2006年09月20日
沢木耕太郎著『危機の宰相』
私は沢木さん新刊が出ると無条件で買ってしまうところがある。しかもこの本(魁星出版刊)今まで聞いたことのない出版社から出ているので、今のうちに買っておかないと後でなかなか手に入らないかもしれないという思いがあって、本屋で見かけたときすぐ買ってしまった。
ところがこの本、いずれじっくり読みたいと思って全巻買ってある「沢木耕太郎ノンフィクション」の7巻に収録されているのだ。「やってしもうた!」と思った。それを知ったのは著者のあとがきを読んでからであったが、この本の経緯が書かれており、へぇ~そうなんだと知ったこともあった。
この本は沢木さんの初の長編だったのだ。今まで沢木さんの初の長編は『テロルの決算』だと思っていたが、そうではなくこの『危機の宰相』だったのだ。ただ本としてきちんと刊行されるのは「沢木耕太郎ノンフィクション」まで待たなければならなかったらしく、それを今度魁星出版版として出版されたらしい。しかも1960年代を描いたものとして、体制側の提出した夢と現実としての「所得倍増」の物語(つまりこの本のこと)と、右翼と左翼の交錯する瞬間としての「テロル」の物語(『テロルの決算』のこと)、そして60年の安保闘争の中での学生運動とメディアの絡み合いが生み出した「ゆがんだ青春」の物語(未完)の三部作となる予定だったという。しかし沢木さんは『テロルの決算』を書いた後、歴史ノンフィクションから足が遠のく形になった。
ということで、この本が沢木さんの著作でどんな位置をしめるのか知らなかったわけだが、買ってしばらくの間、内容が、政治的ノンフィクションなので、これはちょっとすぐ読めないなぁと思っていた。しかしたまたま半藤さんの『昭和史』を読み終えていたので、その歴史的背景が自分なりに頭の中に入ったので、この本が読めると思い、読み始めた。読んでみたらこれが意外に面白かった。
この本は池田勇人の「所得倍増」計画がいかにして生まれたのか考察したルポルタージュである。
池田勇人は1960年岸信介内閣総辞職の後、第58代内閣総理大臣に就任し、第1次池田内閣が発足させた。その後第60代と3期にわたり内閣総理大臣を勤めた。
池田の総理大臣の道はそう簡単に得られるものではなかった。大蔵官僚として大蔵省に入省したが、当時大蔵省のエリートコースは旧制第一高等学校から東京帝大に入学し、大蔵省に入ることであった。しかし池田は旧制第一高等学校の進学に失敗し、熊本の第五高等学校に入学し、京都帝国大学に進んだ。この時点で大蔵省では池田は傍流にならざるを得なかった。しかも奇病に罹り、完全に人生のloser(敗者)となってしまった。
この池田をloserとするなら、後に池田のブレーンとなった田村敏雄、下村治もloserであった。彼らは大蔵省に入省しても、田村は満州へ行ってしまい、そのまま終戦を迎え、ソ連の捕虜となってシベリヤに抑留されてしまう。当然出世街道から外れてしまった。下村は結核のため、長いこと休まなければならなくなってしまったことで、やはり出世かられてしまう。しかしこの三人が結びつくことで、池田の「所得倍増」が生まれるのである。
そもそもこの「所得倍増」という当時としてはかなりインパクトのあるキャッチコピーがどうして池田の政治方針となったのか?沢木さんは1959年1月3日の読売新聞に載った中山伊知郎のエッセイだったのではないかと推理する。そこには「福祉国家という大目標は今日も依然として未来像の中核たるべきものであると思う。ただ貧乏のただ中で如何に福祉国家に接近するか、この問題に直面するとき、この未来像には一層具体的な形が与えられなければならない。その具体的な形として、私はあえて賃金二倍の経済を提唱してみたい」とあった。これを読んだ池田はこれは夢物語ではなく、実現可能だという「勘」が働き、これこそ探していたものだと確信する。後は池田のこの「勘」に理論が結びつけばいい。この理論を提供したのが下村治であった。池田と下村を結びつけた仲介者が田村敏雄であった。
田村敏雄はシベリヤの抑留から日本に帰ってきたが、公職追放の指定を受けてしまう。そこで同期入省の池田勇人が大蔵大臣となっていたので、相談に行き、大蔵財務協会の理事長となる。その後池田の個人後援会である宏池会を作り、その活動に専念する。池田を総理大臣にすることを夢とするのである。その田村が大蔵省に凄い奴がいると聞いた。それが下村治であった。
