2006年03月31日

司馬遼太郎著『街道をゆく』1巻

2006_03_31_01.jpg


 ついにこのシリーズを再読し始める。今回この『街道をゆく』を読む一方で、先日完結した週刊『街道をゆく』も合わせて読むことにしていく。
 どういう訳かこの週刊『街道をゆく』には本誌と合わせて順番に刊行されていない。しかも、詳しい索引がないので、ここで巻数ごとに何号がそれに該当するか合わせて自分で索引を作ることにする。

 この第1巻は、「湖西のみち」、「朽木街道」、「竹内街道」、「甲州街道」、「葛城のみち」、「長州路」が収録されている。こう書いてみると、一体どこの土地を司馬さんが訪ねたのか分かりづらい。「湖西のみち」、「朽木街道」は琵琶湖の湖南地域であり、「竹内街道」、「葛城のみち」は奈良盆地である。「甲州街道」、「長州路」はお分かりになるだろう。

 この本で私は古代日本と朝鮮半島との交流に興味を覚えた。だからここでは「湖西のみち」、「朽木街道」、「竹内街道」、「甲州街道」、「葛城のみち」で古代の日本と朝鮮半島との交流を見てみたいし、あるいは「日本人はどこから来たのか」を考えてみたい。
 ただこの時代ことを「記録のない古代を詮索するのは、実証性というレフェリーやリングをもたないボクシングのようなもので、殴り得、しゃべり得、書き得という灰神楽の立つような華やかさがあるものの、見物席にはなんのことやらわかりにくい」と司馬さんが言っているように、要するに古代日本を考えると、はっきりとした記録がない以上、何でもありという状況になりかねない部分がある。でもその中で、可能性が大ありという部分で話を進めていくと、次のようになる。

 先走っちゃうが、この『街道をゆく』の2巻に面白いことが書かれている。

 「朝鮮とか韓国とか日本とかいう国名のなかった時代、朝鮮人は日本へ冬にきた。冬になると、風が日本にむかって吹くからである。逆に夏になると日本から朝鮮にむかって風が吹く。
 朝鮮は水が少ない上に、しばしば大きなひでりがあり、そういう年の冬には、『対岸へゆこう』という連中が多かったであろう。日本列島は幸いにも初夏には梅雨があり、初秋に台風があって、耕作のための水に不自由しない。われわれ日本人の血に朝鮮半島通過の血液がまじるのは、日本の水がそれを呼び、この海域を吹く風がそれを運んできたものにちがいない」

 そもそも日本と朝鮮半島の人々交流は有史以前からこの様に交流していた。だから「湖西のみち」、「朽木街道」の地域は古くは「楽浪(さざなみ)の滋賀」といって、どうやらこの地域は朝鮮半島から渡来人が開拓して一大勢力をなしたらしい。この「楽浪」は朝鮮半島にもその名の地域がある。このあたりにある古墳は朝鮮式であることからそのことが証明されるという。
 しかしどうして琵琶湖の湖南やこの後の奈良に朝鮮からの渡来人が住み着いたのだろうかと不思議に思う。でもこの地域の地図をよく見てみると、ここは日本海を望む若狭湾と非常に距離が近い。朝鮮半島からの渡来人が若狭湾に上陸してここに住み着いても不思議じゃないことに気がつく。


2006_03_31_04.jpg


 また司馬さんは、弥生式文化は朝鮮半島経由で日本に入ってきたとし、まずは北九州がその影響を受け、その後西日本全域に広がり、それが大和を制したのではないかとしている。でも何故それが大和なのか、不思議である。これも地図をよく見ながら司馬さんの説明を読むとうなずける。
 「竹内峠を越えれば、河内国である。そのむこうに大阪湾がひろがっており、さらに瀬戸内海の水路を通じて九州から海外とつながっている。」

 つまりこの地域は若狭湾から、あるいは九州から瀬戸内海を通って大阪湾へ、そしてそのままこの地域に来ることができるのである。
 彼ら(後世、天皇家第十代目に組み入れられる崇神王朝)は大和盆地で暮らしていた、土着の種族で、出雲族のミワグループとカモグループを征服していくのである。征服といっても、もともとこの地域に住んでいた住人は大した武器など持っていなかったから、今みたいな大規模な武装軍団など必要なく、簡単に(何故なら彼らは鉄器を持っていたから)征服できたという。
 司馬さんはこれ以上話は進めないが、要はこの征服王朝が今の天皇家なのである。

