2005年09月18日

ギボン著『ローマ帝国衰亡史』第4巻

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 ついに背教者ユリアヌスの登場である。高校時代、辻邦生さんの『背教者ユリアヌス』(中央公論社刊)を読んで、えらく感動した。あんなに分厚い本を一気に読んでしまったことを思い出す。(それにしても、高校生で辻邦生さんの『背教者ユリアヌス』を読んでいたなんてませた高校生だったと思う)



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ユリアヌス帝

 さて、そのユリアヌスのことである。コンスタンティヌス大帝の一族の中で、彼は若い頃は半ば幽閉された環境にいた。彼はその中で皇帝一族の一員として、帝王教育を受ける。そんな教育環境の中で彼はギリシアのアテネで、ギリシア哲学やギリシアの神々に心惹かれるようになる。
 一方、コンスタンティヌス大帝の最後に残った子供、コンスタンティウス2世が皇帝になると、ユリアヌスも副帝となる。しかし副帝といってもいつもコンスタンティウス2世の監視がつきまとう。
 そんな中ユリアヌスはガリアで、反乱や侵略を繰り返すゲルマン民族を平定し、仁政しく。すぐれた統治能力、軍事能力を発揮し、それで奢ることない姿勢は軍や民衆から支持される。
 しかし、これが嫉み深く、ローマ皇帝としての資質を欠くコンスタンティウス2世にとってみれば不安材料となる。そんなユリアヌスをコンスタンティウス2世は呼びつけるが、そのことはユリアヌス自身の生命さえ危うくすることでもあった。やむにやまれずユリアヌスは自分こそがローマ皇帝だと宣言し、コンスタンティウス2世と戦いを挑むが、コンスタンティウス2世がぽっくり死んでしまい、ユリアヌスは正式なローマ皇帝となる。
 皇帝となったユリアヌスは、キリスト教が普及していた帝国内で、自分が心惹かれ、心酔さえしたギリシア・ローマの古代宗教の復活を目指し、キリスト教徒によって破壊されていた神殿を再建する。
 ただユリアヌスは、キリスト教を迫害、弾圧したわけではなく、キリスト教の指導者が持っていた、さまざまな特権を取り上げ、教義争いをし、世俗化する彼らを批判しただけであった。しかしそれは「あたかも彼は(ユリアヌス)は憐れむかのごとき態度を見せたが、やがてその憐憫は蔑視となり、その蔑視は次いで憎悪により深刻化された」のだ。
 しかしユリアヌスの場合、キリスト教を迫害、弾圧した歴代ローマ皇帝と違い、力でそれをしても、何ら効果がないことを知っていた。彼らは迫害、弾圧されれば、殉教者や神になってしまい、かえってキリスト教徒から支持されてしまう。ユリアヌスとってみれば、そのことは許し難いことでもあった。だからユリアヌスは権力や暴力でキリスト教徒の迫害はしなかった。徹底してギリシア・ローマの古代宗教の復活に自ら力を注ぎ、神殿の再建、東方神ミトラス神への牡牛のいけにえの儀式を盛んに行った。

 ギリシア文明にあこがれを持っていたユリアヌスは「アレキサンダー大王の栄光を思って燃え、賢者からの尊敬と大衆からの喝采とを求め、なにかこの際さらに輝かしい画期的功業をのこすことによって、みずからの治世を際立ったものとすべく決意する」すなわちペルシア討伐を行うのだった。
 ギボンはこのペルシアとの戦いの記述にかなり力が注いでいるように感じた。 北方のガリア軍を主力とするユリアヌスの軍は東方の灼熱の砂漠での戦いに苦戦するが、ある時は自ら戦いの先頭に立ち、軍を指揮し、またある時は退路を断って軍を進めるのだが、最後にペルシア軍が放った一矢がユリアヌスの「肋骨を貫き肝臓の奥深く突き刺さった。帝はその凶器を脇腹から引抜こうとしたが、鋭い穂先がその指を切断、意識を失い落馬した」
 ユリアヌスの最後の言葉はそれこそ彼の目指してきたものを物語っていた。長くなるが引用してみたい。

