2006年09月29日

大沢在昌著『狼花』

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 5年半ぶりの新作(光文社刊)である。そのため主人公の鮫島はともかくとして、登場人物を忘れてしまっている。たとえば鮫島恋人でロックグループの「フーズ・ハニー」のヴォーカル昌がいたことさえ忘れていた。ただ今回は携帯電話でしか登場していない。それはそれでいいのではないかと思っちゃう。男がハードボイルド的に行動しているのに、一方で女とちゃらちゃらしちゃまずいだろう。
 さて、このシリーズの5巻目『炎蛹』の登場した仙田勝が、今回再登場する。仙田は「泥棒市場」といわれる、外国人窃盗団がかっぱらってきた盗品をさばくマーケットを中国人女性の明蘭と作り上げていた。
 そのマーケットを広域暴力団の「稜和会」は乗っ取りを狙っていた。
 一方多発する外国人犯罪に手を焼いていた警察は、彼らを取り締まるためにその「泥棒市場」を「稜和会」が乗っ取ることを望んでいた。というのも、「稜和会」が「泥棒市場」を把握すれば、警察は「稜和会」を押さえることで、外国人犯罪者を一挙に把握できるからである。その方針で鮫島の同期であるキャリアの香田はは「稜和会」に近づき、「稜和会」と手を結ぼうとする。香田にしてみれば、外国人犯罪者を毒を以て制そうとしたわけである。
 そんな中、ハシッシュの運び屋であったナイジェリア人が仲間に新宿で殺され、持っていたハシッシュを奪って逃げた。鮫島はその捜査にあたったが、そのうち、仙田のマーケットの存在を知り、それを「稜和会」が狙っていることをかぎつける。しかもそれを影で助けようとする同期の香田の存在も知る。
 こうして鮫島は仙田と「稜和会」、そして「稜和会」と手を結ぼうとする香田と対立しつつ、一気にクライマックスへ突入していく。

 もうこれ以上書いてしまうと、完全にネタばれになってしまうので、ここまでにしておく。話はテンポよく展開していき、最後までだれないで、充分楽しめた。
 私は単純なので、こうして鮫島が「稜和会」と格闘している場面になると、「やったれ!やったれ!」と、まるでやくざか警察がやくざに対する時に使う言葉で応援してしまった。(まったく我ながら呆れる)こういうハードボイルドは単純に楽しめるので、気分転換にはもってこいだ。しかも思い入れが激しいので余計だ。


評価
★★★★

2006年09月24日

司馬遼太郎著『街道をゆく』20巻

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 またこの本に戻ってきた。今回も前回同様中国江南部の旅である。この中国の旅は今まで日本を旅してきたスタイルと違い、司馬さんが旅をされた1981年だから、ある程度お膳立てされた旅程を司馬さんたちは歩かされている感じがするが、たぶんそうなのだろう。今回は四川省の成都と雲南省の昆明の2つの都市を訪れている。
 司馬さんが中国江北部でなく、何故江南部にこだわるのだろうか?そこには司馬さん特有の「敗者の美学」がそうさせているような気がする。つまり江南部は中国の歴史では一時は華々しい時もあったが、結局滅びていく歴史が存在する。その過去の歴史の華を求めたのではないかという気がする。そしてもう一つ少数民族に対する昔からのあこがれ、更に日本の歴史に多大な影響を与えたのは、この江南部であっただろうとする歴史認識が、ここ中国江南部の旅をさせた気がする。
 今回四川省の成都は三国志の劉備、関羽、張飛、そして諸葛孔明が活躍した蜀漢の地である。司馬さんは言う。「劉備は関羽や張飛といったいい手下をもっているとはいえ、自前の土地を寸土ももたないという点では、掛け金なしで競馬場にやってきている競馬きちがいとかわらない。ただ劉備はその人望で兵をあつめ、孔明はそれをたねに三分の計をたてて蜀に入ることによって一帝国ができた。この帝国は魏や呉にくらべて存在感が薄く、劉備の死後わずか四十年、孔明の死後二十九年で滅びるのである。
 帝国は劉備の徳、孔明の政治と軍略、関羽や張飛、趙飛らの武勇、それに蜀の天嶮といったものだけで保っていたといってよく、他の現実性に欠けていた」と。
 それでも日本でもの劉備、関羽、張飛、諸葛孔明が愛されている。それはたとえ講談的要素が強いにしても、あるいは司馬さんの言う通り現実性が希薄であっても、その彼らの人間性に魅力が大いにあった。司馬さんはそういう人物たちを愛されるところがある。(司馬さんの歴史小説の主人公は損得勘定だけでで行動する人物は絶対に書かれない。)今回もそんな人物たちの地を訪ねたいという意識がここ四川省の成都を訪れた理由ではないかと読んでいるうちに思ったのである。その記述も結構熱い。読んでいて、私も三国志を読んでみたいと思っちゃった。(私は横山光輝さんのコミック『三国志』は全巻読んだのだが・・・)

 雲南省の昆明では、司馬さんは現在そこにいる少数民族に思いをはせる。司馬さんは言う。「私は、漢民族は固有に存在せず、歴史的に徐々にできあがって行ったものだと考えている。漢民族というものの素型をつくった有力な要素として古代羌(チャン)族があったのではないか」と。今回その思いがあってその羌族やイ族の少数民族がいる雲南省を訪れたのだろう。司馬さんは更に「中国における少数民族は、五十六種というが、それぞれの祖先たちは、ながい歴史のなかで低地に降り、その血液と文化を中国文明というるつぼのなかに溶けこませた。逆にいえば少数民族の固有文化こそ文明の普遍性に昇華する以前の細片群だと思うのだが、漢民族はながくそのことを考えず、自分たちこそ華(文明)で僻地にのこって固有文化をもちつづける集団をは夷だと思い、華・夷は対立概念であるとしてきた。
 雲南省だけで、二十二種の少数民族がすんでいる。まさに民族文化の生ける博物館といっていいのだが、このうち、古代以来、山谷に集落をつくって稲作をしている民族たちを、私どもは自在に選んで日本稲作文化の祖にしていい。民族がおどろくほど似ているのである」という。ここにこれら少数民族と日本文化の関係が語られていく。
 日本の稲作がどのように生まれたのか、いや稲作そのものが日本にどんな形で伝わって来たのか、司馬さんは鉄とともに深い興味を持たれていることを、このシリーズを読み続けているうちに分かってくるが、前巻にそのことはふれた。
 この巻でも、雲南省の少数民族は漢民族だけでなく日本にも同様に大きな影響を与えたことを稲作を通じて語っている。曰く、「稲作は、夏の日照と多湿をよろこぶ。その適地は長江(揚子江)流域であることはいうまでもない。雲南省は長江の上流にあたる。稲作のひとびと(主として古代タイ語をつかっていた)が、舟をうかべて長江をくだり、中流で展開したのが、春秋戦国の楚であったろう。その下流の江南まで勢力をつくったのが、呉と越であったと考えていい。さらにいうと、地理的には呉より越の人が海に出やすい。古代の越人が、稲と稲作技術と稲作儀礼を持って、季節風に吹かれつづけて日本にきた、と考えるのが、いまとなれば実証が困難であるにせよ、自然であるといっていい」と雲南省の少数民族と日本との関わり合いをこのように語っていく。
 稲にしろ鉄にしろ、日本独自に生み出したものでないだけに、その関係が中国や朝鮮に求めるのはごく自然のことであるし、日本という国の文化が近隣諸国との関係なしには成立し得ないこと、改めて知らされる。一国の首相の頑固さで、今までの関係をおかしくしてしまったことを思うと、歴史はそうだったかもしれないが、今後はそんな関係はあり得ないと否定できまい。近いだけにどうしても影響しあうことはやむを得ないし、影響しあっていいのである。稲作や鉄を通しての関係を見ても、そう思うのである。


