2006年04月30日

立花隆著『滅びゆく国家』

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 この本(日経BP社刊)は日経BP社のサイトで「立花隆のメディアソシオ-ポリティクス」に掲載されたものを1冊の本にしたものである。現在もこのサイトは生きていて、バックナンバーが読める。URLは以下の通り

http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/

 この本の最初に「ことわり」としてこのサイトに著者が書き込む際、ネットの情報など私的情報から主にネタもとしている。その関係か、ゴシップ的な要素かなりあるし、情報がその時は早くアップされていたのだろうけど、状況が絶えず変化してしまい、著者の考えが著しく変わってしまう。(第四章「小泉改革の真実-その政治手法と日本の行く末」と第五章「ポスト小泉の未来-キング・メーカーの野望」は状況が刻々と変化するので、著者の考えもそれに伴って変化していくのが分かる)だから今まで読んできた立花さんの本とはちょっと違うなというイメージを持ってしまった。こんなあやふやな情報で物事を判断する人とは思わなかったのだ。もっとも最初にこの本はネット情報など私的情報から書いていると断っている以上、それでいいのかもしれない。
 確かにライブドア事件に関することも、私の知らなかったことが多く書かれていて(それを知って何になるかは別問題)、それはそれで面白かった。
 たとえば堀江容疑者とヤミ金融との関係、元々は堀江容疑者が彼女と別れたことによって、その父親から金を工面してしていたのができなくなり、急遽借りていたお金を返さなければならなくなり、その莫大なお金をヤミ金融から借りた。その関係が最近まで続いていた。
 一方今の東京地検特捜部の検事総長はロッキード事件の捜査の時にこのブラックマネーの解明で苦い思いをした人であったので、今度こそこのヤミ金融の世界を解明したいという気持ちがあったという。つまり、堀江容疑者をたかが証券取引法違反で逮捕したのではなく、地検の最大のターゲットはそこにあったという。なるほど、たかが証券取引法違反で東京地検が動くのが不思議であったのだが、東京地検がわざわざ動く理由はそこにあったのかと分かった次第だ。

 私はこの本で面白かったのは、第二章の「天皇論-女性天皇・女系天皇の行方」と第三章の「靖国論・憲法論-なぜ国立追悼施設はできないのか」である。
 最近憲法改正論が話題になっているけれど、立花さんはその必要はないし、断固憲法第九条が固守すべきという立場を取っている。
 そもそも憲法第九条の改正は自衛隊の合法化が最大の目的なのだろうが、立花さんはそんなものわざわざ改正しなくてもいいという。つまりそれは日本国憲法の性質から、それはそのままで自衛隊は合憲だというのだ。
 というのも、日本国憲法として条文に書かれているのは、極めてシンプルレベルでしか書かれておらず、細かい運用は、「法の定めるところに従って・・・」と多用されており、下位法と一体ではじめて運用されている。下位法とは最高裁の判例や内閣法制局の見解で動いているというのだ。そのため自衛隊は今ではイラクまで派遣されている。それを細かいところまで憲法に規定する必要はないというのだ。
 むしろ憲法第九条は国際法社会におけるグローバル・スタンダードであり、国連憲章第一条、第二条に記載されていることと同じなのだ。それをわざわざ戦後アメリカから押しつけられた憲法だから、今の時代にそぐわないといって、改憲する理由にはならないという。
 逆に憲法に自衛隊のことを明記した時点で、今度は日米同盟により、アメリカがおこしてた戦争へ、自衛隊をいつでも派遣しなければならなくなり、戦争の手助けをすることになってしまう。たとえば今のイギリスのように・・・。今は憲法第九条があるお陰で、日本は戦争の片棒を担がなくてもいいし、少なくと戦後60年以上、他国に戦争を吹っ掛けなかった。それは日本が明治以降近代国家になってから、一番長い間戦争してこなかったのは、憲法第九条があるからである。

 女性天皇の容認にしたって、元々国家がああだこうだというものではないという。憲法第一条に「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあるのだから、世論調査で8割以上が女性天皇容認するという結果が出ている以上、国民の総意はもうこの時点で明らかである。
 それに最近男系維持論者が男系天皇がみな神武天皇と同じY染色体伝えてきたところに万世一系の天皇の本質があるという論理もおかしいという。
 つまり神武天皇のY染色体を受け継ぐ人は今の天皇家だけかということなのである。もし仮に神武天皇以来今上天皇まで125代の血筋がつながっていると仮定した場合、歴代の天皇がそれこそ仮に2人子供を持ったとしたら、Y染色体を受け継いだ子供は2、4、8、16、32、・・・と世代数だけ倍々ゲームで子孫が増えることになる。これを計算していくと、神武天皇の子孫は2の125乗人いることになる。これはゆうに今の日本の人口を上回る。もちろんこの中には女性が半分以上いるだろうけど、それを考えても、神武天皇以来のY染色体を持った人間が、日本にはゴロゴロいることになるはずだ。従って神武天皇のY染色体を受け継ぐ人は今の天皇家だけという論理は意味をなさない。これを読んだときは大笑いしてしまった。

 さてまたしても「靖国問題」である。私は小泉首相の靖国参拝は個人の意志に基づくものだから問題ないという姿勢には異議を唱えた。それはどう考えても詭弁だとも言った。中国や韓国が「靖国問題」を批判するのは内政干渉だという小泉首相の主張もおかしい。なぜなら日本国民の総意で小泉首相が靖国参拝をしているならともかく、首相個人の意志で靖国参拝をしているのだから、それを内政干渉という方がおかしい。だいたい隣国が止めてくれと言っているのに、それを無視して靖国参拝を行う小泉首相の姿勢を批判しているのだ。
 なぜ中国や韓国が小泉首相の靖国参拝を批判するのかよく考えるべきだと思う。A級戦犯が靖国神社に合祀されているからである。そして日本はこのA級戦犯を裁いた東京裁判をどんな事情であれ、それを認めたからサンフランシスコ条約を批准した。これによって、戦後日本は国際社会からの復帰を許されたのだ。日本が仕掛けた戦争は国際法違反であるから、当然それは裁かれて当たり前だし、戦争責任を問われても当然なのである。被害者である中国や韓国はそれを監視する立場にあるのだ。どんなことがあってもA級戦犯が祀られている靖国神社を認めるわけにはいかないのだ。