 「甲州街道」でも司馬さんは朝鮮半島との交流をつづる。663年倭(日本)と百済軍の水軍が白村江で新羅軍に敗れ、百済は滅びた。その敗れた百済人は日本に流入し、最初近江に男女400人が置かれ、その翌年2、000人以上が東国に置かれた。当時の東国は今の関東ではなく、岐阜県あたりをさす。
 司馬さんは「百済人がその故郷にあったころ、戦闘にあけくれていた。北は高句麗の圧迫をふせぎ、東は新羅と戦いつづけて、かれらは日本地帯のひとびととはちがい、戦闘に習熟していた。しかも百済人は、北方の高句麗騎兵になやまされつづけていたから、当然騎射には熟達していたにちがいない」という。日本列島の東で突如騎馬民族文化が成立する背景にはこの百済人2、000人の入植がなければ考えられないといい、その彼らの子孫がどんどん関東方面に広がっていき、所謂坂東武士となっていったのではないかという推理は面白い。


 この『街道をゆく』1巻に収録されている街道は、週刊「街道をゆく」の以下に収録されている。

「湖西のみち」は週刊「街道をゆく」の第2号
「朽木街道」も週刊「街道をゆく」の第2号
「竹内街道」は週刊「街道をゆく」の第22号
「甲州街道」は週刊「街道をゆく」の第7号
「葛城のみち」は週刊「街道をゆく」の第22号
「長州路」は週刊「街道をゆく」の第10号

2006年03月27日

貫井徳郎著『追憶のかけら』

2006_03_27_01.jpg


 私はこの本(実業の日本社刊)を読もうと思って手に入れたわけではなく、別な意図があってこの本を手に入れた。
 実はちょっと「造本」に興味があって、1冊本を自分の手で分解してその構造を見てみたいと思ったのだ。その為に古本屋さんで1冊分解用の本を購入した。その際、ハードカバーで、多少厚みのある方が分解しやすいと思い、この本を買った。
 でもただ分解してしまうのはどうも気が引ける。まずはちゃんと読んでみようと思い、読み始めた。読み始めてみると、意外に面白い。結局夢中になって読んでしまった。

 この本の話は構造は二重になっており、大学講師の松嶋に戦後まもなく自殺した佐脇依彦という寡作の小説家の手記を入手する。
 この手記がミステリー風になっており、佐脇が終戦後知り合った復員兵の頼みを聞き入れ、愛人の春子を捜しはじめる。
 ところがこの春子を捜し始めると、自分のまわりに不可解なことが起こり始め、最後にはお手伝いの富美さんが暴力の餌食になってしまう。富美さんに好意を寄せていた佐脇はこのことを苦にして自殺してしまう。
 一方松嶋はさえない大学の講師であった。魔が差した松嶋は風俗店へ遊びに行った。そのことが妻の咲都子にばれてしまい、咲都子は一人娘を連れて実家に帰ってしまうが、まもなく交通事故で亡くなってしまう。妻の咲都子は松嶋の大学の教授の娘であった。そのため実家でも大学でも松嶋のその行為が気まずいこととなってしまった。松嶋は自分の立場を立て直すために、佐脇の手記を元に論文を書くことで、世間に認めてもらおうとする。
 しかしこの手記を持ち込んだ人間は、何故佐脇のまわりに不幸な事件が起こったのか。その真相究明をすることが、松嶋がこの手記を元に論文を発表する条件とした。
 松嶋はある程度佐脇のまわりに起こった不幸の原因を究明し、論文を発表するが、この手記が偽物であることが分かり、松嶋は学会にいられなくなってしまう。(実はこの手記を読んでいて、どこか戦前に書かれたものにしては、表現が今風なところがあって、不自然さを感じていた。たぶんこれは偽物らしく見せるために意識的にそうしたのではなく、無理して一昔前の表記をしているうちに、今風の表現になってしまったものと思われる。どう考えても戦前にこんな表現の仕方はないのではないかと思われる部分がいくつかあった。)
 どうして松嶋は偽物の手記ををつかまされたのか。誰が松嶋を陥れたのか。手記は全部偽物なのか。状況が二転三転していく。

