年寄りよりは、明雄さんみたいな人達の意見の方が聞けるもんだ。

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2005年07月23日

阿部謹也著『「世間」への旅』

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 阿部謹也さんの新刊、『「世間」への旅』(筑摩書房刊)を読む。
 この本は、今まで雑誌などに書かれた文章を集めたもので、書名にあるように「世間」について書いたものが中心となっている。
 阿部さんはドイツ中世史の研究を長いことやられてきて、その研究方法や手法で日本を見た場合、それが見えてこないことに気づかれる。それが何故なのかを探っているうちに、日本の社会には、明治以降ヨーロッパから輸入した近代システムとそれまでの日本にあった歴史的・伝統システムがあることに気がつくのである。その日本固有といっていい歴史的・伝統システムがすなわち「世間」といわれるものだ。
 明治以降ヨーロッパから輸入した近代システムとは、法政、国政、軍事、教育、郵政など日本の社会制度ほとんどがあたる。それまでの日本にあった歴史的・伝統システムを古いものとして切り捨てることが、近代化だと考え進んできた。 けれど、いくら新しいシステムを導入し、インフラが欧米化し、近代化しても、家とか、言葉とか、慣習とか、身振りなど、人間関係には歴史的・伝統システムは完全に切り捨てられず、今も残っている。
 普段は近代化、欧米化したシステムの中で考え、暮らしているように見えても、一方で日本古来から培われたシステムで物事を考え、暮らしているのである。それが「世間」である。だから日本という国にはヨーロッパから輸入された近代システムと歴史的・伝統システムのダブルスタンダードの物差しがあるのである。
 だからこそ、政治家などが不祥事を起こすと、「私は無実だが、世間を騒がせたことを申し訳ないと思っている」と頭を下げるのである。

 最近思うのだけど、日本っていったい何なんだろう。何でもかんでも欧米の文化を取り入れることが、最新なのだとする考え方に疑問を感じてしまう。本来その国に根付いた文化を古いものとして扱い、まったく地に足がついていない文化を何でもかんでも取り入れて喜んでいる日本人を見ていると、この国はヨーロッパやアメリカなのかといいたくなってしまう。
 私は戦前の国粋主義には反対だけど、日本古来からのものを考えると、日本が日本であることをきちんと国民に植え付けたことは事実だと思う。そのことは純粋に日本人が日本を主張出来る毅然とした態度を持たせたんじゃないのか思うのだ。今みたいに日本として国の威厳などない状態を憂うべきだと思う。日本人として同じ意識を持てるものが、ちょっと前まであったはずなのに、無謀な戦争をし、負けたことで、何もかもそれまで持っていた日本人いいところを否定したことで、今がある。
 しかし、輸入された欧米にシステムだけじゃどうにもならない。何故ならここはヨーロッパでもアメリカでもない日本という国なのだから。だからこそ「世間」という言葉で表される家とか、慣習とか、言葉とか、伝統とかいうものなかにあった美しいもの、いいものを、もう一度見つめ直す必要性を感じてしまう。私は阿部さんが見つめた「世間」という意識が薄れたことが、今の日本というどうにもならない状態を作り出したんじゃないのかと思うのだ。それでいて、自分のやったことを正当化する時だけ、「世間が・・・」と言うのだ。「世間」というものはそういうものじゃなかったはずだ。
 サッカーの試合の時にしか「君が代」を歌わず、その時だけ「おぉ~ニッポン!ニッポン!」と日本人を鼓舞するしか能のない日本人を恥じるべきだし、高校教師が「君が代」斉唱を拒否するのも、基本的に間違いであることを知るべきだ。だって、その教師の個人的考え方はそれでいいかもしれないが、それを生徒に押しつけるような態度は慎むべきだろう。拒否するかどうかは生徒が決めるべきであって、教師はなぜ「君が代」を歌うのかを教えるだけでいい。それでも教師を続けるなら、教師を離れた立場で主張すればいい。考え違いも甚だしい。
 なんだかとんでもないところに話がいってしまった。ただ私は欧米のシステムだけじゃ、日本という国がだめになると思うのだ。日本人が古来から持っていた美意識、慎まやかさなどの復権を願っているだけのことなのだ。ヨーロッパやアメリカだって、自分の国が持っている固有のものや伝統はきっと大切にしていると思うのだ。その上で、普遍的で汎用性のあるシステムが動いていると考える。
 それにしても、人と人の関係に重点を置いて歴史を見るようになったのは阿部さんが、昔から一人でいるのが好きだったというのは意外だった。

2005年07月19日

稲森和夫著『生き方』

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 稲森さん書かれた本は今まで何冊か読んでいる。でも今回の『生き方』(サンマーク出版)は、ちょっと私には手に負えないものだ。この手の人の生き方に関する本は今の私には何ともコメントしがたい。 こういう本を読む人は、京セラやKDDIを起こした人で、それらの名誉会長や最高顧問である稲森さんが、何故成功したか、その神髄を何とか読み取ろうとして、サラリーマンや経営者が読まれるのだろう。興味はあるけど、それをそのままストレートに受け入れて自分の人生哲学とするには、まだ私にはできない。
 言っておられることは単純明快で、確かにその通りだと思ったけど、凡人で雑念のある私にはなかなかそのまま素直に受け入れられないのが悲しい。
 不思議なもので、こういう成功した大経営者が自分の生き方を綴った本を読んでいると、どこか仏教の入門書を読んでいるように思えてしまう。苦労して、会社を大きくしていった結果、それこそ悟りの境地になってしまうものなのかもしれない。ある意味、会社経営が修行の場でもあったのだろう。実際の話、稲森さんは仏門に入られたようで、そのためかかなり宗教色が濃い内容になっている。 次の文章など、この本の結論だけど、特にそんな感じがする。

「感謝や誠実、一生懸命働くことや素直な心、反省を忘れない気持ち。恨んだり、妬んだりしない心、自分より他人を思いやる利他の精神・・・・そういう善き思いやりや行為すべて宇宙の意思に沿う行為だから、それによって必然的に人は成功発展の方向に導かれ、その運命もすばらしいものになっていく。」

「一生懸命働くこと、感謝の心を忘れないこと、善き思い、正しい行いに努めること、素直な反省心でいつも自分を律すること、日々の暮らしの中で心を磨き、人格を高めつづけること。すなわちそのような当たり前のことを一生懸命行って行くことに、まさに生きる意義があるし、それ以外に人間としての「生き方」はないように思います」

 とはいえ、辛気くさいけど、どこか私自身反省すべきところがあるような気がしている。

2005年07月18日

閉店

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読んだ本

『たましいの場所』 早川義夫著 晶文社刊 (2002年)

『ぼくは本屋のおやじさん』 早川義夫著 晶文社刊 (1982年)  

 この本を目にしたのは棚卸しを手伝っているときであった。棚から引き出しているときに、あれ?早川さんの本だと思ったのである。私たち書店関係者なら、早川さんの『ぼくは本屋のおやじさん』(晶文社刊)を知らない人はいないのではないかと思う。
 早川さんはロックバンド「ジャックス」のリーダーをしていて、23歳の時に早くおじさんになりたくて、本屋のおやじさんとして早川書店を開業した人である。本屋さんにしては、変わった経歴の持ち主だっただけに、当時としては割と話題を呼んだ本であった。
 しかし、今思い出してもその本にどんなことが書かれていたのか思い出せない。もう20数年前の本だからかもしれないが、それにしても不思議と記憶に残っていない。で、改めて読み直してみて何で記憶に残っていないか分かったような気がする。
 この本を読んだときはまだ私は本屋の現場で働いていた。そしてこの本に書かれていることは、当時我々が苦労していたことが書かれているだけで、とりとめて真新しいことじゃなかった。新刊が入ってこないこと、仕入に苦労したこと、お客への苦情など、全てが日々の仕事の中で体験していただけに、本の内容として記憶に残らなかったのだ。つまり自分が体験した苦労の中に話の内容が埋もれてしまったのだ。
 その早川さんの最新エッセイ『たましいの場所』(晶文社刊)を読んでみた。
 早川さんが本屋を廃業したというのは噂で聞いていた。しかし何故廃業したのかは知らなかった。それが知りたくてこの本を読んだといっていいかもしれない。
 本屋の廃業に関して書かれているのは「閉店の日」の一章のみで、後はほとんど音楽に関する自分の意見であった。それでもこの一章だけで十分であった。

