2006年05月31日

沢野ひとし著『さわの文具店』

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 ブログのバージョンアップに神経を使っているので、どうも堅苦しい本を読む気分ではない。で、気分転換として沢野ひとしさんの『さわの文具店』(小学館刊)を読む。
 沢野さんの本を読むのは椎名誠さんの本を読まなくなってからだから、本当に久しぶりだ。私は椎名さんの本がつまらなくなってしまったのだ。情報センター出版局から本を出していた頃の椎名さんの本は面白かったが、いつの頃か、教師面が鼻についてしまい、「もう、いい!」と一切椎名さんの本を読まなくなった。そのことと沢野さんとは何ら関係ないのでけど、「本の雑誌」関係者の本を読まなくなってしまったのだ。
 しかし沢野さんの書く本は椎名さんのものと違い、どこかナイーブなところがあって好きではあった。
 沢野さんは本の雑誌のワニ眼イラストレーターとして活躍されているが、その職業柄文房具にこだわりをもっているようだ。

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 実は私も文房具に目がなく、正直大好きなのである。玩物喪志(がんぶつそうし)という言葉があるが、変わった文房具などあるとついついもてあそんでしまうのである。必要もないのにいつのまにか机のまわりには何本ものボールペンなど筆記用具が増えていく。いくら何でもそんなに使わないでしょう!とかみさんにしかられるほど、机のまわりには筆記用具が散らばっている。銀行に勤めている娘は仕事上勉強するとき、赤のボールペンある?定規ある?付箋ある?とかみさんに聞いているが、いつもその時かみさんは「かっちゃん(私のこと)文房具店にあるんじゃないの?」とイヤミを言われる。特にこちらの事務所に仕事場を移してから、調剤薬局でメーカーからもらえる筆記用具が増えてしまった。(もっとも私が欲しいから頂いたのだが・・・)
 私はかみさんにイヤミを言われながらも、娘が求める文具を机の引出から出すのだが、こやつ出された筆記用具見て、「やだ~!メバロチンってわけの分からない薬の名前が入ってるじゃない!こんなの会社で使えない!」と文句を言う。私は「バカやろう!これ買ったら結構な値段するだぞ」と反論するが、やはりみてくれが大事なのだろう。

 さて(何が「さて」なのか分からないが)、今みたいにパソコンが普及してしまうと、なかなか文房具の登場場面がない。筆記用具にしても、私みたいに下書きの必要な人ならともかく、だいたいはパソコンのワープロでこと済んでしまう。辞典でさえ引かない。スクラップブックなど以前よく使っていたが、それさえもインターネットから情報を得て、そのまま「OneNote」に取り込んでしまう。 アルバムにしたって、デジカメを使うようになって、画像データをそのままパソコン内に保存してしまう。アナログ人間とか、沢野さんみたいなイラストレーターなら文房具は必需品だ。でも自分の手に馴染んだ筆記用具などなかなか捨てがたいものがあるんじゃないかと思う。
 私は事務所ではメーカーさんからもらった「Dr.グリップ」を使っているが、これなど替え芯を箱で買ってあって、インクを使い切っては、何度も芯を替えて使っている。お陰で握るところが変色してしまっているし、薬の名前が最初は入っていたのだけど、それさえも消えてしまっている。(娘よ、このように使い込めば、薬の名前は消えちゃうぞ)それくらい手に馴染んでいるので、新しい「Dr.グリップ」替えられないでいる。つまり文房具って、使い込めば使い込むほどいい感じになっていくものではないかと思う。
 とはいっても、沢野さんも言っているが、たとえばボールペンや消しゴムを最後まで使い切るなんてなかなかない。まして私みたいに使いあぐねているほどボールペンをもっているとなおさらだ。これほどあるとボールペンやサインペンなどいつのまにか書けなくなってしまう。

 なんだか話が、沢野さん本から離れたしまったけど、沢野さんの仕事場のようにたくさんの文房具があるのはうらやましい。また海外へ行って文房具屋や画材屋を訪ね、ショーウインドウに飾られている文具や画材を食い入るようにそのデザイン、スタイルを眺める姿は、何となく分かるような気がする。デザインのかっこよさや機能性などが目に入ったら、やっぱり欲しくなってしまう。
 このような沢野さんの文房具へ愛着は、沢野さんが洋裁店の息子であったから生まれたものだろうか?洋裁店にはたくさんの文具や画材があるはずだから、子供の頃からそれらを見てきただろうし、その機能性に感心していたに違いない。私も文房具の機能性、デザイン、目新しさに心奪われるタイプなのである。


評価
★★★

2006年05月30日

司馬遼太郎著『街道をゆく』7巻

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 今回は「甲賀と伊賀のみち」、「大和壺坂みち」、「明石海峡と淡路みち」、「砂鉄のみち」(鳥取県から島根県、そして岡山県)へと旅されている。時期は1975年から1978年で、まだバブルの時代じゃないが、その兆候が司馬さんが訪れる地域にもあちらこちらに顔をのぞかせているのがうかがえる記述がある。

 「日本では本来、自然であるべき大地が、坪あたりの刻み方で投機の対象に化(な)ってしまっているというのは、元来、生産を中心とするはずの資本主義でさえないのである。現行の経済社会そのものを自滅させつつあるバケモノのような奇妙な経済意識が日本人の心と自然を荒廃させたあげく、その異常な基盤のなかから、総理大臣の座まで成立させてしまった。日本は、日本人そのものが身の置きどころがないほどに大地を病ませてしまっているのである」

