2006年06月29日

浜辺祐一著『救命センターからの手紙、再び』ドクター・ファイルⅢ

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 私は浜辺さんのこのシリーズを全部読んでいる。どうして浜辺さんの著作を読むようになったのか分からないけど、一つ言えることは、浜辺さんが都立墨東病院の救命センターに勤務されているのを知ったからかもしれない。墨東病院で昔、死んだ母がお世話になったからだ。
 今回も我々読者に手紙という形で、救命センターでおこることを書きつづっている。(集英社刊)だいたいが若い医者と部長(浜辺さん)のやりとりで話が展開していく。
 どんな立場の人間でも、どんな状況でも、又その後どんな経緯に至ろうが救命という仕事をこなさなければならないのだが、若い医者が世の中の不条理に切れてしまう。
 たとえば「春愁」では、ワゴン車を運転していてガードレールに激突した人が右足がかろうじて皮一枚でつながった状態で運ばれてきた。その足を切り落とさなければならない状態であったが、何とかそれをつないだ。
 退院後しばらくしたらこの人が歩道橋から飛び降り自殺をして、心肺停止の状態で再度救命センターに運ばれ、まもなく死亡する。もしあの時、右足を切り落としていれば、歩道橋をよじ登ることもできなかっただろうにと当直医は言うのであった。

 「疑念」では生後三ヶ月の男の子が心肺停止の状態で再度救命センターに運ばれてきて、やがて死んだ。たぶん乳幼児突然死症候群として診断してもいいのだが、突然死なので警察に連絡すべきかどうか当直医は部長に相談する。当直医は病死として死亡診断書を書こうとするが、それではダメだと部長は言う。当直医は母親が自分の子供を亡くして手のつけられない状態なのに、ここで警察を介入させることはできないと言うのだ。
 しかし部長は言う。このままだと父親は母親を責めるだろうし、母親は自分を、あるいは子守をしていた自分の母親を責めることで心のバランスをとろうとする。あるいは救命センターでの蘇生処置が悪かったのではないかと疑うかもしれない。だから赤ん坊が死んだのは誰の責任でもない。誰にも防ぎようがなかった突発的な病気であったと警察を介入させ、監察医の手を借りるのが一番だというのである。救命センターの通り一遍の心肺蘇生術と薄っぺらな死亡診断書だけでは力不足なのだと言うのだ。人の死に折り合いをつけさせるのはなかなか難しいものだ。

 「納得」はこの本の真骨頂かもしれない。いわゆるインフォームド・コンセプトの問題である。この救命センターに運ばれてくる患者は生死の境にいるが、仮に命が助かっても後で後遺症が残ったり、あるいは植物人間になってしまう場合もある。
 五十八歳の男性が階段から落ち、頭を強く打ってしまった。すぐ手術をしなければ命をもっていかれるが、仮に手術が成功しても植物人間になってしまう可能性が高かった。当直医はそのことを説明した上で、家族に手術をするかどうか決断を迫り、結局家族は手術を望まなかった。そのことを部長に報告するが、部長は異議を唱える。当直医は患者の状態を家族に説明し、家族がその結果手術を望まないということで、インフォームド・コンセプトに基づく同意を得たと考えていた。手術をするかどうか結果を家族に決めてもらう方がフェアだと言う。
 しかし部長は、自分だったら家族に手術するかどうか決めさせるより、さっさと手術室へ連れて行って手術をする。それが医者の決断だ言う。
 だいたい患者を植物人間にするか、天国に行かせるかわずかな時間で家族に決断させることがフェアなのかと言い切る。

 あるいは、「ひょっとすると、家族の中には、納得どころか、父であり夫である人間を自分たちが殺してしまったという、取り返しのつかない思いが頭を擡げてきているかもしれないんだぜ」とも言う。

 「むしろ目の前にいる患者の症状と所見だけを斟酌して、手術をするか否かの決定を下す、そうやって下された決定こそが、家族に覚悟を決めさせ、結果の納得をもたらすのだ」。それこそが救命センターの医者だという看板を背負っていることなるのじゃないかと当直医に言うのである。このあたりは救命センターで働く医師の覚悟がうかがえる。
 回復不可能な状況、あるいは死、これらを家族が納得するのはかなり難しいだろう。まして予想もしないことだけに余計であろう。
 どこかで折り合いをつけるために時には医師を責めたりすることだって最近は多いだろう。この当直医だってそうしたリスクを避けるために、家族にそれを負わせたともいえる。それでもこの部長は救命センターの医師であるなら、まず手術をすることが最優先であり、その結果が植物人間であれば、家族も納得できるはずだというスタンスである。医師は家族に決断を迫るのではなく、最善を尽くすことで、その結果を家族に受け入れさせようとしているように思える。おそらくこの部長はそういうケースをイヤというほど見てきたから、そういうのかもしれない。難しい問題だ。