 なかなか読み応えのあるミステリーであった。ついつい夢中になってしまい、この本を潰すなんてとんでもないと思った次第である。それより全く知らない作家を偶然知ることになって、むしろ感謝しなければならない。
 
評価
★★★

2006年03月22日

夢をつかむイチロー262のメッセージ編集委員会著『夢をつかむイチロー262のメッセージ』

2006_03_22_01.jpg


 昨日、WBCで日本はキューバに圧勝し、ついに初代世界チャンピオンに輝いた。


2006_03_22_02.jpg


2006_03_22_03.jpg


 野球は嫌いじゃなかったけど、巨人に松井がいなくなってからほとんどナイター中継を見なくなっていたから、中継を最初から見たのは本当に久しぶりでテレビにかじりついて野球を見た。だから、イチローが試合に先立っていろいろなことを言っていたのを知ったのもこのときである。
 アジア・ラウンドを前にした2月21日にイチローが発した「むこう30年。日本には手が出せない。そんな感じで勝ちたい」と言ったと聞いたとき、思わずよく言ったと思った。この言葉を韓国は挑発と受け取ったらしいが、私に言わせれば、勝負事である。政治じゃないのだ。このくらい言ったっていいじゃないかと思う。日本人が発する一言一言に目くじらたててクレームをつける方がおかしい。
 イチローはこの本(ぴあ刊)で似たような言葉を発している。
 「勝負の場で力の差を見せつけるのがいちばんです。/野球に限らず何でも実力の差を見せてしまえばいいと思います」と。
 アジアの国々を見下しているのではない。野球に限らず、勝負事に関して言っている言葉だと思うのだ。それをすぐ政治的要因に結びつけてしまう国民性に問題があるのではないかと思う。もちろんそんな風にナーバスになっているところは分からない訳じゃないけど・・・。

 こんな訳でこのWBCを盛り上げたのやっぱりイチローだったんじゃないかと思う。これだけのことを言い放ったのだから、韓国との試合で2連敗してしまったとき、「僕の人生において一番屈辱的な日でした」というのも、よく分かる。韓国との試合に負けたとき、イチローが吠えたところが映されたけど、まさしく本当に悔しかったに違いない。
 だから3度目の韓国戦どうしてもリベンジしないとならない。イチローが同じチームに3度負けるわけにはいかないと言えば、「そうだろう、そうだろう」とうなずいちゃう。だから俄然力が入って3度目の韓国戦で俄然テンションが上がって、応援モードになる。 韓国戦とき、どうしても出かける用があって、かみさんが買い物をしているときに私はテレビ売場に行って、中継を見ていた。まさしくこんな感じである。

2006_03_22_04.jpg


 韓国に6-0で勝ったときイチローが「勝つべきチームが勝たなくてはいけない。そのチームが僕らだと思ってました。今日負けることは、日本のプロ野球にとって大きな汚点を残すことと同じですから、最高に気持ちいい」と言ったときまさしくそうだろうと思った。この日、イチローが打席に立つたびに地鳴りのような大ブーイングが浴びせられたけど、試合後のインタビューでイチローはそのブーイングに対して、「ああ、もう、大好きだね、最高!もうちょっと強いブーイングの方がよかったね。今日はちょっと足りなかったね」と言い放つのはさすがである。イチローはこの本で言っている。

 「プレッシャーのかかる感じはたまりません。/ぼくにとっては最高ですよね。/ものすごく苦しいですけど」

 またこうも言っている。

 「『達成できないのではないか?』という逆風、最高です。/『がんばれ、がんばれ』という人がいるより、僕は、/『できないでいてくれ』という人がいる方が熱くなる」

 言っておくけど私は韓国に恨みなどない。

 キューバ戦の時は墓参りに行かなければならなかったから、車の中でラジオで中継を聞き、早めに切り上げ、家に帰ってテレビで中継を見た。1点差に追い上げられたとき、「これはやばい!」と思ったが、ここでもイチローが追加点を入れるヒットを放ち、思わず「よ~し!」手を打つ。

