2006年03月31日
司馬遼太郎著『街道をゆく』1巻
ついにこのシリーズを再読し始める。今回この『街道をゆく』を読む一方で、先日完結した週刊『街道をゆく』も合わせて読むことにしていく。
どういう訳かこの週刊『街道をゆく』には本誌と合わせて順番に刊行されていない。しかも、詳しい索引がないので、ここで巻数ごとに何号がそれに該当するか合わせて自分で索引を作ることにする。
この第1巻は、「湖西のみち」、「朽木街道」、「竹内街道」、「甲州街道」、「葛城のみち」、「長州路」が収録されている。こう書いてみると、一体どこの土地を司馬さんが訪ねたのか分かりづらい。「湖西のみち」、「朽木街道」は琵琶湖の湖南地域であり、「竹内街道」、「葛城のみち」は奈良盆地である。「甲州街道」、「長州路」はお分かりになるだろう。
この本で私は古代日本と朝鮮半島との交流に興味を覚えた。だからここでは「湖西のみち」、「朽木街道」、「竹内街道」、「甲州街道」、「葛城のみち」で古代の日本と朝鮮半島との交流を見てみたいし、あるいは「日本人はどこから来たのか」を考えてみたい。
ただこの時代ことを「記録のない古代を詮索するのは、実証性というレフェリーやリングをもたないボクシングのようなもので、殴り得、しゃべり得、書き得という灰神楽の立つような華やかさがあるものの、見物席にはなんのことやらわかりにくい」と司馬さんが言っているように、要するに古代日本を考えると、はっきりとした記録がない以上、何でもありという状況になりかねない部分がある。でもその中で、可能性が大ありという部分で話を進めていくと、次のようになる。
先走っちゃうが、この『街道をゆく』の2巻に面白いことが書かれている。
「朝鮮とか韓国とか日本とかいう国名のなかった時代、朝鮮人は日本へ冬にきた。冬になると、風が日本にむかって吹くからである。逆に夏になると日本から朝鮮にむかって風が吹く。
朝鮮は水が少ない上に、しばしば大きなひでりがあり、そういう年の冬には、『対岸へゆこう』という連中が多かったであろう。日本列島は幸いにも初夏には梅雨があり、初秋に台風があって、耕作のための水に不自由しない。われわれ日本人の血に朝鮮半島通過の血液がまじるのは、日本の水がそれを呼び、この海域を吹く風がそれを運んできたものにちがいない」
そもそも日本と朝鮮半島の人々交流は有史以前からこの様に交流していた。だから「湖西のみち」、「朽木街道」の地域は古くは「楽浪(さざなみ)の滋賀」といって、どうやらこの地域は朝鮮半島から渡来人が開拓して一大勢力をなしたらしい。この「楽浪」は朝鮮半島にもその名の地域がある。このあたりにある古墳は朝鮮式であることからそのことが証明されるという。
しかしどうして琵琶湖の湖南やこの後の奈良に朝鮮からの渡来人が住み着いたのだろうかと不思議に思う。でもこの地域の地図をよく見てみると、ここは日本海を望む若狭湾と非常に距離が近い。朝鮮半島からの渡来人が若狭湾に上陸してここに住み着いても不思議じゃないことに気がつく。
また司馬さんは、弥生式文化は朝鮮半島経由で日本に入ってきたとし、まずは北九州がその影響を受け、その後西日本全域に広がり、それが大和を制したのではないかとしている。でも何故それが大和なのか、不思議である。これも地図をよく見ながら司馬さんの説明を読むとうなずける。
「竹内峠を越えれば、河内国である。そのむこうに大阪湾がひろがっており、さらに瀬戸内海の水路を通じて九州から海外とつながっている。」
つまりこの地域は若狭湾から、あるいは九州から瀬戸内海を通って大阪湾へ、そしてそのままこの地域に来ることができるのである。
彼ら(後世、天皇家第十代目に組み入れられる崇神王朝)は大和盆地で暮らしていた、土着の種族で、出雲族のミワグループとカモグループを征服していくのである。征服といっても、もともとこの地域に住んでいた住人は大した武器など持っていなかったから、今みたいな大規模な武装軍団など必要なく、簡単に(何故なら彼らは鉄器を持っていたから)征服できたという。
司馬さんはこれ以上話は進めないが、要はこの征服王朝が今の天皇家なのである。
「甲州街道」でも司馬さんは朝鮮半島との交流をつづる。663年倭(日本)と百済軍の水軍が白村江で新羅軍に敗れ、百済は滅びた。その敗れた百済人は日本に流入し、最初近江に男女400人が置かれ、その翌年2、000人以上が東国に置かれた。当時の東国は今の関東ではなく、岐阜県あたりをさす。
司馬さんは「百済人がその故郷にあったころ、戦闘にあけくれていた。北は高句麗の圧迫をふせぎ、東は新羅と戦いつづけて、かれらは日本地帯のひとびととはちがい、戦闘に習熟していた。しかも百済人は、北方の高句麗騎兵になやまされつづけていたから、当然騎射には熟達していたにちがいない」という。日本列島の東で突如騎馬民族文化が成立する背景にはこの百済人2、000人の入植がなければ考えられないといい、その彼らの子孫がどんどん関東方面に広がっていき、所謂坂東武士となっていったのではないかという推理は面白い。
この『街道をゆく』1巻に収録されている街道は、週刊「街道をゆく」の以下に収録されている。
「湖西のみち」は週刊「街道をゆく」の第2号
「朽木街道」も週刊「街道をゆく」の第2号
「竹内街道」は週刊「街道をゆく」の第22号
「甲州街道」は週刊「街道をゆく」の第7号
「葛城のみち」は週刊「街道をゆく」の第22号
「長州路」は週刊「街道をゆく」の第10号
- by kmoto
- at 05:36
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