2006年02月22日
エドワード・ドルニック著『ムンクを追え!』
この本(光文社刊)を読むまで知らなかったのだが、闇で取引される盗難美術品の総額は年間40億から60億ドルにものぼり、その規模は麻薬、武器に次いで第3位に位置しているらしい。
1994年2月12日リレハンメル冬季オリンピック開催初日、ノルウェーが世界の注目を浴びた日、ノルウェー国立美術館でエドヴァルト・ムンクの『叫び』(時価7,200万ドル、約86億円)が盗まれた。このときノルウェー国立美術館ではムンクの作品展が開かれており、それまで美術館の3階にあった『叫び』を2階の窓際に移し、さも盗んで下さいといった感じで展示されていた。犯人は外からはしごを掛けて、いとも簡単にそれを盗んだ。犯人は犯行後「手薄な警備に感謝する」というメッセージを残すくらいに・・・。
この本を読んでいると絵画を盗む方法はかなり雑なやり方で行われているようだ。美術品を盗む割には、ドアや窓をぶち破ったり、銃やライフルをぶっ放したりして、大さっぱだ。
私は絵画など美術品を盗むのは、組織的な犯罪だろうと思っていたが、どうも違うようだ。どちらかといえばコソ泥が世間をあっと言わせたい愚かな虚栄心が名画を盗む動機であるようだ。だから彼らは本当の価値が分からない輩である。しかもノルウェー国立美術館のように、美術品ほど盗みやすいものはないらしく(世間の人に絵を見てもらうということは、泥棒にとってみればさも盗んで下さいといっているのと同じだからだ)、しかも捕まっても罪が軽いらしい。
いくら警備を万全にしていたっても、泥棒にとってみればいとも簡単に絵を盗むことが出来てしまうのだ。事実あのルーブル美術館の『モナ・リザ』でさえ盗まれたことがあるくらいなのだから。
そして盗んだ絵をどう現金化するかそれが問題になってくる。世界に一つしかない絵画を盗んでもその処理に困るはずだ。何故ならその絵は明らかに盗まれた絵であると分かるからだ。だから美術館に買い取ってもらうか。あるいは保険会社に買い取ってもらうか。それとも闇のブローカーに流すかして、犯人はお金に変えていく。
盗まれた絵画は闇で取引され、「密輸品が現金で売買されるとはかぎらず、たとえば麻薬の運び屋への報酬として絵画を渡すこともあるし、大がかりな取引で現金のかわりに使うこともある。あるいは一万ポンドの借金を抱えた泥棒が、盗んだ絵で返済するケースもある」という。
一方闇のブローカーから盗品の絵画などを買い取る富豪は、その自分の欲望を満たすために盗品の絵画などを買い取る。盗まれた絵画は時価総額がジャンボジェット機が買えてしまうほどの価値があるだけでなく、世界に一つしかないものだから、たとえそれが盗品であっても、それを自分だけが所有しているという満足感がそうさせる。そしてそのように個人に所有された絵画は絶対に公開されない(当たり前であるが・・・)その所有者一人がその絵を前にして楽しんでいるのだ。だから一度盗まれた絵画はなかなか発見できない。
そんな絵画の回収に挑むのは、ロンドンの美術特捜班(アートスクワッド)のチャーリー・ヒル達だ。
チャーリー・ヒルは以前盗まれたフェルメールの『手紙を書く女と召使い』を回収している実績があった。
チャーリー・ヒルにとって絵を盗んだ犯人を捕まえることは二の次で、まずは絵を回収することが最大の目的である。だから誰がやったかは問題でなく、絵がどこにあるかそれが最大の目的となる。チャーリー・ヒルにとって絵を探す目的は、世界の人々に見てもらうようにすることだけであった。
その回収方法だが、チャーリー・ヒルがその絵を欲しがっている大富豪の代理人や画商などに扮して、盗品の絵画などを持っている犯人達とコンタクトする囮捜査である。当然そこには危険が伴うが、それでいてチャーリー・ヒルはまるでゲームを楽しんでいるようだ。
ただ絵の回収にはその絵の知識が必要で、事前に回収すべき絵に関して様々な情報を得ていく。犯人達から渡された絵が偽物か本物か瞬時に判断しないとならないからだ。しかしチャーリー・ヒルは「画家について詳細に調べるのは、この仕事の大きな楽しみの一つである」という。
絵を盗んだ犯人達とのコンタクトはさすがスリルがある。取引の場面は手に汗にぎる。そして盗まれた絵を目にしたときは、「本物の名画を手にしたとき、凄い絵だということが瞬時に理解できる。絵そのものが教えてくれるんだ。優れた絵画は、見る者にそれだけ強い衝撃をあたえるものだ」という。
私はこの本で、チャーリー・ヒルが犯人達とどう接触し、絵を回収していくかを読むのを楽しんだ一方で、絵画に関するうんちくも楽しんだ。
たとえばムンクの『叫び』にかんして、なぜこんな絵が描かれたのかに興味を覚えた。(もともとこの本を買ったのはムンクの『叫び』がテーマになっているからで、もし他の絵のことだったら読まなかったかもしれない)だから「ムンクはなぜ『叫び』を描いたか」が一番面白かった。
