2006年08月31日

北海道書店商業組合編『中学生はこれを読め!』

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 昨日本屋タウンから本が入荷したという連絡メールが入った。注文したのは例の『中学生はこれを読め!』(北海道新聞社刊)である。さっそく有隣堂に取りに行く。
 注文してから約2週間で入荷である。その間お盆休みも入っているので、まぁ早い方だろうと思う。少なくと3週間待って、手配できなかったという返事をもらうよりも、2週間待って本を手に入れた方がうれしいに決まっている。セブンアンドワイよ、よく覚えておけよ!

 さて、この本だけど、どうして私がこの本を見てみたいかと思ったかといえば、くすみ書房さんが始めたこの「中学生はこれを読め!」の内容を詳しく知れればと思ったからであった。
 しかしこの本(本といってもブックレットみたいなものだのだが)が北海道書店商業組合が出したと聞いて、ある程度予想していたことが当たってしまったようだ。
 つまりこの本のほとんどが「北海道の書店員おすすめの120冊はこれだ!」にページが費やされていて、くすみ書房さんの「これを読め500選 いま、この本を読もう!」が最後にリストとしてあるだけなのだ。何となく分かりません?くすみ書房さんが始めたこのイベントが新聞に掲載され、全国的に話題になったので、北海道の書店組合がそれに便乗して、北海道の書店員に声をかけ、おすすめ本出してもらい、この本にしてしまったのだ。つまり私が期待した内容とはまったく違うものになってしまったわけだ。
 で、この「北海道の書店員おすすめの120冊はこれだ!」を見てみると、たとえば北海道の書店員を東京の書店員に変えても、たぶん同じ本を、おすすめ本としてあげるだろうという感じなのだ。これが「ほほう!さすが北海道の書店員がすすめる本だ」というのが1冊でもあれば、読む価値があるのだけど・・・。挙げ句の果てに、北海道の書店の紹介や書店員の顔写真(しかし本屋ってどうしてこうぶっさいくな女性店員が多いのだろうか?)が掲載され、うざったいたらありゃしない。
 ここまで便乗するなら、せめて北海道でおすすめの本というのがあってもいいような気がする。苦労して手に入れたのにこれじゃ何にもなりゃしない。
 くすみ書房さんが始めたこのイベントが全国の本屋さんでもやってみようということになりつつあるというのを書店新聞で読んだ。でも、せっかく全国展開するなら、何も金太郎飴みたいに同じ本の紹介などやっても面白くない。その地方地方の面白本でも紹介してくれればいいのにと余計なことを思った次第だ。

2006年08月27日

サイン本

 三浦しをんさんの本を買ったら、サイン本であったことは最近書いた。これと同じように以前石田衣良さんの『アキハバラ@DEEP』も買ったらサイン本であったことを後で気が付いた。


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 基本的にサイン本というやつには興味がない。ないけど、サイン本を頂いたことはある。以前お店に山藤章二さんのお姉様がお店に来てくれて、弟さん山藤章二さんの新刊が出ると何冊かまとめて買われていった。私はただその注文を受けただけなのだけど、山藤章二さんのサイン本を2冊頂いた。私の個人名が入っているサインは、たぶん私がそのお店から他の支店に異動になったとき、その時頂いたものだと思う。


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 沢木さん文庫本のサインは自分からもらった。新潮文庫の売上に貢献したので、香港に招待されたのでる。夕食後、沢木さん講演があり、その後近くに座られたので、サインを頂いた。私は沢木さんのファンなので唯一大切にしているサイン本である。(山藤さんには申し訳ないが・・・)
 ただ、この文庫本、新潮社から香港旅行に招待されたとき寄贈された本で、今にして思えば、ただでもらった文庫本に著者のサインをもらうなんて、ちょっとずうずうしかったかもしれない。


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2006年08月26日

司馬遼太郎著『街道をゆく』18巻

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 ここのところ、このシリーズを続けて2冊読んで、そして今度はまったく違う本を読むパターンになっている。まぁこれはこれでいいのだけど、こうして司馬さんの本に戻ってくるとなんかほっとする。文章から醸し出される雰囲気も、どこか気持ちが落ち着くような気がする。

 さて、今回の18巻は福井県「越前の諸街道」である。
 越前といえば永平寺が有名であるが、司馬さんはあまりにも観光化された永平寺を訪れて、その観光客の多さに圧倒され帰っていく。私もかなり昔永平寺へ観光で行ったことがあるが、そんなに観光客が多かっただろうかと思ったが、とにかくあまり記憶に残っていない。あるいは私がその当時、観光客の一員であったから分からなかったのかもしれない。
 いずれにせよ、こうした俗化した永平寺には興味がなかったようである。そもそも道元が求めた、ひたすら坐れ、「只管打座」という求道精神からすれば、巨大な伽藍など不要な存在であったはずだというところから、こうした永平寺には興味がわかなかったのだろう。
 むしろ、道元が宋の天童山で修行をともにした中国僧寂円が、道元帰国後、彼を慕って日本に来て、道元の死後、彼の志を継いで、自ら開いた宝慶寺に強く思いをはせる。
 宗教というのは不思議だと思うのは、たとえば巨大な寺院、多くの信徒、あるいは仏像などの偶像崇拝など、開祖が本来望んでいない姿を次を継いだ者が持ち始めるの傾向がある。それは何も日本だけでなく、キリスト教などにも同様である。そうしないと自分たちが存在できないかのように、本来の姿から変質していく。