 そんな中、「大和壺坂みち」で、鬱蒼とした山の上に高取城の城跡を訪ねる場面がある。高取城はこんな山奥に身代が小さな藩主が構える城ではなかった。まして山奥にあるだけその管理が大変であっただろうという。
 この城のことを考えるにあたり、司馬さんは函館の五稜郭のことに思い至る。この五稜郭ほど愚劣な城はないという。というのも、この城のある場所が、当時の貧弱な艦砲ですら射程圏内入ってしまう場所の築城されていたからだ。
 そして戊辰の時、榎本武揚がこの五稜郭に立てこもって北海道を占領し官軍に対抗しようとしたが、この一時をもって榎本が大した武人じゃないと言い切る。 挙げ句の果て、こんな愚劣な城に立てこもり抵抗しようとした榎本をかっこうだけであって、やがて降伏しようという魂胆だったに違いないと手厳しい。
 司馬さんの人物像は、いつもこんな感じで、いくら歴史上有名な人物であっても、先の展望ない行動をする人物や、卑怯な態度をした人物、あるいは小賢しい行動をする人物評は手厳しい。

 さて、「砂鉄のみち」について書きたい。この文章を書くにあたり、週刊「街道をゆく」の松本健一さんの解説文章がものすごく分かりやすく、かなり参考にさせてもらっている。
 そこに日本文化を日本文化としてたらしめるものとして司馬さんはコメと鉄(砂鉄)があると考えていると言っている。確かにそのようである。そして今回は砂鉄である。司馬さんは「砂鉄を通じて東アジアの本体のようなものの一端でものぞけないか」と言っている。
 鉄に関しては、前巻の「先島紀行」で司馬さんの考察があったが、要は鉄をもつことによってそれ以前とその後の歴史が大きく変わってしまった。それくらい鉄は人類の歴史に大きな意味をもつものであったのである。
 沖縄の旅で司馬さんは、沖縄が本土の室町時代まで石器や木器の時代が続いていたし、その後も鉄器が寡少であったために、農具は生産性の低い木器が主力の歴史が続いたことを知り、そのことが(木器の稼動能力が人間の欲望の限界をなしたこと)沖縄人のおだやかな性格を作り上げたと考えた。つまり「木器ならば、人間の欲望は制限され、無欲でおだやかたらざるをえないのである。木の棒で地面に穴をあけてヤムイモの苗を植えたり、木製のヘラで土を掻いて稲の世話をしているぶんには、自分の少人数の家族が食べてゆけることを考えるのが精一杯で、他人の地面まで奪ったり、荒蕪の地を拓(ひら)こうなどという気はおこらないし、要するに木器にはそういう願望を叶える力はない。鉄器の豊富さが、欲望と好奇心という、現象的にはいかにもたけだけしい心を育てたのではないか」というのである。
 ヨーロッパでは鉱石から鉄を取り出すが、東アジアでは砂鉄から鉄を取り出す。製鉄はまぎれもなく朝鮮半島から伝わったというのが定説のようだが、なぜ朝鮮半島から伝わったかといえば、それは鉄を取り出すために燃やす樹木が不足したためであった。なにせ、鋼1トンを得るために砂鉄12トン、木炭14トンが必要とされた。ものすごい森林の消費量なのである。
 しかし朝鮮半島では樹木を使い果たした後、その気候上森が再生しない。ところが日本の自然は、大量の木を伐採しても回復力が早く、森はすぐ再生した。しかも出雲地方は良質の砂鉄を産出した。そのことを渡来人は知っていたと思われる。たとえば八岐大蛇退治でしられる素戔嗚尊(スサノヲノミコト)の行動からもそれを読み取れる。素戔嗚尊は朝鮮半島の新羅に住んでいたが、やがて彼は直接出雲の鳥上之峰(とりがみのたけ)にやってきた。この無名にも近い鳥上山を目ざして直接やってきたということは、この地方が南朝鮮まで良質の砂鉄が産出すると知られていたからではないかと推察するのである。そのためここで製鉄をしていた古代の人々は主に朝鮮からの渡来人であろうと思われているらしい。
 稲にしても、製鉄の技術にしても、中国や朝鮮からの渡来人の姿なしに考えられないのである。
 古代の製鉄作業はフィールドミュージアムしまねの旅の「炎の神話・たたら」

に詳しい。

 ところでこの地方の安来では、現在も製鉄作業は続けられているらしく、ここで産出された鋼はヤスキハガネとよばれ珍重され、特に鋼材としての硬さとねばりを必要とされる切削用工具や電磁気材料または刃物鋼として使われ、源鋼の半分はアメリカのジレットに買われていき、カミソリの刃になっているという。


 この『街道をゆく』7巻に収録されている街道は、週刊「街道をゆく」の以下に収録されている。

「甲賀と伊賀のみち」は週刊「街道をゆく」の第23号
「大和壺坂みち」は週刊「街道をゆく」の第24号
「明石海峡と淡路みち」は週刊「街道をゆく」の第41号
「砂鉄のみち」は週刊「街道をゆく」の第38号

