2006年10月28日

アンリ・ピレンヌ著『ヨーロッパ世界の誕生』

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 前回司馬遼太郎さんの『街道をゆく』を読んでいて、ヨーロッパ世界にイスラムの影響がかなり残っていることを知った。
 このイスラムの影響を知って、アンリ・ピレンヌのことを思い出したので、ピレンヌの本を取り出してみた。この本、大学時代卒論で資料として使ったのだが、あくまでも必要な箇所を抜き出して使っただけであった。そのため全部を読んだ訳じゃなかった。で、作品として全体を味わってみようと思い、読むことのにしたのだ。
 この本はいわゆるあの「ピレンヌ・テーゼ」といわれる、ピレンヌの構想というか学説を表した本である。書名は『ヨーロッパ世界の誕生』(創文社刊)となっているが、原題は『マホメットとシャルルマーニュ』(Mahomet et Charlemagne)である。わざわざ原題を変えて『ヨーロッパ世界の誕生』としたのは、『マホメットとシャルルマーニュ』だと、この二人の人物評と思われかねないところがあるので、この本が言いたいところの『ヨーロッパ世界の誕生』に変えたと訳者のあとがきに書いてある。
 通常われわれは375年にゲルマン民族大移動が始まり、その過程で476年に西ローマ帝国が滅亡し、この時点でローマ世界に句点が打たれ、次の時代中世の記述が始まると教わってきている。あるいはローマがあった地中海世界から、北方に歴史の舞台が移ったように思ってしまう。
 しかし実際はそうではなく、ゲルマン民族の大移動の後、地中海世界とはまったく違った中世世界がすぐ始まったわけじゃないとピレンヌは言うのである。そこでピレンヌはヨーロッパ中世がいつ、どこで始まったのかをマホメットとシャルルマーニュをもってしてその学説を展開するのである。ただ、マホメットとなっているが、正確に言えばイスラムと言った方がいいかもしれない。

 何度も言うように、西暦476年に西ローマ帝国が滅亡する。この後コンスタンティノープルには東ローマ帝国が存続するが、ヨーロッパ世界とは異質の性格を帯びることになるので、通常、ヨーロッパ世界に入れない。教科書では西ローマ帝国が滅亡した時点で、次の時代中世の記述が始まるのである。ゲルマン民族が大移動してきて、ここでローマ世界と断絶し、ゲルマン民族が次の新しい時代を背負うものとして主人公としてくる。さもゲルマン民族がローマ世界を破壊したかのように描いてしまうが、確かに彼らの侵入が破壊や略奪等を生んだことは間違いないようだが、それでも結果的にはゲルマン民族がローマを壊したとはピレンヌは考えないのである。それよりもこの時点では、ゲルマン民族がローマの文化、政治、経済、その他を継承していたとするのである。
 ピレンヌはローマ帝国の最も本質的な特徴を「地中海的性格」と位置づけ、「地中海を母胎として、帝国はきわめて明瞭な形で経済的統一体を形成していた」と見ており、それは経済だけでなく、政治、思想、文化なども地中海が「われらの海」として媒介的な役割を演じていたとしたのである。そしてゲルマン民族がそのローマの「地中海的性格」を破壊したのではなく、むしろ逆に飲み込まれてしまったのである。ピレンヌは言う。「これら蛮族は帝国領内への定着後、ローマ文化を吸収するのと同時に、その性格に固有な英雄的側面を一切失って行ったのだと結論することが出来よう。ローマ世界Romaniaの土壌が蛮族の生命力を吸い取ってしまったのだ」と。
 われわれはゲルマン民族の大移動が、大移動というイメージからが大がかりな感じで受け取ってしまうところがあるように思われる。しかもその移動が歴史上375年に一斉に始まったような教えを受けてきた。しかしその移動は民族総出で行われ、多くのゲルマン人が西方世界来たのではなく、小部族で移動して来ているのである。しかもそれ以前にもうゲルマン民族は徐々にローマ領内に入ってきていたのである。
 ローマ領内に入ってきたゲルマン民族は完成された支配体制を整えておらず、むしろ素朴な家族的な支配関係を維持していた。(ジッペという)そしてローマ領内に入ったとき、ローマの支配方法、ローマの経済体制を受け入れることで、自分たちの存続をはかってきたのであった。それは支配や経済だけでなく、いわゆる文化の面でもローマ世界のものを受け入れていった。従ってピレンヌは西ローマ滅亡後も「ローマ帝国の経済生活の本質はなしていたものとの断絶は起こらなかった」と、資料これでもかというくらい提供し、検証するのである。
 結論において、ピレンヌはゲルマン民族移動後を「昔日の大宮殿が今や賃貸住宅に分割されながらも、建物自体としては存続していたようなものであった」と言い切るのである。
 ということは、逆を言えば、この「地中海的性格」を失ったとき、ヨーロッパは中世世界に移っていくことになる。ではゲルマン民族がこの性格を破壊したのではなければ誰がそれを破壊したのか?それがイスラム教徒であるアラブ人であった。イスラムが地中海沿岸のアフリカ側からイベリア半島に進出してきたことによって、特に「西地中海は回教徒の湖」となってしまい海上商業が消滅してしまったとピレンヌは見るのである。
 イスラム教徒は、「ゲルマン民族がローマ帝国のキリスト教徒に対抗すべき信仰を何ももっていなかったのに反して、アラビア人は新しい信仰(イスラム教)にめざめていた」。このことがローマの「地中海的性格」に飲み込まれず、自分たちを失わず、積極的にこの地域に進出できたのである。
 一方この世界に進出したゲルマン民族は基本的に艦隊を持っていなかった。それはこの後、力をつけてきたフランク族においても同様であったから、イスラムの思うがままこの地域を占領されてしまった。
 イスラムに西地中海を占領されたことによって、この地域の商業は衰退し、商業都市のあったノイストリアが大打撃を受けることとなる。このことはフランクにおいて王国の基盤がノイストリアにあっただけに衰退を招くことにもなった。その結果、貨幣経済の依存度が少ない北方のアウストリアが力を持つこととなる。


