2007年02月26日

大鹿靖明著『ヒルズ黙示録・最終章』

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 この本は、ライブドア・村上ファンド事件を取り扱ったルポである、と思い、それがこの本を購入した目的だったのだが、読んでいるうちに違う様相を呈してきた。この本はこの事件を通して東京地検特捜部の捜査方法批判した本だったことを知る。
 東京地検が堀江貴文を逮捕したのは、「偽計と風説の流布」という理由からだけど、最初こんなしょうもない罪状で東京地検は動くのかと正直思った。天下の東京地検特捜部が動くのだから、きっと他にもっと重大な事件があるものだと思っていたが、どうもそれ以上の罪状で起訴していないところみると、いったい何だったのだろうかと思っていた。
 その疑問をこの本は答えてくれている。特捜部と証券監視委が躍起になって調べていたのはライブドアのマネーロンダリング疑惑であった。何故ライブドアのマネーロンダリングを疑っていたかというと、当時の証券監視委の特別調査課長の佐々木清隆は金融監督庁の検査企画官だった1999年に不良債権飛ばし商品を販売していたクレディ・スイス・グループに本格的な捜査のメスを入れた。というのも、山一証券や北海道拓殖銀行が不良債権を隠蔽する目的のため、クレディ・スイス・グループの飛ばしデリバティブを利用していたからである。そしてライブドアもクレディ・スイス・グループを使った錬金術をしていた。そのため佐々木は「外資の不良債権隠蔽ビジネス」を放置できないと考えていたのだ。
 面白いのは、この当時の佐々木のパートナー検事が後の東京地検特捜部長の大鶴基成で、刑事告発を後押ししたのが、後の検事総長松尾邦弘であり、この三人がライブドア・村上ファンド事件でも連携していったのである。ここからこの両事件の「見込み捜査が」始まったといっていいようだ。
 堀江らを逮捕しても思うような供述が得られないと、地検は何をしたかというと堀江の「合コン」好きに目をつけ、強制猥褻、強姦、淫行、買春の疑いがないかまで調べたという。
 更に、村上世彰の摘発は、松尾検事総長の退任の花道を演出するために行われたともいう。思わず「えっ、ホントかよ」と疑いたくなってしまった。
 検察は、捜査の段階で、ライブドアのナンバー・ツー宮内亮治、幹部である中村長也の業務上横領・背任疑惑を知っていながら、それを隠蔽し、その代わり検察が描く「堀江主犯のシナリオ」に沿う供述や証言をさせた可能性が高いという。
 そもそも証拠に基づいて捜査が行われているものと一般的には思われているが(またそうでないと困る)、特捜部の捜査の実態は、あらかじめ「スジ読み」されたストーリーに沿って、証拠や供述を取ってきて、それをパズルのように組み立てるものなので、今回のこの両事件も東京地検特捜部によってかなり作られた部分がうかがえるというのだ。著者はこれは東京地検特捜部の捜査手法の限界の表れだという。今司法制度改革が進み、弁護士の数が飛躍的に増え、裁判員制度も採用されるほど、弁護士と裁判所が変わろうとしているなか、時代に取り残されたままなのが検察庁だと言い切るのである。
 どうして時代に取り残されてしまったのかというと、「選挙違反や贈収賄で脛に傷を持つ政治家は、触らぬ神にたたりなし、と手をつけない。談合や粉飾が横行している経済界も何も言わない。ネタもらいに汲々するジャーナリズムはめったに批判しない。それどころか、戦時の従軍記者のように、過剰に戦果を書きたてる。批判がない組織は、自制がない。霞ヶ関のアンタッチャブル、東京地検特捜部はまるで現代の『関東軍』のようだった。いったん暴走すると誰も止められず、しかも誰も責任をとらなかった。検察を抑制する仕組みが不在なのは問題だ」と言い切る。確かにこの事件が、著者の言う通りなら、これはかなりやばい状況だ。「巨悪を許さず」はとうの昔のことなのだろうか?