2006年05月27日

Movable Type 3.2にバージョンアップ

 ここのところ、いたずらの書き込みや、トラックバックに悩まされていると書いた。とりあえず応急処置としてトラックバックの休止をして、やたら打ってくるトラックバックに対処した。
 書き込みは私の許可がないとこのブログには掲載されないので、まず無視することにして、後で削除していた。
 昨日もトラックバックができないからか、いたずらの書き込みが数件あった。それを管理画面から一気に削除する。まるでゴキチャンがたくさん入ったゴキブリホイホイをごみ箱に捨てるような爽快な気分にはなるのだが、いつまでも同じ事ばかりしてられない。もともと非建設的な作業なので、できればこんな無駄なことはしたくはない。
 ということで、Movable Type が3.2にバージョンアップをすることにした。昨日からあれこれやって、やっとバージョンアップに成功する。やっぱり私には難しかった。それでもなんとか形まではできあがったので、後はかっこいいスタイルを決めて、いい感じのものにしたいと思っている。
 このブログに訪れている方には「あれっ?」と思われるかもしれませんが、ただ今鋭意工夫中ということでご勘弁下さい。

2006年05月17日

司馬遼太郎著『街道をゆく』6巻

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 1972年に沖縄は日本に復帰し、その2年後司馬さんは沖縄本島、先島を訪れた。その紀行文が今回の『街道をゆく』6巻に収められている。
 先島とは、沖縄本島のはるか南西に位置する宮古諸島、八重山諸島のことで、日本本土より台湾の方が近い。
 確か沢木耕太郎さんのノンフィクションのも、ここに住んでいた人が台湾に出稼ぎに行っていたという記述があったように思う。

 さて、ここで司馬さんは石器や木器の時代が15,16世紀まで続いていたことを思い、日本人原風景を見ようとしている。
 「われわれが人間の歴史を考えるとき、歴史教科書的な把握からまぬがれることは、どう用心しても困難である。つまり、歴史は均等に発達するものだという迷信を理性のなかに組みこんで物事を論じてしまうことである。
 教科書的にいえば、人類が鉄器時代入るのは気が遠くなるほどの古代で、紀元前1200年このかただという。しかしそれはごくかぎられた地域の現象に過ぎない。歴史は導体のようにたちまち物事や技術が伝播する場合もあるが、逆にそうではなく、歴史は新技術に対して不導体のように受けつけることのない『地域』というものを抱きこんで存在しているものだという見方もなりたつ」と司馬さんは言う。

 人類が鉄器を発見し、それを使い込むことで、歴史は大きく変わった。鉄はそれを所有することができる民族に歴史の主導権を与えたのである。
 鉄は武器にしても、農具や漁具にしても、それまでの石器や木器、あるいは青銅などと比べて、強度においても耐久力においても抜群の強さがある。このことは武器にしても石器や木器しか持たない先島の原住民を征服するのは簡単だっただろうし、農具にしたって、畑を深く耕すことができるわけだから、当然生産力が上がってくる。すなわち余剰生産物が生まれてくる。こうなってくると農業に従事しない人間を養うことが可能になる。余剰生産物を商品として扱う商業が生まれてくる。更に支配、被支配という関係を明確に作り上げていく。
 それまでの自給自足の経済で成り立っていた社会が大きく変わらざるを得なくなっていく。社会が変われば、それまでの生活、価値観、文化すべてが変化していく。こうして我々日本人は、古来持っていた生活、価値観、文化を失っていく。「新技術に対して不導体」のこの地域は、「たとえば古備前とか古丹波あるいは古九谷という言い方があるように、言語、生活感覚、物腰、骨格などからいって古日本人というべきもの」が残っているはずである。司馬さんが先島を訪れて、こうしたものを失ったを探したのである。
 先島は本土から距離的に離れていたこと、鉄を生産しなかったことで、古日本人を残していった。それを見ることで、果たして我々が何の疑いもなく受け入れている今の文化、生活感覚、あるいは価値観に、ささやかだけど疑問を呈している。その圧倒的な自然の豊かさが、生き物としての人間の姿が本来どういうものであるべきなのか考えさせられる。また人間の傲慢さが逆に人間を苦しめていることがあるのだと知らされる。