 「逡巡」ではホームレスの対応、「錯誤」では老人をどう救命センターで扱うべきか、問題を提起している。

評価
★★★

2006年06月28日

東野圭吾著『容疑者Xの献身』

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 いやぁ~、評判通り面白い本であった。
 大学時代その能力を高く評価されたが家庭の事情で大学に残れず、高校の数学の教師となった石神哲哉はアパートの隣に住んでいる花岡靖子・美里親子が元夫で、富樫慎二殺人のアリバイ工作を手伝う。
 数学者である石神が行ったトリックとはどんなものなのか?何故石神は何の関係もない花岡親子の手助けをするのか?石神の大学時代の同窓生でもあった物理学者湯川学がそのトリックに挑む。そのトリックはハッとするものであった。最後は思わずうなってしまった。
 これ以上書くとネタばれになってしまうから、書かないけど、とにかく面白かったので、一気に読んでしまった。
 東野さんの本を読むのは『白夜行』とこれで2作目であるが、偶然かどうか分からないけど、東野さんが描く男はどうも女に利用されてしまう悲しい男である。『白夜行』に描かれた男には救いがなかったような気がするが、今回の本は最後石神に救いがある。最も悲しいものであったが・・・。
 この物理学者湯川学は以前の作品にも登場しているらしく、是非読んでみたいと思った。
 ところでこの『容疑者Xの献身』(文藝春秋刊)の舞台は私が通勤に利用している都営新宿線沿線で、しかも私が住んでいる近くが舞台である。篠崎駅、瑞江駅、一之江駅と近所なのでものすごく親近感があった。又通勤時にその新宿線でこの本を読んでいると、これら駅の名前が出ていると不思議な感じがした。
 もし私が近所の本屋で働いていたらこのことをPOPにして大々的に売りたいと思うが、どういうわけか近所の本屋さんではそんなPOPは見ていない。たぶん知らないのだろう。なんだかもったいない気もするが、所詮地元の本屋の程度なんてそんなものなのかもしれない。
 と、どうでもいいことを書きました。いつものように内容を延々と書いてしまうとネタばれになってしまうので、こんなふうになりました。後は読んで下さい。
 

評価
★★★★ 

2006年06月27日

司馬遼太郎著『街道をゆく』10巻

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 この巻は、「羽州街道」、「佐渡のみち」と、山形県、佐渡の紀行記である。
 話はとんでもないところに飛んでしまうが、その昔本屋の店員をやっていた頃、東洋文庫の『島根のすさみ』という本を注文していたお客さんのことを思い出したのである。私はこの本のことはまったく知らないので、題名からして島根県のことを書いた本かと思っていた。しかしこの本の著者が川路聖謨という江戸末期の役人の書いた、佐渡奉行在勤日記であることを知った。しかもあちこちの奉行所を渡り歩いており、最後は江戸幕府が瓦解したとき幕府に殉じてピストルで自殺したらしい。まことにもって世の中にはいろいろな本があって、それこそ古代から現代まで様々な人が、様々なことを書いていることをあらためて思い知る。たまたまこのシリーズにこの本のことが書かれていたので、「ほぉ、そうなんだ」と思い知った次第だ。
 さて、佐渡といえば金山ということになると思うが、どういう訳か司馬さんは金山のことに関してあまりふれたくない部分を感じた。何故なのかよく分からないが、あるいはその金山での生活の悲惨さを知っているから、触れたくなかったのだろうか?
 佐渡で金が取れることは平安時代には知られていた。当然律令制がひかれていたが、都から国司はやってきていない。それは「佐渡は、中央に住む者の認識では、多分に、遠流の島というだけで、途中に肝をひやすような荒海横たわっている」ため、怖かったものと思われる。佐渡の砂金に目をつけられるようになったのは室町末期からだそうだ。何故か?
 ここに「鉄砲」の存在が浮かび上がってくる。当時(戦国期)鉄砲の生産と販売は堺が握っていた。堺では対外貿易の決済を金銀でおこなっていた。たとえば鉄砲一挺米五石で支払われても、堺の商人にとっては迷惑な話であったはずで、鉄砲を売るときは金銀で支払を要求した。そのため戦国武将は金を狂おしいほど探し始めた。そこで上杉景勝は金銀目当てに佐渡に侵攻したのである。その後秀吉に金の採掘権を召し上げられてしまった。秀吉は金に関して途方もないほど価値を見いだしていたからである。
 大久保長安のこともふれられている。ふと昔読んだ山岡荘八さんの『徳川家康』を思い出した。この長編小説の後半に大久保長安が登場する。この人物も変わった経歴の持ち主で家康に召し抱えられる前は、甲州の能楽師だった。
 家康は武田信玄の武勇にさんざんな目にあっている。信玄没後、その武田家の武将を多く召し抱えた。その中の一人として長安がいたのである。長安はその技量を家康に買われ、佐渡の相川の金山を開発し、家康に莫大な金を献上する。しかしその一方で私腹も肥やしたことで、家康の怒り買い、家財没収、遺児七人も切腹させられた。