 何故中国がこうまで靖国参拝にこだわるのかよく考えれば分かる。中国の現代は日本の侵略戦争を期にして始まったといってもいいのではないかと思う。
 中国はそれまで清王朝という非漢民族に支配されていた。清王朝の末期になると、欧米各国の植民地政策で国自体がぼろぼろにされ、漢民族の自立を促すようになりつつあった。そこへ更に日本が中国を蹂躙するが如く侵略し始め、多くの中国の人達を殺害してきた。その中で抗日戦争として民族が自立し始め、ここから現代中国が生まれてきた。
 日本民族は他民族に支配された歴史を持たない民族である。(戦後連合国側に支配されたというかもしれないが、あれは支配されたというには、あまりにも甘い支配だったし、その為に多くの日本人が殺害された訳じゃない。中国人民がなめた辛酸、多くの人民の血が流された事実から見れば、比較になんかならないと思う。
 だから日本国民は感覚的に中国人民の感情が理解できない。しかも自分たちのことしか考えないアホな国民だから、中国や韓国が「わかってくれ!」と声を張り上げれば張り上げるほど、「俺たちには関係のないことだ!」と思ってしまうし、疎ましく感じてしまう。挙げ句の果てに首相でさえ「どうしてなんでしょうね~」という始末なのだ。
 今は、日本はもう戦争世代がかなりの数で減ってしまっているし、戦争を経験してきた人達も正しい情報を与えられてこなかったから、中国や韓国の苦しみを理解できなくなっている。だから「いつまでも昔のことばかり持ち出すなよ」という意識が日本国民に出てきてしまうのだし「俺たちには関係ないよ」という考え方になってしまうのだ。

 そうなったのは歴史教育に問題があるからだと思う。日本の歴史教育は人類の誕生から古い順に進めていくから、複雑な現代までなかなか行き届かない。実際に高校の歴史教育など、限られた時間で人類の誕生から現代までやるものだから、肝心の現代に時間が割けない。本当から言えば、今生きている我々にとって現代史こそ大切なのにおろそかにされているのが現状ではないだろうか?
 私は中国や韓国が現代史を重視しているのに比べて(当然なのだが)、日本は軽く考えていないだろうか思ってしまう。
 感覚的に日本人が中国や韓国の感情を理解できないなら、せめて「歴史」は被害者、加害者の立場はあるにしても、歴史的事実は共有できる。そのために現代史を重視すべきだと思うし、それこそが隣国である中国や韓国のことを少しでも理解できるきっかけになるのではないだろうか?日本の歴史教育の仕方を変えない限り、いつまでたっても日本人は「俺たちには関係ないよ」という考え方しか持たなくなってしまうと思うのだ。中国や韓国が日本の歴史教育に口をはさむのも当然だと思う。
 もし日本の歴史教育がしっかりしたものであったなら、天皇も行かない靖国神社に日本の首相が参拝することが如何に馬鹿げたことなのか分かるというものだ。意地になったって、何も生みやしないと思う。
 何だか偉そうなことを言ってしまった。こんなつもりじゃなかったのだけど、この本を読んでいてあまりにも日本の首相がひどいからついつい大声を張り上げた形になってしまった。
 私は自分でも現代史をもっともっと勉強できればなぁと思う。

評価
★★★

2006年04月28日

梅田望夫著『ウェブ進化論』

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 続けて新書を読む。とにかく最近新書が面白い。今回の梅田望夫さんの『ウェブ進化論』(筑摩新書)も面白かった。

 IT産業はインテルの創業者ゴードン・ムーアが1965年に提唱した「ムーアの法則」に今も支配されているという。
この「ムーアの法則」とは、もともとは「半導体性能は一年半で二倍になる」というものだったが、現在は「あらゆるIT関連製品のコストは、年率30%から40%で下落していく」という意味に転じ、それが現在まで続いている。
 この「ムーアの法則」に支配された現代はオープンソース・ソフトウェア登場により、リナックスに代表されるソフトウェアの無料化、ブロードバンドの普及による回線コストの大幅下落、検索エンジンの無料サービスと、ITに関する「必要十分」な機能のすべてを、コストを意識しないで誰でも手に入れることができつつある。著者はこのことを「チープ革命」の恩恵を蒙るようになったという。
 この「チープ革命」の恩恵は、みんなが持っているパソコンや周辺機器やインターネットの基本機能に組み入れられ、文章を書く、写真を撮る、語り・対話・議論を録音する、音楽を作る、ホームビデオで録画する、映像を作る、これらすべてが誰でも、廉価で、もしくは無料ででき、それをインターネット上に置くようになってきた。つまり表現者がものすごい数となって、インターネット上に玉石混淆の状態で置かれている。
 一方こうして様々なことが自由に表現できることは、今までのような既存のプロフェッショナルな権威が揺らいでくることにもなる。レベルの高い参加者がネット上で語り合った結果が、権威サイドが用意する専門家(大学教授、新聞記者、評論家など)によって届けられる情報より質が高いこともあり得るようになってくる。そうなってくると、プロフェッショナルな権威であることにあぐらをかいているだけでは、見捨てられていくことにもなり、絶えず切磋琢磨していかないとプロフェッショナルでいられない状況が出来上がってくる。

 ここに面白話を著者は載せている。マイクロソフトのビル・ゲイツの十代の頃パーソナルコンピュータの可能性に感動し、Googleの創始者である、ラリー・ページとセルゲイ・ブリンはインターネットに、つまりパソコンの向こうにある人々や情報という「無限の世界」に感動した。これは世代間の差ではあるが、ビル・ゲイツは未だにインターネットの「こちら側」へのこだわりを捨てきれずにソフト開発続けていく。
 ところがGoogleは違う。ネットの「あちら側」に土俵を置き、戦略を立ていくから、ネットスケープのように、マイクロソフトにたたきつぶされることはないし、既存の思考回路にとらわれることもない。
 ここで問題になってくるのは、ネットの「あちら側」にどれだけの価値があるかである。あるいは価値を置くかである。
 たとえばIBMがパソコン事業を中国のレノボ・グループ(漢字で書くと変換が難しいのでカタカナで書いた)に売却したのは、「誰でもいいから中国で作って世界に安く供給してくれればいい」というアメリカIT産業の姿勢を示している。そんなことよりも、今は、あるいはこれからは、ネットの「あちら側」の付加価値を視野に入れているわけだ。
 余談ながら、日本は相変わらず基本は「電子立国日本」であり、未だにハードウェアに命をかけている日本があることを知らされた。著者は言う。「モノづくりの強みの発揮に専心し、そこにしか生き場所がないと自己規定するあまりに『こちら側』に没頭しているのが、現在の日本のIT産業の姿とも言える」と。

