2005年11月28日

佐野眞一著『だれが「本」を殺すのか』(下巻)

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 上巻の時に書いたが、私はこの文庫本を読んでみたいと思ったのは、「検死編」を読みたかったからだ。この「検死編」には4つのテーマが組まれている。蔵書の死、読者の死と著者の死、書店の死と雑誌の死、「本」の復活を感じさせる小さな予兆の4編である。

 この『だれが「本」を殺すのか』は基本的に読者の悪口は書いていないか、声が小さい。著者にしてもあからさまに読者の悪口を声高に叫けべば、死活問題に発展しかねないからかもしれない。だからひたすら出版流通の中で問題を求めているようにも思えた。
 しかしこの4編にはいわゆる読者にも本が売れなくなった原因を求めている。やっぱりここにもきちんとふれないと、『だれが「本」を殺すのか』の捜査には不手際が生じてしまうからだろう。

 ここで考えないとならないのは、長引く不況は所得の目減りをもたらし、可処分所得を減じさせ、本を買う余裕をなくしているという事実だ。それでいてこのデフレ時代に再販制に守られた本は、それ以外の商品が値下げをせざるを得ないのに、未だに定価販売をしているのである。つまり本を買わなくなった理由はここにもあるのだ。買わなくなったというより、買えなくなったということなのだろう。
 このことが図書館で発売して間もない新刊を何十冊も買い入れて、貸し出すようになった原因だろうし、レンタルや漫画喫茶など流行らせる原因でもあろうかと思う。あるいはブックオフで本を買う一番の理由はここにあるんじゃないかと思っているし、読んだ本をすぐ処分して換金するのもたぶんそういう理由だろうと思う。

 買った本をどのように処分するかは、買った人の自由ではある。しかしそれをブックオフで売る行為が、著者の生活を脅かすことを知らない人が多いのではないかと思う。また図書館で新刊が多く貸し出されることも同様である。
 著者は新刊書店で買われた本からのみ著作権料を得ている。新刊書店で買われた本にはその著作権料が含まれているが、ブックオフで買われた本にはそれがないのである。もちろん図書館で貸し出されている本にもそれがない。つまり、一度読者が払った著作権料はブックオフまで波及しないし、貸し出しにもそれがない。いくらその本が読まれてもブックオフで買われたり、図書館で貸し出されれば、著者にはお金が入らないのである。
 これを単に法律の不備だから仕方がないじゃないかと言いきれるかと言えば、そうじゃない。このままだと著者いくら苦労して本を書いても生活が出来ないことを意味する。いい本が出来なくなってくるのである。そしてそのつけが読者に駄本を提供するのである。
 去年まで売れていた『バカの壁』が新書判で廉価で売られたのもブックオフ対策のためで、この値段ならブックオフで買っても、新刊書店で買っても大して売値の差が生じないため、ブックオフで買うメリットが少なくなるだろうという考え方があったからと言う。
 こんなしばりがあれば、いい本なんか出来やしない。下手にお金をかけられないのである。少なくとも読者がつまらない本を作り出す原因をここに見ることが出来るのである。
 そしてこのことは、新刊書店の競合相手が実は読者であることにもなるのだ。つまり買った本がすぐブックオフやアマゾンのディスカウント価格で出されたり、図書館で貸し出されるのだから、商売が出来なくなるのも当たり前である。安いからいいやという発想が自分達の読みたい本が出ない理由であることも理解すべきなのだ。
 もっとひどい例をあげてみよう。万引きである。万引き被害額は平均9,400円で、一店舗あたり年間約200万円にのぼると言われている。これは書店の年間売上の1~2%に相当し、通常書店の経常利益が1%と言われているから、万引きは書店の利益をごっそりと奪うことになるのだ。
 これは私が本屋で働いていたときに、商品ロスとして万引きを売上の1%とみていたのとほぼ一致する。いかに万引きが書店の経営を圧迫しているのか分かると思う。この万引きされた本がブックオフに行くのである。換金目的のために・・・。
 これじゃ本屋が潰れるのも分かろうというものではないか。万引きする奴が読者とは言えないだろうけど、こういう現実があるのである。その対策の一つとして本にICタグをくっ付けて、管理しようとしているが、これには費用がかかることと、ICタグ自体が様々な情報が入るので、買った個人の情報さえそこには入ってしまう恐れがあるので、行き着く先には問題があるようである。

 あと面白かったのは、愛書家、蔵書家と呼ばれる人達が今後少なくなる可能性があるということである。いわゆる電子書籍といわれるものが、今後普及したら、自分で本棚を持って本を蔵書する必要がなくなり、パソコン1台あればすむようになるというものだ。確かに欲しい本をインターネットからダウンロードしてパソコンから読むか、プリントアウトして読めば、自分で本をかかえなくてもすむ。
 もっともこれが普及するとは基本的には思わない。事実なかなかインターネットからダウンロードして著作物を得るというのが一般化しないところをみても分かるし、本自体が今盛んにいわれている「ユキビタス」化したものだと思うので、本というメディアはそのまま残るんじゃないかと思っている。けれど、本を蔵書する場所に困らないというのはちょっと魅力的である。

 もう一つ面白いと思ったのが「自費出版」の話である。最近よく新聞に自分の本を出しませんかという自費出版を勧める出版社の広告見かけるが、あれが案外ニーズがあるらしい。しかしこの自費出版をする出版社というのが胡散臭いものらしく、そもそも自分で本を出したいと思う輩の文章というのがひどいらしく、読むに堪えないものらしい。それを本にして出版し、書店に流通するというのだから(わずからしいが)ひどいご時世である。
 でも、殆どが自費出版をした人が費用と自分の本を持つことになり、挙げ句の果てに知人や友人に配るらしい。この配られた本を「饅頭本」という。その由来は、葬式の時に配られる饅頭からで、「よろしかったら召し上がりませんか」というものからくる。これは聞いたことがあったが、こんな本もらってもうれしくもない。実をいうと私のところににもこんな本があるが、正直こんな本は自分の本棚には置きたくない。これは以前結婚式に招待されたときに、新郎新婦のにやけたの写真の入ったテレカをもらったのと同じで、使うに使えないのだ。本人だけが満足しているだけで、処分にも困る。だいたい「誰でも著者になれます」なんて言うこと自体、本を書くことを生業としている人を馬鹿にしているものはないんじゃないかと思う。

 まぁ、とにかくこの業界は、まか不思議な状況になっているようだ。

2005年11月24日

佐野眞一著『だれが「本」を殺すのか』(上巻)

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 まずは思うところから始めたい。これから言うことは、きっと本屋業界から撤退せざるを得なかった人間としては、負け犬の遠声に聞こえてしまうだろうし、多分そう取られて仕方がないとは思うけど、それでもあえて言いたいから書くことにする。