 「友人諸君並びに戦友諸君、いまわが首途(かどで)の時は到来したように思う。余は潔き債務者として、直ちによろこんで自然の要求に応ずる所存。余は多年いかに霊魂が肉体より貴いものであるか、したがって、この高貴な実体が肉体から離れ去ること、それは苦悩よりむしろ歓喜であらねばならぬことも、哲学によって学んできた。またしばしば早逝は信仰への報賞であること、これも宗教から学ぶことができた。したがって、いまこの死の打撃も、それは今日の日まで余が生涯を勇気と剛毅とにより支えてくれてきたわが品性を、むしろ汚辱の危険より守ってくれる神々の恩恵として、よろこんでこれを甘受するつもり。罪を犯すことなく生きてきた故に、いまは悔いなくよろこんでこの生を終える。余は私生活の無垢なりしことを顧み、いまそれを喜びとするとともに、至上の権威、すなわち神の流出がいまなお余の手中にそのまま純粋純潔に保たれあることを、確信をもって断言するものである。余は専制主義の包蔵する腐敗破壊の諸原理を唾棄し、人民の幸福をこそ統治の究極目標として考えてきた。みずからの行動を、たえず思慮、正義、そして節度の法(おきて)に従わしめ、事の成敗はすべてこれを摂理のままに委ねてきたのだ。それが国家の福祉背馳せざるかぎり、平和こそ余の意図する最高目的であった。さりながら祖国至上の声が武器を執れと命じたとき、そのときのみは余も敢然として戦いの危機に一身を曝し、すでに早く占卜術により明瞭に察知ずみの最後として、刃による死がわが宿命なることも覚悟していた。いまや余は永遠の存在に対し感謝の貢物を捧げんとするもの。神は余が暴君の残忍、陰謀者の凶刃、さてはまた一進一退する長病の業苦に仆れることを許し給わなかったのだ。この栄誉ある生涯の中道にして、神は余に輝かしい栄光に充ちたこの世から旅立ちをあたえ給うたのである。この運命の一撃を請い求めることも、また拒むことも、ともに愚痴、ともに卑劣といわねばならぬ-以上、これが余の言わんと欲したすべて。だが、いま気力尽き、死に近きを予感する-新帝の推戴に関し諸君の票を左右する惧れのあるごとき発言は、ことさらこれを差し控えるであろう。余の選択があるいは思慮を欠き、また判断を誤ることもあるやも知れず、万一もし余が推す人物が軍の同意をえられざるにおいては、当該人物にとっては致命的結果となるやも知れず。余はただ善良なる一市民としてのみこれを言うのであるが、望むらくは今後もローマ人が有徳君主による統治に恵まれんことを」享年32歳。帝位在位はわずか1年8ヶ月であった。

 この巻は別にユリアヌスだけのことを記述しているわけではない。ただ個人的に思い入れがあるからこうして長々と書いている。
 この巻では、ついにゲルマン大移動の原因となるフン族の記述が始まる。今まで中国近辺にいたこの民族(匂度と呼ばれた民族)がヨーロッパに移動しはじめる。このことによって、ゴート族がところてんのように押し出され、ローマ帝国に移動、侵入せざるを得なくなる。何せ、このフン族、ローマから粗野で凶暴といわれたゴート族が自分たち以上に粗野で凶暴と言わせしめた民族であったため、恐怖でそうせざるを得なかったのだ。
 これに対応したのがあのテオドシウス帝である。ローマ帝国に侵入した西ゴート族に対して、ある時は討伐し、ある時は自分の軍に加えて懐柔政策を取り、ローマ帝国を維持していく。(最も西ゴート族は一度はテオドシウス帝に恭順を示しつつも、すぐ背信行為を起こすが・・・)
 様々な難題を抱えたローマ帝国を、これからどうやって彼が維持していくか。それくらいテオドシウス帝の存在は重要な意味を持つ。だからギボンに「性急爆発的なゴート族を抑える人物がいたとすれば、それは毅然たる中に抑制も十分心得たテオドシウス帝意外には絶無だっただけに、いまや国家安全の鍵は一に特定一個人の生存とまた才幹如何に存するかと思えたのだ」と言わせるのだ。
 又テオドシウス帝はキリスト教の教義の問題でもある程度決着をつける。正統派としてアナスタシウス派が認めれても、しかしコンスタンティノポリスには、相変わらずアリウス派を信じる教徒が多くおり、教義争いをくり返していた。
 しかし、テオドシウス帝は真に三位一体的信仰により洗礼を受けた最初のローマ皇帝であったために、最終的にアリウス派は非合法化された。(この後アリウス派はゲルマン系の諸部族で生き延び、2世紀以上にわたって存続する)

 この巻はテオドシウス帝の死をもって終わる。まだまだ民族移動の中、波乱が続きそうである。

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