 この『街道をゆく』6巻に収録されている街道は、週刊「街道をゆく」の以下に収録されている。

「沖縄・先島への道」は週刊「街道をゆく」の第8号

2006年05月12日

司馬遼太郎著『草原の記』

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 また寄り道である。が、完全な寄り道ではなく、前回の『街道をゆく』の5巻の続きというか、その後の本がこの『草原の記』(新潮社刊)である。
 1973年に司馬さんはモンゴルを訪ねたとき、通訳をしてくれたのが貿易省の役人であったツェベクマさんであった。
 それから19年たって、司馬さんはツェベクマさんの半生をこの本で語ることになった。それはツェベクマさんの半生を語ることは、モンゴルの近現代史を語っていくことになるからだ。それだけツェベクマさんは激動のモンゴルの近現代史を生きたといってよく、時代に翻弄され人生を送られた。
 前回の『街道をゆく』の5巻で、モンゴルが中国、ロシア(ソ連)の二大大国に挟まれていることを地図帳で確認したけど、そこに日本も加わり、様相は複雑を呈していく。
 ツェベクマさんはバイカル湖の近くのブリヤード・モンゴルの村に生まれた。幼時にロシア革命の余波を受け、両親に連れられ満州のホロンバイル草原に逃れたが、満州事変の砲声を遠くで聞きながら満州国の西辺に住むようになった。
 日本の満州支配が崩壊した後、次にやってきたのが中国共産党であった。ここでブルンサインさんと出会い、一人娘のイミナさんをもうける。
 この時点でツェベクマさんは生まれたときはロシア国籍であり、ついで満州国籍となり、更に中国国籍となった。
 しかし中国には文化大革命の嵐が吹き荒れ、夫のブルンサインさんは中国共産党に拉致され、逮捕されてしまう。その最大の原因が、日本で教育を受けて、日本語が達者だったことが災いしてしまう。
 ツェベクマさんはイミナさんを連れて、モンゴルに逃れようとするが、当時のソ連も、中国も相談相手にならなかった。彼女にしてみれば、「モンゴル人がモンゴル人の国に行って、なにがわるいのでしょう」という道理を言ってみても、「あなたは偉大な中国の一員です」と言われてしまう。ツェベクマさんにとってみれば自らの意志で中国国籍を取得したわけではなく、自然と政治的動乱に巻き込まれてそうなっただけのことなので、といってパスポート返還してしまう。以後無国籍となった。
 ツェベクマさんはモンゴル人民共和国の夫の友人の家に泊まっていたが、やがてモンゴル外務省からウランバートル・ホテルのフロントの仕事をしろということで、そのまま20余年つとめた。母と娘は10年間は無国籍でいたが、その国に10年住めば国籍がとれるという国際法のお陰で10年後モンゴルの国籍をとった。
 その間夫のブルンサインの消息はわからなかった。ツェベクマさんは「陰膳」を供えて無事を祈りつづけた。1984年頃にブルンサインさんが生きているという消息を得る。しかしブルンサインさんは監獄生活で身体が不自由となり、再婚し、新しい妻に面倒をみてもらっていた。
 ツェベクマさんはこの二人をモンゴルに招待しようと決める。ただし招待するのは自分ではなく娘のイミナさんにさせるのである。ツェベクマさんはブルンサインさんの奥さんではなくなっても、イミナさんはブルンサインさんの子供だから、あなたが、娘として招待しなさいとイミナさんにいうのである。
 このあたりは本当に時代の流れの酷さを感じてしまう。陰膳を供えて、夫の無事を祈りつづけて、その無事が確認できても、妻として夫をむかいいれることができないのだ。
 しかしモンゴルにきたブルンサインさんはそれどころではなく、獄中生活で身体がぼろぼろになってしまっており、寝床をすぐ用意しなければならない状態であった。夫の後ろから入ってきた女性も信じがたいほどの老婆であったこともあって、運命の残酷さを感じるだけであった。ブルンサインさんは数ヶ月後ブルンサインさんの腕の中で息を引き取った。
 ツェベクマさんは夫が自分のもとで死ぬためにここまできたと気が付いたのである。それはまるでチンギス・ハンやその子孫たちがその昔中国や中央アジアに進出した後、すぐモンゴルに戻ったように、モンゴルの地に「北帰」したのと似ていると司馬さんは締めくくる。

 この本はツェベクマさんの半生をつづった本ではあるが、それは後半のクライマックスにあって、それまではモンゴルの歴史解説書的な要素が強い。もっともツェベクマさんが生きた激動の時代を説明するためには、それくらいページを割かないと説明しきれないというところかもしれない。なかなかいい本であった。


評価
★★★★

2006年05月10日

司馬遼太郎著『街道をゆく』5巻

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 また『街道をゆく』に戻る。この5巻の装丁が気にいているので、表紙、裏表紙を掲載した。こういう装丁の面白さというのは、規格化された文庫本や新書、あるいは新装版にはないので、やっぱりオリジナルでしか味わえない。もちろん文庫や新書の存在価値は十分認めるのだけど、装丁を楽しむなら、やっぱりオリジナルであろうと思うのだ。
 さて、この巻がどうしてこうした大きめの帯を付けているのか、その詳しい。
理由は分からないけれど、ただ、この巻全部が「モンゴル紀行」で、モンゴルといえば司馬さんが子供の頃から夢見られていた土地であったことが、その思い入れ分、装丁にも反映されたのではないかと思われる。「当時の私の夢想は、漢民族から奇態な文字をかぶせられた民族(けもの扁とかむじな扁で表された民族)を、ちょうどいまの子供が宇宙人をおもうような感じでさまざまに想像することだった。文字が奇怪なだけに、宇宙人への想像よりも、私には刺激的だったように思える。たとえば狄(てき)などという文字の金属音的なひびきのよさはどうであろう。狄はばく然と北方の非漢民族をさす言葉だが、文字に『犬のようなやつら』という気分がある。犬のように素早く、犬のように群れをなし、犬のように剽悍で、犬のように中国文明に無知であるというところに、草原を駆ける狄の集団の、たとえば蒼穹を虹のつらぬくようなたかだかとした爽快さが感じられはしまいか」と、司馬さんが子供の頃からのあこがれの土地へ旅した素朴なよろこびを表している。
 こうした子供の頃から夢描いていた土地へ旅するわけだから、全編にその土地に対して「やさしさ」が感じられる。そしてすべて好意的に描写されていく。
 モンゴル人民共和国というのは、平均標高1,580メートルという大高原で、国土の広さはフランス、ドイツ、イタリア、イギリスを合わせたほどあるのに、人口密度は一平方キロに0.7人と世界でもっとも過疎な国のひとつである。(このとき司馬さんがモンゴルに訪れた1973年当時の数字)ということは、それだけ自然が豊かな国土を持っているということになるが、なかなか実感がわかない。
 息子が高校で使っていた地図帳を借りて開いて、モンゴルの地形を見てみる。なるほど、中国と接している部分はゴビ砂漠であって、それより北が高原になっていることが分かる。そしてロシアとつながっている。つまり、中国とロシアにはさまれたところにモンゴルがあるわけだ。
 1973年に司馬さんがモンゴルへ行かれた方法は、新潟からソ連のハバロスクと渡り、それからイルクーツクへと渡り、モンゴルへ入っている。当時は直接日本からモンゴルへ渡る方法がなかった。従って、ハバロスクではロシアのシベリア進出を語り、イルクーツクでは大黒屋光太夫のことを語って、モンゴルに入って、モンゴルを語っていく。