 早川さんの閉店の挨拶は次の通りだ。

「平成七年九月三十日をもちまして、閉店することになりました。
長い間のご愛顧、感謝しております。僕が好きだったこの店の棚の匂い、色あい、空気はお客様のものでした。
おかげさまで、いっぱい、いっぱい楽しい時間を過ごすことができました。
二十二年間、本当にありがとうございました。」

 早川さんは「閉店の日、僕は、泣いてばかりいた。涙がとめどもなく出た。棚を見ているだけで、涙がこぼれた。お客さんと言葉を交わそうとするだけで、涙が出た。」という。

 私が二六堂書店がなくなった日、次のようにブログに書いた。

 午後9時店内に閉店を知らせる音楽が流れる。昨日までは、この案内が流れても、明日になれば又お店は開いた。しかし今日の閉店の案内は、本当にお店を閉店することの案内となる。
 閉店に立ち会いたかった。8時過ぎまで事務所で仕事をし、そのまま岩本町店へ向かう。広くなったバックヤード(閉店を考え、在庫を減らすために、奥にあった陳列スペースを削り、棚を前に移動した。その為バックヤードが広くなった)で、岩田さんは仕事をされていた。閉店の時間までお邪魔し、ついにおしまいだねと岩田さんと話す。
 最後のお客さんがお店から出て行った後、閉店の案内が流れる中、お店のシャッターがゆっくりと降りてくる。岩田さんと私ともう1人で、そのシャッターを降りてくるのを見つめる。地面に完全にシャッターがつくまで、身動きもせずそのまま見つめていた。
 もうこのシャッターはお客さんを招き入れるために開けることはない。

 多分最後はいつもこうなのだろう。華々しくオープンしたときは、未来に希望があるものだから、真新しい店に、お祝いの花やお祝いにかけつけてくれる人たちでにぎわうけど、閉店の時はいつも少人数だ。最後まで残るのはその店に店長と遅番のスタッフのみ。新大久保店の時もそうだった。オープンの時、多くの出版関係者がお祝いに見えた。例のお祝いの花が華々しく飾られていた。お祝いに見えた人たちを、ちょうどお店があるビルの地下に居酒屋あったので、そこを貸し切ってもてなした。
 しかし閉店が決まり、在庫の返品が済んで、これで完全撤退する日の夜、お疲れさんという意味で、開店の時と同じように地下の居酒屋で慰労会をした。私を含めてたった3人であった。これが現実であった。
 
 小さな本屋さんがどんどんなくなっていく。ちょっと休みの日に本を買いに行く時は、以前のようにサンダルをひっかけて行ける距離に本屋さんがなくなってしまった。
 確かにそんな小さな本屋さんには欲しいと思う本が少ないかもしれない。でもそういう本屋さんって、棚にあった本を頭の中で思う出せりするものだ。確かあそこにあったよなぁって・・・。大した変化のない棚だったから、そうしたことがおこるのだろうけど、その中にイメージになかった新しい本があったりすると、なんか大発見をしたみたいにうれしかった。
 今は大きな器に煌々と蛍光灯がともる店内で、それこそブテック化した本がそれこそ最新の服なんかが並ぶような形で陳列される。サンダルなんか履いて行けない。それこそ大型書店が読者の多様なニーズに合っているように思っているのは、そこにいる人間だけで、大型化した店内にどこに自分の欲しい本があるのか分からない。在庫点数が多ければ多いほど余計だ。探すのに一苦労する。本屋は図書館じゃないのだから、在庫が多ければ立派なお店だと勘違するのもどんなものだろうか?
 読者は、自分が読みたい本が思うように探せないから、結局ネットで探して本を購入するようになる。
 そんなお店は駅前に一店舗あればいい。駅前に何軒もの大型書店が競い合うようにできれば、限りある新刊部数がみんなそこへ持って行かれ、地元の本屋さんに回ってこない。 だからといって、駅前の大型書店に外出着に着替えて出かける気も起こらないから、又ネットで本を探し、注文する。悪循環なのだ。
 私はこの出版不況を回復するには、大型書店をどんどん出店することじゃないと思う。地元の本屋さんが元気が出せる状況にしないと、ほとんどこの不況は回復できまい。そう思う。
 今早川さんの本のことを思い出したり、自分のお店のことを考えると、どこか違った方向に出版業界は行こうとしている気がする。

(この書き込みは2004年6月23日に「新・頁の背後」として書き込んだものに手を入れて、再録しました)

2005年07月16日

ウィメンズネット・こうべ編『女たちが語る阪神大震災』

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 ウィメンズネット・こうべが編集した『女たちが語る阪神大震災』(木馬書館刊)は報道されなかった阪神・淡路大震災の被災者である女性たちが経験したこの国の歪んでいる部分やこの国に住む人間の底辺を流れる意識をあからさまにしたものである。
 前回柳田邦男編『阪神・淡路大震災10年』を紹介した時に、最後に「災害というものは、地域社会がかかえている弱点や災害弱者を冷酷までにねらい撃ちする形で襲うのだ」という柳田邦男さんの言葉を引用した。この本には震災直後女性達が直面した「現実」が描かれている。
 一方で何とか頑張って復興しようと考える人間もいれば、弱者を更に追いつめる人間もいる。非現実の中で、自分だけ別という思いが、そうさせる。あるいは自分より弱い立場の人間を追いやることで自分の優位性を自己主張させる。そうしなければ生きていけないのだ。
 事件や災害がリアルタイムで報道される中、報道することさえはばかれることが沢山あり、本当はそういうことが様々なことを考えさせられることじゃないかとも思う。ここではそんなことを本の中から引用してみる。

女性たちの話を聞いて感じたことの一つは、日本の社会がいかに「会社」中心の社会であったかということでした。被災した社員に素早く社宅を用意し、会社が国よりも頼りになるとの声もありましたが、一方で震災から一週間も経たないうちに大阪市内に単身者用の住まいを用意して、夫たちを単身赴任させ、いまだに余震の続く被災地に家族を置き去りにしたのも会社でした。会社側の一方的措置のケースだけではなく、男たちも交通機関が寸断された中を10時間近くもかけて何とか会社に出かけて行き、そのまま会社で泊まり込みをして何日も帰って来ない例も数多くありました。地震直後に、被災地神戸を脱出して、予定されていた東京での会社の研修に参加したり、二ヶ月近く自宅に戻らなかった話もあって驚きました。

 取り残された妻たちが精神的、肉体的にどんなに大変な生活を強いられ、不安に苦しんだか。つらかったという声をたくさん聞きました。停電のためエレベーターの使用できない高層マンションでの水汲み作業は、どんなに重労働だったことでしょう。私自身も18リットルの水を自転車の荷台に積んで、よろよろしながら自宅まで運び、水がこんなにも重いものとは……と、ため息をついたものです。余震の続く中、独りぼっちで家に残された不安感から体調を崩した女性も多く、通じない電話の前に何時間も座り続けていた女性の話も印象に残っています。 特に、幼い子どもを抱えた母親たちには、自分自身の不安感と同時に母である自分が子どもを守らなくてはいけないというプレッシャーも強かったようです。そのために、幼児虐待に近い状況もかなりあったようでした。最近若いお母さんたちから、せめて一週間の震災休暇を夫たちに取って欲しかったという声を聞きます。でも、私は、あれだけの被害があった場合なら一ヶ月程度の震災休暇が必要だと思っています。

 震災後、多くの女性が最初に考えたのは、家族の生活のことであり、生活物資の確保であった。しかし、多くの男性が最初に考えたのは、会社のことであり、事業の復旧のことであった。多くの男性は家の片付けや家庭責任を女性に押し付けて会社にはせ参じ、家庭責任を持った女性は取り残された。その姿は、戦時中に涙を見せずに夫の出征を見送った「銃後の妻」を思わせる。男性が向かったのはビジネスという戦場だった。