 さて、白山を祭祀する山岳信仰の拠点として平泉寺(白山神社)があるのだが、この神社の歴史的変遷が興味深かった。
 平泉寺は南北朝時代、平泉寺はその領地5万石以上、諸国から浮浪者が集まって僧となった人数が八千という北陸路の武装騒動の一中心であり、社や堂、院坊が三千とも六千ともいわれるほど、強大な勢力を持った時代があった。どうしてこうした力を持つことが出来たのか?ここに奈良・平安の律令制が生みだしたひずみが読み取ることが出来るのだ。
 律令制の基本は公地公民制であり、農地、それをを耕す農民が国家や天皇の持ち物として考えられ、農民から租税を搾り取り、それを都へ送るシステムであった。
 農民は土地に縛られ、租税を搾り取られるだけであったから、そこに生産意欲など生まれるはずもなかった。そこで、生産意欲を刺激するために、新田を作った者はそれを私有させるという政策を取り始める。それが荘園の成立であった。そのため多くの浮浪者、逃亡農民を吸収し、さらに多くの荘園を作るようになっていく。平泉寺もこれをやった。
 しかしこういうことをやられると、国家に租税が入らなくなってしまう。当然国から派遣された役人である国司と平泉寺側が衝突することになるが、平泉寺は政治的に弱かった。そこで平泉寺は天台宗(叡山)の傘下に入ることで、政治的立場の弱さをカバーしていくのである。
 叡山の傘下に入ることで、どうして自分たちの立場を強くすることができるかといえば、叡山はこのような農地獲得という政治的・経済的方面の大ボスであり、叡山が律令貴族に食い込んでいる宗教勢力だけに、その傘下に入り、その保護を求めれば、どこからも文句が言えなかったのである。だから司馬さんは言う。「平安期における天台宗の隆盛、叡山の勢力というのは決して宗教的なものではなく、律令制の抜け穴として荘園制の上に立つものであり、その証拠に、律令制が否定された鎌倉以後の封建時代になると、没落するのである」と。
 このように鎌倉幕府の成立によって、叡山は多くの荘園を失って、衰弱するが、白山はそうではなく、南北朝時代には最盛期をむかえる。
 しかし、農民にとってみれば、平泉寺の衆徒(僧兵)であろうと、国の役人であろうと、租税を搾り取られることには変わりはなく、紆余曲折はあったが、加賀門徒(一向宗)の力を借りて一大蜂起を起こし、平泉寺は農民によって焼き討ちにされ滅びることとなる。
 その後織田期から豊臣期にかけて、再興されるが、その規模は往時から比べると、比較にならないくらい小規模なものとなった。
 平泉寺の象徴として菩提林というのがあるらしい。約二百六十本の老杉が、自然に群生してできあがったものらしいが、ここがかなり美しい苔で被われていて、今もよく手入れがされているという。司馬さんは林を手入れをしている人を何人も見かけている。それを見て「平泉寺に収入がない以上、みな里の人達の無料奉仕のはずだった。中世以来、平泉寺の頑固さは千年つづいている。途中、農民の反乱で焼打ちされたとはいえ、いま農民の側にその風骨(この菩提林が「浄意」として長い間保護されていた)が入りこんで、自分たちの手でこの環境を護持するようになっているにちがいない」と言うのである。
 平泉寺は時には、自分たちの生活を脅かしはしても、寺として神聖な場所であるという精神的に敬う場所でもあったのだ。


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 『街道をゆく』18巻にある「越前の諸街道」は、週刊「街道をゆく」の11号に収録されている。

2006年08月17日

セブンアンドワイで本は注文しない方がいいよ

 くすみ書房さんの『中学生はこれを読め』という本ををセブンアンドワイで注文したことは以前書いた。ネットで注文したのが先月の25日。まぁ出版社が北海道新聞社だから時間がかかるのは仕方がないとは、ある程度覚悟はしていたが、あまりにも遅いので、ここのところ毎日専用の「お届け状況ページ」を開いて、いったいどうなっているんだと思っていた。525円の安い本だからあまり真剣なってないんじゃないかという疑問さえ浮かぶ。
 そうして今朝又日課みたいに「お届け状況ページ」を開いたら愕然とした。なんと「お届け状況」に「お取り消し」となっていて、書名に取り消しの線が引かれている。なんだこれ?


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 詳細を確認したら、「大変申し訳ございません。出版社・メーカーから取寄せていましたが、商品を確保することができませんでした。誠に勝手ながらご注文をお取り消しとさせていただきます」となっている。


