2006年02月28日

永江朗著『菊池君の本屋』

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 読んでいて、涙が出そうになった。別に泣くような本じゃないことは分かっている。けれど、自分が経験して「むなしいなぁ」と思ったことが、著者である菊池さんが言っているので、ちょっと涙腺がゆるんだのだ。
 それは、こうである。「一時期業界で盛んに提唱された”勧める販売”はいやだ。ぼく自身、セールスマンとして昔やったことがある。だからああいうことがいかに辛いかということが骨身にしみてわかっている。サラリーマンの頃一軒一軒自転車で回ったりした。チラシを持って、テッシュを持って、家庭を回って、『定期購読してくれませんか』ってやったのだ。その結果がNHKテキスト『基礎英語』なって言われるとガックリきちゃう。それをやって注文書を書いて、伝票切って、集金して来て、と全部やった。
 女房が『SOPHIA』の創刊号を150部とったり、『日本大歳時記』を50セットとったりもしている。だからいかに大変か、プレッシャーがあっていやな方法か骨身にしみてわかっている。(略)結果として『SOPHIA』を100部売ったとしても10万円ぐらい。それで2万円の儲けだ。2万円儲けるためにあんなに必死ならないといけないのかと思うとやっぱり辛い」

 私も昔新大久保店がオープンしたとき、その前に近所にポケットテッシュを一人あたり段ボール一箱分テッシュをまいてこいと言われ、やったことがある。みんなでテッシュをまいたのだけど、その時の虚しさといったらなかった。こんなことして一体何になるのだろうかと思っていた。どう考えてもお店には来ないだろうと思える離れた距離のところまで、テッシュをまいた。
 又秋葉原の駅前で、確か講談社から出ていた『日本の天然記念物』という豪華本のチラシを日販の営業マンとまいたことがある。あの時も同じ気持ちでいた。しかもその時は直接手渡しである。受け取ってなんかくれないのだ。当たり前だ。朝通勤時間の忙しい時に、だれがそんなつまらないチラシなど受け取ってくれるか。いつまでもチラシが減らないものだから、悲しいたらありゃしない。それでいくつ予約が取れたのかといえば、ほとんどなし。分かってはいたが、それでもやらなければならないのだから、虚しい。辛かった。それを思い出したのだ。だって本って、嗜好品だから、自分の興味のない本なんて欲しいと思わないはずだ。まして勧められて買うもんじゃないと思っているから余計である。その本がどこか、あるいは何か訴えかけるものであればともかく、仮にあったとしてもごく一部の読者だけであって、多くの人が興味を示すなんて難しい話じゃないかと思うのだ。
 それ以来、私がお店の責任者となってからは、一切そんなことはしないようにした。いくら問屋や出版社、あるいは社長にやれと言われても、受け付けなかった。それをやらなければならない人のことを思うと、とても出来なかった。配達のついでに本を勧めることもさせなかった。
 菊池さんのヴィレッジ・ヴァンガ-ドは変わった本屋さんだけど、この本を読んでいて、菊池さんはとことん本屋さんなんだなぁと思うのと同時に、自分が辛いと思ったことは、絶対に従業員にさせないというポリシーはすばらしいと思ったのだ。そんな辛いことをしなくても、違う方法があるはずだというわけである。それがヴィレッジ・ヴァンガ-ドというお店で実現していると思った。
 新刊にしてもそうである。小さな本屋さんだと売れ筋の新刊など殆ど手に入らない。それに対していらだちを覚えるなら、既刊本で売ればいいと思っていた。もちろん新刊が全くないというわけにもいかないから、多少手に入れる方法を模索したけど、そればっかり追い続けると、いずれ行き詰まる。それが分かっていた。だから既刊本で、その本屋独自のプレゼンテーションが出来れば、きっと売れるはずだと思うし、それがその店の個性にもなると思うのだ。それを菊池さんはやっておられる。菊池さんは言う。「ようするに一つでも多くのものを買ってもらいたいのだ。『こういうモノがあるんだよ』とプレゼンテーションしたい。お客が見た時に、ここはわかっているいるなと思わせたい。95パーセントの客が気がつかなくても、5パーセントの客がわかってくれればいい」と。だから「本屋のセンスは、この本の隣になにを置くかで決まる」という。その隣に置くのが本だけでなく、雑貨であったり、CDであったりするわけだ。本屋では本の隣は本を置かなければならないという固定観念があるから、行き詰まるわけだけど、別に本でなければならない理由などどこにもない。これがヴィレッジ・ヴァンガ-ドが成功した理由だろうし、個性だと思わせる。
 事実本以外のグッズの売上が大きいのが分かる。この本にはヴィレッジ・ヴァンガ-ドイーストの月別売上が示されているが、それを見てみると、グッズの売上は全体の50.2%~45.5%を占める。つまりお店の売上の半分は雑貨、CDなどのグッズの売上なのだ。それだから粗利益も通常の本屋が20%弱なのに30%もあるというのもうなずける。だからといって、それら雑貨をメインにしている訳じゃない。あくまでも本を中心に雑貨の配置、品揃えを考えているという。何故なら、「本が出るということは、世間にそれ(グッズ)を受け入れる状況ができているということ」だからと言う。つまり基本は本屋さんなのである。 でも、こういうグッズを置くというのはどうしてもマーケティングがしっかりしていなければならないはずで、しかも利益率が高いということは、リスク(たとえば全て買い取らなければならないなど)もかなり高いはずだ。ということはそのあたりリサーチもしっかりしたものでなければならないし、それをどうやって売るか、それをきちんと考えないとならない。このあたりは楽しさもあるけど、厳しさも当然伴っていくはずだ。
 それに伴って置かれている本もかなりセレクトされていて、いわゆる定番といわれるその店の売れ筋の本も通常の本屋さんとは一線を引いている。この本の後ろに「定番1200」というのがあり、そこにはヴィレッジ・ヴァンガ-ドの売れ筋一覧が記されている。これを見てみても、普通の本屋さんとは違うよなと思ってしまう。このあたりが新刊ばかりを追わない姿勢となっていくのだろうと思われる。

 この本(アルメディア刊) は先に読んだ『ヴィレッジ・ヴァンガ-ドで休日を』の実践編といった感じの本で、12年前の本であっても、今でも様々な方向性を示してくれているような気がする。もっと早く読んでおけばよかったかなと思った。

評価
★★★★

2006年02月26日

『LOVE書店!』

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 あなたをもっと本好きにする、書店員がつくるフリーペーパーとして、『LOVE書店!』を手に入れた。
 これを手に入れて知ったのだが、本屋大賞実行委員会は、長期的に安定した活動を目指し、その活動理念に添うNPO法人となったそうである。それからこのフリーペーパーがたぶん生まれたのだろう。
 しかしこの『LOVE書店!』を見てみると、どうも『本の雑誌』のフリーペーパーみたいな感をぬぐえない。確かに最初は本屋大賞は『本の雑誌』から生まれたわけだから、仕方がないにしても、こうしてNPO法人となった以上、そろそろそこから脱却した方がいいのではないかと思う。
 せっかく現場書店員から、既存の文学賞(特に直木賞がおかしい)という声が上がって作られた賞なら、どこかに偏ったところがあってはならないのではないかと思う。あくまでも書店員がつくることを徹底してもらいたいものである。だからNPO法人になって独立したことはいいことではないかと思う。
 この『LOVE書店!』がもっと面白くなって、内容のいいものが出来ること期待したい。URLは以下の通り

全国書店員が選んだ いちばん!売りたい本 本屋大賞

 http://www.hontai.jp/
 

茶木則雄著『帰りたくない!』

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 この茶木則雄の『帰りたくない!』(光文社 知恵の森文庫)の副題に「神楽坂下書店員フーテン日記」とある。これを読んだからこの文庫を買ったのだが、書店の話、本の話などを期待していただけに、あっさり裏切られた。
 何のことはない。自分のところの奥さんと、日常のどうでもいいやりとりを書きつづったものであった。自分がギャンブルで遊びすぎて、奥さんに愛想尽かされ、罵られるパターンである。こういう手近なところで笑いを取るパターンは、最初はいいにしても、全編これだと辟易してしまう。もういいよと言いたくなってしまう。
 茶木さんはミステリー専門書店店長(後に退職)で、書評家らしいのだが、この本には最初ところはミステリー本を紹介しているけど、その話をすぐ家庭内の話、特に奥さんとの会話に関連づけられてしまう。
 そもそもミステリー本を紹介しても、中途半端で、ちっとも読んでみようなんていう気にならなかった。後半になると、そのミステリー本さえ紹介されなくなってしまう始末。失敗であった・・・。

評価
×(ブックオフ行き決定!)

