2006年02月16日

養老孟司著『解剖学教室へようこそ』

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 この『解剖学教室へようこそ』(筑摩文庫)の親本はちくまプリマーブックスである。この、ちくまプリマーブックスというのはどちらかというとわかりやすくその専門分野の入門書や解説書みたいに書かれた本である。
 今回は養老孟司さんが専門としておられる解剖学について、人の解剖を何故するのか、又はその歴史、解剖から分かったことなど、いわゆる養老ワールドを幅広く展開する。
 何でもそうなのかもしれないが、その道を極めた人の話は、その分野だけに留まらず、様々な分野にその関係をたどり、話そのものに「なるほど、こういう考えもあるんだ!」と我々が当たり前の論理として普段考えていることにちょっと違った目を開かせてくれる部分がある。今回も話の随所にそれらがちりばめられていた。多分それが専門外の人間が読むと楽しいと思えることなのだろう。もちろん解剖のやり方や、人体や細胞の仕組み、「死」とは何か、などもわかりやすく説明している。
 さて、この本の中で問題となるのは「何故解剖をするのか?」その意味は何なのかを養老さんの自身の答えが示されている。
 通常、人を解剖する理由って、たとえば患者がおなかが痛いといって訴えてきたとき、おなかの中で何が起こっているか分からないとならない。その時解剖の知識が構造的に必要である。そういう意味で、人の身体の中を知る必要から解剖が行われる。そいう説明の仕方で解剖の必要性を説くのが一般的である。我々凡人からすると、この説明の方が分かりやすいし、すっきりする。けれどその道のスペシャリストとなると、それ以上の意味を持ち始めるのかもしれない。言ってみれば「悟り」みたいなものかもしれない。
 では養老さんは解剖をすることをどう説明するのだろうか?それを人間が「ことばを使う」ことから説明する。
 人はことばを使うことで世界を理解しようとする。ところがこの「ことばを使う」という行為は、モノをバラバラに壊すことだというのだ。つまり人は「ことばを使う」ようになってから、ありとあらゆるものに名前を付けてきた。その方が分かりやすいからだ。ところがこの名前を付けることは、そのものを切ることと同じだというのである。たとえば「頭」という名前を付ければ、「頭」と「頭でないところ」ができ、そこに境目ができてしまう。本来つながっていたものが切れてしまうというのである。
 このあたりはなかなか理解しにくい。1回ぐらい読んだって理解できない。仕方がないこれは「悟り」なのだから・・・。私が自分なりに理解したことは以下の通りである。
 人は世界を理解しようとことばを使い、ありとあらゆるものに固有名詞を付けてきた。その方が理解しやすいからだ。そうすることで世界を理解しようとしてきた。しかしこうして名前を付けることは、その名前の部分とそうでない部分を切り離してしまうことにもなる。
 解剖もこれと同じで、人間の身体について何かを知ろうとしただけのことなのだ。だから、医者でもないレオナルド・ダヴィンチが人体を解剖し、スケッチを残したのは、この理由による。彼が身体を描いたり、彫刻したりするに、どうしても人体の構造を知る必要があったから解剖を行ったのだ。そして彼は人を描き、彫刻した作品を残す。そして出来上がった作品は、何かを我々に訴えかける。 身体を知ることは、広い意味で人を知ることであり、人の心を知ることなのだ。そして心は身体があって初めて成り立つことであるから、身体を知ることは、人を知る基礎だというのである。
 こういう論理は多少こじつけがましいけど、ロジックとしては面白い。

評価
★★★

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