 今回ほどイチローの発する言葉が気になることはなかった。だからこの本を読んで今までのイチローの言葉を感じたいと思ったのだ。以下この本に書かれているイチローの言葉で「さすが!」と思われるものを書き出してみる。

 「第三者の評価を意識した生き方はしたくありません。/自分が納得した生き方をしたいです」

 「自分のプレイに驚きはありません。/プレイそのものは自分の力の範囲内です。/第三者からこれだけの評価を受けたことに驚いています」

 「自分のやっていることは、/理由があることでなくてはいけないと思っているし、/自分の行動の意味を、必ず説明できる自信もあります」

 「ひとりの人間のできることは、かぎられています」(「世の中の流れに乗って、なにかを変えるきっかけを作ることはできたとしても、ひとりの力で世の中を変えることは無理です。ぼくもかつては自分の力を過大評価していました」)
 「誰かを勇気づけようとしたのでもなく、自分を満足させようとした結果、/世の中の人に、なにかを感じてもらえて、たのしんでもらえたわけです」

 「いい評価のほうに惑わされたくありません。/いつまでも初心では、それは成長してないともいえますから」

 「ぼくは常に自分にプレッシャーをかけてきましたし、/どんな状況でも動揺することはあまりないはずです」

 「やれることはすべてやったし、手を抜いたことは一度もありません。/常にやれることやろうとした自分がいたこと、/それに対して準備ができた自分がいたことを、誇りに思っています」

 「苦しいことの先に、あたらしいなにかが見つかると信じています」

 「力を出しきることは難しですよ。/苦しくて、苦しくて、倒れそうになります。/でも、それをやめてしまったら終わりです。プロの資格はなくなりますね」

 「自分のしたことに人が評価をくだす、それは自由ですけども、/それによって、自分を惑わされたくないのです」

 「プレイを見るだけで、なにを語ろうとしているかわかる選手は、かっこいいと思います」

 と、イチローらしい言葉がふんだんに書かれている。しかし、やっぱりことをなした人間の言葉は重みがある。
 この本を読んでいて、ちょっと元気が出た。落ち込んだときなど読む本としていい本だ。

評価
★★★★

2006年03月17日

司馬遼太郎著『歴史を紀行する』

2006_03_17_01.jpg


 『司馬遼太郎の遺産「街道をゆく」』を読んでいたら、『街道をゆく』に先だって、その前に紀行文が書かれており、それが『街道をゆく』となって大がかりな歴史紀行文となって開花するきっかけとなったものがあることを知った。それがこの『歴史を紀行する』(文春文庫)である。(「文藝春秋」の昭和43年1月号から同年12号まで掲載された)それを読んでみたくなり、読むことにした。
 この本のキーワードは「傾斜」である。「傾斜」といっても、地理的なものをいうのではない。ある時代、その地域が特別に突出した性格を持っていた時があって、それがその時代をリードしたことがあった。その性格は特殊で、異色であり、その方向にどっと流れ込む勢いがあった。そういう意味で「傾斜」を持ったというのである。この本はそういった過去に「傾斜」を持った地域を司馬さんが訪れている。
 読んでみると、なるほど、この本は『街道をゆく』である。ただし、『街道をゆく』より、その土地の風土や歴史が及ぼす影響にこだわっている。それはページの都合でそれが濃くなってしまっているのかもしれないが、多少強引なところも感じなくもない。
 たとえば、土佐において、自然条件が土佐を隔離していた関係で土佐弁が固有の形を残したという。そのため土佐弁が正しい日本語だとお国自慢として意識の中に残り、自意識としてそれが優越感となり、幕末坂本竜馬に代表される志士たちが田舎から出てきてもいきなり中央舞台で活躍できたのも、又維新後自由民権運動の中心的存在になり得たのも、そういう自意識がそうさせた。又彼らの暢達な日本語が議論好きにもさせたというのである。
 あるいは、近江において、近江商人や石田三成、蒲生氏郷など商才に長けた人材を排するのは、この地域に朝鮮から帰化人が住み着き、それまでの日本人が持ち合わせていない商才を持ち込み、展開していった。その血がこの近江に残り近江商人や石田三成、蒲生氏郷などを生んだのではないかと司馬さんは推察する。
 更に長州や薩摩が江戸幕府倒幕に主導的役割担うのは、関ヶ原の戦いで敗戦し、その領地を家康に減らされた恨みが倒幕運動の推進力となったことに加え、薩摩や長州のその場所がそうさせた部分があるという。司馬さんは言う。

