2006年07月11日
司馬遼太郎著『街道をゆく』12巻
どうもこの地域、京都、奈良のから和歌山の地形が感覚的にうまくつかめない。いわゆる当時の政治の舞台から追放された人達が必ず逃げ込んでくるのが奈良の奥地から和歌山(熊野)であるようだが、華々しい都からそれほど離れた場所ではないはずなのに妙に山深い感じがする。実際山深いところなのだろうが、都落ちせざるを得ない身にそんなことを余計に感じるのかもしれない。
今回その奈良の奥地、「十津川街道」を旅される。この十津川村は村としては日本最大の面積を誇る村なのだが、その96%が山林が占める。つまり米が取れない。だから江戸期から「大和十津川御赦免所、年貢要らず作り取り」という里謡がある。それくらい米が取れない。年貢が免除されているのではなく、米が取れないから免除するしかない土地なのである。穀物といえば稗、粟を食べてきたらしい。米は重病にかかったときだけ薬として摂った。
しかしこの免租地ということが、逆に「わが一郷は特別な土地ではあるまいか」という妙な誇りとなって、名誉の土地だから免租地なのだという意識となった。
一方で、米が取れない現実がある。だから免租地なのだが、政治の支配者が変われば、自分達の土地が免租地であることを安堵してもらわないと、十津川の人々は生きていけない。そのため壬申の乱、保元の乱、南北朝の乱、大阪の陣といった幾度か中央の争いに兵を出してきた。彼らはそのことで一度も恩賞をもらうために出兵したのではない。法的に根拠の曖昧な自分たちの土地の所有権を安堵してもらうために出兵したのであった。
このことが逆に政治的に利用されたこともある。幕末の天誅組である。文久3年(1863)8月13日、尊王攘夷の断行を祈願するための孝明天皇の大和行幸が朝儀により決定された。17日、吉村寅太郎総裁はじめ天誅組志士30人は、五條代官所を襲い五條新政府を号し、倒幕の旗を揚げた。しかし翌日京都で政変が起こり、それまで朝廷を擁していた長州が都落ちをする。大和行幸は中止され、天誅組の義挙はその大義名分を失い、彼らに幕府から全国に追討令が出た。
天誅組は十津川郷には入り、吉村寅太郎は「五条御政府」(このことは明治国家が成立する前に天皇の中心に置く政府が成立していたことになる)の総裁として、恫喝めいた布告を出し、十津川郷士をかき集めた。吉村が恫喝した布告とは、十津川郷が持っていた特権(免租地の特権)を、従わなければ奪うぞというものであった。十津川郷士は不眠不休で高取城へ進攻するが、やがて離反する。
一方で治安の悪化した京都の御所を十津川の人々は兵として門番も務めた。当時京都は会津をはじめ薩長土などが京都の治安を守っていたが、それぞれ政治的思惑があって、不安定であった。だから十津川の兵はこうした政略とは無縁だっただけに、当時の孝明天皇は「今夜は十津川の者が門を守っているから、安心してねむることができる」とつぶやいたという。
戊辰戦争でも十津川の兵はよく働き、戦後新政府から恩賞をもらい、更に全村2,233戸がことごとく士族に列せられた。東京遷都後も皇居の警備は薩長土の出身の者が受け持ったが、そこに十津川出身者も加わった。
こうして明治維新後も十津川は今までの生活を維持してきた。しかしいつまでも免租地ということはなかっただろうし、いつの頃からか政治体制の一員として義務を負うことになった。
とにかく山林が殆ど占める村では、米を主体とする年貢など納めることができない。できないから村を守るため、兵まで出して、その当時の支配者にある意味過酷なまでに媚びてきた。それほど自然が厳しいところであった。
そうまでして守ってきた村を明治22年8月18、19日の大豪雨が襲った。一夜で地形まで変えるほどひどかった。十津川郷の過半は再起不能とみてよかった。そんな中、明治政府は十津川の被災者を北海道に移住させ、新十津川村を作らせた。
その対応が割と迅速であったのは、十津川の人々が明治政府樹立に甚大な力をかしたお陰だという。
この十津川村の紀行文を読んでいると、厳しい自然環境の中で「生きる」ということがどれほど大変であったか思い知る。
『街道をゆく』12巻にある「十津川街道」は、週刊「街道をゆく」40号に収録されている。
- by kmoto
- at 20:55
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