2005年12月31日

三浦展著『下流社会』

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 先日NHKで秋葉原と共に生きる若者1日を追った特集をやっていた。
 部屋中に美少女アニメポスターを貼り、フィギアなどのコレクションにお金をつぎ込む奴。そんな美少女を主役にした訳の分からないゲームを作っているプログラマー、パソコンで円周率を出来るだけ早く、長く計算させるためCPUを液体窒素で冷却しながらオーバークロックに挑戦する奴。メイド喫茶で働く女の子など、私はそれを見ているうちにだんだん気持ち悪くなってきたのである。しかしここに出てくる若者はきっとそれが「自分らしさ」なのだろう。
 この「自分らしく」生きるというのが、自分が「下流」だと感じるという人がよく言う言葉だと、この『下流社会』(光文社新書)には書かれている。
 私はつい最近この「下流」という言葉が今「中流」にかわって主流になっていることを知った。それでこの本を読んでみようと思ったのだ。

 1955年に自由党と民主党が保守合同して自由民主党となり、自民党の一党体制を「55年体制」という。この55年体制は政治的には東西冷戦構造時代で、経済的には高度経済成長期にあたる。つまりこの時は稼いだ富を一部資本家階級、支配階級だけが独占するのではなく、幅広く国民に均等に分配して、中流社会を作っていく時代にあたる。
 財産は特に持たなくても、所得が毎年右肩上がりで増えていき、生活水準が向上していった。特にサラリーマンが「新中間層」として生まれ、特に「下」から「中」に上昇する人たちが増えたのであった。つまり「下」が「中流化」したのである。
 だが現在この「中」が減って、「上」と「下」の二極化しているという。しかも「中」から「上」に上昇するのではなく、「中」が「下」に下流化しているのだ。55年体制で作られた「中流」が没落し、「下」に落ちぶれたということだ。
 そう感じるようになった最大の原因と思われるのが、所得の激減だろう。中流意識を持っていた人の所得が減ると以下のようになる。たとえば100万人市場があり、「上流」といわれる人たちが10万円スーツを買い、「中流」といわれる人たちが7万円のスーツを買い、「下流」といわれる人たちがが3万円のスーツを主に買っていたとする。これを1973年と今後、201X年として比較してみる。

1973年、階級意識を調査した結果、「上」8%、「中」64%、「下」29%になる。(100%にはならない。)これでスーツ総売上を計算すると
 10万円×8万人=80億円
 7万円×64万人=448億円
 3万円×29万人=87億円
 合計615億円となる。

201X年では「上」15%、「中」45%、「下」40%で計算すると
 10万円×15万人=150億円
  7万円×45万人=315億円
  3万円×40万人=120億円
 合計585億円となり、1973年と比べると30億円減となる。

 これは市場が中流社会から下流社会に変化しているのに相変わらず中流社会型のビジネスモデルにしか対応していないからこういう結果になる。73年の売上に追いつくには、「上」に10万円スーツではなく、20万円のスーツを買わせれば何とかなる。(収入が減っている「中」には7万円以上のスーツを買わせるわけにはいかないだろう)
 20万円×15万人=300億円
  7万円×45万人=315億円
  3万円×40万人=120億円
 合計645億円となる。

 ということは今は明らかに「中」に向けて商品を売るのは得策ではないことになる。「上」に向けて売るのが得策である。これがトヨタがレクサスを投入する理由である。あるいはセブンイレブンのセブンアンドアイが西武やそごうを買収する理由であろう。いつまでも「中」や「下」だけを相手にしていては、売上は期待できないからだ。