「日本列島のハシである薩摩に立てば、つい視覚が巨視的なるかもしれない」と。
 もちろん日本列島のハシは薩摩だけではない。たとえば日本の北端の津軽ではどうだろうかと比較してみることを忘れない。
 「津軽野の風のなかで思いをひそめるのは、たとえば人間の業とかいのちの悲しみとか、いわば人間生存の第一義のようなものであり、そういう瞑想の姿勢が北端の地にはよく似合う。
 しかしながら薩南の地にきて思うのは人生のことより天下のことである。北方の氷雪は人間を内攻的にし、西南の陽光は人間を外攻的にする」と太宰治と西郷隆盛の人間性を比較して言わしめる。
 長州にしても、「海ひとつ向こうが外国であり、長州をふくめて、西国(九州)が幕末、列強の侵略的圧迫をじかに感じ、攘夷運動の火をもやさざるをえなかったのはその地理的環境による」と考察する。
 
 と、まぁこんな感じで、歴史的風土や自然条件がそこに住む人達になんらかの形で影響を及ぼし、特殊な人材を輩出していったというのである。確かにその可能性は否定できないだろうし、司馬さんのことだからかなりの資料を駆使して物事を言っておられるだけに、もしかしてなんて思ってしまう。
 歴史のよもやま話(よもやま話といっても、その内容は濃いし、読んでいて、思わず「そうなんだ」と驚いてしまうような話なのだけど)など、その地域の風土や気候などに密接な関連性を求め、可能性としてあり得るというのは、不確定要素だけに、読む方も思いをめぐらすには十分楽しい。

2006年03月14日

朝日新聞社編『司馬遼太郎の遺産「街道をゆく」』

2006_03_14_01.jpg


 『街道をゆく』を気ままに読んでいた関係で、忘れていることも多い。きちんと読んで、感じたことなど書き込んでいれば、まだ頭の中に残っていることもあるのだろうが、それをしないで読んだものだから、そんな状態になっている。
 で、ウォーミングアップとして、朝日新聞社編『司馬遼太郎の遺産「街道をゆく」』を読む。
 これはまず週刊朝日の別冊で司馬さんが亡くなられた後すぐに追悼記念として発売された。その後多少削ったり、付け加えられたりして、文庫版で同じものが発売される。今回両方を読んでみる。


2006_03_14_02.jpg


 私は一度この『街道をゆく』を読んでいることは何度も書いた。だから大枠としては記憶にある。その上でこの本を読んでいる。その中で、向井敏さんの言うことはなるほどと思う。

「司馬遼太郎は歴史上の人物を扱った二十に余る歴史長篇のほとんどすべてで、登場人物の気質やものの見方や行動の仕方が、何よりもまず彼らの生地生国、あるいは長く本拠地とした土地の地理的条件に根ざしているという観点から話を進めていて、それが司馬文学のきわだった特徴の一つとなっている」

 つまり作品の登場人物が生まれた土地などの風土をかなり重視しているということなのだが、一方でその風土にすべてを委ねてしまう危険性も十分承知しているというのだ。だからこれでもかというくらい、資料を集めて話を進めていく。それはこの『街道をゆく』を読んでいてもよく分かる。その上で向井さんは司馬さんの言葉を借りて、次のように言い切るのだ。

