2006年10月28日
アンリ・ピレンヌ著『ヨーロッパ世界の誕生』
前回司馬遼太郎さんの『街道をゆく』を読んでいて、ヨーロッパ世界にイスラムの影響がかなり残っていることを知った。
このイスラムの影響を知って、アンリ・ピレンヌのことを思い出したので、ピレンヌの本を取り出してみた。この本、大学時代卒論で資料として使ったのだが、あくまでも必要な箇所を抜き出して使っただけであった。そのため全部を読んだ訳じゃなかった。で、作品として全体を味わってみようと思い、読むことのにしたのだ。
この本はいわゆるあの「ピレンヌ・テーゼ」といわれる、ピレンヌの構想というか学説を表した本である。書名は『ヨーロッパ世界の誕生』(創文社刊)となっているが、原題は『マホメットとシャルルマーニュ』(Mahomet et Charlemagne)である。わざわざ原題を変えて『ヨーロッパ世界の誕生』としたのは、『マホメットとシャルルマーニュ』だと、この二人の人物評と思われかねないところがあるので、この本が言いたいところの『ヨーロッパ世界の誕生』に変えたと訳者のあとがきに書いてある。
通常われわれは375年にゲルマン民族大移動が始まり、その過程で476年に西ローマ帝国が滅亡し、この時点でローマ世界に句点が打たれ、次の時代中世の記述が始まると教わってきている。あるいはローマがあった地中海世界から、北方に歴史の舞台が移ったように思ってしまう。
しかし実際はそうではなく、ゲルマン民族の大移動の後、地中海世界とはまったく違った中世世界がすぐ始まったわけじゃないとピレンヌは言うのである。そこでピレンヌはヨーロッパ中世がいつ、どこで始まったのかをマホメットとシャルルマーニュをもってしてその学説を展開するのである。ただ、マホメットとなっているが、正確に言えばイスラムと言った方がいいかもしれない。
何度も言うように、西暦476年に西ローマ帝国が滅亡する。この後コンスタンティノープルには東ローマ帝国が存続するが、ヨーロッパ世界とは異質の性格を帯びることになるので、通常、ヨーロッパ世界に入れない。教科書では西ローマ帝国が滅亡した時点で、次の時代中世の記述が始まるのである。ゲルマン民族が大移動してきて、ここでローマ世界と断絶し、ゲルマン民族が次の新しい時代を背負うものとして主人公としてくる。さもゲルマン民族がローマ世界を破壊したかのように描いてしまうが、確かに彼らの侵入が破壊や略奪等を生んだことは間違いないようだが、それでも結果的にはゲルマン民族がローマを壊したとはピレンヌは考えないのである。それよりもこの時点では、ゲルマン民族がローマの文化、政治、経済、その他を継承していたとするのである。
ピレンヌはローマ帝国の最も本質的な特徴を「地中海的性格」と位置づけ、「地中海を母胎として、帝国はきわめて明瞭な形で経済的統一体を形成していた」と見ており、それは経済だけでなく、政治、思想、文化なども地中海が「われらの海」として媒介的な役割を演じていたとしたのである。そしてゲルマン民族がそのローマの「地中海的性格」を破壊したのではなく、むしろ逆に飲み込まれてしまったのである。ピレンヌは言う。「これら蛮族は帝国領内への定着後、ローマ文化を吸収するのと同時に、その性格に固有な英雄的側面を一切失って行ったのだと結論することが出来よう。ローマ世界Romaniaの土壌が蛮族の生命力を吸い取ってしまったのだ」と。
われわれはゲルマン民族の大移動が、大移動というイメージからが大がかりな感じで受け取ってしまうところがあるように思われる。しかもその移動が歴史上375年に一斉に始まったような教えを受けてきた。しかしその移動は民族総出で行われ、多くのゲルマン人が西方世界来たのではなく、小部族で移動して来ているのである。しかもそれ以前にもうゲルマン民族は徐々にローマ領内に入ってきていたのである。