 しかし「下流」意識が増加するということはこれだけでなく様々な変化をもたらすようになる。下流は単に所得が低いというだけじゃない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり人生への意欲が総じて低くなり、その結果更に所得が上がらず、未婚のままの確率が高くなり、ただだらだらと生きているだけになると著者はいう。
 それでいてこういう奴ほど自意識が高く、やたら「自分らしさ」、「自己実現」を求めるのだ。生きる意欲がないくせに、あるいはやる気がないくせに、何かさせれば、これは自分らしくない。これは自分がやることじゃないと言うのだ。いってみればこれはわがままである。
 こういうタイプの人間は当然うまく社会に順応できないから、高収入を得ることは難しい。生活水準は低下し、親に寄生しながら生きていくパラサイトである。
 著者が面白いことを言っていた。
 「村上龍の『13歳のハローワーク』を読んだ人達は、本当に自分の好きなこと見つけて、それを仕事にしようと真に受けて、自分探し始めた若者は結果として、いつまでもフリーターを続け、30歳になっても、低所得に甘んじ、低階層に固定化される危険性が高いのだ」と。もっともだと思う。

 この本はデータをマーケティングリサーチとして、どう読むべきか、その例として読むと面白い本であった。

2005年12月24日

エドワード・ギボン著『ギボン自伝』

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 この本は(筑摩書房刊)は言わずと知れた『ローマ帝国衰亡史』の著者の自伝である。私は自伝を読むことなどほとんどないので、自伝がこうもつまらないものとは知らなかった。あるいは波瀾万丈の人生を送った人の自伝なら面白いのかもしれない。もともとこの人は地味な人のようだから、こんな自伝になってしまったのだろう。
 この本を読むきっかけは『ローマ帝国衰亡史』を読んだことから始まるわけで、恐らく単独でこの本を読もうとは思わないと思う。あくまでも『ローマ帝国衰亡史』とセットで読むしかない本だ。そしてこの本はこの機会を逸したら、恐らくずっと読まない本であろう。
 私はこの物語を書くギボンは生活に余裕がなければ書けなかっただろうと推測していたが、この自伝を読んでいて、それはある程度的を得ていたようである。かといって、ギボンが財産が有り余っている貴族のぼんぼんでもなかったようでもある。適度の余裕があったことがこの『ローマ帝国衰亡史』を完成させたようである。ギボンは言う。

「思うに私の資産の黄金の中庸こそは、私の精励を発揮させた当の原因であった。実際に重要で立派な作品が屋根裏部屋や宮殿で書かれた例は希である。余暇と資産に恵まれた紳士だけが、名誉ある報酬を当てにして仕事への意欲に発奮する。これに反してその日の勉励がその日の飢えに刺激される著作家は惨めであり、その作品も同様に惨めであろう」と。
 
 この言い方はちょっと腹が立つけれど、やっぱりこれだけの作品を完成するには時間も必要であろうし、資料を集めるお金も必要だろうから、ギボンがこの様に言うのもある程度納得せざるを得ない。また有り余る資産と時間を持っている人がこんな作品を書けないだろうと言うのは分からないわけでもない。適度の緊張がこの作品を生んだということかも知れない。

 今の私にとってこの本を読む理由はただ一つである。何故ギボンは『ローマ帝国衰亡史』を書くに至ったかである。それだけが知りたかった。
 『ローマ帝国衰亡史』は、それを書く素地がギボンになければ書かれなかっただろうと思われるが、何故ギボンはローマ帝国末期に興味を持つようになったのか、この自伝にはわずかだがそのことが書かれている。
 少年期ギボンは病弱であったが、そのため読書を楽しむこととなる。このときの読書がギリシア・ローマの歴史本を読み進めることになった。特に1751年の夏、父親と同行してウィルトシアのホーア氏宅にあったイーチャドの「ローマ史続篇」で書かれていたコンスタンティヌスの後継者たちの治世はギボンにとって新しい世界であった。たぶんこれが『ローマ帝国衰亡史』を書くきっかけかと思われる。
 そしてギボンがイギリスからローザンヌに生活の場所を移し、そこでギリシア・ローマの古典に更に親しみ、その研究を彼が推し進めたことで生まれたのではないか。だから後年ローマを訪れたときの彼のはしゃぎようは、まるで子供のようである。

 「元来私は余り熱狂に動かされない性質であり、そして自分が実際に体験しない熱狂を気取ることを今まで常に軽蔑してきた。しかし25年を経た今日なお私は、自分が初めて永遠の都へ近づいてそこへ足を踏み入れた時に私の心を揺さぶったあの強烈な感動を忘れることも表現するすべも知らない。寝つけない一夜を明かした翌日、私は昂然たる歩度でフォールムの遺跡を踏んだ。その昔ロムルスが立ちキケロが弁じカエサルが倒れた一つ一つの記憶すべき場所が、直ちに私の目に焼きついた。そして失われたか享受されたかさえも分からぬ陶酔の数日間の経過の後に、私はやっと冷静な気持ちに戻って細かい探求に着手することができた。」と。