「『風土的気質からくる人間個々の複雑さを解こうというのは危険であるにしても』、『風土というものはやはり存在する』こと、『個々のなかには微量にしかなくとも、その個々が地理的現在において数十万人あつまり、あるいは歴史的連鎖において数百万人あつまると、あきらかに他とはちがうにおいがむれてくる』ことをあらためて確認し、やがて、当面の小説の執筆とはかかわりなく、かねて関心のある土地土地をめぐって、それぞれ特異な風土の『におい』を書きとめることに興をつのらせはじめた」のではないかというのだ。
 『街道をゆく』の面白さは司馬さんがそうした旅をすることで、そこで暮らす人々、あるいはその土地から生まれた歴史的人物を、風土的「におい」で感じるところにある。また司馬さん自身そのことを楽しんでこられてたのではないかと思うのだ。
 だから晩年小説を書くことをやめて、『この国のかたち』とこの『街道をゆく』の2本に絞った理由も何となく分かるような気がする。
 司馬さんは歴史の群像達を描いているうちに、疑問を感じ始めていたのではないかと思う。それをうまく言い表している人がいる。吉岡忍さんである。彼の『M/世界の憂鬱な先端』(文春文庫)に次のような文章がある。引用してみる。

 「70年代から80年代にかけての日本は、歴史への関心が高まった時代でもあった。牽引したのは司馬遼太郎である。彼が次々に書いた幕末明治の志士の群像譚は、国際化とハイテクと高度情報化をスローガンに地域と時差を超えて仕事をしはじめたビジネスマンたちの愛読書となり、ビジネスカルチャーの精神的教典と言われるほどだった。
 だが、司馬はブームの頂点で足踏みをした、せざるをえなかった、と私は思う。変革期の志士群像が作りだした近代日本は昭和前期の天皇制国家主義になだれ込み、たんなる野蛮と小心と無責任に堕していく。結果がそうであるならば、出発点においてすでになにかがおかしかったのではないか。論理的につきつめていけば、そうならざるをえない。彼はそのことに気がついていたと思う」

 更に司馬さんの文章も引用する。

「とにかく明治政府というものは江戸期を否定し、そして明治以後の知識人は、軍人をふくめて、江戸的な合理主義を持たなかった。それはやはり、何か昭和の大陥没とつながるのではないでしょうか」(だから『翔ぶが如く』では山県有朋や伊藤博文などは大久保利通や西郷隆盛から比べると、司馬さんはかなり手厳しい)

 私はこの文章を読んで、司馬さんが歴史小説が書かなくなった理由はここにあるのではないか思っている。
 つまり変革期の志士群像を描いているうちに「こんな日本に誰がしたのだ」という疑問が司馬さんの中で生まれたのではないかと思うのだ。自分が好んで描いてきた人物がいた時代にその原因があったのではないかと、思われたのだ。その時代背景を記述していくたびに、今の日本の風潮を生みだした原因がここにあったことを感じてしまったのではないかと思う。
 だから、小説を書くことをやめ、『この国のかたち』で現代日本の風潮をその原因からから話を始め、批評することに力を注いでいったし、更にもう一度司馬さん自身その歴史を肌身で感じたいから『街道をゆく』が生まれたのではないかと私は思うのだ。
 私はこの司馬さんが肌身で感じた歴史を『街道をゆく』から感じたいと思っている。


おまけ

 週刊「街道をゆく」全60冊が今日完結した。約1年3ヶ月かかった訳だが、考えてみると、この雑誌は思い出深いものになった。というのも、最初は自分がいた店で定期購読していたけど、お店がなくなってからは、あちこちのお店で買ってきた。
 ところがこの手の雑誌は、巻数を追うごとに発行部数が少なくなっていき(つまりあまりにも長い期間発売されるので途中で嫌になっちゃうのと、毎週なので、買い忘れてしまい、そのまま止めちゃうことが多いのだ。そのため出版社も発行部数を抑えていく。あれ、これ書いたけ?)、その結果お店に並ぶ部数が少なくなり、売り切れたり、残っていても手垢にまみれたのが1冊しかなかったりした。だから結構苦労して買い続けた。
 幸い有隣堂が秋葉原にできて、そこはきちんと部数を確保して売っていたので、後半は有隣堂で毎週買い続けた。
 ところで、このシリーズを発売するにあたり、シンポジウムが開かれ、それに関連して司馬さんの特集が昨年の2月12日(司馬さんの命日)の朝日新聞に載っていた。その記事を読んでみると、司馬遼太郎さんの作品がいかに今まで日本人に受け入れられたか、その売上部数を見てみると分かる。以下それを記してみる。

