2005年10月24日

ギボン著『ローマ帝国衰亡史』第9巻

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 この巻は、主にマホメットの生誕から、彼の後継者が繰り広げるイスラム世界を描く。正直言って、いささかギボンの宗教談義には辟易してきて、しかも今までほとんど真剣に考えたこともなかったイスラム教となると、ちょっとお手上げ状態である。そのためページもなかなか進まなかった。『ローマ帝国衰亡史』は後2冊残っているが、先が思いやられる。この巻に関しても、どのように記述していけばいいか、迷った末、こんな感じになった。

 高校時代に読んだ遠藤周作さんの紀行文(確か『牧歌』という書名だったと思うけど忘れてしまった。以下遠藤さんの文章を私の記憶にあるところで書いているので、正確さは自信がない)に、イスラエルのキリスト誕生の地といわれるところを訪れ、その荒涼さに圧倒される文章を思い出す。ここでキリストが生まれたということが、その宗教にどんな影響を及ぼしていくか考えに耽っていた。
 その自然の厳しさが、教えに父権的な厳しさを帯びさせてしまうのではないかといっていたと思う。
 灼熱の太陽、生き物や木々や草花も殆ど自生していない砂漠の中で、自分達の信仰を保持するには精神の強靱さがないと、その信仰は維持できない。形のあるものがほとんどない現実の世界で生まれた信仰は、形のあるもにすがることが当然出来ない。だからよりどころとするのは自分の精神の中にある形而上学なものに必然的になざるを得ない。当然原始キリスト教もこの精神を引き継いでいた。 ところがキリスト教がヨーロッパに普及していくに当たり、本来信仰は自分の精神の中にあったはずだが、いつのまにか形のあるものにすがることで信仰の篤さを示すことになってしまった。人間キリストが神になったのもそいう理由からだろうし、聖遺物を崇拝したり、豪華絢爛な教会を作ることで、その偉大さや徳を誇示する。ギボンは皮肉を込めて、言う。「もしも聖ペテロや聖パウロのようなキリスト教徒が今日のヴァティカン宮殿へ帰ることできたならば、彼らは多分この壮麗な聖堂でかくも神秘的な儀式で礼拝されている神は一体何という名かと尋ねるだろう」と。