 話は前後してしまったが、「羽州街道」では、上杉家の栄枯盛衰がもの悲しい。
 上杉謙信が越後にいた頃強大な勢力であった。謙信の死後、上杉景勝が跡目を継ぐが、秀吉の一将として小田原の北条攻めに加わり、故郷の越後をすてて会津百二十万石に転封される。上杉家の南奥羽への転封は、秀吉の死後家康が立ち上がることを予想して豊臣政権の防御策の一つで、石田三成と直江山城守兼続との密約であったらしい。しかしこのことは家康にとってみれば、面白いわけがない。家康は関東にいる自分を挟み撃ちにするつもりだと見ていた。
 秀吉の死後家康は豊臣家で大老役として君臨するが、景勝は領内を戦時体制の準備を進めていく。家康は「故太閤の廟所にお詣りせよ」と上京を促すが、景勝は聞き入れず、家康の独裁に対し、直江に糾弾書を書かせる。この時点で三成と直江は家康を挟み撃ちにして討ち取ろうするが、家康はこの挑発に乗る。上杉討伐に家康は向かったが、このとき西では三成が挙兵する。これが関ヶ原戦いの始まりであった。
 結果は家康の大勝で、戦後処理として景勝から百二十万石を取り上げ、直江が三成の計らいでもらった米沢領三十万石を封じた。当然直江は無禄となった。上杉家としては取りつぶされることは免れても、百二十万石から三十万石に減封されたわけだから、家臣の生計が成り立たなくなっていく。上杉家は江戸期を通じて破産状態が続いていくことになる。あの謙信の時代とは大きな違いであった。 それでも上杉鷹山のような民政家を輩出し、冷害の飢饉に備えて対策が講じられていたので、他の東北地方に比べ、比較的ましだったという。
 ここで司馬さんは面白いことを言われている。このように東北地方全体が冷害のため飢饉になり、たとえば南部藩で百姓一揆が起ころうとも、米沢藩にとってみれば他藩のことであり、別世界のことであった。むしろ余計なことでもすれば幕府に謀反でも企んでいるんじゃないか疑われる。従って稲作がしづらい東北諸藩において鷹山のような経世家は出たが、その思考の多くは藩内に留まり、農民とは自藩の農民のことであり、世に普遍している農民一般のことではなく、あるいはその思想も人間一般にまで広がることはなかったと言う。さらにこのことは江戸封建期の体制では人類普遍の大思想は生まれにくく、この閉鎖的な良心はこんにち我々の精神の仕組みどこか影を落としているのではないかと言う。
 このあたりの考え方は何となく分かるような気がする。自分のところさえよければそれでいいという日本人の発想の土壌はこのあたりから生まれたものかもしれないと思ったりする。

 この『街道をゆく』10巻に収録されている街道は、週刊「街道をゆく」の以下に収録されている。

「羽州街道」は週刊「街道をゆく」の第43号
「佐渡のみち」は週刊「街道をゆく」の第15号

2006年06月20日

司馬遼太郎著『街道をゆく』9巻

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 この本を読むのにだいぶ時間がかかってしまった。本を読むことより、ブログの修正やワールドカップを見る方が楽しいから、そっちに時間を取られてしまったからで、あまり時間をかけて読んでいると、内容を忘れちゃう。

 今回は、「潟のみち」、「播州揖保川・室津みち」、「高野山みち」、「信州佐久平みち」となっている。
 「潟のみち」では、新潟の信濃川と阿賀野川の間の昔は低湿地帯であったところを旅される。新潟市の南郊の亀田郷は低湿地というよりもどちらかといえば湖みたいなところで、首まで水に浸かって稲作をしていた。湖の底の泥を棹操って、掻き揚げ、舟で運んでそれを背丈ほど湛水の田にひとすくいずつ放り込んでいく。稲は半ば水草のように浮いて育つが、普通の稲田より当然実りは少ない。刈り入れの時は田舟を浮かべて、農民自身は肩まで水に浸かりながら、水上で熟している稲を刈り、それを舟に投じていく。そんな過酷な稲作を昭和30年代まで行われていた。司馬さんは「食を得るというただ一つの目的のためにこれほどはげしく肉体をいじめる作業というのは、さらにそれを生涯くりかえすという生産は、世界でも類がないのではないか」という。
 こうまでして稲作をしなければならない土地で、何故稲作が行われたのか?
人が生まれた土地にこだわり続けるがために、そうせざるを得なかったということなのだろうか?
 しかし先祖がこうした過酷な稲作をして守ってきた土地を、土地が乾いた現在、投機の対象として扱うようになってしまった。司馬さんがこの土地を訪れた頃はまだバブル期ではなかっただろうが、もうすでにその傾向が始まっていたようである。(これは以前にも書いた)