 そこで彼は『ローマ帝国衰亡史』を書くことを決意する。

 「何となれば主題(ローマ帝国衰亡史を書くこと)の選択を決定したのは私が実際にイタリアとローマをその目で見た体験だからである。私の日記にはその受胎の場所と瞬間が記されている。それは1764年10月15日の夕暮れ時に、私がゾコランティつまりフランシスコ修道士の教会に座して黙想していた折しも、彼らがカピトリーノの廃墟のユピテル神殿で晩祷を誦する声を聞いたときであった」と。
 
 これは、「昔は野蛮だった遙かな北方諸国から新しい巡礼者の種族も今日では英雄の足跡に、そして迷信ならぬ帝国の遺物恭しく参詣している。この種の巡礼者そして読者諸賢は、恐らくローマ帝国の衰微と滅亡の過程に関心が唆られるであろう。・・・・私がそれ以後二十年近く我が生涯を楽しませ拘束させる運命になったこの著述の構想を抱いたのは私がカピトリーノ神殿の廃墟に立った時であり、たとえ自己本来の願望に照らしてどれほど不満足にせよ、私は今これを最終的に読者公衆の好奇と温情に委ねる」と書かれた、『ローマ帝国衰亡史』の最終章にある文章と一致する。(もっともギボンはこの時カピトリーノ神殿の廃墟には実際に行っていないらしく、この文章は作り事らしい。まぁ『ローマ帝国衰亡史』も壮大な叙情詩なのだから、これもありかなと思う)

 ただ『ローマ帝国衰亡史』に関して、これ以上詳しく書かれていない。私はこの作品がかなり苦労して書かれたことを知りたかったし、その生みの苦しみを知りたかった。しかしこの自伝に書かれていることは、作品が出来上がった後の人気などがわずかに書かれているだけである。後はギボンの交友録みたいだし、更に当時のイギリスの政治的な問題にギボンが翻弄されたことが書かれている。(ちょうどこの頃はフランス革命、アメリカ独立戦争の時代であった)
 ただ『ローマ帝国衰亡史』にある冗長なほどの宗教的考察は彼の宗教的遍歴からくるものであったのではないかとふと思ったが、考えてみたらローマ帝国が滅んだ原因の一つとして、ギボンは、キリスト教の普及が古代異教に培われたローマ市民意識や道徳などを破壊したのではないかと思っているふしがあったから、どうしてもこれにこだわらないわけにはいかないのだろう。

 これで完全にギボンから私は離れられる。今年はよく本を読んだ方だろうが、久々に本を読むことに苦労した年でもあった。もちろんこのギボンの『ローマ帝国衰亡史』のお陰なのだが・・・。いつも軽い本ばかり読んでいるから、こうした古典を読むのに苦労するのだろう。まぁたまにはこういう古典を読むことも必要かなぁとは思った次第だ。