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 アウストリアは商業と都市の消滅から影響を受けることがなく、また国王の統治が強く及ばなかった。(ということは、古ゲルマン的要素を強く残していたことになる)そのことは社会生活が完全に大所領を中心に回転していた地域であった。地中海世界にイスラムが進出してきたことによって、ノイストリアがダメになりつつある中、次第にこのアウストリアが優位な地位を持ち始めたのである。このアウストリアの貴族階級の親玉が後のフランク王国においてカロリング王朝を開く、ピピン家であった。


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 ピピン家はフランク王国の前王朝であるメロヴィング王朝に仕える宮宰であったが、メロヴィング王朝の後、カロリング王朝を開き、ここからシャルルマーニュ(カール大帝)が出てくるのである。


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  デューラー作 「カール大帝の皇帝礼服」


 つまり、世俗権力の舞台が、シャルルマーニュが出てくることで、地中海世界からヨーロッパ北方に移ったことになるのである。

 ここで中世のもう一つの柱でであるローマ教会にふれないとならない。西ローマ帝国が滅んでも、ローマ教会はコンスタンティノープルの皇帝(東ローマ皇帝のこと)を主として認めていた。このことはローマに住む教皇は皇帝従属する者であることを意味した。つまりローマ教会はこの時点でまだ東ローマ皇帝に保護される存在であった。
 しかし、ここにもあの教義論争が火種となって東ローマ皇帝との関係がぎくしゃくしていくのである。東ローマ皇帝はローマ教会にキリスト単性論や聖画像破壊を度々押しつけてきた。また、イスラムだけでなく、後発で移動してきたゲルマン民族の一派であるランゴバルト族がイタリアに侵入してきて、保護者である東ローマ皇帝はイタリア及びローマ教会を守ることが出来なかった。それほど東ローマの力が衰えていたのであった。
 ローマ教会側としては、自分たちを守ってくれる勢力であるヨーロッパ北方の世俗権力を頼むしかなかった。
 教皇スティファヌス二世はアルプスを越えて、ピピンを訪ね、ローマの保護を懇願し、ピピンもこれを約束するのである。
 ピピンはランゴバルト族を撃つために遠征するが、その前に教皇は「ピピンの子孫に非ざる者を国王に選ぶことを永久にフランク人に禁じ、この禁令を破る者は破門の罰に処する」と宣言するのである。
 ここに王朝(世俗権力)と教会の首長との間に同盟関係が成立し、更にそれを強固なものにするために、ピピンとその息子のパトリキウス・ロマノルム(patricivs Romanorum)の称号を送ったのである。

 西暦800年を迎えるまでにカール大帝は西欧キリスト教世界のほとんどすべてを把握していた。そのため、ローマ教会はカールと結びつくことで、カールを自分たちの保護者にしたいというもくろみがあるのは、父ピピン同様であった。
 同年のクリスマスの日、ローマ教皇レオ三世はサンピエトロ大聖堂でカール大帝にローマ教皇の帝冠を与えた。いわゆる「カールの戴冠」である。
 しかしこのローマ教会による戴冠は、皇帝をローマに呼び戻すことではないし、まして教皇自ら皇帝の支配下に置かれることを望んだことで行われた訳じゃない。少なくとも教皇は皇帝から独立した地位を求めていた。
 ここではっきりしておかなければならないのは、カールの戴冠をしたのは教皇であり、この時点でカール大帝は単に教会の守護者に任命されたことだけのことであり、「カールの皇帝称号は何ら世俗的な意味あいを持つものでなかった」のである。