 それではネットの「あちら側」の付加価値は一体何なのだろうか?その前にネットの世界では、現在「三大法則」のルールで発展しているという。その「三大法則」とは何か?
第一法則:神の視点からの世界理解
第二法則:ネット上に作った人間の分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏
第三法則:(≒無限大)×(≒ゼロ)=Something あるいは消えて失われていったはずの価値の集積

 このルールに基づき、今ネット世界は発展しつつあるのだ。これを説明する。まず第一法則の「神の視点からの世界理解」とは、「全体を俯瞰する視点」のことをいい、ネット事業者がその利用者が今、どんなサービスをネット上で利用しているか、その情報が、利用された時点でリアルタイムで情報として集積されることをいう。あるいはGoogleで検索された情報が、今何が旬なのか、検索された時点ではっきりしてしまい、それが情報として生かされていくことをいう。言ってみればネット事業者やGoogleがジョージ・オーエルの「ビック・ブラザー」の役目をしているということなのである。それは情報が旬なだけ、ビジネスチャンス即つながるほど価値がある。
 第二法則の「ネット上に作った人間の分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏」とは、ネット上に自分の分身=ウェブサイトを作れば、自動的に稼いでくれるシステムのことである。最近毎日お昼の弁当を買う、弁当屋さんが楽天のデリバリーサービスに登録して、メールでお弁当の配達、予約が結構入ってきて、忙しくなったと聞いた。しかもそれは広範囲に注文が入ってきて、今まで以上のお客さんの範囲を拡大しているという。これなどはまさしくいい例じゃないだろうか。
 第三法則の「(≒無限大)×(≒ゼロ)=Something あるいは消えて失われていったはずの価値の集積」とは、おそらくネット上で一番大きな意味を持つものとして考えられる。
 たとえば、一億人から1円くれれば、1億円になるが、確かに1円ぐらいならもらえる可能性は大きいかもしれないが、一人ひとりに「1円くれませんか」とお願いするコストを考えると、1円もらうために1円以上のコストがかかってしまう。だからリアル世界ではこのことは非現実的なのである。ところがその「1円くれませんか」というコストが1円よりずっと安ければどうだろう?
 あるいは1万人の企業が企業価値を生みだすために費やされる時間は1日、8万時間(1万人×8時間)になるが、1000万人なら、28.8秒、1億人なら3秒弱で1万人の従業員をかかえる企業と同じ時間で、企業価値が生みだされることになる。3秒なんかすぐたってしまう。このことは「放っておけば消えて失われていってしまうはずの価値が、つまりわずかな金やわずかな時間の断片でといった無に近いものを、無限大に限りなく近い対象から、ゼロに限りなく近いコストで集積したら」リアル世界で要した金や時間を簡単に生みだすし、それ以上のものを生みだすのである。これがネットの可能性であり、付加価値なのだ。
 著者が一つの例を出している。日本の書籍のベストセラーを、横軸には1冊あたり5ミリ、縦軸に1000部あたり5ミリというグラフを書いた場合、まず縦軸は200万部で10メートル超すことになる。ところが、横軸はどんどん売れた部数が少ない本が永遠と並ぶことになる。しかもかなりの距離で。(つまりその年の書籍発行部数が多くなればなるほど、その長さは長くなる)まるで長いしっぽを持った恐竜のようになる。これを「ロングテール現象」という。

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 しかしアマゾン・コムの売上の半分以上が、売上部数13万位以降の本からあげていると聞いたとき、このロングテールが馬鹿にできないことなるだろう。  今までは大きな数字のものを押さえておけば、そこから出てくる利益の大半を稼いでいると考えられたけれど、そうではなく、もし低コストで細かい数字を集めることができれば、それはビックビジネスになるのである。
 これははっきり言ってリアル世界では不可能なことであり、ネットだからできることなのである。
 もしかしたらこのことは既存の考え方さえも変えてしまうかもしれない。大局的に物事をつかんでいれば、モノの本質が分かったような今の風潮が、実は違ってしまう場合さえあるのである。ネット世界の可能性は我々が現在持っている考え方を大きく変えてしまうようだ。

評価
★★★★

2006年04月25日

熊田紺也著『死体とご遺体』

熊田紺也著『死体とご遺体』


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 もう一冊今月の平凡社新書を読む。熊田紺也さんの『死体とご遺体』である。熊田さんの職業は「湯灌サービス」である。これだけ言って、この職業の内容が分かる人はちょっとすごいんじゃないかと思う。少なくとも私は知らなかった。 「湯灌」とは、「遺体を沐浴させて、洗い清める」ことで、葬式のオプションに加えられているらしい。「湯灌」は、古くは宗教儀礼として行われていたらしく、現代では殆ど消滅してしまったとのことである。
 確かに私の母の葬式のときに「湯灌」が行われたという記憶がない。記憶がないということは、多分「湯灌」という儀式が行われていないことなのではないかと思う。母は病院で死に、臨終後、看護師さんが「これから遺体を清めますから」といって、一旦、我々遺族を病室から出したのを覚えている。このとき看護師さんが母の遺体を清めたのだろう。その後自宅へ帰り、うちのかみさんや弟のかみさんがエンジェル・メイク(この言葉もこの本を読んで知った)という死化粧をした。
 著者によると、この「湯灌」が広まった経緯を次のように説明する。
 「一般の人は湯灌とはどういうことなのかも知らない普通の時代となったのだが、それが葬儀の一部をなすサービスとして復活したのは、1980年代のことだという。互助会系の葬儀社にいた人物が独立し、需要を確信してサービスを始めたのが最初らしい。やがて1995年、阪神淡路大震災が起こり、損傷の激しい多数の遺体が生じた。それを見た関西の葬儀社が「公益社」が業務の一環として湯灌サービスに取り組むようになったのが、現代に湯灌が広まるきっかけをつくった。
 80年代に湯灌サービスを始めた人物は、老人介護の入浴サービスから着想を得て、実行に移したという」

 なるほど、こういう経緯で「湯灌」が広まったとすれば、私の母の葬式のときはまだ広まっていない時代であったから、私が知らないのも当然である。
 「湯灌」がどういう形で行われるか、この本に図があるので、ここに載せてみる。

