2005年09月25日

ギボン著『ローマ帝国衰亡史』第6巻

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 続けて6巻を読み終える。
 こうして読んでいると、所謂西ローマ帝国の滅亡が476年だという理由が正直なところどうしてこの年なんだろうと不思議でしょうがなかった。つまり何をもって西ローマ帝国が滅んだとするのか、その根拠が知りたかった。
 とにかく、ゲルマン民族やフン族に帝国内を蹂躙されてしまっている。特にフン族の王であるアッティラなど、その顔のすごさもそうなのだが、(下の写真がそうです)「自分の馬が踏んだところには二度と草が生えなかった」と豪語するくらい、ひどいものだった。 

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 さらにそんなひどい状態なのに、西ローマ皇帝はただおろおろするだけであって、何ら対応策など打ち出せない。軍自体もローマ市民で構成できず、他のゲルマン民族が傭兵となって、中心となっている始末。彼らは戦勝の後の報賞を期待しているだけで戦意の高揚など期待できない状態なのだ。
 そんな中、役立たずのローマ皇帝に代わって、自分が皇帝に!というわけで勝手に僭称する軍の指導者がローマ皇帝を宣言して、時には取って代わってしまうのだから、本来ならこの時点で西ローマ帝国は滅んでしまっているのではないかと思うのだ。それが何度も続いているのに、まだ西ローマ帝国が存続しているというのが不思議であった。
 しかし、476年をもって西ローマ帝国が滅亡したとするのは、以下の通りである。
 西ローマ帝国は、先に言ったように、自分達の国をゲルマン民族に守らせていた。その傭兵たちが反乱を起こし、イタリアに侵入してくる。そして東ローマ皇帝から認められたネポス帝は、帝自身がパトリキウスと軍総司令官として認めたオレステスに退位を迫られ、その後オレステスの息子、アウグストゥルスを西ローマ皇帝とした。ところがこれら傭兵たちはオレステスや皇帝アウグストゥルスに勝手放題な要求を突きつけ、それを拒否したオレステスは処刑されてしまう。 その主導者であったオドアケルは、「この皇帝という無用で金ばかり食う地位を廃止する決意を固めていた」そして、皇帝アウグストゥルスに東ローマ皇帝ゼノン宛に次のような手紙を書かせる。
 「われらはイタリアに於ける帝位の継承をこれ以上続ける必要を認めず、その意志も放棄する。われらの見解では、一人の帝王の威厳のみで東西両帝国を同時にあまねく防衛するに十分と信ずるからである。われらはわれらの名に於いてまた国民の名に於いて、この統一された帝国の帝座がローマからコンスタンティノポリスに移されるべきことを承認する。われわれは全世界に法を施行した往年の権威の、今に残る唯一の痕跡たる自らの支配者を選ぶ権限も、謹んで返上する。共和国は(と彼らは臆面もなくこの語を何度か繰返して)オドアケルの内政上、軍事上の能力に信頼して可なりと考える。伏して願わくは帝に彼に名誉顕官(パトリキウス)の称号とイタリア管区の行政権とを賦与し給わんことを」

 今までローマ皇帝を僭称していた者は、あくまでも自分がローマ皇帝だと言い続けていた。そのことは次に誰がローマ皇帝になろうとも、ローマ皇帝として元老院や軍などが認めれば、それでローマ皇帝として君臨できた。そしてそのことはローマ帝国の存続を意味していた。けれどオドアケルは西ローマ帝国において、ローマ皇帝としての支配者を選任することを放棄した。この時点で彼はイタリアで初めて王として君臨したのであった。だから476年に西ローマ帝国が滅亡したとするわけだ。
 この時代に、皇帝だろうと王であろうと、大して変わらないだろうけど、少なくともローマ皇帝を廃位したことは、この時点で西ローマ帝国が滅亡したとするのは納得できた。そう考えると、このオドアケルという人物は今まで自分がローマ皇帝として僭称してきた人物達とは違う。名より実を取ったというところだろう。しかしこのオドアケルも東ゴート王国のテオドリックにイタリアの支配を譲り渡すことになる。
 とにかくゲルマン民族はローマ帝国内に移動始めてから、フランス中部(ガリア)にフランク族のクローヴィス、南フランスは西ゴート族のアラリック、アフリカの地中海側にはヴァンダル族のガイセリック、イギリスにはサクソン族とそれぞれ定着し、王国を作り始めていた。もうローマ帝国の時代は終わりつつあったのだ。