 ここからはまったく個人的に思うことで、歴史的根拠はない。ただ素朴な疑問として思うことを書く。
 当時カールはローマ皇帝の称号をローマ教会から与えられても、はたしてそれがどれだけの効力、ないし威力があったのだろうか?カールがローマ皇帝だと教会から認められても、それがヨーロッパに現実的にどれだけの影響を与えることだったのだろうか?単純に考えて、ローマ教皇がキリスト教徒の親玉で聖ペテロの後継者としてヨーロッパ全土に意識されていたのだろうかを考えると、たとえば現在のようなカリスマ性はなかったのではないかと思えるのである。確かにイタリアやローマではローマ教皇のカリスマ性はあったかもしれないが、それ以外の地域にキリスト教が普及してそれほど時間がたっていない。(特にゲルマン人にキリスト教が普及したのはこの時点では極最近のことであった)
 となれば、たとえローマ教皇から皇帝の称号を与えられても、カール大帝には現実的には大した意味をもたなかったのではないかと思うのである。カール大帝の実力は自分の力で勝ち取ったものなのである。そう考えた方が筋が通る。少なくとローマ教皇が当時それほどのカリスマ性があって、そのために力があったのであれば、カール大帝にプラスになっただろうが、ここではそれほどではなかったのではないかと思うのだ。それが証拠にカール大帝は自分がローマ皇帝に戴冠されたことを大したこととは思っていないふしがあるのである。
 ただイスラムの地中海進出は、この地域の不均衡をもたらし、経済、文化、政治を分断し、その結果、この地域がダメになり、経済的、政治的基盤がいやがうえでもヨーロッパ北方に移らざるを得なくなった。そのことがカール大帝を生んだのである。だからピレンヌは「マホメットなくしてはカール大帝の出現は考えられない」と言い切るのである。そしてローマ教会は彼を利用しただけのことであった。つまりそれほどローマ教会の力を過大評価してはならないのではないかと思う。
 教会はカール大帝の力を借りて、自分たちの道を歩き始めただけのことなのであろう。そしてそのことはヨーロッパ中世世界が誕生したことを意味する。

2006年10月19日

田口久美子著『書店繁盛記』

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 田口さんのことは最近よく出版業界や書店業界を憂う対談集などで出ておられ知ってはいた。リブロからジュンク堂に移られ、現在池袋本店の副店長をされるバリバリ現役の有名書店員である。この本(ポプラ社刊)は田口さんの著作では二作目となるらしい。
 従って日々の書店業務の中で感じられることがここにつづられている。読んでいるとなるほど、今は、こういう状況下に書店員が置かれているのかと思ってしまった。私などもう現役の書店員を廃業してしまっているので、書店を語るときはどうしても思い出話から話すことが出来ないだけに、どこかうらやましい部分がある。現在の書店が置かれている状況や、日々の業務の中での出来事は、新鮮である。やっぱり現役にはかなわない。自分が経験してきた本屋の日常が妙に懐かしかったし、一方でもうこれ以上経験できないのだなぁという淋しさもあった。特にいろいろ自分のいた本屋でやりたいことがあっただけに残念である。
 店員たちと本に関する与太話なども出来ないのも淋しいものだ。
 『ハリー・ポッター』の訳者が35億円の所得隠しが新聞紙上を賑わしたとき、田口さんたちは、書店に滞留している「ハリポタ本」を集めれば税金未納分の8億円に簡単になるだろうから、それを納めたらどうか、と盛り上がったというの読んで笑っちゃった。
 これなど現場にいたら同じようなことで盛り上がっただろうなぁと思う。ちなみにどうしてこれが面白いかというと、書店にある「ハリポタ本」は買切品で返品できない。しかも欲の皮が突っ張って必要以上に仕入をしてしまったので本屋さんでは余剰在庫となっている。だからそれを集めてもらって(引き取ってもらって)現物納付してくれればいいのにという意味があるのだ。

 ところで、最近単行本の定価が高くなったと思いませんか?もう1,500円以上がざらである。これがアマゾンのせいだというのだ。というのもアマゾンでは1,500円以上本を買うと送料無料というサービスを行っている。これが新刊の定価に反映してしまい、本の定価の基準となってしまっているのではないかと田口さんは言うのである。つまりアマゾンのお陰で本の定価が上がってしまったのだ。逆に言えばそれだけ現在の日本の出版界でアマゾンの影響力が大きいことにもなるのだけど、一読者としては勘弁して欲しいものである。
 たとえば300ページそこそこのこの本でも、定価1,600円もする。(税別)で、この本はそれではすまないと思ったのかどうか知らないが、本の紙質を厚くして、さもページがありますよと見せかけている。(まぁその分コストはかかっているのかもしれないが・・・)でも、紙質が厚い分、すぐページが戻ってしまい読みづらいのだ。こういうしゃらくさいことをするなら、本の定価を下げろよ言いたくなっちゃう。
 こうなってくるとつまらない考えが頭をよぎる。まず本の定価がアマゾンのお陰で高くなる。次いで本の印刷・製本がおそらくこのIT時代である、当然以前よりも小コストで出来るようになっているのではないか。しかも本の書店正味は変わらない。おそらく卸もそうであろう。ということは、誰が美味しい思いをしているかというと出版社となる。末端の書店業界が瀕死の状態に陥りつつあるのに、出版社はそれを建前では憂いつつも、形だけで、ちっとも書店に利益を配分しようとしないのは、考えてみればひどい話のような気がするが、どうであろう?
 これも与太話である。本当は仲間とこんな話ができればうれしいと思う次第だ。