 地形図は分かった。しかしモンゴルの自然の豊かさがどんなものなのかうまくイメージがわかない。週刊「街道をゆく」に載っている写真を見てみると、その草原の広さ、空の青さなどものすごくきれいだ。
 話はちょっとずれてしまうかもしれないが、開高健さんも晩年モンゴルの自然に魅せられ、モンゴルの川でイトウを釣っている。そのビデオを見た。(開高さんは晩年、ジンギス・ハンの墓探しに夢中になっている)そこにモンゴルの自然の豊かさ、何もない平原などが映っていた。私が想像できるのはそのあたりしかないのだが、それを見ていてもうらやましいほどの自然の豊かさを感じることができる。


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 今回司馬さんは南ゴビのツーリストキャンプに参加するのだが、宿泊場所のある包(パオ)の近くに飛行機が降りるのである。(もちろん専用の滑走路なんてない。ただの平原である)夜も食後散歩をするのだが、そこには満天の星が広がり、何もない平原が広がるだけであって、包からもれる明かりがかなり先を歩いても、見えてるらしい。平均標高1,580メートルという高地だから、きっと空気もかなり澄んでいるのだろう。
 移動も車でするのだが、方向転換など、道など気にせず(道があってもないようなものなのだろう)、どこでも勝手に車の方向を変えることができる。何もない大草原って、本当にすごい。

 さて、地図帳で見たとおり、モンゴルはロシアと中国とはさまれている関係で、政治的、歴史的に微妙な関係を強いられてきた。
 たとえばモンゴル人が歴史上何度も中国に侵略を繰り返してきたが、それは中国側の論理でそう説明されていることで、遊牧民族である彼らにとっては、自由に移動できた土地を漢民族が土地を耕し、遊牧のために必要な草が生えないように開墾してしまった。(一度開墾された土地は牧草が生えない)そのため彼らは行き場所をなくしてしまい、生活できなくなり、仕方なしに中国に略奪せざるを得ない事情があったことを知らされる。
 中国ではモンゴル人の王朝元が起こり、その後漢民族の明、そして又征服王朝として清と続くが、その間内蒙古はどんどん開墾され、結局ソ連を頼って、自ら独立した。そのため当時のソ連の衛星国的存在としてモンゴルは存在した。だからソ連には気をつかわねばならない部分があった。たとえばジンギス・ハンがモンゴル人にとって、英雄的存在なのに、ソ連は過去にジンギスカンや彼の後継者達にロシアは徹底した破壊、殺戮、略奪を受けたため、苦い思いがある。だからジンギス・ハンをまつることができずにいた。
 しかしモンゴル人が支配階級としてロシア人を搾取し続けたことをロシア史上「タタールの軛(くびき)」と呼ぶが、「タタールの軛」から解放されてもモスクワ国家やのちのロシア帝国はその支配体質を引き継いだのだから、いい気なもんだ。
 日本もノモンハンでソ連と戦争し、負けている。そういえば村上春樹さんがノモンハンを訪ね、そこに今もソ連の戦車が赤錆て残っている写真が載っていたのを思い出した。
 ものすごくすばらしい自然がある国ではあるけれど、過去にいくつもの苦い経験をしてきた国でもあるようだ。


