2006年04月15日
司馬遼太郎著『街道をゆく』3巻
話は本の内容からそれてしまうけれど、今回このシリーズを読み直すにあたり、週刊「街道をゆく」を同時に読むことにしていると書いた。この週刊「街道をゆく」は写真がたっぷり掲載されており、その写真を見ながら、司馬さんが訪れた地方を感じることができるのはうれしい。又、インターネットで日本の地形図を見ることもできるので、それを参考にしながら、読んでいると、「なるほど」と地形的なことも実際納得できるので、今まで以上に深く読める。
日本の国土は狭いけど、こうして個々の地域をミクロ的に見てみると、地形が様々で、その地形が及ぼすであろう気候や人の気質や歴史などが、ただ単に本を読むだけじゃ分からない部分がある。しかしこうして地形図を見たりすると、理解しやすい。又その町並み、歴史的建物など、写真で見ることが可能になったことで、よりイメージとして頭の中に鮮明に浮かんでくる。
話が関係ないところにいっているついでに、個人的なことを書く。私はきちんと日本史を勉強したことがない。高校時代にしてもそうである。何故か。答えは簡単で、高校時代に日本史を教えていた教師が嫌いだったからである。ただそれだけで日本史の勉強をボイコットしてきた。だから私の頭の中ではきちんと歴史の流れが未だに把握できない。特に古代から戦国時代までは全くといっていいほど分からない。分からないからこのシリーズでその時代の話が出てくると、頭が痛くなってしまう。せいぜい風景としてしかとらえるしかできない。
さて、この巻では司馬さん達は、陸奥の八戸近辺の「久慈街道」と今の熊本県から鹿児島県へ入る道「肥薩の道」と、「河内のみち」を旅している。
「久慈街道」で興味を持ったのは、弥生式農業の普及の記述である。司馬さんの考え方によれば、「日本列島への弥生式水耕法の到来というのは日本史上最大の歴史的事件であった」という。日本列島は中国大陸や朝鮮半島より水田農法の適地であった。しかもコメは他のいかなる食用栽培植物より大勢の人口を養うに足る植物であったため、そのありがたさを頼るようになる。またコメを栽培するには、大規模な灌漑事業を必要とするため、統括する人物を必要とする。それがスメラミコト(天皇)であった。上代政権は農地を増やすことが必然的に王化の範囲を広げていく結果となっていく。
更にコメのありがたさは、「穀物への神聖思想というふしぎな宗教(神道)いよいよつよめた」。それは上代以来今日まで宮中の最大神聖行事の新嘗祭や、民間信仰として稲荷信仰が盛んなように、今なお弥生式水田農法は神として残っている。
そしてコメを政治の基盤とした。だから、政治はどこでもコメを作ることを求める。ところが、コメはもともと南方植物であるがために、今の岩手県や秋田県ではもともと栽培に適さない。その結果、冷害が起こると、多数の餓死者がこの地方に度々出てしまう。しかしそれでもコメを作ることを強要する。何故なら、コメを作ることが、日本で大多数がやっていることであり、それを作らなければ、仲間に入れてくれないという脅迫であったからだ。
こうして日本は稲作を中心に文化意識を作り上げ、階級意識さえ作り上げていく。またみんながやっていることとして日本人の均一化を生んでいく。司馬さんは飢餓の口碑が無数にあるこの地方を旅しながら、その不思議さを思うのであった。
「肥薩の道」では肥後と薩摩の関係が興味深かった。
司馬さんは言う。「薩摩の島津氏は戦国末期には全九州を席巻する勢いを示したが、豊臣政権の成立とともにもとの薩摩・大隅・日向の三州に押しこめられた。そのエネルギーはふたたび噴出した場合、熊本城(加藤清正)をもって巨きな石蓋としておさえこんでしまうというのが、秀吉の大戦略であった。徳川氏もそれを踏襲した。ところがはるかに降って明治政府が、そのエネルギーをもろにかぶってしまった。
明治十年西郷の乱で、薩南一万数千のエネルギーが薩肥国境をこえて噴出し、熊本城にぶちあたり、この清正の城の攻防をめぐって明治政府の存亡が賭されてしまったのである」と。
あるいは、「肥後はつねに官であった。中央政権はつねに肥後まできた」から、「『肥後の熊本城』というのは薩摩人にとって単なる城ではなく、要するにその伝統意識のなかにあっては中央政権の象徴そのものであった」のだ。だから西郷軍は熊本城にこだわったのである。
その西郷の死は「西郷は城山で自刃し、そのときをもって薩摩国は戦国以来の独立勢力としてのおそるべき歴史をうしなうにいたるのだが、失ったのはあるいはそれだけではないかもしれない。当時、日本中に充満していた反政府気分や野党的勢力(国粋主義や自由民権主義)はことごとく西郷とその麾下一万数千の薩摩人の決起と成功に熱狂的な期待をよせた。それが、西郷とその麾下の意外な敗北によって一挙に拠りどころをうしない、その敗北は日本国に史上類がないほど強力な官権政府を成立させるもとになった。あるいは西郷の敗北は単に田原坂にとどまらず、こんにちにいたるまで日本の政治に健康で強力な批判勢力を成立せしめない原因をなしているのではないかとさえおもえるのだが、あるいはそうではなく、律令時代も、さらに徳川体制下においてさえ無言の批判勢力でありつづけた薩摩という独立圏が、明治政府という中央集権権力の出現によってついに消滅せざるをえなくなった」と言い切るのである。
私はこの文章はものすごく印象的で、いつまでも心に残っている。もしかしたらあの長編歴史小説『翔ぶが如く』の結論を端的に言い表しているのではないかとさえ思えてしまうのである。
この『街道をゆく』3巻に収録されている街道は、週刊「街道をゆく」の以下に収録されている。
「久慈街道」は週刊「街道をゆく」の第24号
「肥薩の道」は週刊「街道をゆく」の第13号
「河内のみち」は週刊「街道をゆく」の第45号
- by kmoto
- at 15:24
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