 かねがね不思議に思っていたことがある。書店組合の千代田支部の年会費が指定した日時まで振り込むと、1ヶ月分安くなるのである。年会費なんだからちゃんと12ヶ月分徴収すべきだと思うのだが、どうしてこんなことをするんだろうか?年会費をきちんと納めない書店があるということなのだろうか?だったらこんな書店は組合から除名すればすればいい。
 あるいは組合費が正統な理由で使われていないから、引け目を感じてこんなシステムを採用しているのだろうか?
 ちょっと前に組合がつまらないCDを作ったことを批判した。おそらくこのCDだって組合費からまかなわれているのだろう。またよく組合で旅行など行くけれど、それもかなり格安の会費で行っているところみると、不足分はきっと組合費から補填されているのかもしれないと疑っている。この旅行に参加するのは、殆どが書店の経営者で、そいつらの飲み食いに組合費が使われている。組合に参加している書店には志のある書店員だって多くいるだろうけど、こういう人達に組合はどれだけの援助をしているのか。経営者の親睦会に金を使うなら、こういう若いやる気のある書店員をサポートするのにお金を使った方がもっと有意義だと思うのだけど。

 本屋をやっていた頃、朝荷物を開けるまで、その箱にどんな新刊が入っているか分からない。そこにはそのお店の意志など一切なく、荷物は問屋のパターン配本(過去の売上実績に基づいたデータ)に従って割り振られた新刊が入っているだけ。もちろん売れそうな大手出版社の新刊、発売前に話題になっている本など入っていない。まさしく開けてみてのお楽しみといった感じなのだが、大半が裏切られる。欲しい本がないのだ。
 これじゃ返品率が高いのは当たり前である。だっていらない本ばかりじゃ返品するしかない。そのままにしておけば、請求がたってしまうのだから当然である。しかしこれはよく考えてみるとおかしな話で、いらないと言っているのを無理に買わされているのと同じで、訳も分からない品物にお金を払っていることになるのではないかと思うのだが、不思議と中小書店さんは何とかお金のやりくりをして、問屋にお金を支払っている。幸い返品ということが出来るので、そうしているのだろうが、いらないものがはっきりしているなら、最初から払わないことにこしたことはないのではないか思うのだが・・・。
 極端な話、中小書店を潰すのは問屋サイドからすれば簡単だ。売れそうもない駄本をバンバン送りつけて、どんどん請求をたててしまえばいい。いくら返品できるからといっても、こんなことを続けられたら、多分その書店は保つまい。
 地域にある本屋さんが「金太郎飴」みたいに同じ様相を呈しているのは、まさしく問屋の配本にいつまでも頼っているからである。それでいて欲しい本がない。つまり品揃えを問屋の配本に任せているからそうなるのであって、これじゃ中小書店が生き残れるはずがない。
 こんなことが可能なのは、問屋が本の配送を支配していたからで、問屋が本の配送をしてくれないと本屋に本が入荷しないシステムだからである。いつまでもこんなシステムにしがみつかないと商売が出来ない方がおかしい。そこには自分達の生命線をすべて問屋に任せちゃっている部分があるのではないかと思うのだ。
 確かに問屋が機能していればいいけど、はっきり言って満足するような形で我々中小書店に機能していないのは明白である。私は以前アマゾンドットコムに関する本を読んだとき、アマゾンが今の出版流通システムから離れて、出版社と直取引をすることで、収益と商品確保を目ざしているのを感じた。

 私は基本的に再販制度はもう機能しないと思っている。今の再販制度と委託返品制度を維持しているから、こんな馬鹿げた問屋に依存しなければならないのだと思っている。書店にしたって返品という安全パイがあるから、仕入に責任を持たない。
 これが全部買切になれば、下手な仕入がそのまま命取りになるから、仕入に真剣にならざるを得ないだろう。仕入れた本を責任を持って売るということがないから、どんなにつまらない本が新刊として送られて来ても、ただ不平不満を言うだけで、何ら次の行動に移らない。
 また商品として本に売値が書店サイドで付けられないのもおかしな話だと思う。書店が自信を持って仕入をし、売ろうと思っているなら、自ら売値を設定していいはずだ。同じ本がどうして値段が同じじゃなければならないのかよく分からない。文化的価値のあるもんだからというなら、それは理由にならない。だってたとえば馬鹿なタレントの書いた本(おそらく自分じゃ書いていないのではないかと思うけど)でも、文化として認められるのかと思うのだ。
 お店によって同じ商品の値段が違ってもいいと思うし、当たり前だとも思う。責任を持って仕入をするということは、それを買い切って仕入れることを意味し、どうしても売らなければならない。そうなればきっと様々な工夫が生まれるはずだ。たとえばそれだけリスクを負うわけだから、仕入正味だって交渉の余地があるだろう。仕入正味だって下がる可能性がある。それをお客様に提供できれば差別化も出来るだろうし、もっといい意味で書店の側でその本を売りたいという気持ちがお客様に明確にできれば「金太郎飴」みたいな書店など生まれるはずがない。
 今の出版システムがきちんと機能しているならともかく、現状のシステムが完全に麻痺してしまっているのに、それにしがみついて一体何が生まれるのだろうかと思う。再販撤廃が様々な可能性がたくさん秘めているのに、しかもそれにトライしないのが分からないのだ。
 再販撤廃が中小書店がなくなるという不安は、結局何もしない書店が言っているだけのことで、そんな本屋さんなんかなくてもかまわないし、何の魅力もないだろうと思うのだ。力がないというなら、こういうときこそ組合がまとまって、それこそ独自の問屋を作るという意気込みぐらいあってもいいと思うし、そういうときこそお金を使えばいいのだ。幹部とか称するくだらない人間の飲み食いのためにお金など使うのなら、また殆ど意味のなさないCDなど作るくらいなら、その方がまだいい。(もちろんそれだけじゃ当然足らないだろうけど、取っかかりくらいはなるだろう)
 中小書店一つ一つが力がなくても、組合としてまとまれば大きな力として生まれる可能性がある。そういうもんじゃないのかと思う。今出版業界で元気のあるインターネットを使ったオンライン書店など、様々な可能性を模索しているから元気があるわけで、それをのほほんとみているだけじゃ能がない。挙げ句の果てに他業種の参入を簡単に許し、いつのまにか自分達の生活が脅かされているのに指をくわえて見ているだけじゃ話にならない。

 この『だれが「本」を殺すのか』(新潮文庫)を読んで、まずはそんなことを思った。この本にも書いてあるが、まさしくこの通りだと思う。
 「日本の出版業界は中小企業の集合体でしかない。しかも悪いことには、版元、取次、書店がお互いもたれあいの関係でやってきた。そんなぬるま湯的業界に導入された再販委託制は、考えてみれば、お互いの善意を随分と信じた制度だともいえる。号令一下できるリーダーは不在だったし、集まれば集まったで、議論ばかり先行して実行力がまったくともなわないままにきたのが出版界だった。これでは口は出すが金は出さないケチな業界の典型とバカにされつづけてきたとしても仕方がないだろう」

