2006年06月20日
司馬遼太郎著『街道をゆく』9巻
この本を読むのにだいぶ時間がかかってしまった。本を読むことより、ブログの修正やワールドカップを見る方が楽しいから、そっちに時間を取られてしまったからで、あまり時間をかけて読んでいると、内容を忘れちゃう。
今回は、「潟のみち」、「播州揖保川・室津みち」、「高野山みち」、「信州佐久平みち」となっている。
「潟のみち」では、新潟の信濃川と阿賀野川の間の昔は低湿地帯であったところを旅される。新潟市の南郊の亀田郷は低湿地というよりもどちらかといえば湖みたいなところで、首まで水に浸かって稲作をしていた。湖の底の泥を棹操って、掻き揚げ、舟で運んでそれを背丈ほど湛水の田にひとすくいずつ放り込んでいく。稲は半ば水草のように浮いて育つが、普通の稲田より当然実りは少ない。刈り入れの時は田舟を浮かべて、農民自身は肩まで水に浸かりながら、水上で熟している稲を刈り、それを舟に投じていく。そんな過酷な稲作を昭和30年代まで行われていた。司馬さんは「食を得るというただ一つの目的のためにこれほどはげしく肉体をいじめる作業というのは、さらにそれを生涯くりかえすという生産は、世界でも類がないのではないか」という。
こうまでして稲作をしなければならない土地で、何故稲作が行われたのか?
人が生まれた土地にこだわり続けるがために、そうせざるを得なかったということなのだろうか?
しかし先祖がこうした過酷な稲作をして守ってきた土地を、土地が乾いた現在、投機の対象として扱うようになってしまった。司馬さんがこの土地を訪れた頃はまだバブル期ではなかっただろうが、もうすでにその傾向が始まっていたようである。(これは以前にも書いた)
「私は十年ほど以前から、日本の社会を混乱させているのは土地制度ではないかと思ってきた。一億人の人間が土地を投機の対象と信じていること自体、経済的狂人の社会というほかないと思っていたし、産業家や商品の問屋や林業家が本業よりもそれをころがして儲け、また土地をころがすことであらたな政商が成立し、政治家が受動的もしくは能動的にそういう病的な政行為の構造の中心に居るようになってからは資本主義というようなものでさえないと思うようになっていた。
農業はこういう病的な社会に巻きこまれて、一坪三十万円というような地下の上に、一本百円の大根を育てざるをえなくなっている。というようなことが正統な経済行為であるはずがなく、そういう行為の上に成立している働く気持ちというのは、荒廃せざるをえないのである。
明治以後の土地私有についての野放図さと土地利用についての不厳正さがこの結果をまねいたのだが、その不厳正さが重症化したのは、工業製品を外国に売って外国から農産物を買うという仕組みになってからである。
(略)
この方式は、農業に対して、
『以後、左様に熱心に農業をすることはない。食わせるのは、工業家とその製品を海外に販売する問屋がひきうける』
というものであり、さらに具体的にいうと、
『農家は作業を機械化することで省力化せよ。余った労働力は工場や建設工事のほうにまわして(つまり農業は奥さんにまかせて主人は町に出て単純労働者になり)賃金を得よ。工業生産のためにはそういう低賃金労働者が必要である』
ということになる」
まさしくこの通り日本は進んできた。農業政策をないがしろにして、自給率をどんどん下げていくのである。司馬さんは日本各地を旅するたびにこうした感覚のとらわれ、日本の自然が荒廃し、農業が廃れ、あちこちにわけの分からない看板があふれ、観光化という名のもとに、雑然とした町と変わっていくのを、旅をすればするほど感じていくようである。価値観が変わってしまっている以上、こうした現象は起こりうるべくして起こったわけで、その価値観が間違ったものであった場合、目も当てられない状況になる。
「高野山みち」、「信州佐久平みち」ではいわゆる仏教の普及者が聖といわれる資格も何も持たない者(日本の仏教は官製であり、国家に資格を与えられた者が僧として認められていた)が民衆の中に入って広めていったことを知る。時間があれば日本仏教のことを知りたいと思った。
この『街道をゆく』9巻に収録されている街道は、週刊「街道をゆく」の以下に収録されている。
「潟のみち」は週刊「街道をゆく」の第15号
「播州揖保川・室津みち」は週刊「街道をゆく」の第25号
「高野山みち」は週刊「街道をゆく」の第4号
「信州佐久平みち」は週刊「街道をゆく」の第19号
- by kmoto
- at 21:19
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