2006年07月29日

司馬遼太郎著『街道をゆく』16巻

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 今回は「叡山諸道」で、いわゆる比叡山の道を司馬さんは歩かれている。以前にも書いたが、私はこのあたりの歴史的背景がうまくつかめなし、日本仏教史にうといので、なかなか理解しにくい部分がある。

 まったく個人的なことなのだが、中学校の修学旅行のとき比叡山の根本中堂へ行ったことがある。多分、寺の関係者だと思うのだが、とにかくそこで比叡山の歴史など、説明を聞いた。その話の内容はもちろん忘れてしまっているけれど一つの言葉を今でも覚えている。それが最澄がいったという「一隅を照らすこれ則ち国宝なり」という言葉である。何故か比叡山と聞けばこの言葉を思い出すのだ。
 この「一隅を照らすこれ則ち国宝なり」という言葉は最澄が書いた『天台法華宗年分学生式(てんだいほっけしゅうねんぶんがくしょうしき=山家学生式)』にあるらしい。詳しくは「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、一隅を照らすこれ則ち国宝なり」というらしい。「径寸」とは金銀財宝のことで、「一隅」とは今我々がいる世界といっていいのだろう。
 つまりこの言葉の意味は、お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも変えがたい貴い国の宝であるという意味らしい。一人ひとりがそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。そして自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せ求めていこう。「人の心の痛みがわかる人」「人の喜びが素直に喜べる人」「人に対して優しさや思いやりがもてる心豊かな人」こそ国の宝であるということになるらしい。(これはネットで調べて分かった)

 この自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せ求めていくという考えが最澄の考えの基本みたいだ。最澄がやがて展開していく大乗仏教は「草木も土も洩れなく成仏する」(草木国土悉皆成仏)という「人はみんな仏になれる」あるいは「いけるものすべてが仏になれる素質をもっていて、生けるものだけでなく、草木も山河も石ころもすべて仏性をもっている」という平等思想であった。この考えは当時の奈良仏教からすればとんでもない話しであったらしい。奈良仏教では、さとりをひらくのは自分のためであり、人のためではないとしていたし、そのさとりをひらける人間も特定の人間に限られるとしていたからである。このため最澄をはじめその後に続く僧たちは、奈良仏教界と公開討論みたいな宗論をしていた。そしてその宗論にうち勝つことで、叡山の地位向上をめざしてきた。
 最澄は中国に渡って教典を持ってきてもその整理を終える前に死んでしまった。また空海のように中国に渡る前に自分の教義を会得していたわけでもなかったらしい。そのため最澄の死後、その後に続く僧たちは、最澄が持ち込んだ教典の整理や教義の確立に努めた。
 一方で当時比叡山は「一山大衆三千」といわれるくらいたくさんの僧やその関係者がいて、いわば大学みたいな感じであったようだ。それに最澄の天台宗や空海の真言宗が説いてきたのは「鎮護国家」であった。それは当時の天子・王朝を守ることにあり、いわば国家仏教であった。従って当時の律令体制、すなわち荘園制の体制側に比叡山はあった。要するに土地や財産を荘園制度によってたくさん持っていたのである。
 ところが鎌倉幕府が成立し律令体制が崩壊したとき、必然的に比叡山も衰退せざるを得なくなった。ただ空海と決定的に違うのはその人気である。高野山の真言宗も国家仏教であった以上、律令体制が鎌倉幕府の成立で崩壊するのであれば、衰えていいはずなのにそうはならなかった。それは高野聖のお陰であった。
 鎌倉・室町の高野山では、正規の僧はただ学問をしていればいいだけで、非正規の存在である高野聖が教義の販売を請け負っており、常時数千という高野聖が諸国を歩き回っていた。彼らは、空海(弘法大師)の超人的な神秘譚を勝手に創作して諸国にまき散らしていた。だから日本各地に「弘法大師ゆかり」のなんていうのが存在するのである。
 こうしたとはある意味、叡山の僧は形而上学に明け暮れていたことになり、それが叡山の品の良さともなっていた。(もっとも平安末期はかなりひどい状態だったらしいが・・・)一方高野山には土俗のたくましさとか、まがまがしい性質が(それは空海自体の性格ではもちろんないのだが)高野聖によって作られていったことにその差が生まれた。

 今回このシリーズを読み直していると、ほんの少し仏教の知識が増えつつある感じがする。


『街道をゆく』16巻にある「叡山諸道」は、週刊「街道をゆく」の23号に収録されている。

2006年07月26日

セブンアンドワイで本の注文をしてみる

 北海道新聞社の『中学生はこれを読め!』が出版された。例のくすみ書房さんがリストアップしたパンフレットを北海道書店商業組合編で出版したものである。ネットでもこのリストは見ることもできるが、実際本として出版されたものを見てみたいと思ったのだ。
 しかしこの北海道新聞社の本をどうやって手に入れるかである。今日書肆アクセスに寄って在庫を聞いてみたが、まだ入荷していないという。なかなか北海道の出版社の本を東京で手に入れるのは難しい。
 でも、ネットが普及した時代である。ネットで直接北海道の出版社に注文できることはできる。しかしこの1冊を手に入れるために、代引手数料200円と送料300円がかかる。確かに北海道から私の手元に来るわけだから、それなりの送料がかかるのはやむを得ない部分がある。けれど本の定価が525円なのに送料が代引手数料含め500円かかるのはどうもなぁと思っちゃった訳だ。アマゾンでも注文できるのは分かっていたが、とりあえず他に欲しい本がないから、これ1冊だけでいいのだ。こういうとき手数料というのは考え物だ。まして本代と同じくらい送料がかかってしまうわけだから余計である。
 で、セブンイレブンで注文したのだ。近所のセブンイレブンで受け取れば送料無料なのだ。どうせ毎日通勤時に店の前を通るのだから、これを使わない手はない。さっそくネットでセブンアンドワイで注文した。便利なもんだ。しかも商品が「到着する前日」になったら、到着予定日をメールで知らせてくれるのだ。後はこの控えを持って525円だけ支払えばいいのだ。もちろん今注文した本がどの流通過程あるのかも分かるからうれしい。この控えにはバーコードが印刷されており、多分お店ではこれをスキャナーで読み込んで簡単に会計ができるようになっているのだろう。すごいものだ。

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 欲しい本をどうやって手に入れるか、今は書店だけでなくネットという媒体を使って一番いい方法が選択できるのは面白い。これからもいろいろな方法で本の注文をやってみたい。

2006年07月25日

司馬遼太郎著『街道をゆく』15巻

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 今回の旅は「北海道諸道」で、松前、函館、江差と、札幌、厚田、新十津川村、そして旭川を訪ねられている。
 この北海道の旅で問題になるのはその寒冷という気候である。アイヌはもともとこの地で暮らしていたわけだから、その寒さに対応した暮らしぶりがあったが、この地に入ってきた和人はどういうものか、寒さ対策をしていない。そのことがこの地に入ってきた和人に悲惨な状況を生むことになる。司馬さんは面白いことを言っている。