 この親本を読んだのはいつだったろうか?つい最近のような気がするが、何だかだいぶ以前の話のように感じるのは、それだけこのわずかの間に出版界の状況が、ここに記載されていることより変わってしまっているからだろう。著者もそのことが分かっているみたいで、この文庫版は親本からだいぶ書き加えられている。それを読みたくて、あえて文庫版を読んでいるわけだ。後で付け加えられているのは、上巻の「文庫版のためのやや長い前置き」と下巻の検死編である。
 それにしても再度読み直してみても、イトーヨーカ堂およびセブン-イレブン・ジャパンの最高経営責任者、鈴木敏文さんが言い切る言葉、「自分たちが発注して、自分が本を揃えるという発想がなく、取次から送られてくるものをただ並べている。この感覚じゃあ、絶対に生き残っていくことはできません」はもっともだと思う。
 ではそのためにはどうすればいいか。鈴木さんは生き残るためのシステムを作ればいいという。そのためにお金をかけなければならないのだという。
 「セブン-イレブンだってこれまで、いろんなシステムづくりをここまでやってきたんです。今度の第五次のシステムだけで五百~六百億円の新しい投資をしているわけです。それに比べたら、これは出版界全体の問題です。版元と取次も書店も一体になって一千~二千億の投資をしなくちゃいかん時期でしょう。そうすれば自ら道が開ける」と言い切る。まさしくその通りだと思う。もう現状のシステムが機能しない以上、こういうことを考えていかなければならない時期に来ていることを、バカな書店主は自覚すべきなのだ。足下に火がついているのに、組合費で旅行や酒など飲んだいる場合じゃない。

 さてこの上巻で付け加えられた「文庫版のためのやや長い前置き」に面白いことが書いてあったので、それを書く。

「日本の人口と大学進学率を急速に押し上げた「団塊の世代」は、まもなく総退場の時期を迎えようとしている。彼らはよくも悪しくも「本」をヘビーユーザーする中心世代だった。知的虚栄心にいじらしいほど素直に囚われたその世代は、こむずかしそうな人文科学や社会科学の専門書、フランス直輸入の哲学書、にわかづくりの書斎を飾るにふさわしい金ピカの文学全集などの標的となる、恰好の顧客でもあった」

 この文章はかなり自虐的なものだけど、確かに成金趣味的に装飾として本が買われていたことは事実だろうが(平凡社の百科事典が馬鹿みたいに売れたのを見ても分かる)、一方で少なくとも今の若い連中と比べてみたら、本を読むことで自分の知的欲求を満たそうとしていたんじゃないか思う。たとえば中央公論の『世界の名著』の1巻である「ニーチェ」が70万部も売れたのもそうだし、岩波書店の『講座・哲学』だって10万部以上も売れたのも、きっとそういう理由だろう。(現在なら、『世界の名著』なら100分の1、『講座・哲学』なら20分の1しか売れないだろうと関係者は言っている)
 ところが現在の今の連中は自分の馬鹿さ加減を「天然呆け」と称して、半ばそれを賞賛するところがあって、いかに自分の馬鹿さ加減を露呈しているかということさえ分からずに、恥ずかし気もなく曝すことがいいような風潮になってしまっている。本を読むことがすなわち知的になれるなんて決して思わないが、少なくとも知りたいという欲求は団塊の世代の人達にはあったし、それを本を読むことで満たそうとしていたところはあったのではないか。
 もちろん現在は本だけじゃなくて、たとえばインターネットでも簡単に知的欲求を満たすことができるが、それでも本を読むことが手間がかかる分、考えるという作業をしていたはずである。今は情報が簡単に手に入るし、人の考え方でさえ疑いもせず鵜呑みにすることで満足してしまっている。つまり自分で考えることをしなくなってしまったような気がする。多分その方が効率的で便利だという理由からだろう。
 そういう世の中だからこそ、本が売れなくなって、読まれなくなっている。また作る方も堅い本が売れない以上、駄本を出して、一時的に売上を上げることで収支を合わせようとするが、その後の返品の多さで、収支を悪化させ、それを更に改善しようと、どうでもいいような本を出し続けるしかなくなっていく。いわゆる自転車操業である。そこにはいい本をじっくり売っていこうという姿勢など微塵もない。すぐ数字が出てくる寿命の短い本しかないという結果になってしまう。
 本屋が悪いのか、それとも出版社の出す本に内容がないのか、または取次の能力の硬直化がそうさせているのか、あるいは世の中が考えることを放棄してしまっているからか、いずれにせよ、本を取り巻く環境が著しく変わってしまっていて、それに対して何ら対策を打てないのが現状なのだろう。日本人全体が総痴呆化しているんじゃないかと、自分自身の馬鹿さ加減を棚に上げて思う次第だ。たぶん本が売れなくなった理由はこのあたりにあるんじゃないかと思っている。

2005年11月23日

日本経済新聞社編  『ドキュメントダイエー落城』 

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 私の自宅の近くにあるダイエーが不採算店舗に上げられ、今月末で閉店になる。その前にちょっと行ってみようと夫婦二人で出かけてみる。この店は開店から23年たっていることを知ったが、それはそれはひどい状況になっていた。もう商品はほとんどなく、テナントで入っていた店はみんな撤退済みで、空きになっている場所を何故か紅白の垂れ幕で隠していた。売り尽くしセールだから、紅白の垂れ幕なのだろうとこじつけて考えられないことはないが、どうも場違いのような気がする。実際問題、閉店間際になると、見てくれなどかまっていられないのが実情だろう。天下のダイエーがこうなるとは、落ちぶれると惨めなものである。
 バブルの後遺症というのは本当にすさまじいものだと身近で感じた。一時は三越の売り上げを超え、小売店業界の頂点に立った大きなスーパーがなくなってしまうのだから恐ろしいものである。

 この『ドキュメントダイエー落城』(日本経済新聞社刊)は今年のはじめに読んだのだが、たまたま近所のダイエーが閉店になるに当たり、思い出したので収録してみた。

 ダイエーの経営方針は土地を中心とする資産の取得、それから出てくる含み益、担保力からの資産の調達であって、「土地本意経営」と評されていた。決して本業からの収益で日本最大の小売業として成長したわけではない。
 このことは、バブル経済がなしえたことであって、そのバブル経済が崩壊したときに、ダイエーの崩壊も始まる。バブル期に異常に値上がりした土地が、急激に資産価値を落とせば、含み益どころか逆ざやになり、担保価値も必然的に値下がりするには当たり前だ。その上元々本業に力を注いでいない状態あったのだから、そこからの収益はバブル崩壊ともに激減する。いつの間にかダイエーは「不良債権」の代名詞となり、銀行のお荷物となっていく。
 そこに今度は銀行事情が絡んでくる。そしてそれが更にダイエーの崩壊に拍車をかけていく。
 景気のいいときはおそらく銀行はダイエーが持っている資産を担保にどんどんお金を貸していったのだろう。ところがそれの価値がどんどん下がれば、今度は回収に急いで回る。態度を豹変するのだ。銀行に公的資金が投入され、2002年10月に竹中平蔵金融相が打ち出した「金融再生プログラム」によると、2005年3月末まで大手銀行の不良債権を半減させる目標があり、当時大手銀行の不良債権比率は8%強あったものを、4%まで引き下げなければならない。
 ダイエーの取引のある主力行、特にUFJ銀行は金融庁の検査妨害までして、不良債権の山を誤魔化してきたが、それが出来ないとなると、必死にその処理を進める。
 主力行はダイエーに産業再生機構の活用を強く求め始める。それは産業再生機構を活用すれば、非主力行からの債権買い取りが終わって再建計画が確定した段階で、貸出債権を正常債権に格上げすることが認められ、ダイエーの不良債権を「要管理債権」から「正常債権」格上げでき、大きく不良債権残高を減らすことが出来るからだ。そのため銀行は本当にえげつないほどの行動を取っている。いわばなりふり構わずだ。
 ここで銀行の勝手な都合によりダイエーは崩壊したのだ。