2006年02月22日

エドワード・ドルニック著『ムンクを追え!』

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 この本(光文社刊)を読むまで知らなかったのだが、闇で取引される盗難美術品の総額は年間40億から60億ドルにものぼり、その規模は麻薬、武器に次いで第3位に位置しているらしい。
 1994年2月12日リレハンメル冬季オリンピック開催初日、ノルウェーが世界の注目を浴びた日、ノルウェー国立美術館でエドヴァルト・ムンクの『叫び』(時価7,200万ドル、約86億円)が盗まれた。このときノルウェー国立美術館ではムンクの作品展が開かれており、それまで美術館の3階にあった『叫び』を2階の窓際に移し、さも盗んで下さいといった感じで展示されていた。犯人は外からはしごを掛けて、いとも簡単にそれを盗んだ。犯人は犯行後「手薄な警備に感謝する」というメッセージを残すくらいに・・・。
 この本を読んでいると絵画を盗む方法はかなり雑なやり方で行われているようだ。美術品を盗む割には、ドアや窓をぶち破ったり、銃やライフルをぶっ放したりして、大さっぱだ。
 私は絵画など美術品を盗むのは、組織的な犯罪だろうと思っていたが、どうも違うようだ。どちらかといえばコソ泥が世間をあっと言わせたい愚かな虚栄心が名画を盗む動機であるようだ。だから彼らは本当の価値が分からない輩である。しかもノルウェー国立美術館のように、美術品ほど盗みやすいものはないらしく(世間の人に絵を見てもらうということは、泥棒にとってみればさも盗んで下さいといっているのと同じだからだ)、しかも捕まっても罪が軽いらしい。
 いくら警備を万全にしていたっても、泥棒にとってみればいとも簡単に絵を盗むことが出来てしまうのだ。事実あのルーブル美術館の『モナ・リザ』でさえ盗まれたことがあるくらいなのだから。
 そして盗んだ絵をどう現金化するかそれが問題になってくる。世界に一つしかない絵画を盗んでもその処理に困るはずだ。何故ならその絵は明らかに盗まれた絵であると分かるからだ。だから美術館に買い取ってもらうか。あるいは保険会社に買い取ってもらうか。それとも闇のブローカーに流すかして、犯人はお金に変えていく。
 盗まれた絵画は闇で取引され、「密輸品が現金で売買されるとはかぎらず、たとえば麻薬の運び屋への報酬として絵画を渡すこともあるし、大がかりな取引で現金のかわりに使うこともある。あるいは一万ポンドの借金を抱えた泥棒が、盗んだ絵で返済するケースもある」という。
 一方闇のブローカーから盗品の絵画などを買い取る富豪は、その自分の欲望を満たすために盗品の絵画などを買い取る。盗まれた絵画は時価総額がジャンボジェット機が買えてしまうほどの価値があるだけでなく、世界に一つしかないものだから、たとえそれが盗品であっても、それを自分だけが所有しているという満足感がそうさせる。そしてそのように個人に所有された絵画は絶対に公開されない(当たり前であるが・・・)その所有者一人がその絵を前にして楽しんでいるのだ。だから一度盗まれた絵画はなかなか発見できない。
 そんな絵画の回収に挑むのは、ロンドンの美術特捜班(アートスクワッド)のチャーリー・ヒル達だ。
 チャーリー・ヒルは以前盗まれたフェルメールの『手紙を書く女と召使い』を回収している実績があった。


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 チャーリー・ヒルにとって絵を盗んだ犯人を捕まえることは二の次で、まずは絵を回収することが最大の目的である。だから誰がやったかは問題でなく、絵がどこにあるかそれが最大の目的となる。チャーリー・ヒルにとって絵を探す目的は、世界の人々に見てもらうようにすることだけであった。
 その回収方法だが、チャーリー・ヒルがその絵を欲しがっている大富豪の代理人や画商などに扮して、盗品の絵画などを持っている犯人達とコンタクトする囮捜査である。当然そこには危険が伴うが、それでいてチャーリー・ヒルはまるでゲームを楽しんでいるようだ。
 ただ絵の回収にはその絵の知識が必要で、事前に回収すべき絵に関して様々な情報を得ていく。犯人達から渡された絵が偽物か本物か瞬時に判断しないとならないからだ。しかしチャーリー・ヒルは「画家について詳細に調べるのは、この仕事の大きな楽しみの一つである」という。
 絵を盗んだ犯人達とのコンタクトはさすがスリルがある。取引の場面は手に汗にぎる。そして盗まれた絵を目にしたときは、「本物の名画を手にしたとき、凄い絵だということが瞬時に理解できる。絵そのものが教えてくれるんだ。優れた絵画は、見る者にそれだけ強い衝撃をあたえるものだ」という。
 私はこの本で、チャーリー・ヒルが犯人達とどう接触し、絵を回収していくかを読むのを楽しんだ一方で、絵画に関するうんちくも楽しんだ。
 たとえばムンクの『叫び』にかんして、なぜこんな絵が描かれたのかに興味を覚えた。(もともとこの本を買ったのはムンクの『叫び』がテーマになっているからで、もし他の絵のことだったら読まなかったかもしれない)だから「ムンクはなぜ『叫び』を描いたか」が一番面白かった。


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 エドヴァルト・ムンク(1863-1944)は生涯、不安におののきながら生きた人だった。ムンク一族は精神の病という不幸につきまとわれていた。ムンクの日記には「病と狂気と死は、私揺り藍を見守り、それ以後もずっと私の人生につきまとってきた天使たちである」と書かれている。
 そのムンクがどのような目的で絵を描いたのか。それは「人間の外面的特徴を描くのではなく、苦悩や感情を描く」ことで作品を発表し、自身の苦悩を世にさらけ出していったのである。
 特にムンクは女性関係では、いつも悩み苦しんでいた。特に貧乏画家であったムンクは、トゥラ・ラーセンという、コペンハーゲンの裕福な名家の一員で、虚栄心の強い女性と激しい恋に落ち、3年間交際した後、別れた。彼女はムンクを仮病を使っておびき寄せ、よりを戻さないと自殺すると銃を持ち出し、口論の上もみ合いになり、銃が暴発してしまう。弾丸はムンクの左中指の第一関節から先を吹っ飛ばしてしまった。(幸いムンクは右利きであった)

 こうして苦悩上書き上げた絵は、作品めがけて腐った果物を投げつけられるほど不評であった。『叫び』にしても、多くの人から批判され、フランスのある新聞は、まるで排泄物を指でなすりつけたような印象をあたえると酷評された。さらに空に描かれている赤い部分には、鉛筆で「この絵は頭のおかしい人間が描いたにちがいない」といういたずらさえ書き込まれている。
 確かにムンクの絵は見る人にとってみれば、ひどい絵のように見える。この『叫び』を見ても、そう思われても仕方がない。事実その描き方は、急いで筆を走らせたためか、中心に描かれている人物の顔の部分は、よく見ると厚紙(カンバスじゃないのだ)の地肌が透けている。しかもムンクは自分の作品の扱いは無神経で、作品を床に投げつけたり、踏みつけたり、何年間も雨風に曝したまましていたり、湯気の立つスープ鍋の蓋代わりにしたりしていた。
 『叫び』を完成したのは深夜だったため、疲労困憊のムンクが画架の近くにあった蝋燭吹き消すと、作品の上に蝋が飛び散った。今でも『叫び』にはその蝋の雫が絵の右下残っているそうである。(こうしたいたずら書きや蝋燭の跡は、絵が本物であるかどうかの貴重な判定材料になる)
 ところで、私が一番興味を引いたのが、次の部分である。
 それは1883年8月27日午前10時2分インドネシアのクラカト火山が噴火し、火山島の殆どを吹き飛ばした。その火山灰が世界中の空を覆い、その結果、日没時の太陽が燃えるような強烈な赤い光を放つ怪現象が起した。翌28日のニューヨークタイムズには「夕方5時過ぎ、西の地平線が鮮やかな緋色に輝きはじめ、空と雲が真っ赤に染まった。通りを歩いていた人々はこの異常な光景に驚き、あちこちの角に集まって、西の空を見つめた。・・・・雲はしだいに血のような赤に染まり、それを映す海もまた血の海を思わせる色に変わった」という記事が掲載されている。30日付のオスロの新聞では、「昨日から今日にかけて、オスロの西の空に強い光が見られ、多くの人が火災だと考えた。だが、実際には、これは日没後の太陽光が大気中の塵に反射して起こった現象である」と報じている。
 そしてムンクはこの『叫び』を描いた時のことを次のように回想している。「ひどく疲れたので、私は立ちとまって手すりに寄りかかった。濃紺の闇に沈むフィヨルドとオスロの街を眺めると、その上空に、まるで剣から滴る血のように、真っ赤な雲が垂れこめていた。友人はすでに先に行ってしまった。私は独り立ちつくし、恐怖に震えていた。すると、自然を貫く大きな叫び声が聞こえ、いつ果てるともなく続いた」と言っているのである。
 この散歩の日時が1883年、1886年、1891年の説がある。もし1883年だとしたら、ムンクの『叫び』の背景にある夕日は、当時非常に珍しい自然現象であった可能性がある。つまりムンクはこの現象を見て、『叫び』を描いたのではないかというのである。もちろん確かなことは分からないが、少なくとも精神を病んでいたムンクがこの自然現象を目撃していたら、かなりのショックを与えた可能性がありそうである。そしてその時の印象を『叫び』に描いたのではないかという推理は面白かった。