 『街道をゆく』20巻にある「中国・蜀と雲南のみち」は、週刊「街道をゆく」の35号に収録されている。

2006年09月20日

沢木耕太郎著『危機の宰相』

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 私は沢木さん新刊が出ると無条件で買ってしまうところがある。しかもこの本(魁星出版刊)今まで聞いたことのない出版社から出ているので、今のうちに買っておかないと後でなかなか手に入らないかもしれないという思いがあって、本屋で見かけたときすぐ買ってしまった。
 ところがこの本、いずれじっくり読みたいと思って全巻買ってある「沢木耕太郎ノンフィクション」の7巻に収録されているのだ。「やってしもうた!」と思った。それを知ったのは著者のあとがきを読んでからであったが、この本の経緯が書かれており、へぇ~そうなんだと知ったこともあった。
 この本は沢木さんの初の長編だったのだ。今まで沢木さんの初の長編は『テロルの決算』だと思っていたが、そうではなくこの『危機の宰相』だったのだ。ただ本としてきちんと刊行されるのは「沢木耕太郎ノンフィクション」まで待たなければならなかったらしく、それを今度魁星出版版として出版されたらしい。しかも1960年代を描いたものとして、体制側の提出した夢と現実としての「所得倍増」の物語(つまりこの本のこと)と、右翼と左翼の交錯する瞬間としての「テロル」の物語(『テロルの決算』のこと)、そして60年の安保闘争の中での学生運動とメディアの絡み合いが生み出した「ゆがんだ青春」の物語(未完)の三部作となる予定だったという。しかし沢木さんは『テロルの決算』を書いた後、歴史ノンフィクションから足が遠のく形になった。

 ということで、この本が沢木さんの著作でどんな位置をしめるのか知らなかったわけだが、買ってしばらくの間、内容が、政治的ノンフィクションなので、これはちょっとすぐ読めないなぁと思っていた。しかしたまたま半藤さんの『昭和史』を読み終えていたので、その歴史的背景が自分なりに頭の中に入ったので、この本が読めると思い、読み始めた。読んでみたらこれが意外に面白かった。

 この本は池田勇人の「所得倍増」計画がいかにして生まれたのか考察したルポルタージュである。
 池田勇人は1960年岸信介内閣総辞職の後、第58代内閣総理大臣に就任し、第1次池田内閣が発足させた。その後第60代と3期にわたり内閣総理大臣を勤めた。
 池田の総理大臣の道はそう簡単に得られるものではなかった。大蔵官僚として大蔵省に入省したが、当時大蔵省のエリートコースは旧制第一高等学校から東京帝大に入学し、大蔵省に入ることであった。しかし池田は旧制第一高等学校の進学に失敗し、熊本の第五高等学校に入学し、京都帝国大学に進んだ。この時点で大蔵省では池田は傍流にならざるを得なかった。しかも奇病に罹り、完全に人生のloser(敗者)となってしまった。
 この池田をloserとするなら、後に池田のブレーンとなった田村敏雄、下村治もloserであった。彼らは大蔵省に入省しても、田村は満州へ行ってしまい、そのまま終戦を迎え、ソ連の捕虜となってシベリヤに抑留されてしまう。当然出世街道から外れてしまった。下村は結核のため、長いこと休まなければならなくなってしまったことで、やはり出世かられてしまう。しかしこの三人が結びつくことで、池田の「所得倍増」が生まれるのである。
 そもそもこの「所得倍増」という当時としてはかなりインパクトのあるキャッチコピーがどうして池田の政治方針となったのか?沢木さんは1959年1月3日の読売新聞に載った中山伊知郎のエッセイだったのではないかと推理する。そこには「福祉国家という大目標は今日も依然として未来像の中核たるべきものであると思う。ただ貧乏のただ中で如何に福祉国家に接近するか、この問題に直面するとき、この未来像には一層具体的な形が与えられなければならない。その具体的な形として、私はあえて賃金二倍の経済を提唱してみたい」とあった。これを読んだ池田はこれは夢物語ではなく、実現可能だという「勘」が働き、これこそ探していたものだと確信する。後は池田のこの「勘」に理論が結びつけばいい。この理論を提供したのが下村治であった。池田と下村を結びつけた仲介者が田村敏雄であった。
 田村敏雄はシベリヤの抑留から日本に帰ってきたが、公職追放の指定を受けてしまう。そこで同期入省の池田勇人が大蔵大臣となっていたので、相談に行き、大蔵財務協会の理事長となる。その後池田の個人後援会である宏池会を作り、その活動に専念する。池田を総理大臣にすることを夢とするのである。その田村が大蔵省に凄い奴がいると聞いた。それが下村治であった。
 下村は「日本経済には素晴らしい成長力がある」と見ており、戦後行き過ぎとなりがちな総需要をいかにして総供給力の範囲内に押さえるかに課題が置かれたが、今は充実した供給力をいかにして健全な経済成長として実現するかを問題とすべきだとする。つまり充実した供給力を生かすためには、国が統制して需要を抑えるのではなく、需要を増やせばいいとしたのである。この下村の理論が田村を通して池田の政治方針となったのである。
 1950年代はとにかく復興であった。食うことに困り果てていた時代を克服することが最大のテーマであった。その努力を日本全体が行うことにより、少しずつ経済が豊になり、朝鮮戦争という神風も吹いた関係で、戦争のダメージから日本経済は復興する。そんなときやっと日本人が政治に目が向くような余裕もできたので、岸内閣の強引な安保条約改定はまた戦争を招くのではないかという不安に国民はかられ、安保闘争となっていった。国民は国に経済成長を求めたのである。それが60年代であった。そこに池田勇人が「所得倍増」を打ち出し、経済成長を更に延ばすことを最大のテーマとした。それは日本経済がこの時点でそれだけの土壌を持っていたことを認識していたから言えたのである。
 下村はそれをちゃんと見ていたのであった。「下村はこの『反安保』のうねりを、自分たちがどこへ向かって進んでいけばよいのかわからない国民の苛立ちだ、と見ていた。『日本国民の生きる道はちゃんとあるのだということを明示すれば、その苛立ちは消える』という固い信念があった。池田の手になる『所得倍増』がそのひとつの道になるはずだった」と沢木さんは言う。
 その結果、必ずしも一本調子ではなかったけれど、日本経済は下村の予測通り高い成長を続けたのである。