2005年11月18日

沢木耕太郎著『凍』

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 沢木耕太郎著『凍』(新潮社刊)は山野井泰史・妙子夫婦が2002年の秋ヒマラヤのギャチュンカンを登攀した時の壮絶な死闘を描いたノンフィクションである。
 私は登山というものに全く興味を持たない人間なので、どうしてこんな山に登るんだろう思ってしまう。しかもこの本を読むまで、一つの山に様々な登山ルートがあるなんて知らなかったのだ。同じ山を登るにしてもいろいろな方向から、単に登るのではなく、そこがいかに困難なルートで、しかも誰もそれに挑んでいないルートをわざわざ探して登っていくのである。山野井泰史は言う。「困難な壁に全力でぶつかっていったとき、初めて自分の力を感じることができる。それに、すべてがわかっており、まったく安全だというなら、登る必要がない」と。
 その上山野井泰史には1つのポリシーというか、スタイルがある。彼はソロ・クライマーでできる限りロープを使わず、フリー・クライミングを主流にして、山の崖を手と足でよじ登っていく。もちろん酸素ボンベも持たない。

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 このギャチュンカンは7,985mで8,000メートルを超えるヒマラヤの山々から比べればわずかに低いが、それでも標高差二千メートルに達しようかという壁がどっしりっとそびえ立っていた。しかもネパール側からは3つのパーティーが登っているが、チベット側から誰も登っていない山であった。
 山野井泰史は妻妙子と二人でこの山を北壁から登ろうとする。日本を出発する日、山野井泰史は見慣れた風景をもう一度見られるだろうかと思うのだった。つまりギャチュンカンから生きて帰ってこれるだろうか思いつつも、そこへ向かう。そういう不安があっても彼らはギャチュンカンに向かうのだった。そもそもこの夫婦には山しかなく、生活のすべてが山のためにあった。
 現地へ行ってみると、予定していた北壁の状態が余りにも悪く、ルートを北西壁に変える。二人でベースキャンプから登り始めるが、7,600メートル付近で妙子の体調不良が激しくなり、登頂を断念し、山野井泰史一人で山頂を目指す。単独登頂を成功させ、今度は下ってくる。
 ところが急に天候が悪化してきた。しかも雪崩に巻き込まれる。妙子は雪崩で吹き飛ばされるが、幸い何とか助かる。しかしそれ以後何度か雪崩に襲われる。そのうち二人は目をやられ、見えなくなる。
 これも知らなかったが、この手の山登りは上りより、下りの方が危険なのだ。上りは目標が絶えず目の前にあるが、下りは頭は頂上側にして、手探りで、岩にはいつくばって下降していくため、かなりの危険を伴う。アイゼンで足場を確保するために、けり込んでいくが、だんだん足の指の感覚がなくなっていく。凍傷である。しかも目をやられて、ハーケンがうまく打ち込めない。仕方がないので手袋を外し素手でハーケンを打ち込める場所を手探りで探す。当然手の指が凍傷になっていく。「一本打つたびに一本ずつだめになっていくような気がした。左の小指、左の親指、右の小指、右の親指・・・・」
 山野井泰史の左目は何とか回復したが、妙子の目は両方が見えないままであった。しかしそのままでも少しずつ下降してしていかなければならない。
 当初の予定では五日間、遅くとも六日でベースキャンプに戻ってくると言ってアタックをかけたのだが、七日目に入っても戻れなかった。それも何とか無事に生還するが、この登山で山野井泰史は手の指5本と右足の指全てを、妙子は両手の指の全てと足の指8本を、凍傷で失ってしまうのである。

 ここまでは、ただ壮絶な自然との闘いの中で、手足の指を失うリスクを負って生還した山野井夫婦に感動していた。が、どこか何か引っかかるところが私にはあった。それが何だか分からないままページを進んでいったとき、山野井夫婦が日本に帰って、凍傷の手術を受け、かなりの指を失なった後、妙子は障害等級3級から2級に認定され(以前に山を登って凍傷で指を失っている)、山野井自身も6級に認定されたというのを読んで、障害等級の認定?何だそれと思ったのだ。彼らは障害者なのだろうか?確かに指がないから障害者だといえば言えるのだろう。でも、たとえば病気や不慮の事故で望んでもいない障害を負った訳じゃない。自分達のやりたいことやって指を失ったのである。少なくとも彼らは病気や事故で障害を負った人々とは基本的に違うはずだ。
 これを思ったとき分かったのである。そうなのだ彼らは自分達のことなのにすべて人ごとのように自分達を扱っているのだ。
 ギャチュンカンで遭難して、心配している人達がいるのに、「ギャルツェン(現地で雇ったシェルパ)、死んでいると思っているかな」と山野井が言えば、妙子は「そうかもしれないね」と答えたり、悪天候の中ベースキャンプに何とかして戻ろうとしている途中でも、「死んじゃうかもしれないからな」と言って自分達の写真を撮ったりする。それが何だか非常にやりきれなかった。
 人が生きるうえで他の人に迷惑をかけないことは絶対にあり得ないのだが、彼らの危険な行動は、避けることができるものを、何だか無理に他人に押しつけているように思えたし、またそれが分かっているのに、それでも自分達の境遇を人ごとのように言うのが私にはちょっとなぁと思えたのだ。もっともそんなことを言っていたらこんな山なんて登れないのだろが、それでもなぁ・・・。クライマーとしては一流であっても、人間的にはどうなのだろうか?本当に人間って厄介な動物だ。

2005年11月16日

松本清張初文庫化作品集1『失踪』

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 本当に久しぶりに松本清張さんの作品を読む。高校時代清張作品にはまってかなりの作品を読んだことがある。松本清張さんの作品を読むのは、考えてみればそれ以来かもしれない。
 しかしその殆どが忘れてしまっている。この『失踪』(双葉文庫)に収録されている短編の2作ぐらいもしかしたら当時読んでいたかもしれない。

 松本清張さんの作品はいわゆる社会派推理小説といわれ、最近のミステリーみたいに大がかりな仕掛けなど殆ど使われない。むしろ人間関係に潜む憎悪や欲が生む犯罪の謎解きが主流である。それに過去にちょっとした秘密があったりすると、それがスパイスになっていく。
 だからその人間関係に潜む憎悪や欲を解き明かせば犯人が分かっていく。もちろんトリックがない訳じゃないが、わりと普段どこにでも見かける風景の中にそれがあるから、謎解きを楽しんでいると、時にハッとすることもあったりして、またそれが楽しかった。ただあくまでも主眼は人に置いている。

 この本は「草」、「失踪」、「二冊の同じ本」、「詩と電話」の4編の短編が収録されている。推理小説なので内容を書くわけにもいかないので控えるが、個人的には「二冊の同じ本」が面白かった。実を言うとこの題に惹かれてこの文庫を買ったようなものなのだ。私は本にまつわる推理小説が好きなのだ。どうやらこの松本清張さんのこの文庫はシリーズ化されそうだから、これからも読んでみようかと思っている。