 この本を読んでもうちょっとムンクのことを知りたいと思った。他にムンクのことを書いた本を読みたくなった。(こうしてどんどん興味を覚えるから、次から次へと本を買ってしまうのだ。そしてその本の収納に悩まされるのだ。やれやれ・・・)
 
評価
★★★★

2006年02月19日

週刊新潮はただ今発売中です

 全国書店新聞で、2005年の出版物販売状況を紹介している。それによると、2005年の出版販売額は全体で2兆1964億円で前年比2.1%ダウンである。(2004年は8年ぶりに前年を上回っていたが1年で逆戻りした)この2005年の販売総額は15年前の1990年と同水準だという。特に週刊誌の売上低迷がひどく、前年比7.1%の大幅減である。

 そんな中、先週ラジオで「週刊新潮は明日発売です」というCMが「夕焼けこやけ」の茜蜻蛉(あかとんぼ)の曲と一緒に流れてきた。最初は久しぶりにこれ聞いたなぁと懐かしがっていたのだが、しかし何で急に昔やったCMをラジオで流すんだろうとちょっと不思議であった。(このCM今ならインターネットで4種類のバージョン聞けます。URLは http://book.shinchosha.co.jp/50th/index.html

 たまたま新潮社の広告雑誌「波」を見ていたら、「週刊新潮」が今年創刊50周年を迎えたらしく、そのために昔のCMを流していることが分かった。そして木曜日に、「週刊新潮」の別冊で「創刊号」完全復刻版が発売された。


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 この別冊は創刊50周年記念として、「週刊新潮」はこうして創刊されたというエピソードを加えて、なかとじに創刊号が入れられている。この創刊号を見ると当時30円で発売されていたことがわかる。


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 特にこの「週刊新潮」はこうして創刊されたというエピソードは面白かった。「週刊新潮」は出版社が出す初めての週刊誌で昭和31年2月に創刊されたのであった。それまでは新聞社が出す週刊誌、「週刊朝日」、「サンデー毎日」しかなかった。要は週刊誌はニュースソースがしっかりしている新聞社しか毎週出せないものだと思われていた。それを出版社が毎週出すというのだから、かなり大きな賭であった。
 簡単に週刊誌を出すといっても、編集者、記者、カメラマン等の確保、それを作る印刷所の確保、販売ルートの確保などをしっかりしなければ、販売実績など生まれない。その苦労話がエピソードして掲載されている。
 また新聞社系週刊誌とは違うコンセプトをはっきりさせる必要がある。それが「人間の本質は色と欲だ」である。こうして「週刊新潮」は50年続いてきた。そしてこのコンセプトは今の他の週刊誌に連綿と続いていることになる。
 「週刊新潮」といえば、谷内六郎さんの特徴ある表紙絵である。これも毎週描かれるわけだから大変だったろうと思う。谷内さん表紙絵は25年続き、その数1330枚余りになったという。

2006年02月16日

養老孟司著『解剖学教室へようこそ』

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 この『解剖学教室へようこそ』(筑摩文庫)の親本はちくまプリマーブックスである。この、ちくまプリマーブックスというのはどちらかというとわかりやすくその専門分野の入門書や解説書みたいに書かれた本である。
 今回は養老孟司さんが専門としておられる解剖学について、人の解剖を何故するのか、又はその歴史、解剖から分かったことなど、いわゆる養老ワールドを幅広く展開する。
 何でもそうなのかもしれないが、その道を極めた人の話は、その分野だけに留まらず、様々な分野にその関係をたどり、話そのものに「なるほど、こういう考えもあるんだ!」と我々が当たり前の論理として普段考えていることにちょっと違った目を開かせてくれる部分がある。今回も話の随所にそれらがちりばめられていた。多分それが専門外の人間が読むと楽しいと思えることなのだろう。もちろん解剖のやり方や、人体や細胞の仕組み、「死」とは何か、などもわかりやすく説明している。
 さて、この本の中で問題となるのは「何故解剖をするのか?」その意味は何なのかを養老さんの自身の答えが示されている。
 通常、人を解剖する理由って、たとえば患者がおなかが痛いといって訴えてきたとき、おなかの中で何が起こっているか分からないとならない。その時解剖の知識が構造的に必要である。そういう意味で、人の身体の中を知る必要から解剖が行われる。そいう説明の仕方で解剖の必要性を説くのが一般的である。我々凡人からすると、この説明の方が分かりやすいし、すっきりする。けれどその道のスペシャリストとなると、それ以上の意味を持ち始めるのかもしれない。言ってみれば「悟り」みたいなものかもしれない。
 では養老さんは解剖をすることをどう説明するのだろうか?それを人間が「ことばを使う」ことから説明する。
 人はことばを使うことで世界を理解しようとする。ところがこの「ことばを使う」という行為は、モノをバラバラに壊すことだというのだ。つまり人は「ことばを使う」ようになってから、ありとあらゆるものに名前を付けてきた。その方が分かりやすいからだ。ところがこの名前を付けることは、そのものを切ることと同じだというのである。たとえば「頭」という名前を付ければ、「頭」と「頭でないところ」ができ、そこに境目ができてしまう。本来つながっていたものが切れてしまうというのである。
 このあたりはなかなか理解しにくい。1回ぐらい読んだって理解できない。仕方がないこれは「悟り」なのだから・・・。私が自分なりに理解したことは以下の通りである。
 人は世界を理解しようとことばを使い、ありとあらゆるものに固有名詞を付けてきた。その方が理解しやすいからだ。そうすることで世界を理解しようとしてきた。しかしこうして名前を付けることは、その名前の部分とそうでない部分を切り離してしまうことにもなる。
 解剖もこれと同じで、人間の身体について何かを知ろうとしただけのことなのだ。だから、医者でもないレオナルド・ダヴィンチが人体を解剖し、スケッチを残したのは、この理由による。彼が身体を描いたり、彫刻したりするに、どうしても人体の構造を知る必要があったから解剖を行ったのだ。そして彼は人を描き、彫刻した作品を残す。そして出来上がった作品は、何かを我々に訴えかける。 身体を知ることは、広い意味で人を知ることであり、人の心を知ることなのだ。そして心は身体があって初めて成り立つことであるから、身体を知ることは、人を知る基礎だというのである。
 こういう論理は多少こじつけがましいけど、ロジックとしては面白い。

評価
★★★

2006年02月13日

菊池敬一著『ヴィレッジ・ヴァンガ-ドで休日を』

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 いやぁ~、久しぶりに笑わせてくれた本であった。この『ヴィレッジ・ヴァンガ-ドで休日を』(新風舎文庫刊)の親本は98年に出版されていたらしく、もうそれから8年もたっているわけだからヴィレッジ・ヴァンガ-ドもだいぶ変わっていることと思うが、それにしてもこの社長のポリシーは最高であった。なんだか昔の椎名誠を更に硬派にした感じであった。私はこういうおじさんの不良は大好きだ。(デビューしたての椎名誠もそんなことところがあって、結構気に入っていたのだけど、最近どうも教師ぽくなっちゃって気に入らない)
 この本はこの業界を多少でも知っている人なら、腹を抱えて笑える本である。ちなみにちょっと笑ったところを書いちゃう。まずはお店編から・・・。

 万引きに対する対応の仕方も面白い。小・中・高生は家に連絡し、大学生は彼の春秋をおもんばかって、ビンタ一発ですましているという。大人、これは処置に困る。彼らを諭せるほど人生経験を積んでいないからだ。(うむ~、よく分かる!)