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 いったいどういうことなんだ。そもそも「取り消し」ってどういうことなんだ!お客の側が取り消しするなら、よくある話だけど、受け手側が、注文主の意向を無視して取り消しとは、あまりにも横暴じゃないか!文句を言ってやろうと思ったのだが、待てよ、こういうことって私だけでなく他にもたぶんあることかもしれないと思った。そのためセブンアンドワイは自衛策を講じているはずだ。で、利用規約を見てみたら、ありました。第16条 商品等に関する免責の3に次のような記述がある。
「弊社が利用者から承ったご注文商品について、弊社または出版社等の在庫状況の変動等により品切れや入手不可能となった場合、弊社より当該ご注文を解除できるものとします。ただし、複数冊ご注文いただき、その一部の商品が手配不可能となった場合は、その商品のみご注文を解除するものとします。」
 だから私が文句を言ったら、これを盾にちゃんと利用規約に書いてありますよと言うんだろう。つまり自分のところの横暴な行為を正当化できるようにしてあるのだ。
 だったら、在庫確認を25日にしておいて、3週間後、品切れのため取り消しとは、あまりにも返事が遅すぎるのではないか。
 しかも昨日までは、7月25日の「出版社・メーカー在庫確認」から矢印がのびていて、集品、最寄りのセブンイレブンへとなっていて、「もうしばらくお待ち下さい」となっていた。(その画像をとっておけばよかった)
 しかしこのように今日になって7月25日に「品切れのため取り消し」の画面になっているのはどういうことなだろう。確かに品切れは出版社の事情にあるにしても、在庫のあるなしの確認はそんなに時間のかかるもんじゃないだろう。もしこのように7月25日に品切れが分かっていたら、私は他をあたることだって出来たのである。3週間も待たなくてもよかったかもしれない。
 少なくても今日になって7月25日の品切れ通知はおかしい。あまりにもいい加減すぎないか!天下のセブンイレブンが平気でこういうことをするんだなと思った。
 ネットでの商売には便利であることはもちろんだけど、実体のないものだから余計に信頼性というのは重要なことじゃないかと思う。こんなことをしていて信頼性などありゃしない。思わず東販にいた鈴木さんにあんたこんなことしていていいの?と聞きたくなっちゃう。あなたならこういう行為がとんでもないことぐらい分かるでしょう。ちょっと前の書店新聞で鈴木さんがネットでの本の管理を訴えていたシンポジウムの記事を読んだけど、あんたまずは自分の足下をきちんと見ないと、言っていることが絵に描いた餅になっちゃうよ。
 所詮本の取引を片手間でやっているからこんなことを平気でやれるのだろう。多分アマゾンじゃこんないい加減なことはしまい。
 で、仕方がないので、もう一度「本屋タウン」で検索してみたら、ヒットした。最初はこの『中学生はこれを読め』を検索したら、データがないと出た。多分地方の出版物だったため、データに載せるのに時間がかかったのだろう。もう一度ここで注文する。受け取りは有隣堂だ。果たして有隣堂はどうだろうか?

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2006年08月12日

三浦しをん著『まほろ駅前多田便利軒』

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 私のもう一つのブログで書いたようにこの本(文芸春秋社刊)を神田の三省堂本店で買った。直木賞を取った作品だから読んだわけではない。実は以前から題名に惹かれ、帯の内容紹介を読んで、面白そうな本だなぁとは思っていた。私の中では購入図書のリストに入っていたのである。
 で、せっかく三省堂まで来たのだから、何かめぼしい本がないかと思い、結局この本を買った。買って家に帰ったら、この本がサイン本であることが判明する。(別にどうでもいいのだけど・・・)

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 いやぁ~、久しぶりに全編笑わせてくれる本であった。面白かった。読んでいるうちに昔テレビでやっていた「傷だらけの天使」を思い出してしまった。
 地域に密着して仕事をする便利屋として多田啓介は、バスの間引き運転を疑っている岡から、その運転が間違いなく運行予定表通り運転されているかどうか、その実態を調べてくれという仕事の依頼を受ける。
 この仕事の前に実家に帰省するからチワワをその間預かってくれという仕事の依頼を受けていたので、チワワと一緒に岡に家に行く。
 多田は正月にこんな依頼をしても、バスの間引き運転が行われるわけがないと思う。何故なら正月に運転すれば、たぶん正月休みに仕事をしたということで、バスの運転手には特別な手当が出るはずだから、そんなことするはずがないからだ。
 多田はバスの運転状況を調べるのに夢中になっていた為に、チワワのことを忘れてしまい、探し回る。チワワは高校時代の同級生であった行天春彦が抱いていた。行天は行く場所がなく、多田の事務所に泊まることになる。
 これから多田と行天の同居生活が仕事とともに始まる。チワワの飼い主は約束の期日になっても現れず、飼い主は夜逃げをしていた。多田の事務所にもう一匹同居者が加わった。
 とりあえずはチワワの飼い主を捜したのだが、結局チワワの新しい飼い主を多田と行天は捜すはめになり、自称コロンビア人のルルという娼婦がチワワがほしいといってくる。ルルはどう見てもコロンビア人には見えない。行天が「なんでコロンビア人なの」と聞けば、ルルは「コロンビアの女を運ぶルートがあるのよぅ。あたし、国では毎日、フェンスの向こうを見ていたんだ。これを越えればアメリカだわ。って。すっごくたくさんの星が見える夜、あたしは友だちとフェンスを越えた。そしたらマフィアが待っていて、コンテナに積まれて、着いたら日本だったのぉ」と言う。多田はその話を聞いて、コロンビアはアメリカとはつながっていないぞと思う。
 チワワのもとの持ち主の子供に新しい飼い主を捜して、今度まほろ市に来たとき、新しい飼い主を紹介してあげるからと多田は言った以上、その飼い主が娼婦じゃまずいと行天に言う。行天はなぜ娼婦じゃまずいの。職業に貴賤などないでしょうと言い返される。
 結局チワワはこのルルと一緒に暮らすハイシーに手渡された。彼女らは小さな犬を飼いたかっただけにチワワは大事に飼われた。元の飼い主であった子供が訪ねてきたとき、最初はルルとハイシーに戸惑ったが、すぐに彼女たちが自分のチワワを大切に育ててくれることが分かったし、自分をもてなしてくれるルルとハイシーたちと仲良くなった。この事務所で起こることはすべてこんな調子進んでいく。