 それはそうと、最近の本屋さんの棚作りがかなり難しくなっていることを知った。それは、出版される本そのものが現代の風潮を表しているところがどうしてもあるので、今までのカテゴリーで区分分けすることが難しいジャンルが多く出てきていることによる。
 たとえば今まではサブカルチャー的存在であったものが、いつのまにか支持され存在感を示すようになっているところなど、オタク的なものが、あるいは本来低年齢層で支持されていたものが、いつのまにか年齢に関係なく幅広く認められつつあるところが、出版物にも反映され、出版されている。当然これらの出版物は、今までの本屋の棚分けにうまく収まるわけがない。しかしそれに対応しないわけにもいかないし、ある意味、本屋の棚に個性を生みだすものであるから、取り入れないわけにもいかなくなっている現状があるようだ。「ボーイズラブ」や「やおい」(男性同士の同性愛を題材とした女性向けもの)などの小説や漫画、あるいはライトノベルなどもそうであろうし、思想オタク的な私には訳の分からない分野など、どうやって本屋の棚に反映していくか、かなり難しい問題を抱えていることがあるようだ。
 でも、ジュンク堂はそれらをうまく取り入れて棚づくりをしているようで、ちょっと見てみたくもなった。


評価
★★★

2006年10月17日

司馬遼太郎著『街道をゆく』23巻

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 今回も「南蛮のみち」で、前回の続きの旅となる。主にスペイン、ポルトガルを旅されている。前回同様「日本における大航海時代の影響を源流の地で感じたい」というのがこの旅の目的であった。

 今回この巻を読んでいて、イベリア半島におけるイスラムの支配がいかにその後のヨーロッパ世界に多大な影響を与えたか改めて知ったような気がする。
 私がこの時代のイスラム支配がヨーロッパにどのような意味をもつのかはいわゆるピレンヌ・テーゼしか思いつかない。
 ちなみにこのピレンヌ・テーゼとはどういうものかというと、ピレンヌは西ローマ帝国滅亡後もまだ地中海世界の商業は続いていて、そこで経済活動が引き続き行われていたのだとする。つまりローマが滅んで、すぐ閉鎖的な中世世界が生まれた訳じゃないとしたのだ。それを内陸社会のヨーロッパ中世に導いたのが、アフリカからイベリア半島に進出したイスラムであったとしたのだ。イスラムがここに進出し、地中海世界がイスラムによって閉鎖されことによって、ヨーロッパは内陸に向かわざるを得なくなったというのである。そしてこの時点でヨーロッパ中世世界が始まるとしたのである。
 しかしイスラムのイベリア半島の進出はこれだけで収まらず、その後もヨーロッパに大なり小なり影響をその歴史に残していく。
 もともとスペイン、ポルトガルは、紀元前十二世紀に、地中海貿易の主人公であるフェニキア人(セム語族)の影響をうけ、紀元前八世紀にはギリシア人の影響もうけたし、ローマ帝国時代にはルシタニアとよばれる属州であった。その後、半島一円がゲルマン系の西ゴート人の支配下には入り、八世紀初頭、西ゴート王国が滅ぶと、半島ぐるみイスラムの支配を受けた。
 イスラムによる八百年の支配のあと、キリスト教勢力による巻きかえし(国土再征服-レコンキスタ)がおこなわれ、イスラム勢力が一掃される。
 しかしこのような多民族の支配が繰り返されたことで、このイベリア半島は他のヨーロッパ地域とは性格を異にすることとなった。
 特に大航海時代のスペインやポルトガルが主役になるのは、遠洋航海技術としてイスラムの遺産があったからであった。天文学、地理学、造船、航海術など、大航海に必須科目は、この時期、イベリア半島から追い払われたイスラムのものだったのである。イスラムがここいなかったら、スペインやポルトガルによる大航海時代は訪れなかったかもしれない。