 社員たちの前で菊池さんが言う。

「俺たちのやっていることは全く新しい消費を創出しているんだ。V・V(ヴィレッジ・ヴァンガ-ドの略)の売上は国民総生産の0.00000001パーセントの価値を新たに創り出しているんだ」
社員たちの目が光らないので、
「本というのは特別な消費財なんだ。まず、本を売ることに矜持を持とう。コンビニで本を買うようなセンスの悪い奴は相手にするな」
少し光ってきたので、
「お前たちは自分の棚にある本をどこの本屋で買ったか覚えているか、残念ながら俺も覚えていない、ヴィレッジ・ヴァンガ-ドで本を買ったお客さんが、たとえば20年経って、その本を手にした時、20年前のヴィレッジ・ヴァンガ-ドのことをまざまざと甦らせて、覚えていてくれる、そんな本屋になろう」
夜行動物のように光ってきたので、
「ところで、俺も年で疲れてきたので、冬はハワイ、夏はカナダで生活させてくれ」
突然彼らの目は曇りだすのである。

 これはかなりいいこと言っているし、全くその通りだ!と諸手をあげて賛成しちゃうし、最後の落ちも面白い。

 ある日菊池さんが塩野七生さんの『ローマ人の物語』を読んでいて、カエサルの『ガリア戦記』を読みたくなり、自分の店にあることを思い出し買いにいく。しかし菊池さんはヴィレッジ・ヴァンガ-ドでは殆ど本を買わないという。何故かというと自分の読みたい本を置いていないからと言いきり、久々にお店で買うと社員に「社長が本を買うのは珍しいですね」と言われる。しかし菊池さんは言われっぱなしになっていない。「ちゃんと一割引いたか」と言い返すのである。
 あるいは支店の日報の下に主な出来事を書く欄があって、たとえば「寒い!あまりにも」とアルバイトが書いているのを見ると、一号店だけは冬季手当を出してやろうと思い、「客数が少ないのは学生が休みになったせいでしょうか」という店長のコメントにはすぐ電話して「毎年同じ案件だからな」と釘をささなければならないと書く。

 これだけ出店数が多いと資金繰りはかなり大変だろうと推察するが、銀行とのやりとりも最高である。

「銀行はいいよな。あなた方はお金をお金に変えるだけだから。僕らはお金を物に変え、物をお金に変えるという面倒なことをやらなければならない。つくづくうらやましいよ」
「そういう考え方もあるんですね、いやぁ知らなかった」

 先日、ある銀行がきて、決算書を見るなり、「忙しいでしょう」とニヤッと笑いながら言った。なかなかスルドイ奴である。
「決算書見ただけでわかるんだ」
「わかりますよ、社長さんの1カ月が手にとるように。月に10回は銀行に走っているでしょう?」
「いやあ参ったなぁ。すごいもんだなぁ」
「利益が出ているのに、キャッシュフローが足りない。典型的な自転車操業ですね」
「いや、うちはオートバイ操業と言っている。倒れたら死ぬ」

 なかなかのものである。こういう旦那さんをもっている奥さんも大変だろうが、「なにも専務取締役」といわれても、しっかり理解して、サポートしているのがうかがえる。だから「本屋の明るいお悩み相談室」のオーナーのお悩みで、売上低迷から夫婦仲がぎくしゃくしてきたという相談に、奥さんの内助の功をきちんと認めるべきだとしっかり言っている。
 こうして菊池さんはどんどんお店を出店していく。「『客は来てくれるだろうか?』という不安は、ない。どのみちマーケティングで本屋やっているのではない。『僕らが楽しいだから客もきっと・・・』という思い上がりで10年やってきた」と言う。
 ヴィレッジ・ヴァンガ-ドというお店は、「店全体がノスタルジーしているのだ。若者には『オールドニュー』、おじさんたちには『涙もん』なのである」そういうお店づくりをしている。だからお店にはアメリカの50,60年代の骨董品(車やバイク、ビリヤード等)を置き、雑貨も合わせて、本だけでなく様々なものを組み合わせてお店づくりをしていく。
 私はヴィレッジ・ヴァンガ-ドという本屋さんの名前はもちろん知っていたが、実際そのお店に入ったことがないので、一度行ってみたいなぁと思う。

 さて最後にこの業界のパスティーシュと、この本の第2章「本屋の明るいお悩み相談室」で笑ったところを書いておしまいにする。まずはこの業界のパスティーシュから・・・。

「今日さ、あれ、なんたっけ、す、SMAPの写真集何冊入った?」
「俺んとこは3冊入って午前中に売れちゃったよ」
「僕のところは10冊入りました」
「なんであんたのところが10冊でうちが3冊なの?おかしいなぁ。トーハンの加藤君に電話しなくちゃ」
「いえ、僕のところでは予約をとっていましたから、全然足りないんですよ」
「何冊予約とったの」
「一応38冊ですけど」
「すごいなぁ。ベストセラーズに電話しなくていいの。三省堂にドーンと積んであったよ」
「もう諦めていますよ。これが終わったら図書券で買いにいきますから」

 ちょっと解説すると、この話はSMAPの写真集がたくさん入荷した本屋さんに図書券で買いにいくというのがミソなである。というのも書店は図書券を95掛で仕入れ、95掛で問屋経由で引き取ってもらうシステムになっている。つまり図書券を多く売って、回収は少ない方が得なのである。そこで95掛で仕入れた図書券をもってそのSMAPの写真集を買えば、5%引きで本を買ったことになるし、あるいは回収した図書券でもいい。それを引き取ってもらえば5%損しちゃう訳だから、それならそれを使ってSMAPの写真集を買った方が得ということなのだ。
 これを読んだときは本当に大笑いしちゃった。それはそうと、昨日三省堂の本店へ行ったのだが、棚の位置を変えていて、訳が分からなくなっていた。何でこんなことをしているんだろうと思った。以前の棚の配置の方がいいような気がする。棚の配置を変えたものだから、自分の探している本がどこにあるのか分からなくなっちゃったじゃないか。それになんだか汚く感じたのだけど・・・。

 「本屋の明るいお悩み相談室」は菊池さんのお遊びだろうが、これもかなり面白かった。
 まずは読者の悩みの中で、生まれてこの方教科書以外本を読んだことがない28歳のサラリーマンが「俺はバカでしょうか」という質問に対して、はっきり「貴方は本当のバカです」と言い切るし、バイトの悩みでは、店長が高い本が売れたらバンザイやハイタッチをして困るという悩みには、「お前が悪い。15,000円の本が売れたらハイタッチくらい当然だろうが」と答える。これも腹を抱えて笑ってしまった。

評価
★★★★★ 面白い、最高!
★★★★ いい!これは好きだなぁ
★★★ まあまあ。
★★ ちょっとなぁ・・・。
★ 面白くない
× 読むのに値しない。時間がもったいなかった。こんな本出版するな!

で今回は★★★★です。これからはこんな感じで独断と偏見で評価しちゃおうと思う。

菊池敬一著『ヴィレッジ・ヴァンガ-ドで休日を』の続きを読む

2006年02月10日

『本屋さんの仕事』(太陽レクチャー・ブック005)

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 この太陽レクチャー・ブック005の『本屋さんの仕事』(平凡社刊)は全体がビニールで装丁されていて、シンプルでありながら、おしゃれな本だ。この太陽レクチャー・ブックの案内を見てみると、『グラフィックデザイナーの仕事』、『フォトアートの仕事』、『北欧インテリア・デザイン』、『アートの仕事』と、この本以外グラフィック関係に重点を置いたシリーズのようだ。となると、この『本屋さんの仕事』というのは、ちょっとコンセプトが違うんじゃないかと思えるが、要はアートやグラフィック関係の本を多く扱った新進の本屋さんをテーマにしたものだから、このシリーズから逸脱しないことが分かった。

 ところでその昔作家や学者、あるいは有名人の書斎の写真を載せた雑誌があった。たぶんその雑誌のコンセプトは、あなたもこんなに本に囲まれた書斎をお持ちになったら如何ですかというものなのだろう。まだバブルがはじける前の時代だったから、それは夢じゃない時代だった。またどういうものか男というのはこういう自分だけの書斎というのにあこがれるところがあるので余計にいいなぁと感じるのである。
 その写真を見ていつも思ったのだが、本ってインテリアになるんだなぁということであった。ごっつい洋書が並んでいる本棚を見ていると、特にそう思う。
 何でこんなことを書くかというと、最近の本屋さんって、個性的であることを強調することで、妙に洒落ていて、スマートなのである。この本にある個性的な本屋さんの写真を見てもそう思うし、最近よく行くヨドバシカメラにある有隣堂にしたって、そう感じてしまう。なんかゆとりの空間を演出することが流行みたいだ。

閑話休題
 いきなり閑話休題なんて始めちゃったけど、思いついたので書く。閉店した岩本町店のことである。
 当時の店長から、お店を手伝って欲しいといわれて、お店のレイアウトを変更した。私は古いタイプの本屋さんでは、この店は生き残れないと思ったので、思い切って在庫を減らし、ゆとりのスペースを作るべきだと提案した。というのも今までみたいに、大きな棚があって、そこにジャンル別に分類して詰め込めるだけ詰め込んだ棚なんて、それほど意味を持たないと思っていた。本屋は図書館じゃないので、これでは本という情報がお客様に伝わらないし、自分達もただ勝手に問屋から送られてきた本を棚に埋めるだけの作業しかしていないのだから、ちっともクリエイティブじゃないと思うのだ。自分達がお客様にどうやって一冊一冊の本を手に取ってもらうか。関心を持ってもらい、買っていただけるか。それをしないかぎり、中小書店は生き残るのは難しいと思うのだ。少しでも自分達が何を伝えたいかそれをしなければならないし、そういう環境を作るべきだと思ったのだ。そこにはゆとりの空間がどうしても必要になるので、大きな棚はじゃまなのである。
 しかしそうして作ったスペースは、うちの社長にとってはもったいないらしく、全体が貧相に見えるじゃないかと批判された。おそらく古いタイプの書店主にとって本屋には大きな棚があって、そこに必要以上の本がぎっしりつまっているのが当たり前という既成概念がこびりついているのだろう。結局この件に関しては、最後まで認めてくれなかった。
 本当はもっと早くこうした棚づくり、スペースの確保、自分達が積極的に伝えることをやればよかったのだろうけど、結局遅すぎた。けれど今でもこれは間違っていないと確信している。