 神戸方面のある避難所では仕事を持っている夫や男の人たちが出かけた後、男性が入り込み、女性がレイプされた。止めに入った教師が暴力を振るわれてケガをするといったことや、道を聞いたボランティアの女子学生が半壊の建物に引きずり込まれてレイプされた。さらには、(避難所は夜も電気がつけっぱなしなのだが)トイレへ立った男性が通りすがりに女の子の胸などを触っていくという話(まさに、プライバシーの片もない生活がここにある!)から、日常的に体育館の裏や倉庫の片すみ、救援物資が積まれた陰での性交(レイプも含まれる)を幼児たちが見ている。

 小さな子どもたちがいたずら(パンツを脱がされたり、触られたり)されても、それが何なのか気付かない。性被害は男・女を問わず、子どもたちに否応なしに振りかかっている。

 通勤、通学途中の20代の女性たちを解体現場に引きずり込み、しかも複数犯による犯行が多かった。お風呂に入りたい女の子たちを複数で誘ってのお風呂ツアーなどは、最初からワゴン車を用意して実に計画的である。

 夏は大体レイプがらみの相談が増えるのですが、今年は特に多かったようです。夜、避難所で人けのない所へ引きずり込まれたり、レイプまでいかなくてもいたずらされかけたり、死角になる所で性的ないたずらをされたり、嫌な思いをしたという話を割と聞きました。みんなが精神的にすさんでいる、ヤケになっている時はどうしてもお酒に走って、破廉恥な言葉をかけたりするようです。
 具体的には、高校生や大学生の女の子たちが人の住んでいない家に引きずり込まれてレイプされた、人通りが減った空き室やビルに引きずり込まれかけた、街灯の暗い町で通りかかった車に引っ張り込まれてレイプされたという話がありました。

 例えば、10年のローンの残っている自宅が全焼し、それ以来、夫がお酒を飲んでは毎晩のように殴る、蹴るの暴行を働く。セックスを強要する。そう訴えながらも、「耐えられない私は、わがままな女ですか?」と聞く妻たちが悲しかった。

 大混乱の中、人間の本能 "性欲"はどう機能したのだろうか?市街地のラブホテルは大繁盛だった様子。実態は洗濯ツア??? 避難所はプライバシーがないので無理。かえってテント生活の人のほうがプライバシーが保てたようだ。中には半壊の自宅に帰って・・・という人も。

 ある日、47歳の女性が相談に訪れた。1月の上旬に生理があって以来、なくなってしまったと言う。「もう更年期になってしまったのですね」という哀しげな声と、ツヤのない髪や肌。ショックやパニックで無月経や生理不順になる場合があることを話した。この震災で、40代から50代の妊娠が増えたのは、生理不順で避妊の時期がわからなかったためと思われる。

 仕事場が無事であった夫は、被災後間もなく出勤したが、それを見たある日本人男性曰く、「日本人でさえ職を失った人間が山ほどいるのに、朝鮮人のあんたに職があるのはおかしい。日本人に職を譲るべきやろ」。
 また、露骨な嫌がらせをし、差別的に物資を配る人にとがめ立てすれば、返ってきた言葉が、「お前ら朝鮮とは理解し合おうとは思わん」の一言。そしてまた、総連(在日朝鮮人総連合会)、民団(在日大韓民国民団)を通しての在日朝鮮人に対する義援金の支給を見て、「お前らは日ごろ、差別されていると言うが、日本からの義援金はお前らにもやったろ。だったら、そっちのも俺らに配って当たり前やろ。逆差別ちがうんか」と、言い放つ人まで現れたのには、何をか言わんや。
 その例として言うならば、震災後、在日外国人の力になれればと設立された定住外国人復興センターあてに、「好きで日本に来たくせにガタガタ言うのなら自分の国へ帰れ。汚い中国人、朝鮮人は嫌いだ」という主旨の投書が無記名で送られてきた。また、「朝鮮人のために使うお金があるのなら、日本人のために使ってほしい」との投書もあった。もちろん、無記名である。

 1月末に零細事業所、さらに2月に入るとダイエー630人、そごう670人、カネテツデリカフーズ200人・・・と、自宅待機していた神戸在住のパートやアルバイトが大量解雇されたのです。
 事の始まりはまず、私が「電車が不通になったために通勤が困難になった」という理由で、社長に退職することを言った時です。その時、私は「有給休暇の残り日数を消化した日を退職日にして欲しい」と申し出たのですが、社長は「こんな地震が起こって会社も大変なんだから、そんなことはできない」と押し切られてしまいました。私はこれ以上言っても無駄だと思い、その時はそれで引き下がったのです。
 ところが後になって、『労働基準法』を図書館で借りて、社長の言い分はおかしいということに気付いたのです。数日経って家に離職票が送付されましたが、やはり離職日は私が退職を申し出た日になっていました。

 少し汚いようだが、日常生活で、避けて通れないトイレの話。
 私の過ごした避難所のトイレは、しばらくの間、大便がてんこ盛りの状態だった。見た目も不潔だし、悪臭がこの世のものとは思われなかった。あまりの臭さに、私は両方の鼻の穴にティッシュを詰め、息を止め、目をつむり用を足した。男はいいよなあ……と思いながら。
 このようなトイレの状態は、各避難所でも同様だった。そのため、トイレになるべく行かないように、水分を取るのを控えたり、トイレを我慢した結果、多くの女性が膀胱炎や尿道炎、カンジダになった。そして清潔を保つため、ウエットティッシュで拭いたり、生理用ナプキンを使用していたようだ。
 全国から送られてきた仮設トイレを使用してみて-まず、備蓄用テント式トイレは使用しづらかった。カギがかからず全体がぐらついて、中にいると怖い。夜は外に影が映る。組み立て方法がわからず手間取った、などの意見があった。
 また、一般の仮設トイレも、ぐらついて使用しにくい。悪臭がする。汚物缶がない。男女の別がない。階段があると障害者には使いづらい。運動場の端っこに設置されていて、夜間の使用は怖い、などの意見があった。
 まず、仮設トイレが設置されるまでは、学校のトイレ(もちろん水洗)の便器は、大便がテンコ盛り。これを取り除く作業(スコップでゴミ袋に入れる)から取り組んだ。プールや川から水を運び、少しきれいになったトイレでは、小便の時は水を少し流し、大便の時は新聞紙を敷いて排せつを済ませたら、くるんでゴミ袋に入れることを徹底させた。

などなど・・・。これが現実の一部なのだ。これを読んでどう感じます?

(この文章は、2002年8月23日に書いたもので、それを多少修正して再録したものだ。阪神・淡路大震災から10年たった今、そこから学んだ教訓が様々な分野で生かされている中、一方でここに記されたこと、あるいはこれと似たような現実は本当になくなるのだろうかと思ってしまう。この本は是非読んでいただきたいと思い、再録した。)

2005年07月15日

この2ヶ月間で読んだ本について書いた文章を一挙公開!

 ここではこの2ヶ月間で読んだ本で前のブログに書き込んだものを再録します。


ねじめ正一著『青春ぐんぐん書店』


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 昭和51年(1976年)10月29日、山形県酒田市内中心部の商店街で発生した火災は、わが国で、戦後4番目の大火となった。出火は中町二丁目映画館グリーンハウスからで、おりからの強風にあおられ、22.5haを焼き尽くす大火になり、翌30日の午前5時に鎮火した。出火以来11時間半にも及ぶものであり、市の中心部1,774 棟が焼損した。被害は、死者1人、罹災者3,300人、被害総額405億円(うち276億円が商工関係の被害)。

