2006年11月07日

朽木ゆり子著『フェルメール全点踏破の旅』

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 フェルメールの絵には興味があった。その徹底した写実的な手法や、全体のイメージはそれほど明るいものではないのだが、光が左上から光が注いでいるいる関係で、その光が絵の人物にさりげなくあたり、何となく絵の中の人物たちが神秘的、あるいは崇高に見えるのが気に入っている。光はレンブラントが描く直線的な光はなく、光に柔らかさがあっていい。それはカメラ オブスクーラを使って描かれたからこのような感じが生まれたという。

注)カメラ オブスクーラ(ラテン語で「暗箱の意」)とはドイツの僧侶ヨハン・ツアーンの設計によって木製で携帯型のカメラのことで、これは暗箱の前後の壁に小さな穴を開けることによって景色がその暗箱を通して上下逆に映し出されるという、光学原理を利用したものである。スリガラスのピント面に写った画像の上にトレシングペーパーのような半透明な紙を重ねて、鉛筆で精密にトレスすることによって、像の輪郭をぼかすソフトフォーカスという技法が可能になった。

 フェルメールの作品が少ない。この本(集英社新書)によると、フェルメールの作品は全世界で37枚しかない。フェルメールは寡作な画家であった。この37枚のうち34枚は大筋で本人の作とされているが、「フルートを持つ女」と「聖女プラクセデス」に関してはフェルメールの作品には無理があるといわれているらしい。また「赤い帽子の女」についてもその真作性に疑問を持つ学者が多いという。
 著者によると日本人はフェルメールが大好きらしく、その理由がなるほど思える部分がある。
 つまり西欧の美術にはどうしても日本人にはキリスト教に対する理解力不足という高いハードルがつきまとう。そこに描かれている絵画の中には様々な比喩や逸話がちりばめられているので、絵画に登場する人物を理解するにあたり、神々や聖人、あるいは聖書の物語を理解していないとその絵画自体いったい何をいいたいのか分からない。
 ところがフェルメールの作品にはそうしたややこしさがない。何故ならフェルメールの作品のほとんどが宗教画ではなく、風俗画だから、日本人には受け入れやすいという。そうかもしれないと思う。日常の一風景を描かれていれば、われわれ日本人でも理解しやすい。
 では何故フェルメールはほとんど宗教画を描かず、風俗画を描いたのか。それは彼がオランダで生まれ、そこで一生活動したことによる。当時オランダはスペインのハプスブルグ家から独立し、貴族がほとんどおらず、市民による国家であった。しかもオランダはプロテスタントの国でもあった。プロテスタントはそれまでのカトリック教会の批判から生まれたものであったから、教会内部を聖像や宗教画で飾ることを原則として禁止していた。(だからといってオランダはカトリックを禁止していたわけではなく、認めてはいた)それまでの画家のパトロンはほとんどが教会もしくは貴族であったが、貴族もいないし、教会も画家に宗教画の注文をしない状況であった。そのためフェルメールはいやがうえでも画家として生活する上で宗教画ではなく風俗画を描かざるを得なかったのである。これが彼の作品のほとんどが風俗画である理由であった。
 しかしだからといってフェルメールが完全にキリスト教的要素から解放されていたのだろうかという疑問は残る。ヨーロッパでキリスト教の影響を完全に排除出来るわけがないと思う。私はいくらフェルメールがそうした環境にいても、キリスト教から自由な絵を描いていたとは思えなかった。だから著者の論理にはどこか無理があるのではないかと思っていたが、著者もこの点に関しては、フェルメールの全作品を鑑賞してから、これは違うのではないかと思い始める。著者は最後に次のように言う。
「そんな絵がなぜ心を癒す力を持っているのだろうか。というよりも、なぜフェルメールの描く単身女性の立ち姿が崇高さと力強さに満ちている、と感じるのだろうか。もしかしたらそれは、フェルメールの持っていた美しさへの希求心が、宗教的なものを基盤としていたからかもしれない。(略)
 この旅を終えて、三十三枚のフェルメールとその他多くの絵を見終わった結論としていえるのは、信仰の種類が何であろうと、何が自分よりずっとレベルの高い存在を認め、それに対して技術を尽くして捧げるように作った芸術品には存在としての強さがあるということだ。そしてその強さと深さは、時代を超え、宗教を超えて、見る人の心を揺さぶる」と。
 多分これが正しい答えのように私にも思える。

 さて、著者はフェルメールの絵を全点見るために、ベルリン、ドレスデン、ブラウンシュバイク、ウィーン、デルフト、アムステルダム、ハーグ、ロッテルダム、ロンドン、パリ、エジンバラ、ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークの美術館を訪ねる。もうそれだけでもうらやましいと思ってしまうが、ちょっとした美術館ガイドにもなりそうだ。
 個人的には「窓辺で手紙を読む女」と、「真珠の首飾り」、「青衣の女」が好きだ。


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      「窓辺で手紙を読む女」

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          「真珠の首飾り」

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           「青衣の女」

 これら三作はすべて女性がすくっと立って光が左側から当たって人物を照らしている。特に「窓辺で手紙を読む女」の絵の説明は興味深かった。X線でこの絵を調べてみると、画面中央にキューピッドが描かれていたらしい。多分キューピッドを描くことで、この手紙がラブレターだと分からせようとしたのだろうが、フェルメールはそれを消してしまった。そんな余計なことをしないでも、彼女が読む手紙がラブレターであると、見る側に訴えてくる。
 それは素人が見ても、キューピッドを消すことで奥行きがでて、絵がシンプルになり、かえって手紙を読む女性を際立たせることになる。絵を見るものは彼女の表情、仕草から、この手紙がどんな種類の手紙なのか必然的探ってしまう。その結果、手紙は恋人から手紙だろうと想像するのである。
 「真珠の首飾り」にしても「青衣の女」にしても、本当にシンプルだ。余計な飾りを捨て去ることで、かえって絵から様々な表情を読み取り、登場人物の内面を探ろうとしてしまう。フェルメールは引き算をすることで、絵をシンプルにし、見る側に内面を様々な形で訴えていくのだ。やっぱりごてごてした絵よりこうした絵を見る方が心が癒される。

 この新書はヴィジュアル版として全編カラーで、フェルメールの絵を紹介している。が、如何せん新書という制約があるため、いくら絵がカラーで収録されていても、やはり絵が小さすぎる。絵の説明を読んで、収録されている絵を眺めても、よく分からない部分が出てきてしまう。これではらちがあかないので、画集でも引っ張り出そうと思ってみてみたら、私はフェルメールの画集を持っていなかった。(てっきり持っていると思ったのだが・・・)
 で、仕方がないので2000年5月号の芸術新潮に「フェルメールあるオランダ画家の真実」という特集があったので、それを取りだしてこの新書のかたわらに置いて絵を見ていた。


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 確かこの特集号は読んだはずなのだが、ほとんど忘れちゃっていて、再度読むことにした。


評価
★★★

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