 この本を読んでいると、政治理念というか方針というのが、その時々の状況をどれくらい把握しているかで、それによって成功するか、失敗するかがよく分かる。そのためには現実をきちんと見ている人が政治家のブレーンにいることが如何に重要であるか思い知らされる。しかも学者ではなく下村のように、官僚の中に、しかも傍流にいたのである。それを見いだした田村も凄いし、田村を自分の所に置いた池田勇人も人間を見る目があったというべきかもしれない。
 また政治が国民に意識されたときは、ろくな時代ではないのではないかとも思う。つまり政治が国民の前面に出てきてしまった場合、統制や足かせを要求するのではないかと思う。池田勇人は下村の理論に従い、国が統制して需要を抑えるのではなく、民間の意志に任せ需要を増やせばいいとしたことで、経済成長を促した。沢木さんが池田の側近的存在の前尾繁三郎の『政治のつれづれぐさ』の「政治とは何か」の一節をあげているが、そこには次のように書かれている。

「人間は本来自由を欲する。自由であることによって努力が生まれる。努力なくして進歩はない。また、努力しても進歩のない世の中にしてはならない。それはできるだけ各人の自由を拘束しないようにしまければならないし、また、できるだけ平等にして競争のしがいのあるようにしなければならない。しかし、集団としては拘束、時に強制を必要とする。ところが存外原則が忘れられて、強制によって計画的に事をはこべば最も能率的であるかのように錯覚する。これは本末転倒で、逆に非能率となり、また、その不自由さに耐えられなくなる。かかる人間性を無視した政治は、政治ではないが、これがまた真の政治とまちがえられている」

 まさしくその通りだろう。真の政治は表舞台でない方がいいし、国民に意識されないほど政治が行われている方がいいに決まっている。(だからといって情報を公開しないで、好き勝手なことをしていいということではない)要は政治が国民を束縛しないことなのだ。その時国民は自由に人間らしく生きていけるし、必然的に国の繁栄を促していくのではないか。少なくとも池田はそうしたのだ。

 たまたま今日は次の総理大臣が決まる日である。私たちは新しい総理大臣が何をしてくれるか期待しすぎる部分があって、彼の政治方針がよく見えないと不安になっているところがある。しかしそうではなく、我々が彼らを動かすことをしなければいけないのではないかと思う。J・F・ケネディが大統領就任演説で「あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか」という姿勢を本来持つべきなのではないかとも思う。(なんだかまた脱線してしまった感があるが・・・)

評価
★★★★

2006年09月17日

半藤一利著『昭和史』戦後篇

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 前回の続きである。話しはいきなり始まっちゃうのだが、半藤さんは平和の兆しが見え始め、昭和26年サンフランシスコ講和条約が結ばれ、翌27年平和条約が発効された頃でも「戦争から占領時代にかけての依然として消えない”傷跡 ”のようなものが、社会の至る所に残っていました。見れども見えず、まあできるだけ見えないようにしていても、ちゃんとあったのです」と言う。この文章を読んでふと思い出したことがあるので、それを書きたい。

 子供の頃よく浅草に連れて行ってもらった。仲見世通りを通って、浅草寺の境内に入り、その横にある花やしきで遊んだ。その浅草寺の境内に片足のない傷痍軍人が松葉杖をついて、アコーディオンを弾き、物乞いをしていたのを思い出したのである。子供の頃は戦争で足を戦争で失い、生活に困っていて、物乞いをしていると純粋に思っていた。でもなんだかものすごく怖く感じて、そこを通るのが嫌であった。
 後で何かで読んだのか、それとも誰かから聞いたのか覚えていないが、その傷痍軍人は片足がないのではなく、ないように見せていたのだと聞いたことがある。つまり、膝から先を折り曲げてひもで縛って、さも片足がないように見せていて、物乞いが終わったらひもをほどいて、足を伸ばしているらしいと。そもそも軍人であったかどうか疑わしいらしい。
 私は「もはや戦後ではない」という言われた昭和31年生まれだが、私が見たこの光景は昭和30年代後半のことだった。今にして思えば、その光景が半藤さんいう”傷跡 ”だったのではないかと思ったりする。

 ところでこの本(平凡社刊)を読んでいて、戦争が終わり、ただでさえもののない時代に、復員兵が日本にあふれ、食うに困る時代の様子が書かれている。
 そういえば、開高健さんの自伝小説『青い月曜日』(下の写真は昭和44年初版のもの。単行本は多分絶版だと思う。文春文庫で読めるんじゃないかな)には戦争中、特に戦後の食糧難のことがすさまじい感じで描かれている。長くなるけどちょっと引用してみる。


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「もう三ヵ月近くなるが、誰も私が昼飯を食べないことに気がついていない。誰にも洩らしたことがないし、気どられたこともない。誰も知らないうちにこっそりと教室をぬけだして水を飲みにいき、なんとなく歩きまわって時間をつぶしてから教室へもどる。誰にもこのことを知られたくなかった。知られまいとして私はひそかに、めだたぬ、必死の工夫をこらしてきた。なにかしらそれははずかしくてならないことだった。貧しいことは私とはまったく関係のないことである。私はよく知っているが、私が昼飯がわりに毎日水を飲まねばならないことと私自身とは何の関係もなかった」

「ひたかくしにかくしつづけたつもりだったが、体から匂いがたつらしかった。ある日、水を飲んでから教室にもどると、机のなかに新聞包みが一個入っていた。なにげなく手をふれると、柔らかく重いものに指がさわった。あけてみなくてもわかった。瞬間、私の体のなかで、とぼしい血が逆流した。髪まで熱くなった。私はたちあがって教室をでた。廊下へでてどこへいこうか迷っていると、誰かが迫ってきた。尾瀬であった。教室の遠くから彼は私の後姿をじっと注視していたもののようであった。
『・・・・お、おれ』ははずかしさに顔を赤くして彼は口ごもり、いま私の机のなかからぬきとってきた新聞包みを持てあますようにして、つぶやいた。
『何もいわんと、とっといてくれよ。な、たのむ。気にせんといてくれ。おれとこはおやじもいて、何とかやっていけるんで、おふくろが今朝持っていけというたんや。大したもんとちゃうねん。たのむよってに、な、とっといてくれよ。お、お、おれ・・・・』
 彼は唇までおちる青ッ洟をすすりすすり、嘆願するようにささやいた。私の手のなかに新聞包みをおしこもうとした。私が力弱くおしのけようとすると、彼は、お、お、おれとどもり、牛のような眼をどろんとにごらせた。生まれてはじめての経験に彼は狼狽し、圧倒されて茫然となっていた。傷ついた、暗い、熱い眼を彼は私からそらすのに苦しんでいた。その眼に私は自分の眼を見たような気がした。
『た、た、たのむ。な』
 彼はパンの包みを私の手のなかへぶざまにおしこみ、逃げるようにして教室へ消えた。鐘がどこかで鳴りだした。熱い汗が霧のように眼にたちこめていた。私はパンの包みをかかえたまま、茫然と、階段をおりていった」