 こうして大航海時代の主役となったスペインの国家経済ほどあらっぽいものはなかった。「国家そのものが、新植民地に対する一大強盗団になったといっていい」。そのためスペインは金銀その他高価な物品をとめどもなく持ち帰り、王も貴族も、教会も舶載されてくる富のため血ぶくれするほど豊になった。
 このため自国の産業、特に農業は廃れていく。小麦など得た金銀で買えばいいということになり、それよりも強盗のために資本投下がされ、艦船や大砲をがんがん作られるのである。
 この結果「スペイン人が、地球の他の一角から剥ぎとってきた金銀は、ときにはスペインを素通りでフランスにゆき、その農村、造船業者、鋳造業者を賑わした。フランスの底力はこのとき定まったのではないかと思えるほどである」と司馬さんは皮肉る。
 国の産業を保護し、興さなかったスペインは、1588年無敵艦隊(アルマダ)の敗北後、スペインは歴史の主役を降りることになり、それ以後スペインという国は坂を下りっぱなしの状態になる。
 結局「スペイン人が強奪してきた金銀は、他にまわってヨーロッパ諸国の経済が近代に入るための基礎がためになり、スペインにのこされたものは、国民性としては中世的な激情、現代美術にあらわれる一騎駆けの冒険精神、国土の面からは森林の消滅と荒蕪、あるいは中世的な農業だけであったかと思ったりする」と司馬さんは言うのである。
 しかし逆に言えば、その分中世の世界がそのまま停滞した形で残っているのかもしれないと思うと、ちょっと行ってみたくもなる。

 ではポルトガルはどうであろうか?戦国期、日本に最初に接触し、かつ濃密に関係にあったヨーロッパ人はポルトガル人であったし、フランシスコ・ザヴィエルを東方に送ったのもポルトガルであった。つまり日本に影響を与えた南蛮文化というのは、主としてポルトガル文化だったのである。
 植民地に布教者を送るのはローマ法王に対する王たちの義務でもあったし、植民地の維持のためにはキリスト教の布教は欠かせなかった。ポルトガルのジョアン三世はイエスズ会というきちがいじみた情熱をもつ小集団の存在を知り、彼らを召し抱え、東方へ送るのである。イエスズ会が東洋に来る背景はこういう事情による。
 しかしポルトガルもスペイン同様、行動の源泉が冒険と欲望だけであったので、ビジネス感覚を持ったイギリスやオランダに舞台を譲らざるを得なかったのである。
 過去に華々しい歴史を持ったスペインやポルトガルであったが、今は昔日の感がどうしても漂ってくる。ポルトガルの最先端のサグレス岬で「十六世紀以来、私どもの文化を刺激しつづけてくれたヨーロッパは、それが尽きるサグレス岬まできてみると、もう地面がこれっぽちしかないというかぼそい思いがしてくる」という司馬さんの記述はそのまま今のスペインやポルトガルを言い表しているような気がしてしまった。


 『街道をゆく』23巻の「南蛮のみちⅡ」は週刊「街道をゆく」の59巻収録されている。

2006年10月13日

司馬遼太郎著『街道をゆく』22巻

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 今回は「南蛮のみち」で、次の巻とⅠとⅡに別れている。司馬さんがわざわざ「南蛮のみち」を歩かれるのは、日本における「南蛮」とは何かをじかに感じたいということから始まる。その上で、日本における南蛮文化を伝えたのはフランシスコ・ザヴィエルであろうし、彼が有形無形の影響を残したのではないかと考えられている。
 そこでザヴィエルを訪ねる旅がここに始まる。まずはフランスのパリでザヴィエルの学生時代の生活模様を訪ね歩き、その彼をイエスズ会に引き込んだイグナティウス・デ・ロヨラを語り、更に彼ら二人がバスク人であることで、バスク人とは何かを語る。バスク人を語る上で、ヨーロッパにおける少数民族の存在、その歴史に話を進めていく。


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 <フランシスコ・ザヴィエル>

 まずはザヴィエルのことである。ザヴィエルといえばイエスズ会の修道士ということになるが、ザヴィエルはパリ時代神学コースに進まず、アリストテレスの研究のため哲学の課程を選んでいるところをみると、僧侶になるつもりはなかったようである。その彼を僧侶にしたのはイグナティウス・デ・ロヨラであった。


