2006年12月31日

荻原浩著『明日への記憶』

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 「記憶がいかに大切なものか、それを失いつつある私には痛切にわかる。記憶は自分だけのものじゃない。人と分かち合ったり、確かめ合ったりするものでもあり、生きていく上での大切な約束ごとでもある。陶芸が小さな工程を失敗しただけで、器にひびを入れ、形をだいなしににしてしまうのと同様、たったひとつの記憶の欠落が、社会生活や人間関係をそこなわせてしまうことがあるのだ」

 50になったばかりの広告代理店の勤める佐伯は、物忘れや頭痛、不眠に悩まされ、特に物忘れが激しくなり、不安に苛まれる日々を過ごすことが多くなってきた。そのため病院の精神科へ行き、「若年性アルツハイマー」と診断される。最初に病院にかかったときはまだ初期症状だったが、だんだん病気が進行していく。
 佐伯は最初、部下に自分が若年性アルツハイマーだと悟られないように、ひたすらメモをとり、そのメモを確認することで仕事をこなそうとする。そのメモの量が半端な数でなくなるところは、恐ろしいし、絶えずそれを確認しないと、自分が今何をしているのかさえ分からなくなってしまう。このメモに頼る姿は『博士が愛した数式』の博士と同じ状況だ。
 記憶の欠落がいかに恐ろしいものか知らされた部分は、佐伯がクライアントの事務所がある渋谷のオフィスへ向かう途中、自分がどこにいるのか分からなくなるところである。道に迷っているうちに、打ち合わせの時間がどんどん迫ってくる。あわてて自分の部署に携帯を入れる。
 
 「生野か?俺だ、佐伯だ、助けてくれ」
 「ギガフォースに行く途中なんだ、道に迷ってしまった」
 「本当なんだ。急に道が分からなくなっちまった。どう行けばいいんだ。教えてくれ」
 このあたりの状況は都心でも、記憶次第では迷路にはまりこんだ状況になるのだというを感じてしまった。

 佐伯の病状は部下や上司の知るところとなってしまうが、娘の結婚式が近づいていたので、すぐ会社を辞めるわけにもいかなかった。そのため営業職を退き、資料課へ移ることとなった。その後は退職の道しか残されていない。娘が結婚した後、佐伯は会社を退職する。その後症状はどんどん悪化していく。

 症状の悪化がどういう状況に病人を追い込んでいくか、この本では書かれているのだが、ページが進むうち、どこかおかしい。不自然だと思い始めた。どこがおかしいのだろうかとしばらく考えていた。そうだ。佐伯自身が自分の病状を克明に語るのは不自然だ。だって佐伯は若年性アルツハイマーなのだから、自分のどこが異常で、どの部分の記憶が欠落しつつあるのか語れるはずがないのではないか。それを語るには客観的な思考方法が必要であり、正常な状態と比べてどこが自分の中で異常な状態になっているのか、比較した上からでないとならない。そんなことができるはずがないじゃないかと思ったのである。 確かに初期の段階ではそれが可能かもしれないが、症状が悪化していけばそれは不可能になるはずだ。だから最初は違和感なしに佐伯が語る自分の症状について行けたのだが、だんだん自分の症状が悪化していくところになると、記述には無理があると思い始めたのだ。この本が佐伯自身に自分の症状の悪化を語らせるため、最後まで書けなかかったのは当然である。

 それにしても、自分が若年性アルツハイマーだと診断され、眠れない夜を過ごすとき、自分の死について考えさせられる描写がある。
 「若い頃は死をさほど恐ろしいものだと思わなかった。それまでの人生を失ってしまうことより、その頃には果てしなく長いと思っていた、自分の前に立ちはだかる人生のほうが怖かったかもしれない。
 死を意識しはじめたのは梨恵が生まれた頃からだ。子どもができるとなぜか人間は自分の寿命を逆算するものらしい。この子がはたちになったら、自分は何歳?この子がいまの自分の歳になったら?自分は何歳までこの子の人生をみていられるのか-。
 人生の半ばを過ぎれば、さすがに自分があと何年生きられるのだろうかと漠然と考えることがある。しかし、いま思えば、それは死というより自分に残された寿命について考えていただけだ」
 
 これはかなりリアルに自分も実感する。特に最近はそうである。病気でなくとも(自分は今十二指腸潰瘍を抱えているが、すぐ死に至る訳じゃないので)、やはり50という年齢がそんなことを考えさせるのかなぁと思うので、書いてみた。