 この『ローマ帝国衰亡史』は本当はこれで終わる予定だったと、訳者はいう。しかしギボンは今までのこの著作の反響が大きかったことと、自分に次を書かせる余裕が出来たことなどで、東ローマ帝国の滅亡まで書きつづることになったらしい。私もやっとこの『ローマ帝国衰亡史』の半分まできたこと実感した次第だ。

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2005年09月22日

ギボン著『ローマ帝国衰亡史』第5巻

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 この巻を読み終わって思うことは、偉大なローマ皇帝を父に持つ息子達がどうしてこうも凡庸なのだろうということだ。能力も資質もない二代目がローマ皇帝となると、その悲惨さはどうしようもない。ましてこういう衰退期にローマ皇帝となると、その衰退を早めるだけであった。
 コンスタンティヌス大帝の息子達もそうであったし、テオドシウス帝のぼんくら息子達もそうであった。コンスタンティヌス大帝やテオドシウス帝は軍人として苦労し、ローマ皇帝として推挙されたわけだが、その息子達は生まれながらにしてローマ皇帝の息子であった。それはいかにその息子が凡庸であろうとも、次の皇帝がある意味約束された立場でもあった。
 その子守を受け持つことになった、スティリコは大変であった。テオドシウス帝死後、ゴート族などゲルマン民族が次から次へとローマ帝国内に侵入し略奪を繰り返していても、テオドシウス帝の息子であった、西の皇帝ホノリウスや東の皇帝アルカディウスは全く役に立たない始末。スティリコ自身が西に東に軍を率いて対応するしかなかった。スティリコのお陰で何とかローマ帝国内に侵入してくるゲルマン民族と折り合いをつけ、帝国を維持していくが、それでも挙げ句の果て、ホノリウスの取り巻きの意見で殺されてしまう。もう本当にどうしようもない。
 ゴート族の侵略が、ローマ市に危機をもたらす。本来ローマ皇帝はローマ市民を守る義務があるにもかかわらず、ホノリウスは自分の身の安全だけを考え、ローマからラヴェンナに自分の居場所を移してしまう。残されたローマ市民はたまったもんじゃなかった。ゴート族に略奪、殺人、強姦とやりたい放題に、かき回される。
 それでもこの蛮族の長は、ローマ皇帝に直接戦いを挑むわけではない。たとえ凡庸で役立たずのローマ皇帝でもその威厳に敬意を表して、自分達を何とかローマ皇帝から認めてもらおうとし、ローマ軍の幹部にしてもらおうとするのだ。まさしく「腐っても鯛」というところか。
 それは西の皇帝ホノリウスだけではなく、東の皇帝アルカディウスも同様であった。ギボンはアルカディウスの死に当たって次のように言い放つ。「この帝の功績を概略でも記述することは不可能である。歴史的資料にはワンサと恵まれているこの時期にあって、正当に大テオドシウス帝のこの長子の仕事といえる行動は、何一つ見あたらないからである」と。
 この本ではゲルマン民族の侵入に曝される中、テオドシウス帝の後を継いだぼんくら息子達の姿を延々と描写し、ローマ市民の腐敗もこれでもかというくらい書くことで、ローマ帝国が滅びざるを得ない状況を読者に分からせる。読む方もこれじゃ仕方がないと思ってしまう。たぶんこの絶望感は歴史の教科書じゃ味わえない。

 ところで、話はがらりと変わって、キリスト教について思うところを書きたい。(実は書きたくて仕方がなかったのだ)
 これから書くことは、昔から個人的に感じていたことで、具体的な根拠はない。ただ、「そう思う」と言うことなのだ。そのことをこの『ローマ帝国衰亡史』を読むうちに更に強くなったので、書いてみたいと思ったのだ。