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 <イグナティウス・デ・ロヨラ>

 ロヨラはイエスズ会の創始者であるが、司馬さんのロヨラ像はかなり陰湿な感じで書かれている。そこにはロヨラを次のように評する。「(ロヨラは)信念家というより偏執的な、自分の信念を他に押しつけるためには蛇のように相手を凝視し、魅入ってゆくような気味わるさがある」と書いている。
 ロヨラは最初から僧侶ではなかった。ロヨラは「インディゴ」というバスクの名前で呼ばれた貴族であった。バンブロナ城の籠城戦で脚を砕かれ傷痍軍人となってしまい、もう軍人としては生きていけなくなってしまった。そのことは地上で仕えるべき主を彼は失ってしまうことになり、自分自身この後何をすべきか悩むことになった。司馬さんは言う。「かれは、献身という甘美でかつ激しい行為につよい憧憬をおぼえるたちだったようにおもえる」と。結局ロヨラは高貴な婦人のために捨身したいと思うようになる。いってみれば中世の騎士気分を自分の中でもてあましていたのかもしれない。そんな中ロヨラは聖母マリアのために、あるいは彼女が抱く幼児イエスに仕えることを誓う。34歳でパリ大学でラテン語を学び始めるが、物覚えの悪い老学生であった。しかしローマ教会の危機意識だけは人一倍強く持っていた。人文科学者エラスムスや宗教改革者ルターを害虫のように思っていた一方、堕落しきっている教会に憤りをもたず、逆にヨーロッパを津波のように浸しつつある反教会、反カトリックの気分こそ雲霞のような敵と見、籠城戦の最後の勇者のように、孤剣をもって戦おうとした。
 そのためには「かれの考えているイエスズの騎士の道を仕遂げるには、軍隊のような指揮官をもち、勇者をもち、人数をもたねばならない。会を結成せねばならないが、それには人材が必要であった。ザヴィエルを口説いてこれを僧侶にし、命も名も要らぬ勇者に仕立てねばならなかった」。ザヴィエルを自分の仲間に入れるために、ロヨラはザヴィエルのいる学校に転校し、同じ寄宿舎の同室人となるのである。このあたりの記述を読むとロヨラの陰湿で執拗な性格は、恐ろしい。ザヴィエルはまさに蛇ににらまれたカエルとなった。
 しかしザヴィエルは結局ロヨラのイエスズ会に、入会していく。その転向にはザヴィエルに降りかかった運命がそうさせていったところがあったようだ。
 中世という時代は、今の国家みたいなまとまりがなかった。各地に貴族である領主がいて、王もその領主の一人であった。ロヨラやザヴィエルのように戦いに敗れると、自分の居場所がなくなる時代でもあった。そんな彼らが国外に飛び出したのは、「カトリックという普遍性のなかに不滅の生甲斐を見出し、異郷の地の異教徒のなかに入って神の国の民をつくろうとした」ことによる。

 ところでロヨラもそうだし、ザヴィエルもバスク人であった。このバスク人とはいったいどういう存在だったのだろうか?バスク地方とは現在フランスとスペインにまたがる地方なのだが、バスク人自体は昔からここに住んでいた少数民族であった。


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 どうもこの民族という問題はわかりにくい。たとえばローマなどのラテン人がいて、一方でゲルマン民族がヨーロッパになだれ込んでくる。そこには当然先住民族がいたのであろうと思われるが、実態が知らないからかもしれないがつかみにくい。たとえばケルト人の存在は知っているが、それ以外の民族はどうなっていたのだろう?
 様々な民族がヨーロッパになだれ込んでいくうちに、混血し、一体としてヨーロッパ民族みたいな形で我々はとらえてしまうけど、このバスク人のように自分たちが昔から存在したという意識を未だに持ち続け、自分たちの存在をそこに求める民族もいるのである。生物学的には同じ人間であっても、どこかそれぞれ違いがあって、しかも風俗、習慣、文化、宗教、政治で民族として固有にまとまっていた。それがある時、中央集権国家というのができあがって、一つの基準でまるでローラーをかけたように同じにしてしまった。しかしすべてがそれですむかといえばそうはいかないようで、潜在意識として自分はどこどこの民族だと主張するところがでてくるようである。
 このあたりは日本のように一つの国が一民族(これも多少語弊があるかもしれないが)で固められている場合は何ら問題は生じないが、一つの国家が複数の民族で構成されていると、ことは簡単にいかない部分が出てくる。
 バスク人にしてもフランス、あるいはスペインという国のなか一地域として含まれても、そこは自分たちがバスク人としてずっと暮らしてきた場所なのである。つまり国家以前の話として、自分たちの存在する意味がここにある。このあたりは理屈では説明できないし、まして国家体制でも説明できない。
 バスク地方はある程度自治が認められていて、バスクの国会もあるし、大統領もいる。その大統領が司馬さんたちに「フランス革命がいけなかった」というのである。このことは何を意味するかといえば、人類が国家という意識や個人の自由などをもたらしたこの革命を否定することでもある。司馬さんは「フランス革命は王朝を倒したことよりも、革命によって広域国家ができたことのほうが意味が大きい。さらに中央集権の統一国家ができ、それ以上に、国民国家という、在来の先住民や地方の多様性を平均した国家ができたことのほうも、見のがせない。このためにバスクがながいあいだ窒息状態におかれた」のだと思うのである。
 地方の独自性、あるいは民族を尊重すれば現代の国家はバラバラになってしまう可能性があり、その両立はなかなか難しいのだろうと思い知るところである。

 ところで話はまったく違うところいってしまうのだが、この本で司馬さんがアンリ・ピレンヌの著作『ヨーロッパ世界の誕生』のことに言及しているところがある。司馬さんがピレンヌのこの著作を読まれていることに正直驚いたし、そこまで掘り下げてこの紀行文を書かれているのだと、改めて頭が下がる思いであった。
 今この巻の続きである23巻を読んでいるのだが、読んでいて改めてこのピレンヌ著作を読んでみたくなった。大学時代資料として摘み読みはしたのだが、今回作品として読んでみたくなったのである。ただこれに取りかかると時間がかかりそうなので、どうしようかと悩んでいる。