1.これまで発売された司馬作品は単行本だけで約350冊(全集、共著を含む)ある。

2.書店に並んでいる司馬作品の文庫本は約250冊あるという。

3.今まで売れた司馬作品は各出版社ごとに足していくと、対談も含め1億8,000万部になるという。おもな作品ごとにみていくと、『竜馬がゆく』が2,150万部(文庫、単行本含む。以下同様)、『坂の上の雲』が1,445万部、『翔が如く』が1,100万部、『国盗り物語』が673万部、『項羽と劉邦』が667万部、『播磨灘物語』が421万部、『空海の風景』が170万部、『街道をゆく』が1,009万部、『この国のかたち』が360万部だという。
 ものすごい数字である、司馬遼太郎さんが国民的作家といわれるゆえんがこのことで分かる。

2006年03月12日

街道をゆく

 今年の私の読書目標に司馬遼太郎さんの『街道をゆく』を最初からきちんと読んでみたいと書いた。そろそろ実行に移そうと思っている。
 今までこのシリーズを読んでいないわけではなく、気の向いたときに、気ままに読んでいた。でももう一度最初からきちんと読んでみたいと思った。その理由は、昨年からファイルマガジンとして週刊『街道をゆく』が出版されたの購入し続けて、もうすぐ全巻完結するので、それと合わせて読んでみたいと思ったのだ。
 このファイルマガジンがあると、司馬さんが訪れた街道をビジュアルで見られるので、合わせて読めば、より一層理解しやすいんじゃないかと思ったのだ。それをこれからやってみようと思う。

 さて、その前にこの『街道をゆく』であるが、今このファイルマガジンが刊行されるにあたり、新装版として新たに発売されている(文庫でもある)が、私の持っている『街道をゆく』はもちろん旧版のやつである。しかもそれは殆ど古本屋さんで購入した。当時はまだ司馬さんが存命で、そのためかこのシリーズはどこの古本屋さんでもワゴンなどでごろごろしていた。それを古本屋さんをのぞくたびに順番に集めていったのである。そうしたらちゃんと集まったのだ。それがこれである。
 

2006_03_12_02.jpg


 全43巻で、最終巻の「濃尾参州記」は結局未完の遺作となってしまったが、1971年から「週刊朝日」に1、147回、26年間掲載された。その範囲は日本の各地の街道だけでなく、韓国、モンゴル、中国、台湾、バスク、スペイン、ポルトガル、オランダ、ベルギー、アイルランド、アメリカのニューヨークと足を伸ばしていった。
 この写真にも写っているが、『街道をゆく』人名・地名録と『「司馬遼太郎・街道をゆく」エッセンス&インデックス』というぶ厚い本がある。どちらもこのシリーズを読みやすくするためのいわば補助的な本である。ただし、『街道をゆく』人名・地名録は1巻から31巻目でしかフォローしておらず、正直な話何でこんな中途半端な本を出したのだろうと思う。出来れば全巻をフォローした人名・地名録が欲しいところである。あるいは『「司馬遼太郎・街道をゆく」エッセンス&インデックス』にちゃんとした人名・地名録を付けるとかすればいいのではないかと思ったりする。もっとも週刊『街道をゆく』が出ているので、その必要性はないのかもしれないが・・・。

 とにかくこの43巻を読み始める前にウォーミングアップとして読むべき本、週刊朝日の別冊「司馬遼太郎の遺産 街道をゆく」(「日々是」に書いた10年前の雑誌とはこれである)、とその文庫版を読むことから始めようと思う。

