2005年08月10日
飯塚訓著 『墜落遺体』、『墜落現場 遺された人たち』
先日買った本、飯塚訓さんの『墜落現場 遺された人たち』(講談社+α文庫)を読む。読み終わって、飯塚さんには、もう1冊著作があることを知り、慌てて『墜落遺体』(講談社+α文庫)を購入し、続けて読む。従って、前後が逆になった感じで、飯塚さんの本を読んだことになる。
私は1985年の8月12日に起こった日航機墜落事故に関する本は結構読んできた。だいたいが事故後それほど時間がたっていない時期に書かれたものであった。そしてそれらを書いたのは、ジャーナリストやノンフィクション作家、あるいは新聞社の記者で、いわば、関係者を取材して書かれたものであった。
事故当時書かれた本は、その事故が何故起こったのか、原因究明をする一方、事故現場の悲惨さを描写することで、読む側に恐ろしさを植え付けるばかりだった。その為ショッキングな事故現場のことを強調するしかない本ばかりになった。又そのことで新鮮さを強調していたような気がする
最近は事故から時間がたって、事故に直接関わった人達が語り始めた。私も当時の群馬県警の日航機事故対策本部長であった河村一男さんが書いた本を最近読んだ。
著者は当時、日航機墜落事故の犠牲者の身元確認班長であった。最初の著作、『墜落遺体』には、遺体確認現場の悲惨な状況は我々の想像を絶する世界である。
犠牲者520人の遺体が完全な形で収容される訳じゃない。「これが人間なのか」「人間であったのか」という遺体、所謂「離断遺体」を前に、著者を含め、警察、医師、看護師などが検死に立ち合っていく。いや、遺体じゃない、もう肉の塊でしかなく、しかも焼け焦げて炭化し、蛆がびっしりとこびりついている状態なのだ。検死に当たった人たちの人生観を変えてしまうほどのものであった。
そんな中で、遺体や遺体の一部を特定していくわけだが、その遺体を特定する場所が報道陣を遮断する為に、窓を締め、カーテンを引いた状態の体育館なので、温度が40度近くなり、しかもものすごい死臭と線香のにおいが入り交じっていた。そんな劣悪な環境下で遺体を特定していかなければならなかった。
しかもそこには突然家族を失った人たちが、遺体を前に泣き叫び、絶叫する声が響き渡り、日航職員や警察に罵声や怒号をあげる声も加わる。そこにはかなり難しい人間関係があっただろうと思われるし、よかれ悪しかれ複雑な人間模様を見ないわけにはいかなかった立場だっただろうと思われる。しかも検死する側の人間だって、無惨な遺体を見れば、涙も出てきてしまう。特に子供の頭のない遺体など見てしまったら、大声で叫びたくもなるだろう。「班長!また子どもじゃあねえかよ。俺は子どものはもう嫌だよ。なぜ俺んとこばっかり子どもなんだよ」と。
『墜落遺体』にはやっぱり関係者しか経験できないことがたくさん描かれており、今まで読んできた本とは当たり前だけど違っていた。
この日航機には外国人も搭乗していて、事故の犠牲となっている。ところが検死が終わり、身元が特定され、家族に連絡すると、「娘は神さまのところに召さて幸せです。肉体は一緒になくなった人ともに、埋葬してください」「遺体はそちらにおまかせします」「飛行機が落ちた場所に埋めていただいてもいいし、荼毘に付してもいいです」「息子は死んで神に召された。死んだことがわかったので、死体はもち帰らなくてもいい」と言い、涙を流しながら「日本の警察は親切だ。息子をこれほどまで大事に扱ってくれてうれしい」と何度も礼を言いながら帰っていったという。そこにはデス・イズ・デス、つまり死は死である。もらっても生き返ってくるわけじゃない。魂は神のもとに召されたという考え方になっている。
このあたりは日本人とは全く違ってくる。いいとか悪いとか言っているのではない。宗教観の違いや文化の違いがそうさせるのだろうが、日本の遺族は、遺体が完全な状態ならともかく、バラバラになってしまった遺体を必死に探し集め、できる限り生前のかたちに近い状態に戻してあげようとする。だから遺族は必死になって欠けている遺体の一部を探し求める。 ほぼ完全な状態の遺体であっても、たとえば右腕がなかったりすれば、遺体を清める看護師などは段ボールなどで、右腕を作って、全身がきちんとある状態にしてあげたりする。死後も不自由なくしてあげたいという気持ちがそこにはある。死は死だ。死んだことが確認できれば、魂や精神は神に召された後に残った遺体は物体であると割り切れない、生死感がそこにある。だからこそ、飯塚さん達が必死になって遺体の確認をしているのだ。 ちなみに遺体の状況がどんなものであったかこの本にある資料をあげておく。