 ではイスラム教はどうであったのだろうか?
 マホメットよりおこったイスラム教は、ユダヤ教やキリスト教より後発であったが、予言者として、アダム、ノア、アブラハム、キリストの存在は認めていた。ただあくまでも彼らは「予言者」であり、所詮イエスは一介の人間だと主張する。そしてマホメットは彼らの後に続いた最高の予言者であった。その上でマホメットは「この世にはただ一つの神がありそしてマホメットはその神の使徒である」と自分を位置づけのだ。コーランは神がマホメットを編集者として、口授したものであった。だから「コーランの実質は神の本性において存立し、神の永遠な布告の目録に光のペンで彫りつけられた非創造にして不朽なるものである」うまく言えないけど、コーランは神そのものであろうか?それがすべてであった。それ以外は認めなかった。もちろん他の宗教の偶像もだ。
 カーバ神殿があったメッカでのマホメットの布教は、当時の為政者にとってみれば危険なものであった。何故なら当時のカーバ神殿は様々な偶像で充ちておりそれを崇拝していたからだ。そのためマホメットはメッカから追放され、メディナに移る。
 しかしマホメットは「自己の宗教を剣の力で宣布して、偶像崇拝の記念碑を破壊し、もはや聖なる日や月に顧慮することなく地上の不信心な諸国民を迫害するよう」啓示を受ける。7年の亡命後マホメットはメッカで君主及び予言者として登位し、カーバ神殿内の360にも達する偶像は無惨に破壊する。
 ここまでは何となく理解できそうである。マホメットはもともとカーバ神殿を管理する一族の出であったし、またメッカから追放されたのだから、自分の権利を回復しようとして、メッカに戻ってきても不思議じゃない。
 ただこの後マホメットの後継者達がシリアからエジプト、そして地中海側のアフリカ北部を通って、スペインまで勢力を伸ばしていくのが、単にイスラムの教えを広めるだけの情熱だけで可能であったのだろうかと思うのだ。
 確かに、当時西ヨーロッパは混乱した状態だったし、ビザンティン帝国も衰退の一途だったから、その属州であったアフリカ北部での力が弱まっていたとしても、しかし史実として、彼らイスラム教徒はアフリカ北部からジブラルタル海峡渡ってスペインまで勢力を延ばしたのである。もしフランクの宮宰カール・マルテルがトゥール・ポワティエの戦いで彼らを撃退しなければ、それこそ、そのままヨーロッパの南側(地中海側)を通って、ローマ、そしてコンスタンティノポリスまで達し、それこそ地中海を一周していたかもしれないのだ。ヨーロッパはキリスト教の世界じゃなくて、イスラム世界になっていたかもしれない。ギボンは、もしこのときカール・マルテルが破れていたら、「定めし今頃はオックスフォードの学位試験でコーランが教授されただろう」と言っている。
 イスラム教徒はこの地域に進行し、支配するに当たり、「コーランか貢納か」の選択をさせ、両方を拒否した場合のみ、住民達を殺害していった。イスラムに改宗するか、それとも自分達の財産を彼らに渡して、自分達の信仰を守ることも可能であった。ある意味緩やかな支配体制だったのかもしれない。つまりイスラム教徒の支配を受け入れる側も、条件によっては、徹底的に破壊、略奪などされない事情があるため、力のあった彼らの支配を受け入れたのかもしれない。
 一方勢力を伸ばしていくイスラム教徒側には、その報酬としてマホメットや初期の彼の後継者達はコーランの教え基本的にを守っていれば、兵士達に略奪した財宝や奴隷、女達を自分達のものにすることを認めていた。この点は割と現実的であった。
 そして戦争になれば、マホメットや初期の後継者達は自ら前線に立ち、兵士達を鼓舞していく。彼らはまさしく予言者であり、王であり、その代理人であった。ここはキリスト教とは根本的に違う。キリスト教の指導者達が剣を持ちながら、自ら異教徒の前に立って布教などしはしない。
 またマホメットや彼の後継者達は、兵士達に戦いで死ぬことは最も天国に近くに行けることだと鼓舞していく。まさしくそのかけ声は芝居じみているけど、極限状態であれば、指導者の一言は兵士達に絶大な力を与えるのだろう。(この精神はもしかしたら現代のイスラム原理主義者に脈々と生き続けている気がしてしまう)
 これらの事情でイスラムの勢力がかくも拡大していったのではないか。ただ単にイスラムの教えを広めていくという宗教的情熱だけじゃ、こうも広範囲に自分たちの支配を広げることは難しかったのではないかと思う。ただ、ヨーロッパまで進出したイスラム教徒はどこでも起こるお家事情で分裂をしていき、その威力が衰えていく。

 さて7巻の時に書いた、私の高校時代の世界史の先生が言った「ユスティアヌスの火」なる兵器の件なのだが、東ローマ帝国にはもう一つ秘密兵器があったようだ。それは「ギリシアの火」と呼ばれるものである。これは先生が言っていた兵器とは違うし、7巻でギボンが言っているものとは違うから、全く別物だと考えていいのかもしれない。(そもそも「ユスティアヌスの火」という兵器自体怪しいから何とも言えないけど)でも気になったので、書いておく。

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 イスラム教徒は直接コンスタンティノポリスも攻撃している。このとき東ローマ帝国はこの「ギリシアの火」を秘密兵器使う。ギボンによると、この兵器はヘリオポリス出身のカリニコスによって発見された。ギリシアの火の主要な成分はナフサという軽い粘りのある可燃性油であって、このナフサを如何なる方法や割合かは分からないが硫黄および常緑の樅から抽出される樹脂と混ぜた混合物で、濃い煙と大音の爆発を生じながら強力かつ執拗な火焔を放射し、その火は単に垂直に上昇するばかりではなく同じ勢いで同時に下方もしくは横へ燃え広がった。それは水を掛けても消えるどころか、火勢は煽られて一層強まった。敵軍の悩みの種はこれが海陸両方で、また会戦でも攻囲でも均しく効果的だった。城壁から大きな手桶で浴びせられたり、石もしくは鉄製の赤くて熱い球に詰めて発射されたり、この可燃性の油をたっぷり浸み込ませた亜麻布や麻屑を弓や投槍に巻き付けて発射された。あるいはガレー船の舳先に据えられた銅筒から発射された。
 この「ギリシアの火」は最高秘密とされたが、最後にはイスラム教徒に盗まれ、今度は「サラセンの火」として14世紀まで使用されたという。

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