 「私は十年ほど以前から、日本の社会を混乱させているのは土地制度ではないかと思ってきた。一億人の人間が土地を投機の対象と信じていること自体、経済的狂人の社会というほかないと思っていたし、産業家や商品の問屋や林業家が本業よりもそれをころがして儲け、また土地をころがすことであらたな政商が成立し、政治家が受動的もしくは能動的にそういう病的な政行為の構造の中心に居るようになってからは資本主義というようなものでさえないと思うようになっていた。
 農業はこういう病的な社会に巻きこまれて、一坪三十万円というような地下の上に、一本百円の大根を育てざるをえなくなっている。というようなことが正統な経済行為であるはずがなく、そういう行為の上に成立している働く気持ちというのは、荒廃せざるをえないのである。
 明治以後の土地私有についての野放図さと土地利用についての不厳正さがこの結果をまねいたのだが、その不厳正さが重症化したのは、工業製品を外国に売って外国から農産物を買うという仕組みになってからである。
(略)
 この方式は、農業に対して、
『以後、左様に熱心に農業をすることはない。食わせるのは、工業家とその製品を海外に販売する問屋がひきうける』
 というものであり、さらに具体的にいうと、
『農家は作業を機械化することで省力化せよ。余った労働力は工場や建設工事のほうにまわして(つまり農業は奥さんにまかせて主人は町に出て単純労働者になり)賃金を得よ。工業生産のためにはそういう低賃金労働者が必要である』
 ということになる」

 まさしくこの通り日本は進んできた。農業政策をないがしろにして、自給率をどんどん下げていくのである。司馬さんは日本各地を旅するたびにこうした感覚のとらわれ、日本の自然が荒廃し、農業が廃れ、あちこちにわけの分からない看板があふれ、観光化という名のもとに、雑然とした町と変わっていくのを、旅をすればするほど感じていくようである。価値観が変わってしまっている以上、こうした現象は起こりうるべくして起こったわけで、その価値観が間違ったものであった場合、目も当てられない状況になる。

 「高野山みち」、「信州佐久平みち」ではいわゆる仏教の普及者が聖といわれる資格も何も持たない者(日本の仏教は官製であり、国家に資格を与えられた者が僧として認められていた)が民衆の中に入って広めていったことを知る。時間があれば日本仏教のことを知りたいと思った。

 この『街道をゆく』9巻に収録されている街道は、週刊「街道をゆく」の以下に収録されている。

「潟のみち」は週刊「街道をゆく」の第15号
「播州揖保川・室津みち」は週刊「街道をゆく」の第25号
「高野山みち」は週刊「街道をゆく」の第4号
「信州佐久平みち」は週刊「街道をゆく」の第19号

2006年06月11日

司馬遼太郎著『街道をゆく』8巻

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 この巻は、「熊野・古座街道」、「豊後・日田街道」、「大和丹生川(西吉野)街道」、「種子島のみち」で構成されている。
 多分この時期、司馬さんは『翔ぶが如く』を執筆されていたのだろう。西南戦争が西郷隆盛の起こした私学校が暴走した結果起こったもので、その私学校の起源が若衆組ではないかと考えられている。その若衆組とはいったいどんなものであったのかその原型を多少なりともこの紀行で見たいと思い、今回の紀行が始まる。
 司馬さんは言う。「日本の古代以来の文化は氏族制で代表される北方的要素と、若衆組で代表される南方的要素が重層しており、その濃淡は地域によってさまざまだったように思える」と。
 氏族制の社会とはいわゆる血縁関係を主とした上下の関係、縦社会をいうが、若衆組はそれとは別に、誰でも一定の年齢の達すると地主の子も、自作農の子も、小作人の子も入会し、ここではすべて「平等」であった。この若衆組を南方系要素とするのは、この習俗が朝鮮や中国には存在しないことによる。
 若衆組は、普通数えて15歳で加入し、妻帯とともに退会する。彼らは若衆宿で寝起きし、共同生活をする。この時点で彼らは両親の管理から離れ、若衆頭の支配を受けることになる。若衆組は、共同体の祭礼を行うことと、若者おのおの自分の婚姻へ導いてくれる重要な機関であった。そのため相手探しのため「夜這い」が習慣化しており、世間もそれを認めていた。「娘をもつ家でもし戸締まりなどしようものなら、若衆組から総好かんをくらってしまい、共同体として微妙な秩序生活に齟齬を生ずる。若衆組にきらわれると、もし山火事(熊野の名物だったといていい)でもあった場合、若衆組たちはいやがらせをして、火がその家の持ち山にゆくように導いてしまったりする」。いわば若いエネルギーを世間が持て悩ましている部分があって、勝手放題にせせるよりは、一つにまとめておいて、若衆頭に管理させようというところかもしれない。若衆頭がある程度しっかりしておれば、多少のいたずらも大目に見る感覚があったようである。また祭りなどの行事や災害などには若衆組の力が必要であったから、若衆組の行動を若い奴はしょうがないといった感じで、半ば疎ましくも思いつつも、必要悪として認めていたのではないかと思われる。もちろん若衆組はその地域で共同生活をする以上、連帯感を深めるという意味で、いいところもあったとは思うけれど・・・。
 司馬さんはその若衆頭が西郷隆盛であったし、西南戦争の私学校がそのものが若衆組であったのではないかと推察される。その薩摩の私学校のエネルギーを押さえられなくなったとき、西郷は自分の命を若衆頭として預けたのであるという。
 更に面白いと思ったのは、二・二六事件の前夜日本陸軍の青年将校が憂国感情の共有因子として軍の若いエネルギーが若衆組化したのではないかというのだ。 つまり日本の文化の中にこの若衆組的要素が日本人に刷り込まれていて、ことあるごとにそれが表面化するのではないかというのである。そうかもしれなぁと思う。それほど大げさなことでなくても、現在も日本人は一人では何もできないくせに、郎党を組んで、「みんなでやれば怖くない」的でやりたい放題してしまう部分があるところを見ると、悪しき習慣として、この若衆組の要素が日本人の中に残っているのではないかと思ってしまう。あるいは現代のいじめなんかもこのあたりから起源を求めても面白いかもしれない。
 いずれにせよ、共同体の維持のためには、若衆組という関係は必要であっただろうし、いいところではそれが機能したとしても、きわどい部分が現代の日本人の中に残っているのかもしれない。いい意味でも、悪い意味でも、この若衆組の残像をこの「熊野・古座街道」、「豊後・日田街道」、「大和丹生川(西吉野)街道」で司馬さんは探し求めている。