2005年11月15日

角田光代著『対岸の彼女』

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 久しぶりに女性作家の小説を読む。でも何か重苦しい感じでいた。どうも女性の感覚って理解できない。はっきり言って苦手だ。
 どこか現実的で、息ができなくなるほど閉塞感がつきまとう。そんな女性の人間関係の複雑さがここでは描かれる。

 旅行代理業の社長である葵の高校時代の思い出と、現在の仕事関係が平行して物語が進む。
 高校時代、葵はクラスメイトと仲間外れにならないよう、友人達に気をつかいながら仲間に入っていく。クラスにはいくつかの仲間関係が出来上がっていたが、その仲間から外れた女の子はいわゆる「いじめ」や中傷の対象になっていく。葵はそれが恐ろしいから、何とかうまく振る舞う。
 その一方でナナコと意気投合し、女の友情関係をクラスの仲間とは別に築き上げる。ナナコには複雑な家族関係があり、クラスの仲間から完全に距離を置いて、一人でいたが、葵とは自分の家族関係以外何でも話し、笑えあえる関係であった。
 そんな葵はナナコに誘われて夏休みに海にある民宿で泊まり込みのアルバイトをする。二人でバイトをすることで充実した時間を共有していった。しかしそのバイトが終わって、家に帰ろうとしたときナナコが帰りたくないと泣きながら言い出す。結局葵とナナコは家に帰らず、アルバイトで稼いだお金を使って家出まがいの行動する。ホテル住まいはお金がかかるからラブホテルで泊まり、ディスコで食事をして二人で過ごす。時にはそのディスコに遊びに来る男どもに食事を奢ってもらいながら過ごすが、手元のお金がどんどん少なくなっていく。
 かつて葵が住んでいた横浜のマンションを二人が訪れたとき、完全に疲れ切ってしまい、そこから飛び込めばラブホテルも探さなくていい。金策に悩まなくてもいい。何もかもうまく行く場所に二人でいけると、二人は飛び込み自殺をしてしまう。幸い未遂で済んだが、葵はナナコと別れることになる。
 結局友情関係は、心底二人を一緒にするものではない。個々に別々の家族や生活があり、その上で二人の友人関係が成り立っている。二人の友情はお互いのすべてを埋めるものではない。それを求めたとき破綻する運命であった。

 そんな葵が旅行代理業を営むかたわら、事業拡大で同じ大学を卒業した小夜子を雇い入れる。小夜子は主婦であり、子育てをしている中、うまく主婦仲間に入り込めないし、子育てにも不安を感じている日々を過ごしていた。そんな現状を打開するため葵の会社に就職する。
 小夜子は汗を流して仕事をしているうちに、だんだん生きることに自信を取り戻していく。さらに葵の会社仲間と付き合ううちに、人間関係にも自信を取り戻していく。
 葵も小夜子を信頼し、二人の関係を深めていこうとし、小夜子が家に帰らなければならないのに、温泉に誘う。そこには葵が小夜子を自分の方へ強引に引き寄せようとする意志がある。しかも小夜子が持っている家族という現実を無視してである。それはかつてナナコが葵を民宿のアルバイトに誘ったときの強引さと同じである。小夜子も現実の生活に不満があるから、冒険心も伴って、葵の提案を受け入れ子供と一緒に葵と温泉に行くが、結局小夜子には家族があり、それを犠牲にできずに帰っていく。
 また会社仲間にも葵との亀裂が生まれ始め、次から次へと仲間が辞めていく。小夜子も同じように葵の会社を辞める。
 しかし一度葵の会社を辞めた小夜子は葵との関係を完全に断ち切れず、また葵の元を訪ねる。ここで働くことが、葵との友情関係を継続できることにはなるが、一方でそれは小夜子の家族が崩壊しかねない予感がしてしまう。
 つくづく人間関係は難しい。特に女性は既婚と未婚、OLと専業主婦、子供がいるいないでかなり立場や考え方が違っちゃうようで、時にはそれが仲間意識を醸し出すが、時には徹底的に排除してしまい、受け入れることができなくなってしまうようだ。
 もともと人それぞれ生活があり、考え方がある。ある部分で友情関係や信頼関係が成立していても、それはそれらを犠牲にして成り立つことはないと思う。何もかも一緒ということは基本的に無理だろう。もしかしたら女性はそういう完璧な関係を求めるのかもしれないが、少なくともそれは男の私にはよく分からない。むしろそういう関係がわずらわしいので、こんな関係を求められたらたまらないと思う。だからこの本を読んでいて、嫌な気持ちになったのかもしれない。

2005年11月14日

土師 守・本田信一郎著『淳 それから』

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 この本は土師さんの2作目となる。私は神戸の連続児童殺傷事件の関係者の本やルポを何冊も読んできた。もちろん土師さんの1作目も読んでいる。
 今回この『淳 それから』(新潮社刊)ではあの「酒鬼薔薇」こと少年Aが出所してくるに当たり、土師さんがどのように思われているのか知りたかったので読んでみた。さらにあの事件の後土師さんはどのように事件と関わってきたのかも知りたかった。

 この国は本当におかしな国だとかねがね思っている。被害者である土師さんがマスコミ報道に曝され、加害者である少年Aは少年法によって守られているのだ。他にも少年が殺人事件を起こしても、彼が少年であるということで、マスコミには名前も報道されない。一方被害者は写真付きで報道される。もちろんその家族も報道という名の下にプライバシーもあったもんじゃない状況に陥れられる。 マスコミは加害者が逮捕され、法律で保護されてしまうから、思うように報道できない。すると今度は被害者に「報道の自由」、「知る権利」を御旗みたいに掲げて、報道がなされる。被害者がマスコミの暴力に曝されるわけだ。これは前作もそうだったけど、かなり悪質なもので、ただでさえ、被害にあって悲しみにくれているところに追い打ちをかけるような理不尽な行為がなされる。
 マスコミの言う「報道の自由」、「知る権利」は分かるが、それは結局知りたいという国民の欲求がそうさせているところがあるんじゃないかと思う。つまりマスコミはその欲求を満たそうと代行しているのである。事件のことは知りたいけど、それが被害者を更に苦しめることになるなら、そうさせてはいけないとマスコミに分からせるのはむしろ我々国民じゃないかとも思う。
 ところが日本人は他人の不幸は密の味というところがあるから、自分と直接関係ないところで起こった事件は全く別物と考えてしまう。だからいつまでたってもマスコミが勝手放題に報道するのだ。土師さん家族の気持ちを踏みにじってまでも、少年Aの母親に手記を書かせたり、本来土師さんが知りたいと思って開示を求めても開示されなかった裁判記録が漏れて雑誌に掲載されたりするのもそういう理由からだろう。
 それだけじゃない。この少年Aを裁いた判事のおしゃべりにも呆れる。「少年Aが無事社会に戻ったとして、それから、さらに五十年もの年月が経過した遙か将来のことを、今イメージしている。すでに古希に達した老人Aとその弟たち、山下彩花ちゃんのお兄さん、土師淳くんのお兄さんが、月に一回、地域の小学生や中学生、高校生や大学生らと、北須磨のタンク山や公園に集まり、みんなで山や公園の清掃をしている。その謝礼でお花を買い、彩花ちゃんと淳くんのそれぞれのお家に届け、二人のことをしのぶ集い持つ・・・・」という手記は一体何を考えているんだろうと思わせる。こんな判事に少年Aを委ねたのかと思うときっと土師さんはやりきれなかっただろうと思う。