 検察批判もこのように考えさせられるところがあったが、いったいライブドア事件は一体何だったのだろうか?そもそも堀江貴文という人物はどんな実像をもつ人物なのか。
 著者もライブドアを「チンピラ集団」と断じている。堀江に至っては、「着眼力に優れ、蛮勇ともいえる勇気はあるものの、それを安定的なキャッシュを生みだすビジネスに転化させていく具体的な戦術には乏しかった。通常の会社では当たり前な中間管理層が育っておらず、個々のビジネスをマネジメントする層が乏しかった。ライブドアが手がけた新規ビジネスの多くが、当初の思いつきはそれなりによかったものの、結果的には撤退したり、低迷したりしているのは、そうした理由が挙げられる。堀江に最も欠けていたのは、大組織をマネジメントする経営能力だった」と言うのである。
 ライブドアが東証マザーズに上場してから、しばらくの間業績が伸び悩んだ。ホームページ制作に代わる事業の柱が見出せずにいた。そこへ宮内らがトップの堀江の経営者としての限界を何とかカバーしようとして、「自社株食い」という「禁断の果実」に手をつけた。
 その後、コーポレット・ガバナンスを訴える「正義」の顔がある反面、したたかな仕掛けをして株を売り抜ける貧欲なファンドマネージャーという「悪魔」の顔を持つ村上世彰という人物が関わってくる。脱法的なニッポン放送株奪取には村上の知恵に負うところが大きかったはずだ。この時点で堀江は村上が操る「ヒルズの踊り子」に成り下がってしまったのである。

 そうした堀江たちを団塊の世代以上の人たちは嫌ったのである。彼らの逮捕はそれを物語るし、密かにそれを喜んだのだ。何故なら額に汗してお金を稼がない彼らの金の儲け方に胡散臭い部分を感じていたし、人が稼いだ人のお金を使って儲けていると思っているたところがあったはずだからだ。(それでいて自分ではせっせと金儲けのために投資する) ライブドア事件は「この国の最大の対立軸のひとつが『世代間闘争』であることを改めて見せつけている」と著者が言うのも、ここまで読んでみて、納得できるものがある。
 莫大な借金を抱えたまま、人口が減少するこの国で「額に汗する人」だけでは国際競争には勝てない。それに反旗を翻した堀江や村上を(手法や能力には問題はあったかもしれないが)団塊の世代以上の人たちは、ありもしない罪をかぶせて切り捨てたのである。そして自分たちは国富を使い尽くし、莫大な退職金や年金を手にし、自分たちの子供に「貧乏国家」で暮らすことを強い、あるいは官庁や企業にそのまま居座ることで、子供たちにフリーターやニートになることを強いているのだ。多分これがライブドア事件が持つ、別の顔なのではないだろうか?


書誌
書名:ヒルズ黙示録・最終章
著者:大鹿 靖明
ISBN:9784022731135 (4022731133)
出版社:朝日新聞社 (2006-11-30出版) 朝日新書
版型:222p 18cm 新書 判
販売価:777円(税込) (本体価:740円)


評価
★★★

2007年02月22日

飯倉晴武編著『日本人のしきたり』

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 この手の本は、読んでいて、へ~え、そうなんだ!と思い知ることが多い。普段何の疑問も感じないで、習慣や行事、あるいは冠婚葬祭を執り行っている。けれどよく考えてみると、どうしてこうなんだと疑問を感じてもいいところがある。何故こうしなければならないのか、その由来など知っておいてもいいものが結構あるような気がする。この本はこうしたよく考えてみると、不思議な習慣、行事、冠婚葬祭など、何故今のような形になったのか、あるいはその由来を教えてくれる。
 もともと「太古の日本では、あらゆる自然に霊魂を認め、それを畏怖し、崇拝するアニミズムと呼ばれる原始信仰が生まれます。やがて卑弥呼に代表される巫女など、神のご託宣を受けて物事を決めるシャーマニズムに発展していきました。
 一方で、狩猟採集生活をしていた日本人も、米の伝来にともなって農耕生活へと変わっていきます。農耕生活はとりわけ、人間の力の及ばない自然現象に大きく左右されます。天候不順や自然災害による不作はまさに死活問題で、それらを神の怒りと考えたのも無理からぬことでした。そこから、あらゆる自然の営みに神を見いだし、崇める傾向がさらに強まっていったと思われます。
 また、農耕社会で定住生活が始まると、土地に対する信仰も強まっていきます。自分たちが生まれた土地を守ってくれる神を「産土神」と崇め、産土神を祀る社を作るようになっていきました。さらに古来の先祖信仰も合わさって、日本ならではの神々への信仰が根づいていったと考えられます」と著者は日本の信仰の原点を説明するが、これに仏教、中国古来の思想が加わって、日本独自に変化していったものと思われることを各所で説明する。