 この『街道をゆく』5巻に収録されている街道は、週刊「街道をゆく」の以下に収録されている。

「モンゴル紀行」は週刊「街道をゆく」の第20号

2006年05月08日

藤原正彦著『国家の品格』

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 その昔木村尚三郎さんの歴史の解説本か、エッセイか忘れたが、ドイツのシュバルツバルトの黒い森のことが書かれていたのを思い出した。その森の生命力はものすごく、人間が開墾したその土地を、その森をきちんと管理しないと又呑みこんでいってしまう森なのだと書かれていたと思う。そこから木村さんは人間と自然は「対立」するものというヨーロッパ人思考回路を説明していった。
 この本(新潮新書)でも、自然との「対立」のことが書かれている。欧米人にとって自然は、人類の幸福のため征服すべき対象であったと。
 このことは今考えてみれば、手に負えない人間の傲慢であるけれど、古代や中世の人々にとって自然は驚異のものであっただろうことは想像がつく。けれど自然を敬い、畏怖することより、征服することで、自然を自分のいいなりにさせてしまおうといういう考えが、ヨーロッパにおいて科学が発達した最大の理由だろうと思われる。何故ならいいなりさせるには対象を研究しなければならないからだ。
 そしてそれがあらゆるものに同様な研究対象となり、研究され、その過程を「論理」的に説明していく。さらに、キリスト教の存在が大きい。イエスや神の存在を肯定する壮大な「嘘」を、さも真実かのように論理立てないといけない現実があった。これらのことが、ヨーロッパにおいて、「論理」を科学はもちろん、宗教、文学、美術、政治、経済等々に、応用し、ヨーロッパ文明を作り上げていったと私は思っている。そしてこうして生まれた「論理」的に説明できる文明を揺るぎないものとして、またはグローバルスタンダードとして、世界の国々へ普及させていった。
 日本においても、明治以来、何の疑問も感じないまま、出来上がったその「論理」をそのまま受け入れていった。それが現在まで至っている。
 ところが今、その「論理」が破綻しそうになっていると著者はいう。まずはここで「論理」の危うさを説明する。
 「論理」はそれが本質をついているかどうか判定できない部分があること。次に、「論理」では説明できないけど、非常に重要なことがたくさんあること。そして、「論理」には必ず出発点があり、いくら筋道として論理的であっても、その論理の出発点に誤りがあれば、結果は誤りであること。
 以上のような問題点が「論理」にはある。だから、民主主義、資本主義、市場原理の経済など、ヨーロッパで生まれたこれらの原理がいつまでも、どこでもグローバルスタンダードであり得ないし、それを無理に進めれば様々な問題を生む。
 特に日本において、アメリカナイズされたこれらの「論理」が政府をあげて進めているけれども、そうすることで大きな亀裂が起こってしまっているというのだ。
 確かにそうであろう。著者は言う。国際人の育成のために英語教育を小学校から進める今の教育方針に、あくまでも英語は表現する手段であって、その内容がない状態で国際人なんておかしな話だというのだ。むしろ日本人として日本語教育を徹底することによって、内容の濃い人間を育てる方が先であって、その上で英語教育に進むべきだというのだ。
 日本独特の文化を捨ててまでアメリカナイズされた「論理」を推し進めることによって生まれつつある日本人に苦言を呈している。そういう日本人が増えることによって日本という「国家の品格」を失ってしまっているわけだ。日本という国は武士道に見られる品格があったのに、それが論理的じゃないということで、切り捨ててしまっていいのだろうかともいう。面白い例として「会津藩の教え」を著者はあげている。

一つ、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二つ、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三つ、虚言を言うことはなりませぬ
四つ、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
五つ、弱いものをいじめてはなりませぬ
六つ、戸外で物を食べてはなりませぬ
七つ、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

 この七ヵ条のあと「ならぬことはならぬものです」と結ばれている。著者は七つ目を除いて納得できるものであって、「いけないことはいけない」という論理で説明できない価値観が重要なのだという。こういう価値観で日本人は作られていた。こういう価値観を持った日本人がたくさんいた。そしてそうした日本人が集まって、日本を作り上げ、日本という「国家の品格」を作っていた。これからはこうした価値観、倫理観が見直されていい時代ではないか。それは世界に発信すべき価値を持ったものだという。決して切り捨てていいものではないという。
 さらに、著者は天才はどうした環境で生まれるのか考証する。「天才が輩出するためには、役に立たないものや精神を尊ぶ土壌、美の存在、跪く心などが必要です。市場原理主義は、これらのすべてをずたずたにします」という。これらも「論理」では説明できるものではない。ある意味近代精神というものにも反するが、そうした土壌がしっかり根付いていなければ生まれないものでもあろう。じゃあアメリカはどうなんだという反論が出そうだが、「アメリカはその富と世界一の研究条件に魅せられて流入する、世界の天才秀才たちに支えられているのです。何らかの理由で流入が止まったら、それまでです」と言い切る。

 だいぶ寄り道をしてしまった。又『街道をゆく』に戻ろうと思う。

評価
★★★

2006年05月07日

「中学生はこれを読め!」

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 昨日の朝日新聞に久しぶりに面白い本屋さんを紹介していた記事があった。
 札幌市の「くすみ書房」の久住邦晴さんは「最近の中学生は本を読まないと言うが、うちには彼らのコーナーがなかった」と気がつき、お薦めを500冊リストアップし、「本屋のオヤジのおせっかい 中学生はこれを読め!」と手作りのカードをつくってアピールする。
 これが話題を呼んで、北海道では街の小さな本屋からチェーンの大型書店まで60店、静岡では130店が参加。愛知は10月から約100店で展開する見通しになったという。
 こうした発想になったきっかけは、中学生が本屋に来ないのは中学生用のコーナーがないからで、自分たちが悪いからだと、その発想を逆転させた。そして持ち帰りできるリストを店に置き、推薦本に共通の帯を巻く工夫をする。この結果、顔見知りの常連も増え、リストを手にした親や教師から、「お薦めは」と聞かれるようになったというし、青森県や群馬県の中学校や図書館からも「使わせてほしい」とのメールが来るようになったという。ネットでも紹介されているから、是非見てみて欲しい。URLは下記の通り。

http://www.k2.dion.ne.jp/~sa-shibu/

 リストを見てみると、児童書から、一般書まで幅広い。どこかの団体が推薦する本と違い、リストを見ているだけで、この人の読書経験が生きているようで面白い。ただどこどこの団体が「推薦する本です」と読んだこともないのに、いい本ですなんて店頭に並べるのと違い、やはり自分が読んでよかった、面白かったというしっかりしたものがあるから、なるほどと思わせるものがある。
 又店主自ら自分で読んだ本だから、自信を持って人に薦められるであろうと思う。このあたりはしっかりと地に足をつけている分強みがある。

