2006年06月27日
司馬遼太郎著『街道をゆく』10巻
この巻は、「羽州街道」、「佐渡のみち」と、山形県、佐渡の紀行記である。
話はとんでもないところに飛んでしまうが、その昔本屋の店員をやっていた頃、東洋文庫の『島根のすさみ』という本を注文していたお客さんのことを思い出したのである。私はこの本のことはまったく知らないので、題名からして島根県のことを書いた本かと思っていた。しかしこの本の著者が川路聖謨という江戸末期の役人の書いた、佐渡奉行在勤日記であることを知った。しかもあちこちの奉行所を渡り歩いており、最後は江戸幕府が瓦解したとき幕府に殉じてピストルで自殺したらしい。まことにもって世の中にはいろいろな本があって、それこそ古代から現代まで様々な人が、様々なことを書いていることをあらためて思い知る。たまたまこのシリーズにこの本のことが書かれていたので、「ほぉ、そうなんだ」と思い知った次第だ。
さて、佐渡といえば金山ということになると思うが、どういう訳か司馬さんは金山のことに関してあまりふれたくない部分を感じた。何故なのかよく分からないが、あるいはその金山での生活の悲惨さを知っているから、触れたくなかったのだろうか?
佐渡で金が取れることは平安時代には知られていた。当然律令制がひかれていたが、都から国司はやってきていない。それは「佐渡は、中央に住む者の認識では、多分に、遠流の島というだけで、途中に肝をひやすような荒海横たわっている」ため、怖かったものと思われる。佐渡の砂金に目をつけられるようになったのは室町末期からだそうだ。何故か?
ここに「鉄砲」の存在が浮かび上がってくる。当時(戦国期)鉄砲の生産と販売は堺が握っていた。堺では対外貿易の決済を金銀でおこなっていた。たとえば鉄砲一挺米五石で支払われても、堺の商人にとっては迷惑な話であったはずで、鉄砲を売るときは金銀で支払を要求した。そのため戦国武将は金を狂おしいほど探し始めた。そこで上杉景勝は金銀目当てに佐渡に侵攻したのである。その後秀吉に金の採掘権を召し上げられてしまった。秀吉は金に関して途方もないほど価値を見いだしていたからである。
大久保長安のこともふれられている。ふと昔読んだ山岡荘八さんの『徳川家康』を思い出した。この長編小説の後半に大久保長安が登場する。この人物も変わった経歴の持ち主で家康に召し抱えられる前は、甲州の能楽師だった。
家康は武田信玄の武勇にさんざんな目にあっている。信玄没後、その武田家の武将を多く召し抱えた。その中の一人として長安がいたのである。長安はその技量を家康に買われ、佐渡の相川の金山を開発し、家康に莫大な金を献上する。しかしその一方で私腹も肥やしたことで、家康の怒り買い、家財没収、遺児七人も切腹させられた。
話は前後してしまったが、「羽州街道」では、上杉家の栄枯盛衰がもの悲しい。
上杉謙信が越後にいた頃強大な勢力であった。謙信の死後、上杉景勝が跡目を継ぐが、秀吉の一将として小田原の北条攻めに加わり、故郷の越後をすてて会津百二十万石に転封される。上杉家の南奥羽への転封は、秀吉の死後家康が立ち上がることを予想して豊臣政権の防御策の一つで、石田三成と直江山城守兼続との密約であったらしい。しかしこのことは家康にとってみれば、面白いわけがない。家康は関東にいる自分を挟み撃ちにするつもりだと見ていた。
秀吉の死後家康は豊臣家で大老役として君臨するが、景勝は領内を戦時体制の準備を進めていく。家康は「故太閤の廟所にお詣りせよ」と上京を促すが、景勝は聞き入れず、家康の独裁に対し、直江に糾弾書を書かせる。この時点で三成と直江は家康を挟み撃ちにして討ち取ろうするが、家康はこの挑発に乗る。上杉討伐に家康は向かったが、このとき西では三成が挙兵する。これが関ヶ原戦いの始まりであった。
結果は家康の大勝で、戦後処理として景勝から百二十万石を取り上げ、直江が三成の計らいでもらった米沢領三十万石を封じた。当然直江は無禄となった。上杉家としては取りつぶされることは免れても、百二十万石から三十万石に減封されたわけだから、家臣の生計が成り立たなくなっていく。上杉家は江戸期を通じて破産状態が続いていくことになる。あの謙信の時代とは大きな違いであった。 それでも上杉鷹山のような民政家を輩出し、冷害の飢饉に備えて対策が講じられていたので、他の東北地方に比べ、比較的ましだったという。
ここで司馬さんは面白いことを言われている。このように東北地方全体が冷害のため飢饉になり、たとえば南部藩で百姓一揆が起ころうとも、米沢藩にとってみれば他藩のことであり、別世界のことであった。むしろ余計なことでもすれば幕府に謀反でも企んでいるんじゃないか疑われる。従って稲作がしづらい東北諸藩において鷹山のような経世家は出たが、その思考の多くは藩内に留まり、農民とは自藩の農民のことであり、世に普遍している農民一般のことではなく、あるいはその思想も人間一般にまで広がることはなかったと言う。さらにこのことは江戸封建期の体制では人類普遍の大思想は生まれにくく、この閉鎖的な良心はこんにち我々の精神の仕組みどこか影を落としているのではないかと言う。
このあたりの考え方は何となく分かるような気がする。自分のところさえよければそれでいいという日本人の発想の土壌はこのあたりから生まれたものかもしれないと思ったりする。
この『街道をゆく』10巻に収録されている街道は、週刊「街道をゆく」の以下に収録されている。
「羽州街道」は週刊「街道をゆく」の第43号
「佐渡のみち」は週刊「街道をゆく」の第15号
- by kmoto
- at 20:22
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