2005年12月13日

村上春樹著『東京奇譚集』

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 この『東京奇譚集』(新潮社刊)は4編の短編が収められている。私は村上さんのファンなので、長編も物語として楽しんできたし、こうした短編も小品として楽しんでいる。
 この本は書名にもあるように、普段ありそうで、なさそうな、それでいて不思議なことや、偶然のようでもあり、それでもどこかつながっているそんなことを物語にした短編集である。
 個人的には「ハナレイ・ベイ」と「品川猿」がよかった。「偶然の旅人」も悪くなかった。
 「偶然の旅人」は、彼は自分がホモであるとカミングアウトしたがそのため結婚を控えた姉と喧嘩別れしてしまう。
 そんな彼が火曜日になるとホンダのオープン・2シーターに乗って多摩川を越え、神奈川県にあるアウト・レット・ショッピング・モールのカフェで読書にふける。読んでいる本はディケンズの『荒涼館』である。そこへ女の人が来て、彼が読んでいる本がディケンズの『荒涼館』じゃないかと尋ねてくる。彼女もディケンズの『荒涼館』を彼の隣で読んでいたのだ。
 そこから話が弾み、一緒に食事をしたりする。翌週の火曜日も彼は彼女とここで会い、その後彼女から誘われる。しかし彼はホモであることで、彼女とセックスできないことを詫びる。彼女もまさか自分が誘った男性がホモであるとは思わなかっただけに衝撃を受けるが、彼を誘いたいという気持ちがこの1週間けっこうどきどきしながら過ごせたともいう。
 「そういう気持ちになれたことって、本当に久しぶりだったんです。なんだか十代に戻ったみたいで、楽しかったわ。だからいいんです。美容院に行ったり、短期間ダイエットしたり、イタリア製の新しい下着を買ったり・・・・」と
 そういう気持ちになったのは彼女が乳ガンの疑いがあり、もしかしたら手術をしないといけないかもしれないという事情があったからだ。しかし翌週から彼女はこのカフェには来なくなった。
 彼はふと喧嘩別れした姉の声を聞きたくなり、電話を入れ、姉と会う。姉も彼に連絡をしようかどうか迷っていたところであった。姉も乳ガンの手術をすることになっていたのだ。偶然が重なって、彼は姉と会い、和解する。

 「ハナレイ・ベイ」はハワイのハナレイ・ベイで鮫に襲われたサーファーの息子の遺体を引き取りに来た母親のサチの物語だ。サチの過去、死んだ息子との関係、その後命日間際になるとここを訪れ、海を眺めにくることなど淡々と話が進んでいい感じだ。こういうテンポの話は好きだなぁ・・・。

 「品川猿」は自分の名前をあるとき急に忘れてしまう女性の話で、忘れてしまうのは自分の名前だけで、他のことはしっかりしている。でも不安があるので、カウンセリングを受ける。カウンセラーは彼女が自分の名前を忘れてしまう原因を見つける。
 品川区に現れた猿が、昔彼女と同じ女子寮にいた女性の名前が気に入っていて、その名札を探していた。その女性は一時帰宅するといって、自分の名札を彼女に預けていた。しかしその女性は自殺をしてしまい、彼女は名札を返すことができなくなってしまったので、そのまま自分の名札と一緒にしまい込んでいた。それをその猿が見つけ、一緒にあった彼女の名札も盗んだことで、彼女は自分の名前を忘れるようになってしまったのだ。
 つかまった猿がそう話すのである。ちょっとした村上ワールドがここにあって楽しかった。

2005年12月11日

横山秀夫著『震度0』

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 こういうサスペンスはどんな形でここに書けばいいのか難しい。下手に書いてしまうと話の内容をバラしてしまうわけだから、それは礼儀に反するだろうし、かといって「この本読みました」で終わりというわけにもいかないので困ったものである。
 さて、『震度0』(朝日新聞社刊)に限らず、横山さんの著作の特徴として、事件事故とは別に、それに関わる人たち立場が問題になってくるパターンが多い。たとえば昨日NHKでやって『クライマーズ・ハイ』にしても、日航の墜落事故を誰がどのように扱うか、同じ新聞社内でも立場の違いで、扱い方が違ってくることがうまく表現されていた。(但し悠木はちょっとかっこよすぎて浮いちゃっている部分があって、こんなやつ現実にいるのかなぁ、いるとやっかいだなぁと思うところがある)まぁどの社会にもセクト的なものがあるから、これがN県警だとこの物語になる。
 阪神淡路大震災があった日、N県警の不破警務課長が失踪が判明する。この失踪捜査を県警幹部の誰がイニシアティブを取って捜査するか、内部的立場や、次のポストなどの野心、あるいは癒着、不倫などが絡んで、本部長、警務部長、警備部長、刑事部長、生活安全部長、交通部長が内部抗争的に争い、あるいは牽制しながら不破警務課長の失踪原因の究明にあたる。更に警察にある、キャリア、ノンキャリアの争いもそれに加わってくる。
 この話どちらかといえば何故不破警務課長が失踪したのかを直接解明するのではなく、その捜査が誰がどのようにやっていくか、その主導権争いの過程で不破警務課長の失踪原因が明らかにしていく。
 それにしても自分の野心に邁進すると、そのために保身は絶対的必要なのであろうが、ここまでくると計算ずくめだから本当に醜い。
 そういえばこの本今年の「このミステリーがすごい!2006年版」の国内編3位に入っている。

