2006年07月25日
司馬遼太郎著『街道をゆく』15巻
今回の旅は「北海道諸道」で、松前、函館、江差と、札幌、厚田、新十津川村、そして旭川を訪ねられている。
この北海道の旅で問題になるのはその寒冷という気候である。アイヌはもともとこの地で暮らしていたわけだから、その寒さに対応した暮らしぶりがあったが、この地に入ってきた和人はどういうものか、寒さ対策をしていない。そのことがこの地に入ってきた和人に悲惨な状況を生むことになる。司馬さんは面白いことを言っている。
「日本列島は、いわゆる縄文期の終了までは、多様な生活文化が、同時に併存していただろう。
現代風にいえば多民族社会であった。もしただ一個の条件-イネの渡来-さえなければ、多民族の同居地域として、こんにちとはちがった別種の発達史を持ったのではないかと思われる。
(略)
それほどイネの到来はこの四つの島の古代的多様社会に、大きくローラーをかけて一つの文化に地均ししてしまうほど、強烈であった」と。
つまり米への信仰が強かったということである。何故かというと、その生産力による。つまり米一粒で何倍もの収穫ができ、多数の人口を養えるのである。そのため「上代日本で、稲作そのものが信仰となり、同時に政治になったのはむりのないことであった」そこへ鉄器が農具として備わったため、稲作の普及が急速に広まり、本来南方系の植物であるイネを寒冷地である、東北、北海道へと強引に普及させることとなる。しかし北海道ではなかなか根付かなかった。そのため米を基準とした中央集権という画一的なローラーから免れることとなり、アイヌ文化が残った。
一方でイネが南方系植物であるということは、その稲作文明が多分に南方的住居思想をもつことになり、本来寒さから無防備な住居を生むことになる。だから朝鮮のオンドルやロシアのペチカみたいな暖の取り方をする住居思想が生まれなかった。暖をとることが必要なかったというべきかもしれない。決定的に夏向きの建築様式なのである。「このことは、最初に主食の生産とともに根付いた文化というものが民族の歴史のなかでいかに変化しがたいものであるかを思わせる」と司馬さんは言う。
つまり稲作文化に付随する住居思想は「数寄屋普請」であり、それが華々しい「中央文化」であった。それをこのまま北海道の寒冷地に持ってきたって、人々は生きられない。このことが明治の北海道開拓史に悲しい歴史をもたらすはめになる。
明治政府は列強から侵略されるという恐怖心理を基礎にして成立した政府で、国内統一、その侵略をさけるために欧化主義(ヨーロッパ文化の取り入れ)に徹していた。その欧化主義の先鋒モデルが北海道開拓であった。初期には薩摩人黒田清隆がアメリカの農務長官ケプロンを莫大な年俸で雇い入れ、壮大な計画の元に北海道開拓をやろうとしていた。
ところが西南戦争のお陰で明治政府は資金が欠乏してしまい、ケプロンが出した計画は頓挫する。そこで開拓に囚人を使うことにしたのである。当時の明治政府の要人は囚人を使うことに何らためらいもない。むしろ「かれらは悪いやつだから、たとえ斃死しても可哀そうではない。むしろ死んだほうが監獄予算が軽くなってたすかる」といってはばからない。寒冷地を考慮せず、不衛生な獄舎に囚人たちを押し込め、使い捨ての駒のように過酷な労働に使うのである。彼らは赤い服を着せられていた。このことを書いた、吉村昭さんの『赤い人』という小説が確かあったと思う。
この後に続く屯田兵にしたって似たような環境で生活させられていた。司馬さんが旭川に残る屯田兵の兵舎を見て次のように言う。
「この兵屋は小屋とも言いにくいほど小さい。その貧寒とした粗末さ-たとえば、薄板一枚の外壁(内壁はない)で、窓ガラスなしの単なるすきま-を見ていると、こん寒冷地でほんとうにこの小屋に生きた人間が住んでいたのかとうたがわれてくるほどである」
明治政府は、お金がなければ囚人を使うことでコストを下げ、劣悪な環境で働かせる。あるいは屯田兵をかつての武士と同じものだと持ち上げておいて、こんな生活環境に追い込んだのである。
ところで私もこの本を読んで初めて知ったのだが、「蝦夷錦」というのをご存じだろうか?
北海道の道南であった松前藩藩主松前慶広は秀吉におべっかをつかうため、当時朝鮮出兵を控えていた肥前名古屋城へはるばる北海道からやってきた。その後徳川家康のところにも訪れる。(このことは秀吉の後家康の時代が来ることを北海道の城主は見抜いていたことになる)。
家康は慶広が着ていた服を「なんとみごとな」と驚く。慶広はその家康の言葉を聞いてすぐその服を脱いで家康に献じる。この献じた服「蝦夷錦」の十徳であった。
実はこの「蝦夷錦」は中国の蘇州や杭州の職人が作った元や明の官服であった。その官服である「蝦夷錦」を北海道にいる松前慶広が何故持っていたのだろうか?南方の蘇州や杭州の職人が作った服なら、本来九州当たりから入った方が合理的である。それが北海道から日本に入った。
詳しく聞いてみると、この「蝦夷錦」は北海道にいるアイヌが樺太アイヌか買ったもので、樺太アイヌは黒竜江(アムール)下流域を山丹(サンタン)人から買ったという。(以下地図を参考)
この流通経路が面白い。我々は中国などの貿易品は九州当たりから日本に輸入されるもんのだという頭がある。その方が地理的に近いからだ。ところがこの「蝦夷錦」は違った。
その理由は当時の中国の元や明に理由がある。特に元は当時黒竜江(アムール)下流域を植民地化していた。彼らは黒竜江(アムール)下流域に住んでいた山丹人達に「貢ぎ物を持ってこい。そうすればお前たちが持ってきた以上のすばらしいものを呉れてやる」という朝貢貿易をしていた。そうして彼らに与えられたのが「蝦夷錦」であった。それが山丹人を経由して樺太アイヌに渡り、そして北海道にいるアイヌに渡ったのである。それを松前慶広は手に入れたわけである。 ある意味北海道は貿易に関しては鎖国(秀吉は晩年鎖国をしていた)という法の網から外れていたことになる。
流通という面からこの北海道を考えるとき、この寒冷地が何故商業地として魅力的なのか、このことはその一端を知ることにもなろう。
また鰊がある。江差などは鰊漁で栄えた町であった。鰊は食べるため必要であった訳じゃない。綿作の肥料として使われたのである。「綿は五倍」といって稲作より儲かった。ただ綿はすさまじいほどの肥料を必要とする植物であった。そしてその肥料として鰊が使われたのである。このことから蝦夷地から鰊を運んで日本海を回り大阪に入る北前船が俄然注目されたのである。
こうしてみてみると松前藩が米に立脚せずに、漁業と交易で成り立っていた理由もここにあったことが分かるし、わざわざ極寒の地に渡ってきて根を下ろし、繁栄したのもこうした理由があったからだと知る。
『街道をゆく』15巻にある「北海道諸道」は、週刊「街道をゆく」の21号に収録されている。
- by kmoto
- at 05:39
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