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 以上が「湯灌」の形なのだが、著者は最初からこのサービスを提供する職業に就いていたわけではない。元はCM制作会社の社長さんだった。バブル期はかなり羽振りがよかったが、バブル崩壊後、会社は倒産し、二千万の借金を残すはめになった。借金返済のため在宅入浴サービスの仕事に就く。しかし雇われているだけでは借金返済のメドがつかなかった。そんなとき、出前で遺体を風呂に入れる仕事があり、しかも介護サービス4~5倍の収入があると聞き、奥さんをパートナーにして、「湯灌サービス」の会社を起こすようになった。
 「湯灌サービス」といっても、ただ単に遺体を風呂に入れればいいだけじゃない。人間の死は様々な死がある。きれいな遺体ばかりじゃない。病死、事故死、自殺、他殺と損傷の激しい遺体もたくさんある。それらの遺体を修復できる限り修復し、遺体を清め、納棺していく。そこには現代の「死」事情が垣間見られる。
 たとえば、著者の奥さんが言う。「あるお宅へうかがったとき、ご家族がおばあちゃん、おばあちゃんと泣きながら、皆さんでワーッと集まっておられました。そこで湯灌をしたんですが、部屋の隅のほうでお嫁さんがポツンと小さくなっておられたんです。そのとき、私はピンときました。じっと黙りこくってはいるが、おばあさんの世話をずっとなさってきたのはあのお嫁さんだろう、と。他家へ嫁いでいかれた娘さんたちにしてみれば、おばあさんは私の母のお母さんだという気持ちが強いでしょう。でも、介護はあのお嫁さんだろう。それがわかるので、湯灌が終わったとき、私はその方のそばに行って、大変でしたねえ、ご苦労さまって声をかけてさしあげました。そうしたら、その方、私のこの手を握って、いきなり泣き出されました。だれかに長い介護のことをわかってもらいたいというか、いろいろな思いがたまっておられたんでしょうねえ」とあった。
 又著者が言うには、様々な遺体を湯灌してきて、破損の激しい遺体であっても感情的にならなかったけれど、子供の遺体だけはどうしてもいたたまれなくなし、一番辛いという。「子どもの死は最大の逆縁だ」と言う。だろうなあと思う。 「湯灌」は遺族にとって、死者との絆を確認する作業であり、遺族が死者に最後にしてあげられる思いやりでもあることを知る。
 ところがこうした職業には非賤視するところがある。著者も奥さんも友人や近所つきあいなどを失ってしまう。だけど著者は「いまのおれは掛け値なしの人間なんだぜ、どうだ、ざまあみろ」と思うと言い切る。それはバブル期に華やかな虚業に踊らされていた時と比べて、「地べたからものを見る爽快さ」があるという。


評価
★★★★

2006年04月24日

樽見博著『古本通』

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 よく考えてみると、古本屋さんの利用方法というのはいくつかありそうである。最近の私の古本屋さんの使い方は、安い本を買うことにある。本屋を辞めて、社員価格で本が買えなくなったことと、自由に本が手に入らなくなったことで、主にネットで、高価な本は、できるだけ安い本を探し、購入することにしている。
 ちなみにこの本は三和図書で大山君(大山さんの息子さん)の好意で社員価格で売ってもらっている。
 でもこういう形での古本屋さんの使い方は、ある意味邪道かもしれない。本当は「蒐書」のために古本屋さんを使うべきだろうと思う。私も以前は自分が欲しいと思っていた本で、本屋さんで入手できない本を古本屋さんで探し、購入してきた。実際私はこの本(平凡社新書)の著者が編集者を勤めていた「日本古書通信」を一時購読していたことがあった。そこに掲載されている古本の目録が目当てで購読していた。
 当時ここに目録を掲載している古本屋さんに、欲しい本があったときは、はがきを出して購入希望を伝える。しかし、当時は(今はよく知らない)購入希望者が多かったのだろう。抽選となり、だいたいがもれてしまう。記憶では一度だけここに目録を掲載していた古本屋さんから本を買ったはずだ。
 ところが最近ネットでの古本屋さんが多くなり、簡単に自分の欲しい本がわざわざ古本屋さんに行かなくても、簡単に閲覧できるし、そのまま欲しい本があれば、ワンクリックで自宅まで宅配便で届くようになった。そうなると、欲しい本を探すだけでなく、欲しい本がどれだけ安く買えるか比較することができ、予算の関係から、当然安い本を買うことになる。そうしているうちに、新刊ではないけど、町の本屋さんでも注文すれば手に入る本でも、このサイトに掲載されていれば、多少安く買えることが分かり始める。こうして高額な本を古本屋さんのサイトで買うことを覚えたのである。つまり古本屋さんの使い方が変わってしまったのだ。
 著者はこの本で「古本屋の本来の仕事は、本を安く売ることではなく、その本の価値を評価して高く売ること」であると言っているが、最近は古本の値段が崩れてしまっているのだという。それは従来の店頭販売、目録販売、即売会という古本販売方法に、ネット販売が加わったことによるという。
 確かにネット販売は確かに若い読者層を開拓するけれども、ネット上では、同一の古本が簡単に一覧できてしまうので、そのことが安売り競争の様相を帯びてしまう。つまり私みたいな人間が多くなることで、古本の値崩れが生じ始めている訳だ。このことは蔵書が高く売れない状況を作り出し、古本が市場に出なくなってしまう悪循環を生むことにもなる。
 ブックオフが著者の著作権料を蝕み、著者に正統な著作権料が入らなくなることで、作家の生活権を脅かし、いい作品が生まれなくなるのと同じである。
 自分が今やっていることが、目先だけのことにとらわれて、結果としていい結果を生まないことは分かっている。当然自分が今やっていることは正当化できないし、弁解もできないだろう。

 この本で紹介される古本屋さんはブックオフに代表される新古本を取り扱う古本屋さんではない。いってみれば、昔からある古本屋さんである。それこそ正統派の古本屋さん(こんな言葉があるのか知らないけど、便宜上使っている)のことである。
 ここで、この業界がどのような仕組みになっていて、仕入がどのように行われ、その値段がどのように設定されるか説明してくれる。しかし売値を付けるにあたり正当な評価をしなければならないから、価格決定にはそれなりの知識と経験を必要とする。その手助けをしてくれるものとして、個人書誌(作家の作品で、本にされたもの、又は何かの雑誌に掲載された文章などを詳しく説明したもの)が役に立つらしい。
 実は私も1冊この個人書誌というやつを持っている。開高健さんの書誌である『開高健書誌』である。この本の中にも『開高健書誌』のことが書かれている。確かにこの書誌は役に立つ。インターネットや古本屋さんから送ってきてくれる目録を見るとき、この書誌を参考にすることがある。