 判事からしてこうなのだ。更正という名の下に少年法がある。犯した罪を償うことよりも、どちらかといえば少年の更正に重点が置かれてしまうのだ。人権という名の下にだ。
 もともと他人の人権を破壊した奴に自分の人権が主張できる理由がどこにあるのか正直分からない。「人権」といえば何でも許される風潮がたまらない。
 裁判が非公開で、しかも被害者家族を入れないで行われるのも、「人権」のため。しかし被害者には「どうして自分の家族が犠牲になったのか」当然知りたいはずだし、知る権利があるはずだと思うが、犯人が少年というだけでそれが知り得ないのは、いくら少年法が少年の人権を保護する理由があるからだといってもおかしな論理だと思う。百歩譲って、加害者の人権を主張するのはいいとしても、それが被害者やその家族の人権を無視して主張されるのはどう考えたっておかしい。加害者の人権のために被害者は我慢しろと言っているもんだと思う。

 こういう理不尽な法律が少年法だけじゃなくて、様々な刑法や法律にある。土師さんやその他の被害者家族が悲痛な叫び声を上げて、やっとわずかだけど被害者の立場に立った法律が生まれてきているけど、きっとまだまだ不十分なのだろう。まずは被害者の立場に立ち、更正ではなく、罪をどうして償わせるかを先にしないと、いつまでたっても被害者は報われまい。そんな気がする。

 「前日の2004年の12月31日、大晦日のことですが、あと2時間ほど新しい年にかわるという時間でした。
 テレビをぼんやり見ていた私は、ふと加害男性のことを考えました。
『あと2時間ほどで、彼は本退院になるのだな。そして晴れて自由の身になるのだな』
 と思いました。
 何となく釈然としない思いが私の頭の中に渦巻いているのを感じました。
 私たちの次男は、彼に大事な生命を奪われてしまい、もう二度と私達の前に、元の姿を見せることはありません。
 それに反して、私たちの次男の人生を断ち切った加害男性は、7年という期間、少年院で教育受けたうえで晴れて退院し、自由の身になって平然と社会に戻ってくるわけです。
 法律的には、そうなることは理解していますが、頭の中で理解しているということと、納得がいかない感情とは別なことです」

 と土師さんは書きつづっているが、まさしく報われない自分達の気持ちと少年Aの退院という現実を複雑な気持ちで言い表している。

土師 守・本田信一郎著『淳 それから』の続きを読む

2005年11月13日

本多孝好著『MOMENT』

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 この病院には「必殺仕事人伝説」というのがあった。それは死を間近にした患者の願い事をかなえてくれるというものであって、その仕事人は掃除夫の格好ををしているという噂であった。
 大学生の神田は掃除夫のアルバイトをしている。入院している老女に頼み事を、授業料の23万9千円で引き受けた。それは老女が昔愛した男に捨てられたことの復讐をすることであった。神田はエキストラを雇い、幸せな家族の中にその老女がいることを男に見せつける。神田の口座に百万近くのお金を振り込んで老女は死んでいった。神田はそのお金を返却することが出来ず、以後4回分の必殺仕事人の仕事をすることになる。
 仕事人といっても、大したことではなく。末期の膵臓ガンでおかされた老人が南方戦線で自分の部下を日本刀で斬れと命令した上官の息子の素行調査を頼まれたり、重度の心臓病を患っている少女が、自分の友人が自殺した原因である男を捜して欲しいと頼まれたり、乳ガンを再発した女性にデートを一緒にしたり、借金取り追い回されて、保険金名義人を変更しろと迫られる会社の社長がこの病院に昔からあった別の仕事人に自分を殺してもらう依頼したの出来なくさせたり、言ってみれば些細な頼み事を引き受ける。
 こうして依頼者の悲しい人生の物語を展開していく。でもこういうのってフェアじゃないような気がする。だって病院という世界で、死を間近に控えた人間を物語にしたら、たぶんそこには不合理な死を前にして、すぐ自分の人生に納得が出来ないところがあるはずだろうから、いくつも悲しい物語が出来てしまう気がする。しかもわざわざ「必殺仕事人伝説」というのまで作ってそれを引き出すのも無理がある。こういう設定はちょっとなぁと思う。
 『真夜中の五分前』はいい小説だと思っていたので、この著者は気になっていた。だから今回この著者の文庫を読んだわけだが、正直がっかりしてしまった。まぁ同じ著者でもいい作品本と悪い作品があるだろうから、今回この『MOMENT』(集英社文庫)は失敗作に属するんじゃないかと個人的に思っている。

2005年11月10日

ギボン著『ローマ帝国衰亡史』第11巻

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 ついに最終巻まできた。もう東ローマ帝国は、「今やローマ世界はマルマラ海と黒海の間長さ約五十マイル、幅三十マイルに過ぎぬトラキアの片隅に縮小して、もしもコンスタンティノポリスのまだ残る市域が一王国の富と人口を代表していなかったならばドイツかイタリアのちっぽけな公国にも及ばぬ広さに落ちぶれていた」かつて持っていた領土は殆どがオスマントルコに奪い取られ、自分達で回復する力さえ持ち合わさなかった。風前の灯火であった。滅亡はもう時間の問題だったが、幸いチンギス・ハンやその末裔がアジアからヨーロッパへ進出してきた。彼が死んだ後、モンゴル民族の国がいくつか出来たが、その中のチャガタイ・ハン国の武将ティムールが台頭してきて、世界征服を企み、その版図はアム・ダリア以北の中央アジア・ペルシア全域・東はインドのデリー・西はロシアのモスクワやアナトリア半島(トルコ)にまで及んだ。そのため一時オスマントルコの勢力は著しく弱まった。このことは東ローマ帝国の延命を意味したが、ティムールの死後、再びオスマントルコは勢力を取り戻し、東ローマ帝国にとって再度脅威となっていく。
 東ローマ帝国はもう自分達でオスマントルコを排除出来ず、西ヨーロッパに助けを求めざるを得なくなった。そのため、ヨアンネス5世パラエオログスら3人の東ローマ皇帝は度々西ヨーロッパを訪れ、ローマ法王やイギリス、フランス、ドイツの諸侯に助けを求める。
 東ローマ皇帝たちはローマカトリック教会と一緒になることで、再度十字軍を編成してもらい、オスマントルコの脅威を取り除いてもらいたかったが、しかし、ここに至ってもまた宗教問題が障害となってなかなか話がまとまらない。
 一方西ヨーロッパでもそう簡単に軍隊を派遣できない事情があった。イギリスとフランスは百年戦争の最中であったし、ドイツもそれぞれの封建領主がバラバラな状態で君臨してまとまりに欠けていたし、ローマ法王も以前のような絶大な権力に陰りが見え始めていたのだ。
 それにしても、東ローマ皇帝が西ヨーロッパの諸侯やローマ法王に助けを求めることだけでもかつての栄光はどこへいってしまったのだろうと思うけど、それだけじゃなくて、その訪問の旅費や皇帝不在の間、国を守ってもらうために兵士を雇うお金さえなく、ローマ法王に出してもらうしかない状態であったのには、さすが目を覆いたくなる。

