2005年11月24日

佐野眞一著『だれが「本」を殺すのか』(上巻)

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 まずは思うところから始めたい。これから言うことは、きっと本屋業界から撤退せざるを得なかった人間としては、負け犬の遠声に聞こえてしまうだろうし、多分そう取られて仕方がないとは思うけど、それでもあえて言いたいから書くことにする。

 かねがね不思議に思っていたことがある。書店組合の千代田支部の年会費が指定した日時まで振り込むと、1ヶ月分安くなるのである。年会費なんだからちゃんと12ヶ月分徴収すべきだと思うのだが、どうしてこんなことをするんだろうか?年会費をきちんと納めない書店があるということなのだろうか?だったらこんな書店は組合から除名すればすればいい。
 あるいは組合費が正統な理由で使われていないから、引け目を感じてこんなシステムを採用しているのだろうか?
 ちょっと前に組合がつまらないCDを作ったことを批判した。おそらくこのCDだって組合費からまかなわれているのだろう。またよく組合で旅行など行くけれど、それもかなり格安の会費で行っているところみると、不足分はきっと組合費から補填されているのかもしれないと疑っている。この旅行に参加するのは、殆どが書店の経営者で、そいつらの飲み食いに組合費が使われている。組合に参加している書店には志のある書店員だって多くいるだろうけど、こういう人達に組合はどれだけの援助をしているのか。経営者の親睦会に金を使うなら、こういう若いやる気のある書店員をサポートするのにお金を使った方がもっと有意義だと思うのだけど。

 本屋をやっていた頃、朝荷物を開けるまで、その箱にどんな新刊が入っているか分からない。そこにはそのお店の意志など一切なく、荷物は問屋のパターン配本(過去の売上実績に基づいたデータ)に従って割り振られた新刊が入っているだけ。もちろん売れそうな大手出版社の新刊、発売前に話題になっている本など入っていない。まさしく開けてみてのお楽しみといった感じなのだが、大半が裏切られる。欲しい本がないのだ。
 これじゃ返品率が高いのは当たり前である。だっていらない本ばかりじゃ返品するしかない。そのままにしておけば、請求がたってしまうのだから当然である。しかしこれはよく考えてみるとおかしな話で、いらないと言っているのを無理に買わされているのと同じで、訳も分からない品物にお金を払っていることになるのではないかと思うのだが、不思議と中小書店さんは何とかお金のやりくりをして、問屋にお金を支払っている。幸い返品ということが出来るので、そうしているのだろうが、いらないものがはっきりしているなら、最初から払わないことにこしたことはないのではないか思うのだが・・・。
 極端な話、中小書店を潰すのは問屋サイドからすれば簡単だ。売れそうもない駄本をバンバン送りつけて、どんどん請求をたててしまえばいい。いくら返品できるからといっても、こんなことを続けられたら、多分その書店は保つまい。
 地域にある本屋さんが「金太郎飴」みたいに同じ様相を呈しているのは、まさしく問屋の配本にいつまでも頼っているからである。それでいて欲しい本がない。つまり品揃えを問屋の配本に任せているからそうなるのであって、これじゃ中小書店が生き残れるはずがない。
 こんなことが可能なのは、問屋が本の配送を支配していたからで、問屋が本の配送をしてくれないと本屋に本が入荷しないシステムだからである。いつまでもこんなシステムにしがみつかないと商売が出来ない方がおかしい。そこには自分達の生命線をすべて問屋に任せちゃっている部分があるのではないかと思うのだ。
 確かに問屋が機能していればいいけど、はっきり言って満足するような形で我々中小書店に機能していないのは明白である。私は以前アマゾンドットコムに関する本を読んだとき、アマゾンが今の出版流通システムから離れて、出版社と直取引をすることで、収益と商品確保を目ざしているのを感じた。