 『街道をゆく』22巻の「南蛮のみちⅠ」は週刊「街道をゆく」の57、58巻収録されている。

2006年10月07日

須田剋太

 『街道をゆく』を読んでいて、残念だと思うことが二つある。一つは司馬さんが訪れた地域の地図が掲載されているのだけど、非常に見づらいのだ。わかりにくい。あまりにも部分的なので、極端な話そこがどこにあるのかさえわからない時がある。最初読んでいた頃はいったいどうしていたのだろうと思い出そうとしたが、よく覚えていない。たぶん百科事典の地図帳を開いて調べたのかもしれない。今は週刊「街道をゆく」に詳しい地図が載っているので、それを見て、あぁ、ここなのか!とわかるようになった。
 こういう紀行文はわかりやすい地図があった方がいい。私の読んでいる『街道をゆく』は旧版なのだけど、新装版もたぶん焼き直しだろうから、同じなのではないかと思う。せっかく新装版でだすなら、せめて地図だけはしっかりしたものをつけてほしいものだけど、どうなのだろう?
 もう一つは、須田剋太さんの挿絵がモノクロであることが非常に残念なのだ。司馬さんより先、須田さんは1990年に亡くなられているので、この『街道をゆく』の挿絵はそこまで掲載されている。その後安野光雅に替わられている。安野さん絵は何度も見たことがある。あのグリーンを主調とした、色盲の検査の時使うような絵である。(私はルノワールもそうなのだけど、このての甘ったるい感じの絵が苦手なのだ)
 しかし私はこの『街道をゆく』を読むまで須田剋太という画家は知らなかったので、色調がよくわからない。晩年は抽象画を主に描かれていたというが、各地の風景をかなりダイナミックに油絵で描かれているのはモノクロの挿絵でもわかる。わかるだけにカラーで見てみたいとかねがね思っていた。又司馬さんと一緒に旅をされて、何度も須田さんの人柄が描写されているが、これがいい味をだしていて、このシリーズに花を添えている。
 で、なんとか須田さんの絵を見てみたいと思い、ネットで検索すると、あるんですね。『大阪府現代美術コレクション須田剋太司馬遼太郎と歩き描いた日本の原風景【街道を行く】挿絵原画全作品集』というものである。早速注文してみた。全4巻で1万円は痛かったが、届いた画集を見て、買ってよかったと思った。


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 この画集、社団法人近畿建設協会というわけのわからないところから出版されている。どうしてこんなところから須田さんの画集が出ているのか、この社団法人近畿建設協会の理事長の「ごあいさつ」でその経緯がわかる。

「社団法人近畿建設協会は、建設事業普及推進のための広報活動をはじめとする各種公益事業や河川・道路等の建設行政の補完的な役割を通じて、微力ではありますが社会に貢献して参りました。このたび須田剋太画伯の挿絵を集大成する任に当たりましたのも、須田画伯の画業を後世に伝えるとともに司馬遼太郎氏が歩いた「みち」の挿絵を通して道の重要性を啓発し、道路事業の円滑な推進に寄与するために他なりません」とある。

 なるほどそういうことでこの社団法人近畿建設協会で須田さんの画集が組まれたわけなのだと納得するが、この理事長の「ごあいさつ」を読んで、もしかしたら司馬さんは苦笑されているのではないかと思ったりした。
 というのも日本各地を司馬さんが歩かれて、何度もその風景が壊されていくのを嘆いておられる。その破壊者の親分みたいな建設協会から『司馬遼太郎と歩き描いた日本の原風景・・・・』なんて書かれたんじゃ、まるでこうして画集で残したから、どんどん開発をしちゃいますよ。あるいは日本の自然を壊しちゃったけど、ごめんね。元はこんな感じだったよ、といわんばかりのような気がしてしまう。
 でも趣旨はともかく、画集としてのこれらの本は、今後『街道をゆく』を読み進める上で、又楽しみが増えた感じだ。
 ちょうど今読んでいる、「南蛮のみちⅠ」の挿絵はカラーで見るとこんな感じである。


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2006年10月05日

司馬遼太郎著『街道をゆく』21巻

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 「通りはほの暗く、やってきた一人の娘さんが、ぶつかりそうになるまで、気がつかなかった。十七、八歳の細面の子で、われわれの胸もとを通りすぎると、
『おやすみなさいませ』
 と、一礼し、鮎のように去った。赤いスエーターときれいな声だけが耳にのこった」

