2006年10月05日
司馬遼太郎著『街道をゆく』21巻
「通りはほの暗く、やってきた一人の娘さんが、ぶつかりそうになるまで、気がつかなかった。十七、八歳の細面の子で、われわれの胸もとを通りすぎると、
『おやすみなさいませ』
と、一礼し、鮎のように去った。赤いスエーターときれいな声だけが耳にのこった」
司馬さんが夕食後8時過ぎに芸備(広島県)の吉田という町を散歩しているときに出会った娘さんのことをこのようにさりげなく記述している。
芸備というところは毛利元就がいた地域だが、このさりげない記述がなんとなくこの町の雰囲気をうまく伝えているように思えた。もちろん現在もこんな「醇風」が残っているかどうか分からないが、少なくともこの記述が元就の性格が築き上げた町として、当時も雰囲気が残っていたのではないかと思ったりする。
司馬さんがこの元就の人物像を、幕末の山内容堂と吉田東洋のやりとりでうまく言い表している。
容堂が東洋に向かって「戦国の英雄たちのなかで、わしならばたれに擬せるか、遠慮なくいってもらいたい」と言う。東洋は容堂が剛腹で、自分を英雄だと思っている性格をあやうんでいたので、戒めの意味で「まず、毛利元就というところかと・・・」言う。これを聞いた容堂はいやなことを言う奴だと思ったであろう。少なくとも自分が信長好きであることを知っているのだから、信長と言って欲しかった。
しかし司馬さんは容堂がいくら信長好きであっても、もし容堂が戦国時代の大名なら5年も持たなかっただろうと言い切る。つまり容堂は信長には及ばないとしている。
容堂が好きであった信長だって、緻密な思考と計算を入念にやり続けた男で、唯一冒険的な行動が桶狭間であった。しかしその桶狭間だって、「窮鼠猫をかむ」的状況下であったからそうしたまでのことで、以後信長は二度とこんな冒険はしていない。
秀吉にしたって、天下を取るまでは精密さや粘り強さは我々が思い描く秀吉像とはある意味かけ離れている。おそらく秀吉の陽気さはこんな陰気や計算を隠すためであったのではないかと言うのである。
このように信長や秀吉が用心深かったように元就もそうであった。「ただ、人間の照りとして、信長や秀吉はそうは思えず、元就の場合、印象として石橋のはしにうずくまり、暮夜、槌でたたいているところがあった。つまりは、信長や秀吉のように、大衆にうける照りのようなものが元就にはなかったにちがいない」というのである。このあたりの人物評はかなり面白い。
そんな毛利氏が山陰・山陽の百四十数万石を領するようになったが、当主輝元のとき、反徳川方についいた為、関ヶ原以後、全領土を没収され、現在の山口県である長門・周防の三十九万石にとじ込められてしまう。当然かつての家臣団を養うことは出来ない。
輝元は「ついて来なくてもいい」と何度も言うが、旧家臣団の上級者は家禄を減らされても萩に移ったし、下級者は農民になり、山野を開墾した。
このことは幕末長州藩が身分を超えて先祖は安芸の毛利家の家来であったという意識が共有され、そうでなければ高杉晋作が作った庶民団の奇兵隊が成立し得ないと司馬さんは言う。
この巻は他に「神戸散歩」、「横浜散歩」も収録されている。司馬さんは神戸の町を歩いた後、横浜を歩いている以上、そこには双方比較したかったに違いない。ただわざわざ「散歩」というからには意味があるのだろう。多分そこにはこれまでのような肩を張った紀行文ではなく、どちらかといえば軽い感じでこれらの町を歩いたとでもいいたかったのかもしれない。だからといって、決して手を抜いたものではなく、ここにも司馬史観は健在である。
「神戸散歩」で司馬さんは須磨区の青丘文庫という個人の私費で作られた朝鮮史の専門図書館を訪ねている。その人はケミカルシューズで儲けた人であったが、ここ須磨区、あるいは長田区はこのようなゴム産業中心とした朝鮮人の中小零細企業が密集した地域であった。だから、阪神・淡路大震災の時、甚大な被害がここで起こったはずだ。司馬さんがこのあたりを歩いている記述を読んで、ふとそんなことを思い出した。
「横浜散歩」で興味を持ったのは、アメリカのことである。
幕末長州藩が攘夷と称して、下関海峡を通過する欧米の艦船を砲撃したので、イギリス、アメリカ、フランス、オランダは幕府に合わせて300万ドルの法外な賠償金を請求し、幕府はそれを払った。
ところがアメリカだけは、明治22年に本来返還義務がないのだけど、その賠償金の一部200万円を返還してきたのである。それがどういう理由で返還されたのかはっきりしたことは司馬さんにも分からなかったが、ただ、明治政府はその200万円を横浜港の改築工事に当てた。当時明治政府はほとんどお金がなかった。欧米からどうしようない港と言われていた横浜港を改築をしたくても、予算がないので出来なかっただけに、その200万円は「おもわぬ金」であった。
アメリカという国は、たとえば義和団事件で得た賠償金もいったん受け取った後、国家のものとして私せず、全額北京図書館の建設にその他の文化事業にそれを使ったという。19世紀のアメリカにはこうした気分があったのだと司馬さんは言われる。というか、私はここにアメリカの国家として姿勢があるのではないかと思ってしまう。
『街道をゆく』21巻の「芸備の道」は週刊「街道をゆく」の21号に、「神戸散歩」は25巻、「横浜散歩」は36巻に収録されている。
- by kmoto
- at 20:47
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