エドヴァルト・ムンク(1863-1944)は生涯、不安におののきながら生きた人だった。ムンク一族は精神の病という不幸につきまとわれていた。ムンクの日記には「病と狂気と死は、私揺り藍を見守り、それ以後もずっと私の人生につきまとってきた天使たちである」と書かれている。
そのムンクがどのような目的で絵を描いたのか。それは「人間の外面的特徴を描くのではなく、苦悩や感情を描く」ことで作品を発表し、自身の苦悩を世にさらけ出していったのである。
特にムンクは女性関係では、いつも悩み苦しんでいた。特に貧乏画家であったムンクは、トゥラ・ラーセンという、コペンハーゲンの裕福な名家の一員で、虚栄心の強い女性と激しい恋に落ち、3年間交際した後、別れた。彼女はムンクを仮病を使っておびき寄せ、よりを戻さないと自殺すると銃を持ち出し、口論の上もみ合いになり、銃が暴発してしまう。弾丸はムンクの左中指の第一関節から先を吹っ飛ばしてしまった。(幸いムンクは右利きであった)
こうして苦悩上書き上げた絵は、作品めがけて腐った果物を投げつけられるほど不評であった。『叫び』にしても、多くの人から批判され、フランスのある新聞は、まるで排泄物を指でなすりつけたような印象をあたえると酷評された。さらに空に描かれている赤い部分には、鉛筆で「この絵は頭のおかしい人間が描いたにちがいない」といういたずらさえ書き込まれている。
確かにムンクの絵は見る人にとってみれば、ひどい絵のように見える。この『叫び』を見ても、そう思われても仕方がない。事実その描き方は、急いで筆を走らせたためか、中心に描かれている人物の顔の部分は、よく見ると厚紙(カンバスじゃないのだ)の地肌が透けている。しかもムンクは自分の作品の扱いは無神経で、作品を床に投げつけたり、踏みつけたり、何年間も雨風に曝したまましていたり、湯気の立つスープ鍋の蓋代わりにしたりしていた。
『叫び』を完成したのは深夜だったため、疲労困憊のムンクが画架の近くにあった蝋燭吹き消すと、作品の上に蝋が飛び散った。今でも『叫び』にはその蝋の雫が絵の右下残っているそうである。(こうしたいたずら書きや蝋燭の跡は、絵が本物であるかどうかの貴重な判定材料になる)
ところで、私が一番興味を引いたのが、次の部分である。
それは1883年8月27日午前10時2分インドネシアのクラカト火山が噴火し、火山島の殆どを吹き飛ばした。その火山灰が世界中の空を覆い、その結果、日没時の太陽が燃えるような強烈な赤い光を放つ怪現象が起した。翌28日のニューヨークタイムズには「夕方5時過ぎ、西の地平線が鮮やかな緋色に輝きはじめ、空と雲が真っ赤に染まった。通りを歩いていた人々はこの異常な光景に驚き、あちこちの角に集まって、西の空を見つめた。・・・・雲はしだいに血のような赤に染まり、それを映す海もまた血の海を思わせる色に変わった」という記事が掲載されている。30日付のオスロの新聞では、「昨日から今日にかけて、オスロの西の空に強い光が見られ、多くの人が火災だと考えた。だが、実際には、これは日没後の太陽光が大気中の塵に反射して起こった現象である」と報じている。
そしてムンクはこの『叫び』を描いた時のことを次のように回想している。「ひどく疲れたので、私は立ちとまって手すりに寄りかかった。濃紺の闇に沈むフィヨルドとオスロの街を眺めると、その上空に、まるで剣から滴る血のように、真っ赤な雲が垂れこめていた。友人はすでに先に行ってしまった。私は独り立ちつくし、恐怖に震えていた。すると、自然を貫く大きな叫び声が聞こえ、いつ果てるともなく続いた」と言っているのである。
この散歩の日時が1883年、1886年、1891年の説がある。もし1883年だとしたら、ムンクの『叫び』の背景にある夕日は、当時非常に珍しい自然現象であった可能性がある。つまりムンクはこの現象を見て、『叫び』を描いたのではないかというのである。もちろん確かなことは分からないが、少なくとも精神を病んでいたムンクがこの自然現象を目撃していたら、かなりのショックを与えた可能性がありそうである。そしてその時の印象を『叫び』に描いたのではないかという推理は面白かった。
この本を読んでもうちょっとムンクのことを知りたいと思った。他にムンクのことを書いた本を読みたくなった。(こうしてどんどん興味を覚えるから、次から次へと本を買ってしまうのだ。そしてその本の収納に悩まされるのだ。やれやれ・・・)
評価
★★★★
- by kmoto
- at 20:47
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