2006年12月27日

司馬遼太郎著『街道をゆく』27巻

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 実はこの巻はちょっと前に読み終えていたのだが、自宅のパソコンの都合で感想が書けずにいた。読了から時間がたってしまったので、ちょっと忘れてしまっている部分がある。そのためうまく書けるかちょっと心配だ。

 今回は、「因幡・伯耆のみち」と「檮原街道(脱藩のみち)」である。まずは「因幡・伯耆のみち」からだが、ここは「鳥取県の旧分国は東半分(鳥取市が中心)は因幡国とよばれ、西半分(米子市が中心)は伯耆国とよばれていた。そのうち因幡国は、主として千代川一川の流域より成りたっている」。そんな中、司馬さんはまず、因幡の国守として赴任した大伴家持がいただろう国府町を訪ねる。私は大伴家持が万葉集の編集者というくらいしか知らないので、ふ~ん、そうなんだ。大伴家持はこの地に左遷の形で、赴任してきたんだと知った次第だ。
 それよりも司馬さんの梨に関する記述の方が興味があった。実は私の叔母が鳥取に嫁いでいて、子供の頃よく二十世紀梨を箱で送ってきてくれた。当時梨といえば長十郎が主流だったので、この二十世紀梨はご馳走であった。そのため私も二十世紀梨は鳥取県が発祥だとずっと思っていた。
 ところが、この梨は千葉県で発見されたようである。司馬さんの記述を以下引用する。

「二十世紀梨の原木は、いまの千葉県松戸市大橋(当時・東葛飾郡八柱村大字大橋)の石井佐平方の塵捨場で発見されたのである。
 これを石井佐平の本家である松戸斯くの覚之助がみつけて自分が経営している果樹園にうえると、りっぱにみのった。いままでの褐色の梨とはちがい、緑がかっていたため、近所のひとはアホナシとよんだという」

 このことを大野さんに聞いたら彼もよく知っていた。塵捨場で発見されたということだが、この梨の原木は捨ててあったということなのだろうか?それともそこに自生していたということなのだろうか?とにかくこの二十世紀梨が鳥取へいったのである。

 もう一つ面白かったのは、出雲国風土記の国引き伝説である。この伝説を詳しくネットで調べてみると以下の通りである。

 八束水臣津野命(ヤツカミズオミツノノミコ))は、小さく狭い出雲国を何とか立派な国にしようと考え、海を隔てた新羅国に誰も使っていない余った岬があることに気づき、何とかあの岬を出雲国に引っ張ってくることはできないものかと考えた。そこで命は、幅の広い大きな鋤を取り出し、「えいっ」とばかりに岬を切り離し、岬に「三身の綱(みつみのつな)」という太く丈夫な綱をかけ、「国よ来~い、国よ来~い。」と叫びながら、やっとの思いで岬を引き寄せることが出来た。しかし、まだまだ出雲国は小さな国なので、もっと大きな国を造らねばと思ったらしい。「国よ来~い、国よ来~い。」と言いながら、命はそれは一生懸命あちらこちらの国々から余った土地を引き寄せては小さな出雲国を立派な大きな国に作りあげたという。
 この時、新羅国から引いた岬が現在の大社町「日ノ御埼」に、越の国から引いた岬が「美保御碕」になり、国引きに使った三身の綱が「弓が浜」となり、綱を結んだ杭の跡が「大山」となったと言われている。