 昔から日本人は、ふだんどおりの日常生活を送る日を「ケ(褻)」の日と呼び、これに対して、神社の祭礼やお寺の法会、正月や節句、お盆などの年中行事、冠婚葬祭を行う日を「ハレ(晴れ)」の日として、単調になりがちな生活に変化とケジメをつけていた。
 「ハレ」のときは、日常から抜けだして、特別な一日を過ごす。ハレの日用の着物(晴れ着)を着たり、神聖な食べ物である赤飯や餅を食べたり、お酒を飲んで祝ったりして、特別な日であることを示したのである。
 一方「ケ」はふだんどおりの生活を送る日ですが、「ケ」の生活が順調にいかなくなることを「気枯れ」、つまり、「ケガレ」になるとし、特に死や病、出産などはケガレと考えてきた。(なぜお産がケガレかというと、医療が発達していない時代のお産は母子とも死の危険をともなった一大事だったから)
 日本では神話期からケガレを忌み嫌い、神に近づくのにふさわしい体になるために禊ぎをし、身のケガレを取り除いて清め、お祓いをした。そして、このケガレを取り除いた状態が「ハレ」だったのである。

 この本は「正月のしきたり」、「年中行事のしきたり」、「結婚のしきたり」、「懐妊・出産のしきたり」、「祝い事のしきたり」、「贈答のしきたり」、「手紙のしきたり」、「葬式のしきたり」、「縁起のしきたり」と章を分けて、具体的に説明していく。
 たとえば「正月のしきたり」のなかでしめ飾りに何故しめ縄、ウラジロ、ユズリハ、ダイダイをあしらってあるかといえば、ウラジロは常用の葉であることから長寿を、ユズリハは新しい葉が出てきて初めて古い葉が落ちることから、次世代に家系を「譲って絶やさぬ」という願いを込め、ダイダイは家が代々栄えるようにといった縁起物として、しめ飾りに使われるようになった。これらウラジロ、ユズリハ、ダイダイは鏡餅にも同様の願いで飾られている。
 まためでたい初夢を「一.富士、二、鷹、三、茄子、四、綿、五、煙草・・・」というが、何故そうなのかといえば、これらすべて駿河の名物であって、これは当時天下を取った三河出身の徳川家康にあやかりたいという庶民の願望があって、こうした夢を見ようとしたものだという。
 「結婚のしきたり」では、披露宴を待つ間出される桜湯がお茶でなく、何故桜湯なのかは、お茶は「お茶を濁す」に通じるということで敬遠され、見た目も、縁起もいいということで桜湯を出すようになったという。また結婚披露宴で「引出物」を渡すが、これをなぜ「引出物」というかというと、平安時代の貴族の間では馬を引き出して贈ったというのがその語源。
 「祝い事のしきたり」では満60歳になると「還暦の祝い」を行うが、何故60歳が還暦なのかを説明する。
 かつて日本人は十干(甲・乙・丙・丁・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛・壬(じん)・癸(き))と十二支(子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い))を組み合わせて甲子(きのえね)・乙丑(きのとうし)等60種のよび名を作り、生まれ年から時刻、方位など、様々な事象を表してきた。昔は数え年で年齢を数えていたので61歳で再び生まれた年の干支に一回りして戻る、つまり還暦となったから、「生まれ直すこと」を祝い、赤ちゃんの時着ていたような赤い頭巾とちゃんちゃんこ贈って、無病息災を祝福するのである。
 「手紙のしきたり」では、「拝啓」で始めると、「敬具」で締めるが、「拝啓」は「拝=つつしんで」「啓=申し上げる」という意味で、「敬具」は「敬=つつしんで」「具=申し上げました」という結びの意味だそうだ。また時候の挨拶を省略する場合、「前略」で始めて、「草々」で終わるが、この「草々」とは「ぞんざいな走り書きで、失礼します」という意味だという。
 「縁起のしきたり」では、厄年の事例を説明する。厄年は、男は42歳、女は33歳だが、この42歳は「死に」、33歳は「散々」に通じるということで、大厄とされた。元々は平安時代の陰陽道の考えに基づいて広まったものだが、一般的に男女ともこの年齢になると、体調の点でも、社会的役割の点でも大きな変化が起こりやすいため、この信仰がいまだに影響を与えているという。

 ということで日本の習慣、文化にある決めごとには深い意味があることを知る。


評価
★★★


書誌
書名:日本人のしきたり
著者:飯倉 晴武【編著】
ISBN:9784413040464 (4413040465)
出版社:青春出版社 (2003-01-25出版)
版型:200p 18cm 新書 判
販売価:700円(税込) (本体価:667円)