 さて、問題は本の棚である。それは個人のものであろう、書店の棚であろうとも、どのように構成、演出していくかで、だいぶイメージが変わってしまうということなのだ。何故かというと、本1冊はもうそれだけで完成された商品であり、中身をいじることはできない。となると装丁などうまく使って、どうやってビジュアル的にうまく見せるか。あるいはどのジャンルに、どのように陳列するかによって、棚の構成が豪華にも、貧相にもなってしまう。もっとも個人の蔵書の棚を成金趣味的に豪華に見せるのはどうかと思うけど、本屋となると本の棚をどう構成し、アピールするかによって売上に影響が出てくるはずだ。
 最近のように大書店がどんどん出店してきて、今まであった中小書店が潰れていく現状のなかで、一方でこうした独自のカラーを出した、既成概念にとらわれない本屋さんが生まれている。いわば新しいスタイルの本屋さんが生まれているのだ。
 どうしてこういうことになっているのだろうか?
 面白い数字を出してみよう。1997年の書籍・雑誌の売上は2兆2千億円といわれており、この数字は1991年と同じレヴェルである。一方出版点数は2003年実績で7万数千点で、1991年の4万点と比べると大幅に増加している。そんな中、本の値段は殆ど値上がりしていないので、1991年と同じ売上をあげるには、今は一点数あたり約倍売らないと維持できないことになる。
 この7万点という出版点数は、1日に換算すると、平均200点、土日の休みを考慮すると、平日300点の新刊が生まれていることになる。その一方で現在流通している本のアイテムが50万~60万といわれているから、それに毎日200点~300点加わっていくのである。これを考えると、書店業がいかに大変な職業であるか分かろうというものである。
 逆に返品を考えてみると、これもひどい状況である。いわゆる返品率が平均40%を越えているのが現状で、これは放って置いても売れる本を含めての数字だから、新刊だけで60~80%の返品率になるという。
 こうなると儲かるのは、本の配送を請け負っている運送業者だけで、書店業界は完全に硬直化している。
 それでいて利益率は20%弱しかなく、そこに経費を考えれば利益なんて出やしない。当然書店員給与だって、他の業種からすれば低い水準で押さえられてしまう。もう本屋なんてやってられないという状況がこれだけでも見えてくる。そこへもってきて、町の本屋さんというのは戦争から帰ってきて、あるいは戦後学校を卒業して開業した一代目が多く、それらの人達が70歳を超え始め、身体も動かなくなってきたし、景気も悪いし、跡継ぎもいないし、儲けも出ないからやめようということでどんどん廃業していっているのである。
 この様に書店業界は完全に硬直化する一方で、大書店の寡占化が進み、町の本屋さんは廃れる一方になっている。そんな中、だからこそ既存のシステムや考えにとらわれない自由な発想で書店を作る人達がいる。あるいはもう既存のシステムや考えが機能しないから、自分達の思うように本屋をクリエイトしてしまう、そういう人達が出てきているのだ。この本はそういう新しいタイプの本屋さんを本では紹介している。
 だから今までのように立地条件に依存することなく、マンションの一室で自分達の店を開いたり、自分達が得意とする分野に特化し、いわばマニアには知る人は知るといった感じで、商品構成の棚を作り、それこそわずかなスペースでお店を開いたりしている。そこには本だけじゃなく、CDや雑貨、ギャラリーなどをうまく組み合わせて本をうまく演出している。そのためわざわざ海外で自らアートの本を仕入れてきたり、新刊と古本をうまく組み合わせていく。全くもって自由な店作りをしている。店内の写真を見ても、普通の本屋さんとは全くイメージが違う。
 そしてそれらの店に共通していることはネットで自分達のサイトを丁寧に作り上げ、そこでお店の情報を公開し、機能させていることである。それはお店の補完的な存在ではなく、場合によってはお店そのものを変えてしまうほどの性質を持ったもなのだ。
 URLを紹介しますので、ちょっと見てみて下さい。

 ユトレヒト http://www.utrecht.jp/

 洋書ハクネット代官山店 http://www.hacknet.tv/

 BOOK246 http://www.book246.com/

 タコシェ http://www.tacoche.com/

 古書 日月堂 http://www2.odn.ne.jp/nichigetu-do/

 恵文社一乗寺店 http://www.keibunsha-books.com/vvb/index.html

 さすがプロだなぁと思わせるサイトである。この方面に能力を遺憾なく発揮していると思う。それに比べて書店組合の青年部が作っているサイトの貧相なこと。こんなサイトなら公開しない方がいい。ちなみに東京都書店商業組合青年部のURLは以下の通り。同じ若者が作っているとは思えないほどで、思わず「あぁ~」と目を覆ってしまった。

 東京都書店商業組合青年部 http://hon-ya.org/Seinenbu/index.html

 それにしても、こうして元気で若い人達が本屋をやっている一方で、やっぱり書店業だけではお店を維持できず、自分達の能力を他の業種で生かし、あるいは利益率の高い雑貨を置いたり、又はギャラリーなどをお店に作って、その場を貸すことで場所代を稼ぐことで、何とかお店を維持している現実は、既存の中小書店と変わらない。それくらい本屋さんは儲からない。彼らが本屋さんをやっている理由が、本屋をやりたいという志と、この仕事が好きだからだけじゃ悲しい。出版社の社員が高額の給料を取っているのに、何で本屋で働く人間だけが薄給であるのか。それを何とかしないといけないのではないかと思う。出版社の人間だけがプレゼンしプロデュースしている訳じゃない。それで給料が高いというなら、本屋さんで働く人も同じである。出来上がった本をお客さんに情報として提供し、棚を演出しているのだから、やっていることは同じだと思うのだ。いつまでも薄給で置いておくこと自体おかしな話だ。働いても儲からない商売のままでいいわけがない。

 ここまで書いてふと思ったのだけど、もしかしたらあのホリエモンは本屋で働いている人からすれば、案外恵まれていたのではないかなんて思っちゃったりする。だって、自分が働けば働いただけ、目に見えて自分のお金が手にできたのだから・・・。
 そういえばお茶の水の丸善でホリエモンの書いた『稼ぐが勝ち』の文庫に次のようなPOPを見かけた。「0から100億円へ/ボクのやり方・・・・/捕まっちゃった」と。誰が書いたのか知らないけど、思わず笑っちゃった。うまいもんだ。でも、これを書店の人が書いたと思うとなんだか悲しいものがある。

2006年02月07日

『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』

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 私はこうして自分が読んできた本のことをインターネットで書き込むようになってから、この『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』のことを以前から書いてみたいと思っていた。それでやっと重い腰を上げて今回この本のことを書いてみることにする。思い入れがあるから今回はちょっと長くなってしまうけどやってみたい。(このブログの副題が「本に関するささやかな意見」とあるのに、ちっともささやかじゃないと文句をいわれているけど・・・)

 この本は日本ではメジャーな本ではないので、おそらく知らない人が多いのではないかと思う。せいぜい『ティル・オイレンシュピーゲル』と聞いて、思い出されるのは、リヒテル・シュタインの交響曲ぐらいじゃないだろうか。しかしドイツでは結構読まれているらしい。
 何故私がこの本のことが気になっているかというと、歴史の見方を全く違う方向から見ることを教えてくれたからだ。
 この本のことを知ったのは、阿部謹也さんの著作からである。そして何冊もの阿部謹也さんの著作を読んで、また実際に阿部さんの話を聞いて、「ふ~ん、そうなんだ」と感心してしまったのだ。今まで自分が教わってきた歴史というものが、いかに教科書的で、ある意味無味乾燥なものであったかを知らされたのである。そこにはその時代に生きた人達の息づかいが全く感じられないものであった。ところがその当時に書かれた物語には、よく読んでみると、その時代に生きた人達の息づかいが聞こえてくるのである。


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 阿部謹也さんが訳したこの『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(岩波文庫版)は本文が96話(42話が欠番になっている)を331ページに対して、その訳注と解説を含めて142ページを割いて解説している。それくらい奥が深いのだ。本文を読んで、そのあと訳注を読んでみると、ただ単に物語の内容に呆れるだけじゃなくて、オイレンシュピーゲルにいたずらされる人物がどうしていたずらされるのか、その背景が分かると、当時の人々が置かれていた立場がわかり、単に子供向けの本じゃないことが分かってくる。
 そもそもこの『ティル・オイレンシュピーゲル』が何故子供向けの話として受け取られるようになったのだろうか?それは『グリム童話』が本来ドイツに残っていた民話を集めたものだったのに、それが童話という題名がついてしまったことで子供向けの話だと受け取られるようになってしまったことと似ているかもしれない。それは日本でも民話が子供向けの話として扱われるのと同じだ。
 日本ではこの『ティル・オイレンシュピーゲル』の本が紹介されたのは、巖谷小波の『みみずく太郎』からだろうか。私が持っているのは、巖谷小波お伽噺文庫(大和書房刊)がある。