「日本列島は、いわゆる縄文期の終了までは、多様な生活文化が、同時に併存していただろう。
 現代風にいえば多民族社会であった。もしただ一個の条件-イネの渡来-さえなければ、多民族の同居地域として、こんにちとはちがった別種の発達史を持ったのではないかと思われる。
(略)
 それほどイネの到来はこの四つの島の古代的多様社会に、大きくローラーをかけて一つの文化に地均ししてしまうほど、強烈であった」と。

 つまり米への信仰が強かったということである。何故かというと、その生産力による。つまり米一粒で何倍もの収穫ができ、多数の人口を養えるのである。そのため「上代日本で、稲作そのものが信仰となり、同時に政治になったのはむりのないことであった」そこへ鉄器が農具として備わったため、稲作の普及が急速に広まり、本来南方系の植物であるイネを寒冷地である、東北、北海道へと強引に普及させることとなる。しかし北海道ではなかなか根付かなかった。そのため米を基準とした中央集権という画一的なローラーから免れることとなり、アイヌ文化が残った。
 一方でイネが南方系植物であるということは、その稲作文明が多分に南方的住居思想をもつことになり、本来寒さから無防備な住居を生むことになる。だから朝鮮のオンドルやロシアのペチカみたいな暖の取り方をする住居思想が生まれなかった。暖をとることが必要なかったというべきかもしれない。決定的に夏向きの建築様式なのである。「このことは、最初に主食の生産とともに根付いた文化というものが民族の歴史のなかでいかに変化しがたいものであるかを思わせる」と司馬さんは言う。
 つまり稲作文化に付随する住居思想は「数寄屋普請」であり、それが華々しい「中央文化」であった。それをこのまま北海道の寒冷地に持ってきたって、人々は生きられない。このことが明治の北海道開拓史に悲しい歴史をもたらすはめになる。

 明治政府は列強から侵略されるという恐怖心理を基礎にして成立した政府で、国内統一、その侵略をさけるために欧化主義(ヨーロッパ文化の取り入れ)に徹していた。その欧化主義の先鋒モデルが北海道開拓であった。初期には薩摩人黒田清隆がアメリカの農務長官ケプロンを莫大な年俸で雇い入れ、壮大な計画の元に北海道開拓をやろうとしていた。
 ところが西南戦争のお陰で明治政府は資金が欠乏してしまい、ケプロンが出した計画は頓挫する。そこで開拓に囚人を使うことにしたのである。当時の明治政府の要人は囚人を使うことに何らためらいもない。むしろ「かれらは悪いやつだから、たとえ斃死しても可哀そうではない。むしろ死んだほうが監獄予算が軽くなってたすかる」といってはばからない。寒冷地を考慮せず、不衛生な獄舎に囚人たちを押し込め、使い捨ての駒のように過酷な労働に使うのである。彼らは赤い服を着せられていた。このことを書いた、吉村昭さんの『赤い人』という小説が確かあったと思う。
 この後に続く屯田兵にしたって似たような環境で生活させられていた。司馬さんが旭川に残る屯田兵の兵舎を見て次のように言う。

「この兵屋は小屋とも言いにくいほど小さい。その貧寒とした粗末さ-たとえば、薄板一枚の外壁(内壁はない)で、窓ガラスなしの単なるすきま-を見ていると、こん寒冷地でほんとうにこの小屋に生きた人間が住んでいたのかとうたがわれてくるほどである」

 明治政府は、お金がなければ囚人を使うことでコストを下げ、劣悪な環境で働かせる。あるいは屯田兵をかつての武士と同じものだと持ち上げておいて、こんな生活環境に追い込んだのである。

 ところで私もこの本を読んで初めて知ったのだが、「蝦夷錦」というのをご存じだろうか?


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 北海道の道南であった松前藩藩主松前慶広は秀吉におべっかをつかうため、当時朝鮮出兵を控えていた肥前名古屋城へはるばる北海道からやってきた。その後徳川家康のところにも訪れる。(このことは秀吉の後家康の時代が来ることを北海道の城主は見抜いていたことになる)。
 家康は慶広が着ていた服を「なんとみごとな」と驚く。慶広はその家康の言葉を聞いてすぐその服を脱いで家康に献じる。この献じた服「蝦夷錦」の十徳であった。
 実はこの「蝦夷錦」は中国の蘇州や杭州の職人が作った元や明の官服であった。その官服である「蝦夷錦」を北海道にいる松前慶広が何故持っていたのだろうか?南方の蘇州や杭州の職人が作った服なら、本来九州当たりから入った方が合理的である。それが北海道から日本に入った。
 詳しく聞いてみると、この「蝦夷錦」は北海道にいるアイヌが樺太アイヌか買ったもので、樺太アイヌは黒竜江(アムール)下流域を山丹(サンタン)人から買ったという。(以下地図を参考)


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 この流通経路が面白い。我々は中国などの貿易品は九州当たりから日本に輸入されるもんのだという頭がある。その方が地理的に近いからだ。ところがこの「蝦夷錦」は違った。
 その理由は当時の中国の元や明に理由がある。特に元は当時黒竜江(アムール)下流域を植民地化していた。彼らは黒竜江(アムール)下流域に住んでいた山丹人達に「貢ぎ物を持ってこい。そうすればお前たちが持ってきた以上のすばらしいものを呉れてやる」という朝貢貿易をしていた。そうして彼らに与えられたのが「蝦夷錦」であった。それが山丹人を経由して樺太アイヌに渡り、そして北海道にいるアイヌに渡ったのである。それを松前慶広は手に入れたわけである。 ある意味北海道は貿易に関しては鎖国(秀吉は晩年鎖国をしていた)という法の網から外れていたことになる。
 流通という面からこの北海道を考えるとき、この寒冷地が何故商業地として魅力的なのか、このことはその一端を知ることにもなろう。
 また鰊がある。江差などは鰊漁で栄えた町であった。鰊は食べるため必要であった訳じゃない。綿作の肥料として使われたのである。「綿は五倍」といって稲作より儲かった。ただ綿はすさまじいほどの肥料を必要とする植物であった。そしてその肥料として鰊が使われたのである。このことから蝦夷地から鰊を運んで日本海を回り大阪に入る北前船が俄然注目されたのである。
 こうしてみてみると松前藩が米に立脚せずに、漁業と交易で成り立っていた理由もここにあったことが分かるし、わざわざ極寒の地に渡ってきて根を下ろし、繁栄したのもこうした理由があったからだと知る。