2006年03月07日

松本清張初文庫作品集3『途上』

2006_03_07_01.jpg


 松本清張初文庫作品集3『途上』(双葉文庫)には、「紙碑」、「途上」、「老十九年の推歩」、「夏島」、「信号」の5編が収録されている。まぁ、感想は前回と同じで、どれも今ひとつであった。
 松本清張さんはミステリーももちろん有名であるが、歴史的考察もいくつも書かれている。今回の文庫に伊能忠敬の評伝が収録されている。
 その「老十九年の推歩」は伊能忠敬が50歳になって、千葉県佐原市の商家を隠居して測量学を学んで、残りの人生に日本国地図を作成していったか、その経緯を語っている。 実は以前初詣に深川の富岡八幡宮に行ったとき、境内に伊能忠敬の銅像があって、何でこんなところにこんな銅像があるのか不思議であったのを思い出した。 伊能忠敬は、隠居後、深川の黒江町に住んで、ここを起点に日本地図を作成していった経緯があり、そのために富岡八幡宮に伊能忠敬の銅像が作られれたのだろうとこの短編を読んで納得した。
 もう一編「夏島」は、明治の日本国憲法草案が神奈川県の夏島にある伊藤博文別荘で極秘に作られたのだが、その草案が憲法が公布される前に、漏れ伝わっていたらしい。それが極秘に『西哲夢物語』として出版された。インターネットで調べてみると、この『西哲夢物語』という出版物は実在していることを知る。この物語は、誰が憲法草案を漏らしたか、推理小説的に考察している。

 通常の作品は風化していて面白くないと書いたが、それはこの文庫でも同様である。が、こうした歴史的考察、推理はまだ読むことができた。

評価
★★

2006年03月03日

松本清張初文庫作品集2『断崖』

2006_03_03_01.jpg


 最近はなんだか知らないけど、松本清張ブームらしく、テレビのサスペンスでよく清張さんの原作がドラマ化され人気を呼んでいる。私は中学、高校時代、よく松本清張さんの作品をむさぼり読んだものだった。とにかく夢中でカッパノベルスを読んだ。
 けれど今回この作品集を読んでも、当時の感動を少しも味わえなかった。どうしてなのかあれこれ考えてみた。

1.社会派ミステリーのためか、当時の社会を背景にしているだけに、時代が経つに連れ、小説の舞台が風化してしまっているから。

2.読んでいる私が、歳をとってすれてしまったから。

3.私の読書がレベルアップしていて、松本清張さんの作品に満足出来なくなってしまっているから。(自惚れるんじゃないよと言われそう・・・)

4.この文庫のシリーズに原因があるため。つまり既存の松本清張さんの文庫はそれなりの面白いから、文庫化されているわけで、それからもれた作品は、その程度のものだということ。

 この松本清張初文庫作品集の第2集は、「濁った陽」、「断崖」、「よごれた虹」、「粗い網版」、「骨折」の5編収録されている。どれもこれも今ひとつであった。
 この松本清張初文庫作品集の第2集を読んでから3集を買えばいいものを、もう買っちゃっているので、次の3集を読んでこのシリーズは終わりにしようと思う。

評価
★★

2006年03月01日

選-協和発酵・文-河合 薫・監修-大久保 公裕『花粉川柳コレクション』

2006_03_01_01.jpg


 大野さんから「花粉症でないからよく分からないのだけど、読みます?」と差し出された本(講談社刊)がこれである。うむ、同病相憐れむじゃないが、読まねばと早速借り受ける。
 とにかくここのところ目は痒いし、鼻水は出るわで、おなかの調子の悪さと一緒になっていて、いささか不愉快な一日を過ごしている始末。毎年のこととはいえ、やっぱり花粉症は嫌だ!
 で、読んで面白いと思った川柳は以下の通りかっこは私の気持ちです。

じいちゃんが/植えた杉です/ごめんなさい (この杉を見たら腹が立つだろうなぁ)

春さきは/エラ呼吸が/うらやまし (まったく!)

花粉症/治ったときは/春は過ぎ (春が待ち遠しいなんて誰が言うのじゃ!)

雨の朝/嬉し涙/目が赤い (ほんとう!雨の日はうれしい)

コンビニの/バイトがびびる/重装備 (だろうなぁ。この時期コンビニ行くときは注意せねば・・・)

春過ぎて/憎き杉の木/蹴り入れる (本当にやりたくなるのだよ)

鼻水も/これだけ出れば/ヤセるはず (最近太り気味なので、そう思いたい)

そんなもの/見たくもないよ/花粉ショー (花粉症のCMを見ていると腹が立つ)

街角の/「ティッシュいかが?」は/神(紙)の声

ほしいとき/渡してくれない/駅の前 (欲しいときくれないのだよな、これ・・・)

くず籠へ/チリ紙放る/腕も冴え (これ本当にコントロールがよくなるのだ。練習のたまもの?)

評価
★★