2006年12月26日
重松清著『その日のまえに』
この本(文藝春秋刊)は自分の身近にいる人の死をテーマとした短編集なのだが、最初の「ひこうき雲」、「朝日のあたる家」、「潮騒」、「ヒア・カムズ・ザ・サン」は、読んでいて何故か不快感が残った。気持ちがざらざらした。違うなと思った。人の死ってこんな感じで受け取れるはずがないし、変に格好つけているような気がしたのだ。
ところがこれら短編は、この後に続く、「その日のまえに」、「その日」、「その日のあとで」の前章であったことを知る。これら3編に登場する看護師の山本さんは、「ひこうき雲」で小学校時代クラスメイトの死を身近に体験したし、僕に広告デザインを依頼した石川さんは、「潮騒」で余命三ヵ月という小学校時代の同級生が急に訪ねてきて、昔泳いだ海岸で一時を過ごした人達であった。
それにしても、「その日のまえに」、「その日」、「その日のあとで」は堪えた。この場合、近いうちに「その日」が来るとを宣告された妻の和美と、妻の「その日」が近いうちに訪れるのだと覚悟をしなければならない立場の夫の僕とでは、死の受け止め方が違ってしまう。
和美は残された時間で自分の人生の整理を始め、「その日のまえ」にまず、二人が一緒になった場所を夫ともに旅と称して訪れる。これに付き合わざるを得ない僕のことを思うとたまらない。和美には人生を途中下車しなければならない無念さがあるだろうけど、しかしそれに付き合わされる方のことを考えると、あるいは「その日のあとで」残された僕のような立場を考えると、これもやりきれない。
「(病院へ行く前に)風呂からあがって髪を乾かし、歯を磨いておこうと洗面台の棚に手を伸ばした。
スタンドに立つ歯ブラシは三本。青が僕、黄緑が健哉、白が大輔。和美は入院前に、自分の赤い歯ブラシを処分していた。
手回しがよすぎるよな、と苦笑した顔が鏡に映る」
その歯ブラシが傷んでいるので取り替えようと思い、確か買い置きがあるはずだと戸棚を開けて新しい歯ブラシを探す。そこには青、黄緑、白、そして赤の歯ブラシがあった。退院したら使うつもりでいたのか、いつもの習慣で買ってしまったものなのか。それとも病気になる前に買ったあったものなのか、分からないが、処分できなかった日常がここにある。あるいは赤い歯ブラシが断ち切られた日常を物語る。
死後、和美あてに来るダイレクトメールもそうである。本人は自分の人生を整理し、後腐れない状態にしても、どこか整理しきれないところが出てきてしまう。きれいに整理してあると思えば思うほど、こういうほころびがさらに悲しみを誘う。このあたりの描写はうまいなぁと思った。歯ブラシという日常的なものから、その人の存在感をうまく表している。
もし自分が和美のような余命を宣告されれば、やっぱり自分の人生の整理を始めると思う。取りこぼしのないような形にはしたいと思うが、それでもきっとこのような形で残ってしまう部分が出てくるだろうか?あるいは少しだけでもこうした取りこぼしはあった方がいいのだろうか?よく分からない。
和美が看護師の山本さんに、家族に書き残したいことがあれば、手紙を渡すと促されて、書かれた手紙には「忘れてもいいよ」の一言であった。これは残された夫の僕に対する思いやりから書かれた言葉であろうが、これにもまいった。パソコンのようにクリック一つで完全に消去できるほど、思い出や感情は消去できないから、たとえそれが愛情からの言葉であっても、そうはいかないし、受け入れがたいのではないかと思った。
評価
★★★★★
- by kmoto
- at 20:47
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