2005年12月09日

白石昌則著『生協の白石さん』

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 どうも私はミーハー的なところがあって、特に本に関してはそれがひどく、ちょっと話題になっているという情報を聞いたり、読んだりすると、どうしても読みたくなってしまうのだ。それでいてだいたいが何だぁと半ばがっかりしてしまうことが多い。確かに今の話題についていけない部分が私にはあって、それがそう思わせるのだろうが、今回もそんな感じであった。

 東京農工大学の生協では生協に対する意見や要望を「ひとことカード」に書いてもらい、それに対して白石さんが答えるという形式で、掲示していた。それをまとめて本にしたのが、この『生協の白石さん』(講談社刊)である。
 よくスーパーに投書箱みたいなやつが置いてあるけど、あれはたぶん公開したり、その答えを公にしたりはしていないと思う。しかし生協の場合はこうした要望書などは掲示板などで公開されるんだとはじめて知った。
 この場合のご意見・ご要望は生協のすべてに対してのみ行われると思うのだが、そこに「愛は売っていないのですか?」と書かれていたら、普通これを読んだ担当者は、「この野郎ふざけやがって!」と言いながら、カードを丸めて捨ててしまうだろう。
 ところがそれに「どうやら、愛は非売品のようです。もし、どこかで販売していたら、それは何かの罠と思われます。くれぐれもご注意下さい」と生協の答えが掲示される。
 これが心温まるものなのだろうか?又そういう意見に対して、怒らずウィットに富んだ答えで返すのが大人なのだと言いたいのだろうか?私ならこんな要望がきたら怒って捨ててしまう方が正常だと思うのだが・・・。それが普通だろう!
 もちろんそんな堅苦しいことなど言わないで、もっとおおらかになりなさいよという声が聞こえもするし、こういう言葉のキャッチボールをすることで、お客さんが生協を身近に感じてくれるというものですと言われそうである。たぶんそういうことなのだろう。私みたいな短気な人間にはなかなか出来るもんじゃない。こうすることで、「あなたの言うことは確かに受けとめましたよ」と感じさせ、親近感や、癒しを感じさせるのだろう。きっとこの本を読んで癒しを感じる人もそんなところから感じるのではないかと思う。分からない訳じゃないが、どうもなぁ・・・。
 きっとそれはそれでいいのだろう。あまり深く考えないでくすくす笑って読めばいいのだ。ただ私はちょっと不器用なのでこんなことを言ってしまった次第です。ちなみに白石さんブログがあるが、URLは以下の通り。

http://shiraishi.seesaa.net/

2005年12月07日

小川洋子著『博士が愛した数式』

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 この本は第一回「本屋大賞」の受賞作である。「本屋大賞」というのは「本の雑誌」が主催する。全国の書店員が薦める、書店員が一番売りたい本は何かということで、2004年から始まった。つまり本屋の現場で働く本好きが選んだ本である。だから同好の士が自分の好きなものを語るのと同じで、そこは新聞の書評に比べ、権威主義に走らず、素直にいい本が薦められている。