評価
★★

2006年12月27日

司馬遼太郎著『街道をゆく』27巻

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 実はこの巻はちょっと前に読み終えていたのだが、自宅のパソコンの都合で感想が書けずにいた。読了から時間がたってしまったので、ちょっと忘れてしまっている部分がある。そのためうまく書けるかちょっと心配だ。

 今回は、「因幡・伯耆のみち」と「檮原街道(脱藩のみち)」である。まずは「因幡・伯耆のみち」からだが、ここは「鳥取県の旧分国は東半分(鳥取市が中心)は因幡国とよばれ、西半分(米子市が中心)は伯耆国とよばれていた。そのうち因幡国は、主として千代川一川の流域より成りたっている」。そんな中、司馬さんはまず、因幡の国守として赴任した大伴家持がいただろう国府町を訪ねる。私は大伴家持が万葉集の編集者というくらいしか知らないので、ふ~ん、そうなんだ。大伴家持はこの地に左遷の形で、赴任してきたんだと知った次第だ。
 それよりも司馬さんの梨に関する記述の方が興味があった。実は私の叔母が鳥取に嫁いでいて、子供の頃よく二十世紀梨を箱で送ってきてくれた。当時梨といえば長十郎が主流だったので、この二十世紀梨はご馳走であった。そのため私も二十世紀梨は鳥取県が発祥だとずっと思っていた。
 ところが、この梨は千葉県で発見されたようである。司馬さんの記述を以下引用する。

「二十世紀梨の原木は、いまの千葉県松戸市大橋(当時・東葛飾郡八柱村大字大橋)の石井佐平方の塵捨場で発見されたのである。
 これを石井佐平の本家である松戸斯くの覚之助がみつけて自分が経営している果樹園にうえると、りっぱにみのった。いままでの褐色の梨とはちがい、緑がかっていたため、近所のひとはアホナシとよんだという」

 このことを大野さんに聞いたら彼もよく知っていた。塵捨場で発見されたということだが、この梨の原木は捨ててあったということなのだろうか?それともそこに自生していたということなのだろうか?とにかくこの二十世紀梨が鳥取へいったのである。

 もう一つ面白かったのは、出雲国風土記の国引き伝説である。この伝説を詳しくネットで調べてみると以下の通りである。

 八束水臣津野命(ヤツカミズオミツノノミコ))は、小さく狭い出雲国を何とか立派な国にしようと考え、海を隔てた新羅国に誰も使っていない余った岬があることに気づき、何とかあの岬を出雲国に引っ張ってくることはできないものかと考えた。そこで命は、幅の広い大きな鋤を取り出し、「えいっ」とばかりに岬を切り離し、岬に「三身の綱(みつみのつな)」という太く丈夫な綱をかけ、「国よ来~い、国よ来~い。」と叫びながら、やっとの思いで岬を引き寄せることが出来た。しかし、まだまだ出雲国は小さな国なので、もっと大きな国を造らねばと思ったらしい。「国よ来~い、国よ来~い。」と言いながら、命はそれは一生懸命あちらこちらの国々から余った土地を引き寄せては小さな出雲国を立派な大きな国に作りあげたという。
 この時、新羅国から引いた岬が現在の大社町「日ノ御埼」に、越の国から引いた岬が「美保御碕」になり、国引きに使った三身の綱が「弓が浜」となり、綱を結んだ杭の跡が「大山」となったと言われている。

 この大山という山、地図で見るとなんか平野にぽつんとあるような感じがするのだが、どうなのだろうか?いかにも国引きの杭になるよう感じである。司馬さんの記述にも、「大山は、海上からの目標でもあった。古代から幕末までの日本の航海術は「山見」といわれる方法だった。陸の景色(山々の姿)を見ながら船の位置を知って航海する沿海航行だったのである。明治以前の船乗りにとって、『山』というものの第一は、岬のことだった。岬以上の存在が、特異な形態をした独立峰だった。大山もそうだった」とある。
 それにしても大山(だいせん)とは変わった呼び方である。これにも司馬さんは言及している。
 「(大山は)本来、単に『御山』とよばれていたのであろう。接頭語として御は大(おほ)からきたといわれているから、上代の土地のひとびとは『大山(おやま)』という気分をこめてそうよんでいたかとおもわれる。
 ここに神仏習合の修験の徒がこもるようになり、『大山(おやま)』を呉音で『大山(だいせん)』と音ずるようになった。さらに山に大山寺(だいせんじ)ができてから、寺の名が普及し、ついには山の名も『大山(だいせん)』とよばれるようになったにちがいない」と。