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 この本は、昭和28年に発行された小波世界のおとぎ話全集の3巻『みみずく太郎』を親本にしていて、昭和51年に発行されている。読んでみると確かに世界中の民話などを元にして、子供向けにアレンジしているのが分かる。この『みみずく太郎』にしても『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の話をいくつかまとめて子供が読めるように書き直されている。


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 もう1冊この『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の日本語訳(法政大学出版局刊)を持っている。これは藤代幸一さんの訳で、1515年版の全訳である。全訳を読んだのはこれが初めてである。
 ちなみに『ティル・オイレンシュピーゲル』がどういう話なのか紹介してみよう。

51話
 オイレンシュピーゲルは織匠が月曜日を休日にすることを禁じたので、聖なる日に羊毛を打ったこと。

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 オイレンシュピーゲルはシュテンダルに向けて来たとき織工というふれこみであった。ちょうど日曜日だったので、織匠は「なあお前、お前さんたち職人は月曜日も休みにしようとしているようだが、そんなことをする奴はわしは雇いたくないのさ。職人なら一週間びっしり働くのが当然というものさね」といった。オイレンシュピーゲルは「ようがすとも親方、あっしもその方がすきでさあ」と答えた。こうしてオイレンシュピーゲルは朝から起きて羊毛を打ち(ととのえ、やわらかくする)、火曜日にも同じように働いたので織匠は機嫌がよかった。ところで水曜日は使徒の日(七月一五日)で皆が祝わねばならない日であったが、オイレンシュピーゲルは聖なる日のことを何も知らなかったので、朝から起きてガタガタ仕事をはじめ、羊毛をたたいた。その物音は道路中に響きわたったのである。親方はすぐに起きてベッドからとび起きて叫んだ。「こらやめろ、やめろ、今日は聖なる日なんだぞ」。オイレンシュピーゲルは答えた。「でも親方、親方は日曜日に、聖なる日を休めとはいいませんでしたよ。一週間ずっと働けといったでしょうが」。織匠はいった。「なあお前、わしはそういうつもりではなかったのだよ。とにかくやめろ。そしてもう打つな。今日一日の手間はだすからな」。そこでオイレンシュピーゲルも満足して、この日を祝って休み、夕方には親方と食事をして談笑したのである。そのとき親方は、羊毛の打ち方はまずまずだが、もうちょっと高く(強く)打った方がいいだろうといった。オイレンシュピーゲルは承知しましたと答え、あくる朝早く起きると羊毛たたくための台の上に弓(紡糸用に羊毛をととのえるのに使う梳き具)を張り、そこに梯子をかけた。彼はそれに登り、たたき棒が乾燥台にとどくようにして土間から屋根裏部屋にとどくほどの高さの乾燥台から羊毛とってたたいたので、羊毛は家じゅうにとび散った。織匠はベッドで寝ていたが、その音でまともに打っていないことがわかり、起きてのぞいてみた。するとオイレンシュピーゲルがいった。「親方、どうです。これくらいの高さでよいですかね」。親方はいった。「猿真似野郎め、屋根の上に座ってたたいたらどうかね」。こういって親方は家を出て教会へ行ってしまった。オイレンシュピーゲルは親方のすすめに従って梳き具をとり、屋根に登って羊毛を屋根の上でたたいた。親方はその物音を小路の向こうで聞きつけ、かけて戻ってきてどなった。「なんて馬鹿なことをしているんだ。やめろ。いったい屋根の上で羊毛をたたく奴がいるか」。オイレンシュピーゲルは答えた。「何をいうんですかい。親方が今いったでしょうが。梯子の上よりも屋根の上でたたいた方がよいといったばかりですよ。露台よりもここの方が高いですからね」。織匠はいった。「羊毛たたきたければたたくがいいさ。馬鹿なことをしたければ勝手にしやがれ。とにかく屋根からおりろ。乾燥台で糞でもたれやがれ(口ぎたない悪態)」。こうして親方は家に入り便所にいった。オイレンシュピーゲルはやっと屋根からおり、部屋にしゃがむと乾燥台にでっかい糞をたれた。織匠は便所から出てくると仕事部屋に糞をたれたのをみて、「お前はまったくろくでもないことばかりしやがる。てめえのすることは悪たれがやることそっくりだ」といった。オイレンシュピーゲルは答えた。「親方、でもあっしは親方の命じたこと以外のことはしていませんぜ。親方が屋根からおりて乾燥台で糞でもたれろというからしたまででさ。なんでそんなに怒りなさるんですかね。あっしは親方のいうとおりにしているんですぜ。織匠はいった。「お前は命ぜられもしないことを勝手にして糞をたれたんだ。糞を片づけろ。誰もが望まないところへもってゆけ」。オイレンシュピーゲルは「ようがす」といって、糞を板の上にのせ、食堂に入った。織匠は「そこから出せ。食堂に入れてはだめだ」といった。オイレンシュピーゲルはいった。「親方が食堂においてほしくないということは承知していまさあ。誰だって食堂に糞をおいときたくないからね。だからあっしは親方のいわれたとおりにしてるんですぜ」。織匠は怒って板のところへ走ってゆき、オイレンシュピーゲルの頭に板をなげつけようとした。オイレンシュピーゲルは家からとび出して、叫んだ。「あっしはどこでも感謝されないんだからなあ」。織匠は急いで板をつかもうとして糞で指がべっとりと汚れてしまったので、糞をはらいおとし、泉にとんでいって指を洗った。その間にオイレンシュピーゲルは出ていってしまった。

 とまぁ、読んでみればたわいのない話だ。要は言葉が持つ二元性を逆手にとってオイレンシュピーゲルがいたずらをするということなのだ。ここの親方である織匠が本当はそういう意味で言ったわけではないのに、「職人なら一週間びっしり働くのが当然」と言われれば、たとえ他のみんなが休みにする聖なる日ででも働く。そうすることで、親方を非難の目に曝すことになるし、「高く」羊毛をうったほうがいいというのが「強く」という意味で言っていても、その通り高い場所で羊毛打ってしまう。腹をたてた親方はそれならもっと高い場所である屋根でも打てばいいと捨てぜりふはけば、その通りにして羊毛だめにしてしまう。更に腹をたてた親方はスラングで「糞でもたれやがれ」と罵れば、その通りにする。すべてこの調子である。この様ないたずらが多方面で展開されるのである。
 確かにここにある話は偉そうにしている親方などをオイレンシュピーゲルがいたずらで懲らしめ、それにあわてふためいた親方を見て喝采の拍手を送ることで、半ば虐げられた職人達の慰めにもなったことだろうとは推測はできる。しかし500年以上も前の異国の話を日本語にただ置き換えられても、当時の背景が分からなければあまり面白味などない。

 ここでは『ティル・オイレンシュピーゲル』を子供向けの話としてとらえるのではなく、この話が1510年~1511年に書かれた(編集された?)訳だから、その話の中から当時の生活状況を読み取ることできるのではないか。そうすることで、当時の生々しい人間像を描くことができるはずだと考えていく。
 しかしその前にこの『ティル・オイレンシュピーゲル』はどのように生まれたのか書かないとならない。以下阿部謹也さんの著作集から説明する。(『阿部謹也著作集』3巻より)
 『ティル・オイレンシュピーゲル』はいわゆる民衆本といわれものの1冊で、著者も不明で、原本さえ存在しない。(但し、『ティル・オイレンシュピーゲル』の著者は判明している)それではどうしてこういう話が残っているかというと阿部謹也さんの考察が面白いのであげてみる。

 「私はこれらの話が何よりもまず遍歴職人の間で旅籠や職人宿などで語られたものであった、と考えている。長いあいだ遍歴職人の生活をしていれば、箸にも棒にもかからないような愚鈍な徒弟の話や鼻もちならない親方の話など皆いくらでもかかえていただろうから、こうして(旅籠や職人宿などで)たがいに見ず知らずの仲間と酒を酌みかわしながら談笑しているうちに、調子づいて身振りをまじた話ともなっただろう。それらの話は職人たちが歩んできた旅の長さと体験の重さに裏づけられ、聞く人にあたかもそれぞれの町の出来事として彷彿させるような強い印象を与えたに違いない。
 こうした職人の食卓の隣にヘルマン・ボーテとか、トーマス・ムルナー(『ティル・オイレンシュピーゲル』の著者として考えられた人。但し現在はヘルマン・ボーテがその著者だろうと考えられている)のような人が偶然座っていたとしても少しも不思議ではない。職人たちの談笑を隣で聞いていたその人物がその話をいくつか書きとめ、次の機会にはその目的で職人宿を訪れるようになり、こうして遍歴職人の間で語られていた話を集めながら、それに類似した話を古今東西の文献のなかに探し求め、それを集成して最初の民衆本の原型が生まれたのではないかと私は推定しているのである」