 全国書店新聞の4月21日号に日書連加盟の組合員が今年4月1日の時点で355店減って全国で6、683店になって、20年前の半分になった(ピークは昭和61年の12,953店舗あった)という嘆きの記事が載っていたが、売れないでつぶれていくのは、エロ本やコミックといった簡単に売れる商品しか置かないから、どんどんじり貧になっていくためであって、この「くすみ書房」みたいな、何故売れないのか、よく考え、それに対処する工夫がないからではないかと思ってしまう。
 本屋さんだって、やはりお店の経営者の資質や読書経験が問われて当たり前で、ただ単に本を並べりゃいいというもんじゃないと思う。

2006年05月04日

蓮池透著『奪還』

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 この本は読んでみたいと思っていて、そのままになってしまった。今回新潮文庫で発売されたのを期に、購入し、読んでみる。
 実は私は2つの疑問がこの拉致問題で感じていた。一つは拉致被害者家族のメンバーで事務局長を務めておられる蓮池透さんが弟さんが北朝鮮から無事生還してから最近テレビで見かけないのを不思議に思っていた。それまで頻繁にテレビで見かけていたのに、どうしてなんだろう。ものすごく不謹慎な言い方かもしれないが、弟さんたちが帰ってから、もうお役ご免と手を引かれたのだろうかと思っていたのである。
 しかし、表に出られない苦悩が「文庫版のあとがき」に書かれていた。「つまり、ワーッと(自分たちの家族が帰ってきて)喜んでいると、『自分のところだけ帰ってくればいいのか。まだ横田めぐみちゃんたちが帰ってきてないじゃないか』と言われる。かといって、『めぐみちゃんを帰せ』と表立って運動すれば、『息子が帰ってきたというのに嬉しくないのか』と言われてしまうことがあるのです」と。そのためどういう顔をして街へ出ていいのか分からなくなってしまい、蓮池さんは一時塞ぎ込んでしまったらしい。そしてこのことは、未帰国の家族、帰ってきた家族のどちらにとっても耐え難い。極端なことを言うと、”オール・オア・ナッシング”だったらどれだけ楽だったかと頭をよぎるという。帰ってきた家族も「自分たちだけが帰ってきて忍びない」という苦しい思いをしていたのである。
 そういう事情があったとはつゆ知らず、どうして蓮池さんは表に出てこなくなったのだろうと不思議がっている自分が情けなかった。
 もう一つの疑問は、ある日突然家族がいなくなり、それがどうして北朝鮮に拉致されたと分かったのだろうか。家族が北朝鮮にいるかもしれないと思い始めたきっかけってなんだったのだろうかということなのである。
 それは大韓航空機爆破事件の容疑者金賢姫が韓国当局の取り調べで、自分の教育者が北朝鮮に拉致された「李恩恵」という名の日本人女性だと言ったことから失踪事件が拉致事件へと本格的に変わっていったのだという。なるほどこの事件から拉致問題が本格的になってきたのだ。
 しかし、報道では知っていたが、日本の政治家と役人の無能ぶりは呆れるばかりだ。政治家の中山正暉、自民党本部の前で座り込みをして抗議をしていた家族会に「正門前変な団体がいるけど、あれは何なの」と言った畑恵、「隣国が困っているのに援助せず、心を通わせないで拉致疑惑を始めとする問題が解決するのか」と言った訪朝団幹事長だった野中広務、「朝鮮民主主義人民共和国に対する食料援助は少女拉致疑惑などと切り離して人道的見地から促進すべきだ」と言った土井たか子、「両国間に距離がある状況で拉致問題だけ取り上げても進展しないと思う」と言った村山富市元首相、その他鳩山由紀夫、菅直人、田中真紀子など、無法国家と無能国家の両方に対峙しなければならなかった家族会の人々の苦労を思い知る。
 そして小泉首相の北朝鮮訪問は、外務省の田中均局長を中心とする外務官僚たちの国交正常化への思惑と、北朝鮮側の手持ちのカードを切るタイミングが、たまたま合致したから行われたのであって、蓮池さんの弟さんたちが日本に帰ってくることができたのは、ある意味瓢箪から駒だったと蓮池さんは言う。
 日本の政治家がこれだけ無能で、役人は自分たちの思惑にしか、思い及ばない国だからそう思われても仕方がないかもしれない。
 家族が直接行って交渉できるならそうしたいところであろうが、それができないから国や政治家にお願いしていることをよく理解すべきなのではないかと思う。