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 だからという訳じゃないが当時から気になってはいた。しかし書名にある数式というのが「ちょっと難しそう」と敬遠していたところが私にはあって、そのまま読めずにいた。幸い今回新潮文庫で発売されたので、読んでみた。読んでみて、ちょっといい感じになれた。
 内容は、17年前に交通事故にあった老数学者(博士)は、事故の後遺症で記憶が8時間しか持たない。8時間たってしまうとリセットされちゃうのだ。だから博士の背広にたくさんのメモをクリップで留めて、記憶がリセットされても分かるようにしていた。
 その博士のところに家政婦として「私」が働くことになった。博士は数学の美しさを「私」に教えていく。数字が持つ美しさ、その意味がいかに深淵かを例題を出しながらわかりやすく説明していく。読む側もいつのまにかその説明に数字の持つ独特の美しさを感じてしまう。
 また博士は子供が大好きであった。「私」には10歳の息子(博士が息子の頭が平らなので√と名付ける)いるが、博士のルートを見る目が数字を見る目と同じくらい、あるいはそれ以上に愛おしみ深い。ものすごく優しいのである。「私」が子供を置いて博士の世話をしていること知ると、「いかん、いかん。子供を独りぼっちにしておくなんて、いかなる場合にも許されん」といって、翌日からルートは学校が終わったら博士のところに来させる。博士はまるで自分の子供みたいにルートを可愛がる。それ以来、博士と「私」とルートの3人が不思議な関係で話がほのぼのと進んでいく。
 3人の関係をつなげる基本は雇用関係であり、ルートの宿題である算数であり、阪神タイガースであった。ルートと博士は阪神タイガースのファンであった。ただし博士の記憶は17年前で止まっているので、博士の阪神は江夏のいる阪神であった。
 ここにはお互いがそれぞれ慈しみあい、尊敬しあう関係が描き出される。それが読んでいてものすごく優しい気持ちになれる。
 今の世の中、利害関係や損得勘定で、人とのつきあい方が決まってしまうところがあって、なかなか気持ちの上で純粋に人との関係を構築するのが難しい世の中になっているだけに、この3人の関係が心和ませてくれる。

 博士がいつも解いている数学の雑誌の懸賞問題の正解者として発表されたお祝いと、ルートの11歳の誕生日のお祝いを兼ねたパーティーが3人でささやかに開かれる。ルートと「私」は江夏の現役時代のプレミアムカードを何とか探し出して、博士にプレゼントする。それを受け取った博士は数字の前でひざまずくのと変わりがなく、「私」とルートの前で足を折り、頭を垂れ、目をつぶって両手を合わせて感謝の気持ちを表した。一方博士はルートにグローブをプレゼントをする。このささやかなお祝いが、ものすごくあたたかく感じた。
 しかし博士の記憶はもう80分も持たなくなり、施設へ入らなければならなくなってしまう。当然「私」は博士の家政婦として不要の存在となり、解雇されるが、「私」とルートは一ヶ月か二ヶ月に一度博士を訪ね、その関係は博士が死ぬまで続いた。
 ルートは大学で怪我をするまで、中学、高校、大学と二塁手として野球を続け、大学卒業後、中学校の数学の先生となることが決まり、それを聞いた博士はルートを抱きしめようとする。その博士の首には江夏のプレミアムカードがケースに入って提げられていた。

2005年12月04日

山本夏彦著『私の岩波物語』

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 時に雑誌の名前よりその編集者の方が有名な場合がある。たとえば「暮らしの手帖」の花森安治やこの本の著者である山本夏彦さんの「室内」がそうである。これらの雑誌は編集者の編集方針で特徴を出していて、それが名物になっている。
 その山本夏彦さんが書いた『私の岩波物語』(文春文庫)は不思議な本だ。この本は実は「室内」を出している工作社の社史なのである。ところが山本さんも言っているがこの社史というやつはだいたいが面白くなく、読まれない代物なのだ。どうしてかというと、自分のところの会社をよいしょしているだけだから、読むに堪えないものなのだ。それで山本さんは社史がどうしたら読まれるか考え、それまであった社史から離れて、自分が関わった出版業界、広告業界など関連事業を取り込んで、見聞したことをゴシップも混ぜて、自分のところの社史を書いた。それがこの本なのである。山本さんは言う「私の『社史』は工作社を語るふりをして他社を語りまた工作社にもどることを繰返して、結局この百年の言論界の一端を語ろうとするものである」と。だから読んでいて、「ふ~ん、そうだったんだ」とこの業界の歴史を知ることが出来る。明治・大正・昭和の中で出版社や広告業界の成り立ちから、栄枯盛衰が書かれていて、この業界に興味のある人には面白く読める。今ある出版社は昔はこうだったんだとか、大手老舗の書店さんの前身は当時羽振りの良かった出版社の取次だったとか、著者、版元、印刷、製本、本に関わるすべての分野の歴史に言及されている。
 私も知らなかった出版界の歴史は面白かったのでそれを一部書いてみよう。まずは出版社編から・・・・