 アリウス派とアナスタシウス派の教義論争にけりがついて、アナスタシウス派が正統派として認められていくことは書いた。しかし個人的に不思議だと思うことがある。何かというと、偶像崇拝のことなのだ。キリストが神であるかどうかという論争の前に、キリスト教そのものは、元々偶像そのものを崇拝することを禁じていたはずであった。だからローマ帝国内にあったギリシアやエジプトからの神々の像を祭ったものを否定した。
 何度も言うように、元々キリスト教は偶像崇拝を否定していた。ところが、その布教に当たって、形のない思想より、形を伴った思想や話の方が布教しやすい。また教会の権威をより明確に民衆に意識させるためには、具体的な「物」があった方が有難味ある。そこで、初期キリスト教の殉教者の遺体や遺品を掘り返して、自分のところの教会に宝物のように祀ることになる。だからギボンは言う。「カトリック教会の牧師たちが、もともと打倒を目ざして躍起になっていたはずの邪教の手本(偶像崇拝)をマンマと踏襲したという一事である。無知な農民に異教の俗信を棄てさせるには、キリスト教の内部にそれに似たもの、その償いになるものがあると気付かせるのが、捷径なのだ、最も尊敬すべき司教たちが思いこんでいたのだ。コンスタンティヌス帝のキリスト教は、一世紀とはたたぬうちにローマ帝国を完全に征服し終えた。が、その勝利者たち自身が、打倒したはずの相手のやり方に、知らないうちに屈服していたのである」と。
 
 教会には当時も現在も、十字架やキリストやその他使徒達の絵画、像、更に聖遺物があり、それを崇めていることは本来の教義からすれば反する。けれどもキリスト教の存在を意識させるためにはそうせざるを得なかった。
 このことは神なるものが存在するという壮大な「嘘」を構築するにも使われた。つまり「嘘」を「嘘」でないように、思想を、ああでもない、こうでもないと、こねくり回して、虚像を作り上げてきたのが、ヨーロッパの文化であった。その原点が初期のキリスト教教会ではなかったのかと思うのだ。
 実際に形のない神を文字や絵画、あるいは像としてして、現すことで、その恩恵を表現していくのだ。

 だからそれがおかしいというのではない。そうせざるを得なかったことが、自分達の文化を創り上げたのだ。それを文明として世界に広めたのだ。存在しない、あるいは形のないものを、形のあるものとして作り上げ、あらゆるところに神の存在を意識させることで、自分達の生きるすべとしたのだ。
 そしてヨーロッパの文化のすごいところは、何でもかんでも神が作ったという考え方に、「それはおかしい」という批判的な考え方が受け入れ(勿論簡単にはいかなかったけど)、それが科学の進歩を進めたことになったし、産業革命だって、そういう科学の裏付けがなければ生まれなかったのではないか。あるいはルネサンスだって、神中心ではなく人間そのものを尊重しようとするのは、教会批判から生まれたはずだ。
 またカトリック教会が絶対的な力を持つことで、腐敗を免れなかったとき、原点に返ろうという考えが宗教革命を生むことになったはずだ。そこで生まれたプロテスタントは市民たちを後押しし、商業を肯定し、資本の蓄積は神の望むところだとしていく。
 こう考えると、今我々が受け入れているヨーロッパ文化は、カトリック教会の教義を元にして、その批判も受け入れて、長い時間をかけて生まれたもので、そうすることで普遍的で、かつ世界中で通用するヨーロッパ文明となったのだ。そう思うのだ。だからキリスト教が果たした「すごさ」を改めて感じてしまう。

2005年09月18日

ギボン著『ローマ帝国衰亡史』第4巻

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 ついに背教者ユリアヌスの登場である。高校時代、辻邦生さんの『背教者ユリアヌス』(中央公論社刊)を読んで、えらく感動した。あんなに分厚い本を一気に読んでしまったことを思い出す。(それにしても、高校生で辻邦生さんの『背教者ユリアヌス』を読んでいたなんてませた高校生だったと思う)



