2006年10月13日
司馬遼太郎著『街道をゆく』22巻
今回は「南蛮のみち」で、次の巻とⅠとⅡに別れている。司馬さんがわざわざ「南蛮のみち」を歩かれるのは、日本における「南蛮」とは何かをじかに感じたいということから始まる。その上で、日本における南蛮文化を伝えたのはフランシスコ・ザヴィエルであろうし、彼が有形無形の影響を残したのではないかと考えられている。
そこでザヴィエルを訪ねる旅がここに始まる。まずはフランスのパリでザヴィエルの学生時代の生活模様を訪ね歩き、その彼をイエスズ会に引き込んだイグナティウス・デ・ロヨラを語り、更に彼ら二人がバスク人であることで、バスク人とは何かを語る。バスク人を語る上で、ヨーロッパにおける少数民族の存在、その歴史に話を進めていく。
まずはザヴィエルのことである。ザヴィエルといえばイエスズ会の修道士ということになるが、ザヴィエルはパリ時代神学コースに進まず、アリストテレスの研究のため哲学の課程を選んでいるところをみると、僧侶になるつもりはなかったようである。その彼を僧侶にしたのはイグナティウス・デ・ロヨラであった。
ロヨラはイエスズ会の創始者であるが、司馬さんのロヨラ像はかなり陰湿な感じで書かれている。そこにはロヨラを次のように評する。「(ロヨラは)信念家というより偏執的な、自分の信念を他に押しつけるためには蛇のように相手を凝視し、魅入ってゆくような気味わるさがある」と書いている。
ロヨラは最初から僧侶ではなかった。ロヨラは「インディゴ」というバスクの名前で呼ばれた貴族であった。バンブロナ城の籠城戦で脚を砕かれ傷痍軍人となってしまい、もう軍人としては生きていけなくなってしまった。そのことは地上で仕えるべき主を彼は失ってしまうことになり、自分自身この後何をすべきか悩むことになった。司馬さんは言う。「かれは、献身という甘美でかつ激しい行為につよい憧憬をおぼえるたちだったようにおもえる」と。結局ロヨラは高貴な婦人のために捨身したいと思うようになる。いってみれば中世の騎士気分を自分の中でもてあましていたのかもしれない。そんな中ロヨラは聖母マリアのために、あるいは彼女が抱く幼児イエスに仕えることを誓う。34歳でパリ大学でラテン語を学び始めるが、物覚えの悪い老学生であった。しかしローマ教会の危機意識だけは人一倍強く持っていた。人文科学者エラスムスや宗教改革者ルターを害虫のように思っていた一方、堕落しきっている教会に憤りをもたず、逆にヨーロッパを津波のように浸しつつある反教会、反カトリックの気分こそ雲霞のような敵と見、籠城戦の最後の勇者のように、孤剣をもって戦おうとした。
そのためには「かれの考えているイエスズの騎士の道を仕遂げるには、軍隊のような指揮官をもち、勇者をもち、人数をもたねばならない。会を結成せねばならないが、それには人材が必要であった。ザヴィエルを口説いてこれを僧侶にし、命も名も要らぬ勇者に仕立てねばならなかった」。ザヴィエルを自分の仲間に入れるために、ロヨラはザヴィエルのいる学校に転校し、同じ寄宿舎の同室人となるのである。このあたりの記述を読むとロヨラの陰湿で執拗な性格は、恐ろしい。ザヴィエルはまさに蛇ににらまれたカエルとなった。
しかしザヴィエルは結局ロヨラのイエスズ会に、入会していく。その転向にはザヴィエルに降りかかった運命がそうさせていったところがあったようだ。
中世という時代は、今の国家みたいなまとまりがなかった。各地に貴族である領主がいて、王もその領主の一人であった。ロヨラやザヴィエルのように戦いに敗れると、自分の居場所がなくなる時代でもあった。そんな彼らが国外に飛び出したのは、「カトリックという普遍性のなかに不滅の生甲斐を見出し、異郷の地の異教徒のなかに入って神の国の民をつくろうとした」ことによる。
ところでロヨラもそうだし、ザヴィエルもバスク人であった。このバスク人とはいったいどういう存在だったのだろうか?バスク地方とは現在フランスとスペインにまたがる地方なのだが、バスク人自体は昔からここに住んでいた少数民族であった。
どうもこの民族という問題はわかりにくい。たとえばローマなどのラテン人がいて、一方でゲルマン民族がヨーロッパになだれ込んでくる。そこには当然先住民族がいたのであろうと思われるが、実態が知らないからかもしれないがつかみにくい。たとえばケルト人の存在は知っているが、それ以外の民族はどうなっていたのだろう?
様々な民族がヨーロッパになだれ込んでいくうちに、混血し、一体としてヨーロッパ民族みたいな形で我々はとらえてしまうけど、このバスク人のように自分たちが昔から存在したという意識を未だに持ち続け、自分たちの存在をそこに求める民族もいるのである。生物学的には同じ人間であっても、どこかそれぞれ違いがあって、しかも風俗、習慣、文化、宗教、政治で民族として固有にまとまっていた。それがある時、中央集権国家というのができあがって、一つの基準でまるでローラーをかけたように同じにしてしまった。しかしすべてがそれですむかといえばそうはいかないようで、潜在意識として自分はどこどこの民族だと主張するところがでてくるようである。
このあたりは日本のように一つの国が一民族(これも多少語弊があるかもしれないが)で固められている場合は何ら問題は生じないが、一つの国家が複数の民族で構成されていると、ことは簡単にいかない部分が出てくる。
バスク人にしてもフランス、あるいはスペインという国のなか一地域として含まれても、そこは自分たちがバスク人としてずっと暮らしてきた場所なのである。つまり国家以前の話として、自分たちの存在する意味がここにある。このあたりは理屈では説明できないし、まして国家体制でも説明できない。
バスク地方はある程度自治が認められていて、バスクの国会もあるし、大統領もいる。その大統領が司馬さんたちに「フランス革命がいけなかった」というのである。このことは何を意味するかといえば、人類が国家という意識や個人の自由などをもたらしたこの革命を否定することでもある。司馬さんは「フランス革命は王朝を倒したことよりも、革命によって広域国家ができたことのほうが意味が大きい。さらに中央集権の統一国家ができ、それ以上に、国民国家という、在来の先住民や地方の多様性を平均した国家ができたことのほうも、見のがせない。このためにバスクがながいあいだ窒息状態におかれた」のだと思うのである。
地方の独自性、あるいは民族を尊重すれば現代の国家はバラバラになってしまう可能性があり、その両立はなかなか難しいのだろうと思い知るところである。
ところで話はまったく違うところいってしまうのだが、この本で司馬さんがアンリ・ピレンヌの著作『ヨーロッパ世界の誕生』のことに言及しているところがある。司馬さんがピレンヌのこの著作を読まれていることに正直驚いたし、そこまで掘り下げてこの紀行文を書かれているのだと、改めて頭が下がる思いであった。
今この巻の続きである23巻を読んでいるのだが、読んでいて改めてこのピレンヌ著作を読んでみたくなった。大学時代資料として摘み読みはしたのだが、今回作品として読んでみたくなったのである。ただこれに取りかかると時間がかかりそうなので、どうしようかと悩んでいる。
『街道をゆく』22巻の「南蛮のみちⅠ」は週刊「街道をゆく」の57、58巻収録されている。
- by kmoto
- at 05:33
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