2006年04月24日

樽見博著『古本通』

2006_04_24_01.jpg


 よく考えてみると、古本屋さんの利用方法というのはいくつかありそうである。最近の私の古本屋さんの使い方は、安い本を買うことにある。本屋を辞めて、社員価格で本が買えなくなったことと、自由に本が手に入らなくなったことで、主にネットで、高価な本は、できるだけ安い本を探し、購入することにしている。
 ちなみにこの本は三和図書で大山君(大山さんの息子さん)の好意で社員価格で売ってもらっている。
 でもこういう形での古本屋さんの使い方は、ある意味邪道かもしれない。本当は「蒐書」のために古本屋さんを使うべきだろうと思う。私も以前は自分が欲しいと思っていた本で、本屋さんで入手できない本を古本屋さんで探し、購入してきた。実際私はこの本(平凡社新書)の著者が編集者を勤めていた「日本古書通信」を一時購読していたことがあった。そこに掲載されている古本の目録が目当てで購読していた。
 当時ここに目録を掲載している古本屋さんに、欲しい本があったときは、はがきを出して購入希望を伝える。しかし、当時は(今はよく知らない)購入希望者が多かったのだろう。抽選となり、だいたいがもれてしまう。記憶では一度だけここに目録を掲載していた古本屋さんから本を買ったはずだ。
 ところが最近ネットでの古本屋さんが多くなり、簡単に自分の欲しい本がわざわざ古本屋さんに行かなくても、簡単に閲覧できるし、そのまま欲しい本があれば、ワンクリックで自宅まで宅配便で届くようになった。そうなると、欲しい本を探すだけでなく、欲しい本がどれだけ安く買えるか比較することができ、予算の関係から、当然安い本を買うことになる。そうしているうちに、新刊ではないけど、町の本屋さんでも注文すれば手に入る本でも、このサイトに掲載されていれば、多少安く買えることが分かり始める。こうして高額な本を古本屋さんのサイトで買うことを覚えたのである。つまり古本屋さんの使い方が変わってしまったのだ。
 著者はこの本で「古本屋の本来の仕事は、本を安く売ることではなく、その本の価値を評価して高く売ること」であると言っているが、最近は古本の値段が崩れてしまっているのだという。それは従来の店頭販売、目録販売、即売会という古本販売方法に、ネット販売が加わったことによるという。
 確かにネット販売は確かに若い読者層を開拓するけれども、ネット上では、同一の古本が簡単に一覧できてしまうので、そのことが安売り競争の様相を帯びてしまう。つまり私みたいな人間が多くなることで、古本の値崩れが生じ始めている訳だ。このことは蔵書が高く売れない状況を作り出し、古本が市場に出なくなってしまう悪循環を生むことにもなる。
 ブックオフが著者の著作権料を蝕み、著者に正統な著作権料が入らなくなることで、作家の生活権を脅かし、いい作品が生まれなくなるのと同じである。
 自分が今やっていることが、目先だけのことにとらわれて、結果としていい結果を生まないことは分かっている。当然自分が今やっていることは正当化できないし、弁解もできないだろう。

 この本で紹介される古本屋さんはブックオフに代表される新古本を取り扱う古本屋さんではない。いってみれば、昔からある古本屋さんである。それこそ正統派の古本屋さん(こんな言葉があるのか知らないけど、便宜上使っている)のことである。
 ここで、この業界がどのような仕組みになっていて、仕入がどのように行われ、その値段がどのように設定されるか説明してくれる。しかし売値を付けるにあたり正当な評価をしなければならないから、価格決定にはそれなりの知識と経験を必要とする。その手助けをしてくれるものとして、個人書誌(作家の作品で、本にされたもの、又は何かの雑誌に掲載された文章などを詳しく説明したもの)が役に立つらしい。
 実は私も1冊この個人書誌というやつを持っている。開高健さんの書誌である『開高健書誌』である。この本の中にも『開高健書誌』のことが書かれている。確かにこの書誌は役に立つ。インターネットや古本屋さんから送ってきてくれる目録を見るとき、この書誌を参考にすることがある。