 私は基本的に再販制度はもう機能しないと思っている。今の再販制度と委託返品制度を維持しているから、こんな馬鹿げた問屋に依存しなければならないのだと思っている。書店にしたって返品という安全パイがあるから、仕入に責任を持たない。
 これが全部買切になれば、下手な仕入がそのまま命取りになるから、仕入に真剣にならざるを得ないだろう。仕入れた本を責任を持って売るということがないから、どんなにつまらない本が新刊として送られて来ても、ただ不平不満を言うだけで、何ら次の行動に移らない。
 また商品として本に売値が書店サイドで付けられないのもおかしな話だと思う。書店が自信を持って仕入をし、売ろうと思っているなら、自ら売値を設定していいはずだ。同じ本がどうして値段が同じじゃなければならないのかよく分からない。文化的価値のあるもんだからというなら、それは理由にならない。だってたとえば馬鹿なタレントの書いた本(おそらく自分じゃ書いていないのではないかと思うけど)でも、文化として認められるのかと思うのだ。
 お店によって同じ商品の値段が違ってもいいと思うし、当たり前だとも思う。責任を持って仕入をするということは、それを買い切って仕入れることを意味し、どうしても売らなければならない。そうなればきっと様々な工夫が生まれるはずだ。たとえばそれだけリスクを負うわけだから、仕入正味だって交渉の余地があるだろう。仕入正味だって下がる可能性がある。それをお客様に提供できれば差別化も出来るだろうし、もっといい意味で書店の側でその本を売りたいという気持ちがお客様に明確にできれば「金太郎飴」みたいな書店など生まれるはずがない。
 今の出版システムがきちんと機能しているならともかく、現状のシステムが完全に麻痺してしまっているのに、それにしがみついて一体何が生まれるのだろうかと思う。再販撤廃が様々な可能性がたくさん秘めているのに、しかもそれにトライしないのが分からないのだ。
 再販撤廃が中小書店がなくなるという不安は、結局何もしない書店が言っているだけのことで、そんな本屋さんなんかなくてもかまわないし、何の魅力もないだろうと思うのだ。力がないというなら、こういうときこそ組合がまとまって、それこそ独自の問屋を作るという意気込みぐらいあってもいいと思うし、そういうときこそお金を使えばいいのだ。幹部とか称するくだらない人間の飲み食いのためにお金など使うのなら、また殆ど意味のなさないCDなど作るくらいなら、その方がまだいい。(もちろんそれだけじゃ当然足らないだろうけど、取っかかりくらいはなるだろう)
 中小書店一つ一つが力がなくても、組合としてまとまれば大きな力として生まれる可能性がある。そういうもんじゃないのかと思う。今出版業界で元気のあるインターネットを使ったオンライン書店など、様々な可能性を模索しているから元気があるわけで、それをのほほんとみているだけじゃ能がない。挙げ句の果てに他業種の参入を簡単に許し、いつのまにか自分達の生活が脅かされているのに指をくわえて見ているだけじゃ話にならない。

 この『だれが「本」を殺すのか』(新潮文庫)を読んで、まずはそんなことを思った。この本にも書いてあるが、まさしくこの通りだと思う。
 「日本の出版業界は中小企業の集合体でしかない。しかも悪いことには、版元、取次、書店がお互いもたれあいの関係でやってきた。そんなぬるま湯的業界に導入された再販委託制は、考えてみれば、お互いの善意を随分と信じた制度だともいえる。号令一下できるリーダーは不在だったし、集まれば集まったで、議論ばかり先行して実行力がまったくともなわないままにきたのが出版界だった。これでは口は出すが金は出さないケチな業界の典型とバカにされつづけてきたとしても仕方がないだろう」