 終戦直後学校が始まっても昼飯の弁当を持っていくことができない開高さんは昼飯の時間になるとそっと抜けだし、水を飲んでお腹をふくらます。それを「トトチャブ」というらしい。
 友人が開高さんが水を飲んでお腹をふくらませていることを知って、パンを渡す。それがこれであった。水を飲んでお腹をふくらませなければならないほど貧乏であったことを恥ずかしく思っていただけに、突然友人からパンを受け取らなければならなくなったとき、どのような反応をしていいのか、ただ茫然自失の状態になってしまう。そしてパンを渡す友人もどのようにパンを渡していいのか分からないだけに、無理矢理手渡すしかなかった。
 この小説は戦後著者がどのように生きてきたか、当時生きることの難しさを教えてくれる。

 さて、こうして国民が食べることをなんとかしなければならない時代であったとき、憲法改正が叫ばれた。私は今まで終戦後憲法改正が平和憲法の公布、主権在民等、国民のためのものだと思っていたけれど、どうも違うようである。それが急がれたのは、天皇の戦争責任を回避するためのもであって、いかにして天皇が東京裁判の法廷に立たないようにするか、GHQはもちろん、国を挙げて取り組んだのが、憲法改正であった。
 前作を読んでいると、天皇の戦争責任はどう考えても免れることができないものであったことが分かるが、天皇に戦争責任を押しつけてしまうと、日本そのものが混乱を極め、GHQはうまく日本を統治できなくなることが分かっていたし、戦後残った政治家も絶対に天皇に戦争責任を問うことはさせたくなかった。敗戦で戦争が終わっても、天皇は別格であったのだ。
 日本はポツダム宣言を受諾する時に、「国体つまり日本の国柄が変更されないことを条件として降伏する」と主張し、それを受け入れた。国体とは、簡単にいえば明治憲法にある天皇の国家統治の大権をいう。つまり、明治憲法の第一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治スル」と、第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」、第四条の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」というやつである。
 GHQはいくら何でもこれをこのままにはしておくことはできるはずがない。このままにしておけば天皇の戦争責任までいやがうえにもいってしまうのである。そしてあくまでも天皇の戦争責任は問わないということが前提にあるので、どうしても憲法改正はしなければならなかったのである。

 ところで一方で、戦争責任者は裁かなければならない。それが逮捕、公職追放となった。特に東条英機はぶざまであった。MPに逮捕されそうになると東条はピストルを胸に撃って自殺をはかるが未遂に終わる。本当に死ぬ気なら口にピストルをくわえて撃つか、頭を撃てば確実に死ぬはずなのにそうはしなかった。すぐ米軍手で病院に運ばれ一命を取り留める。東条は「生きて虜囚の辱め受けず」という「戦陣訓」を発令した本人なのだ。当時の日本人はこれを聞いてがっかりしたという。
 近衛文麿にしても、遺書に自分が戦犯に選ばれたのは中傷するやつらがいたからで、あるいは流言蛮語の結果だ。要するに日本人のいやらしさが背後にあるからだといい、自分は裁かれることに堪えられない。国民はいつか冷静さを取り戻せば、自分の志が分かってくれるだろう。だから米軍の判決など受け入れない。神の判決のみ受け入れるといって、服毒自殺をしてしまうのである。
 前作で当時の軍部幹のは無能ぶりが明らかにされたが、その後も無能だけでなく生き方すべてがぶざまであった。こんな奴らが日本を戦争へと導いていったのである。

閑話休題
 松本清張さんの著作に『日本の黒い霧』(これも文春文庫にある)というのがある。これは戦後起こった不可解な事件、たとえば「下山事件」(当時の国鉄総裁であった下山さんが轢死死体で発見された事件)や「三鷹事件」、「松川事件」(これらはあったかなぁよく覚えていないけど・・・。また「帝銀事件」はあったと思う。)とにかく戦後起こった不可解な事件を推理作家として事件を推理したものである。しかしこの本は昔読んだことは読んだのだけど、記憶にあまり残っていない。というのもこれら国鉄関係の怪しい事件(帝銀事件は別)がどうして起こったのかその背景が分かっていないからだ。
 しかし半藤さんのこの本を読んでその事件の背景がよく分かった。戦後経済復興のためには余計な経費(余分な労働者)を削ることを、官民そろって迫られた。(ドッチ・ラインという)公務員も労働者もどんどんクビを切られていく。特に最初に目を付けられたのが国鉄であった。こうなるとGHQのすすめで作られた労働組合は黙っておらず、人員整理の旗頭であった下山総裁が狙われたのではないかというものである。そしてその後に起こる「三鷹事件」、「松川事件」もこうした背景があって起こった事件だったらしい。今頃分かったのだけど、やっぱり歴史的背景をきちんと押さえておかないと、事件や事故だけを取り出してみても、よく分からなくなるいい例かもしれない。

 憲法改正、平和条約締結等、天皇問題は昭和34年あたりで落ち着いた。そしてこの後日本は国家のグランドデザインをアメリカの核の傘下の下に入ることで、「軽武装・経済第一の貿易通商国家」として進んでいく。その中で、平和と民主主義をめぐる政治闘争が始まる。戦後食うことに困り果てていた日本人は、自分たちが生きることが精一杯だった関係で、政治に目を向ける余裕がなかったが、ある程度経済的余裕ができはじめてくると、日本の政治に目を向けるようになっていく。
 そんなとき、A級戦犯で逮捕された岸信介が総理大臣となる。岸は強力な憲法改正・再軍備論者であったので、戦後アメリカから押しつけられた憲法、安保条約をもっと日本の立場がもっと強く出るように変えるべきだという姿勢をとる。つまり、「軽武装・経済第一の貿易通商国家」ではなく、「戦前の大日本帝国の栄光を取り戻すこと」をめざしたのである。
 ところが日本国民は平和はいいもんだと実感し始めた頃であったので、憲法改定は難しいと岸は思い始めた。そこで安保改定をして日本の立場を強く主張しようと乗り出すのである。その主張は、アメリカと日本は対等でなければならないし、基地を貸す以上、アメリカは日本の防衛を義務として本気でやってもらわねば困る。その代わり日本もアメリカに全面協力をするというものであった。ここに日本が再軍備化がクローズアップされていき、平和はいいもんだと思っていた国民はこれを問題視するのである。いわゆる60年安保闘争である。
 しかし条約は批准され、岸はその直後退陣する。安保闘争はこの後急速に終焉し、安保闘争に参加した学生は「デモは終わった、さあ就職だ」、「終わった、終わった、さあ働こう」と彼らが働き蜂になって一所懸命働き出す。そこへ池田勇人が総理大臣となり「所得倍増論」打ち出し、日本人はがむしゃらに働きだし、高度成長時代を生みだしていく。日本は戦後、アメリカの保護の下に「軽武装・経済第一の貿易通商国家」をめざすことをもともと基本姿勢にしていただけに、60年安保闘争は一種の「ガス抜き」だったのだ。そしてその姿勢は現在も大して変わっていないだろう。