 司馬さんが夕食後8時過ぎに芸備(広島県)の吉田という町を散歩しているときに出会った娘さんのことをこのようにさりげなく記述している。
 芸備というところは毛利元就がいた地域だが、このさりげない記述がなんとなくこの町の雰囲気をうまく伝えているように思えた。もちろん現在もこんな「醇風」が残っているかどうか分からないが、少なくともこの記述が元就の性格が築き上げた町として、当時も雰囲気が残っていたのではないかと思ったりする。
 司馬さんがこの元就の人物像を、幕末の山内容堂と吉田東洋のやりとりでうまく言い表している。
 容堂が東洋に向かって「戦国の英雄たちのなかで、わしならばたれに擬せるか、遠慮なくいってもらいたい」と言う。東洋は容堂が剛腹で、自分を英雄だと思っている性格をあやうんでいたので、戒めの意味で「まず、毛利元就というところかと・・・」言う。これを聞いた容堂はいやなことを言う奴だと思ったであろう。少なくとも自分が信長好きであることを知っているのだから、信長と言って欲しかった。
 しかし司馬さんは容堂がいくら信長好きであっても、もし容堂が戦国時代の大名なら5年も持たなかっただろうと言い切る。つまり容堂は信長には及ばないとしている。
 容堂が好きであった信長だって、緻密な思考と計算を入念にやり続けた男で、唯一冒険的な行動が桶狭間であった。しかしその桶狭間だって、「窮鼠猫をかむ」的状況下であったからそうしたまでのことで、以後信長は二度とこんな冒険はしていない。
 秀吉にしたって、天下を取るまでは精密さや粘り強さは我々が思い描く秀吉像とはある意味かけ離れている。おそらく秀吉の陽気さはこんな陰気や計算を隠すためであったのではないかと言うのである。
 このように信長や秀吉が用心深かったように元就もそうであった。「ただ、人間の照りとして、信長や秀吉はそうは思えず、元就の場合、印象として石橋のはしにうずくまり、暮夜、槌でたたいているところがあった。つまりは、信長や秀吉のように、大衆にうける照りのようなものが元就にはなかったにちがいない」というのである。このあたりの人物評はかなり面白い。
 そんな毛利氏が山陰・山陽の百四十数万石を領するようになったが、当主輝元のとき、反徳川方についいた為、関ヶ原以後、全領土を没収され、現在の山口県である長門・周防の三十九万石にとじ込められてしまう。当然かつての家臣団を養うことは出来ない。
 輝元は「ついて来なくてもいい」と何度も言うが、旧家臣団の上級者は家禄を減らされても萩に移ったし、下級者は農民になり、山野を開墾した。
 このことは幕末長州藩が身分を超えて先祖は安芸の毛利家の家来であったという意識が共有され、そうでなければ高杉晋作が作った庶民団の奇兵隊が成立し得ないと司馬さんは言う。

 この巻は他に「神戸散歩」、「横浜散歩」も収録されている。司馬さんは神戸の町を歩いた後、横浜を歩いている以上、そこには双方比較したかったに違いない。ただわざわざ「散歩」というからには意味があるのだろう。多分そこにはこれまでのような肩を張った紀行文ではなく、どちらかといえば軽い感じでこれらの町を歩いたとでもいいたかったのかもしれない。だからといって、決して手を抜いたものではなく、ここにも司馬史観は健在である。
 「神戸散歩」で司馬さんは須磨区の青丘文庫という個人の私費で作られた朝鮮史の専門図書館を訪ねている。その人はケミカルシューズで儲けた人であったが、ここ須磨区、あるいは長田区はこのようなゴム産業中心とした朝鮮人の中小零細企業が密集した地域であった。だから、阪神・淡路大震災の時、甚大な被害がここで起こったはずだ。司馬さんがこのあたりを歩いている記述を読んで、ふとそんなことを思い出した。
 「横浜散歩」で興味を持ったのは、アメリカのことである。
 幕末長州藩が攘夷と称して、下関海峡を通過する欧米の艦船を砲撃したので、イギリス、アメリカ、フランス、オランダは幕府に合わせて300万ドルの法外な賠償金を請求し、幕府はそれを払った。
 ところがアメリカだけは、明治22年に本来返還義務がないのだけど、その賠償金の一部200万円を返還してきたのである。それがどういう理由で返還されたのかはっきりしたことは司馬さんにも分からなかったが、ただ、明治政府はその200万円を横浜港の改築工事に当てた。当時明治政府はほとんどお金がなかった。欧米からどうしようない港と言われていた横浜港を改築をしたくても、予算がないので出来なかっただけに、その200万円は「おもわぬ金」であった。
 アメリカという国は、たとえば義和団事件で得た賠償金もいったん受け取った後、国家のものとして私せず、全額北京図書館の建設にその他の文化事業にそれを使ったという。19世紀のアメリカにはこうした気分があったのだと司馬さんは言われる。というか、私はここにアメリカの国家として姿勢があるのではないかと思ってしまう。


 『街道をゆく』21巻の「芸備の道」は週刊「街道をゆく」の21号に、「神戸散歩」は25巻、「横浜散歩」は36巻に収録されている。