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 しかしこの書誌、問題があることは以前のブログで書いたことがあって、そのことがここでふれられているので、やっぱりそうだろうと思った次第だ。
 それは何かというと、「開高健の著書目録では通常の書誌的事項の他、作品集や随筆集は各文章の初出まで記載し、印刷者製本者、各章の頁数まで記録したもので、雑誌掲載作品もその号数はもちろん、頁数をすべて記している。現物確認はそこまで徹底しているが何故か再版についての言及や書影はない」そこまで徹底して開高さんの書誌を作り上げているのに、片手落ちの部分が惜しいし、この後出版された開高さんの本に対しての、追補的なものが欲しいものだと思っている。

 さて最後に、蔵書のことについて書きたい。私の本が増え始めたのはいつのことからだろうかとふと思った。間違いなく、私が本屋さんで働くようになってから、私の本は増え始めた。それまで読みたい本があっても、親からもらっていた小遣いをほとんどつぎ込んでも、足らなかった。
 一息できるようになったのは、高校三年の時アルバイトしてからである。そして大学時代本屋さんでアルバイトするようになって、毎日欲しい本を目にするようになって、手当たり次第買っていった。
 一方、お客さんが一昔前の本を注文して、よく「品切・重版未定」、あるいは「絶版」という版元の答えのついた注文書を見て、自分も欲しい本があったら今のうちに買っておかないと「品切・重版未定」、あるいは「絶版」になって手にできなくなってしまうという危機感を感じていた。幸いバイト代を本代につぎ込めるので、いい気になって本を買っていた。
 当然読むペースより購入するペースの方が多いから、本は増えていく。それは「いつかじっくり読みたい本」として棚を占領していった。
 私の本棚にある蔵書はこうして、「いつかじっくり読みたい本」と、「読んでよかった本」そして「読んで損した本」が棚に占めている訳である。
 最近は本棚のキャパシティーに限界を感じ始めたので、「読んで損した本」は迷うことなくブックオフに売り飛ばすことにしているが、処分したい本がまだ結構ある。もちろん今まで2度ほど古本屋さんに本を売って処分しているが、それもだいぶ以前の話で、今の私の本棚は「いつかじっくり読みたい本」、「読んでよかった本」そして「読んで損した本」が雑然と並んでいる。
 ところがこの本を読んで、蔵書の精度を上げることを知った。「生きた蔵書であるためには、不要な本は極力処分し、自分の適量を維持しながら、毎日欠かさず書棚を点検するよう努めることが大切だ」という。そのためには「蔵書は売ったり買ったりして徐々に質を高めていくことが大切である」という。「蔵書を売ることに抵抗を感じる人は多いし、頑なに手に入れた本は手放さない人がいる。ブックオフの登場で、本を処分することの抵抗感は大分薄れてきたが、慣れないうちは、購入した金額と処分した時の価格の余りの差ということもあって、実際にはなかなか踏み切れないものである。しかし、不要な本、将来的にもおそらく読まない本は、はっきり言えば紙くずに過ぎない。不要な本百冊処分して、その代価で今必要な本一冊を買うほうが、明らかに有効で、かつ楽しい。一度欲しくて買った本は、買ったことで一度満足し、読むことで二度満足しているのである。それをたとえ買った時より安く売ることになっても損ではない。この感覚が古本と上手に付き合う最も大切なポイントである」という。うちのかみさんに読んで聞かせたい文章である。
 こうして「蒐書散書」を繰り返すことが、自分の蔵書の精度を増し、蔵書として「筋」が通っていることになり、その蔵書の持ち主が死んだとき、処分しやすいという。著者はいう。「処分しやすい蔵書は、持ち主本人にも、遺族にとっても良い結果を招く」と。
 こうなると、私の蔵書は処分に困るものになりそうだ。早いこと何とかしないといけないのかもしれない。

評価
★★

2006年04月21日

司馬遼太郎著『街道をゆく』4巻

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 今回、京都鞍馬の「洛北諸道」、岐阜から美濃、白川郷、五箇山、の「群上・白川・五箇山街道」、更に北上し、「越中諸道」を通って富山市至る。更に「丹波篠山街道」、堺市を通って紀州の入り口までの「堺・紀州街道」、関ヶ原から敦賀湾に至る「北国街道」と忙しい。
 ところでこの巻で、司馬さんは日本の街道の姿の特徴を以下のように言っている。

 「古代ローマ人にとって道路は堅牢な構造物だったが、ローマ人のように牽駕式(けんがしき)の戦車を通す思想をもたなかった日本人にとって、道路は二つの足の裏をのせる程度の幅をもった雑草の生えていない小空間であればよく、堅牢性などまったく必要がなかった。ローマ人の道路思想がやがてヨーロッパ人のそれになって相続されるのだが、日本人はそういう気のきいた先祖をもっていない。
 中国の都市の道路もひろい。古代中国も牽駕式の戦車が戦力の中心であり、都城はそれを往来せしめるだけの道路をもつことが必要だった。日本は平城京や平安京においてその真似をしたが、しかし戦車をつかった経験が一度もなかったために実際にはそれほどの道路は必要がなかった。車といえば王朝のころは貴族は牛車で都大路を往来したが、しかしひとたび旅をして地方に出ると道中車を用いることがなく、荷物は荷駄ではこばれた。江戸時代でさえ、東海道は車が往来しなかったのである。大名行列も大名は駕籠であり、荷物は馬の背に載せてはこばれ、車は用いられなかった。日本人ほど車の要素のすくない交通史を持った民族は世界でもまれではないかとおもわれる。要するに日本にあっては道路がりっぱである必要がなかったのである」

 そういう旧街道、古道を司馬さんは行かれている。もちろん幹線道路は現在舗装され、司馬さん達も車で移動されているが、一歩奥に入れば、舗装されていない細い道で、まわりは多分木々でおおわれているのだろうと思う。特に古い由緒ある寺などを訪ねればそんな感じのようである。「洛北諸道」では山伏が歩いた道だから、その感が強いだろうと思われるし、柴田勝家が切り開いた越前の「北国街道」の栃ノ木峠あたりに道も、鬱蒼とした森の中にある細くて苔むした道といった感じであろうか?
 逆に堺市のように当時の面影を殆ど残さない街道もあるが、これでだけ歩くだけだって結構大変そうだ。