 この本はまだ歴史が確定していないという理由で、後17年分残して昭和47年で話を終える。確かに現在に近くなればなるほど話を急いだ感じがしないでもない。2冊で千頁以上の本だったけど、それでも戦前、終戦後の経緯はよく分かった。
 私の話がふらふらしてしまって、まとまりがなくなってしまったが、こういう通史を読んでいると、あぁ~、あれがそうだったんだ!と思うことが多くて、ついつい思い出すままに書いてしまった。私の頭の中にあったバラバラな記憶がこの本を読むことでつながった快感があったことだけでも分かって頂ければいいのだけど・・・。

評価
★★★

2006年09月14日

日書連プライベート・ブランド

 日書連がPBとして『窓際のトットちゃん』と『だいじょうぶ だいじょうぶ』を講談社と提携して出す。完全買切制でマージン40%にするらしい。これはマージン拡大と適正配本の実現が最大の目的らしい。まぁそれはそれでいいけど、これってPBか?今頃何で『窓際のトットちゃん』なんだろうか?本気で売れると思っているんだろうか?書店がせっせと注文して平積みするだろうか?もし私が店主なら絶対に注文しない。これを日書連のPB商品として売り出す方がおかしい。
 『窓際のトットちゃん』は1,260円の定価だそうだ。ブックオフなら間違いなく、100円均一の棚にきっと入っているはずだ。マージン40%に欲がくらんで手を出すとえらいことになりそうな商品である。
 試みとしては面白いし、支持したいけど、日書連のPB商品とするなら、新しい作家なり、あるいは既存の作家の新作をPB商品とすべきじゃないかと思うのだけど、どうだろうか・・・?日書連幹部はこれらの本が本当に売れると思っているのだろうか?正直なところ聞きたいものだ。
 これは講談社が提携しているけれど、何となく推察できる。『窓際のトットちゃん』は750万部も売れた本だから、十分儲けたことだろう。ここでいくらかでも売れれば、マージン40%を出しても、痛くもないのではないか?そんな「げすの勘ぐり」をしちゃうのだけど・・・・。この2冊が平積みでど~んと積んであったら欲に目がくらんだ中小書店だと見た方がいい。読者をバカにするのもいい加減にして欲しいもんだ。

 とここまで書いて、どう考えてもいくら無能な本屋さんでも、この2冊を平積みにして売るようなことはしまいと思い直した。やっぱりこれは常備品として棚差ししてある本を粗利の高い本と入れ替える程度だろう。よく考えてみれば、これでいいのかもしれない。いわゆるロングセラーの本をどんどん日書連のPB商品としてくれれば、それを逐次入れ替えていけばいい。そして気がついたときは、棚にあるロングセラーの本は粗利の高い日書連のPB商品に替わっていて、書店の儲けが幾分増えることになる。たぶん日書連の幹部はそれをねらっているのかもしれない。もしそうなら、日書連の幹部もなかなかやるじゃん!

2006年09月12日

半藤一利著『昭和史』

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 この本(平凡社刊)も前から気になっていた。自分が昭和に生まれたからかもしれない。でもそれ以上に私は昭和の歴史を知らなすぎる部分がある。それでも、昭和という時代の象徴が「戦争」であることは分かる。では何故日本は昭和の時代に戦争を引き起こしてしまったのだろうか。それを詳しく知りたいと思った。

 半藤さんは次のように言う。「1865年(日清戦争に勝って)国づくりをはじめて1905年(日露戦争に勝って)に完成した、その国を40年後1945年(第二次世界大戦に負ける)にまた滅ぼしてしまう。国をつくるのに40年、国を滅ぼすのに40年、語呂合わせのようですが、そういう結果うんだのです」と。昭和という時代は、明治の人達がつくってきた近代国家を壊した時代であったのだ。
 昭和の不幸は明治に日露戦争に勝って、満州手に入れてしまったところから始まった。その満州経営から日本は国民、政治家、軍人、マスコミがいい気になりすぎたのである。特に国民やマスコミの戦争責任を冷静に考えないといけない。戦争を起こしたのは政治家、軍人なのだから、彼らにその責任をすべて押しつけて、我々国民がのうのうとしているところがあるけれど、少なくと彼らをあおったのはマスコミであり、支持したのは国民であったのだ。
 特に国民の無知ぶりは、それが日本人の国民性によるところが大きいのだろうが、あまりにも自分勝手であった。何も冷静に理解できず、ただ感情に流されて、熱狂してしまったところが、結局不幸な戦争へと自分たちを追い込んでいく。昭和のこの時代、国民全体が集団ヒステリーの状態になってしまったのである。 半藤さんは明治の政治家や軍人が40年かけて国を作ってきたといっているが、結局それは国民性の成熟を作り上げなかったところに問題があったのではないだろうか。当時の指導者たちが、国民は無知だから、せめて自分たちがしっかりして、国民を指導していかなければならないという奢りから、そもそも明治という国はスタートしているのだ。だから国民はいつまでも江戸時代のままであった。いってみればそれが昭和のこの時代にも続いている。いやもしかしたら今でもそうかもしれない。
 それはともかく、そこへ無能で、自分たちのことしか考えない政治家、軍人が、国民の無知を利用して、日本という国を戦争へと追い込んでいくのである。もちろんりっぱな政治家、軍人もいただろう。けれど当時指導部にいた政治家、軍人はひどい人物ばかりであった。こんな奴らに日本を任せていたのだから、戦争が起こって当たり前と思わざるを得ない。

 ところでかねがね不思議に思っていたことがある。こんな無能な政治家や軍人たちに囲まれた昭和天皇はどうしていいように利用されてしまったのだろうと。はっきり言って昭和天皇もぼんくらだったのではないかと思っていた。(というのも私が知っている昭和天皇はあのぼけた感じの天皇しか知らないから余計なのだが)
 でもこの本を読んで天皇がどうして無能な政治家や軍事たちの言いなりになってしまったのか分かった。
 1928年の張作霖爆殺事件で当時の田中義一首相は国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張したが、陸軍の強い反対にあい果たせなかった。このことが昭和天皇を怒らせ、内閣総辞職となり、混乱を招くこととなる。ここから天皇は政治に口をはさむべきではないということになり、「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した」と昭和天皇に言わせるのである。 ここから物言わぬ天皇、沈黙の天皇が生まれた。つまり内閣が決めたことを無条件で裁可する姿勢をとっていくことになるのである。私たちが知っている「あっ、そう」という姿勢がこのとき出来上がったのかも知れない。
 半藤さんはこの本ではかなり昭和天皇に好意的な態度で接している。昭和天皇は戦況悪化をかなり具体的に把握しているのだけれど、閣議で決めたことを不満や疑問、あるいは反対意見を持っているにもかかわらず、黙認していくのである。結局戦争を終結するにあたり、最後の最後になって「聖断」を下しただけであった。天皇であり、大元帥陛下が何も文句をいわないもんだから、軍部は好き放題の状態で、当然この状況を歓迎するに決まっている。
 そこへもってきて、五・一五事件が起こり、犬養首相が殺害され、斎藤実海軍大将がその後を継いだ。斎藤内閣はもう政党などにかまっていられなくなり「挙国一致内閣」を組閣する。これは政党以外でも国を思う人達を集めて組閣された。ということは、この時点で政党政治の息の根が止められ、軍人の暴力が政治に君臨し始めることになった。
 その後二・二六事件が続き、広田弘毅が首相となる。彼は「軍部大臣現役武官制」を復活した。これは陸軍大臣、海軍大臣が現役軍人しかなれないとしたもので、陸軍や海軍が「ノー」といえば大臣ができない。陸軍大臣や海軍大臣がいなければ組閣ができないので、その時点で内閣は倒壊することになる。従って内閣を潰すも作らないのも軍の思うままになり、政治に介入するための「伝家の宝刀」を軍が握ったことになるのである。
 その上広田弘毅首相はドイツと「防共協定」を簡単に結んでしまった。これが後の「日独伊三国同盟」へとつながっていくことになる。