 塾で帰りが遅くなるので、子供を迎えに行ってほしいという仕事の依頼がくる。こんな物騒な時代なので子供の帰りが不安だというのである。しかし子供の方は、家では帰りにはちゃんと迎えがつけているという親の見栄で多田たちに頼んだこと見抜いていた。両親は共稼ぎで帰りが遅かった。
 ある時多田はその子が塾へ行くバスの中で見かけたが、挙動がおかしいのに気づく。彼は座席のシートの間にスティック状の砂糖のようなものを隠していたのだ。覚醒剤の売人の手助けをしていたのであった。成り行き上、多田と行天は子供を救わざるを得なくなり、以前ハイシーにつきまとっていた男を行天が締め上げたことがあり、その男から、覚醒剤の売人の元締めを捜し出す。
 子供にもう手を出さないこと、残っているスティック状の砂糖を受け渡す条件として、売人に自分たちがいつも行っているお弁当屋でノリ弁18個とシャケ弁23個を買ったら、その時一緒に渡してもらうからという条件を多田が出し、行天は「多すぎ」と思うのだった。
 その覚醒剤の元締めが女子高生を多田の事務所に連れてきて、かくまって欲しいというのだ。その女子高生、まほろ市で起こった両親殺害事件の犯人と同級生であった。マスコミやクラスメイトがうるさいので星(覚醒剤の元締め)に助けを求めたらしい。身の安全を考えるならその元締めの所にいた方がいいはずだと多田は思うのだが、そのやりとりがふるっている。

「星くんは、『俺はカタギじゃないから、清海に迷惑がかかる』って」
「カタギじゃないやつと女子高生が、なんで知りあいなんだ」

 これにはさすが吹き出してしまった。しかも電車の中で(恥ずかしかった)
 妙な人間と遭遇する確率が高い気がするのは、便利屋の仕事柄なのか、行天のせいなのか、多田は自分の仕事を振り返るのだが、ボケかましているところがあっても、押さえるところは押さえているし、締めるところは締めている。多田にしたって、行天にしたって、ちょっと性格的にぬけてるところはあるけれど、極めて常識的なのである。その二人が、非常識な世界に巻き込まれるから、この話は面白いのだ。
 もともと便利屋に依頼する仕事って、本来自分たちで出来ることがほとんどだろう。それをわざわざお金を出して頼まなければならないところに、もう常識外のことが発生していて、その家族の暗い部分を垣間見ることになってしまう。しかも多田にしても行天にしても自分たちの過去を引きずりながら生きているところに、この話が面白いだけでなく、悲しみをにじませている。


評価
★★★★★

2006年08月10日

久坂部羊著『無痛』

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 話しはこの本と関係ないところから始めたい。まだ岩本町店があった時、その店で書籍の仕入の手伝いを始めた頃だったと思う。久坂部羊さんの新刊『破裂』がたまたま神田村の問屋に3冊あった。私は久坂部羊さんがどんな作家なのかも知らなかったし、どんなジャンルの本を書かれているのかさえ知らなかった。
 でも、本の奥付を見て、これは新刊だなと判断した。しかもこの出版社の新刊は問屋からの配本がないことも知っていたので、その3冊を仕入、店頭に並べた。
 翌日の新聞広告に久坂部羊さんのこの本が載った。さっそくお客さんからこの本の在庫を聞かれ、他のスタッフはこの出版社の配本がないことを知っていたので、在庫がないことを詫びていたのを聞いて、私は在庫があることを伝えた。その後そのスタッフは私の仕入能力をほめてくれたので、我ながら有頂天になったのを覚えている。もちろん残りの2冊もすぐ売れてしまった。

 というわけで、この久坂部羊さんの著作は気になっていたのだが、今回初めて久坂部羊さんの新刊を読んだ。多少猟奇趣味的なところがあるが、読んでみて面白かった。

 神戸市内閑静な住宅街で一家四人の残虐殺害事件起こった。凶器は2本のハンマーであった。被害者はこの家の主人である石川昭次、妻の彰子、5歳の長女舞、3歳の長男公平であった。昭次の致命傷は脳挫傷で分厚い後頭部が一撃で粉砕され、挫傷は小脳から脳幹まで及び、殴打の衝撃で脳底動脈が破裂し、左右の眼球にも出血があった。妻の彰子は前頭骨と左頭骨を破壊され、先切りハンマーの先端が脳室まで達し、顔面にも攻撃が加えられ左眼球の脱転、両頬骨の複雑骨折、上顎骨歯槽粉砕の状態であった。舞の頭頂部には直径6センチ陥没骨折があり大人の拳ほどの空洞ができており、脳が飛び散っていた。公平は頭の右半分がほとんど消失していた。
 事件後8ヶ月たった頃、精神障害児童施設に収容されていた14歳の少女がこの事件の犯人は自分だと告白する。これを聞いた警察には刑法39条が重くのしかかり、捜査に嫌な空気が漂うようになる。
 その少女、南サトミの担当であった、臨床心理士高嶋菜見子は医師為頼英介に通り魔から助けられる。為頼は人を見るだけで症状が分かる天才医師であった。通り魔から高嶋親子を救ったのも、通り魔の顔見て、危ないと判断し、非難させたのである。
 そしてもう一人為頼と同様に見るだけで症状が分かる医師がいた。白神メディカルセンター院長白神陽児がいた。そして彼の病院で働く彼もいた。
 例によってこれ以上書いてしまうとネタばれになってしまうから、ここまでにしておく。

