2006年07月13日

司馬遼太郎著『街道をゆく』13巻

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 北朝鮮が7発のミサイルを撃って、国際社会に物議を醸し出しているし、竹島問題では韓国と日本が領有権をそれぞれ主張しあいもめている。小泉首相の靖国参拝問題もあって、朝鮮半島、中国とそれぞれうまくいっていない。
 そんな中偶然なのだが、今回朝鮮半島と縁が深い壱岐・対馬の紀行文を読むことになった。もし司馬さんが生きておられたら、現在の状況をどう憂うのだろうと、ふと思った。
 この「壱岐・対馬のみち」の中で、朝鮮半島と日本の関係を、司馬さんは次のように言われる。

 「当時もいまも日本と朝鮮の関係は複雑である。隣国との関係はたがいに堂々たる他人であることが結局真の親善につながることなのだが、この原則を外すと、隣国だけにすぐ糸が鳥の巣のようにもつれてしまい、最後には感情がむき出すか、もっとわるい状態になる」

 たとえば日本とヨーロッパならそれこそ文化がまったく違うものであるから、「堂々と他人」になれる。だからこそお互いを尊重しやすい。ところが日本と朝鮮とでは古代以来現在まで、あまりにも関係が親密すぎるが故に、ひとたびこじれてしまうと、どうにもならなくなってしまう。それが現在の状況であろう。
 しかしどうしてこうも朝鮮半島の人々は日本を憎むのであろうか?古代、日本という国が成り立つためには、どうしても朝鮮半島との関係なしにしては考えられない。稲にしても、鉄にしても、文化にしても、そして人にしても、古代朝鮮半島から伝わってきているからである。古代では日本は朝鮮半島と比べれば、全くの非文明国であった。そういう意味では朝鮮半島の人々には自分の国と比べて、日本という国は劣っていると思えるところがあるのかもしれない。
 そこへ李氏朝鮮が中国明を宗主国として儒教的礼教を原理とする政治体制をひいた。それが本場の中国以上に濃厚に、自ら「小中華」として任じていた。「中華」とは簡単にいえば対外意識において他国を野蛮人とみる意識である。そうすることによって自分達の意識を成り立たせていたのである。「古を尚ぶという停滞こそ儒教的には正しい姿であり、相手を正視する視点をもたずに野蛮国でもって片づけてしまわねば、自分の礼教が立たない。国家儒教とはそういうものである」らしい。そのため中国や朝鮮はその後凄惨な停滞に陥った。
 その一例がある。
 朝鮮通信使の申維翰という人物が徳川八代将軍吉宗の享保4年(1719年)にやって来る。彼は『海游録』という本を残しているが、これが横柄極まりない態度で日本側に接している。彼らが対馬藩に来たとき、藩主との面会場所で通信使たちが藩主に拝礼することに対して「そんな馬鹿なことがあるか」と強く思っていた。接待をした雨森芳州らは慣例でそうなっていると主張するが、申維翰は「然ず、この島中は朝鮮の一州にすぎない」と怒鳴るのである。
 対馬は平野がほとんどなく、米が取れない。そのため朝鮮を倭寇として襲うのであるが、朝鮮はそうした倭寇の行為を鎮めるために対馬藩に扶持米を出していた。だから対馬藩主は朝鮮の地方長官にすぎず、わざわざ中央の官人である申維翰自身が拝礼するのは礼にもとるというのである。これくらい礼教が徹底していた。
 そんな意識を潜在的に持つ人々がいる朝鮮半島に日本は倭寇、秀吉の朝鮮出兵、日韓併合など、かなりきわどいことをやってきたのである。感情がこじれないわけがない。韓国や北朝鮮が今でもこれほど礼教を信奉しているかどうかは分からないが、長い年月礼教が朝鮮半島を支配してきた以上、現在の朝鮮半島の人々のDNAに刷り込まれているかもしれないし、そうであれば過去日本が朝鮮半島で行ってきた行為をそう簡単に許せるわけがないのかもしれない。なまじ近い関係は、一度こじれるとなかなか修復が難しいものだ。
 こういう歴史的背景を知ると、最近の朝鮮半島との関係が友好なものになることが可能なのだろうかとふと疑問に感じてしまう部分がある。
 もちろん、いつまでもにらみ合っていても仕方がないのだが、どこか落としどころをお互い見いださないと、歴史が物語っているように関係がこじれるだけのような気がしてしまう。


 『街道をゆく』13巻にある「壱岐・対馬のみち」は、週刊「街道をゆく」の17号に収録されている。

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