 ついにオスマントルコのメフメット2世は「その代わり一層貴重で重要な贈り物が欲しい-コンスタンティノポリス」と言わしめ、コンスタンティノポリスの攻撃を始める。一方、東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティヌス11世パラエオログスは「もはや誓約も協定も譲歩も平和を繋ぎとめない以上(と彼はメフメットに言った)、貴下の不敬神な戦争を推進するがよい。私の信頼は今や神に対してのみであり、もしも神の思召しが貴下の心を和らげるならば私としてこの幸福な変化を喜ぶ。しかし神がこの都市を貴下の手に委ねるとあれば、私は何の不平もなくその神聖な意志に従うであろう。しかしこの現世の審判者がわれわれの間勝敗を決定されるまで、私の義務は自分の臣民の防衛のために生死を賭することである」と言わしめるしかなくなってしまった。コンスタンティノポリスの住民はただ祈るだけしかなかった。

 コンスタンティノポリスは頑丈な城壁で守られていた。唯一ラテン人が起こした十字軍がこの都市を占領したが、それ以外この城壁は異民族からこの都市を守り続けてきた。
 この城壁を破るためにメフメット2世は巨大な大砲を作り、何とか城壁を破ろうとする。これを読んだとき、徳川家康が大阪城を攻略するに当たり、大砲をぶっ放したのを思い出した。力を持っている方が威嚇を込めて相手を攻めていく。コンスタンティノポリスもこうして城壁が破られつつあった。
 そして、1453年5月29日に総攻撃が始まった。皇帝コンスタンティヌス11世パラエオログスはオスマントルコの攻撃に耐えられなくなったとき、自ら異教徒の中で生き延びることを拒み「誰か私の首を斬り落とすキリスト教徒はおらぬか?」と絶叫し無名の戦士の手にかかり、その死体は戦死者の中に埋もれた。勝敗は数に勝るオスマントルコにあがり、53日間の攻撃が終わった。
 コンスタンティノポリスには財産が殆ど底をついていたため、トルコ人は6万人以上の国民を捕虜とし、連れ去る。聖ソフィア教会はすべての財宝がはぎ取られ、モスクと生まれ変わった。

 この本はローマ帝国の衰亡史を書いているわけだから、遅かれ早かれこのときがくることは避けられない。さらにコンスタンティノポリス自体、ローマ帝国が傾き始めた頃に作られた都市であったから、再興することはあり得ない。ただこの本を終えるに当たって、西ローマ帝国が滅亡したときより、コンスタンティノポリスが占領され、皇帝の首が斬り落とすされる描写の方が生々しく感じた。妙に寂しさを感じてしまった。かつてのローマの栄光が一気に崩れ落ちるといった感じであった。

 私はこの本を大学時代に読もうと思って買っていた。けれど、様々な事情で結局読めずにそのままになっていたのを、今回約3ヶ月かかって読んだ。
 たぶん学生時代は、自分の勉強に役立てばと思っていたはずだ。しかし今回はそんな大それた理由などない。ただ気になったから読んでみようと思っただけである。
 だから単純にギボンが書いた物語を楽しんだ。恐らく学生時代ならきっとどこか自分の勉強に役に立てようという欲みたいなものがはたらいたんじゃないかと思う。もし当時この本を読んでいたら、今とはかなり違う読後の感想を持っていたと思う。
 今回私はギボンが史実をつなぎ合わせて作ったこの物語で、ローマの衰亡期に生きた人々の息吹を感じ、それを楽しんだような思いでいる。つまらない欲がない分、ある意味純粋にこの本を読めたんじゃないかと思うので、今回読んでよかったのかもしれないと思っている。ちょっと大変だったけど、今やっと読み終えたという充実感でいっぱいだ。

2005年11月07日

綿矢りさ著『インストール』

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 この日もう1冊読んじゃった。綿矢りささんの『インストール』(河出文庫)の方がまだ面白かったかなあ。でもやっぱりものたりなかった。

 子供の頃の夢とか希望って、現実味がなくても、大きければ大きいほど、何だか立派にみてくれるところがある。まさしく「BOYS, BE AMBITIOUS!」である。ところがそれを実現するために第一歩を踏み出したとたん、とんでもないことに気がつき始める。そう、自分の夢や希望が現実のギャップから、実現性の希薄さに気がつき始めるのだ。
 朝子は「まだお酒も飲めない、ついでにセックスも体験していない処女の十七歳の心に巣食う、この何者にもなれないという枯れた悟りは何だというのだろう。歌手になりたい訳じゃない作家になりたい訳じゃない、でも中学生の頃には確実に両手に握りしめることができていた私のあらゆる可能性の芽が、気がついたらごそっと減っていて、このまま小さくまとまった人生を送るのかもしれないと思うとどうにも苦しい」と思うようになる。
 こうして登校拒否の高校生になった朝子は、何もかも嫌になる一方でこのまま何もしないでいることで廃人になってしまうんじゃないのかという不安から、自分の部屋を徹底的に掃除することで何かやっているというに充実感を得ようとする。しかしその掃除は、ある意味現在の朝子が何もかも拒否しているのと同様に、部屋にあるものすべて拒否してしまう感覚にとらわれる。つまり部屋にあるものすべてを彼女は捨ててしまうのだ。
 そのゴミと出された古いパソコンを同じマンションに住む小学生のかずよしがもらい受け、押入でインストールされ直され、再生する。
 このませガキはメル友で風俗で働く雅さんの代行チャットのアルバイトをやらないかと朝子を誘う。要は忙しい雅さんに代わって、そっちの方面の話をバカな男とチャットやるわけだ。もちろん朝子は現在あるものすべてを拒否する一方、新しいものは受け入れることで何とか自分の存在感を保とうとするのでこの話に乗る。この小説は、まぁこんな話で展開する。

 面白いフレーズがあったのでそれを書いておく。「高倉健のようなプラスの不器用さではなく、相手の人間を思わずのけぞらせてしまう程の異様な一途さをぶっつけてくるマイナスの不器用さを持った人は、実際迷惑だ。怖い。」
 高倉健の売りである「不器用ですけど、よろしく」というのをプラスの不器用さと言い表すのは言い得て妙だと思った。一方プラスがあればマイナスがあっていいわけだけど、マイナスの不器用さを「相手の人間を思わずのけぞらせてしまう程の異様な一途さをぶっつけてくる」ものと定義するのは面白い。実際こういう人がいるもんなぁ。著者は朝子に「本当の不器用は、愛嬌がなく、みじめに泥臭く、見ている方の人間をぎゅっと真面目にさせる」と思わせる。確かにそうだと思う。案外この著者若いのに人間観察がするどい!