 この本(幻冬舎刊)を読んで、医者はここまで本当にできるのかと思ってしまったし、医療という名の行為に精通していれば、死体の処理などこうも簡単にできるのかと思ってしまった。
 そして医療とは何なのか?治療行為とは、といろいろ考えさせてくれる。
 為頼医師は一目見るだけで病状が分かるだけに、病人の命が助かるかどうかもその瞬間見えてしまう。だからどんな治療をしても助からない病人には余計な治療はしないし、それをするのは医者の欺瞞でありおごりだと言い切る。為頼は自虐的に「治る病気だって、見えないほうがいいんですよ。見えない医者は、自然に治った病気でも自分が治したつもりになれますからね。幸福な錯覚です。見えない医者はそうやって自信を深め、威厳を持ち、貫禄をつける。患者から見れば、立派なお医者さまというわけです。わたしは患者が自力で治ったものを、自分の手柄になどとてもできない」と言う。
 私は今まで医者というのは病気を治してくれるとずっと思い続けていた。確かにそういうこともあるだろうけど、最近はそうじゃないのかもしれないと思い始めている。というのも、もしかしたら自分の病気を治すのは自分の自助力ではないかと思うようになってきたのである。自分の身体に病気を克服する力があれば少なくとも症状は改善するのではないか。その力が病気を治すのではないかと思うのだ。もちろんその科学的裏付けは説明できないけど、なんかそんな気が最近している。医師はその手助けはしてくれるけど、病気を治すのではないと思うのだ。だから為頼医師が言うこの台詞には、妙に納得してしまう部分がある。
 一方の天才医師白神陽児の存在も考えさせられる。彼の経営する白神メディカルセンターは新聞でも取り上げられる私立総合病院で、医師も設備も充実しているだけでなく、独自の方式で一流ホテル並みのサービスを提供している。だからここに来る患者は社会的地位のある人間であった。白神は為頼に言う。

「為頼先生、口はばったいことを申し上げるようですが、快適さ、安全、高品質にはお金がかかるんです。医療だからといって、よいものを安くなんて絵空事です。よい医療を受けたければ、それだけの対価を支払わなければならない。当たり前のことでしょう」

「もちろん、最低限の医療は平等に保障されるべきです。それが保険診療でしょう。つまり保険診療はセイフティネットなんです。保険で最高の医療をカバーしようなんて、行きすぎです。そんなことを考えるから、国民の医療費が年間三十五兆円にもなるし、一方で国民は医療にお金がかかることを忘れてしまう。大した稼ぎもないのに、レジャーや子ども塾代に金を使って、それで医療は国にお願いしますなんて、ムシがよすぎますよ。きちんと医療のために貯蓄をしたり、民間の保険に入って、お金を準備している人もいるんですからね。そういう患者さんが、質の高い医療を受けられるようにすべきです」

 これもこの通りなんだろうなぁと思う。赤ひげ先生をいつまでも要求すべきじゃないと思う。分相応の医療の提供を受けるべきかもしれないと思う。

 そしてこの本のもう一つのテーマである刑法39条の問題がある。刑法39条とは、(1)心神喪失者の行為は、罰しない。(2)心神耗弱者の行為は、その刑を減軽するというものであるが、最近は何かにつけこの刑法39条が前面に出てきてしまっていて、それこそ悪用しているとしか思えないほどだ。
 とにかく常識では考えられない犯罪が起こると、その加害者をすぐ精神鑑定して、事件の時は心神耗弱の状態だといって、その責任を問わないところが多すぎるのだ。それに加えて少年法もそれその手助けをしてしまう。とにかく最近の刑事裁判はこの刑法39条の大安売りである。
 もし自分の家族がこの刑法39条に該当する犯罪者に殺されたりして、無罪なんてなったら納得できるだろうかと思う。まず絶対に納得などできるわけがない。それを考えたら、こんなに頻繁に刑法39条を連発していいのだろうかと思うのだ。刑法39条を少年法に変えてもいい。まず絶対に納得などできるわけがない。言ってしまえばこれらの法律は犯罪者を守る法律でしかない。
 この本の捜査一課の警視仁川康男が言うように「責任能力のない人間を罰することは、非人道的なことなんや。それは罪の償いやない。ただの報復や。それがどれだけ恐ろしい人権侵害につながるか、わかるやろ」と言われても、絶対に納得できないだろうと思う。確かにこの本にも紹介されていたけど、精神の病でもしかしたらこの病気で人を殺してしまうかもしれないという恐怖を抱えて暮らしている人や家族がいることも分かる。けれどそれでもと、やっぱりと思う。
 まして最近の風潮のように何かにつけ精神鑑定なんて話しを聞くと余計である。さらにその精神鑑定の曖昧さを知ると、どうでも鑑定できてしまうじゃないかと思うのだ。
 高嶋菜見子の元夫、佐田が菜見子に復讐するにあたり、「ふつうでは理解できない残酷な殺し方すれば心神喪失と判定されるのか」といって幻覚とか幻聴があるふりをして、精神科の通院歴を作っておけば無罪になると、悪用できてしまうのだ場面があるが、まさしく最近はこのパターンが多いのではないかと思う。
 一方で佐田は面白いことも言っている「『物事の善悪を判断する能力が失われていた』というのは変だ。というか、当たり前のことだ。善悪の判断が失われているからこそ、酷い犯行をやるんじゃないか」と。まさしくこの通りだと思う。とにかく最近はあまりにもこの刑法39条を盾にとって、犯罪者を擁護することが多すぎる。