2007年02月21日

紀田順一郎著『内容見本に見る出版昭和史』

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 内容見本とは、出版社の企画本、あるいは全集の内容、特色などを記したもので、我々はどちらかといえばパンフレットと呼んでいた。こうした本は定価が高額になるので、買う側も一大決心が必要だが、作る側も膨大なコストをかけて、時には社運をかけて企画、発行する。だから当たれば、それまで左前だった会社が、立ち直ったり、あるいはつぶれてしまったりすることもある。だからこうした内容見本には当然力を入れるのだろう。ここに紹介されている内容見本はそうした意気込みが感じられるものが多い。ページ数も多いし、紹介文もちょっとしたアジテーゼ的な過激な文章のオンパレードである。
 しかし最近はそんな内容見本はあまり見かけないのではなかろうか?我々がパンフレットと呼んでしまうくらいだから、ほんと見開きだけのものが多いような気がする。どちらかといえば、現物見本や束見本(本の厚さ、紙、表紙など どんな感じになるのかをつかむためのもので、 中身は数ページ印刷されているが、後は白紙の状態で製本されたもの)を見せて、直接ビジュアル的にアピールするのが多かった。
 話は自分の体験になっちゃうのだけど、その昔講談社から『日本の天然記念物』というシリーズ本が出版されたのだが、これを拡販するため、パンフレットを持って、朝、秋葉原の駅前で問屋のやつと配ったことがある。その惨めさが今も甦る。今にして思えば、朝みんな急いでいるときにそんな訳の分からないパンフレットなど受け取るわけがないのに、反応が鈍いことを嘆いていた。前日から用意したパンフレットに自分の店のゴム印を押して準備したのに、予約が取れたのはたった1セットのみ。しかもその1セットはパンフレット一緒に配った問屋のヤツが買ったものだ。だいたい数を配ればいいというくらいの効率の悪さでは宣伝効果あるようには思えないのだ。

 というくらい、出版物の内容見本なんて、興味のないヤツには無用の長物のなにものでもない。お店でもよく出版情報と一緒に送られてくることがあるが、ほとんど捨ててしまう。
 もちろん中には興味を持ってくれるお客さんもいるわけで、そういうお客さんは内容見本を注文される。そんなお客さんは定期購読に結びつく可能性は大きいので、せっせと注文書を書いたものだ。

 こうした企画本や全集は豪華で重厚な装丁が施されている。出版社の側でも社運をかけているから、ぞんざいなもの作れない。当然外観も凝ったものが作られる。だから内容見本の中身に、「瀟洒な新式の装幀で書斎の一美観」(大正14年に発売された改造社の円本(1冊1円)である『現代日本文学全集』)や、「書架に重量感をもたらす豪華造本」(河出書房の『世界思想教養全書』)と付け加えられる。要するにこれらの全集や企画本は、成金趣味の人にはどれどれと思わせるところがある。

 また思い出したのでけど、昔本屋でアルバイトを始めた頃、様々な全集を定期購読している人がいて、発売されるたびに、配達していた。購読者はここの社長さんらしく、いつも秘書の人が受け取ってくれた。ある時いつもの人がいなくて、知らない人が受け取ってくれたのだが、その人が言った一言が今でも記憶に残っている。「まったく、こんなに全集を買ってどうすんだろう?ただの飾りだろう!」とぼそっと言ったのだ。言われてみればそうかもしれない。社長室の書棚に仰々しく飾っておくにはいいかもしれない全集だなと思ったものだ。内容見本が作られる本はステイタスシンボルにもなる。

 それにしても企画本や全集が本当に数多く出版されてきたんだなぁと思っちゃう。出版社も大した特色もなく似たようなものを出し続けてきたのだ思った次第だ。そのなれの果てが、全集の端本を古本屋の100円均一ワゴンで見かける。まるでこれで買ってくれる人がいなければ、捨てられるのを待っているかのようなたたずまいだ。
 私の好きな夏目漱石の全集はこの本によると没後35種類も出ているらしく、作品集や叢書類を含めると50種類以上になるという。まぁお札にもなるくらいだから人気があるのは分かるが・・・。そういえば岩波書店が経営が悪化すると漱石全集を出すといううわさを聞いたことがあるが(本当かどうか知らないが)、何となく真実味があるように思っちゃうのは私だけだろうか?
(今回は本の内容より思い出話が主流になりました。というのもただ読んでいて、ふ~んと思うだけなので、面白くなっかたからです)