 さてもう一つの「檮原街道(脱藩のみち)」である。わざわざ脱藩のみちと司馬さんいうのには訳がある。檮原(ゆすはら)街道とはかつて、土佐(高知県)か四国山地を伊予(愛媛県)へと脱け、その先の京・大坂へ、あるいは長州へと向かう道であった。つまり坂本竜馬たちがここを脱けて、幕末の志士として活躍するための第一歩だったのである。
 彼らが何故ここに土佐を脱藩し、京や大坂へ向かったのか?それを説明するのに土佐の複雑な事情説明しなければならない。
 今NHKの大河ドラマでやっている「功名が辻」の山内一豊だが、家康が、関ヶ原の戦いの前に自分に従うか、三成に従うか、秀吉恩顧の大名に聞いた。このとき、真っ先に「内府(家康)に従い申す」といったのが一豊であった。このことで、戦後一豊は家康から土佐一国もらうことになった。
 ところが土佐には地生えの大名がいた。長曾我部氏である。長曾我部盛親は無策のまま三成側についたため、家康から土佐一国を取り上げられてしまう。 盛親の先代元親は、四国全土を征服したのだが、この大規模な作戦をするためには兵が足らなかった。そのため屈強な農民を農民のまま武士にした。これを「一領具足」という。このためたいていの家の一族のたれかが一領具足になったため、どの土佐人も長曾我部侍であるという意識を持つようになった。これは司馬さんはフランス革命の国民軍の性格に近いという。このことが後々、土佐人の平等意識の萌芽となり、あの自由民権運動がここ土佐から始まることになる土壌が生まれた。
 従って主がいなくなっても、長曾我部侍が多く残ってしまった。山内家はこうした侍たちを召し抱えず、上方で家来を召し抱えてしまい、長曾我部侍は元の農民に戻らざるを得なくなってしまった。当然彼らの上には山内侍が君臨することになり、土佐人は支配者に対して慢性的に不満を持つようになった。こうした不満のガス抜きをするために、彼らを郷士としたが、基本的な解決策にはならなかった。
 郷士である彼らは、「もとは、おなじぞ」という平等意識を持ち続けたし、侍であることで書物を読み、武術を身につけ、政治や天下に関心を深めるようになっていった。
 こうした土壌があったからこそ、天下を憂いた坂本竜馬らは土佐を脱藩し、幕末の志士となっていったのである。あるいは自由民権運動の板垣退助を生んだのである。
 土佐を脱藩するためには檮原街道のを通っていったのであった。「檮原は、すでにふれたように伊予との国境いにあり、いくつかの関所がある。その関所番はみな檮原の郷士だったが、かれらの多くはすでに吉村虎太郎らと気脈を通じていて、関所破りをする脱藩者たちを見ても、みぬふりをした。「お町」の郷士だった坂本竜馬も檮原をへて脱藩しているのである。檮原には、そういう風がある」と司馬さんはいう。「檮原には、そういう風がある」というのは、関所番も脱藩者も「もとは、おなじぞ」という意識である。だからここからみんな出ていったのである。
 長州や薩摩の時もそうだけど、関ヶ原後、家康の支配体制の不満が、幕末になって爆発した感がある。


 『街道をゆく』27巻の「因幡・伯耆のみち」は週刊「街道をゆく」の49巻に、「檮原街道(脱藩のみち)」は1巻に収録されている。

2006年12月26日

重松清著『その日のまえに』

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 この本(文藝春秋刊)は自分の身近にいる人の死をテーマとした短編集なのだが、最初の「ひこうき雲」、「朝日のあたる家」、「潮騒」、「ヒア・カムズ・ザ・サン」は、読んでいて何故か不快感が残った。気持ちがざらざらした。違うなと思った。人の死ってこんな感じで受け取れるはずがないし、変に格好つけているような気がしたのだ。
 ところがこれら短編は、この後に続く、「その日のまえに」、「その日」、「その日のあとで」の前章であったことを知る。これら3編に登場する看護師の山本さんは、「ひこうき雲」で小学校時代クラスメイトの死を身近に体験したし、僕に広告デザインを依頼した石川さんは、「潮騒」で余命三ヵ月という小学校時代の同級生が急に訪ねてきて、昔泳いだ海岸で一時を過ごした人達であった。
 それにしても、「その日のまえに」、「その日」、「その日のあとで」は堪えた。この場合、近いうちに「その日」が来るとを宣告された妻の和美と、妻の「その日」が近いうちに訪れるのだと覚悟をしなければならない立場の夫の僕とでは、死の受け止め方が違ってしまう。
 和美は残された時間で自分の人生の整理を始め、「その日のまえ」にまず、二人が一緒になった場所を夫ともに旅と称して訪れる。これに付き合わざるを得ない僕のことを思うとたまらない。和美には人生を途中下車しなければならない無念さがあるだろうけど、しかしそれに付き合わされる方のことを考えると、あるいは「その日のあとで」残された僕のような立場を考えると、これもやりきれない。