評価
★★★★

2006年08月09日

神保町界隈の地図の載ったブックカバー

 辻井喬さんの『父の肖像』を読み終えた。645ページの分厚い本だ。例によって市販の合皮のブックカバーをかけてみたが、この本があまりにも厚いので、本の裏表紙にわずかしかカバーがかからない。まぁ気にしなければ別に問題はないのだけど、どうも不安定だ。仕方がないので有隣堂で買った本につけてもらったカバーを引っぺがして再利用する。やっぱり紙のカバーは手にしっくりくる。きちんとテープで留めるので、カバーが外れる心配もない。つくづくブックカバーは紙の方がいいなぁと思っちゃう。
 そういえば、三省堂で三浦しをんさんの本を買ったら、神保町界隈の地図の載ったカバーをかけてくれた。

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 本のカバーにもはいろいろなデザインがあって、コレクターがいるのも分かるような気がする。今回の神保町界隈の地図の載ったカバーも面白い。
 このブックカバーの地図はJRお茶の水駅から北の丸公園まで網羅してあり、神保町の古本屋、お店が中心に載っている。でも、うちのお茶の水店はない。和同会薬局やコトブキ調剤薬局の名前はあるけど・・・。このカバーの左下にこの地図は株式会社第一通信社というところが制作したものをブックカバーにしているので、おそらくよく町中にある道路案内の会社が作ったものだろうか?だとすれば、お金を払わないとお店の名前は載せてくれない。うちはそんな広告費は出さない主義なので、当然掲載されないから、当たり前か!うむ~、残念!

2006年08月08日

辻井喬著『父の肖像』

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 著者辻井喬はご存じの通り、西武グループの堤清二のペンネームである。この本(新潮社刊)は、創業者の堤康次郎を父として持つ、著者が父の伝記を書くことで”私とは何者か”をはっきりさせることを目的として書かれている。ここでの著者は楠恭二として、自分の父を楠次郎として描かれる。
 私は西武グループにはあまり興味がないので、それほど感心がないけど、あの堤義明とこの本の著者堤清二があまりにも違うような気がして不思議であった。でもこの本を読んでその理由がなんとなく分かったような気がする。

 楠次郎は滋賀県東畑郡六箇荘の出身でった。次郎の祖父清太郎は息子の死後、食い扶持を減らすため、次郎の母親を実家に帰し、弟裕三郎を広田家に養子に出し、孫の次郎と妹のふさを養育していた。
 この祖父の一生を貫いているのは自分が再興した楠家の忠誠心であり、それに基づく不屈の努力を惜しまない姿であった。その生きる姿勢は、孫の次郎も引き継がれる。
 祖父の死後、次郎は山東よりとの間長女良子をもうけた。祖父の財産を処分して東京に出て早稲田大学へ通うかたわら、郵便局を経営するようなる。そして、そこの職員岩辺苑子と内縁関係になった。その後滋賀県に置いてある山東よりと離婚し、岩辺苑子の間に長男孫清をもうけるが、やがて苑子は出ていく。 この頃から次郎は政治に興味を持ち始め、事業と政治の二足のわらじを履くことになる。政治で頭角を現すために次郎は大隈重信に近づき、大隈重信の末弟として政治の世界に出ていくことであった。
 そんな中、女性新聞記者として大隈重信の近くにいた田之倉桜と知り合い、結婚することになった。桜は大隈重信のお気に入りであったし、次郎の政治家進出に便利な存在であったのだ。
 一方で、高田馬場でうどん屋をやっていた同郷の平松摂緒と知り合い、大人の女から性の手ほどきを受ける仲となる。
 桜は身体の具合が悪く、子供を産めない身体であった。次郎は岩辺苑子の間にもうけた孫清、そして弟の広田裕三郎夫婦が死んだので、その子広田恭二を引き取り桜に養育させていく。
 広田恭二は楠恭二となり、父楠次郎の伝記をこのように書きつづる。しかし恭二は父次郎の伝記を書き続けるうちに、自分は広田裕三郎と青山れん夫婦の子供ではないのではないかという疑問を持ち始める。 では自分の本当の父親と母親は誰なのか?いろいろ模索しているうちに恭二の父親は楠次郎だと分かり始める。が、母親が誰であるか、その存在が分からなかった。そして次郎は自分の子供である恭二をどうして弟の広田裕三郎と青山れん夫婦の子供としたのか?
 恭二は自分の存在が不安定の中にあることにより、戦後共産党に入党し、楠家から自ら絶縁を申し出ていくが、結核にかかり、療養せざるを得なくなる。
 療養中、病棟にいる歌人高田美佐夫から一冊の歌集を手渡せられる。その歌集は平松佐智子という女流作家の歌集であった。恭二はその歌集を読んで、平松佐智子こそが自分の母親ではないかと思うようになっていく。
 平松佐智子は平松摂緒の娘であった。楠次郎は母親の摂緒から性の手ほどきを受け、娘の佐智子と関係を持ったのであった。
 楠次郎はこのように「不身持」であった。次郎は女性を「女の腹は借り腹」としか見ていなかった。この後次郎は桜という妻を持ちながら、しかも自分の子供でない孫清と恭二の養育をさせながら、石山治栄との間に清明(多分これが堤義明だろう)、清康、峰子の三子をもうけるのである。