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ユリアヌス帝

 さて、そのユリアヌスのことである。コンスタンティヌス大帝の一族の中で、彼は若い頃は半ば幽閉された環境にいた。彼はその中で皇帝一族の一員として、帝王教育を受ける。そんな教育環境の中で彼はギリシアのアテネで、ギリシア哲学やギリシアの神々に心惹かれるようになる。
 一方、コンスタンティヌス大帝の最後に残った子供、コンスタンティウス2世が皇帝になると、ユリアヌスも副帝となる。しかし副帝といってもいつもコンスタンティウス2世の監視がつきまとう。
 そんな中ユリアヌスはガリアで、反乱や侵略を繰り返すゲルマン民族を平定し、仁政しく。すぐれた統治能力、軍事能力を発揮し、それで奢ることない姿勢は軍や民衆から支持される。
 しかし、これが嫉み深く、ローマ皇帝としての資質を欠くコンスタンティウス2世にとってみれば不安材料となる。そんなユリアヌスをコンスタンティウス2世は呼びつけるが、そのことはユリアヌス自身の生命さえ危うくすることでもあった。やむにやまれずユリアヌスは自分こそがローマ皇帝だと宣言し、コンスタンティウス2世と戦いを挑むが、コンスタンティウス2世がぽっくり死んでしまい、ユリアヌスは正式なローマ皇帝となる。
 皇帝となったユリアヌスは、キリスト教が普及していた帝国内で、自分が心惹かれ、心酔さえしたギリシア・ローマの古代宗教の復活を目指し、キリスト教徒によって破壊されていた神殿を再建する。
 ただユリアヌスは、キリスト教を迫害、弾圧したわけではなく、キリスト教の指導者が持っていた、さまざまな特権を取り上げ、教義争いをし、世俗化する彼らを批判しただけであった。しかしそれは「あたかも彼は(ユリアヌス)は憐れむかのごとき態度を見せたが、やがてその憐憫は蔑視となり、その蔑視は次いで憎悪により深刻化された」のだ。
 しかしユリアヌスの場合、キリスト教を迫害、弾圧した歴代ローマ皇帝と違い、力でそれをしても、何ら効果がないことを知っていた。彼らは迫害、弾圧されれば、殉教者や神になってしまい、かえってキリスト教徒から支持されてしまう。ユリアヌスとってみれば、そのことは許し難いことでもあった。だからユリアヌスは権力や暴力でキリスト教徒の迫害はしなかった。徹底してギリシア・ローマの古代宗教の復活に自ら力を注ぎ、神殿の再建、東方神ミトラス神への牡牛のいけにえの儀式を盛んに行った。

 ギリシア文明にあこがれを持っていたユリアヌスは「アレキサンダー大王の栄光を思って燃え、賢者からの尊敬と大衆からの喝采とを求め、なにかこの際さらに輝かしい画期的功業をのこすことによって、みずからの治世を際立ったものとすべく決意する」すなわちペルシア討伐を行うのだった。
 ギボンはこのペルシアとの戦いの記述にかなり力が注いでいるように感じた。 北方のガリア軍を主力とするユリアヌスの軍は東方の灼熱の砂漠での戦いに苦戦するが、ある時は自ら戦いの先頭に立ち、軍を指揮し、またある時は退路を断って軍を進めるのだが、最後にペルシア軍が放った一矢がユリアヌスの「肋骨を貫き肝臓の奥深く突き刺さった。帝はその凶器を脇腹から引抜こうとしたが、鋭い穂先がその指を切断、意識を失い落馬した」
 ユリアヌスの最後の言葉はそれこそ彼の目指してきたものを物語っていた。長くなるが引用してみたい。

 「友人諸君並びに戦友諸君、いまわが首途(かどで)の時は到来したように思う。余は潔き債務者として、直ちによろこんで自然の要求に応ずる所存。余は多年いかに霊魂が肉体より貴いものであるか、したがって、この高貴な実体が肉体から離れ去ること、それは苦悩よりむしろ歓喜であらねばならぬことも、哲学によって学んできた。またしばしば早逝は信仰への報賞であること、これも宗教から学ぶことができた。したがって、いまこの死の打撃も、それは今日の日まで余が生涯を勇気と剛毅とにより支えてくれてきたわが品性を、むしろ汚辱の危険より守ってくれる神々の恩恵として、よろこんでこれを甘受するつもり。罪を犯すことなく生きてきた故に、いまは悔いなくよろこんでこの生を終える。余は私生活の無垢なりしことを顧み、いまそれを喜びとするとともに、至上の権威、すなわち神の流出がいまなお余の手中にそのまま純粋純潔に保たれあることを、確信をもって断言するものである。余は専制主義の包蔵する腐敗破壊の諸原理を唾棄し、人民の幸福をこそ統治の究極目標として考えてきた。みずからの行動を、たえず思慮、正義、そして節度の法(おきて)に従わしめ、事の成敗はすべてこれを摂理のままに委ねてきたのだ。それが国家の福祉背馳せざるかぎり、平和こそ余の意図する最高目的であった。さりながら祖国至上の声が武器を執れと命じたとき、そのときのみは余も敢然として戦いの危機に一身を曝し、すでに早く占卜術により明瞭に察知ずみの最後として、刃による死がわが宿命なることも覚悟していた。いまや余は永遠の存在に対し感謝の貢物を捧げんとするもの。神は余が暴君の残忍、陰謀者の凶刃、さてはまた一進一退する長病の業苦に仆れることを許し給わなかったのだ。この栄誉ある生涯の中道にして、神は余に輝かしい栄光に充ちたこの世から旅立ちをあたえ給うたのである。この運命の一撃を請い求めることも、また拒むことも、ともに愚痴、ともに卑劣といわねばならぬ-以上、これが余の言わんと欲したすべて。だが、いま気力尽き、死に近きを予感する-新帝の推戴に関し諸君の票を左右する惧れのあるごとき発言は、ことさらこれを差し控えるであろう。余の選択があるいは思慮を欠き、また判断を誤ることもあるやも知れず、万一もし余が推す人物が軍の同意をえられざるにおいては、当該人物にとっては致命的結果となるやも知れず。余はただ善良なる一市民としてのみこれを言うのであるが、望むらくは今後もローマ人が有徳君主による統治に恵まれんことを」享年32歳。帝位在位はわずか1年8ヶ月であった。