 以上がインターネットで調べた酒田の大火の状況である。この『青春ぐんぐん書店』(新潮文庫)はこの事実に基づいて、被災した至誠堂書店(ちゃんとモデルになった書店があるらしい)の息子拓也を主人公とする話である。元々この本を手にしたのは書名に「書店」という文字が入っていたためで、本屋さんの物語だろうと思い、読んでみたわけだ。
 物語は、拓也の高校の友人関係と至誠堂の再建とを絡めて物語は展開する。拓也の青春物語はどうでもいいような、どこでもあることで大して面白味もなかった。
 どちらかといえば、拓也の父親で至誠堂の社長の方が興味があった。この親父本当に昔いた本屋のオヤジである。「本は文化だ。本が売れる町は、文化もそれだけ高いんだ。本屋ってのは町の文化を支える大事な仕事だ」言う一方、長女になんでお店に岩波書店の本を置かないのかとやり込められる。岩波書店の本は買切なので、もし売れ残ったりすれば、返品ができないため、自分のところで抱え込むしかない。売れなければいつまでも不良在庫になる。そのため地方や地元の昔からある本屋さんでは岩波書店の本をなかなか置かないのだ。
 でもこういう本屋のオヤジって、結構いたような気がする。拓也の父親みたいに「本は文化だ」と偉そうなことを言う割には、あかぬけずに、計算高い奴って、昔の本屋のオヤジの典型ような気がしてしまう。得てしてこういうオヤジって地元の商店会の役員なんかやってたりするもんだ。
 でも子供の頃、そういう本屋のオヤジが小学○年生という雑誌を配達してくれたのだ。業務用の自転車に大きな荷2台をつけて、自宅まで来てくれたのだ。結構楽しみの待っていたのを思い出す。なんか懐かしい。
 まぁ余り本の内容とは関係ないけど、この本を読んでいて、一昔前にいた本屋のオヤジを思い出した。(2005/07/02(Sat) 05:55:44)

高橋哲哉著『靖国問題』


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 私のつたない知識だと、靖国神社に祭られているのは、いわゆる軍人だった人たちであって、一般民間人の戦争犠牲者はいないと覚えている。今回この本を読んでそれは間違っていないことを改めて確認するともに、そうであるなら、小泉首相が戦争犠牲者に哀悼の意を示し、二度と戦争を起こさないという理由で、中国や韓国の人たちの気持ちを逆なでしてまでも、靖国参拝をするのはおかしい。 高橋哲哉さんの書かれた『靖国問題』(ちくま新書)を読んでみると、靖国神社というところには、明治維新から天皇を擁護する軍隊の戦争犠牲者を神として祭っている。そして圧倒的な数として、第二次大戦の軍人であった戦没者がかなりの数を占めているという。しかしこの大戦で、犠牲になったのは軍人だけじゃない。民間人だってかなりの犠牲者がいる。たとえば広島・長崎の原爆犠牲者もそうだし、沖縄だってそうだ。それこそ各地で空襲にあって、その犠牲になった一般民間人も沢山いることは周知の事実だ。
 ところが、靖国神社はそういう一般民間人の犠牲者は祭られていない。あくまでも軍人であった、あるいは軍に関係していた人たちのみが祭られている。
 戦争相手国にしてみれば、これら軍人や関係者は、その人達が好のもうが好まざろうが「加害者」である。戦争被害を起こした「当事者」である。それら軍人や関係者の戦没者のみを祭っている靖国神社に一国の首相が仰々しく参拝するのは、耐えられないはずだ。それはあたかも日本軍を崇拝している、あるいは軍隊を奉っているのと同じ行為である。それを一国の首相が行うことは、たとえ個人的な意思であっても、小泉さんが日本の首相である以上、個人的な意思だといっても通るわけがない。そして小泉さんが靖国神社を参拝することは、日本人全体の気持ちを代表してしまうことを知るべきである。だから私は日本の首相が靖国神社を参拝するのは反対である。それは日本の近隣諸国の意思を尊重すべきという以前の話しだ。靖国神社が旧日本軍の施設である以上、今の日本国憲法下では許されることじゃないと思っている。
 では何故、靖国神社が軍人や関係者のみが祭られているのか、この著者は明確に語っている。1939年の6月号の『主婦の友』に掲載された、「母一人子一人の愛児を御国捧げた誉れの母の感涙座談会」の中で一人の母親が語っている言葉が靖国神社の存在意味を示している。
 その母親が言っている。「ほんとうになあ、もう子供は帰らんと思や、さびしくなって仕方がないが、お国のために死んで、天子さまほめていただいとると思うと、何もかも忘れるほどうれしゅうて元気が出ますあんばいどすわいな」と。 本来、戦争でなくても自分の家族が亡くなれば、悲しくてやりきれない。まして戦争に強引に取られて、その犠牲になったとなれば余計だろうし、不満が残る。その家族の悲しみを元気に変えて、家族の不満を国に向けさせないために靖国神社が存在したのだ。それを著者は「感情の錬金術」と言っている。
 明治維新から戦前まで天皇は神であった。絶対であった。その天皇が靖国神社で戦死者を名誉ある死として奉るのだから、遺族の気持ちが悲しみから喜びに変わるのも不思議じゃない。そして天皇が誉めてくれるのだから、次に続けと次の兵士を準備させる。明らかに当時の国家の意識が働いていた。だから靖国神社は国家が遺族や国民を洗脳する施設だったのだ。
 ただ私は、靖国神社を完全に否定するつもりはない。それでいい人もいるならそれはあってもいいと思っている。あくまでも過去の遺物である。問題はそうした過去の洗脳施設を一国の首相が参拝すること、軍人だけを祭っている神社なのに、戦争犠牲者を哀悼すると言って行くべきところじゃないということなのだ。
 この本は靖国神社に関係して、A級戦犯の合祀の問題、特にA級戦犯を靖国神社から切り離そうとすると政治が宗教に介入することになるので、それは憲法違反になってしまうということ。又靖国神社側も、一度神として祭られた人はたとえそれがA級戦犯であっても出来ないという主張があること。更に靖国神社の代替施設を作っても、政治の体質が変われば、第二の靖国神社になりかねないことなど、興味深い主張が表されていて、面白かった。 (2005/06/30(Thu) 05:55:44)

池田清彦著『生きる力、死ぬ能力』


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 池田さんの本を読むのはこれで2冊目である。この『生きる力、死ぬ能力』(弘文堂刊)は二部構成になっており、第一部が「死」について書かれており、第二部は、何故池田さんが構造主義的生物学のスタンスに立っているのか、インタビュー形式で説明する。ここでは第二部は専門的なので、私の手に負えない部分があるので、第一部からいろいろ考えてみる。
 池田さんの本によれば、人間は生きられても最大120歳までだという。人間はおよそ60兆以上の細胞から成り立っているが、その細胞が50回分裂すると死んでしまうらしい。詳しくは分からないけど、細胞にある染色体の先端にテロメアというものがあって、それが染色体を結んでいて、バラバラにならないようにしている。(あれ?こう書いていて、テロメアって大野さんのホームページで見たような気がする。後でよく見てみよう。)ところが細胞分裂を繰り返していると、そのテロメアがどんどん短くなっていき、最後にはなくなってしまい、染色体がバラバラになってしまい、細胞が死んでいく。しかし細胞が死ぬことによって生きる力を与えられている事実もあるようだ。アポトーシスである。
 たとえば、我々の手足には5本の指がある。しかし母親の胎内にある時は指と指の間にも細胞があって、それが計画された死(プログラム死)によって指の間にあった細胞が死んで、5本の指ができるらしい。このプログラム死をアポトーシスといい、それがあるから、今の我々の身体の形があるのだという。
 それと同様に、生物界全体で個体の死があるから、連鎖として成り立っている部分があるのだというのだ。ありえないけど、人間がかなり長生きして、なかなか死なないとなれば、新しい命が生まれる余地がなくなってしまうし、エネルギー資源もなくなっていく。生物が生きていくためには、「死」が前提なのだ。死ぬ能力があるから生きられるのだ。
 ところが人間は「死」を恐ろしいものだと思うようになってしまっている。特に現代社会は完全に「死」密封してしまっている。とにかく人のほとんどが病院という隔離された場所で死ぬ運命になってしまっていて、死ねばすぐ火葬され、骨だけになって、墓に葬られる。それこそ昔みたいに、人の死体がごろごろしていたのとかなりの違いである。
 「死」は生きるものにとって避けられない現実であっても、それを密封することによって、「死」を非現実的なものにしてしまう。そのことが「死」を逆に恐ろしいものにしてしまい、死ぬことで新しい生命の生きる余地を作っていることを考えさせない。何故そこまで「死」を密封するのか?
 池田さんは人間には「不変の自我」というものがあって、変わっていく自分をいつも対比して見ているという。死ねばその「不変の自我」もこの世から消えてしまう。それが「死」を怖いものと思わせているというのだ。そう考えること自体きっと人間が進化して脳が巨大化したためなんだろう。
 そこで「死」を恐れないために人間は次に何をしたかというと、「不変の自我が死後にもあの世にあると考えたわけです。それは宗教の起源ですね。」という。
 このあたりの考え方は面白い。なるほどと思ってしまう。生物学者ならではの考え方だと思った。2005/06/28(Tue) 05:50:46