評価
★★


書誌
書名:内容見本にみる出版昭和史
著者:紀田 順一郎
ISBN:9784938463243 (4938463245)
出版社:本の雑誌社 (1992-05-10出版)
版型:301p 19cm(B6 判)
販売価:1,835円(税込) (本体価:1,748円)

2007年02月16日

阿部謹也著『ヨーロッパを見る視角』

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 今回はこの本を元にヨーロッパにある「意識」あるいは「原理」はどのような形で生まれてきたのか考えてみたい。
 阿部さんは、ヨーロッパを見る見方として、二つの視点があるとしている。一つは、日本という国や社会をどうしていくべきかという問題点から出発して、先進地域としてヨーロッパから学ぼうという視点。もう一つが現実のヨーロッパがどういう地域で、これからどう変わっていこうとしているのかという視点である。
 阿部さんは日本という社会がヨーロッパと異なった特質をもつ社会であるという前提から、まず日本の社会を分析し、その結果からヨーロッパを見ようとする。その比較検討する際、まず比較すべき相手と自分たちの共通点探し(ここではどんな社会でも原点に置いて相通ずるものがあるはずだというところから始める)、どこでどう違ったのか見極めようとする。
 阿部さんは現代日本では未だ「世間」という意識がはびこり、日本社会の特色をなしていることを指摘する。つまり日本の現在ではヨーロッパ風の社会が部分的にしか成立しておらず、古来「世間」という独特な人間関係が日本では支配的な状態であることを指摘するのである。
 ではその「世間」という定義はいかなるものなのであろうか?「世間」とは個人と個人を結びつけている絆ではあるが、その「世間」が個人の行動を評価する最終的な場であって、そこには個人尊厳や意思などほとんど存在しない。「世間」の目が一個人だけでなく、その個人が属する社会や家族まで、本来直接は関係なくても、及んでしまうのである。未だに「世間が許さない」という言葉が生きているのがいい証拠であろう。
 こうした人間関係(個人が集団=世間に埋没した関係)はかつてヨーロッパにも存在した。しかしこのような人間関係はヨーロッパでは11世紀以降崩壊する。その過程は次のようであった。その崩壊する過程を説明したい。

 中世ヨーロッパで「世間」の役割の中で最も重要な役割を演じていたのが贈与慣行である。中世ヨーロッパでは富を持っているだけでは力にはならなかった。それを分配することで、人間関係を豊にしていく。富を受け取れば、贈与慣行の社会であるから、当然お返しをしなければならない。しかし貧乏人にはお返しをする能力がないから、奉仕でお返しをする。こうして様々な労働力や武力を集めることが出来た者が有力者となれたのである。
 ところがキリスト教の普及により、この「あげる」、「もらう」という関係の中に神が入ることとなった。つまり、キリスト教の彼岸信仰が、たとえば教会や修道院に全財産を寄進すれば、来世において永遠の救いにあずかれるということにしてしまった。そしてそれ以外の贈与慣行を整理してしまう。当然今までの贈与慣行で成立していた人間関係は崩壊してしまう。これがヨーロッパが「世間」から離陸した第一歩となっていったのである。
 この来世において永遠の救いはそれまでの慣行を一新し始める。11世紀以前のヨーロッパでは人々は死後も彼岸で厳正と同じように生きていくと考えられた。だから彼らは死後の生活のために財産を埋めておく習慣があった。
 しかしキリスト教はこうした財産の埋蔵をやめさせた。キリスト教は最後の審判は現世でのおこないで天国か地獄かと振り分けたので、現世で得た財産を教会や修道院へ寄進することが、天国への道を開くと教えたのである。これはキリスト教が及ぶ限り、埋蔵財産がなくなり、それを流通過程に戻す役割を演じ、商業の復活の一因ともなった。