下村は「日本経済には素晴らしい成長力がある」と見ており、戦後行き過ぎとなりがちな総需要をいかにして総供給力の範囲内に押さえるかに課題が置かれたが、今は充実した供給力をいかにして健全な経済成長として実現するかを問題とすべきだとする。つまり充実した供給力を生かすためには、国が統制して需要を抑えるのではなく、需要を増やせばいいとしたのである。この下村の理論が田村を通して池田の政治方針となったのである。
1950年代はとにかく復興であった。食うことに困り果てていた時代を克服することが最大のテーマであった。その努力を日本全体が行うことにより、少しずつ経済が豊になり、朝鮮戦争という神風も吹いた関係で、戦争のダメージから日本経済は復興する。そんなときやっと日本人が政治に目が向くような余裕もできたので、岸内閣の強引な安保条約改定はまた戦争を招くのではないかという不安に国民はかられ、安保闘争となっていった。国民は国に経済成長を求めたのである。それが60年代であった。そこに池田勇人が「所得倍増」を打ち出し、経済成長を更に延ばすことを最大のテーマとした。それは日本経済がこの時点でそれだけの土壌を持っていたことを認識していたから言えたのである。
下村はそれをちゃんと見ていたのであった。「下村はこの『反安保』のうねりを、自分たちがどこへ向かって進んでいけばよいのかわからない国民の苛立ちだ、と見ていた。『日本国民の生きる道はちゃんとあるのだということを明示すれば、その苛立ちは消える』という固い信念があった。池田の手になる『所得倍増』がそのひとつの道になるはずだった」と沢木さんは言う。
その結果、必ずしも一本調子ではなかったけれど、日本経済は下村の予測通り高い成長を続けたのである。
この本を読んでいると、政治理念というか方針というのが、その時々の状況をどれくらい把握しているかで、それによって成功するか、失敗するかがよく分かる。そのためには現実をきちんと見ている人が政治家のブレーンにいることが如何に重要であるか思い知らされる。しかも学者ではなく下村のように、官僚の中に、しかも傍流にいたのである。それを見いだした田村も凄いし、田村を自分の所に置いた池田勇人も人間を見る目があったというべきかもしれない。
また政治が国民に意識されたときは、ろくな時代ではないのではないかとも思う。つまり政治が国民の前面に出てきてしまった場合、統制や足かせを要求するのではないかと思う。池田勇人は下村の理論に従い、国が統制して需要を抑えるのではなく、民間の意志に任せ需要を増やせばいいとしたことで、経済成長を促した。沢木さんが池田の側近的存在の前尾繁三郎の『政治のつれづれぐさ』の「政治とは何か」の一節をあげているが、そこには次のように書かれている。
「人間は本来自由を欲する。自由であることによって努力が生まれる。努力なくして進歩はない。また、努力しても進歩のない世の中にしてはならない。それはできるだけ各人の自由を拘束しないようにしまければならないし、また、できるだけ平等にして競争のしがいのあるようにしなければならない。しかし、集団としては拘束、時に強制を必要とする。ところが存外原則が忘れられて、強制によって計画的に事をはこべば最も能率的であるかのように錯覚する。これは本末転倒で、逆に非能率となり、また、その不自由さに耐えられなくなる。かかる人間性を無視した政治は、政治ではないが、これがまた真の政治とまちがえられている」
まさしくその通りだろう。真の政治は表舞台でない方がいいし、国民に意識されないほど政治が行われている方がいいに決まっている。(だからといって情報を公開しないで、好き勝手なことをしていいということではない)要は政治が国民を束縛しないことなのだ。その時国民は自由に人間らしく生きていけるし、必然的に国の繁栄を促していくのではないか。少なくとも池田はそうしたのだ。
たまたま今日は次の総理大臣が決まる日である。私たちは新しい総理大臣が何をしてくれるか期待しすぎる部分があって、彼の政治方針がよく見えないと不安になっているところがある。しかしそうではなく、我々が彼らを動かすことをしなければいけないのではないかと思う。J・F・ケネディが大統領就任演説で「あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか」という姿勢を本来持つべきなのではないかとも思う。(なんだかまた脱線してしまった感があるが・・・)
評価
★★★★
- by kmoto
- at 20:53
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