 『街道をゆく』15巻にある「北海道諸道」は、週刊「街道をゆく」の21号に収録されている。

2006年07月21日

石井美樹子著『中世の食卓から』

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 本棚を整理していたら、この『中世の食卓から』(筑摩文庫)を見つけた。何となく面白そうだったので、読んでみた。蘊蓄があって、なかなか興味のある本であった。
 さっそく面白い話を紹介しよう。ヨークシャーのウェイクフィールドの降誕劇に登場する羊飼いたちの会話である。場面はベツレヘムの近郊の原野。この年、冬が厳しく、おまけに疫病の流行のため羊が殆ど死んでしまい、羊飼いは飢えに苦しんでいた。羊飼いは互いに不満をぶちまけ、とうとう口論になってしまったが、一人の羊飼いの提案で午餐の宴を始めた。

羊飼い二
とにかく宴会を始めよう。
口論はやめて、おれたちの口に
おまんまをあげようぜ。
とっておきのものを出すぞ。
見ろ、こいつは猪の味つけ肉。

羊飼い一
辛子をつけて食うとうまいぞ。
さあ、食おう。
これは牛の足、ソースがきいている。
スパイスをまぶして焼いた雌豚の脚。
レバー入りのブラッド・ソーセージ二本。
相棒よ、喜べ。
もっとあるんだ。
腐った雌羊の肉もある。
食いしんぼうにはたまらなくうまい肉。
食えよ。

羊飼い二
この袋のなかには、ゆで卵と焼肉が入っている。
牛のしっぽちゃんとあるだろうな。
うれしい、あった。
このスパイスはうまいから、なくなる前に食っておこう。
それに豚の鼻二つ。
モモ肉なしの兎。

羊飼い三
こいつはがちょうの脚。
卵黄をまぶした鶏肉に、珍味の山うずら。旦那衆向けの果実入りパイ、こいつはどうだ。
牛レバーのスライスに酸味のきいたジュース。
上等のソース、
こいつがありゃ、
ぐーんと食欲が増すというもんだ。

羊飼い二
おい、ヒーリー産のエールがあるぞ。
いいか気をつけろ。飲みすぎると、
悪酔いするぞ。

羊飼い一
こいつはすごい!
景気づけになる。


 まるで飢えた羊飼いの宴じゃないようだ。しかもここに出てくる食べ物は当時下層階級から上流階級までのご馳走、珍味である。どうしてこんなに持っていたのだろうか?
 答えは、自前の食べ物に貴族や金持ちの施し品が加わってこんな宴の食べ物になっているのである。
 当時の貴族や金持ちは貧しい者に施しをすることで、自分たちの魂の救済を得ようとしていた。もちろんキリスト教の影響である。
 ヨーロッパ中世時代、上流階級から下層階級までほぼ100%がキリスト教徒であったから、生活のあらゆる面でキリスト教の影響を受けていた。もちろん食生活においても同様である。
 たとえば復活祭前の四十日間の四旬節である。この期間人々は荒野で四十日間断食して苦行したイエスに倣い、断食を始める。断食と言っても一日二回の食事を一回にし、肉、肉に関わるもの(ミルク、バター、チーズなど)一切口にしない。ただ、魚だけはよかった。
 どうして魚はいいのかというと、水に棲む魚は中世の人々にとっては聖なる生き物としてみられていたからである。神がアダムとイブの裏切りに怒り、二人を楽園から追放し、彼らとともに生まれ、育った被造物すべて呪われた。しかし魚介類は神の呪いを受けずに済んだ。水の中に棲んでいたからである。水は罪を清める力を持っていると考えられたのだ。だからノアの時代、汚れた世界を清めたのも水であったし、人の子が洗礼という水の儀式によって神の子となるのだ。
 また「最後の晩餐」に象徴されるように食べることは魂を交換しあう儀式と考えられたから、この儀式(会食)に臨むには、魂も手も汚れていてはならない。だから水で手を洗ったのである。(当時まだフォークが普及していないから、手でつまんで食べていた。)

 中世は今の朝食は存在しないらしい。ディナーをヌーンにとった。ヌーンとは夜明けから9時間後(none=noon)のことをいい、もともとは夜明けから9時間後(nine)に行う礼拝のことをいった。つまりディナーとは夜明けとともに始まる労働を終え、一日の無事を神に感謝して祈りを捧げてから食べる食事であった。だいたい正午から午後3時頃に食べる食事でった。これが一番大切な食事であった。その後太陽が沈んでから軽い食事サパー(supper)をとった。以後翌日のディナーまで食事をしない。この間の食断ちをファストと呼んだ。
 現在の朝食はこのファスト(fast)をやめて(break)食事をとるようになったことで、ブレックファスト(breakfast)と呼ばれるようになった。

 さて、四旬節である。この時期みんなが肉を断ち、魚を食べるようになるので、魚の需要が高まる。当然その需要を満たすためには、たくさん取れる魚がないといけない。それがにしんであった。だからにしんは「魚の王様」として君臨する。しかしみんながにしんを求めるのでにしんの値段が急騰する。そのため四旬節の前ににしんを買い込み、塩漬けにして保存しておくのが当時の主婦の知恵であった。しかし毎日にしんの塩漬けだと、いい加減嫌になってくる。
 そしてにしんが立ち去る頃(四旬節の終わりに)、待ちに待った復活祭である。飲めや、歌えと浮かれて楽しむ。ブリューゲルの「謝肉祭と四旬節の喧嘩」という絵にあるような世界が広がるのである。

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 大好きなブリューゲルの絵を紹介したので、もう一つ当時の農民の宴の模様を描いた「農民の婚宴」も紹介しちゃおう。この絵、ブリューゲルの絵の中でかなり気に入っている。


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 さて、さらに気になった部分がある。それは豚である。中世のパリは町全体が「豚小屋」であった。今では中世の街角はノスタルジーを感じさせるけれど、当時は生ゴミや汚物はみんな通りに捨てられていた。生ゴミ入れやトイレなど備えた家などない時代であった。そこへ豚がそれらの生ゴミや汚物を食べていた。言ってみれば豚は町の「清掃車」だったのである。つまり当時の通りは汚物にまみれ、豚があっちこっち徘徊していたのである。
 このことは学生時代読んだ何の本か忘れてけど、ヨーロッパ中世の生活を記述した本にも書かれていて、この記述を読んで昔読んだ本のことを思い出した。
 ところがカペー家のフィリップ王子が馬に乗っていたときにそんな豚につまずいて、落馬して死んでしまった。それ以来、町中で豚を放置することが禁じられたが、このことは豚の自家飼育が禁止されたことになり、養豚業者の成立を促す。しかし、養豚業者の飼育費(町中に放り出しておけばえさ代はただである)や運搬費など上乗せされるから、豚肉の値段が高くなってしまった。しかも自家飼育に比べ、肉は固く、新鮮さに欠け、味が落ちる。しかも値段が高い。そこで安い腐った肉が以前より頻繁に出回るようになった。そして腐った肉の臭いを消すためにスパイスが今まで以上に必要になったという。
 阿部謹也さんの本で屠殺業者が賤視されたことが書かれていたのを以前書いたが、賤視された理由は、こんな事情のためもあるのかもしれない。