岡嶋二人著『99%の誘拐』

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 この手の情報通信機器の最新技術や可能性を取り込んで話を進めれば何でもありになってしまう。後はその機能を説明すればいいだけだが、その一方で現実味がなくなる。それに読む側にとって見ればフェアじゃないというのが正直な感想だ。
出来る限り犯人自身が姿を見せずに、コンピューターに代行させればいいのだし、後は誘拐する子供がゲームオタクなのを利用すれば、犯人が作ったゲームにのめり込んでくれるから、自分から人質になってくれる。ますます犯行がしやすくなる。
 犯人も最初から誰であるか分かっているし、その動機もすぐ判明する。後はどうやって身代金を受け取るかだけになってしまう。(誘拐事件の難しさはこの身代金の受け取りだと聞く)面白みはそれだけだ。はっきり言って解説者がこの作品に入れ込む理由がよく分からなかった。要するにそんなに面白いとは思わなかったということだ。帯にだまされてしまった。あっ、そうそうこの本は講談社文庫刊です。

2005年11月02日

ギボン著『ローマ帝国衰亡史』第10巻

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 ニケイアで、アリウス派はイエスを神と認めないとして異端にされ追放されたが、そのニケイアが、「この世にはただ一つの神がありそしてマホメットはその神の使徒である」というイスラム教を信奉するセルジュクトルコに征服された。この皮肉は苦笑を誘うけど、史実としてコンスタンティノポリスのほど近い場所のあるニケイアが異教徒であるセルジュクトルコに占領されて支配されることは、東ローマ帝国のとってはかなりの脅威であった。キリスト教徒にとって聖地であるエルサレムも異教徒のセルジュクトルコに支配されたとなると、黙ってられなくなるのは分からないでもない。まして聖地巡礼が困難になれば、ローマカトリック教会としても何とかしないといけない。
 けれど、聖地奪回のために十字軍を組織するほどの権力が当時のローマカトリック教会にあったのが正直不思議だし、またそれの応じた西ヨーロッパの諸侯が「信仰上、これはまずい!」と思い軍隊を派遣するほど、それほど余裕があったのだろうか?あるいは信仰がそんなに篤っかたのかと思ってしまう。私は都合のいいときだけ神頼みをする無神論者だけど、学生時代はまだ純真だったから(本当かね?)、そうか!自分達の宗教の聖地が異教徒に曝されれば、当然立ち上がって戦うだろうと思っていた。けど人間50年近くやっていると、どうも何か裏があるんじゃないのと疑っちゃう部分がある。
 たとえ、戦争が科学でなく、情熱であった時代であったとしても、一隠修士であるペトルスが自分がエルサレムで受けた虐待、抑圧を語ったとしても、それが西ヨーロッパを空っぽにするほどの聖地奪還を起こさせるのか、ちょっと信じられない部分がある。

 原始キリスト教は、自発的な告白が罪滅ぼし前提であったが、中世になると教会がその告白に基づいて、罪を決定するようになる。いわばその判定は自由裁量に委ねられるわけで、どうでも判決が出せる。その結果それを償うにはどうしても無理だろうという判決が出された。その上で教会は何をしたかというと、罪の償いを少しでも軽減するためにお金を払うことで代用させるのだ。これを贖宥(いわゆる免罪符の発行をするわけだ)という。
 しかし財産がある人間はいいかもしれないが、それが出来ない人間は自分の身体で払うことになった。この考えを利用し法王ウルバヌス二世は軍事的従軍が自分達の罪滅ぼしになるということにしてしまったのだ。自分達の霊魂の救済を十字軍に参加することで、すべての罪の消滅と教会法による悔悟の残った負債全額を返済出来ることになった。仮にここで戦死でもすれば、殉教者として飾り立てられるし、無事に帰ってこられれば、「天の報酬」がもらえることとなった。つまり十字軍に参加さえすれば現世的来世的な報酬がもらえるのだ。このため「彼ら自身の救済のためにその生命捧げ給うた神の御子に対して今や彼らが自分の血を捧げる番が来たとの意識で、彼らは十字架を手に確信に満ちて主の道に入った」
 これが、ヨーロッパの人びとが十字軍に積極的に、いや、参加せざるを得ない状況を作り出したのだ。けれどこれだけで本当に自分達の命を危険に曝しただろうかという疑問は払拭されない。
 ギボンの十字軍の記述を読んでいると、もっと現実的な「おいしさ」があったようである。つまり大義名分は聖地奪回だとしても、そこまでに行く間に、都市や国を蹂躙しつつ、自分達の私腹を肥やしていったのであった。
 たとえば第4回十字軍はヴェネティア主導で行われたが、元々ヴェネティアは何だかんだとコンスタンティノポリス(東ローマ帝国)に干渉されていた。それがうざったいし、コンスタンティノポリス自体に世界の富が集中していたので、逆にこれを自分達のものにしたかった。そこでフランスなどの諸侯に船や武器を貸して、まずはここを征服してしまう。しかもこれら諸侯にただで船や武器を貸さない。べらぼうな金額を吹っ掛け、それが支払えないなら、ちょっと寄り道をして他の都市を侵略させ、財宝を奪わせ、それを支払に回させる始末だった。
 元々聖地奪回は西ヨーロッパで盛り上がっていただけであって、東ローマ帝国にしてみれば、自分達の領地をこれら十字軍が通って行くだけであったから、鬱陶しくて仕方がなかった。しかもこれら十字軍は言ってみれば烏合の衆であったから、やりたい放題であったのだ。そこへ今度はラテン民族の皇帝を立てられてしまうことになる。
 当然法王インノケンティウス3世は聖地を奪還しないで、余計なことをしたことで激怒するが、そこはしたたかで、東ローマ帝国をローマ法王に献上することでなだめられてしまう。
 まぁこんなもんだろう。7回も十字軍が起こされたのも建前は異教徒に聖地エルサレムを奪われ、それを奪回するという仰々しい理由であっても、内容はそれをいいことに自分達の私腹を肥やすことが本音なのだ。だから、これらギボンの記述を読んでいると思わず、そうだろう!そうだろう!そんなもんだ!と得心してしまったのだ。人間そう簡単に利害関係や損得関係なしに動けるもんじゃない。(あぁ~、嫌だぁ、嫌だぁ・・・)

 ところで、この巻を読んでいて、また私の高校時代の世界史の先生のことを思い出してしまった。
 とにかくこの十字軍はたくさんの人間を、特に男子を兵士として送り出した。その結果、「都市と城から全住民が姿を消して七人の寡婦を慰める一人の男がわずかに残された勘定になった」という。この文章を読んだとき、ピンっときたものがあったのだ。
 兵士として狩り出された男達は自分達の妻が浮気や他の男に取られるんじゃないのかと気になった。そこで「貞操帯」が考え出されたとその先生は言ったのだ。今にして思うと、この先生は一体何を我々に教えていたんだろうと頭をひねりたくなっちゃっうけど、確かにそういったのを思い出したのだ。
 実際インターネットで調べてみると、これが結構ヒットするんですね。しかもマニアが多くいるようだ。いささかうんざりしながら十字軍のときの「貞操帯」に関した文章を調べてみると、確かに十字軍時代に普及?したらしい。しかも現在でも美術館に十字軍時代につかわれた武具などの展示品の中にこの「貞操帯」が陳列されているらしい。更にそのコピーが観光客用に売られているらしい。(本当かよ?)
 まぁそれがどんなものか知りたい人は検索して下さいな・・・。
 もうこれ以上追求するのは止めるけど、でも世の中猜疑心の強い男はいつの時代にもいるだろうし、亭主がいないことを幸いに、間男を呼び寄せる女もいるだろう。また逆にオオカミ化した男が襲いかかる心配もあるから、当時として必需品?だったのかもしれない。(どうでもいいけど)