 「大正2年岩波茂雄は3年あまり勤めた女学校をやめて古本屋を開業するに当たって、『自分ごときが教職にあるのは人の子をそこなうと恐れてやめた』と挨拶状に書いた。その岩波が岩波文庫を出すに当たり、真理は万人によって求められることを欲しているのに、学芸は狭い堂宇にとじこめられている。それを特権階級からとりかえして民衆に解放するために文庫を出すと言っているところをみると、女学校の教師はやめたがこんどはさらに大ぜいの教育を試みようしたのである。再び人生教師になるなかれ、女生徒を教えることができないものがどうしてはるか大ぜいを教えることができよう」と岩波の姿勢に厳しい。山本さんは岩波茂雄は「正義の人」だからこういうことを言うのだという。しかし「正義の人」ほど始末に悪いものがないから、岩波書店は出版界、言論界に悪弊を及ぼすのだという。
 たとえば、岩波の出版物が高い正味で買切なのも、自分のところで出す本が正義に基づく本であるから、そのことに疑いを持たない。また岩波の書物が読みにくいのは専門的な知識の持ち主や外国語ができる人を重用するからで、その人達の日本語能力を問わなかった。だから「国語の破壊者」としての岩波を弾劾している。そんな事情から「絶対矛盾的自己同一」なんて言葉生まれたのだ。『アンナ・カレーニナ』が面白いのに、こんなにつまらなくしたのも、外国語はできるけど日本語ができない訳者を使ったからだし、『プルターク英雄伝』も英雄伝なのだから本来手に汗にぎってもいいはずの読み物なのにつまらないものしたのもそんな事情によるのだという。これは笑った。

 講談社については、どっちかといえばゴシップ的要素が強いが面白いので書き出してみる。講談社の社屋は護国寺にあるがそれは御殿みたいな建物で「音羽御殿」と呼ばれている。この本によると、この御殿、もと山田顕義伯爵の豪邸だったものを大正10年に創業者野間清治が当時のお金50万円で買った。敷地6,500坪という。どうしてこんなにお金があったかというと、講談社の旧社名は日本雄辯會講談社といい、その看板雑誌「雄辯」が当時の演説の時代であったので、売れに売れたらしい。その後講談の全盛時代になり、「講談倶楽部」を出し、ついで「少年倶楽部」、「面白倶楽部」、「現代」、「婦人倶楽部」、「少女倶楽部」、「キング」、「幼年倶楽部」と次々と雑誌を出していく。野間のポリシーは「面白くて為になる」でこれは大衆に支持された。だから百万大雑誌になれた。これに反してインテリを相手にした岩波売れなかった。ただし、オピニオンリーダーにはなれた。多分岩波書店は今もこのオピニオンリーダーをそのまま自負しているところがあるんじゃないかと思うが、どうだろう?とにかくそういう台所事情だからお金があったし、講談社を大きくした理由であるという。なるほど・・・。