 砂糖と爪楊枝の話も面白かった。中世砂糖の代用品は蜂蜜であった。砂糖は高嶺の花であった。砂糖を口にできるのは王侯貴族だけであった。当然虫歯になるのも王侯貴族だけであった。従って虫歯は一種のステイタス・シンボルとなった。だから虫歯で歯が穴だらけになって、そこに食べ物のかすがたまるものだからどうしても爪楊枝が必要になった。人前で歯をほじくるのは行儀の悪いことではなく、富裕であることの印にもなった。当時の爪楊枝は使い捨てではなく、金属製で、ブローチのように彫刻や宝石がついたもので、それを帽子につけて持ち歩いたそうだ。
 そう言えばスプーンとナイフも原則としてマイスプーン、マイナイフとして食事に招待された客は持参したそうだ。


評価
★★★★

2006年07月19日

宮部みゆき著『理由』

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 この話は、北千住の高層マンション「ヴァンダール北千住ニューシティ」のウエストタワー2025室に関わった、それぞれ理由ありの人間達をめぐる話である。事件後関係者のインタビュー形式で話が進んでいく。
 6月のある嵐の夜この「ヴァンダール北千住ニューシティ」のウエストタワー2025室で一家四人殺人事件が起こる。殺された家族と思われる一家はそのマンションの持ち主小糸信治一家ではなかった。この2025室の住人はまわりが知らないうちに小糸信治一家から砂川一家に入れ替わっていたのである。殺されていたのは砂川一家と思われた。
 何故持ち主である小糸信治一家がおらず砂川一家がここに住んでいたのか?そして何故彼らが殺されなければならなかったのか?事件はこのマンションをめぐって謎と化していく。

 捜査が進むに当たり、この「ヴァンダール北千住ニューシティ」のウエストタワー2025室が競売にかけられていることが分かった。小糸信治は苦労してお金をやりくりしてこのマンションの一室を手に入れるが、もともと彼にとって分不相応な物件であり、しかも彼自身金遣いが荒く、その上妻静子も派手好きで、ブランド好きときていたので、破綻は時間の問題であった。結局借り入れた返済が出来ず、手に入れたマンションは競売にかけられ、彼ら一家はそこを出て行くはめになる。
 しかし小糸信治には見栄があり、何とかこのマンションを手放さないでいい方法がないかと模索しているときに一起不動産の早川一起社長と知り合う。彼は「占有屋」と呼ばれる競売を妨害して利益を得る人間であった。砂川一家は早川社長に雇われた者達であった。小糸信治は早川社長と組んで競売を妨害し、「買い受け人」である石田直澄から、自分のマンションを守ろうとしたのであった。

 一方でもともと競売物件というのは、何かいわくつきの物件が多く、その分相場より安いものとなっている。しかし一般民間人で素人の石田直澄が簡単に手を出せる物件ではなかったのである。そんな物件をなぜ石田直澄は買い入れたのか?そして砂川一家と思われる人達が殺害された嵐の夜、石田直澄は現場にいた。そしてもう一人赤ちゃんを抱いた女性もそこにいた。

 こんなところで話はやめる。今年はこれで宮部さんの本を3冊読んだことになる。今回は朝日新聞社刊のものを読んだ。

評価
★★★

2006年07月17日

司馬遼太郎著『街道をゆく』14巻

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 今回の旅は、「南伊予・西土佐の道」である。このシリーズでは随所に、開発という名の自然破壊、文化的遺産の破壊を憂ているが、今回はほとんど全編、行く所、行く所、この問題が顔を持ち上げている。たまたま司馬さんが行かれたときがそういう時期だったのかもしれないが、日本という国は開発という大義名分があれば、平気で長い年月をかけて培われてきた歴史的価値、文化的価値を損なう。
 
 司馬さんは、「われわれが持続してきた文化というのは弥生式時代に出発して室町で開花し、江戸期で固定して、明治後、崩壊をつづけ、昭和四十年前後にほろびた」と、宇和島を訪れて言っている。

 それもそういう価値の破壊を行政が平気でやるところがすごい。いい城が残っていても、平気で景観を損ねるコンクリート建物を近くに建ててしまう愚挙を愚挙と感じないほど神経的に麻痺した役人に我々は政治を任せているのである。たとえば高松塚古墳の国宝壁画損傷事故やカビの大量発生問題にしても、平気でいられる文化庁などもそうで、それが省庁あげてそれが歴史的・文化的価値があると絶賛しても、木っ端役人が、その保存を仕事にした場合、目先のことに追われて、その価値がなくしてしまうのである。
 開発というのは、今の時代に沿ったものであれば、住民は便利で機能的な生活が出来るから、そうするのであって、歴史的・文化的価値のあるものがそれを拒む理由はないのかもしれない。でも偶然残ったものであったとしても、はたしてそれを破壊してまでも、便利で機能的な生活を優先してもいいのかどうか、疑問が残るような気がする。たとえばヨーロッパでは今でも中世の町並みを残して、今の生活を維持しているところがたくさんある。うまい具合に過去の遺産と現在の生活を融合することは可能なんじゃないかと思ったりする。「故きを温ねて新しきを知る」という言葉もある。そこに住む人達だけに不便をかけながら、文化財の維持を求めるのはもちろん身勝手な言い分だとは思うけど、だからといって全部壊して、新しいものを作ればいいという発想は貧困だ。それこそ行政が率先してそういうことを考えて住民の生活を維持することを考えるべきであろう。
 壊すことは簡単だけど、少なくとも時間がたっているものを作り出すことは無理なのだから・・・。共存共栄とは難しい問題だろうけど、是非考えて欲しいものだと思ってしまう。よく言うスクラップアンドビルドという言葉をすべてに当てはめるのは、私には短絡的な気がするのだ。

 今回はなんだか歴史的文化財の保存が妙に気になってしまい、本の内容にはあまり踏み込んで書けなかった。でも歴史が好きな自分としては、いつか歳をとって、悠々自適な生活が出来るようになって、日本中を旅でもするようになったら、こういうものがちゃんと残っていて欲しいと思うから、あくまでも自分の願望を書いた。それは日本だけでなく、自分の好きなヨーロッパにおいても、そう思う。

 『街道をゆく』14巻にある「南伊予・西土佐の道」は、週刊「街道をゆく」の18号に収録されている。

2006年07月13日

司馬遼太郎著『街道をゆく』13巻

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 北朝鮮が7発のミサイルを撃って、国際社会に物議を醸し出しているし、竹島問題では韓国と日本が領有権をそれぞれ主張しあいもめている。小泉首相の靖国参拝問題もあって、朝鮮半島、中国とそれぞれうまくいっていない。
 そんな中偶然なのだが、今回朝鮮半島と縁が深い壱岐・対馬の紀行文を読むことになった。もし司馬さんが生きておられたら、現在の状況をどう憂うのだろうと、ふと思った。
 この「壱岐・対馬のみち」の中で、朝鮮半島と日本の関係を、司馬さんは次のように言われる。