 この様に『ティル・オイレンシュピーゲル』は様々な話が寄せ集められたものが民衆本としてまとめられたのではないかと推察されている。この本の前口上に、オイレンシュピーゲルのいたずらを誰かまとめてくれないか頼まれたが、著者自身そんな能力を持っていないから辞退した旨が書かれている。それでも引き受けざるを得ないことになり、この本を書いた。けれど「私のオイレンシュピーゲルの書が短すぎるとか長すぎるとお思いの方はどなたがこれに手を入れて下さっても決して恩知らずめなどとは思いませんのでお願いしておきます」と著者自身書いている。しかし著者自身が手を入れているのである。事実この本の構造を3層に分けることができるという。つまり一番古い話として多分遍歴職人の話があり、つぎにそれを編集、追加した人物が2人いたのではないかと推察されている。それが現在残っている『ティル・オイレンシュピーゲル』なのだという。そのため話がちぐはぐなところがあるらしい。
 ちなみにオイレンシュピーゲルのいたずら話を分類してみると以下通りになる。

1.手品師・宮廷道化師としての話(17話)
2.手工業者をめぐる話(28話)
3.司祭をめぐる話(9話)
4.旅籠の主人の話(14話)
5.農民その他をめぐる話(20話)
6.出生と埋葬、導入部と結末(7話)

 ということで、手工業者をめぐる話が圧倒的に多い。このことから「『ティル・オイレンシュピーゲル』のいたずら話の核が、何よりまずティルが遍歴職人として各地で起こす事件にあったとみなければならないだろう。遍歴職人ティルをめぐる話がまずなんらかの形で成立し、そののちに他のさまざまな話が加えられていった、とみるのが自然な見方だと思えるのである」。と阿部さんはいう。このことから阿部さんは旅籠などで遍歴職人達の話を聞いてまとめたと推定するわけである。

 その著者は、というか編集者はつい最近まではっきりしなかったことは書いた。それがヘルマン・ボーテだろうというのが今は定説になっている。何故はっきりしなかったのか。それはヘルマン・ボーテがついていた職業による。彼は1460年頃ブラウンシュヴァイクの鍛冶屋の親方アルントの子として生まれたが、足が悪いため親方になれず、当時賤民職とみられていた徴税書記の仕事についていた。それは中世社会では身体障害者には親方職は開かれていなかったからである。
 市参事会員までなった親方の子でありながら賤民職についたボーテには社会の上層にも下層にも心を安んじてつきあえる世界はなかった。徴税書記という仕事は、手工業親方から特に嫌われる苦しい職場であった。手工業親方とやりあって口論になることもしばしばであった。(なんだか今の税務署職員みたいだ)このときのことをボーテは手紙の中で次のように書いている。

「ひる間の騒ぎと喧噪が全くおさまり、静まりかえったとき、身体にも心にも別の世界がはじまります。そうするといろいろな想念が、もとよりいつも最上ののものとは限りませんが、夜虫のごとく湧き起こってきます。そこで私もひるの苦労の多い官職との戦いの疲れから少し元気を回復し、あたかも知恵のふくろUlen der Weishayttのように書物の山に目を向け、ローマ人や古ドイツ人の先例や歴史を映してみるmich zu spiegeln のです。」と。

 こうしてオイレンシュピーゲルという書名自体ヘルマン・ボーテの内面の苦しみのなかから生み出されたものであることが分かる。
 このようにブラウンシュヴァイクの市内で手工業親方と口論をする毎日であったボーテにとって自分の署名で『ティル・オイレンシュピーゲル』を含め出版することは極めて危険であった。だから無記名で彼の著作は出版された。そのためこの『ティル・オイレンシュピーゲル』も誰の作品か分からずにいたのである。唯一残っている彼が作成した徴税原簿の文字とこれらのボーテの作品の文字を比べて彼の作品であると明らかになり、更にこの『ティル・オイレンシュピーゲル』の90話から95話までの最初の文字がERMANB(ヘルマン・ボーテ)の名であることがわかり、このため『ティル・オイレンシュピーゲル』が彼の作品であると判明したのである。(ヘルマン・ボーテに関しての考察は阿部謹也さんが訳した『ティル・オイレンシュピーゲル』の解説に詳しい)
 この様にこの話をよく読んでみると、「それはスカトロジーなどという近代の学者世界の用語とは無縁な世界であり、賤視の淵に沈みながら誇り高く、いかなる権威にも屈することなく、自らイエス・キリストや悪魔になぞえることさえはばからない人間の姿が浮かび上がってくる」。それはある意味ボーテの姿でもあったのではないかと思える。賤民視され、手工業親方から蔑まれる姿は、オイレンシュピーゲルと同様である。オイレンシュピーゲルが敵視する目は、ボーテの目でもあったのではないかとさえ思える。

 それではこの『ティル・オイレンシュピーゲル』から当時の生活環境がどう垣間見ることができるであろうか。試しに先に上げた51話から具体的に見てみたい。
 ここで問題になるのは、何故親方はこうも偉そうな態度をとるのか?青い月曜日というのは何なのか?何故親方職人に仕事を任せ、ぶらぶら外へ出かけていくのか?その疑問を解くことで当時のヨーロッパ中世社会の姿が見えてくるのである。
 まずはこの親方がどうしてこうも横柄で横暴な態度をとるのかである。
 この親方が日曜日も青い月曜日(あとでこのことにはふれます)も休まずに働けとオイレンシュピーゲルに言える背景には、この頃は職人と親方の格差がかなり広がり、職人の立場がかなり弱い立場に置かれてしまったことが原因なのである。
 14世紀の中頃になると、都市の経済的発展は限界に達し、労働力は相対的に過剰になり、そのため同職組合の組合員である親方達は自分達の地位を守るため親方株を制限したりして、職人達との格差が広がりつつあった。職人達は仕事に就くことも難しくなり、あるいは将来親方になることさえかなわなくなりつつあった。こうなってくると親方の地位は上昇する。この様な背景があったから、51話の親方は横柄で横暴な態度をとるようになったのである。職人も休みも取らずに働けと親方の言うことを聞かざるを得なっかたのである。
 こうして親方を含む都市上層部は貴族化する傾向にあり、立ち振る舞いにさえその傾向が見られ、親方のもってまわった言い方をするのもそのためである。51話で単純に強く打った方がいいといえばいいものを、「羊毛の打ち方はまずまずだが、もうちょっと高く(強く)打った方がいいだろう」というのもそういう背景があったのだ。
 しかも貴族化していく親方は職人と一緒に仕事をしなくなり、仕事は職人に任せ、自分は散歩をしたりして、外でぶらぶらするのである。
 オイレンシュピーゲルは、こうして親方がいない間に、親方の横暴な態度を逆手に取り、持って回った言い方を、そのまま受け取ることで、いたずらをして親方を困らせるのである。
 こうした背景があるからオイレンシュピーゲルのいたずらが支持されるのであったのだ。
 また「青い月曜日」とは、親方になれない職人達が、親方に対抗して日曜日に続いて月曜日も休みにしようという労働時間の短縮、休日の拡大のための運動が実を結んだものである。もちろん親方にしてみれば面白くないことであった。だからこの親方は「青い月曜日」も仕事をしろと言うのである。
 何故「青い月曜日」というかと言うと、「青い日」とは「聖なる日」として祝い、休日にして英気を養うとも言われていたとか、日曜日に夜遅くまで酒を飲み大騒ぎをして、喧嘩騒動になり、翌日身体中青あざだらけになったからそう呼ばれるようになったとか言われている。あるいは毛織物を大青(染料)で染めるとき羊毛は12時間染料桶につけたうえに、そのあと同じ時間空気にさらして乾かさないといけないので、日曜日に染め付けを始めると、月曜日には職人達はすることがないから、そう呼んでいるとか言われている。

閑話休題
 開高健さんの自伝的小説で『青い月曜日』というのがある。この題名について開高さんはニーチェの『ツァラトストラはかく語りき』にこの言葉があって、そこには日曜日に深酒をして、翌月曜日が二日酔いで青ざめ、へろへろになるから「青い月曜日」と呼んだという記述が気にいって自分の小説の題名に使ったというのを読んだことがある。これなんかも案外「青い月曜日」の由来であったりして・・・。

 というわけでこの51話だけでもこれぐらい奥深い背景がこの話にはあるのである。民衆本を単に子供向けの話として片づけるのではなく、一つ一つの話を丹念に読んでいくと、当時の人達の生き方が見えてくるのである。案外一級の歴史的資料なのである。

2006年02月01日

阿部謹也著『阿部謹也著作集』3巻

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 この『阿部謹也著作集』3巻(筑摩書房刊)には以前平凡社から発売されていた『中世を旅する人々』を含む、ヨーロッパ中世の民衆の姿を点描した文章が収録されている。
 今回先に紹介したヨーロッパ中世の民衆の世界を再度知りたくなって、読むことにした。
 この本ではヨーロッパ中世において農民、居酒屋・旅籠の主人、浴場主、粉ひき、牧人、羊飼、川の渡守、肉屋、遍歴職人、乞食、放浪者、ジプシーなどがどういう生活をしていたか、あるいはどういう立場であったのか具体的に考察している。当時の姿を描いた版画や絵もふんだんに掲載されていて、読んでいても楽しかった。私は当時の人々を描いた版画や絵がルネッサンスの絵のようなこってりした感じじゃなくて素朴で好きなのである。