 種子島といえば「鉄砲」とすぐ思いつくが、「種子島のみち」では面白いことが書かれていた。種子島に「鉄砲」を持ったポルトガル人が漂流して来たわけだが、その種子島でよく砂鉄が取れた。しかもこのとき種子島では鉄についての産業が高水準に達していた。このことがポルトガル人がもたらした鉄砲を見本として自分達でも鉄砲を作り得る水準であった。鉄砲は未開の孤島にやってきたわけではなかったのである。歴史の偶然とはいえ面白い話だ。
 その後わずかの間に日本に鉄砲が広まっていく。鉄砲を数多く持ったものが支配する戦国時代を迎える。最初に鉄砲を作った種子島もその鉄砲を数多く持った島津氏に支配されることになるのも面白い話だ。

 この『街道をゆく』8巻に収録されている街道は、週刊「街道をゆく」の以下に収録されている。

「熊野・古座街道」は週刊「街道をゆく」の第42号
「豊後・日田街道」は週刊「街道をゆく」の第4号
「大和丹生川(西吉野)街道」は週刊「街道をゆく」の第40号
「種子島のみち」は週刊「街道をゆく」の第27号

2006年06月06日

恩田陸著『夜のピクニック』

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 今年の本屋大賞1位の『東京タワー』を読んだので、昨年の本屋大賞1位の『夜のピクニック』(新潮社刊)を読んでみた。これで『博士の愛した数式』を併せて、本屋大賞1位の本を全部読んだことになる。
 やっぱり以前本屋さんにいたのだから、本屋さんが選んだ本はどんな本なのか読んでおくべきであろうと思った次第だ。
 しかしダメだった。どうもこういう青春小説は受けつけない。青春小説は読めないわけじゃないけど、コバルト文庫的な淡い感じは、もうすぐ50のなろうとする人間にとってみれば、ちょっと勘弁してくれといった感じである。

 「日常生活は、意外にも細々したスケジュールに区切られていて、雑念が入らないようになっている。チャイムが鳴り、移動する。バスに乗り、降りる。歯を磨く。食事をする。どれも慣れてしまえば、深く考えることなく反射的にできる。 むしろ、長時間連続して思考続ける機会を、意識的に排除するようになっているのだろう。そうでないと、己の生活に疑問を感じてしまうし、いったん疑問を感じたら人は前に進めない。だから、時間を細切れにして、さまざまな儀式を詰め込んでおくのだ。そうすれば、常に意識は小刻みに切り替えられて、無駄な思考が入り込む隙間がなくなる」
 しかし朝の8時から翌朝8時までの80キロを夜通しひたすら歩き続ける学校行事「歩行祭」は、普段生活の忙しさの中で考えられないことなど、歩きながら友人と話しながら考えられる。しかも後半は疲れもかなり伴い、非日常の状態が作り出される。
 西脇融と甲田貴子は異母きょうだいであった。貴子は融の父と貴子の母との不倫関係から生まれた子供であった。しかも同じ歳であり、同じ高校に入学し、高校三年になって初めて同じクラスになった。
 融は貴子を父の不倫の子として見ていたし、貴子の引け目のない明るさに憎しみさえ覚えていた。
 一方貴子は融ときょうだいとして接したいと考えていたが、融のかたくな態度に距離を置いていた。学校では二人がきょうだいであることを隠し続けた。
 そんな関係を改善したいと、この「歩行祭」に貴子はかけていた。融の親友戸田忍、貴子の友人遊佐美和子、榊杏奈の弟、その他融の友人や貴子の友人の力を借りて二人の関係を改善することになる。
 80キロも歩くわけだから、肉体にはかなりの疲労が蓄積するだろうし、一方精神はハイになっていく部分があるだろうから、普段の高校生活とは違った状況が生まれるはずだ。そんなこともあって、二人の関係が改善して一緒に歩き始めた頃には、この「歩行祭」が難しく、凄いことだと実感してゴールする。