 「当時もいまも日本と朝鮮の関係は複雑である。隣国との関係はたがいに堂々たる他人であることが結局真の親善につながることなのだが、この原則を外すと、隣国だけにすぐ糸が鳥の巣のようにもつれてしまい、最後には感情がむき出すか、もっとわるい状態になる」

 たとえば日本とヨーロッパならそれこそ文化がまったく違うものであるから、「堂々と他人」になれる。だからこそお互いを尊重しやすい。ところが日本と朝鮮とでは古代以来現在まで、あまりにも関係が親密すぎるが故に、ひとたびこじれてしまうと、どうにもならなくなってしまう。それが現在の状況であろう。
 しかしどうしてこうも朝鮮半島の人々は日本を憎むのであろうか?古代、日本という国が成り立つためには、どうしても朝鮮半島との関係なしにしては考えられない。稲にしても、鉄にしても、文化にしても、そして人にしても、古代朝鮮半島から伝わってきているからである。古代では日本は朝鮮半島と比べれば、全くの非文明国であった。そういう意味では朝鮮半島の人々には自分の国と比べて、日本という国は劣っていると思えるところがあるのかもしれない。
 そこへ李氏朝鮮が中国明を宗主国として儒教的礼教を原理とする政治体制をひいた。それが本場の中国以上に濃厚に、自ら「小中華」として任じていた。「中華」とは簡単にいえば対外意識において他国を野蛮人とみる意識である。そうすることによって自分達の意識を成り立たせていたのである。「古を尚ぶという停滞こそ儒教的には正しい姿であり、相手を正視する視点をもたずに野蛮国でもって片づけてしまわねば、自分の礼教が立たない。国家儒教とはそういうものである」らしい。そのため中国や朝鮮はその後凄惨な停滞に陥った。
 その一例がある。
 朝鮮通信使の申維翰という人物が徳川八代将軍吉宗の享保4年(1719年)にやって来る。彼は『海游録』という本を残しているが、これが横柄極まりない態度で日本側に接している。彼らが対馬藩に来たとき、藩主との面会場所で通信使たちが藩主に拝礼することに対して「そんな馬鹿なことがあるか」と強く思っていた。接待をした雨森芳州らは慣例でそうなっていると主張するが、申維翰は「然ず、この島中は朝鮮の一州にすぎない」と怒鳴るのである。
 対馬は平野がほとんどなく、米が取れない。そのため朝鮮を倭寇として襲うのであるが、朝鮮はそうした倭寇の行為を鎮めるために対馬藩に扶持米を出していた。だから対馬藩主は朝鮮の地方長官にすぎず、わざわざ中央の官人である申維翰自身が拝礼するのは礼にもとるというのである。これくらい礼教が徹底していた。
 そんな意識を潜在的に持つ人々がいる朝鮮半島に日本は倭寇、秀吉の朝鮮出兵、日韓併合など、かなりきわどいことをやってきたのである。感情がこじれないわけがない。韓国や北朝鮮が今でもこれほど礼教を信奉しているかどうかは分からないが、長い年月礼教が朝鮮半島を支配してきた以上、現在の朝鮮半島の人々のDNAに刷り込まれているかもしれないし、そうであれば過去日本が朝鮮半島で行ってきた行為をそう簡単に許せるわけがないのかもしれない。なまじ近い関係は、一度こじれるとなかなか修復が難しいものだ。
 こういう歴史的背景を知ると、最近の朝鮮半島との関係が友好なものになることが可能なのだろうかとふと疑問に感じてしまう部分がある。
 もちろん、いつまでもにらみ合っていても仕方がないのだが、どこか落としどころをお互い見いださないと、歴史が物語っているように関係がこじれるだけのような気がしてしまう。


 『街道をゆく』13巻にある「壱岐・対馬のみち」は、週刊「街道をゆく」の17号に収録されている。

2006年07月11日

司馬遼太郎著『街道をゆく』12巻

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 どうもこの地域、京都、奈良のから和歌山の地形が感覚的にうまくつかめない。いわゆる当時の政治の舞台から追放された人達が必ず逃げ込んでくるのが奈良の奥地から和歌山(熊野)であるようだが、華々しい都からそれほど離れた場所ではないはずなのに妙に山深い感じがする。実際山深いところなのだろうが、都落ちせざるを得ない身にそんなことを余計に感じるのかもしれない。

 今回その奈良の奥地、「十津川街道」を旅される。この十津川村は村としては日本最大の面積を誇る村なのだが、その96%が山林が占める。つまり米が取れない。だから江戸期から「大和十津川御赦免所、年貢要らず作り取り」という里謡がある。それくらい米が取れない。年貢が免除されているのではなく、米が取れないから免除するしかない土地なのである。穀物といえば稗、粟を食べてきたらしい。米は重病にかかったときだけ薬として摂った。
 しかしこの免租地ということが、逆に「わが一郷は特別な土地ではあるまいか」という妙な誇りとなって、名誉の土地だから免租地なのだという意識となった。
 一方で、米が取れない現実がある。だから免租地なのだが、政治の支配者が変われば、自分達の土地が免租地であることを安堵してもらわないと、十津川の人々は生きていけない。そのため壬申の乱、保元の乱、南北朝の乱、大阪の陣といった幾度か中央の争いに兵を出してきた。彼らはそのことで一度も恩賞をもらうために出兵したのではない。法的に根拠の曖昧な自分たちの土地の所有権を安堵してもらうために出兵したのであった。
 このことが逆に政治的に利用されたこともある。幕末の天誅組である。文久3年(1863)8月13日、尊王攘夷の断行を祈願するための孝明天皇の大和行幸が朝儀により決定された。17日、吉村寅太郎総裁はじめ天誅組志士30人は、五條代官所を襲い五條新政府を号し、倒幕の旗を揚げた。しかし翌日京都で政変が起こり、それまで朝廷を擁していた長州が都落ちをする。大和行幸は中止され、天誅組の義挙はその大義名分を失い、彼らに幕府から全国に追討令が出た。
 天誅組は十津川郷には入り、吉村寅太郎は「五条御政府」(このことは明治国家が成立する前に天皇の中心に置く政府が成立していたことになる)の総裁として、恫喝めいた布告を出し、十津川郷士をかき集めた。吉村が恫喝した布告とは、十津川郷が持っていた特権(免租地の特権)を、従わなければ奪うぞというものであった。十津川郷士は不眠不休で高取城へ進攻するが、やがて離反する。
 一方で治安の悪化した京都の御所を十津川の人々は兵として門番も務めた。当時京都は会津をはじめ薩長土などが京都の治安を守っていたが、それぞれ政治的思惑があって、不安定であった。だから十津川の兵はこうした政略とは無縁だっただけに、当時の孝明天皇は「今夜は十津川の者が門を守っているから、安心してねむることができる」とつぶやいたという。
 戊辰戦争でも十津川の兵はよく働き、戦後新政府から恩賞をもらい、更に全村2,233戸がことごとく士族に列せられた。東京遷都後も皇居の警備は薩長土の出身の者が受け持ったが、そこに十津川出身者も加わった。
 こうして明治維新後も十津川は今までの生活を維持してきた。しかしいつまでも免租地ということはなかっただろうし、いつの頃からか政治体制の一員として義務を負うことになった。
 とにかく山林が殆ど占める村では、米を主体とする年貢など納めることができない。できないから村を守るため、兵まで出して、その当時の支配者にある意味過酷なまでに媚びてきた。それほど自然が厳しいところであった。
 そうまでして守ってきた村を明治22年8月18、19日の大豪雨が襲った。一夜で地形まで変えるほどひどかった。十津川郷の過半は再起不能とみてよかった。そんな中、明治政府は十津川の被災者を北海道に移住させ、新十津川村を作らせた。
 その対応が割と迅速であったのは、十津川の人々が明治政府樹立に甚大な力をかしたお陰だという。
 この十津川村の紀行文を読んでいると、厳しい自然環境の中で「生きる」ということがどれほど大変であったか思い知る。