 「(病院へ行く前に)風呂からあがって髪を乾かし、歯を磨いておこうと洗面台の棚に手を伸ばした。
 スタンドに立つ歯ブラシは三本。青が僕、黄緑が健哉、白が大輔。和美は入院前に、自分の赤い歯ブラシを処分していた。
 手回しがよすぎるよな、と苦笑した顔が鏡に映る」

 その歯ブラシが傷んでいるので取り替えようと思い、確か買い置きがあるはずだと戸棚を開けて新しい歯ブラシを探す。そこには青、黄緑、白、そして赤の歯ブラシがあった。退院したら使うつもりでいたのか、いつもの習慣で買ってしまったものなのか。それとも病気になる前に買ったあったものなのか、分からないが、処分できなかった日常がここにある。あるいは赤い歯ブラシが断ち切られた日常を物語る。
 死後、和美あてに来るダイレクトメールもそうである。本人は自分の人生を整理し、後腐れない状態にしても、どこか整理しきれないところが出てきてしまう。きれいに整理してあると思えば思うほど、こういうほころびがさらに悲しみを誘う。このあたりの描写はうまいなぁと思った。歯ブラシという日常的なものから、その人の存在感をうまく表している。
 もし自分が和美のような余命を宣告されれば、やっぱり自分の人生の整理を始めると思う。取りこぼしのないような形にはしたいと思うが、それでもきっとこのような形で残ってしまう部分が出てくるだろうか?あるいは少しだけでもこうした取りこぼしはあった方がいいのだろうか?よく分からない。
 和美が看護師の山本さんに、家族に書き残したいことがあれば、手紙を渡すと促されて、書かれた手紙には「忘れてもいいよ」の一言であった。これは残された夫の僕に対する思いやりから書かれた言葉であろうが、これにもまいった。パソコンのようにクリック一つで完全に消去できるほど、思い出や感情は消去できないから、たとえそれが愛情からの言葉であっても、そうはいかないし、受け入れがたいのではないかと思った。


評価
★★★★★

2006年12月13日

司馬遼太郎著『街道をゆく』26巻

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 また『街道をゆく』に戻る。なんだかここに戻るとホッとする。
 ところで前回あまり興味のない中国東南部福建省紀行だったので、味気ない感想を書いた。こう書くしかなかったのである。でも、何かこのシリーズの読み方がちょっと間違っているのじゃないかと思い始めた。というのも、とにかく司馬さんが書かれている歴史的なことを少しでも多く読み取ろうと思い、そのことに集中した読み方をしてきた。しかし本当はもっと気楽に読んでいいんじゃないかと思い始めたのだ。何故なら私は歴史家でもないのだし、評論家でもないだからである。もっとこのシリーズを楽しんで読むべきではないかと思い始めたのである。
 で、今回こだわった読み方はやめて、もっと自由に、司馬さんと旅でもしている気分でこの本を読んでみた。今回は、「嵯峨散歩」、「仙台・石巻」である。
 まずは「嵯峨散歩」から・・・。ここでも秦氏(はたうじ)が出てくる。司馬さんは「嵯峨野を歩いて古代の秦氏を考えないということは、ローマの遺跡を歩いてローマ人たちを考えないのと同じくらい鈍感なことかもしれない」という。秦氏は以前読んだ巻(どの巻か忘れたが)にも出てきた。秦氏とは「日本書紀」によると、5世紀初頭応神十四年に「弓月君(ゆづきのきみと読む。彼は秦の始皇帝の子孫だと称していた)、百済より来帰り」とあり、朝鮮半島の百二十県の人々を率いて日本にやって来て、京都市(山城国)や滋賀県(近江)などに農業土木をほどこし、広大な田園を開いた。
 私は彼らが移住した地域が、あの広隆寺のある太秦あたりであると思っていた。(事実そうなのだが)その彼らがどうしてここで出てくるのか正直不思議であったが、地図を調べてみると、この渡月橋がある嵐山は太秦と近いことを知り、なるほどこのあたりにも秦氏の影響下にあったことが分かった次第だ。
 その秦氏の村に秦大津父(はたのおおつち)という人がいて、欽明天皇は彼を大蔵省(おおくらのつかさ)にする。つまり今の財務省の大臣にしたのであった。つまりこのことは秦氏が大和朝廷が援助を求めるほどの力を持っていたことを示す。さらに時代を経て秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子に力を貸し、聖徳太子の政治資金をまかなったふしがある。事実彼は太子のために太秦に広隆寺を建立している。
 平安京の遷都も秦氏が開いた田園の上に都が建てられたわけで、司馬さんは、桓武天皇が「秦サン、ヨロシク頼ムヨ」といって秦氏に財政面で面倒をみてもらったのではないかと推察している。しかし秦氏は積極的に政治に参加することなく、影で支える姿勢を貫き、その後秦氏の存在が顕れなくなる。なんか不思議な存在であり、その分興味がひかれる。