 まぁこんな感じの青春小説である。しかし川上健一さんの書く青春小説は恥ずかしくなく読めたのだが、どういうわけかこの本は読んでいて恥ずかくなってしまった。
 「高校最後なのだから、気の合う奴とあるきたいな」とか「そういうのって、淋しいよ。自分の一番の親友だと思っている子が、一番の悩みを打ち明けてくれないなんて」というセリフを読むと、こそばゆくなってしまう。やっぱりおじさんには向かない本であった。

評価
★★

2006年06月02日

リリー・フランキー著『東京タワー』

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 この本も気になっていた。まして今年本屋の店員が一番いいといった「本屋大賞」を受賞しただけに、読んでみたかった。

 親戚の家に間借りするほど著者と母親は貧しかったが、けれどこの町で暮らしていた人々、子供は、金がない、仕事がないと悩んでいたかもしれないが、自らを「貧しい」と感じたようにはまるで思えなかったという。
 著者は言う。「東京の大金持ちのような際立った存在がいなければ、あとは団栗の背比べのよなもので、誰もが食うに困っているでもないなら、必要なものだけあれば貧しくは感じない。
 しかし、東京にいると『必要』なものだけしか持っていない者は、貧しい者となる。東京では『必要以上』のものをもって、初めて一般的な庶民であり、『必要過剰』な財を手にして初めて、豊かなる者になる」と。
 なるほどそうなのかもしれない。自分たちと比較する対象が際立っていれば、それは貧しくもなり、妬みにもなる。
 読み進んでみると、この著者はほぼ私と世代的に同世代だろうと感じた。筑豊の炭坑の街で著者は子供の頃を過ごした。

 「蜂の巣を棒で突く。うんこを見つけたら爆竹を仕掛けて、ギリギリまで逃げない。肥溜めに棒を差し込み、その先端に付いたうんこを人んちの洗濯物に付ける。カエルの皮を剥がして肛門に爆竹を。
 最低である。子供は愉快犯だ。モラルよりも、楽しさが勝ってしまう。しかし、完全犯罪を成し遂げる知恵はない。結果、くまん蜂や足長蜂に刺されて何度も病院へ運ばれる。うんこまみれになる。洗濯物の主にグーで本気で殴られる。カエルの夢にうなされる。そうやって、悪いことをするのがどんどん怖くなる」

 そうなのだ。私たち子供の頃は、こうしたいい加減さ、あるいは残酷さをしてきたから、悪いことをすることが怖くなり、してはならないということが潜在的に意識の中に刷り込まれていった。
 言い古されたことかもしれないが、今の子供達はゲームの中で、バーチャルな世界で、そういった悪さや残酷さを行う。そこには痛みなど実際に感じない。負ければリセットしてやり直しのきく世界だけが刷り込まれ、成人になっていく。これではおかしな子供、大人が出てきても不思議じゃない。思うのだけど、こういった残酷さ、悪さ、あるいは危険を子供の頃に、子供なりに実際に体験すべきなのではないかと思うが、どうだろう?

 著者が子供の頃駄菓子屋で売っていたものや飲み物が懐かしかった。ベビーコーラに串刺しのカステラ。クッピーラムネにチロルチョコ。ゴム人形にに指でネバネバやると煙の出る魔法の薬、チクロやサッカリン満載の粉末ジュース、当たりの入っていないクジ、ねぶりクジ。それと米屋から配達されるプラッシーなどなど・・・。よく覚えているなぁと感心しちゃった。

 こうして著者は成長していくが、この著者はオカンの心知らずというか、母親が苦労して働いているのを分かってはいるのにどうしようもなく、大学は留年するは、やっと大学を出ても大した仕事もせずに、家賃を滞納して追い出されるは、サラ金から金は借りるはで、迷惑のかけっぱなしであった。自分でもこの生活がいいとは思っていないのだが、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると、そういう生活に巻き込まれ、流されていく。

 「当たり前になれると思っていたその『当たり前』が、自分には起こらないことがある。誰にでも起きている『当たり前』。いらないと思っている人にも届けられる。『当たり前』が、自分には叶わないことがある。
 難しいことじゃなかったはずだ。叶わないことじゃなかったはずだ。
 人にとって『当たり前』のことが、自分にとっては『当たり前』ではなくなる。世の中の日常で繰り返される平凡な現象が、自分にとっては『奇蹟』に映る。
 歌手や宇宙飛行士になることより、はるかに遠く感じるその奇蹟。
 子供の頃の夢に破れ、挫折することなんてたいした問題じゃない。単なる職業に馳せた夢なんてものは、たいして美しい想いじゃない。
 でも、大人の想う夢。叶っていいはずの日常の中にある慎ましい夢。子供の時は平凡を毛嫌いしたが、平凡になりうるための大人の夢。かつて当たり前だったことが、当たり前でなくなった時。平凡につまずいた時。
 人は手を合わせて、祈るのだろう」