 『街道をゆく』12巻にある「十津川街道」は、週刊「街道をゆく」40号に収録されている。

2006年07月09日

五木寛之著『新・風に吹かれて』

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 やっぱり懐かしかった。ちょっと前に『みみずくの夜(ヨル)メール』はなんか昔と違うと違和感を持ったのだけど、今回は昔のエッセイの感じが残っていてよかった。
 五木さんのこの『新・風に吹かれて』(講談社刊)のように日々のさりげない文章が書けるのがうらやましい。さりげないのだけど、読んでいて、うん、そうだよなぁと思えるのがいい。
 昔から五木さんの「もの」にこだわる姿が好きで、それがどうでもいいことのようにこだわっているところが滑稽でもあるのだが、一方で共感してしまう。今回靴や鞄に持論を展開しているのだが、そこでもちゃん「しょせん人間あっての道具だろう。こだわりは大事、しかし行きすぎは滑稽になる」と自制が効いている。世の中のことに対する苦言や文句も同様なスタンスをとる。
 ものごとにこだわり続けている文章を読んでいると、こだわるあまり、文章が毒々しくなることがある。読んでいて、最初はうん、うんとわかっちゃうのだが、だんだんもう勘弁してくれと言いたくなるほどしつこく持論を展開する人がいる。言うことだけさっさと言って、さっと引いてしまうくらいの方がいい。それが五木さんのエッセイには感じられて、読んでいても気持ちいい。そういうのは文章を書くテクニックとして覚えておきたいと思うのだ。(案外私もくどい方なので・・・)
 たとえば、五木さんがどういうわけか寒いのに弱いということが知れ渡ってしまっていた。しかし五木さんは敗戦を迎えたときは冬になると零下何十度にもなるピョンヤンにいたのである。寒いのに弱いわけがないと主張する。弱いのはききすぎの冷房と、人工的な熱風なのだという。そこで冷房をうんときかせることがサービスと考えていることに反論し、クールビズに対しても言う。
 「政府主導で服装を変えるより、まずビルや店舗の冷房を弱くすればいい。国会も、電車も、冷えすぎないようにすることが先。
 そうすれば誰でも自然にネクタイをはずし、上着を脱ぐだろう。
 北風と太陽の話は、そういう理屈だ。服装を変えることほうを先にするから効果がないのである。
 どこもかしこも夏らしい自然の暑さがよみがえれば、ネクタイをつけろと強制しても、世の人びとは勝手にはずすのである」と。
 しかしここまでである。これ以上は言わない。後は最近のタクシーが車内の温度はこれくらいでいいかと親切にきいてくれることを有り難く思うのである。
 
 昔のエッセイと変わったところはどこだろうとふと考えてみた。昔のエッセイではヨーロッパ各地を旅されて、そのことをよく書かれていたが、今回は「日本列島で出あう発見のほうがはるかに興奮することが多くなった」というくらい、日本各地のことが書かれている。それも寺ばかり。そうなのだ。最近の五木さんの著作を見てみると、仏教に関することが多くなっているようで、このエッセイも必ず仏教的要素が書かれている。この点昔と比べ若干辛気くさくなっているところがある。五木さんも歳をとってきているので、昔のような若々しさはだんだん影が薄くなってきているかもしれない。でも、それはそれでいいような気がする。
 何だか昔のエッセイをまた読み返したくなってきた。

評価
★★★

2006年07月08日

司馬遼太郎著『街道をゆく』11巻

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 今回このシリーズを読むにあたり、週刊「街道をゆく」も並行して読んでいるというのは何度も書いた。しかしそれは読んでいるというより、眺めているというのが正しいかもしれない。
 司馬さんが訪ねた場所にある遺跡や自然がどんなものなのか、今までは文章から想像するしかなかったのだが、今回は実際にそこの写真がこの週刊「街道をゆく」に掲載されているので、お陰でリアルに感じることができる。
 たとえば、今回は「肥前の諸街道」(佐賀県・長崎県)を旅されているのだが、ここには元寇、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の防塁の跡が残っている。それがどんな石積みなのかこの週刊「街道をゆく」を見れば一目で分かる。もちろん文章の中にもその石積みがどんなものなのか記述があるが、そこから頭の中で想像するより、やっぱり写真で見た方分かりやすい。
 その元寇である。何故中国の元が日本に攻めてきたのか、その背景は知らなかった。これも学校での歴史教育の弊害だと思うのだが、1274年と1281年に元が日本に攻めてきたという歴史的事実は覚えているのだが、それでは何故元は海を越えて日本まで攻めて来るのか教えてくれなかった。
 中国の王朝は元以前も元以後も重農主義王朝であって、それ以外の統治性格は考えられなかった。ところが元のみは、重商主義をもって国を治めた。もともと元は遊牧民族の征服王朝であったため、農業よりも、商業の方が理解できたし、事実商業民族である色目人を漢民族より上位において重宝した。その経済政策も紙幣制一本やりで、しかも銀が裏打ちする兌換制であった。
 ということは紙幣制を維持するためには、国に銀がないと崩壊する。そのため元は銀を絶えず準備しておかないとならない。元は銀のやりくりに苦労し続けた。
 そこへマルコ・ポーロが書いたように、日本は黄金の島で、大量の金銀を産出するという情報を得て、日本を征服することで大量の銀を得ようとした。これが元寇が起こる理由であった。しかし、二度とも台風で元は壊滅的被害を被り、失敗したが、フビライその後でも日本への侵攻を諦めなかったという。しかしフビライが死亡し、日本への侵攻は終わった。
 これを読んで、なるほどこういう理由で、元が日本に攻めてきたのかと、歴史的事実にはちゃんとした理由があるのだなぁとあらためて知った。