ローマ領内に入ってきたゲルマン民族は完成された支配体制を整えておらず、むしろ素朴な家族的な支配関係を維持していた。(ジッペという)そしてローマ領内に入ったとき、ローマの支配方法、ローマの経済体制を受け入れることで、自分たちの存続をはかってきたのであった。それは支配や経済だけでなく、いわゆる文化の面でもローマ世界のものを受け入れていった。従ってピレンヌは西ローマ滅亡後も「ローマ帝国の経済生活の本質はなしていたものとの断絶は起こらなかった」と、資料これでもかというくらい提供し、検証するのである。
結論において、ピレンヌはゲルマン民族移動後を「昔日の大宮殿が今や賃貸住宅に分割されながらも、建物自体としては存続していたようなものであった」と言い切るのである。
ということは、逆を言えば、この「地中海的性格」を失ったとき、ヨーロッパは中世世界に移っていくことになる。ではゲルマン民族がこの性格を破壊したのではなければ誰がそれを破壊したのか?それがイスラム教徒であるアラブ人であった。イスラムが地中海沿岸のアフリカ側からイベリア半島に進出してきたことによって、特に「西地中海は回教徒の湖」となってしまい海上商業が消滅してしまったとピレンヌは見るのである。
イスラム教徒は、「ゲルマン民族がローマ帝国のキリスト教徒に対抗すべき信仰を何ももっていなかったのに反して、アラビア人は新しい信仰(イスラム教)にめざめていた」。このことがローマの「地中海的性格」に飲み込まれず、自分たちを失わず、積極的にこの地域に進出できたのである。
一方この世界に進出したゲルマン民族は基本的に艦隊を持っていなかった。それはこの後、力をつけてきたフランク族においても同様であったから、イスラムの思うがままこの地域を占領されてしまった。
イスラムに西地中海を占領されたことによって、この地域の商業は衰退し、商業都市のあったノイストリアが大打撃を受けることとなる。このことはフランクにおいて王国の基盤がノイストリアにあっただけに衰退を招くことにもなった。その結果、貨幣経済の依存度が少ない北方のアウストリアが力を持つこととなる。
アウストリアは商業と都市の消滅から影響を受けることがなく、また国王の統治が強く及ばなかった。(ということは、古ゲルマン的要素を強く残していたことになる)そのことは社会生活が完全に大所領を中心に回転していた地域であった。地中海世界にイスラムが進出してきたことによって、ノイストリアがダメになりつつある中、次第にこのアウストリアが優位な地位を持ち始めたのである。このアウストリアの貴族階級の親玉が後のフランク王国においてカロリング王朝を開く、ピピン家であった。
ピピン家はフランク王国の前王朝であるメロヴィング王朝に仕える宮宰であったが、メロヴィング王朝の後、カロリング王朝を開き、ここからシャルルマーニュ(カール大帝)が出てくるのである。
つまり、世俗権力の舞台が、シャルルマーニュが出てくることで、地中海世界からヨーロッパ北方に移ったことになるのである。
ここで中世のもう一つの柱でであるローマ教会にふれないとならない。西ローマ帝国が滅んでも、ローマ教会はコンスタンティノープルの皇帝(東ローマ皇帝のこと)を主として認めていた。このことはローマに住む教皇は皇帝従属する者であることを意味した。つまりローマ教会はこの時点でまだ東ローマ皇帝に保護される存在であった。
しかし、ここにもあの教義論争が火種となって東ローマ皇帝との関係がぎくしゃくしていくのである。東ローマ皇帝はローマ教会にキリスト単性論や聖画像破壊を度々押しつけてきた。また、イスラムだけでなく、後発で移動してきたゲルマン民族の一派であるランゴバルト族がイタリアに侵入してきて、保護者である東ローマ皇帝はイタリア及びローマ教会を守ることが出来なかった。それほど東ローマの力が衰えていたのであった。
ローマ教会側としては、自分たちを守ってくれる勢力であるヨーロッパ北方の世俗権力を頼むしかなかった。