 嵯峨は王朝文化の別宅的要素が残っている土地で、司馬さんはそんな風景を楽しんでおられるのがよく分かった。しかしここにある人工なものは、あくまでも自然をメインにして、さりげなく配置されている。つまりそれら人工なものをさりげなく置くことで、逆に自然を効果的に演出できるようなスタイルをとっている。あくまでも主役は自然なのである。このことを司馬さんは強調することで、現代の自然破壊を伴う国土開発を批判している。
 大久保利通が政争に疲れ、嵐山に遊びに来たとき、以前来たときより林野が荒れていることを知る。徳川幕府がお金を出して嵐山の保全につとめていたことを知らされるのである。幕府が瓦解してそのお金が途絶えるととたんに山が荒れ始めたのである。このことに大久保は驚き土地の古老に聞くと「山水というものは自然にそこにあるだけで美しいというものではないのです。人間の手が入りつづけて美観を保っているのです」と言われるのである。ここの自然はそうして人の手を借りて維持され、美観を保ってきたのである。と同時に、大久保は政治の何たるかを教えられる思いだったという。新しいものがすべていいとは限らないし、旧制度が効率的でなく、手間やお金がかかるものであっても、そうすることに価値を見いだせるものがあるわけだ。それが文化(文明じゃないよ)というものではないかとこの話を読んで思った。

 「仙台・石巻」で面白いと思ったことは、「桃山様式」のことである。「桃山様式」は豊臣秀吉の好みで興った。秀吉の好みということだから、多分きらびやかなものなのだろう。司馬さんも、「綺羅があり華やいでいながら、下品ではない」といっている。しかし秀吉の後をついだ徳川家康には当然好まれず、時の流れが秀吉の好みを否定する家康の時代に迎合し、この様式は日本史上わずか十数年で滅び、絵画では多少その余波が残ったが、建築では残らなかった。ただ仙台周辺ではこの「桃山様式」が多く残っている。伊達政宗が移植したのである。大崎八幡宮、塩釜神社、松島の瑞巌寺などがそうである。だから司馬さんは「桃山風の建築に接したければ仙台にゆけといいたいほどである」という。
 こういうことって結構ある。つまり中央では新しい政権などが生まれると、前時代のものが否定されるか、あるいは性格を変えてしまい、まったく違うものになってしまう。ところが辺境では、中央の変化が及ばないか、新しい波がかなり時間をおいて及んでくるため、そのままの形で残っていくのである。仙台に「桃山様式」が残っているのもそういう理由だろう。
 秀吉の好みと政宗の性格から想像して、多分きんきらきんな感じなのかなぁと想像していたが、週刊「街道をゆく」にある大崎八幡宮の写真を見てみると、なんかしっくりとした、落ち着いた感じを受ける。確かに下品ではない。
 もう一つ面白かったのは松島で芭蕉が歌ったといわれる「松島や ああ松島や 松島や」という句についての司馬さんの記述である。これは前回読んだ時も笑っちゃったことであった。司馬さんは芭蕉が「ノンキなトウサンのような句を作るだろうか」という。確かに松島の美しさに感動したに違いないにしても天下の松尾芭蕉である。こんないい加減な俳句を作るわけがないというのである。だから松島にあるこの句を載せた看板に、「松島の観光にたずさわるひとたちには、もうすこし芭蕉に対して粛然たる気持ちをもってほしいものである」と情けなさを込めていう。


 『街道をゆく』26巻の「嵯峨散歩」は週刊「街道をゆく」の14巻に、「仙台・石巻」は32巻に収録されている。