 次いで、問屋(取次)編を・・・・。

 今は本や雑誌は定価販売である。いわゆる「再販制」がそうさせているのだが、それに伴い委託販売が原則である。要は「文化的価値の高いものだから定価で売ってね。その代わり見本を何冊か送るから、売れ残ったら返品していいよ」という方法で商売をする。
 しかしそれは昔からそうであったんじゃないらしいことを知った。明治から大正末まで本も雑誌も定価販売でなかったし、割り引いて売っていた。もちろんはじめは委託ではなく買取であった。
 現在書店と出版社(版元)をつないでいるのが、日販やトーハンの二大取次が有名であるが、昔はこの東日販のような大取次を「大売捌所」、「元取次」といった。当時は、東京堂、東海堂、北隆館、上田屋、至誠堂が五大取次として有名で、特に東京堂は博文館直系の元取次で、雑誌と書籍の両方を扱ってこの時日本一であった。ちなみにこの博文館という出版社は現在日記帳だけの出版社に成り下がっているけれど、明治末まで当時の出版物の7割までが博文館の雑誌と書籍だった。
 この頃は、取次は版元(出版社)から新刊が出ると、いち早く見本をもらって書店に注文をもらいにいく。「入銀帳」といわれるやつに注文冊数を書いてもらう。もちろん買取である。ただ初版の正味安くなっている。買取だから売れるか、売れないか、本に目利きがいる。だから取次は売れる本を仕入れることで、当時はマージンを取っていた。つまり本の目利きがとり取次の利益を左右したのである。
 ところがここに委託販売、返品可能という状況が生まれ、取次の利益が目利きに左右されることから、本や雑誌を配送することでマージンを取ることで利益を確保するようになってしまうのである。
 博文館が明治の末まで出版界を牛耳っていたことは書いた。そこに実業之日本社の「実業之日本」、「婦人世界」、「日本少年」などが売れ出しのである。そしてこの勢いに乗じて実業之日本社は「婦人世界」の返品をいくらでも受け付けると言いだしたのである。だから小売側に多く取ってくれと言い出すのである。
 こうなると書店は見込み仕入が可能になり、多めに仕入をし、残りを返品することになる。当然返品を心配する必要性が出てくるが、当時はこれが大当たりになり、返品の心配などなく「婦人世界」の部数が逆に伸びる結果となった。これが買取が前提の博文館の衰退の始まりであった。しかし実業之日本社の繁栄は10年ぐらいしか続かなかったが、その後講談社が実業之日本社の真似をして「返品はいいよ」と返品を受け付け、実業之日本社のあと講談社の全盛時代となっていく。こうしてまずは雑誌が委託販売になり、返品が可能な状況を生み出したのであった。
 さらに大正15年、改造社の『現代日本文学全集』の刊行する。1冊1円の廉価版の文学全集を予約出版する。いわゆる「円本」である。これが売れに売れたのだが、一方でかなりの書籍の返品を生み出す。またこのブームは大部数を廉価で出版・流通する、現在の出版産業につながる体制を生み出す。

円本
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 こうなるとますます取次はただ本や雑誌を配送し、そのマージンで商売することになってしまうのである。そこへ昭和16年に政府はそれまであった多数の取次を一つにまとめたのである。それが日本出版配給株式会社-略して日配(ニッパイ)という-である。まさしく取次は本を配給するだけに落ちぶれたのであった。
 戦後このニッパイは解体され、東販、日販、大阪屋、中央社、日教販に分かれた。分かれても本を配給という体質は変わらず、本の目利きという必要性がなく、ただ配送するだけなので競争がない。従って現在の東日販の寡占が生まれたのである。
 そして本を配送するだけなら、こうもデリバリーが進んだ現代なら東日販に頼る必要性もだんだん少なくなっていくのではないかというのは、以前書いた。実際クロネコヤマトが書店と出版社をつないで、8掛けで仕入を請け負っている。アマゾンが直接出版社との取引を考えていることも書いた。だんだん取次も厳しくなっていくのだろう。きっとこれから先もっともっと出版流通は変わっていくことと思う。変わっていくことは大賛成だ。そのことが読者にどのように還元されるか楽しみだ。

 この本はその他の出版社にもふれているが、面倒なのでやめる。それより山本さんは辛口コラムニストとして有名だから、忌憚なくものを言っていて面白い。最後にそれをちょっと書き出してみよう。

「人の病は人の師となるを好むにあり」

「人は金より正義が好きだ。ことに金に縁のないひとは好きだ」

「正義は国を滅ぼす」

「経営者は人に迷惑をかけても自分の会社を死守する。大小を問わずそれこそ経営者である。死守するに値するか否かを問わない。問えばたいていのテーマは値しない」

「ひとたび出来てしまったものは、出来ない昔にかえれない」

これらは山本さんが自分が雑誌を出すに当たって、他の出版社などの動向を見て感じたことを書いている。このあたり、何だか今のマンションの耐震データ偽造問題に通ずるところがある感じだ。どこかのデベロッパーの社長さんはこれを地でいっているのかもしれないなんて思った次第だ。