 この巻は別にユリアヌスだけのことを記述しているわけではない。ただ個人的に思い入れがあるからこうして長々と書いている。
 この巻では、ついにゲルマン大移動の原因となるフン族の記述が始まる。今まで中国近辺にいたこの民族(匂度と呼ばれた民族)がヨーロッパに移動しはじめる。このことによって、ゴート族がところてんのように押し出され、ローマ帝国に移動、侵入せざるを得なくなる。何せ、このフン族、ローマから粗野で凶暴といわれたゴート族が自分たち以上に粗野で凶暴と言わせしめた民族であったため、恐怖でそうせざるを得なかったのだ。
 これに対応したのがあのテオドシウス帝である。ローマ帝国に侵入した西ゴート族に対して、ある時は討伐し、ある時は自分の軍に加えて懐柔政策を取り、ローマ帝国を維持していく。(最も西ゴート族は一度はテオドシウス帝に恭順を示しつつも、すぐ背信行為を起こすが・・・)
 様々な難題を抱えたローマ帝国を、これからどうやって彼が維持していくか。それくらいテオドシウス帝の存在は重要な意味を持つ。だからギボンに「性急爆発的なゴート族を抑える人物がいたとすれば、それは毅然たる中に抑制も十分心得たテオドシウス帝意外には絶無だっただけに、いまや国家安全の鍵は一に特定一個人の生存とまた才幹如何に存するかと思えたのだ」と言わせるのだ。
 又テオドシウス帝はキリスト教の教義の問題でもある程度決着をつける。正統派としてアナスタシウス派が認めれても、しかしコンスタンティノポリスには、相変わらずアリウス派を信じる教徒が多くおり、教義争いをくり返していた。
 しかし、テオドシウス帝は真に三位一体的信仰により洗礼を受けた最初のローマ皇帝であったために、最終的にアリウス派は非合法化された。(この後アリウス派はゲルマン系の諸部族で生き延び、2世紀以上にわたって存続する)

 この巻はテオドシウス帝の死をもって終わる。まだまだ民族移動の中、波乱が続きそうである。

2005年09月11日

ギボン著『ローマ帝国衰亡史』第3巻

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 ┌コンスタンティヌス大帝(306-37)┬[西]コンスタンティヌスⅡ(337-40)
 │                     ├[中]コンスタンス(337-50)
 │                     └[東]コンスタンティウスⅡ(337-61)
 └ユリウス─┬─ガルス
         └─ユリアヌス(361-63)


 この3巻はコンスタンティヌス大帝からユリアヌスの即位までのフラウィウス家一族の盛衰を描いている。
 とにかく名前が似たような名前なので非常にややっこしい。しかもこの一族、特にコンスタンティヌス大帝の子供達は凡庸でどうしようもないので、疑心暗鬼になって、お互い殺し合いをしたり、殺されたりと血生臭い一族であった。そのため、こうして家系図を作っておかないと、誰がどうなったのか分からなくなってしまう。コンスタンティヌス大帝の馬鹿息子についてはここでは書かない。
 