和田誠『装丁物語』


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 インターネットでしおりのことを調べていたら、和田誠の『装丁物語』(白水社刊)にたどり着いた。その本を読んでみたいと思い、検索するが、どうも現在品切れのようで、仕方がないのでインターネットの古本屋さんから、購入する。
 この本は楽しい本であった。和田さんが装丁した本の写真もたくさん載っていて、その本たちがどのように作られていったかがよく分かる。本のカバーデザインに様々な実験が施されていることを知った。そしてここに紹介されている本も含めて、自分の本棚を見てみると、私は和田さんが装丁された本をかなり持っていることも知る。
 私は自分では本の装丁に関して結構気をつけて見ているつもりでいた。買った本は、まずは本屋さんでかけてもらったカバーを外し、更に本についているカバーも外して、本そのものを眺めるし、読んだ後も、本屋さんのカバーを外し(そうしないと本棚に収める時、何の本か分からなくなるからだ)、再度その本を見るけど、そのカバーやデザインに深く思いをはせたことはなかった。
 結局欲しい本を買ったことや、その本を読んだことだけに満足してしまっていたのである。
 買った本がどういうコンセプトでデザインされ、形作られていったかなんて考えたこともなかった。まして本の装丁者が、装丁する本を読んで(この場合ゲラというのだろう)、その内容からデザインを考え、出版社の営業方針とはざまで、ああでもない、こうでもないと、試行錯誤しながら本のデザインを考えていたとは考えもしなかった。だから、見る人が見れば、本のカバーのデザインは、装丁者がちゃんと内容を読んで、作ったものかどうか分かっちゃうらしい。
 言われてみれば、当然なことなのだが、やっぱり私はすぐ本の内容の方に興味がいってしまうので、本のデザインなど二の次だった。
 この本を読んで、本の装丁ももっともっと関心を寄せてもいいんじゃないか思った。この本のカバーはこの内容からデザインされたんだなぁと思うだけでも、もう一つの本の楽しみになりそうだ。
 ところで、この本を読んで知ったことがある。本の裏表紙にあるバーコードである。これは位置が決まっていて、上から1㎝、背表紙から1㎝のところにつけるらしい。
 ところがこのバーコードやその位置が、カバーをデザインする人にとってみれば、かなり鬱陶しいものらしい。和田さんがいうには、このバーコードは真っ白な紙に絵を描こうとしても、もうすでに何かが描かれている状態なのだから、デザインのじゃまになるというのだ。しかも文庫本だと裏表紙にはその本の解説などがあるから、結局デザインは表表紙しかできないことになっちゃうという。昔は文庫本でも裏表紙にそんなバーコードや解説などなかったから、裏表紙まできちんと一体化してカバーのデザインが出来たという。実際、私が持っている古い文庫本で、和田さんがデザインされたものを見てみると、確かに表裏一体化したデザインになっている。


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 しかし最近の文庫本を見てみると、確かにバーコードがあり、ISBNコードもあり、この本の解説などで、デザインなどするスペースがない。


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 もちろん和田さんはバーコードを否定しているわけじゃない。その必要性は認めている。認めているが、もう少しやり方があるだろうというのだ。せっかくすばらしいカバーのデザインが出来ても、バーコードがあるために、その部分が消えてしまい、台無しになってしまうことだってあるだろう。そう考えれば分からないでもない。デザイナーにとってみれば全体が作品なのだから、こだわらざるを得ないのだろう。(2005/06/25(Sat) 17:03:07)

川上健一著『雨鱒の川』


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 もう1冊川上健一さんの本を読む。『雨鱒の川』(集英社文庫)である。前回読んだ本と同じ青春小説の本だが、今回も前回同様、かつて似たような少年時代を過ごしてきた経験が、共感や郷愁を呼ぶ。確かに昔はこんな奴がいた。
 又その描写の中で、身の回りの自然もかつてはそうだったよなぁと思わせるところがいい。ありきたりな言い方をすれば、自然が豊かであった。その為かここに書かれている時がゆっくりと流れているように感じられ、登場人物達がやさしく思える。あるいはものすごく素朴である。だから昔の人のつきあい方は良かれ悪しかれ、人のぬくもりがあった。
 主人公の心平は川で魚を捕ること、絵を描くことが大好きな少年で、近所にある川が、家にいても、学校にいても気になる。そして心平の側にいるのが小百合であって、2人はいつも一緒だ。彼女は耳が聞こえない。その為しゃべるのも上手くできないが、心平は小百合が何が言いたいかわかる。だから2人は会話が出来る。自分たちの描いた絵を見ながら、話し、笑えるのだ。
 ある日心平は川で大きな魚を見つける。雨鱒である。心平はその雨鱒を突いて捕ろうと、秀二郎爺っちゃに大きなヤスをもらい受ける。心平は川に潜って雨鱒を見つけ、捕ろうとするが、雨鱒は心平のまわりにじっとして、逃げない。何度も心平は雨鱒を見つけ、捕ろうとするが、雨鱒は心平のまわりから離れない。そのうち心平は雨鱒を突いて捕ることが出来なくなり、その雨鱒と川の中で話しをするようになる。それまで川に行き時はヤスを持って出かけるのが、それを持たず、雨鱒と話しをするために川に潜るようになる。それから心平の絵は沢山の雨鱒の絵になり、その一枚がパリの国際児童画展の特賞を受賞する。そのお祝いにみんなが集まり、その日の夜に母のヒデが死ぬ。ここで第1部が終わる。
 第2部では1部にあった、少年時代の淡く、素朴なトーンでの描かれ方と違い、厳しい現実を心平に突きつける。
 18歳になった心平は小百合の父が経営する酒造会社で働くが、相変わらず絵を描くことが自分の人生で最大の楽しみであった。母と暮らした家はアトリエとなり、そこへ小百合が食事を持って訪れる。川は開発のため荒れてしまい、もう魚が少なくなっていた。
 小百合の父親は心平に絵の勉強をさせるため、東京の画家の元に半ばやっかい払いするかのように勧める。しかし、絵の勉強をして画家になることは考えられても、心平は小百合と離れて生きることが出来ない。荒廃したといってもこの川と離れられない。小百合に父親を裏切ってもここにいることを決意する。
 しかし、小百合に結婚の話しが進むと、小百合とだけは離れて生きられず、小百合を奪ってこの川のある村から2人で離れていく。
 前に読んだ本と比べてしまうと、私は前の本の方が上手くできていたと思う。ただ、前の本の描き方の片鱗がここにある。だから悪くはなかったがもの足りなかかった。
 それにしても、心平が川で見た雨鱒が笑った絵はどういう絵なのだろうと本当に見たいと思った。 (2005/06/20(Mon) 05:13:36)