 実を言うと、広田弘毅首相はこんな政治家だったとは思わなかった。というのも城山三郎さんの『落日燃ゆ』を読んだことがあったので、広田弘毅首相は戦争を回避したかった文官であったと思いこんでいたからだ。だから戦後A級戦犯として断罪されたのを他の軍人たちとはちょっと違う、あるいはA級戦犯ではなかったのではないかと思い続けていた。
 最近靖国問題でA級戦犯合祀の問題で、広田弘毅首相のお孫さんだったと思うが、広田弘毅首相を靖国神社に合祀されることを反対していたという記事を読んだことがあるが、それを読んで「そうだろう」と広田弘毅首相は他のA級戦犯とは違うはずだから思い続けていた。それらはすべて城山三郎さんの『落日燃ゆ』の影響による。
 しかし半藤さんは「城山三郎が小説『落日燃ゆ』で非常に持ち上げたためたいへん立派な人と広田さんは思われているのですが、二・二六事件後の新しい体制を整えるという一番大切なところで広田内閣がやったことは全部、とんでもないことばかりです」と断罪するのである。それがこれであった。思わずこれを読んでそうだったのかと、思い知らされた。一人の作家の作品で、もしかしたらとんでもない間違った歴史を覚えていたのかも知れない。正しい歴史認識を持つことが如何に難しいか分かった。

 とにかくこの後軍部の独走が始まり、日本は戦争へとどんどん進んでいく。しかも軍部にいる人間の能力のなさ、情報収集力のなさ、勝手な思いこみで、日本全体が戦争へと巻きこまれていく。「戦争が終わってしばらくは、日本の死者は合計二百六十万人といわれていましたが、最近の調査では約三百十万人を数えるとされています」と半藤さんは教えてくれる。その上で「何とアホな戦争をしたものか。この長い授業の最後には、この一語のみがあるというほかないのです。ほかの結論はありません」といって、この本を終えるのである。確かにそのようである。

評価
★★★

2006年09月10日

阿部謹也さん死去

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 今朝の朝刊に阿部謹也さんが4日の日に亡くなったという訃報が載っていた。思わずえっ!と、絶句する。まだそんな歳じゃなかったはずだと思い新聞を読んでみると71歳だという。急性心不全だ。
 私は阿部さんの著作が大好きで、新しい本が出れば必ず買って読んでいた。特に『ハーメルンの笛吹き男』にはかなり衝撃を受けて、なるほどこんな考え方もあるんだと目を開かされたものだ。
 その民衆の姿をできる限り生き生きと描く著作は、他の歴史書では顧みられなかったみずみずしさがあった。それまでの歴史が上段から視点で描かれたのに対して、中世ヨーロッパの民衆はどんな生活をしていたのか、そこから中世ヨーロッパの社会史を構築していく阿部史観にものすごい魅力を感じていた。
 その民衆への視点が日本にも向けられ、「世間とはなにか」に及んで、阿部さん独自の日本文化論?を展開していった。

 セミナーで阿部さんがたくさんのカードを引っ張り出し、講義をしていたのを思い出す。たぶんそのカードには講義の内容の資料がたくさん書かれていたのだろう。それを見てなんだかものすごくかっこよく見えた。いろいろな資料から抜き出されたことがそこには書かれているのだろうと思ったのだ。
 これからの著作も楽しみにしていただけに、非常に残念である。心よりご冥福をお祈りします。

2006年09月07日

「全国小売書店経営実態調査」その2

 もう書店組合の批判を書くのはやめようと思っていたところに「全国小売書店経営実態調査報告書」のアンケート結果が全国書店新聞に載っていた。
 もともとこの「全国小売書店経営実態調査」は組合に加入する中小書店にアンケート形式で配られ、それに答えたものが「全国小売書店経営実態調査報告書」としてまとめられたものである。実は我が社にも送られてきたのだが、もう書店業を廃業したので、捨ててしまった。
 でもこの全国書店新聞に載っている「全国小売書店経営実態調査報告書」を見て、こんなアンケートであったのかと、捨てなけりゃよかったと後悔した。というのも、このアンケートはいくつかの答えがあって、該当するものを選ぶ形式だったようで、聞いてることが、ちょっと他の業界には知られたくないなぁというしろものであった。
 たとえば、「書店の現状」のなかのアンケートで「電子機器の使用状況」というのがある。電子機器は何を使っているかと聞いているのである。で、その答えがふるっている。ファックス、パソコン、コピー機等々なのだが、ファックスが電子機器なのかと思わず考えてしまった。いくら何でもファックスを電子機器としてリストアップするのかなぁと情けなくなってしまった。まぁ、電話なんて項目がないだけでもましかと思ったりするが、それでもちょっとなぁ・・・。
 要するに組合が考えている電子機器とはこの程度なのだ。でもさすがファックスは93.2%も所有しているので、少々安心したりする。でもこのIT時代にこの程度のインフラしか用意されていないことを恥ずかしく思うべきで、これじゃ今の時代中小書店が生き延びていくのは難しいのではないかと思っちゃう。
 ちなみにパソコンは71.8%と所有しているけど、そのパソコンを何に使っているかといえば、書籍の検索77.3%、受発注管理60.4%、出版社・取次の在庫情報確認が57.4%と続く。要するに情報を得るために使われている。誰だっけ?書店は情報発信基地であるべきだなんて言った奴。ちっとも情報を発信などしていないのだ。ちなみにホームページ管理・運営が22.3%、電子商取引(この言い方も何か変だけど)が9.5%しかない。
 このアンケートの結果をどのように生かしていくのか知らないけど、もう少し組合あげてインフラの整備を急ぐべきではないかと思う。

2006年09月05日

伊藤愼芳著『ピロリ菌』

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 まさかこんな本を読むとは思わなかった。この本(祥伝社新書)自分がピロリ菌感染者と分かってから、たまたま見つけた本である。
 で、この本の感想はといわれても、何とも書きにくい。要するに実用書として読んでいるので、読んで分かったことを書きたい。
 驚くことに、日本では6,000万人の人がこのピロリ菌に感染しているそうで、中高年の約70~80%が感染者だという。1992年調べだと、下の表のようになる。つまり40代から圧倒的に感染者が多いことになる。