 楠次郎が生きた明治末から大正、昭和と政治の流れを見ていると、明治維新の功労者である藩閥政治体質が色濃く残っていることがありありと分かる。もっと言えば、江戸時代からの庶民の考え方もそうだし、政治家が武士に変わって庶民を支配するという感覚はそのままであることを知る。基本は江戸時代と何も変わっていない。
 楠次郎にしたって、大隈重信の末弟を称していても、自分のこと、あるいは自分の一族のことしか頭にない。徹底した現実主義者であった。だから選挙権が最初は税金を納めたものしか持っていなかったのを、男子、そして女子と選挙権が拡大していくことを、次郎は女が政治のことなど分からないのに選挙権を持たせてどういうつもりなのだと苦々しく思うのである。そんなことをすれば自分が当選しづらくなるだけだとしか思わないのである。女はいい子供を産んでくれればいいとしか思わないし、自分が拡大してきた事業は自分の一族で固めて維持していくことしか考えが及ばない。
 事業の方はこれからきっとやってくるに違いない中産階級の時代に備え、箱根や軽井沢開発事業に乗り出し、東京郊外でも文化的な住宅地造成分譲に精を出し、国立に大学都市を造る。それだってすべて政治がらみの事業展開であった。
 そうして築きあげた自分の事業を次郎は「世間では東急を近代的だとか大企業らしいなどと言っているが、どの企業も五島家のものではない。そこへいくとわしの事業は全部楠家のものだ。埼京電鉄は上場しているが、それは形だけのこと、絶対の支配権はわし一人が握っている。成り立ちが違う。経営の実態を知らない、近代かぶれの学者や記者ごとき軽薄才子に惑わされてはいかんぞ。
 清明、清康、お前ら楠家の中興の祖、曾祖父清太郎の意志だけを継げ、世間の評判は一切無視しろ。そんなもの、悪ければ悪いほどよろしい」と自分の子供達に言って聞かせるのである。
 これを読んだとき、堤義明が引き継いできたのはこれだったのではないか。そのことが彼をダメにしたのではないかと思ったのである。いつまでも明治のままではなかったのである。

 645ページの本は読み応えがあった。でも面白かった。

評価
★★★★

2006年08月02日

司馬遼太郎著『街道をゆく』17巻

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 今回は「島原・天草の諸道」である。島原といえば島原の乱(1637年~1638年)が有名である。私は例によって日本史に疎いので、この島原の乱とは切支丹の反乱だと思っていたが、どうも違うようであった。
 とにかくこの巻を読んでいて、ひどいものだと初めて思った。司馬さんは「日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌むべき存在は少ない」といってこの巻を書き始める。
 松倉重政は松倉右近の子で、松倉右近は筒井順慶の三家老の一人であった。(ちなみにこの三家老の一人にあの石田三成の名補佐官島左近がいるのを知った)この松倉重政という人物は本当に忌むべき人物であったことが延々と書かれるのは、それほどひどい人物であったからだろう。
 松倉重政は関ヶ原の戦いで家康側につくのだが、これが魂胆丸見えの行動をする。この人物の頭の中には自分の保身しかない。
 家康は松倉重政を自己の利益ためには獰猛なほど勇猛心を発揮する人物だと見抜いていたので、そのため、家康の切支丹禁教令を島原で進めるためには松倉重政ほど恰好な人物はいないと見ていた。
 島原に移封された松倉重政は最初は切支丹にも寛容であった。最初だけに猫をかぶっていたのかもしれない。しかしもともと見栄っ張りで、ええかっこしい人物だっただけに、分不相応な城を築いたり、江戸城の改築にしても、実際は四万石ほどの経済力しかないのに十万石の賦役をおおせつけてほしいと見栄を張るのである。このつけはすべて領民に回ってきた。それでなくても島原は四万石なんていうほど米が取れない土地なのである。
 そこへ江戸に出た松倉重政は将軍家光に切支丹の取締がぬるいと言われたとたん徹底した弾圧を始めるのである。その弾圧の仕方が様々な拷問をもってして行われ、司馬さんも「島原でどういうことがおこなわれたかについては、書くにしのびない」というくらいひどいものであった。
 それでも「親の代は、まだましだった」といわれるようになるくらい、松倉重政の子勝家はそれ以上であった。松倉重政に始まった人間をいたぶるという文化が、子の勝家にそのまま引き継がれてしまった。もう切支丹であるかどうか関係なくなってしまったのである。
 松倉重政の死後、凶作が数年続いた。勝家は年貢を納められない者を切支丹と同様になぶり殺すのである。勝家やその子分は「搾れば搾れるのだ」と非常なまでに領民から年貢を搾り取った。司馬さんは「ここまで追いつめられれば、魚でも陸を駆けるのではないか」というくらいひどいものであった。
 大百姓の与三右衛門という人物がいた。勝家の子分田中宗甫という人物から「なお米を三十俵出せ」と言われた。しかしないものは出せなかった。田中宗甫は「無いというなら、水責めだ」といって与三右衛門ではなく、息子の身重の嫁を水責めにする。母子とも六日目に死んだ。
 与三右衛門一族は、「どにみち死ぬの」だからこの仇を討つといって、田中宗甫の宿舎に火をかけた。こうして一揆が始まりつつあった。しかし与三右衛門の件だけで始まったわけではない。司馬さんは「空気は圧縮されてすでに熱を帯びている。どういう可燃物をほうりこんでも爆発するまでになっていた」という。領民たちは村全体で原城に籠城して、戦った。

