2006年09月01日

司馬遼太郎著『街道をゆく』19巻

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 今回は「中国・江南のみち」である。中国江南地域といえば、女真族の金に華北 を奪われた後、南遷して 淮河 以南の地に再興した南宋を思い出す。あるいはあるは中国の故事にある春秋戦国時代の呉、越を思い出す。たとえば「呉越同舟」とか「会稽の恥」とか、または「臥薪嘗胆」といったものである。
 でも、もっともっと昔、イネなどはここから日本に伝わってきただろうし、漢字だって最初は呉音(中国の長江下流域で話されていた漢字の音にもとづいて、日本語の中に取り入れられた漢字の音読み)であった。その後遣唐使や渡来中国人によって漢音が伝わり、日本語は現在でも呉音と漢音が併用しているのである。
 以前にも書いたけど、日本から中国へ行く場合、中国江南地域の方が近いし、行きやすかったのだ。それは世界地図を見ればよく分かる。司馬さん日本の原風景を見るためにここを訪れたのではないかと思われる。
 今回、須田克太さんの挿絵意外に司馬さんの描いたと思われるイラストなどが見られるけど、今日本で使われている道具は、本来この中国江南地域ではまったく別な用途で使われていたり、あるいは日本での名称なども中国で使われていた道具の用途から日本ではまったく違う名称に変わっていたり、まさしく司馬さんが言うように、「文化はしばしば日本にくるとき、ふしぎな変化を遂げる」のである。
 たとえば「急須」があるが、これはもともと中国では酒をお燗するときに使うものであったが、それが日本では茶を入れる道具に変わっていたり、昔中国では「尊」という酒を入れる容器があったが、そこに酒を入れて先祖を祀るから、尊いという形容詞や尊ぶという動詞が生まれたりした。酒を入れる容器といえば、殷や周の時代に「爵」というものがあったが、この「爵」を王が諸侯の階級によって違う「爵」を与えた。殷の時代には、公、侯、伯の三等級があり、周の時代には公、侯、伯、子、男の五等級が存在した。これに爵をつければ、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵となって、明治政府は旧大名に名称だけを古中国から取り入れた。それぞれの由来をたどると、とんでもないものから名前や名称が出来上がっていることを知る。

 この中国江南地域には日本の有名な僧も度々訪れている。空海、最澄、道元、栄西、雪舟などである。司馬さんの記述で面白かったのは、最澄であった。
 最澄は渡唐までして日本に移植したかったのは天台宗という顕教であった。天台山まで行くのに明州(今の寧波)まで来たが、その先に行くのに手間取り、しばらくの間この明州にいなければならなくなった。最澄はただこのままぼーっとしていても仕方がないと思い、近くの越州に竜興寺があり、そこに順暁という僧が密教を教えていることを知っていた。最澄はそこへ行って密教の教典を筆写してきたが、いわば時間つぶしのであったし、それが当初の目的でもなかった。そのため最澄はすぐ帰った。しかも越州の密教は田舎密教であり、しかもごく少量しか持ち帰っていない。
 ところが、最澄が日本に帰ってくると、朝廷は最澄に期待したのは天台宗ではなく、唐で流行していたと思われた密教であった。そのため急遽最澄はその密教の持ち帰ってきたということで、名誉を与えられ、その方面で多忙になった。しかしここに空海が唐の都長安で正統密教を持ち帰ってきたため、最澄の生涯における順風ここで終わった。以後空海と対立し、密教においては当然空海には勝てず、服従せざるを得なくなってしまった。また一方において南都の旧仏教と闘い続けるという苦しみのだけの後半生になってしまった。だから司馬さんはここに来て、「最澄は越州に来なければよかった」のではないかと思うのである。


 『街道をゆく』19巻にある「中国・江南のみち」は、週刊「街道をゆく」の28号に収録されている。

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