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 さらにその次の表を見てもらえると分かるのだが、ピロリ菌の感染率は年齢が高くなるにつれて高くなるのではなく、ある年齢層の感染率は生まれた年代で決まってしまい、その後上昇していない。ということは、現在40代以降の人間が死んでしまえば、ピロリ菌感染者は相当数減少することになる。(それに私も含まれているのだが・・・。もちろんこの本ではこんな過激な書き方はしていない。あくまでも「予想できる」という柔らかい書き方で書いてある)


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 で、この本を読んでいると、すべて「リスク」が問題になる。たとえばこれらの表を見て、「日本の高齢者世代や発展途上国における感染を考えると、飲料水などの環境自体に問題があった」とか、「ピロリ菌に感染したことのない人では胃癌をほとんど発症しない」あるいは「ピロリ菌の感染者は胃癌のリスクが格段に高い」といった感じである。つまり、環境が悪かった世代や発展途上国にピロリ菌感染者が多いから、そうではないかとか、胃癌の患者にはピロリ菌感染者が多いから、その原因の一因だろうといった感じである。資料やデータを見ればそう考えざるを得ないというやつである。
 あるいはこの本の後半に予防効果のある食品があげられているが、これらすべて「有用性が確認されています」となっている。それを食べているとピロリ菌が減るという報告が出ているといったのも、上記と同じ考え方による。可能性は高いのだろうけど、間違いなくこれだというもんじゃないらしい。こういう曖昧さ(今現在ここまでしか調べられないという理由で)が、テレビの健康番組を支えているのだろう。曖昧さゆえ、逃げ道ができるから番組を作る方も安心だ。
 今日の朝日新聞の朝刊に「ピロリ菌感染歴、胃がんリスク10倍 厚労省調査」という記事があった。それを読んでみると、「ピロリ菌感染歴のある人たちが胃がんになるリスクは、感染歴のない人たちの10.2倍に達した」と全国4万人余を対象にした厚生労働省研究班の大規模疫学調査でわかったらしい。「ただ、ピロリ菌感染歴があっても、胃がんを発症するのはごく一部とみられる」らしく、「研究班によると、抗生物質でピロリ菌を除菌しても胃がんを防げるかどうか、現段階でははっきりしていないという」

 とはいえ、自分が検査の結果ピロリ菌感染者であることは間違いなさそうなので、この本を読んで分かったことをメモみたいな形で残しておこう。
 自分の父親がだいぶ前にピロリ菌の除菌をしたと聞いたとき、「なんだピロリ菌って?ころり(江戸時代のコレラのこと)なら知っているけど」と馬鹿なことを言った覚えがあるが、それまでそんな細菌があることさえ知らなかった。だいたいピロリなんてふざけた名前だ。
 ピロリ菌の正式な名前はヘリコバクター・ピロリといい、ヘリコバクターとは螺旋状の細菌のことをいうらしく、ピロリ菌もその形態が螺旋状になっている。発見は19世紀後半で、1982年にピロリ菌の培養に成功させたオーストラリアウォーレンとマーシャルによって、その存在を再発見され、胃癌、胃潰瘍、十二指腸潰瘍などピロリ菌の関与が大きいとされるようになったらしい。2005年にはこの二人はノーベル医学生理学賞を受賞している。
 だいたい強い胃酸の中で細菌が生きられるわけがないというのがそれまでの見解であった。しかしピロリ菌は微好気性菌で、酸素濃度3~15%程度のほうが繁殖しやすいらしく、しかもウレアーゼという酵素を持っていて、尿素を分解して二酸化炭素とアンモニアに分解する。アンモニアはアルカリ性だからピロリ菌のまわりの胃酸を中和して自らを守る環境を作り上げるらしい。(なかなかたいしたもんだ?)ピロリ菌のえさは新陳代謝で脱落した胃粘膜上皮細胞から出されたアミノ酸だという。
 胃の細胞に接着したピロリ菌は直接的・間接的に胃の細胞を傷害し、胃粘膜を保護しているバリアが壊れて粘膜層の細胞を破壊する。これを「びらん」という。そのびらんがひどくなり、胃の粘膜下層や筋層が破壊された状態が「潰瘍」という。しかし慢性的な胃炎や潰瘍が進むと胃粘膜が萎縮し、ピロリ菌の生育環境である胃の粘液が少なくなり、ピロリ菌の生存が困難になるという。(馬鹿なやつだ)
 しかしちょっとおかしい?というのも私が受けた血液検査の結果、胃酸過多が症状としてある結果になっている。胃が萎縮し潰瘍になっていれば、粘膜が壊れていて、胃酸が逆に少なくなっていいのではないか?
 でも、この本を読んでいて分かった。ピロリ菌に感染して、胃の胃前庭部(胃の出口の近くのこと)で炎症が起こると、ガストリンという胃酸分泌を刺激するホルモンが出て過酸となり、十二指腸潰瘍となるという。
 私の場合、ピロリ菌に感染している結果が出ている。しかもガストリンが基準値37~172pg/mlなのに、私の場合270pg/mlもあるというのは、これである。医者が私の症状を十二指腸潰瘍ではないかと疑っている理由はここにあったことを知る。

 とにかく病気になって、その関係の本を読んだのは初めてなので、我ながらおかしな部分もある。この本に、ピロリ菌を減少する効果のあるLG21の入ったヨーグルトがいいとあったので、たまたまサミット安売りしていたので1週間分買いだめして、食べていた。薬と思って食べているからか、これが美味しくない。最初の頃は冷蔵庫にいくつも残っているのを見てうんざりもした。


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 あるいはブロッコリーもいいらしいよとかみさんと話すようになって、まるで「みのもんた」や「あるある」を見て、騒ぎ立てるおばさんみたいになっている自分に苦笑してしまう。今までバカにしていたこれらのおばさんたちをバカにできなくなってしまっているのである。やれやれ・・・。

2006年09月03日

高野秀行著『ワセダ三畳青春記』

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 この本(集英社文庫)は本にかかっている帯につられて買ってしまった。「酒飲み書店員さんが強力にオススメする1冊」とあるのだ。どうも書店員がすすめる本というのを聞くと、どれどれどんなもんかいと触手が伸びてしまう。自分がもう書店員でないので、どこかで書店員としてアイデンティティを求めているのかもしれない。
 まずはこの「酒飲み書店員さん」とはどんな集まりなんだろうかと気になる。ネットで調べてみると、Web本の雑誌に行き当たった。なるほど「本の雑誌」関係で集まった連中かと妙に納得してしまった。それを読んでみると、「本を読むことはもちろん、本を売ることはもっと愛し、そしてその次にお酒が好きな千葉近辺の書店員と出版社営業が集まり、売り出したい1冊をコンペで決定! 記念すべき第1回で選ばれたのは高野秀行著『ワセダ三畳青春記』です」とある。