 実は私はコンスタンティヌス大帝は偉大なローマ皇帝だと思っていた。確かに若い時、軍人として指導的立場にいた時は人望もあっし、力もあった。けれど、分裂したローマをひとつにまとめ上げた後、コンスタンティノープルに都を構え、ローマ皇帝として君臨するあたりからおかしくなっていったようだ。
 元々戦乱で疲弊したローマに新しい都を構えること自体、無謀であった。事実この新しい都を飾った建築物は、ローマ帝国各地にあった記念物を集めてきて作られ、新しい建築物、記念碑など作る能力など、財政的にも、それらを作る人材もなかった始末。
 その上コンスタンティヌス大帝は、こうした戦乱を招いたのは権力がひとつに集中することに始まることで起こると考え、徹底して細分化し、それぞれが無力化するような体制を築き上げる。所謂役人を増やして、やたら役職を作っていく。このことはとりもなおさず、財政的にかなりの負担を負うことにさえなった。 確かにディオクレティアヌス帝退位の後、コンスタンティヌス大帝の父の代から分裂と混乱を生き抜き、それを制した者が、そうならないためにどうしたらいいかを考えれば、この様な体制を築くのも納得できないわけでもないが、基本的には厄介なものを取り除くことで、自分の政治体制を維持しただけのことであった。従って自分たちに叛逆しない弱者を優遇していく体制でもあった。
 このことはキリスト教公認にもつながっていく。313年に「ミラノ勅令」が出された。今まではこの「ミラノ勅令」がキリスト教徒の信仰の自由を認めた勅令だと思っていたが、実際はキリスト教徒だけを優先的に信仰の自由を認めたものではないことを知る。
 元々ローマ帝国は多神教であって、割と信仰の自由が認められていた国であった。ただキリスト教徒だけがその排他的な信仰が他の宗教を認めない頑固さが仇となり、ひたすら自分の信仰のみに生きることが、弾圧の原因となってしまったところがあった。そうしたキリスト教徒に対して他の宗教と同じく信仰の自由を認めたものであった。
 何故そうしたか?それは誰でも自由に自分の信じる宗教を奉じていいという権利を尊重したものではない。明らかにコンスタンティヌス大帝の政治的思惑があってのことであった。
 すなわちどんなに弾圧があっても、キリスト教徒の無抵抗とさえ言える態度は、支配する側のコンスタンティヌス大帝には有り難い存在であった。だって自分に刃向かわないのだから・・・。
 で、一度キリスト教も公認してしまうと、自分のブレーンにキリスト教徒である人間を加えていく。そこでブレーンとして迎えられたキリスト教徒の指導者は、キリスト教が普及すれば、「真の神をさえ礼拝すれば、お互いすべて一つの共通の父の子と考える人間の間に、戦争や不和など一切なくなるはず。不純の欲望、または怒りや利己的感情は、福音を知ればことごとく抑制されるだろうし、すべての人間が真理と敬虔、公正と寛容、調和と博愛、等々の感情で動く社会にあっては、為政者たちも破邪の剣を収めておくことができるはずと、強調するのだった」
 こういわれればコンスタンティヌス大帝だって「そうか・・・!」と思っても不思議じゃない。一度認められたキリスト教徒は、今度はキリスト教の普及にローマ皇帝を利用し始めたのだ。まさしくミイラ取りがミイラになってしまったわけだ。
 しかしここではどうしてコンスタンティヌス大帝がキリスト教も認めるほど、普及していたのか、その理由は詳しく説明していない。ただこうしてコンスタンティヌス大帝がキリスト教に傾くことで、それに従う国民が多くなっても不思議じゃないというだけである。
 もっとも信仰のことは個人的なことに依存しているので、キリスト教がローマ帝国にどうしてこんなに普及していったかなんて、延々と書かれちゃうと、いささか退屈してしまう。それでなくても、この本にあるキリスト教の教義に関する記述は私には難しい。
 とにかくキリスト教は他の宗教と同様に信仰の自由を認められ、皇帝を巻き込むほどの力を持つようになっていく。そしてまだこの頃は、教義として統一されたものが出来ていなかったから、その教義の違いを血みどろになって争っていく。そんな中、「プラトン、アリストテレスの弟子をもって任ずる」ユリアヌスが登場するのである。