 ところで、司馬さんの歴史小説の面白さは、「余談ながら」とか「閑話休題」とかいって、話を中断して、よもやま話や司馬さんの歴史観を語るところある。それがいい感じで、それこそ一休みといった感じで話の中にちりばめられている。
 しかしその「余談ながら」とか「閑話休題」というのは、どうしても話の主人公から離れることができない。あくまでもその話に関係があることが前提である。それは一休みであって、話と全く関係のない話をいきなり持ってくるわけにはいかないからだ。
 ところが、このシリーズはそれが可能である。というのも日本史というのは断絶していないからである。このことは確か前の巻だったと思うけど、司馬さんは書かれていた。
 日本という国はどこかの国に征服されて、違う民族に支配された歴史がないからだ。だから同じ地域であるならば、話を古代から江戸時代に急に展開してもかまわない。それこそ自由である。実際のはなし司馬さんはこのシリーズで縦横無尽に話をされている。逆にそれがこのシリーズを面白くしているし、読者は時には興味のない時代の話であっても、急に自分がよく知っている歴史の話になるので、とたんに興味を覚えたりする。
 たとえばこうである。「洛北諸道」の丹波篠山街道で長岡京のことに司馬さんはまずふれている。私は都が奈良から京都に移る10年ばかりの都であった長岡京はよく分からないので、はっきり言って興味がない。けれど、話が急に明智光秀の話になると、とたんに興味を覚える。
 丹波には光秀が城を構えていた。その光秀が信長を討つ本能寺の変を起こすわけだが、司馬さんはその光秀のことを次のように言う。
 「本能寺を襲うということは光秀も当然考えたであろう愚挙であった。なぜなら信長を殺せば織田勢力の諸将の目標になるだけで、諸将が光秀を目標に競って京にのぼりいちはやく光秀を討ちとろうとする。その苛烈な競争現象をまねくだけのことであり、ひとのために天下を用意してやるようなものであった」

 そうまでして本能寺にて光秀が信長を討つ理由は、よく信長に丹波を取り上げられ、毛利勢と対峙している秀吉の後詰を命じられたからとか言われるけど、どうもそれだけじゃなかったのではないかと司馬さんは言う。当時光秀自身が精神的に疲労していたし、歳も50を過ぎ若くなかったので、余計に身心的負担堪えられなかったのではないか。だから司馬さんは光秀の心情を文学的課題よりも精神医学的課題としてとらえるべきかもしれないというのである。
 なるほどこう言われると説得力がある。特に戦国時代の人間像に多大な興味を持っているので、ついつい読んでしまうのである。

 この『街道をゆく』4巻に収録されている街道は、週刊「街道をゆく」の以下に収録されている。

「洛北諸道」は週刊「街道をゆく」の第37号
「群上・白川・五箇山街道」は週刊「街道をゆく」の第46号
「越中諸道」は週刊「街道をゆく」の第46号
「丹波篠山街道」は週刊「街道をゆく」の第37号
「堺・紀州街道」は週刊「街道をゆく」の第42号
「北国街道」は週刊「街道をゆく」の第31号

2006年04月15日

司馬遼太郎著『街道をゆく』3巻

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 話は本の内容からそれてしまうけれど、今回このシリーズを読み直すにあたり、週刊「街道をゆく」を同時に読むことにしていると書いた。この週刊「街道をゆく」は写真がたっぷり掲載されており、その写真を見ながら、司馬さんが訪れた地方を感じることができるのはうれしい。又、インターネットで日本の地形図を見ることもできるので、それを参考にしながら、読んでいると、「なるほど」と地形的なことも実際納得できるので、今まで以上に深く読める。
 日本の国土は狭いけど、こうして個々の地域をミクロ的に見てみると、地形が様々で、その地形が及ぼすであろう気候や人の気質や歴史などが、ただ単に本を読むだけじゃ分からない部分がある。しかしこうして地形図を見たりすると、理解しやすい。又その町並み、歴史的建物など、写真で見ることが可能になったことで、よりイメージとして頭の中に鮮明に浮かんでくる。
 話が関係ないところにいっているついでに、個人的なことを書く。私はきちんと日本史を勉強したことがない。高校時代にしてもそうである。何故か。答えは簡単で、高校時代に日本史を教えていた教師が嫌いだったからである。ただそれだけで日本史の勉強をボイコットしてきた。だから私の頭の中ではきちんと歴史の流れが未だに把握できない。特に古代から戦国時代までは全くといっていいほど分からない。分からないからこのシリーズでその時代の話が出てくると、頭が痛くなってしまう。せいぜい風景としてしかとらえるしかできない。

 さて、この巻では司馬さん達は、陸奥の八戸近辺の「久慈街道」と今の熊本県から鹿児島県へ入る道「肥薩の道」と、「河内のみち」を旅している。
 「久慈街道」で興味を持ったのは、弥生式農業の普及の記述である。司馬さんの考え方によれば、「日本列島への弥生式水耕法の到来というのは日本史上最大の歴史的事件であった」という。日本列島は中国大陸や朝鮮半島より水田農法の適地であった。しかもコメは他のいかなる食用栽培植物より大勢の人口を養うに足る植物であったため、そのありがたさを頼るようになる。またコメを栽培するには、大規模な灌漑事業を必要とするため、統括する人物を必要とする。それがスメラミコト(天皇)であった。上代政権は農地を増やすことが必然的に王化の範囲を広げていく結果となっていく。
 更にコメのありがたさは、「穀物への神聖思想というふしぎな宗教(神道)いよいよつよめた」。それは上代以来今日まで宮中の最大神聖行事の新嘗祭や、民間信仰として稲荷信仰が盛んなように、今なお弥生式水田農法は神として残っている。
 そしてコメを政治の基盤とした。だから、政治はどこでもコメを作ることを求める。ところが、コメはもともと南方植物であるがために、今の岩手県や秋田県ではもともと栽培に適さない。その結果、冷害が起こると、多数の餓死者がこの地方に度々出てしまう。しかしそれでもコメを作ることを強要する。何故なら、コメを作ることが、日本で大多数がやっていることであり、それを作らなければ、仲間に入れてくれないという脅迫であったからだ。
 こうして日本は稲作を中心に文化意識を作り上げ、階級意識さえ作り上げていく。またみんながやっていることとして日本人の均一化を生んでいく。司馬さんは飢餓の口碑が無数にあるこの地方を旅しながら、その不思議さを思うのであった。