 この親本を読んだのはいつだったろうか?つい最近のような気がするが、何だかだいぶ以前の話のように感じるのは、それだけこのわずかの間に出版界の状況が、ここに記載されていることより変わってしまっているからだろう。著者もそのことが分かっているみたいで、この文庫版は親本からだいぶ書き加えられている。それを読みたくて、あえて文庫版を読んでいるわけだ。後で付け加えられているのは、上巻の「文庫版のためのやや長い前置き」と下巻の検死編である。
 それにしても再度読み直してみても、イトーヨーカ堂およびセブン-イレブン・ジャパンの最高経営責任者、鈴木敏文さんが言い切る言葉、「自分たちが発注して、自分が本を揃えるという発想がなく、取次から送られてくるものをただ並べている。この感覚じゃあ、絶対に生き残っていくことはできません」はもっともだと思う。
 ではそのためにはどうすればいいか。鈴木さんは生き残るためのシステムを作ればいいという。そのためにお金をかけなければならないのだという。
 「セブン-イレブンだってこれまで、いろんなシステムづくりをここまでやってきたんです。今度の第五次のシステムだけで五百~六百億円の新しい投資をしているわけです。それに比べたら、これは出版界全体の問題です。版元と取次も書店も一体になって一千~二千億の投資をしなくちゃいかん時期でしょう。そうすれば自ら道が開ける」と言い切る。まさしくその通りだと思う。もう現状のシステムが機能しない以上、こういうことを考えていかなければならない時期に来ていることを、バカな書店主は自覚すべきなのだ。足下に火がついているのに、組合費で旅行や酒など飲んだいる場合じゃない。

 さてこの上巻で付け加えられた「文庫版のためのやや長い前置き」に面白いことが書いてあったので、それを書く。

「日本の人口と大学進学率を急速に押し上げた「団塊の世代」は、まもなく総退場の時期を迎えようとしている。彼らはよくも悪しくも「本」をヘビーユーザーする中心世代だった。知的虚栄心にいじらしいほど素直に囚われたその世代は、こむずかしそうな人文科学や社会科学の専門書、フランス直輸入の哲学書、にわかづくりの書斎を飾るにふさわしい金ピカの文学全集などの標的となる、恰好の顧客でもあった」

 この文章はかなり自虐的なものだけど、確かに成金趣味的に装飾として本が買われていたことは事実だろうが(平凡社の百科事典が馬鹿みたいに売れたのを見ても分かる)、一方で少なくとも今の若い連中と比べてみたら、本を読むことで自分の知的欲求を満たそうとしていたんじゃないか思う。たとえば中央公論の『世界の名著』の1巻である「ニーチェ」が70万部も売れたのもそうだし、岩波書店の『講座・哲学』だって10万部以上も売れたのも、きっとそういう理由だろう。(現在なら、『世界の名著』なら100分の1、『講座・哲学』なら20分の1しか売れないだろうと関係者は言っている)
 ところが現在の今の連中は自分の馬鹿さ加減を「天然呆け」と称して、半ばそれを賞賛するところがあって、いかに自分の馬鹿さ加減を露呈しているかということさえ分からずに、恥ずかし気もなく曝すことがいいような風潮になってしまっている。本を読むことがすなわち知的になれるなんて決して思わないが、少なくとも知りたいという欲求は団塊の世代の人達にはあったし、それを本を読むことで満たそうとしていたところはあったのではないか。
 もちろん現在は本だけじゃなくて、たとえばインターネットでも簡単に知的欲求を満たすことができるが、それでも本を読むことが手間がかかる分、考えるという作業をしていたはずである。今は情報が簡単に手に入るし、人の考え方でさえ疑いもせず鵜呑みにすることで満足してしまっている。つまり自分で考えることをしなくなってしまったような気がする。多分その方が効率的で便利だという理由からだろう。
 そういう世の中だからこそ、本が売れなくなって、読まれなくなっている。また作る方も堅い本が売れない以上、駄本を出して、一時的に売上を上げることで収支を合わせようとするが、その後の返品の多さで、収支を悪化させ、それを更に改善しようと、どうでもいいような本を出し続けるしかなくなっていく。いわゆる自転車操業である。そこにはいい本をじっくり売っていこうという姿勢など微塵もない。すぐ数字が出てくる寿命の短い本しかないという結果になってしまう。
 本屋が悪いのか、それとも出版社の出す本に内容がないのか、または取次の能力の硬直化がそうさせているのか、あるいは世の中が考えることを放棄してしまっているからか、いずれにせよ、本を取り巻く環境が著しく変わってしまっていて、それに対して何ら対策を打てないのが現状なのだろう。日本人全体が総痴呆化しているんじゃないかと、自分自身の馬鹿さ加減を棚に上げて思う次第だ。たぶん本が売れなくなった理由はこのあたりにあるんじゃないかと思っている。

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