川上健一著『翼はいつまでも』


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 前に読んだ川上健一さんのエッセイを読んで、10年間のスランプ後に書かれた小説を読みたいと書いた。それを読んでみる。
 『翼はいつまでも』(集英社文庫)はバリバリの青春小説である。青春小説を読むのは本当に久しぶりだ。
 青春小説って、自分たちにもこんな時代があったよなぁと思わせる、郷愁みたいなものを感じさせてくれる。今にしてみれば馬鹿げていて、どうでもいいことにこだわってみたり、甘酸っぱい、そんな感じだ。
 主人公の神山久志はうだつの上がらない中学校の野球部員、ある日米軍のキャンプ地から流れるビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」をラジオで聞いてから、その曲が頭から離れられなくなり、今まで引っ込み思案であったのが、だんだん積極的に生き始めようとする。それを後押ししてくれたのが、ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」であった。その曲が「もっと自分らしく生きようよ」と言ってくれているように思えたのである。
 一方お相手の斉藤多恵はお父さんの仕事の関係で、一時イギリスにいたことがあって、英語がペラペラで、ピアノや歌が上手い。けれどそのことがかえって目立ってしまい、いじめにあう。更に交通事故で両親を失い、自分も顔や身体に傷を負う。それで久志のいる中学校に転校してきた。学校では自分の顔の傷が目立たないようにいつもうつむき加減で、目立てば又いじめにあうと思い、勉強できないふりをして過ごしていた。
 そんな多恵に久志が「もっと自分らしく生きようよ」と自分を表に出して生きていくことを勧める。そうしているうちにお互い気持ちがひかれていく。そして定番の別れ。
 話としては青春小説っていうのは、こんな感じで、単純だ。でもそれがかえって素朴で、郷愁を誘ってくれる。素朴だからこそ、感動させてくれるところもあるわけだ。しかもそれは読む側の琴線ふれるものだから余計だ。
 実は、最後に多恵が黙って久志と別れようとするのを、久志が追いかけて行く時、そしてどうして黙って久志と別れようとしたかを涙ながらに言う多恵の姿。更に汽車に乗った多恵を追いかけてホームを走り、大声で泣き崩れる久志の姿を想像して、うるうるとしてしまった。あまりも定番中の定番の展開だけど、本を読み進んでいるうちに、私はいつの間にか野球部員、クラスメイトになっていたのかもしれない。
 おっと、ハードボイルドに生きたい自分としては、あまり青春小説に感動していてはいかん!と思いつつ、読んでしまった。 (2005/06/16(Thu) 09:56:09)

柳田邦男編『阪神・淡路大震災10年』


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 この本は岩本町店が閉店するに当たり、売れ残った岩波新書を100円均一で処分するので、その前に読みたい本があれば買っておいてくださいと岩田さんに言われ、買った本である。
 阪神・淡路大震災は平成7年1月17日午前5時46分に起こった。地震の規模はマグニチュード7.2。死者は6,432人、地震による住宅の被害は512,882棟、地震に伴う火災は7,483棟、罹災世帯9,017世帯であった。(消防庁災害対策本部「阪神・淡路大震災について」による)
 それから10年主に神戸の町はどのように復興してきたか、震災後から復興までの間どんな問題があったのか。そしてここで学んだ教訓は次にどのように生かされたのか。地域の人たち、ボランティア、NGO、NPOなどがどのように復興に関わってきたのか。それらの記録である。
 それにしても国や地方自治体が行う復興というのは、人が生きることがどういうことであるのかを無視したものであるかよく分かる。そもそも震災直後の対応さえひどかった。あの少年Aでさえ、当時の村山首相を殺すかもしれないと言わしめたほどのものだから、さもありなんと思う。
 家屋が倒壊した人たちに仮設住宅を作るに当たり、今まであった地域のつながりを完全に無視してハードの面だけ供給すればいいという考え方は、その後起こる仮設住宅や恒久的な復興住宅での老人の孤独死が後を絶たなかったのが物語っている。(98年31人、99年38人、2000年から4年間で251人、復興公営住宅で6年間に320人に達している)いかに人間は人とのつながりが必要であるか、いいにつけ悪しきにつけ思い知らされる。
 そこで地域の住人、ボランティア、NGO、NPOなどが人とのつながり、コミュニケーションを重視した復興の取り組みをしていく。国や地方自治体がハードの面しか面倒を見てくれないなら、自分たちがソフトの面で復興を考えようという姿勢である。
 しかしこれらの人たちが手を取り合って、復興に取り組む中で一方で、美談ばかりじゃないことも忘れるべきじゃないだろう。むしろ震災後に起こった陰の部分がこの国の醜い部分として、又システムとして不備な部分を露呈した。自然災害が人災を生む。「災害というものは、地域社会がかかえている弱点や災害弱者を冷酷までにねらい撃ちする形で襲うのだ」
 私は今ある「新・頁の背後」の前に書いた「頁の背後」で、阪神・淡路大震災後に起こった陰の部分を書いた本を紹介したことがある。今回この本を読んで再度収録してもいいかなぁと思い、再度校正し直して次に紹介しようと思う。 (2005/06/14(Tue) 12:00:41)

長部日出男著『二十世紀を見抜いた男』


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 学生時代マックス・ウェーバーの『都市の類型学』、『古代社会経済史-古代農業事情』は卒論で必要なので読んだのだけれど、ウェーバーの代表的著作、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んでみたいと思っていた。しかし、いきなりこの論文を読んでも今じゃちんぷんかんぷんだろうから、まずはジャブで、入門書から入ろうと思い、長部日出男さんの『二十世紀を見抜いた男』(新潮文庫)を手始めに読む。
 私は、ヨーロッパ絶対主義の時代から、次に時代にリーダー的存在で時代をリードしていくイギリス、オランダ、アメリカなど、いわゆる資本主義が育まれていった地域がカトリックにどっぷりつかった地域ではなく、プロテスタンティズム、特にカルヴァンの提唱したカルヴァニズムに帰依した人々がいる地域であったとするウェーバーの考え方に以前からものすごく興味があった。
 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にそのことが書かれていて、読まなくても、何故ウェーバーがそう考えたのかは知っていた。
 カトリック教会がその国の国王を決めるのに絶大な影響力を持ち、教会が世俗的で、封建領主みたいになっていく中で、教会内の腐敗も進んでいく。そこでルターやカルヴァンの宗教改革がはじまり、いわゆるプロテスタンティズムが生まれていく。
 プロテスタンティズムは勤労と倹約を勧め、そのことは必然的に富を蓄積し、資本の形成を促す。そしてその資本を本投下し、更に富を蓄積していく。これはまさに資本主義であるが、一方でこの行為は奢侈や消費を否定するプロテスタンティズムに反するんじゃないかと思っていた。
 しかし長部さんこの本を読んで、これらの行為はプロテスタンティズムがいうところには何ら反しないことを知る。つまり、カルヴァニズムは、「神のために人間が存在するのであって、人間のために神があるのではない」とし、「カトリック教会の腐敗に気がついた彼がしたことは、ただ教会制度を破壊することでも改良することでもなく、個々人の魂のあり方を変えることであった。すなわち、自分中心の、行為中心の生き方から神に中心を置く生き方に変わることによって、一切のものの見方を変えてしまおうとする、意識改革であった」のだ。そしてその神が望むことは、神のために働けということであり、労働が禁欲の手段となるのはヨーロッパの修道院で証明済みということなのだ。ここで初めて「世俗的職業を、神から与えられた天職」と考えるカルヴァニズムの諸性質が生まれてくる。
 だから、一件矛盾するように思えるカルヴァニズムは初期段階では何ら矛盾しない。労働すること、財の蓄積は神が望むことであって、その機会を逃すこと自体が神の教えに反することになるのだ。
 しかし、この神の教えは、功利的な現世主義に取って代わられるのは時間の問題であった。今現在の資本主義が功利的な現世主義に陥っているため、又その世界に生きている私達だから、カルヴァニズムはキリストが唱える「禁欲」から矛盾すると感じるのだ。
 この本はマックス・ウェーバーの評伝となっているため、ほとんどの部分が彼の生い立ちに重点を置いているため、かなり退屈な本であるが、後半は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の成り立ち、考え方の解説がやっと出てきたので、最後まで読み通せた。 (2005/06/13(Mon) 10:15:11)