 「肥薩の道」では肥後と薩摩の関係が興味深かった。
 司馬さんは言う。「薩摩の島津氏は戦国末期には全九州を席巻する勢いを示したが、豊臣政権の成立とともにもとの薩摩・大隅・日向の三州に押しこめられた。そのエネルギーはふたたび噴出した場合、熊本城(加藤清正)をもって巨きな石蓋としておさえこんでしまうというのが、秀吉の大戦略であった。徳川氏もそれを踏襲した。ところがはるかに降って明治政府が、そのエネルギーをもろにかぶってしまった。
 明治十年西郷の乱で、薩南一万数千のエネルギーが薩肥国境をこえて噴出し、熊本城にぶちあたり、この清正の城の攻防をめぐって明治政府の存亡が賭されてしまったのである」と。
 あるいは、「肥後はつねに官であった。中央政権はつねに肥後まできた」から、「『肥後の熊本城』というのは薩摩人にとって単なる城ではなく、要するにその伝統意識のなかにあっては中央政権の象徴そのものであった」のだ。だから西郷軍は熊本城にこだわったのである。
 その西郷の死は「西郷は城山で自刃し、そのときをもって薩摩国は戦国以来の独立勢力としてのおそるべき歴史をうしなうにいたるのだが、失ったのはあるいはそれだけではないかもしれない。当時、日本中に充満していた反政府気分や野党的勢力(国粋主義や自由民権主義)はことごとく西郷とその麾下一万数千の薩摩人の決起と成功に熱狂的な期待をよせた。それが、西郷とその麾下の意外な敗北によって一挙に拠りどころをうしない、その敗北は日本国に史上類がないほど強力な官権政府を成立させるもとになった。あるいは西郷の敗北は単に田原坂にとどまらず、こんにちにいたるまで日本の政治に健康で強力な批判勢力を成立せしめない原因をなしているのではないかとさえおもえるのだが、あるいはそうではなく、律令時代も、さらに徳川体制下においてさえ無言の批判勢力でありつづけた薩摩という独立圏が、明治政府という中央集権権力の出現によってついに消滅せざるをえなくなった」と言い切るのである。

 私はこの文章はものすごく印象的で、いつまでも心に残っている。もしかしたらあの長編歴史小説『翔ぶが如く』の結論を端的に言い表しているのではないかとさえ思えてしまうのである。
 
  
 この『街道をゆく』3巻に収録されている街道は、週刊「街道をゆく」の以下に収録されている。

「久慈街道」は週刊「街道をゆく」の第24号
「肥薩の道」は週刊「街道をゆく」の第13号
「河内のみち」は週刊「街道をゆく」の第45号

2006年04月09日

司馬遼太郎著『街道をゆく』2巻

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 この巻は司馬さんが1971年に韓国南部を旅した時の記録である。元々は1巻からの続きで、韓国に日本人の祖先を訪ねて行ったのである。
 司馬さんは、日本とか朝鮮とかいった国名もなにもないほど古い頃、朝鮮地域の人間も日本地域の人間もたがいに一つだった頃、ことばも方言のちがい程度のちがいはあるにしても、大声で喋りあうと通じたいたはずだと言い、そういう大昔の気分を韓国の農村などに行って味わいたと思い、この旅をする。

 「大昔、倭人とよばれた人種が韓民族ともに南鮮の原住民であり、しかも倭人の居住地は南鮮だけでなく、その後日本とよばれるようになった地域、とくに対馬、壱岐、松浦諸島、北九州一帯に多数住んでいた。この連中が、日本列島を東へ東へと弥生式農耕方法による地域をひろげて行って、こんにちの日本国の原型をつくった」
 多分日本という国は、大昔、朝鮮半島の人々とのつながりはこの様に密接な関係であったはずだ。
 更に6世紀中頃になると、百済との関係が密接となり、日本に百済の人々が多数入ってきて、仏教もここから日本に入ってくる。しかし白村江の戦いにおいて日本と百済の軍は新羅に破れ、百済の人々は多数日本に亡命してくるようになる。(このあたりのことは1巻でふれた)
 この様に、古代において、日本と朝鮮半島と切っても切れない関係であった。それが現代において、ある意味お互い憎悪感で相手を見るようになってしまっている。
 私は個人的に古代に朝鮮半島と日本が密接な関係にあったことにも興味を覚えるけど、それ以上に当時の韓国の人々日本をどう見ているか、そしてそれが何故そうなるのか。その司馬さんの考察の方が興味深かった。
 司馬さんが韓国を訪れて、もう35年の月日が流れていても、韓国の人々が日本を見る目はさほど変わっていないか、むしろもっとひどい状態になっているかもしれないとさえ感じるからである。そうしているのはたぶん日本の首相の靖国参拝が最大の原因だろう。
 私は政治的見解をこのブログで極力排するようにしている。というのも、政治的な見解は様々なであり、極端な話その個人の生き様にさえなってしまうほど頑固なものであり、相手の意見を聞かないで自己主張をし続ける傾向があるからだ。そうなれば収拾がつかなくなる。
 ただ、日本の首相の靖国参拝に関しては、はっきり言って反対である。たとえ首相が個人的に靖国参拝をしているという詭弁を弄して参拝をしてもおかしな話であると思っている。
 一方で、韓国や中国があれほど日本の首相の靖国参拝を非難し、政治的問題にして、いわば内政干渉みたいな言い方にも不快感を感じていることも事実である。
 つまり韓国や中国政府が日本の首相の靖国参拝を非難すればするほど、日本国民は韓国や中国に不快感を感じているのではないだろうか。それはお前のところの首相の行動が元々の火種なのだから、当然として国民である私たちが非難を受けるべきだといわれそうであるけれど、そういう不毛の論理は何も解決にはならない。
 多分私たちが朝鮮半島の人々と同じ歴史的環境におかれたら、きっと同様な気持ちを持つだろう。それほど朝鮮半島は不幸な歴史を持っている。その加害者的立場に日本がいる。
 現代日本の歴史教育はそれをきちんと教えているはずだと思いたい。今の韓国や中国の非難は、我々国民に、ただでさえ大日本帝国の行為を我々自身が苦々しく思っているところに、更に鞭打つ行為であり、これ以上言い続ければ不快感しか残らないし、事実そうなってしまっている気がする。だから不毛の論理じゃないかと思うのだ。

 話がかなりずれてしまったが、私は司馬さんの次の考え方に賛成である。

 「『それは暴虐なる日帝三十余年の支配によるものです』と、韓国の知識人は例によって千枚通しの錐のようにするどい怨恨的発想の政治論理でもって規定しきってしまうかもしれないが、日帝がいかに暴虐であろうとも-げんにそうだが-しかし長い朝鮮史のなかでその期間はたかが三十余年であるにすぎない。李朝五百年が、朝鮮の生産力と朝鮮人の心を停滞せしめた影響力のほうがはるかに深刻なようにおもうのだが、しかし私の知りうるかぎりの朝鮮人で、このことをいったひとにただ一人しか私はめぐりあっていない。『自分をこうしたのはあいつだ、すべての不幸とすべての悪はあいつがもたらした』という式の、自分自身の抜け落ちた議論は白刃のようにするどく、さらに百パーセント正しくもあるが、しかしするどさや正しさがかならずしも物を生みだすものではないのである」

