2006年12月13日

司馬遼太郎著『街道をゆく』26巻

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 また『街道をゆく』に戻る。なんだかここに戻るとホッとする。
 ところで前回あまり興味のない中国東南部福建省紀行だったので、味気ない感想を書いた。こう書くしかなかったのである。でも、何かこのシリーズの読み方がちょっと間違っているのじゃないかと思い始めた。というのも、とにかく司馬さんが書かれている歴史的なことを少しでも多く読み取ろうと思い、そのことに集中した読み方をしてきた。しかし本当はもっと気楽に読んでいいんじゃないかと思い始めたのだ。何故なら私は歴史家でもないのだし、評論家でもないだからである。もっとこのシリーズを楽しんで読むべきではないかと思い始めたのである。
 で、今回こだわった読み方はやめて、もっと自由に、司馬さんと旅でもしている気分でこの本を読んでみた。今回は、「嵯峨散歩」、「仙台・石巻」である。
 まずは「嵯峨散歩」から・・・。ここでも秦氏(はたうじ)が出てくる。司馬さんは「嵯峨野を歩いて古代の秦氏を考えないということは、ローマの遺跡を歩いてローマ人たちを考えないのと同じくらい鈍感なことかもしれない」という。秦氏は以前読んだ巻(どの巻か忘れたが)にも出てきた。秦氏とは「日本書紀」によると、5世紀初頭応神十四年に「弓月君(ゆづきのきみと読む。彼は秦の始皇帝の子孫だと称していた)、百済より来帰り」とあり、朝鮮半島の百二十県の人々を率いて日本にやって来て、京都市(山城国)や滋賀県(近江)などに農業土木をほどこし、広大な田園を開いた。
 私は彼らが移住した地域が、あの広隆寺のある太秦あたりであると思っていた。(事実そうなのだが)その彼らがどうしてここで出てくるのか正直不思議であったが、地図を調べてみると、この渡月橋がある嵐山は太秦と近いことを知り、なるほどこのあたりにも秦氏の影響下にあったことが分かった次第だ。
 その秦氏の村に秦大津父(はたのおおつち)という人がいて、欽明天皇は彼を大蔵省(おおくらのつかさ)にする。つまり今の財務省の大臣にしたのであった。つまりこのことは秦氏が大和朝廷が援助を求めるほどの力を持っていたことを示す。さらに時代を経て秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子に力を貸し、聖徳太子の政治資金をまかなったふしがある。事実彼は太子のために太秦に広隆寺を建立している。
 平安京の遷都も秦氏が開いた田園の上に都が建てられたわけで、司馬さんは、桓武天皇が「秦サン、ヨロシク頼ムヨ」といって秦氏に財政面で面倒をみてもらったのではないかと推察している。しかし秦氏は積極的に政治に参加することなく、影で支える姿勢を貫き、その後秦氏の存在が顕れなくなる。なんか不思議な存在であり、その分興味がひかれる。

 嵯峨は王朝文化の別宅的要素が残っている土地で、司馬さんはそんな風景を楽しんでおられるのがよく分かった。しかしここにある人工なものは、あくまでも自然をメインにして、さりげなく配置されている。つまりそれら人工なものをさりげなく置くことで、逆に自然を効果的に演出できるようなスタイルをとっている。あくまでも主役は自然なのである。このことを司馬さんは強調することで、現代の自然破壊を伴う国土開発を批判している。
 大久保利通が政争に疲れ、嵐山に遊びに来たとき、以前来たときより林野が荒れていることを知る。徳川幕府がお金を出して嵐山の保全につとめていたことを知らされるのである。幕府が瓦解してそのお金が途絶えるととたんに山が荒れ始めたのである。このことに大久保は驚き土地の古老に聞くと「山水というものは自然にそこにあるだけで美しいというものではないのです。人間の手が入りつづけて美観を保っているのです」と言われるのである。ここの自然はそうして人の手を借りて維持され、美観を保ってきたのである。と同時に、大久保は政治の何たるかを教えられる思いだったという。新しいものがすべていいとは限らないし、旧制度が効率的でなく、手間やお金がかかるものであっても、そうすることに価値を見いだせるものがあるわけだ。それが文化(文明じゃないよ)というものではないかとこの話を読んで思った。

 「仙台・石巻」で面白いと思ったことは、「桃山様式」のことである。「桃山様式」は豊臣秀吉の好みで興った。秀吉の好みということだから、多分きらびやかなものなのだろう。司馬さんも、「綺羅があり華やいでいながら、下品ではない」といっている。しかし秀吉の後をついだ徳川家康には当然好まれず、時の流れが秀吉の好みを否定する家康の時代に迎合し、この様式は日本史上わずか十数年で滅び、絵画では多少その余波が残ったが、建築では残らなかった。ただ仙台周辺ではこの「桃山様式」が多く残っている。伊達政宗が移植したのである。大崎八幡宮、塩釜神社、松島の瑞巌寺などがそうである。だから司馬さんは「桃山風の建築に接したければ仙台にゆけといいたいほどである」という。
 こういうことって結構ある。つまり中央では新しい政権などが生まれると、前時代のものが否定されるか、あるいは性格を変えてしまい、まったく違うものになってしまう。ところが辺境では、中央の変化が及ばないか、新しい波がかなり時間をおいて及んでくるため、そのままの形で残っていくのである。仙台に「桃山様式」が残っているのもそういう理由だろう。
 秀吉の好みと政宗の性格から想像して、多分きんきらきんな感じなのかなぁと想像していたが、週刊「街道をゆく」にある大崎八幡宮の写真を見てみると、なんかしっくりとした、落ち着いた感じを受ける。確かに下品ではない。
 もう一つ面白かったのは松島で芭蕉が歌ったといわれる「松島や ああ松島や 松島や」という句についての司馬さんの記述である。これは前回読んだ時も笑っちゃったことであった。司馬さんは芭蕉が「ノンキなトウサンのような句を作るだろうか」という。確かに松島の美しさに感動したに違いないにしても天下の松尾芭蕉である。こんないい加減な俳句を作るわけがないというのである。だから松島にあるこの句を載せた看板に、「松島の観光にたずさわるひとたちには、もうすこし芭蕉に対して粛然たる気持ちをもってほしいものである」と情けなさを込めていう。


 『街道をゆく』26巻の「嵯峨散歩」は週刊「街道をゆく」の14巻に、「仙台・石巻」は32巻に収録されている。

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