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2005年09月05日

ダン・ブラウン著『ダ・ヴィンチ・コード』ヴィジュアル愛蔵版

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 先月末にダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』ヴィジュアル愛蔵版(角川書店)が出版された。これがすごい。元々上下2冊に別れていたものを、1冊にまとめ、しかもヴィジュアル愛蔵版と名を打っているだけあって、絵画や美術品、建築物、図称などの写真が140点も掲載される。ページ数で621ページの厚さである。ましてこうした写真を載せているので、紙質もいいやつを使っているようで、かなり重い。
 でもこの話はこうした写真があった方が親切だし、わかりやすい。というわけで、もう一度読み直すことにした。
 読み直している内にやっぱり夢中になってしまった。そして今回わりとじっくり読んでみると、この本の謎解きには、絵画や美術品、建築物、図称の写真がいかに必要か思い知らされる。以前の本は、建物や美術品、絵画などの説明は文章に詳しく書かれているけど、やっぱりものを見てみて見ないと、あっ、なるほど!と思えない部分があった。その為インターネットで調べてみる必要があった。 しかし今回の本はちゃんと次のページに大きく写真が載せられていて、そんな手間をかけずに納得できちゃう。登場人物達が訪れる、教会の写真などあると、そうか、こういうところなんだ!と、まるで映画を見ているようにリアル感がある。この本は最初からこうあるべき本だったと思った。ただ、ちょっとその分値段がはってしまうが・・・。

 さて今回、期せずして読み直すことになった訳だけど、改めて読んでみて、前回いかにいい加減に読んでいたか、思い知らせされる。
 私が以前、偉そうに分かったように書いた文章の内容は、ほとんどここに書かれている。一所懸命調べて書き込んだものだが、よく読んでみるとちゃんと、しかもわかりやすく書かれていたのだ。もちろんポイントは押さえていると思うが、どうもそれだけであって、ちゃんと書いてあるのにわざわざ調べて、ああでもない、こうでもないと書きつづったのがお恥ずかしい次第だ。
 だけど、やっぱり、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の話しは今でも衝撃的だ。イエスのすぐ左にいる人間はヨハネだとずっと思っていただけに、修復されたこの絵を改めてみてみるとどう考えても女性に見える。それがマグダラのマリアである。イエスが処刑される最後の日に、わざわざイエスの横に座っているには、それなりの訳があっても不思議じゃない。マグダラのマリアはイエスの後継者後継者だとシオン修道会の総長でもあったダ・ヴィンチは言っていたのだ。
 何故か、それは彼女はイエスの妻であり、イエスの子を宿していたからである。その証拠をシオン修道会が作ったテンプル騎士団が見つけ、それをシオン修道会が守り続けていたのだ。
 ところがこのことはローマカトリック教会にしてみればとんでもない話しになる。神であるイエスが妻を持ち、子供まで作っていたとなれば、カトリック教会の教義そのものが破綻する。だからその証拠を握っていたテンプル騎士団がその後大きな力を持ったのも、カトリック教会が「ばらさないでね!お願い!」(どうしてこういう書き方をしちゃうんだろう、私は・・・)となだめすかしたからであって、その後あまりにもテンプル騎士団が大きくなりすぎてしまったので、それを解体せざるを得なくなった。しかし完全解体されたのではなく、シオン修道会が地下にもぐってその「真実」を伝え続けた。
 もともとどこの民族でも持っている原始的な宗教ではだいたいが「女性」は豊穣のシンボルであった。つまりそれなりの地位を持っていた。ところがローマカトリック教会はむしろ「女性」は卑しめられ、じゃまな存在として位置づけられている。イヴはリンゴを食べてしまったことで、人類の堕落が始まったとされるし、そもそもイヴがアダムの肋骨から生まれたとするように、「女性」は「男性」の副産物で、罪深いものとされてしまった。
 昔大学時代に、キリスト教は本来の信仰から様々なものに影響され、形を変えざるを得なかったというのをなんの本で読んだことがある。キリスト教を普及させるためには、本来持っていたイエスの教えを曲げてでもそれを正当化して、異教徒に受け入れやすいように、異教徒が持っていた宗教の一部を受け入れ、だんだん変質していく。あるいは政治的なかけひきとして使われることで、変質していく。
 ローマカトリック教会は人間らしいイエスから神として厳格な存在へと昇華させていった。従ってこれに反するものは切り捨てられ、異端とされていく。切り捨てられた教えは、ヨーロッパ史の影の部分となったのだろう。
 さて、シオン修道会が守ってきたものが暴かれることは、はまさしくローマカトリック教会にとってみれば大きな痛手となるが、真実を追究する者にとって見ればどうしてもその真実を知りたい。このところがこの本を面白くしている。影の部分があらわになるというには、読む側にはちょっとゾクゾクしてくる。しかもそうはさせないという勢力との確執があるから余計である。その点この本は充分楽しめる本であったと改めて思った次第だ。