 なぜ韓国の人々がこうも精神的に昂揚するのだろうか?それを司馬さんは次のように説明する。

 「李朝五百年の凄さは、その民族を、他民族(漢民族)の原理(儒教的中国体制)を導入することによって飼いならしてしまったところにある。朝鮮人のもつ観念先行癖-事実認識の冷静さよりも観念で昂揚すること-やそれがためにの空論好きという傾向は、民族の固有の性格などというようなものではなく、李朝五百年の歴史がこの民族に対してほどこした大無理というものを考えなければ理解しがたいように思える」と。

 日本も確かに中国から儒教的中国体制を導入した。当然李朝のようになってもおかしくないのだが、しかしそのようにはならなかった。それは「『武士の勃興』という呼び方で日本史上最大の土着集団の出現が、このばかばかしい律令体制をずたずたにしてしまい、鎌倉幕府という、土着の利益を代表する体制ができて日本史はアジア的なものから解放された。さらにくだって徳川期になると、西ヨーロッパの封建制よりある意味ではもっと精巧な封建制度が確立され、アジア的世界とは別個な社会をつくりあげてしまった」からである。
 こう見てみると、儒教体制がその民族の性格を一変させ、感情的で観念的な民族を作り上げ、一方、そこから脱却した民族は、近代になって慌ててヨーロッパの思想を形だけ植え付けたがために、相手の感情を無視してまでも、個人主義や自由を声高に叫ぶようになっているのだから、話し合いにならないのも当然かもしれない。


 この『街道をゆく』2巻に収録されている街道は、週刊「街道をゆく」の第6号に収録されている。

2006年04月07日

ダン・ブラウン著『パズル・パレス』下巻

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 ダン・ブラウンの作品を読んでいると、ほんと時間が経つのを忘れる。話を細かく区切って、いいところで話は終え、この後どうなるんだと思わせつつ、違う場面で話を進める。もちろんここでも、いいところで切り替えられてしまう。こうして、又元に戻って期待を持たせつつ話を進めていく。こんな感じで最後までワクワクしながらページをめくってしまう。
 このパターンはダン・ブラウンの作品全編、基本的に変わらないが、うまいやり方だと思う。

 NSA(国家安全保障局)は全世界のEメールを国家の安全のためという理由で傍受してきた。ところがEメールがNSAに傍受されていると世間に広まり、Eメールを傍受されても読むことができない方法が考えられた。それが公開暗号技術で、このソフトを使って暗号化されたEメールは単に意味のなさないテキストの羅列になってしまう。そしてこれを通常の文章に戻すにはパス・キー(鍵)があれば簡単に戻すことができるが、NSAにあるコンピュータではパス・キーを特定し、暗号化された文章を解読するのに膨大な時間を要するようになってしまった。
 危機感を感じたNSAはスパーコンピュータ「トランスレータ」を開発し、暗号化されたEメールを解読し始める。もちろん世間には「トランスレータ」の存在を隠したが、このEメールの傍受はNSAの内部でも批判が起こり、元NSA暗号解読員であったエイセイ・タカンド(日本人の設定になっているけど、名前に無理がある。そして彼の父親も)は「デジタル・フォートレス」という「トランスレータ」を使っても解読不能のソフトを開発した。
 「デジタル・フォートレス」では解読される文章が絶えず変化するので、たとえパス・キーを特定してもコンピュータは該当する文章が認識できないのだ。しかもネット上で、「デジタル・フォートレス」で暗号化された「デジタル・フォートレス」が公開されいる。もしこの「デジタル・フォートレス」が世界に普及すれば、NSAの「トランスレータ」は無力化する。
 NSAの副長官トレヴァー・ストラスモアは「トランスレータ」のファイアーウォールを解除してまで、「デジタル・フォートレス」を解析させる。

 何故トレヴァー・ストラスモアそうまでして「デジタル・フォートレス」にこだわるのか?「デジタル・フォートレス」の生みの親である元NSA暗号解読員であったエイセイ・タカンドの目的は?、そして「デジタル・フォートレス」の真の正体は?「デジタル・フォートレス」のパス・キーは何か?

 と最後のぎりぎりまでハラハラさせてくれる。これ以上書いちゃうとネタばらしなっちゃうからここでやめます。やっぱりダン・ブラウンは面白い。
 
評価
★★★★

2006年04月05日

ダン・ブラウン著『パズル・パレス』上巻

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 ダン・ブラウンの新刊を読む。新刊といってもこれはどうやら、ダン・ブラウンのデビュー作であることを知る。
 読んでいて、なるほどダン・ブラウンはここからスタートしたんだなと分かった。まだ上巻しか読んでいないので、詳しいことは下巻を読んでから書くことにするけど、ひとつだけ書きたい。
 確か『天使と悪魔』での解説か、あるいは書評か何かで、この作品をトム・クランシーとウンベルト・エーコーを足して2で割った作品と評していたのがあったと思うが、この『パズル・パレス』を読んでいると、元々ダン・ブラウンがトム・クランシー的な作家であったんじゃないかと思えた。ただ、トム・クランシーが軍事テクノロジーや諜報機関に熟知して作品を書き上げ、あの『レットオクトバー』や『今そこにある危機』などを書いたけど、結局そこまでだったから、読者にあきられてしまったような気がする。
 私も最初はすごい!と感心して読んだけど、そればっかに終始してしまった結果、いい加減食傷気味になってしまった。そのため彼のその後の作品は「みんな同じ」という風に映ってしまった。
 多分ダン・ブラウンにしても、この路線でいったら、ここまでであったのではないかと思う。マニアックな軍事テクノロジーや諜報機関は読者を限定してしまうところがあるから、多くの読者を獲得するには別の要素を必要とする。ダン・ブラウンの場合、ラングトンシリーズを書くことで、多くの読者を獲得したのではないかと思う。
 彼はラングトンシリーズに方向を見いだし、トム・クランシー的な要素にエーコー的な歴史の闇を加えて、『天使と悪魔』や『ダ・ヴェインチ・コード』を書いたので、風化を免れたところがあるように思える。
 以上、ダン・ブラウンの作品が読まれる理由を自分なりに考えてみた。

評価
★★★★