山田真哉著『さおだけ屋はなぜ潰れないのか』


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 できる、よくわかる、図解、超図解等々、いわゆる入門書、マニュアルは数々ある。何もそれはパソコンだけじゃなくて、会計に関しても同様だ。これだけ種類があるということは、どれを読んでも結局読む側に満足を与えてくれないということじゃないかと思うのだ。
 この山田真哉さんの『さおだけ屋はなぜ潰れないのか』(光文社新書)は題名だけだとなんの本だか分からないが、会計の入門書なのである。ただ入門書といっても、会計用語を身近な事例で説明する会計の入門書の入門書といった感じであろうか。
 たとえば書名にもなってさおだけ屋は軽トラにさおを積んで、「さお屋、さおだけ~」とスピーカーから流して、ゆっくり走っているが、山田さんの言うとおり、「子供の頃から一度もさおだけ屋からさおだけを買ったことがないし、また、買っている人を目撃したことも、買ったという話を聞いたこともない」なのにこの商売が成り立っているのは何故なんだろうということからはじまる。
 ここで山田さんは2つの仮説を立てる。「①さおだけ屋は、実は売り上げが高い②さおだけ屋は、実は仕入れの費用が低い」である。①の売上が高いは、さおだけでなく、たとえば物干し台とか結構ぼったくって商売をしているということのなるが、どうやら正解は②の仕入れの費用が低いから成り立っている商売であるようだ。
 つまりさおだけ屋は近所の商店街の金物屋さんで、自宅まで配送を頼まれるから、そのついでにさおを売っているらしい。さおだけ屋だけという商売は実はないのだ。本業のついでに副業としてさおだけ屋があるのだ。
 こうなると、諸経費は本業から回せるし、仕入れも本業からだから、さおだけ屋でしか考えなければ、仕入れゼロということになり、売れた分だけが儲けとなる。
 これをふまえた上で、ここから会計の説明に入る。ゴーング・コンサーン(企業が存続していくこと)のためには、利益を出さないといけない。その為には売上を増やすか費用を減らすかで利益を出していくという説明をしていくのだ。
 ところが売上を増やすことが簡単じゃないこのご時世だから、そうなれば費用を減らして利益を出していく必要に迫られる。それは一般家庭においても同じことをしているんですよと話を続けていく。つまり企業が費用を減らして利益を出していることは、家庭において節約しているのと同じだということなのだ。う~ん、確かに。
 こんな感じで、身近な例から、会計を説明していく。やり方としてはうまいのかなぁとは思うが、(だから40万部のベストセラーになっているのだろう)毎日経理をやっている私には当然物足りない。 (2005/06/02(Thu) 05:20:29)

川上健一著『ビットウィン』


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 ある大雪の日、おかずのために魚釣りに行くべきかどうか悩んでいるときに奥さんが遭難するからやめなさいという。それを聞いたヅキちゃんが「そうなん、ってなに?」と聞く。それに対して奥さんは「災いにあうこと」と説明する。ヅキちゃんが「わざわい、って?」と聞く。奥さんは「災難にあって大変な目にあうこと」と説明する。更にヅキちゃんが「さいなん、って?」と聞いてくる。この後の奥さんの説明が最高である。
「災難というのはねえ、うーんとね、お母さんがお父さんと出会ったことが災難。それで騙されて一緒に暮らすことになったお母さんの苦労の毎日が遭難。分かる?」
 これには笑った。勿論これはヅキちゃんにいった訳じゃなくて、川上さんに当てつけに言ったことだ。
 冒頭からこんな感じで始まるので、この本はおもしろそうだと思った私の感が当たった。 川上健一さんの『ビットウィン』(集英社刊)は川上さんが作家としてデビューしてから、体調を壊し、八ヶ岳の南麓にある古い民家に住み、作品を書かず(書けず)、新しい作品が書き上がる10年間をそこでの生活を奥さんと愛娘の紗月ちゃんと3人の生活を描いたエッセイである。
 作家が作品を発表しないのだから、当然生活も苦しくなる。「貯金はとうの昔にすっからかん。生命保険はとっくの昔に解約。自給自足といえば格好がいいけど、お金がないのでおかずを釣ってこなければならない」川上さんが言う「手元不如意」の生活なのだが、仕事をしない分時間がある。お金がない分、何でも自分たちで作り、釣りをしておかずをゲットしてくる。こんな時間を家族と過ごせば、必然的に家族の絆は強くなる。夫婦の会話が多くなる。村の仲間とも楽しいつきあいができる。

 ある日ヅキちゃんからシュノーケルを貸してくれと言われ、何をするのか見ていると、画用紙に海の絵を描いて、シュノーケルを付けてそれを見て遊んでいる。ヅキちゃんを連れて海にも行けない家計の状態だったのだ。しかしヅキちゃんは頭を働かせて海に行っている雰囲気を海の絵を描いて、シュノーケルを付けて楽しんでいるのだ。
 奥さんがそれを見て、もっと大きな海の絵を描こうと提案し、親子揃って絵の海を楽しむ。海にはやっぱりビールだと言って冷蔵庫に1本だけあるビールを夫婦で飲む。ここでの奥さんの一言がいい。「ウーッ、冷蔵庫がガラガラだとよく冷えるねッ。おいしいッ」と。
 この後ヅキちゃんに本物の海を見せたいということで、奥さんはフリーマーケットにハーブやブラックベリーの苗やそこいらに咲いているコスモスを苗として、又川上さんの持ち物も出品し、2万円ばかりを捻出し、ヅキちゃんを海へ連れて行く。この後ディズニーランドに行くにもこの手を使って、軍資金を捻出する。
 又奥さんが会社にいたときの同期会があって泊まりで出かけるているとき、ヅキちゃんは気丈夫に振る舞うけど、奥さんが帰りたいと言ってすぐ帰って来ることを伝えると、ポロポロと大粒の涙をこぼし「ヅキちゃん、超うれしい」と泣きながら言う。そして朝になればお母さんがいるからと言ってもなかなか寝ない。川上さんはそんなにうれしいなら駅のホームまでお母さんを迎えに行こうとヅキちゃんを連れていく。
 改札で入場券奮発して買おうとしたら、駅員さんが「お母さんのお迎えですか?」と声をかけてくれ、「どうぞ。入場券はいいですよ」言ってくれる。その駅員さんに川上さんは「心の中で深々と頭を下げた。あたたかなうれしさが身体に充満した」と書く。ヅキちゃんはダッシュして電車から降りてきたお母さんのところへ行く。

 お金はないけど、大自然の中、家族と仲間達と過ごすうちに、身体の調子が良くなっていく。そんな中、「小説読んでも、映画やドラマを観ていても、感極まって涙をポロポロこぼすとか、ストリーやセリフに感動するとか、泣いたり笑ったり怒ったりとか、何度もそういうことを繰り返しているうちにさ、物語というのはすばらしいものなんだと思えてきたんだ。時には、もっとこうすれば面白いのにとか、ここの場面ではこういうセリフの方が決まるのにとか、俺ならこうするなあとか思ったりしてさ。それでハッとしたんだよ。俺は本当に物語が好きなんだって。なんのことはない、本当にやりたかったことは、実は俺のすぐ側にずっと寄り添ってくれていたんだ。物語をつくるということは、これはこれですばらしい仕事のひとつなんだとやっと気がついた。それで本当の”小説家”になろうとつい最近決心したんだ。」こうして川上さんが10年かかってやっと新しい小説を書き上げた。
 その小説が書き上がったクリスマスの日、川上さんが夜更けにトイレに起きたとき、奥さんがその原稿を読むのではなく、その原稿の束を見ながら目に涙を浮かべ、涙が次々に落下していくのを見てしまった。
 このときは私もうーんとなってしまった。川上さんは「その涙は連れ合いが好きな小説が書けてよかったという涙なんだろうか、それともこれでやっと好きな買い物ができるといううれし涙なんだろうか、と考え続けた。」と書く。多分両方だろう。決して玉虫色の結論じゃないように私には思える。そんな10年もかかって書いた川上さんの小説を読んでみたくなった。 (2005/05/31(Tue) 05:30:54)

