2005年09月25日
ギボン著『ローマ帝国衰亡史』第6巻
続けて6巻を読み終える。
こうして読んでいると、所謂西ローマ帝国の滅亡が476年だという理由が正直なところどうしてこの年なんだろうと不思議でしょうがなかった。つまり何をもって西ローマ帝国が滅んだとするのか、その根拠が知りたかった。
とにかく、ゲルマン民族やフン族に帝国内を蹂躙されてしまっている。特にフン族の王であるアッティラなど、その顔のすごさもそうなのだが、(下の写真がそうです)「自分の馬が踏んだところには二度と草が生えなかった」と豪語するくらい、ひどいものだった。
さらにそんなひどい状態なのに、西ローマ皇帝はただおろおろするだけであって、何ら対応策など打ち出せない。軍自体もローマ市民で構成できず、他のゲルマン民族が傭兵となって、中心となっている始末。彼らは戦勝の後の報賞を期待しているだけで戦意の高揚など期待できない状態なのだ。
そんな中、役立たずのローマ皇帝に代わって、自分が皇帝に!というわけで勝手に僭称する軍の指導者がローマ皇帝を宣言して、時には取って代わってしまうのだから、本来ならこの時点で西ローマ帝国は滅んでしまっているのではないかと思うのだ。それが何度も続いているのに、まだ西ローマ帝国が存続しているというのが不思議であった。
しかし、476年をもって西ローマ帝国が滅亡したとするのは、以下の通りである。
西ローマ帝国は、先に言ったように、自分達の国をゲルマン民族に守らせていた。その傭兵たちが反乱を起こし、イタリアに侵入してくる。そして東ローマ皇帝から認められたネポス帝は、帝自身がパトリキウスと軍総司令官として認めたオレステスに退位を迫られ、その後オレステスの息子、アウグストゥルスを西ローマ皇帝とした。ところがこれら傭兵たちはオレステスや皇帝アウグストゥルスに勝手放題な要求を突きつけ、それを拒否したオレステスは処刑されてしまう。 その主導者であったオドアケルは、「この皇帝という無用で金ばかり食う地位を廃止する決意を固めていた」そして、皇帝アウグストゥルスに東ローマ皇帝ゼノン宛に次のような手紙を書かせる。
「われらはイタリアに於ける帝位の継承をこれ以上続ける必要を認めず、その意志も放棄する。われらの見解では、一人の帝王の威厳のみで東西両帝国を同時にあまねく防衛するに十分と信ずるからである。われらはわれらの名に於いてまた国民の名に於いて、この統一された帝国の帝座がローマからコンスタンティノポリスに移されるべきことを承認する。われわれは全世界に法を施行した往年の権威の、今に残る唯一の痕跡たる自らの支配者を選ぶ権限も、謹んで返上する。共和国は(と彼らは臆面もなくこの語を何度か繰返して)オドアケルの内政上、軍事上の能力に信頼して可なりと考える。伏して願わくは帝に彼に名誉顕官(パトリキウス)の称号とイタリア管区の行政権とを賦与し給わんことを」
今までローマ皇帝を僭称していた者は、あくまでも自分がローマ皇帝だと言い続けていた。そのことは次に誰がローマ皇帝になろうとも、ローマ皇帝として元老院や軍などが認めれば、それでローマ皇帝として君臨できた。そしてそのことはローマ帝国の存続を意味していた。けれどオドアケルは西ローマ帝国において、ローマ皇帝としての支配者を選任することを放棄した。この時点で彼はイタリアで初めて王として君臨したのであった。だから476年に西ローマ帝国が滅亡したとするわけだ。
この時代に、皇帝だろうと王であろうと、大して変わらないだろうけど、少なくともローマ皇帝を廃位したことは、この時点で西ローマ帝国が滅亡したとするのは納得できた。そう考えると、このオドアケルという人物は今まで自分がローマ皇帝として僭称してきた人物達とは違う。名より実を取ったというところだろう。しかしこのオドアケルも東ゴート王国のテオドリックにイタリアの支配を譲り渡すことになる。
とにかくゲルマン民族はローマ帝国内に移動始めてから、フランス中部(ガリア)にフランク族のクローヴィス、南フランスは西ゴート族のアラリック、アフリカの地中海側にはヴァンダル族のガイセリック、イギリスにはサクソン族とそれぞれ定着し、王国を作り始めていた。もうローマ帝国の時代は終わりつつあったのだ。
この『ローマ帝国衰亡史』は本当はこれで終わる予定だったと、訳者はいう。しかしギボンは今までのこの著作の反響が大きかったことと、自分に次を書かせる余裕が出来たことなどで、東ローマ帝国の滅亡まで書きつづることになったらしい。私もやっとこの『ローマ帝国衰亡史』の半分まできたこと実感した次第だ。
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- by kmoto
- at 20:31
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