あの事故は、関わった人たちの人生観が変わってしまうほどの大惨事であった。著者にしたって、こうして警察を退官した後も、事故が風化しないように「飛行機事故の語り部でいたい」と言わせるものであった。
そんな中、2作目の『墜落現場 遺された人たち』は、事故後遺された人たち、事故現場を自主的に管理する日航の職員たち、更に村の人たち、そして検死に当たった医師や看護師たちがどのように生きてきたかを訪ね歩いて、書かれたものである。
その点も今まで読んできた本とは違う。今まで読んできた本は、事故直後のことを書いただけで、いわば書きっぱなしといった本ばかりであった。
たとえば、遺族を「善」、事故を起こした日航を「悪」と決めつけ、日航側の態度の悪さだけを強調することで、ただでさえ不幸にあった遺族が日航の態度で更に傷つき、二重の苦しみを味わったことが描かれていた。確かにそういう企業論理が優先されたことも多々あるだろう。事実じゃないとは言わない。けど、そうじゃない日航側の人たちもいたことをこの著者は2作目にきちんと書いている。
更に上野村の人たちの描写にしたって、今までの本は、事故機の捜索に直接関わった人々の言葉は細部にわたり記述するが、捜索に直接関係のない村の人々が、この事故とどう関わらざるを得なかったかは書かれていない。しかしこの本はきちんとふれている。
確かにそれができたのは、この2作目が事故から時間がたっているため、冷静かつ客観的に書けたのだろうと思うが、事故後も遺族や関係者の姿を追うことで、事故の悲惨さがいつまでも関係者に影を残していることを我々に教えてくれている。
たとえば、現在御巣鷹山の管理人をしている仲沢さんはこれまで祥月命日の12日には必ず山に登り、遺族がいれば、写真を撮ってやったり、自分でも山の写真を撮って、遺族に送っている。その仲沢さんがいう言葉。
「最初のころねえ、遺族がねえ、日航の若いヤツに何かと文句を言うわけさ。あの人らはねえ、何を言われても平身低頭だあ。関係ないもんまで謝ることあなかべえに」
「遺族が言いたいことを言うんで、『言いたいことべえ言うんじゃねえや』と言ってやったんだ。そうすると日航の若えのが、『仲沢さん、仲沢さん、言わねでくれ』ちゅうんだ。手を合わせるようにして、俺に言うだよ。そうかなあ、あんな若えヤツでもそういう気持ちになるんかなあ、と思ったんだ。
それから気持ちがいくらか変わってきたんだ。ヤツら、我慢しているんだなあ、と思ってねえ。
いまさらになって、十も二十も若えヤツらに、我慢することを教わっただあよ。おらも我慢ができねえばっかりに、ずいぶんと人さまに迷惑かけたなあって、な。それからおらもさ、遺族の人のつらい、哀しい気持ちもわかるからさ、『そうですか。ハイ、ハイ・・・』っていうようになったんだ。そうしたら遺族の人も『仲沢さん・・・・』って、声をかけてくるようになってさ。」
ラーメン屋さんの話もいい。著者たちが検死で異臭を体中に浸みこませたまま、近所のラーメン屋さんに食事に行く。このにおいは飲食店にとってみれば、致命的なはずなのに、それでも主は「ご苦労様です」と言ってくれた。
そのお店を事故後訪ね、そのことを詫びつつお礼をいう著者に、主は「警察官の方々が私の店に来て臭いから・・・なんて思ったことは一度もありませんでしたよ。たしかに異様な臭いは染みつきましたがね。けど、あの体育館の中で働いている人は大変なんだろうな、と思ってましたからね。」というのだ。しかしこのラーメン屋さんも事故後つまらぬ中傷を受けてしまった。一時客足が激減した。
いみじくも明後日は20年目の8月12日を迎える。この事故は私の長女が生まれた年に起こった事故であった。だからものすごく印象が強い。その長女も今年20歳になり、社会人として生きている。
- by kmoto
- at 21:42
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