 ところでこのヴィジュアル愛蔵版のカバーを外すと、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が表紙になっている。これだけでもかっこいい装丁だ。

ダン・ブラウン著『ダ・ヴィンチ・コード』ヴィジュアル愛蔵版の続きを読む

2005年09月01日

さだまさし著『解夏』

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 短編4作が収録されているさだまさしさんの『解夏』(幻冬舎文庫)は前から気になっていた本だった。今回それを読んでみる。4作の中では、私は「解夏」と「秋桜」が気に入った。
 ここには、それぞれ訳ありの人生を歩んできた主人公が故郷でだんだん癒され、その苦しみから解放される。それまで厳しい人生を歩んでいただけに故郷の自然、そこで暮らしている人達に助けられながら自分を取り戻していく姿が描かれる。

 「解夏」ではベーチェット病を発病した隆之は、自分の症状が徐々に悪化していることが自覚できるだけに、近いうちに失明する恐怖を日々感じている。
 失明する自分のために婚約者の陽子に負担をかけられないという思いから、陽子と別れて、長崎に帰ってくる。しかし陽子の方が長崎の隆之の家を訪れ、隆之とその母と一緒に暮らし始める。
 隆之と陽子は、隆之が失明する前に自分の故郷を記憶の中に留めようと町中を二人で歩き回る。坂の多い寺町である隆之の故郷は全体がやさしさに包まれている感じだった。
 ある日、隆之と陽子は、寺の境内で林老人と出会う。隆之は林老人に自分の病気のこと、近いうちに失明することを話し始める。それを聞いた林老人は隆之にそれは仏教での「行」だというのだ。隆之が今、失明する恐怖は「行」を生きているというのだ。その恐怖を友人や教え子、そして陽子の力を借りて克服したときが、「行」の明けで、完全に失明したとき、この病気が治まったことにもなる。まさしくそれは「解夏」でもあった。

 「秋桜」では、フィリピン人のアレーナ・フローレスが信州の飯田の岡島利春のところに嫁いだ。婚約前に晴彦は父親の春夫を連れて、アレーナがいるお店に来る。そこで春夫はアレーナに「売春をしたことがあるか」と聞く。アレーナは怒るが、春夫は田舎の老人特有の不躾さを詫びつつ、何故そんな失礼なことを聞くのかを説明する。
 田舎では嫁の出自は好奇心の対象になり、ましてフィリピン人のアレーナが嫁にくればなおさら好奇心の目で見られる。そして息子の嫁に来てくれる人は宝だから、自分たち親子で守らなきゃならない。そのためには何でも知っておきたいのだという。
 結婚後舅になった春夫は事実アレーナを大切守った。しかし春夫が亡くなり、姑の喜久枝はアレーナに辛く当たっていたが、ある日、孫の太郎が近所に住む村人から「あいのこ」と言われたと告げる。それを聞いた喜久枝はその家に怒鳴り込みに行き、「外面だけで誤魔化すような(お前んとこの)バカ嫁とうちの嫁は出来が違うんだ。こんなに一所懸命、こんなによく働く嫁なんぞ、飯田中、日本中探したってほかにおらん!うちの嫁は日本一なんだ!」言い放つ。
 その後、縁側で庭に咲いている秋桜を見ている喜久枝はアレーナを横に座らせ、秋桜がメキシコ産の花だけど、今は大切な日本の花だといい、アレーナに秋桜ようになれと言うのだった。

 とにかくこの本を読んでいると頭の中で「精霊流し」の歌が流れ、不思議な気分を味わっていた。この本の4作は「精霊流し」の歌のように、悲しい現実を癒す「やさしさ」をうまく表していた。