2006年07月29日
司馬遼太郎著『街道をゆく』16巻
今回は「叡山諸道」で、いわゆる比叡山の道を司馬さんは歩かれている。以前にも書いたが、私はこのあたりの歴史的背景がうまくつかめなし、日本仏教史にうといので、なかなか理解しにくい部分がある。
まったく個人的なことなのだが、中学校の修学旅行のとき比叡山の根本中堂へ行ったことがある。多分、寺の関係者だと思うのだが、とにかくそこで比叡山の歴史など、説明を聞いた。その話の内容はもちろん忘れてしまっているけれど一つの言葉を今でも覚えている。それが最澄がいったという「一隅を照らすこれ則ち国宝なり」という言葉である。何故か比叡山と聞けばこの言葉を思い出すのだ。
この「一隅を照らすこれ則ち国宝なり」という言葉は最澄が書いた『天台法華宗年分学生式(てんだいほっけしゅうねんぶんがくしょうしき=山家学生式)』にあるらしい。詳しくは「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、一隅を照らすこれ則ち国宝なり」というらしい。「径寸」とは金銀財宝のことで、「一隅」とは今我々がいる世界といっていいのだろう。
つまりこの言葉の意味は、お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも変えがたい貴い国の宝であるという意味らしい。一人ひとりがそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。そして自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せ求めていこう。「人の心の痛みがわかる人」「人の喜びが素直に喜べる人」「人に対して優しさや思いやりがもてる心豊かな人」こそ国の宝であるということになるらしい。(これはネットで調べて分かった)
この自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せ求めていくという考えが最澄の考えの基本みたいだ。最澄がやがて展開していく大乗仏教は「草木も土も洩れなく成仏する」(草木国土悉皆成仏)という「人はみんな仏になれる」あるいは「いけるものすべてが仏になれる素質をもっていて、生けるものだけでなく、草木も山河も石ころもすべて仏性をもっている」という平等思想であった。この考えは当時の奈良仏教からすればとんでもない話しであったらしい。奈良仏教では、さとりをひらくのは自分のためであり、人のためではないとしていたし、そのさとりをひらける人間も特定の人間に限られるとしていたからである。このため最澄をはじめその後に続く僧たちは、奈良仏教界と公開討論みたいな宗論をしていた。そしてその宗論にうち勝つことで、叡山の地位向上をめざしてきた。
最澄は中国に渡って教典を持ってきてもその整理を終える前に死んでしまった。また空海のように中国に渡る前に自分の教義を会得していたわけでもなかったらしい。そのため最澄の死後、その後に続く僧たちは、最澄が持ち込んだ教典の整理や教義の確立に努めた。
一方で当時比叡山は「一山大衆三千」といわれるくらいたくさんの僧やその関係者がいて、いわば大学みたいな感じであったようだ。それに最澄の天台宗や空海の真言宗が説いてきたのは「鎮護国家」であった。それは当時の天子・王朝を守ることにあり、いわば国家仏教であった。従って当時の律令体制、すなわち荘園制の体制側に比叡山はあった。要するに土地や財産を荘園制度によってたくさん持っていたのである。
ところが鎌倉幕府が成立し律令体制が崩壊したとき、必然的に比叡山も衰退せざるを得なくなった。ただ空海と決定的に違うのはその人気である。高野山の真言宗も国家仏教であった以上、律令体制が鎌倉幕府の成立で崩壊するのであれば、衰えていいはずなのにそうはならなかった。それは高野聖のお陰であった。
鎌倉・室町の高野山では、正規の僧はただ学問をしていればいいだけで、非正規の存在である高野聖が教義の販売を請け負っており、常時数千という高野聖が諸国を歩き回っていた。彼らは、空海(弘法大師)の超人的な神秘譚を勝手に創作して諸国にまき散らしていた。だから日本各地に「弘法大師ゆかり」のなんていうのが存在するのである。
こうしたとはある意味、叡山の僧は形而上学に明け暮れていたことになり、それが叡山の品の良さともなっていた。(もっとも平安末期はかなりひどい状態だったらしいが・・・)一方高野山には土俗のたくましさとか、まがまがしい性質が(それは空海自体の性格ではもちろんないのだが)高野聖によって作られていったことにその差が生まれた。
今回このシリーズを読み直していると、ほんの少し仏教の知識が増えつつある感じがする。
『街道をゆく』16巻にある「叡山諸道」は、週刊「街道をゆく」の23号に収録されている。
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- by kmoto
- at 07:08
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