 ということで、この佐賀県・長崎県の東シナ海に面する地帯は、この後イエズス会ともにポルトガル、スペイン、そして純粋に商業をするためにその後、オランダ、イギリスの国々がやって来る。
 実はちょっと疑問に思っていることがある。これらの国々が何故この地帯にやってきたのかということなのだ。たとえば元なら分かる。この地帯は玄界灘をはさんで、朝鮮半島と最も近いから、そこから日本に来る場合ここであっただろうと推測はできる。しかしヨーロッパの国々がどうしてここに来るのか、地図を眺めていても不思議な気がする。たとえば鹿児島でもよかったはずである。見ようによってはこちらの方が来やすいような気がする。
 ただ、この肥前にいる豪族などは、これやヨーロッパの国々と貿易をすれば巨万の富を得ることができるので、中国の海賊の親方みたいな存在の王直という人物に頼んで彼らを呼んだ。そのためなのかもしれない。当時ポルトガルはマカオまで来ていたから、そのまま陸づたいに来れば、この肥前に至るが、詳しいことは分からない。あくまでも私の推測である。

閑話休題
 ポルトガルはマカオまで来ており、更に東にマカオと同じ場所を求めていたという。私は平成6年にマカオに行っている。マカオといえば、聖ポール天主堂がおそらく最も知られているシンボル的な存在である。
 この天主堂は17世紀初頭、イエズス会のイタリア人宣教師によって設計されたもので、ローマのジェス教会をモデルにした。完成まで20年の歳月が費やされ、完成当時は東南アジアで一番壮大な教会だと言われた。しかし、1835年に隣にあった学校の炊事場から出た火が、折りからの台風の強風にあおられて飛び火し、教会は正面と階段を残して焼け落ちてしまった。
 現在はこの写真(私が撮影したもの)のように、本当に正面の壁一枚しか残っていない。


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 ネットで調べてみると、壁の正面はてっぺんに十字架をいただく5段構成で、キリストの少年像や聖母マリア像、フランシスコ・ザビエルの彫像が見られる。中でもキリストやマリア像の周りを取り巻く花の彫刻は菊と牡丹をかたどっていて、菊は日本を、牡丹は中国を表しているという。これは天主堂の建設には徳川幕府のキリシタン弾圧で、長崎から逃れてきた日本人信徒による多大な協力があったからで、建設に加わった当時の日本人と中国人の固い友情をシンボライズしたものらしい。
 何となく、当時現地のガイドにこのことを聞いたような気がする。

 さて、大航海時代の16,17世紀にヨーロッパのこれらの国々は日本にやってきた。最初はイエズス会とともにポルトガルが平戸にやってきた。何故イエズス会とセットかというと、ポルトガルという国の事情による。ご存じのようにヨーロッパの端にある小さな国が大航海時代の一翼を担うのは、分相応な大事業であった。それを継続的に行うためには、超国家的な勢力から庇護を受けることが必要であった。それがローマ教皇と手を結ぶことで、ポルトガルが占領した土地を「キリスト教騎士団」の領地にしてしまえば、他の強国が干渉できない。これがポルトガルとイエズス会との関係であった。だから日本側の言い分のように貿易だけやりたいといっても、「入信しなければ、貿易の利を与えない」と彼らは言うのである。日本側はとにかくヨーロッパの国々と貿易することで利益を得たいから、仕方がないので自分の家臣を信者にして、彼らと貿易をするのである。あるいは大村純忠みたいにミイラ取りがミイラになってしまったのもあるが・・・。
 しかし平戸を支配していた松浦氏は、頑固にキリスト教を拒み、しかも港湾があまりいい環境ではなかったので長崎に最終的に移る。ポルトガルが去った後の平戸にはオランダがやってくる。結局ポルトガルは本国でスペインに敗れ、この舞台から最終的に撤退していく。その後はヨーロッパではオランダが唯一日本と貿易をしていくのは周知の通りである。
 ところでイエズス会のような行き過ぎた布教方法は、いつかは切支丹に日本が占領されてしまうのではないかという被害者意識を植え付けるだけであった。やがて徳川幕府はカトリックを追い出し、プロテスタントのオランダ人のみに貿易を許したのであった。
 イエズス会には損得勘定もどこかにあったかもしれないし、あるいはあまりにも純粋な信仰心は相手に過激に映ることだってあろう。その点オランダはビジネスとして貿易を日本としてきた。司馬さんは言う。
「日本の貿易の利益というのは、とほうもないほど大きかった。日本は銀にくらべて金の安い国で、欧州の値段からみれば1/3程度にすぎず、日本から金を持ちかえるだけで巨利を博した。この日本の金相場の特殊さはその後、徳川時代になっても変わらず、オランダ人が、尊大な徳川幕府の態度と牢獄のような出島の暮らしに二世紀半も耐えていたのも、この利があるからであった。日本の金が世界相場の仲間入りをしたのはようやく明治維新になってからで、そのころにはもう佐渡も貧鉱化し、国産の金が底をついてしまった。四百年以上にわたって、日本という生体は、胃に穴があいて下血しつづけていたようなものである。しかし向こう側いえば植民地になりがたく、ろくに魅力的な産物もない国を相手にしつづけたのは、金の魅力だけであったといっていい。つまりそのおかげで、世界の癖陬にあるこの国に西洋や中国の文物が少量ながらも刺激としてたえず入りこみ、日本文化の成立に重要な役割を果たしてくれたことを思えば、安いものであったかもしれない」と。
 
 なるほどこういった裏事情があったから、ヨーロッパ諸国、特にオランダ人は日本と貿易したのだとよく分かった。

 この『街道をゆく』11巻に収録されている街道は、週刊「街道をゆく」の以下に収録されている。

「肥前の諸街道」は週刊「街道をゆく」の第47号

2006年07月05日

「全国小売書店経営実態調査」

 全国書店新聞の2006年7月1日号に、「全国小売書店経営実態調査」の調査結果が掲載されている。予想通り、経営状態が悪化していると感じている書店が「悪くなった」62.5%、「やや悪くなった」23.1%と経営状態の悪化を全体の85%以上が感じていることになる。
 その理由の最大の原因が「客数の減少」が84.2%と突出して高く、次いで「大型書店の出店」が44.7%、「立地環境の悪化」が40.0%、「ベストセラー・売れ筋商品の入荷難」が35.2%となっている。つまり自分のところは悪くなく、外的要因が原因だといっているわけだ。
 そして日書連に望む対応が、「書店マージンの拡大」が59.6%で、次いで「客注品の迅速確実化」が51.4%、「出版物再販制の擁護」が44.9%、「適正配本」が40.3%となっている。