2006_04_24_02.jpg


 しかしこの書誌、問題があることは以前のブログで書いたことがあって、そのことがここでふれられているので、やっぱりそうだろうと思った次第だ。
 それは何かというと、「開高健の著書目録では通常の書誌的事項の他、作品集や随筆集は各文章の初出まで記載し、印刷者製本者、各章の頁数まで記録したもので、雑誌掲載作品もその号数はもちろん、頁数をすべて記している。現物確認はそこまで徹底しているが何故か再版についての言及や書影はない」そこまで徹底して開高さんの書誌を作り上げているのに、片手落ちの部分が惜しいし、この後出版された開高さんの本に対しての、追補的なものが欲しいものだと思っている。

 さて最後に、蔵書のことについて書きたい。私の本が増え始めたのはいつのことからだろうかとふと思った。間違いなく、私が本屋さんで働くようになってから、私の本は増え始めた。それまで読みたい本があっても、親からもらっていた小遣いをほとんどつぎ込んでも、足らなかった。
 一息できるようになったのは、高校三年の時アルバイトしてからである。そして大学時代本屋さんでアルバイトするようになって、毎日欲しい本を目にするようになって、手当たり次第買っていった。
 一方、お客さんが一昔前の本を注文して、よく「品切・重版未定」、あるいは「絶版」という版元の答えのついた注文書を見て、自分も欲しい本があったら今のうちに買っておかないと「品切・重版未定」、あるいは「絶版」になって手にできなくなってしまうという危機感を感じていた。幸いバイト代を本代につぎ込めるので、いい気になって本を買っていた。
 当然読むペースより購入するペースの方が多いから、本は増えていく。それは「いつかじっくり読みたい本」として棚を占領していった。
 私の本棚にある蔵書はこうして、「いつかじっくり読みたい本」と、「読んでよかった本」そして「読んで損した本」が棚に占めている訳である。
 最近は本棚のキャパシティーに限界を感じ始めたので、「読んで損した本」は迷うことなくブックオフに売り飛ばすことにしているが、処分したい本がまだ結構ある。もちろん今まで2度ほど古本屋さんに本を売って処分しているが、それもだいぶ以前の話で、今の私の本棚は「いつかじっくり読みたい本」、「読んでよかった本」そして「読んで損した本」が雑然と並んでいる。
 ところがこの本を読んで、蔵書の精度を上げることを知った。「生きた蔵書であるためには、不要な本は極力処分し、自分の適量を維持しながら、毎日欠かさず書棚を点検するよう努めることが大切だ」という。そのためには「蔵書は売ったり買ったりして徐々に質を高めていくことが大切である」という。「蔵書を売ることに抵抗を感じる人は多いし、頑なに手に入れた本は手放さない人がいる。ブックオフの登場で、本を処分することの抵抗感は大分薄れてきたが、慣れないうちは、購入した金額と処分した時の価格の余りの差ということもあって、実際にはなかなか踏み切れないものである。しかし、不要な本、将来的にもおそらく読まない本は、はっきり言えば紙くずに過ぎない。不要な本百冊処分して、その代価で今必要な本一冊を買うほうが、明らかに有効で、かつ楽しい。一度欲しくて買った本は、買ったことで一度満足し、読むことで二度満足しているのである。それをたとえ買った時より安く売ることになっても損ではない。この感覚が古本と上手に付き合う最も大切なポイントである」という。うちのかみさんに読んで聞かせたい文章である。
 こうして「蒐書散書」を繰り返すことが、自分の蔵書の精度を増し、蔵書として「筋」が通っていることになり、その蔵書の持ち主が死んだとき、処分しやすいという。著者はいう。「処分しやすい蔵書は、持ち主本人にも、遺族にとっても良い結果を招く」と。
 こうなると、私の蔵書は処分に困るものになりそうだ。早いこと何とかしないといけないのかもしれない。

評価
★★

trackbacks

trackbackURL:

comments

comment form

(どんなことがあっても、本が好き にはじめてコメントされる場合、不適切なコメントを防止するため、掲載前に管理者が内容を確認しています。適切なコメントと判断した場合コメントは直ちに表示されますので、再度コメントを投稿する必要はありません。)

comment form