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         (原城跡)

 この籠城も切支丹でない人間も籠城せざるを得なかったところに更に悲惨な状況を生みだす。反乱をおこした以上もう切支丹であることを隠しても意味がない。それこそどのみち殺されるのである。そこで立ち上がった切支丹である農民たちは非切支丹であった農民に「切支丹に入らねば殺すぞ」といって一揆に巻きこんでいく。その数は少なくなかった。
 切支丹である農民がこの反乱で死んでも殉教者になれたが(もっとも彼らが勝手にそう思っていただけであるが)、巻きこまれた非切支丹である農民は立ち上がらざるを得なかったとしても、ただ虐殺されるだけであった。しかも切支丹である農民も結局ローマ教会からは殉教者としては認められなかった。つまり殉教者として自分たちの死が飾られることはなかったのである。何故なら、このときローマ法王の代理である神父が島原にいなかったので、キリスト教徒として洗礼すべき人物がいなかったことになり、そのことはこの島原の乱で死んでいった切支丹がいたことさえローマには報告さえされなかった。後に報告されたが、殉教者として認定されていない。「もし島原の乱の一揆方の死を公教会が殉教であるとすれば、地上の君主への抵抗を追認することになり、ぐあいのわるいことになる」のである。
 結局切支丹もその死に意味をもたなかったことになるが、昇天することで自己完結しすると考えていただけましである。しかし強制されこの城に立て籠もった非切支丹はたまったものではなかった。
 「この乱の本質は、領主に追いつめられた農民の絶望的な反乱」であったが、松倉氏は「切支丹が、本卦返りしたのだ」と吹聴した。しかし幕府は松倉氏の失政がこの乱を起こしたとして勝家を斬首(切腹ではない。斬首は罪人であることを意味する)したが、世間には切支丹が反乱を起こしたとした方が幕府の方針としては都合がよかったのである。多分私が今まで島原の乱が切支丹の反乱として覚えていたのもこのことによるのだろう。
 徳川幕府が特に切支丹を怖れたのは家康の死後のことであった。ここからの司馬さんの考えが面白いので書いておく。
 家康は秀吉のような対外伸張主義的性格ではなく、常に安定した計算能力が働く人物であった。また当時フィリピンのスペインが日本に攻めて来るのではないかという不安があったが、家康はスペインにはそんな能力はないと見ていたし、仮に日本に上陸しても薩摩の島津勢一手でかたづけられるだろうから、九州に大きな単位の大名を置いておくという手段をとる。またヨーロッパの情報を得るために、ウィリアム・アダムス(三浦按針)を外交顧問として抱えた。
 家康は情報を集め、外政について日本国の方針、対応を一人で決められる人物であった。家康の後の秀忠も常に家康についていたので家康の思考方法を身につけていたが、三代将軍家光は殿中育ちのため自らの判断力を持ち合わせていない。そのため有能な官僚集団が家光をサポートしていくようになる。これら官僚団にとって、祖法(切支丹禁制)を墨守するためには、政治的作り話を作り上げ、締め上げだけを厳しくするしかなかった。
 事実家光とその官僚団の時代になって切支丹禁制が惨烈をきわめるようになっているのも、そのことによるというのだ。
 結局徳川幕府は二百数十年、切支丹を邪宗としてきたことは、以後日本人に切支丹は日本を侵略しようとする外国勢力を手引きするものだと信じ込ませたことになる。それが幕末の尊皇攘夷にまで及ぶのではないか、あるいは現代の日本人が国際的になれないのも、こんなことが影響しているのではないかと思ってしまう。

 島原の乱に呼応して、天草でも天草四郎時貞をリーダーとして領民が蜂起した。これも家光が天草を飛地領としていた肥前唐津城主寺沢堅高に切支丹の取締が手ぬるいことを指摘されたことから始まる。しかも島原の松倉重政や勝家とよく似ていることに、天草諸島が二万石の米も取れないのに四万二千石と幕府に申請したために、その基準で農民が苛斂誅求され続けたことで、領民が蜂起せざるを得なかった。
 蜂起した天草四郎たちは天草諸島の西北角の富岡城に籠城した寺沢氏を攻めたが、その後島原の原城に入る。
 島原の乱は三ヶ月で終わったが、籠城したほぼ全員が死亡した。一揆方の死体はそのまま捨てられ、腐敗し白骨化した。天草に残った切支丹は地下にもぐる。いわゆる隠れ切支丹である。一方島原からは領民がいなくなり、他藩から移住者を求めるくらいであった。島原の乱以後幕府の代官の手によって曹洞宗明徳寺建てられた。その石段のところどころに「十」といった形の十字架が刻まれていた。これは寺の石段を登れば自然と十字架を踏み続けることになるようになっている。司馬さんはこれを「切支丹禁制時代の凄味といっていい」といっているが、まさしくそう思った。徹底している。
 
 今までこのシリーズを読んでいて、そこへ行ってみたいと思ったことはなかったが、今回島原・天草にはいずれ行ってみたいと思った。この悲しい歴史を持つ町を訪ねてみたいと何故か思った。


 『街道をゆく』17巻にある「島原・天草の諸道」は、週刊「街道をゆく」の26号に収録されている。