 この大山という山、地図で見るとなんか平野にぽつんとあるような感じがするのだが、どうなのだろうか?いかにも国引きの杭になるよう感じである。司馬さんの記述にも、「大山は、海上からの目標でもあった。古代から幕末までの日本の航海術は「山見」といわれる方法だった。陸の景色(山々の姿)を見ながら船の位置を知って航海する沿海航行だったのである。明治以前の船乗りにとって、『山』というものの第一は、岬のことだった。岬以上の存在が、特異な形態をした独立峰だった。大山もそうだった」とある。
 それにしても大山(だいせん)とは変わった呼び方である。これにも司馬さんは言及している。
 「(大山は)本来、単に『御山』とよばれていたのであろう。接頭語として御は大(おほ)からきたといわれているから、上代の土地のひとびとは『大山(おやま)』という気分をこめてそうよんでいたかとおもわれる。
 ここに神仏習合の修験の徒がこもるようになり、『大山(おやま)』を呉音で『大山(だいせん)』と音ずるようになった。さらに山に大山寺(だいせんじ)ができてから、寺の名が普及し、ついには山の名も『大山(だいせん)』とよばれるようになったにちがいない」と。


 さてもう一つの「檮原街道(脱藩のみち)」である。わざわざ脱藩のみちと司馬さんいうのには訳がある。檮原(ゆすはら)街道とはかつて、土佐(高知県)か四国山地を伊予(愛媛県)へと脱け、その先の京・大坂へ、あるいは長州へと向かう道であった。つまり坂本竜馬たちがここを脱けて、幕末の志士として活躍するための第一歩だったのである。
 彼らが何故ここに土佐を脱藩し、京や大坂へ向かったのか?それを説明するのに土佐の複雑な事情説明しなければならない。
 今NHKの大河ドラマでやっている「功名が辻」の山内一豊だが、家康が、関ヶ原の戦いの前に自分に従うか、三成に従うか、秀吉恩顧の大名に聞いた。このとき、真っ先に「内府(家康)に従い申す」といったのが一豊であった。このことで、戦後一豊は家康から土佐一国もらうことになった。
 ところが土佐には地生えの大名がいた。長曾我部氏である。長曾我部盛親は無策のまま三成側についたため、家康から土佐一国を取り上げられてしまう。 盛親の先代元親は、四国全土を征服したのだが、この大規模な作戦をするためには兵が足らなかった。そのため屈強な農民を農民のまま武士にした。これを「一領具足」という。このためたいていの家の一族のたれかが一領具足になったため、どの土佐人も長曾我部侍であるという意識を持つようになった。これは司馬さんはフランス革命の国民軍の性格に近いという。このことが後々、土佐人の平等意識の萌芽となり、あの自由民権運動がここ土佐から始まることになる土壌が生まれた。
 従って主がいなくなっても、長曾我部侍が多く残ってしまった。山内家はこうした侍たちを召し抱えず、上方で家来を召し抱えてしまい、長曾我部侍は元の農民に戻らざるを得なくなってしまった。当然彼らの上には山内侍が君臨することになり、土佐人は支配者に対して慢性的に不満を持つようになった。こうした不満のガス抜きをするために、彼らを郷士としたが、基本的な解決策にはならなかった。
 郷士である彼らは、「もとは、おなじぞ」という平等意識を持ち続けたし、侍であることで書物を読み、武術を身につけ、政治や天下に関心を深めるようになっていった。
 こうした土壌があったからこそ、天下を憂いた坂本竜馬らは土佐を脱藩し、幕末の志士となっていったのである。あるいは自由民権運動の板垣退助を生んだのである。
 土佐を脱藩するためには檮原街道のを通っていったのであった。「檮原は、すでにふれたように伊予との国境いにあり、いくつかの関所がある。その関所番はみな檮原の郷士だったが、かれらの多くはすでに吉村虎太郎らと気脈を通じていて、関所破りをする脱藩者たちを見ても、みぬふりをした。「お町」の郷士だった坂本竜馬も檮原をへて脱藩しているのである。檮原には、そういう風がある」と司馬さんはいう。「檮原には、そういう風がある」というのは、関所番も脱藩者も「もとは、おなじぞ」という意識である。だからここからみんな出ていったのである。
 長州や薩摩の時もそうだけど、関ヶ原後、家康の支配体制の不満が、幕末になって爆発した感がある。


 『街道をゆく』27巻の「因幡・伯耆のみち」は週刊「街道をゆく」の49巻に、「檮原街道(脱藩のみち)」は1巻に収録されている。

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