評価
★★★

2006年05月03日

ライザ・ロガック著『「ダ・ヴィンチ・コード」誕生の謎』

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 最近書店の平台を見てみると、モナリザの顔が表紙になった本がいくつも並んでいる。ちなみにamazonで「ダ・ヴィンチ・コード」と検索すると、類似本がたくさん出てくる。このようになっているのは、明らかにダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』の影響のためであることは明らかで、しかも近々映画も公開されるから余計である。
 類似本は、ダ・ヴィンチやモナリザの秘密や謎解きなどがほとんどのようで、それらを買ってまで読みたいと思わないが、この本(角川書店刊)はダン・ブラウンの自伝なので、この点それまであった類似本とは違にする。どちらかといえば、ダン・ブラウンがどうのようにして『ダ・ヴィンチ・コード』を書くヒントを得たのか、そっち方が知りたかった。
 著者のライザ・ロガックという人がどういう人か、又ダン・ブラウンとどういう関係にある人なのかよく分からないが、この本を読んで分かったことをいくつかあるのでそれを書いておく。

○ダン・ブラウンは1964年ニューハンプシャーエクセターで、数学教師の父と、宗教音楽家の母のあいだに生まれた。

○ダン・ブラウンが生まれたニューハンプシャーは大学の秘密クラブ、フリーメイソンのロッジ、合衆国政府初期の権力者が密かに集まった場所であった。

○ダン・ブラウンの両親は教育を重んじて、暗号や謎の解明を楽しむ家族であった。

○ダン・ブラウンが子供の頃学んだフィリップ・エクセター学院の教育目標が「ルネサンス的教養人」を世に送り出すことであったこと。

○そこで文章は「簡潔なほうがいい」と作文方法を学んだ。そのため後にダン・ブラウンは記者や作家に文章を書いて成功する秘訣を聞かれたとき「パソコンの削除キーを惜しみなく使うこと」とよく語った。

○フィリップ・エクセター学院卒業後、スペインのセビーリャ大学へ1年間留学し、美術史を専攻する。その時一人の教授が「最後の晩餐」のスライドを見せ、イエスの右に座っている人物は、ヨハネでなく女性で、マグダラのマリアであり、この絵のどこにも葡萄酒の杯が描かれていない事実にふれた。

○その後シンガーソングライターの夢を追ってハリウッドに移り住むが、音楽業界に肌が合わないことを悟り、地元ニューハンプシャーに戻る。

○夫人のブライズは「ダ・ヴィンチマニア」とダン・ブラウンにいわせるほど、ダ・ヴィンチに強い関心を持っていたこと。

○ダン・ブラウンの作品は『パズル・パレス』、『天使と悪魔』、『デセプション・ポイント』、『ダ・ヴィンチ・コード』と4作あるが、そそれ以外に2作のユーモア本があること。

○ダン・ブラウンは音声認識ソフトで作品を書いていること。

○『パズル・パレス』はダン・ブラウンがいたフィリップ・エクセター学院で友人が学校のコンピューターからネットワークに接続して、国家の現状を批判するEメール友人に送り、それをシークレットサービスがかぎつけ、その友人に話が聞きたいと尋ねてきたことからヒントを得ていること。(これは『パズル・パレス』の解説にも書かれていた)

○アメリカでは作家もどうしたら自分の本が売れるか、エージェントや出版社を自ら探し、自作の売り込みをあれこれ手段を変え行うこと。

○『パズル・パレス』、『天使と悪魔』、『デセプション・ポイント』は思ったより売れなかったこと。

○題材を見つけたら、資料をインターネットで探したこと。

○2005年ヨハネパウロ二世が死去したとき、新教皇選挙の詳細やその秘密を報道するにあたり『天使と悪魔』に書かれていることを参考にして書かれた記事があったこと。

○『天使と悪魔』がローマのガイドブックがわりに使われたこと。

○ダン・ブラウンが小説をどのように練り、組み立てるか、その方法は以下の通り。
1.一に舞台、二に舞台、三に舞台-読者を未知の世界へ誘え。

2.きれのいい場面展開を-つねに物語を動かしつづけよ。

3.劇的な謎はひとつに絞れ-ひとつの煉瓦で土台を築け。

4.三つCで緊張感を生み出せ。
時計(Clook)-時間に追われる状況で人物を動かせ。
るつぼ(Crucible)-登場人物を閉じこめて熱しろ。
契約(Contract)-読者に約束し、それを守れ。

5.蘊蓄をちりばめよ-教える前に学べ。調査の上にも調査を。

6.情報を織りこめ-説明は小出しにして呑みこみやすくしろ。

7.推敲を重ねよ-最も愉快な工程。第一稿を終えたら、見なおしていじりまわせ。

○2001年9月11日の同時多発テロはその秋に期待をこめて出版されたフィクション、ノンフィクション、『デセプション・ポイント』も含めて、あらゆる記述が薄っぺらくしてしまった。

○『ダ・ヴィンチ・コード』の空前の大ヒットはそれまでかんばしくなかった『パズル・パレス』、『天使と悪魔』、『デセプション・ポイント』がどんどん売れるようになった。(たぶんこれは日本でも同じかも)

○ダン・ブラウンはラングトンをシリーズものとして小説のプロットやあらすじをすでに12も用意している。ただし1作が3年半かかっているので12作書き上げる頃はダン・ブラウンは80歳近くなってしまう・・・。

○第5作の題名は「Solomon Key」と決まっている。


評価
★★