 「日進月歩、道具は発明され、延命の術は見つかり、私たちは過去の人類からは想像できないような『素敵な生活』をしている。しかし、数千年前の思想家や哲学家が残した言葉、大昔の人間が感じた『感情』や『幸福』に関する言葉や価値は、今でも笑えるくらいに、なんにも変わってはいない。どんな道具を持ち、いかなる環境に囲まれても、ヒトの感じることはずっと同じだ。
 感情の受け皿には、もう可能性はない。だから、人間はこれから先も永遠に潜在する能力を出し切ることができないだろう。
 『幸福』という、ひまわり畑にいるおばけを意識した時から、まだ見ぬ己の能力など一銭の価値もなくなる」
 こうして厭世的になりつつも、いくつになってもオカンの力を借りて生きていく。

 最初はまったく、このぐーたらが何を言ってるんだと思って読んでいたが、そんな人間であっても母親の苦労は身にしみて感じてはいる。自分の父親がちっとも父親らしくなく、ほとんど母と二人で生きてきただけに余計である。それは痛いほど分かっていたことがせめてもの救いである。

 「ボクを育ててくれたのは、オカンひとりなのだから。オトンは面倒を見てくれるけど、ジョン(ジョン・レノンのこと)のように育ててはくれなかった。そのための時間を持ってはくれなかった。口とお金では伝わらない大きなものがある。時間と手足でしか伝えられない大切なことがある。
 オトンの人生は大きく見えるけど、オカンの人生は十八のボクから見ても、小さく見えてしまう。それはボクに自分の人生を切り分けてくれたからなのだ」

 そんなオカンが甲状腺のがんに罹り、一度目は地元で、二度目は東京にいる著者の元に住むようになってから、手術を受ける。二度目手術の後、意識を回復した母親が手鏡を使ってその外の風景であるライトアップされた東京タワーを映して見ている場面がある。
 ふと自分の母親が8時間かかった胃がんの手術を終え、集中治療室でその夜むかえたことを思い出した。タバコが吸いたくなり、灰皿のある喫煙室から、窓の外を見た。この病院は駅から少し奥まったところにあり、近所にはラブホテルが林立する。窓からはラブホテルのけばけばしいネオンの点滅と、ホテルの窓からうっすらと明かりがもれてくるのが見えた。そこでは性の営みをはげんでいる人間達がいて、こちらでは生死をさまよう人間いる。その妙なコントラストに何も言えない感情が私にはあったのを思い出した。
 オカンは甲状腺のがんは何とか手術でき、声帯も無事だったのだが、今度は胃がんである。しかもスキル性の進行胃がん。
 極楽とんぼのオトンも「お母さんのぉ・・・・。今度はだめかもしれんのぉ・・・・。」とつぶやく。

 この時になって改めて思い知る。

 「ぐるぐるぐるぐるぐる。ゴウゴウゴウゴウ。ぐるぐるぐるぐるぐる。ゴウゴウゴウゴウ。
 巨大な竜巻。運命の渦巻。ボクの一番恐れているものが、どんどん勢力を増してこちらに向かってくる」

 「母親に手を引かれている子供が、その母親の身長など気にしたことがないように。
『たわむれに母を背負いてそのあまりの軽さに泣きて三歩歩まず』
石川啄木が目を潤ませて立ち止まったように、誰しもかつて大きかったはずの母親の存在を、小さく感じてしまう瞬間がくる。
 大きくて、柔らかくて、あたたかだったものが、ちっちゃく、かさついて、ひんやり映る時がくる。
 それは、母親が老いたからでも、子供が成長したからでもない。きっとそれは、子供のために愛情を吐き出し続けて、風船がしぼんでしまった女の人の姿なのだ」と。

 オカンのがんは進行が早く、手術はできず、抗ガン剤治療しかできなかった。

 最初は笑いながら、次に呆れながらこの本を読んでいたが、このあたりから私もやばくなってくる。私の母もスキル性の進行胃がんであった。私の場合、所帯を持って、長女も生まれ、これから母親孝行でもしてやろうと思った矢先に、母は死んだ。状況がよく似ている。当時の悲しい想いがよみがえってきて、やるせなくなった。

評価
★★★★★ 

2006年06月01日

東京都書店商業組合の「第30回通常総代会資料」

 東京都書店商業組合の「第30回通常総代会資料」を手に入れた。この中で「事業報告書」が興味がわく。

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 以下私が興味を覚えた部分を書き出してみる。

ネット書店の市場規模は2000年の約70億円から20004年に420億円に成長し、2005年は500億円を越えるのが確実視されている。

アマゾン上陸の2000年から5年間の書店倒産件数は204件、書籍販売市場は2.2兆円~2.3兆円とほぼ横ばいだが、倒産数はその前5年間より5割ほど増えた。その倒産は資本金1億円未満の小規模店が大半

