2005年08月31日
寂しい時代
読んだ本
『鉄の花』 小関智宏著 小学館 (2003年)
『春は鉄まで匂った』 小関智宏著 筑摩文庫 (2004年)
小さな町工場を経営する北原親子が機械の見本市に来る。北原親子にしてみれば、ここで工場の機械を買うことはかなりの冒険であり、当然慎重になる。しかし北原は展示された機械を売り込む営業マンに、その機械がどんな機能を持っているかを見るのではなく、「この機械はどれだけ使えるのだ?」と聞くのだった。
水越にも同じように聞いた。そこで水原は自分が作った機械に自信を持っていたので、はっきりとその質問に答えた。それを聞いた北原は言う。
「これまでにな、俺はいくつかのメーカーの展示場で同じ質問をしたのさ。ところが返ってくる答えはみんな同じさ。十年とか十五年と答えながら、そのあと必ず言うのさ。お客さん、いまどき十年も十五年もひとつの機械で仕事を続けようなんて、時代遅れですよ。それよりも、どんどん稼いでもらって、また新しい機械を導入する時代です、ってね。五年後には、もっと新しい機械が出ますってね。俺は、それが気に入らなかったんだ」
水越のところで機械を購入することを決めた北原親子は、それまで他のメーカでもらったカタログを全部そこに置いて帰っていく。
それから、この機械を通して、北原と水越は最後までつながりを持ち続ける。 水越が機械のメンテナンスを北原から依頼されたときの2人の会話で、この機械がいい時代に作られたものであること、そしてそのことが今の時代の風潮にそぐわないことを知る。
「コンピュータの制御装置を別にして、機械本体だけを見たらね。最初に作ったこの機種が一番よくてね。構造もしっかりしているし、部品ひとつひとつも、よく吟味して作ってあって。それに較べると、最近の機械は」
「厚化粧だよな。このごろの機械は、どこのメーカーののを見ても、華奢だもの」
「やっぱり、見抜かれていた。ほら、十年前に見本市で。同じ質問をいまされたら、自信を持って答えられない」
「十年どころか、五年で新しい機械に買い換えろ。それでじゃんじゃん稼げばいい。そういう時代なのだろう。いまはすっかりな」
「うちの会社もね。そんなふうになってきて、なんだか寂しい時代になってきたと思う。金儲けが先でね。とっても大事なものが、どんどん手のなかから逃げていく気がして」
一昔前の機械は、いや、製品は何でも丈夫であった。だから壊れても修理すれば、長く使えた。たぶん作る側も自信を持って作っていたからだろう。当然使えば使うほど愛着が出てくる。だから、北原が工場を閉鎖するときに、故障した機械をそのままにして工場を閉鎖してもいいものを、わざわざ水越を呼んでその機械を直してもらうのだ。北原の父親がそのことに皮肉を込めて言う。
「しょうがないのは、どこのどいつだ。売れないどころか、反対に、スクラップに解体するには処分代を払えって、スクラップ屋にそうまで言われた機械をだ。どこのどいつが、銭かけて修理するかって。まるで泥棒に追銭というものでねぇかい」
それに対して北原の答えがいいのだ。
「二十年間も働いてくれた機械だものね。故障したまま放り出すなんてことは、俺にはできないんだ」
この作品は『鉄の花』の「二度咲」である。こういうことが言えた機械がちょっと前まで作られていたのだ。最後の最後まで面倒を見てしまうほどの愛着がある機械を・・・。なんでもかんでも壊れたら新しいものに替えてしまうことになれてしまった私達に「それでいいの?」と問いかけている気がしてしまった。
『春は鉄まで匂った』は小関さんのルポで、ものづくりに生きる町工場の人々を取材する。そこで、工場で働く人が言う。
「うちのような工場は、高度成長期に入ってからの方が、仕事がやりにくくなりました」と。
著者はそれに対して、「大企業を中心に、より早く、より新しいものをつくろうとする志向が業界を支配した。わたしのように下請の町工場ばかり歩いた者にも、それは実感された。
段取りや工具の工夫をするゆとりがない。そんなことで時間を費やすより、市販のものを買った方が手っとり早い。分業の細分化が進むにつれて、旋盤工はバイトをつくらず、研がず、ただ機械を操作してひとつでも多く削ることだけを要求される。人間が機械の附属物に変えられて、仕事がますますつまらなくなる」と付け加える。
更にその人はこうも言う。
「ものをつくって生きていながら、つくるものの値段を、つくる者が決められない世の中になった。流通業者が決めた値段で、むりやり押し込められてしまう」と。
高度成長、バブル期に私達はとんでもないことに夢中になり、効率と消費で、「もの」を大切にすることを忘れてしまった。「もの」を作った人がそれに正当な値段が付けられず、安いことが重視されてしまう。そのため製品そのものが粗雑になって、更に消費を促す結果となってしまう。5年も持ってくれれば御の字なんてことになってしまった。
手間暇かけていいものを作っても、コストがかさむため、売れない。又しっかりとしたものを売ってしまうと、次の新しいものが売れなくなってしまうから、適度に壊れることを前提とした物作りをする。だからいいものを作るところはつぶれていく。熟練工を必要としなるし、本格的な技術者も多くはいらなくなる。そのことは人件費の安い東南アジアや中国で製品を作らせることを可能にする。 一方使う側も、「もの」を大切に使うという、意識を失なっていく。壊れたら、すぐ新しいものを買えばいいと考えるようになってしまった。そうすることでどんどん消費させられているのだ。
そしてこのことは「もの」だけに限らず、そういう意識を「人」にも当てはめ、「人」でさえ、消耗品扱いされる時代になっている。
そんな中、ひたすら頑固に「もの」こだわり続ける人たちがいて、こだわり続けるからこそ、こういう時代で苦しんでいる人たちがいることを知らされる。
(これは2004年7月3日に書き込んだものを残しておきたかったので、多少校正して再度掲載しました)
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- by kmoto
- at 21:01
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