教皇スティファヌス二世はアルプスを越えて、ピピンを訪ね、ローマの保護を懇願し、ピピンもこれを約束するのである。
ピピンはランゴバルト族を撃つために遠征するが、その前に教皇は「ピピンの子孫に非ざる者を国王に選ぶことを永久にフランク人に禁じ、この禁令を破る者は破門の罰に処する」と宣言するのである。
ここに王朝(世俗権力)と教会の首長との間に同盟関係が成立し、更にそれを強固なものにするために、ピピンとその息子のパトリキウス・ロマノルム(patricivs Romanorum)の称号を送ったのである。
西暦800年を迎えるまでにカール大帝は西欧キリスト教世界のほとんどすべてを把握していた。そのため、ローマ教会はカールと結びつくことで、カールを自分たちの保護者にしたいというもくろみがあるのは、父ピピン同様であった。
同年のクリスマスの日、ローマ教皇レオ三世はサンピエトロ大聖堂でカール大帝にローマ教皇の帝冠を与えた。いわゆる「カールの戴冠」である。
しかしこのローマ教会による戴冠は、皇帝をローマに呼び戻すことではないし、まして教皇自ら皇帝の支配下に置かれることを望んだことで行われた訳じゃない。少なくとも教皇は皇帝から独立した地位を求めていた。
ここではっきりしておかなければならないのは、カールの戴冠をしたのは教皇であり、この時点でカール大帝は単に教会の守護者に任命されたことだけのことであり、「カールの皇帝称号は何ら世俗的な意味あいを持つものでなかった」のである。
ここからはまったく個人的に思うことで、歴史的根拠はない。ただ素朴な疑問として思うことを書く。
当時カールはローマ皇帝の称号をローマ教会から与えられても、はたしてそれがどれだけの効力、ないし威力があったのだろうか?カールがローマ皇帝だと教会から認められても、それがヨーロッパに現実的にどれだけの影響を与えることだったのだろうか?単純に考えて、ローマ教皇がキリスト教徒の親玉で聖ペテロの後継者としてヨーロッパ全土に意識されていたのだろうかを考えると、たとえば現在のようなカリスマ性はなかったのではないかと思えるのである。確かにイタリアやローマではローマ教皇のカリスマ性はあったかもしれないが、それ以外の地域にキリスト教が普及してそれほど時間がたっていない。(特にゲルマン人にキリスト教が普及したのはこの時点では極最近のことであった)
となれば、たとえローマ教皇から皇帝の称号を与えられても、カール大帝には現実的には大した意味をもたなかったのではないかと思うのである。カール大帝の実力は自分の力で勝ち取ったものなのである。そう考えた方が筋が通る。少なくとローマ教皇が当時それほどのカリスマ性があって、そのために力があったのであれば、カール大帝にプラスになっただろうが、ここではそれほどではなかったのではないかと思うのだ。それが証拠にカール大帝は自分がローマ皇帝に戴冠されたことを大したこととは思っていないふしがあるのである。
ただイスラムの地中海進出は、この地域の不均衡をもたらし、経済、文化、政治を分断し、その結果、この地域がダメになり、経済的、政治的基盤がいやがうえでもヨーロッパ北方に移らざるを得なくなった。そのことがカール大帝を生んだのである。だからピレンヌは「マホメットなくしてはカール大帝の出現は考えられない」と言い切るのである。そしてローマ教会は彼を利用しただけのことであった。つまりそれほどローマ教会の力を過大評価してはならないのではないかと思う。
教会はカール大帝の力を借りて、自分たちの道を歩き始めただけのことなのであろう。そしてそのことはヨーロッパ中世世界が誕生したことを意味する。
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- by kmoto
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