出版物の売上額がマイナスに転じたのは1997年で、2004年には『ハリー・ポッター』の5巻が出版され一時持ち直したものの2005年再度マイナスにとなり、2兆1,964億円に落ちた。これは15年前の水準。ところが、書籍の刊行点数は増え続け、2005年は7万6,528点(前年比2.6%増)で、1990年の倍近く増えている。売れないのに数だけ増える現象は、減る売上を点数でカバーしようとする「自転車操業」の状態に陥っているため。このことは本の洪水の弊害を招き、書店に新しい本が溢れ、1冊の本が棚に並ぶ期間が短くなる、本の短命化を招いている。そしてこのことは大量の本が置ける巨大書店を生み、オンライン書店を成長させ、街の本屋さんを廃業に追い込む一因となっている。

書籍の推定販売金額は9,197億円、前年比2.5%減。(これは前年がハリー・ポッターなどの発売で好調であった反動)実際は2003年の水準。推定販売部数は7億3,944冊。

2005年ベストセラーは『頭のいい人、悪い人の話し方』、『さおだけ屋はなぜ潰れないか』、『下流社会』、『バカの壁』、『靖国問題』、『ワルの知恵本』、『野ブタ。をプロデュース』、『生協の白石さん』などで、価格が1,000円以下の安価な本が売れ行きが好調。このことは販売冊数に比べ販売金額が伸び悩む現象となる。新刊の平均価格は1,191円となり、2004年より26円(2.1%)下落した。

書籍返品率2.0ポイント増の38.7%で2003年の水準に戻った。

新刊1点あたりの発行部数は5,200冊で、前年比で100冊減少しており、「点数増・部数減」の傾向は変わらない。

雑誌(月刊誌、週刊誌合計)の推定販売金額は1兆2,767億円で、前年比1.8%減と8年連続マイナスを記録した。要因は長期不況、中小書店の廃業、インターネットやフリーペーパーの普及、若者人口の減少、商材不足などがあげられる。内訳は月刊誌が0.1%のマイナス(ただしコミックもこれに含まれ、これの好調に支えられていて、雑誌そのもは依然振るわない)の9,905億円。週刊誌は7.1%のマイナスの2,862億円。

雑誌の返品率月刊誌が1.0ポイント前年より増加して34.4%、週刊誌は1.5ポイント増加して27.3%となった。

月刊誌の発行部数は推定で0.3%のプラス。週刊誌は5.0%のマイナス。増刊号、別冊、ムック等は5.1%のマイナス。

付録は別添・綴じ込みとも増加し、年間実施回数は9,000点になり、定期雑誌のほぼ半数が何らかの形で付録を付けたことになる。

創刊・復刊は前年より15点少ない201点だが、2号以降振るわないケースが殆どであった。ただパズル雑誌の創刊・復刊19点と空前のラッシュとなり、総銘柄数77点となった。

休刊・廃刊が140点で、モーター誌、パソコン誌、ティーン誌が多く占めた。

 と、まぁこんな感じで2005年の出版業界、書店業界を総括している。要するにいい話はないということである。本が売れないのに出版点数は増えている状況は、書店に本があふれ出ることを意味し、店頭に並ぶ時間が短くなってしまい、欲しいときにはないということにもなるし、発行点数が多くても、部数が少ないという「点数増・部数減」の傾向は中小書店には新刊が回ってこない状況を生みだす。一方でネット書店は本を店頭に置くということがないだけに、点数の多さをカバーできる。ロングテール現象を起こしても、かえってそれが売上に貢献することになるから、ネット書店が伸びるのもうなずける。
 雑誌の売上低迷は確かにネットの普及、R25に代表されるフリーペーパーの普及が大きくひびいているだろうなぁと思う。実際木曜日の帰りの電車内でR25読んでいる人が多い。ただより安いものはないからね。
 週刊誌が大きく低迷している原因として中小書店の廃業をあげているが、確かに中小書店はよく週刊誌を売っているからだろう。週刊誌を発行している版元はこのあたりをよく考えて、中小書店の支援を考えないといけないのではないかと思う。
 雑誌が売れないから付録を付けて何とか読者の関心を向けさせようとしているのだろうが、それは結局中身が薄っぺらだと自分でいっているもんじゃないかと思っちゃうけど、どうだろうか・・・。定期雑誌のほぼ半数が何らかの形で付録を付けているということは、それだけ書店に付録をとじさせる余計な作業を強いていることも知ってほしいもんだ。
 しかし、この「事業報告書」、誰が書いたのか知らないが、ここにあげられているデータのほとんどが、新聞報道や他の団体が出した数字をあげて書かれているのが気になる。 今時リアルタイムで自分のところの営業成績が分かる時代である。少なくともこの資料はこれら新聞報道や他の団体がデータが出なければ自分では書けないことになる。書店組合が自分のところのデータを自分で把握していない証拠であろう。情けないといったらありゃしない。自分の団体の資料を自分で抑えられない団体って、いったい何なのだろうか?組合員が減少していることを嘆く前に、今現在、組合員(中小書店)が置かれている現状を把握できないのだから、対処のしようがないのではないか?おかしな団体である。