 さて、ここでは前回の続きで、ヨーロッパ中世で刑吏以外に賤視された職業をこの本から考えてみたい。
 まずは、浴場主である。ヨーロッパ中世でも風呂は好まれた。風呂屋は「お金持ちも貧乏人も風呂屋においで、お湯は熱いよ、香りの高い石鹸で肌を洗うよ。さてその次はたっぷり汗をかく部屋に御案内、さっぱりと汗を流したら御髪の手入れ、悪い血は流し、仕上げはたっぷり揉み療治、いい湯かげんの上り湯もあるよ」とお客を呼び込む。
 しかし民衆に好まれても風呂屋の主人は賤視されていた。その理由は様々考えられるらしい。
 その理由は、浴場主から後に分離する理髪師が刑吏によって拷問された犯罪人の手当をしていたから(そのため刑吏と同等の者と扱われた)だとか、特別に熟練労働を要しない浴場の三助・湯女に放浪者や放浪学生などの賤民が多く流れ込んでいて、裸同然の姿で他人に奉仕し、浴場が廃退していくからだとか、言われている。しかし浴場主が賤視されるはっきりした理由は分からないらしい。
 次に粉ひきが賤視された理由を考えてみる。
 領域君主や領主は農民が収穫した大麦や小麦を強制的に自分達が支配している水車でひかせ、水車利用料を取っていた。(水車使用強制権という)そのため粉ひきは領域君主や領主の手下と思われてしまった。
 さらに農民の汗の結晶である大麦や小麦を粉ひきにひかせたとき、収穫した穀物が少なく感じ、粉ひきがピンハネしたんじゃないか疑ってしまった。自分の手で収穫した穀物が、粉となって軽くなってしまった感じがそう感じさせるのだろう。この感情の問題が粉ひきを賤視の対象として見るようになったのである。
 牧人、羊飼に関しては以下の理由で賤視されたのではないかと思われている。 ヨーロッパ中世の農民の生活は家畜なしには考えられない。長い冬の蛋白源として薫製肉や乳製品、冬の防寒具として毛皮を利用し、交通手段として、あるいは農耕のために動力として家畜を利用した。だから農家では家畜を必ず飼っていた。しかし家畜は放っておけば畑を荒らすものだから、共同で牧人を雇い、家畜の管理を依頼する。
 春から夏まで家畜を牧人に依頼し、冬になる前に村に帰ってくる。こうして牧人はひとりで、牧野や峡谷で暮らすため、何か不気味な精霊や悪霊がとりついているかのように見られ、農民達とは別の世界で異質な魔術的能力が授けられているように見られた。
 また牧人は副業として、夜警の仕事をしたり、塵芥を集めたり、道路工事請け負ったり、墓堀、皮剥ぎの仕事もした。このことが賤視の下地を生んだ。
 最後にジプシー、乞食、放浪者などが何故賤視されたか書いてみたい。
 ジプシーが歴史的に初めて確認されたのは、1100年アトスに現れたという記録が最古のもので、ボヘミア、セルビアが次いで古く、ドイツでは1407年の記録が最古のもとなるらしい。
 ジプシーは最初、低地エジプトもしくはユダヤ出身と見られていたが、18世紀中葉になって、どうやら遠くインドからはるばるヨーロッパまで旅をしてきた人々の末裔であることが分かった。
 それでは何故ジプシーが民衆から賤視されたのかというと、まずは放浪という生活スタイルを取るため、定住者からすれば、まったく異質のものと見られてしまうことであった。
 更に彼らは客を歓待する民族で、このことはヨーロッパにおいて社会からはみ出した人達(犯罪者など)に隠れ家を与えることにもなった。この善意の行為が官憲に追求されるきっかけを生む。こうしてジプシーは法の外に置かれた。彼らは生活の糧を得るために、人々が嫌う職業(皮剥ぎ、刑吏の下働き、籠造り、鋳掛屋、楽師など)に就くことで細々と生きるしかなかったのである。これがジプシーを更に賤視の目に曝すことになったのである。
 乞食はキリスト教の世界では、特殊な地位を得ていた。中世以来キリスト教の教義では、貧者、乞食に助力の手を差しのべることはキリスト教徒の務めであり、そうすることが彼岸での自分達の霊魂の救いにとなるとされていた。だから乞食に施しをすることが重要な善行でもあった。
 ところが乞食達は施しを受けるうちにしたたかになり、厚かましくなっていく。こうした「したたかな乞食」は都市にあふれ、群れをなして放浪して歩くようになっていく。こうなってしまうと乞食は社会的不安要素となっていくのである。これが乞食が賤視されていく理由であった。

 以上、ヨーロッパ中世において賤視されている職業を見てみた。私はヨーロッパ中世において、様々な人や職業について賤視されていたことあげつらい、楽しんでいる訳じゃない。こうして見てみると、自分達より地位が高かったり、優遇されていたり、あるいは支配者側に属している人達を見れば、それがやっかみとなって、特別な目でその職業に従事する人達を見てしまう。
 あるいは自分達より立場の弱い者、またはまったく生活スタイルを別にする人達を賤視することで、自分達の立場を確認しようとする。人や職業を賤視する理由って案外こんなことから始まるのかもしれないと思うのだ。
 それでいて先に上げた刑吏にしたって、確かに犯罪者に刑を執行することを嫌がりつつも、彼らがもつ外科的技術を頼りにするし、浴場主にしたって、風呂そのものは民衆は楽しみでもあった。牧人の存在はヨーロッパ中世では不可欠な存在でもあった。賤視しても関係を持つことで、民衆の生活が成り立っていた部分もあることを忘れてはならない。

 本当はここでこの本のことに関しては終わろうと思っていたのだが、読んでいて更に「なるほど」と思ったことが書かれていたので、最後にそのことを書いて終わろうと思う。
 そのこととは「移動」のことである。何故当時の人達は「移動」したのかである。
 たとえば、十字軍のことである。以前『ローマ帝国衰亡史』を読んでいて、十字軍のことを書いた。教皇ウルバヌス2世がイスラム教徒から聖地イェルサレム奪回すべき演説をし十字軍を起こした。こうした中、隠者ピエールは十字軍への参加を呼びかける熱烈な説教を行い、集まった群衆を率いてイェルサレムへ向かった。
 しかし、私には純粋に宗教熱でこうした行動を民衆から領主、国王が起こしたことが少々不思議でもあった。だって簡単にイェルサレムに行ける状況では当時はなかったはずである。苦難がかなり伴うはずであった。事実『ローマ帝国衰亡史』にはその困難さを記述している。それでも多くの人達が十字軍に参加した。どうしてなのだろうか?
 その時は、贖宥を払うことが出来ない人達が、自分達の霊魂の救済を十字軍に参加することで、すべての罪の消滅と教会法による悔悟の残った負債全額を返済出来ることになったので、それで参加したのだとギボンのいうことをそのまま書いた。
 しかし更にギボンの十字軍の記述を読んでいると、もっと現実的な「おいしさ」があったようである。つまり大義名分は聖地奪回だとしても、そこまでに行く間に、都市や国を蹂躙しつつ、自分達の私腹を肥やしていったことが書いてあったので、案外それが本当の目的であったのではないかとも書いた。
 それを別な方法でももう少し具体的に説明できそうある。
 当時の社会は硬直化していたのである。たとえば都市における職人を見てみても分かる。狭い都市の中で同じ職業がいくつもあっても商売が成り立たない。だから同職組合であるギルドやツンフトを作り、その数を制限する。こうなってくると、その親方の後を継げるのは極端な話、その長男ひとりとなる。次男、三男、あるいはそこで働く職人は親方として独立などかなり難しい。つまりあぶれてしまう人達がかなりの数で生まれてくる。だから外へ放りだすのである。外で修行してこいというわけだ。これが遍歴職人が生まれていく背景である。そしてそれは何も職人だけではない。騎士にしたって同様だ。絶えずパトロンを捜し回っていた。農民にしたって同じ状況であった。
 阿部さんの著作で『ハーメルンの笛吹男』というのがあるが、そこには笛吹男に連れ去られた子供達は、東方(今のロシア方面)に入植し、東方で農地を開拓したのではないか。だから笛吹男は実はそのための人集めをやっていたのではないかと推理している。
 つまり定職に就けない人達が当時あふれていたのであった。だからどこかで生活の場所を探さないといけない人達が数多くいた。そんな中十字軍の参加を呼びかける人がいて、それに参加することで、もしかしたら生活の場所を探せるのではないかという希望を持った人達が集まったのではないか。こう考えると純粋な宗教観で十字軍参加した人だけじゃなかったのではないかと思われる。いやむしろやむにやまれない事情があったのだ。

 以上補足として書き込んでおく。