 面白いのが、この「全国小売書店経営実態調査」の回収率である。組合員6,949名に対して回収数が2,028票の29.9%しかないということなのである。7割がこの「全国小売書店経営実態調査」を無視したか、意味のないものとみたか、とにかく協力しなかったということなのである。「全国小売書店経営実態調査」という全国が聞いて呆れる。
 何でこうなるか?簡単である。アンケート調査票を組合員に郵送して、送り返してねという手の抜いたことをやったからである。日書連が本当に全国の書店の実体を知りたいと思うなら、日書連幹部自ら赴いて、全国の書店を調べるべきなのである。それでなくとも家族総出で朝から晩まで働いている書店が、こんなことに関わっている時間なんかあるわけがない。こんな調査票を書くなら、返品伝票を書いた方がはるかにましだ。(今は無伝票だから、返品伝票は書かなくてもいいのだけど、それでも1冊でも返品を作った方がましだ)それで出てきた結果がこれで、経営が悪化したのは人のせいにして、改善するには自分の力ではできないから、問屋や出版社に頼み込むしかないのである。呆れちゃう。
 ちなみに日書連に希望することとして「情報化の推進」は10.2%、「書店人・従業員の教育・研修」は7.3%、「協業化の促進」は4.0%しかない。

 一方でこの新聞には北海道のくすみ書房さんの「中学生はこれを読め!本屋のオヤジのおせっかい 札幌から全国へと拡大」という記事も掲載されている。遅いちゅうの!このくすみ書房さんのことは先日朝日新聞に掲載されていたのを、私は書いた。今頃業界の新聞がくすみ書房さんのことを記事にするのは、どういう神経をしているんだろう。こうした成功例をどんどん掲載して、他の書店経営に参考になるよう業界新聞が率先して記事にして知らすべきだと思うのだが、どうだろう?
 まぁ、取材記事なので読んでみた。読んでみたさすがだなぁとあらためて感心しちゃった。「中学生はこれを読め!」という独自の企画以外にも、「なぜだ?売れない文庫フェア」なんていう売れ筋ランク外の文庫フェアもやっているらしい。その結果売れない文庫が売れ始め、前年比20%減の売上が15%増に転じたという。またこれ以外にも「名作をBGMに」と店内で岩波文庫の朗読会もやっているという。なんだかジャネット・ワトソンのブック・アンド・カンパニーというニューヨークで最も愛された本屋さんのことを思い出しちゃった。この本屋さんのことはリン・ティルマンの『ブック・ストア』(晶文社刊)に書かれている。
 くすみ書房の久住社長は言う。「身の回りにいくらでもチャンスはある。見つけたらすぐ実行。実行し始めたらヒト・モノ・情報・・・すべてが集まってくる。いま町の本屋さんが元気がない。こんなときこそ誰もやらないことをやる勇気が必要」と。まったくその通りだと思う。

 私は本屋さんの組合活動に基本的に疑問に思っている。だから何度も批判してきた。何度か書店組合の千代田支部の会合に出席したこともある。確か書泉さんの秋葉原出店に対して、組合に何とかしてくれと頼んだと思う。当時として情けない話ではあるが、自分のところでは書泉さんの出店に対して対抗策がなかったし、能力さえなかったから、組合に何とかしてくれと頼み込むしかなかったのである。(だから最終的に本屋を撤退せざるを得なかった。それまで競合店がなかったことでのほほんと本屋を続けていたつけが回ってきたのである)
 でも、最終的には書泉さん出店を認めざるを得なかったし、せいぜい営業時間の短縮ぐらいしかできなかった。
 今にして思えば、書泉さんが秋葉原に出店することは自由だし、規制する理由なんてない。そんなことより、こうした大書店の出店に対して、中小書店が団結してどう生き残っていくか、そのことを真剣に考えるべきだったのではないかと思うのだ。中小書店が組合を通して一つにまとまって、それこそ中小書店のまとまりが大書店のような機能を持てるようにすればいいのである。資本力の小さな書店が大書店に立ち向かうことなど、所詮無理な話だ。だけどそれぞれのお店がまとまって一つの機能をもった書店になれば、十分対抗できるし、いまだに大書店の出店に対して悩まされている中小書店があるのだから、余計にそうすべきであると思う。
 そのために書店組合に望むべきことは、「書店マージンの拡大」とか、「客注品の迅速確実化」とか、「出版物再販制の擁護」、「適正配本」とか目先のことばかりじゃなくて、「情報化の推進」、「書店人・従業員の教育・研修」、「協業化の促進」を最優先にやらなければならないと思う。
 年会費を何万円もとっておいて、その会費を納涼大会や観劇会などに使ってしまっているようじゃお話にならない。いい加減に目を覚ますべきだ。

2006年07月02日

東野圭吾著『予知夢』

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 物理学者の湯川と刑事の草薙のコンビの第二作、『予知夢』(文春文庫)を読む。今回も前作同様5編の短編で連作なのだが、前作と違う点は、今回はマニアックで、非現実的な道具を使った事件ではないこと。もう一点は、一見オカルト的な事件なのだが、謎解きをしてみると、偶然オカルト的な要素を帯びてしまい、解明してみると単純なトリックで、科学的、論理的、現実的に説明できること。
 そのため前作より楽しめた。又トリックもある程度納得できるものなので、これはこれでいいんじゃないかと思う。やっぱり謎解きが謎解きとして楽しめないと、推理小説を読む意味がないではないか。

評価
★★

2006年07月01日

東野圭吾著『探偵ガリレオ』

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 東野さんの『容疑者Xの献身』が面白かったので、その作品に登場する物理学者の湯川と刑事の草薙のコンビの第一作『探偵ガリレオ』(文春文庫)を読んでみた。

 はっきり言ってつまらなかった。

 5編の短編で連作になっているのだが、殺人事件がすべて非現実的なのである。つまり殺し方が、何か特殊な道具を使っておこなわれるからだ。あるいは自然現象がたまたま何らか作用して、特殊な状況を作り出したものなど、本来あり得ないことで殺人事件が起こる。この文庫の解説者は著者が「マニアックでいいから、科学を題材にしたミステリーを書きたいと思っていた」という著者の言葉を紹介しているが、あまりにも特殊過ぎるような気がしてならない。
 やっぱりこの手の推理小説では、できる限り現実的な方がリアル感があっていいし、その方がぞくぞくする。『容疑者Xの献身』ではそうした特殊な道具を使っていなく、うまいアリバイ工作だったので、それを期待したのだが・・・。
 実はもう1冊このシリーズを買ってしまっている。どうやらこれもこの本と同じ感じみたいなので、正直失敗したなぁと今思っている。仕方がないから、次に読む予定だけど、ちょっと気が重い。

評価