阿部謹也著『阿部謹也自伝』


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 私は確か平凡社が企画した阿部さんのセミナーに一度出たことがあって、阿部さんとお会いしたことがある。この時はハーメルンの笛吹き男について話されたのではないかと思う。このセミナーはある意味私にかなりの衝撃を与えた。
 というのも、その時まで私の中にあった「歴史」とは、誰がいつどこで何を何故どのようにしたという、いわゆる受験勉強的な5W1Hであって、所謂教科書に出てきた「歴史」であった。そこにはときの権力者が何か政治的事件などをいつどこでどんな理由で起こしたのかしかない。つまりその時生きていた民衆の姿はまったく見えてこないのだ。阿部さんの「歴史」は各地域の民衆の生活、職業を浮かび上がらせていた。それ以来私は阿部史学のファンになり、新刊が出るたびに、購入し読んできた。
 この本は自伝とある通り、自身の自伝で、以前小樽商科大学の教授時代のことを別に『北の街から』という本で書かれている。今回の『阿部謹也自伝』(新潮社刊)は生まれたときから、現在までを自身で振り返って書かれている。
 私は阿部さんが提唱する「歴史」はリュシアン・フェーヴルやマルク・ブロックたちが提唱したフランスのアナール学派の影響を受けられたのだろうと勝手に思っていたが、どうもこの本を読んでいると違うようである。たまたまその手法が似ていたというだけであって、そのたどってきた道筋は完全に違うことが分かった。
 幼少時代の修道院生活、そこで初めてふれたキリスト教の精神、大学時代、そしてドイツ留学で「ドイツ騎士修道会」の研究を進める。オステローデのサッセン地方の文献を読んでいたときに、「この地方にハーメルンの笛吹き男に率いられた子供達が入植した可能性がある」という文献を発見する。そこからハーメルンの笛吹き男の研究が枝分かれのように始まり、笛吹き男がヨーロッパ中世では差別された存在であり、何故差別されたのかに波及し、笛吹き男以外の職業で差別される職業は何であったのか、ヨーロッパの賤民思想に研究が及ぶ。
 その一方で、ヨーロッパと日本の違いを留学体験から、あるいは帰国後の様々な体験から、日本における「世間」を考え始める。それらの研究の流れが阿部さんは自伝を書くことでつづっていく。
 後半の一橋大学の学長選挙における、その選出方法めぐる文部省とのやりとりは退屈であったが、大学における自治は、まるでヨーロッパ中世後期に大学が生まれた時のように、学生達が大学で自分たちの自治を確立していったのに似ている感じを受けた。 (2005/05/28(Sat) 23:08:27)

藤代幸一著『記号を読む旅』、『もうひとつのロマチック街道』


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 藤代幸一さんの本を続けて読んでいる。もともと藤代さんのことを知ったのは、藤代さんが訳した『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』というドイツ中世の民衆本がきっかけであった。この民衆本の訳者が書いたエッセイ、紀行文ということで以前買っておいた本を今読んでいる。
 『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』に関しては、いずれきちんと書きたいと思っているが、今読んでいるのは、『記号を読む旅』、『もうひとつのロマチック街道』(いずれも法政大学出版局刊)である。
 藤代さんのことは詳しくは存じ上げないが、これらの本から察するにドイツ文学者か言語学者のようである。しかも日本ではメジャーじゃないけど、あちらでは一般的に知られている本を訳されているようだ。でもどちらかといえば専門的な文献の訳が多いのかもしれない。
 これらの本は写真など各ページに配されているし、藤代さん自身あとがきで自分でデザインした旅にからめて、ささやかながらも自分だけのプレタポルテを織りたいと念じながら旅をされていると書かれているが、やっぱり専門的なのでちょっとぴんとこない。
 ただこの2冊では自分が訳された本を元に、その本の登場人物を巡る旅を楽しんでている雰囲気はよく分かる。こうしてヨーロッパの片田舎を旅されるのは楽しいだろうなぁと思う。しかもその旅もちょっとした予備知識(藤代さんの場合はかなり専門的だけど)があれば、更に楽しめるのだと教えてくれる。ある意味、そうした旅をヨーロッパでできるのがうらやましい。
 私には何だか藤代さんのヨーロッパの旅は「巡礼」にも思えるし、しかもそれを楽しいんでいるように思えた。(2005/05/24(Tue) 20:30:04) 

2005年07月14日

福田みどり著『司馬さんは夢の中』

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 著者は司馬遼太郎さんのご夫人である。1996年(平成8年)2月12日に司馬遼太郎さんは亡くなられた。その後一人残された夫人は、亡き司馬遼太郎さんを偲びつつ、大切な人を失った後、周りの人達に助けられながら「喪の回復」に努めていく。ご夫人はその人達を感謝しながら、その人達との交友を描き、司馬さんとの思い出も書いていく。
 しかし、その友人達も司馬さんや奥様と同年代なので、「こうして、いつか逢いましょう、と楽しみにしていた人が、いつのまにか何人も消えてしまっていて、年経るごとに寂しさだけが深くなってゆく」日々が続いてしまう。
 こういうのってあるますよね。たとえば、私達の年代だとちょうど今頃は自分たちの親が死んでいくのが世代で、誰々のお父さんやお母さんが亡くなられたとよく聞く。仕方がないとはいえ、余りいい話じゃない。
 だから司馬さんとの交友があった人達が消えていく悲しみは、ご主人を亡くした後だけに堪えるだろうなあと思う。そんな気持ちを夫人は状況を説明しながら、一方でカタカナで自分の悲しい心情を表していく。それがさも悲しいといった感じを醸し出している。このあたりは面白い表現の仕方だと思った。

2005年07月13日

関川夏央著『司馬遼太郎の「かたち」』

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 司馬遼太郎さんが死の直前まで書いていたものが『街道をゆく』と『この国のかたち』であった。この本はこの『この国のかたち』がどういう背景で書かれたのかを司馬さんが原稿と一緒に送ってくる手紙と当時の文藝春秋の編集者の話を元に、関川さんが詳しく描いていく。
 『この国のかたち』は1986年(昭和61年)から1996年(平成8年)の10年間、司馬さんがこの国のゆくえを憂いたエッセイであり、何故そうなってしまったのか、司馬さんの歴史的考察が書かれたものである。この間昭和から平成に変わり、国内外、今まで日本が経験したことのない、様々な出来事があった。しかもその出来事は、皆が歓迎する出来事ではなく、不安と恐れを醸し出す出来事であった。それらを司馬さんは日本が持っていた歴史的背景から考えていくものであった。
 関川さんの『司馬遼太郎の「かたち」』(文春文庫)を読んで、改めて司馬遼太郎さんが、晩年何故小説を書かなくなったのか(実はこれが昔から不思議だったのだ)その一端が分かったような気がする。このことはいずれ別に書いてみたいと思っている。(実は途中まで書いて、行き詰まっている)
 司馬さんは幕末から日露戦争までの人物を膨大な資料・史料を読み込むうちにその人物と「友達」になり、あるいはその人物を見つめる「女性」となって、魅力的な作品を作り上げてきた。その作品の背景は「江戸文化の残光に照らされ、それゆえからくも品格を保ち得た明治」であったし、時代そのものが「青春」であった。そしてその時代に生き抜いた竜馬や土方歳三、秋山兄弟の「青春」を司馬さんは描いた。だから司馬さんが描く歴史小説は巨大な青春小説だという考え方は示唆に富んでいる。
 こうして書かれた作品にはそこに描かれた人物に当然思い入れがあったはずだ。だからこそ彼らが自分の人生をかけて作り上げていったものを、彼らの末裔達が、全く異なった歴史に変えていってしまったことに大きな不満を司馬さんは持ったのに違いない。そこから司馬さんの国を憂う気持ちが生まれ、『この国のかたち』という作品が生まれたのだ。

2005年07月12日

前口上

 ここでは今まで私が読んできた本、最近読んだ本について、個人的意見を書こうと思っています。又、本だけじゃなくて以前に籍を置いていた出版界、特に書店に関係したことがあれば、それも書ければいいなあと思っています。
 今まで何回かホームページを作り替えてきて、その都度読んできた本のことなど書いてきましたが、新しいホームページが出来る都度、切り捨ててきました。勿論拙いものだからそれでいいと思っていました。でもそれでも自分が読んだ本で、何かを書いたわけですから、それなりに考えがあったのではないかと思うようになりました。だから今、改めて残してもいいんじゃないかと考えています。
 ですから、最近読んだ本だけじゃなくて、以前読んだ本のこともここで復活させていきたいと思っています。
 ここでは純粋に本や書店について書き込んでいく予定です。そのため本を読むという行為をしなければなりません。別にそれは私個人苦痛でも何でもないことなのですが、元々本を読むのに時間がかかる上に、こうして文章として表すのに、ものすごく時間がかかる人間なので、書き込みにはかなり間隔が開くと思います。のんびりとやっていくつもりでおりますので、もしお付き合い頂けるなら、気長にお願いしたいと思います。
 又以前書いた文章は、改めて推敲して随時掲載していきます。その文章は掲載した日付になりますが、文末で初回掲載日を書くことで、それは古い文章だと分かるようにしていきたいと思います。
 とにかくこうして器が出来ましたので、スタートさせることにします。