 http://www.webdokusho.com/event/sakenomi.htm


 そういえば自分も大学時代、酒を飲みながら、あるいは講義をさぼって喫茶店に入り浸り、よく本の話しをしたことを思い出す。まぁあの時と同じ感覚なんだろう。

 このての本はいわゆる著者がある程度年齢がいって、又は時間がたって、当時を振り返ることができるときに成立する。つまり現在進行形ではなく、あくまでも過去形である。そして今よりも若い。若いからむちゃや無理ができた。それを振り返って、おもしろおかしく、あるいはもの悲しく語られる。
 ただここで振り返るとき、教育的、道徳的なことを語ってしまうと、説教がましくなってしまう。これをやったらアウトだ。あくまでもばかばかしくて、なおかつもの悲しいのがうけるだろう。読む方も教育者でないのだから、そうでなければ困る。
 で、この本もそのうけるセオリー通りの本である。早稲田にある「野々村荘」に大学時代から、3畳一間に11年間(後の3年間は4畳半に移るが)の仲間やそのアパートの住人たちの馬鹿物語である。
 家賃一万二千円、礼金なし。敷金一ヶ月分の三畳一間だから当然トイレ台所は共同だし、風呂はもちろんない。そもそも風呂にはいることさえ面倒なのだ。銭湯も毎日行けば家賃より高くなってしまうから行かない。で、どうするかといえば区営プールへ泳ぎに行くのである。

 「プールはすばらしい。使用料はたったの二百五十円。毎月一回の休館日を除いて年中無休。屋内だから、冬は暖かく、夏は涼しい。ばしゃばしゃ泳ぐと爪の先までぴっかぴかになる。しかも、濃い塩素に一、二時間もどっぷりつかれば、清潔を通り越して体内の有益な菌まで死ぬんじゃないかと心配になるくらいだ」

 こうしてヒマになるとみんなでプールへ行くことになる。ある時、区主催の水泳大会があることを知って仲間たちと河童団というチームを作り参加する。ところがみんなまともに泳げない。リレーで高野さん番になり、プールから飛び込むが、ゴーグルがはずれ、ずり下がる。この時「しまった、モモッた、モモッた!」と心の中で叫んだ。
 「モモッた」とは何かというと、「飛び込みで失敗してゴーグルがずれることを水泳業界用語で『モモる』って言うんですよ。ほら、桃屋のおじさんに似ているから」らしい。この説明を読んだとき、桃屋のおやじの眼鏡がずり下がったコマーシャルが頭に浮かび、浮かんだとたん大笑いしてしまった。うまいことを言うもんだ感心してしまった。私はいつまでも「モモッた」という文句が頭に残り、思い出すたび笑いがこみ上げてしまった。この本の面白かったのはこれだけだ。
 11年間も「野々村荘」にいると、たとえ狭く、不便であっても離れられないから、旅をしてもここに戻ってくる。「私の世界の中心は野々村荘だった。そこが母なる場所である」と感じていた。
 ところが高野さんに恋人ができるとその事情が変わってくる。それは野々村荘が狭くて、不便だからではなく、野々村荘より彼女のもとにいたくなったからである。今までは帰る場所として野々村荘とワセダがあったが、その帰るべき中心が「場所」から「人」へとずれた時、この野々村荘にいられなくなった。 たぶんこのあたりが酒飲み書店員の涙腺がゆるむところなのだろう。(ただでさえ酒を飲んで感情の起伏が激しくなっているから余計だ)

評価
★★

2006年09月01日

司馬遼太郎著『街道をゆく』19巻

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 今回は「中国・江南のみち」である。中国江南地域といえば、女真族の金に華北 を奪われた後、南遷して 淮河 以南の地に再興した南宋を思い出す。あるいはあるは中国の故事にある春秋戦国時代の呉、越を思い出す。たとえば「呉越同舟」とか「会稽の恥」とか、または「臥薪嘗胆」といったものである。
 でも、もっともっと昔、イネなどはここから日本に伝わってきただろうし、漢字だって最初は呉音(中国の長江下流域で話されていた漢字の音にもとづいて、日本語の中に取り入れられた漢字の音読み)であった。その後遣唐使や渡来中国人によって漢音が伝わり、日本語は現在でも呉音と漢音が併用しているのである。
 以前にも書いたけど、日本から中国へ行く場合、中国江南地域の方が近いし、行きやすかったのだ。それは世界地図を見ればよく分かる。司馬さん日本の原風景を見るためにここを訪れたのではないかと思われる。
 今回、須田克太さんの挿絵意外に司馬さんの描いたと思われるイラストなどが見られるけど、今日本で使われている道具は、本来この中国江南地域ではまったく別な用途で使われていたり、あるいは日本での名称なども中国で使われていた道具の用途から日本ではまったく違う名称に変わっていたり、まさしく司馬さんが言うように、「文化はしばしば日本にくるとき、ふしぎな変化を遂げる」のである。
 たとえば「急須」があるが、これはもともと中国では酒をお燗するときに使うものであったが、それが日本では茶を入れる道具に変わっていたり、昔中国では「尊」という酒を入れる容器があったが、そこに酒を入れて先祖を祀るから、尊いという形容詞や尊ぶという動詞が生まれたりした。酒を入れる容器といえば、殷や周の時代に「爵」というものがあったが、この「爵」を王が諸侯の階級によって違う「爵」を与えた。殷の時代には、公、侯、伯の三等級があり、周の時代には公、侯、伯、子、男の五等級が存在した。これに爵をつければ、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵となって、明治政府は旧大名に名称だけを古中国から取り入れた。それぞれの由来をたどると、とんでもないものから名前や名称が出来上がっていることを知る。

 この中国江南地域には日本の有名な僧も度々訪れている。空海、最澄、道元、栄西、雪舟などである。司馬さんの記述で面白かったのは、最澄であった。
 最澄は渡唐までして日本に移植したかったのは天台宗という顕教であった。天台山まで行くのに明州(今の寧波)まで来たが、その先に行くのに手間取り、しばらくの間この明州にいなければならなくなった。最澄はただこのままぼーっとしていても仕方がないと思い、近くの越州に竜興寺があり、そこに順暁という僧が密教を教えていることを知っていた。最澄はそこへ行って密教の教典を筆写してきたが、いわば時間つぶしのであったし、それが当初の目的でもなかった。そのため最澄はすぐ帰った。しかも越州の密教は田舎密教であり、しかもごく少量しか持ち帰っていない。
 ところが、最澄が日本に帰ってくると、朝廷は最澄に期待したのは天台宗ではなく、唐で流行していたと思われた密教であった。そのため急遽最澄はその密教の持ち帰ってきたということで、名誉を与えられ、その方面で多忙になった。しかしここに空海が唐の都長安で正統密教を持ち帰ってきたため、最澄の生涯における順風ここで終わった。以後空海と対立し、密教においては当然空海には勝てず、服従せざるを得なくなってしまった。また一方において南都の旧仏教と闘い続けるという苦しみのだけの後半生になってしまった。だから司馬さんはここに来て、「最澄は越州に来なければよかった」のではないかと思うのである。


 『街道をゆく』19巻にある「中国・江南のみち」は、週刊「街道をゆく」の28号に収録されている。