 次に問題となるのが、カロリング・ルネッサンス(8世紀~9世紀)である。従来の学説では、カール大帝が非常に学芸に関心があり、それで学問を興したとされるが、どうもそれはおかしいと阿部さんは言う。
 カロリング・ルネッサンスには、カールの隠れた目的意識があった。それはキリスト教の教義に合致したかたちでフランクの社会を変革していくこと。それを持って、国家と大衆の距離を埋めようとする目的を持っていたとする。
 その模範となってのが、古代ローマ帝国であって、カールは古代ローマ帝国を形成した文化の根源がキリスト教だと見て、これを使って、キリスト教の教義の基づいた一つの社会を築こうしたのである。これはいってみれば、「一つの社会に洗礼が行われた」といっていいほどの大変なことであった。
 このことは当然「世間」とは相容れない。何故なら、それまでの伝統や慣習に基づくものが「世間」であるから、それを駆逐しなければ、成立しないものであるからである。
 キリスト教の教義と大衆との間に走っていた大きな溝とは、罪の意識であった。そこで罪の意識と大衆の国家観をうまく結びつけないとならない。
 従来キリスト教ではアダムとイブが神の怒りをかり、楽園を追放されてから、人間は罪にまみれることとなった。楽園の中では人間は自由人であり、何の桎梏も拘束なかったが、アダムとイブが楽園を追放されてからは、人間は不完全な存在となり、その後生きるものは国家という桎梏を甘受しなければならなくなってしまった。こうして我欲と支配、圧迫の上に立てられた神に背いた者の共同体が国家というものだとされてしまった。
 ただこれではあまりにも厳格すぎるものだから、グレゴリウス1世は、支配は救済の手段であり、あの世で天国に行けるために国家は手助けするものだという解釈にしてしまうのである。これを大衆に自覚させ、教化させるのが伝道であった。こうして国家という世俗権力と結びついたキリスト教が広まっていく。一方で今度は大衆がキリスト教の教義や政策にがんじがらめの状況が生まれてくる。
 たとえば、1215年のラテラノ公会議で農民から国王まで成年男女すべてが年に1回は自分が犯した罪を告白しなければならないとされると、それに従うようになる。この告白は当然自分の内面を調べて語ることになるので、これは自己の形成を促すことになる。そしてこうした自己の形成は個人の誕生となっていくのである。個人の原点はここにある。

 一方でヨーロッパのヨーロッパである根源は、中世都市にあるのではないかと、阿部さんは自分の先生でもあった増田四郎さんの著作を引用しながら、話をすすめる。
 三圃農法の普及により、農業の生産力が上がり、その余剰生産物が商業へと結びつく。商人は各地の農村から逃げてきた、出身も定かでない人々がブール(城とか城を中心とした集落)のそばに住んでいた。彼らは農村のように先祖伝来顔見知りで、親子代々知っているような人間集団ではない。その彼らが自分たちの法律(掟)を作って、暮らしていた。これが後の商法、海商法の起源となった。
 商人は最初領主に税を払って、保護してもらいながら定住していた。しかし領主の横暴により、領主と対立することも多くなり、そのためには商人は手工業者とともにまとまる必要性が出てきた。この際、「誓約」をとって対抗した。
 この「誓う」というのは、キリスト教の教義に基づいて、神に背いたり、うそを言ったりしたした場合、自分が死んだら地獄に堕ちても構わないと、自分の死後の救済をかけて誓っているのである。逆にいえばそれだけ強固な意志の元で団結していくことになる。
 こうして都市の中で団結した人々は、市民独自の文化を作り上げていくことになる。ヨーロッパ近現代の原理である、自分たちは国家の一員であり、同時に階級の一員であり、コミュニティーの一員であるという意識を生み、日本が未だ残している「世間」とは別な意識が存在することとなったのである。

 この本はこうしたヨーロッパと日本の意識の違いを歴史的にうまく説明されていてなかなか興味深いものであった。


評価
★★★

書誌
書名:ヨーロッパを見る視角
著者:阿部 謹也
ISBN:9784006031459 (4006031459)
出版社:岩波書店 (2006-12-15出版) 岩波現代文庫
版型:344p 15cm(A6)
販売価:1,155円(税込) (本体価:1,100円)

2007年02月14日

海堂尊著『ナイチンゲールの沈黙』

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 『チームバチスタ~』の第二弾(二弾なのかなぁ?もう一作新刊が出ていたが・・・。)アマゾンのカスタマーレビューだったか忘れたけど、この白鳥、田口のコンビの二作目を期待していた書き込みがあったが、その要望に応えた訳じゃないだろうけど、この二人が今回も登場する。
 読んでいて、あれ?文章がうまくなっているとまず思った。前作は荒削りで、笑えるのは笑えるのだけど、流れに任せて書かれていた。だからくどさがつきまとったような気がしたのだ。今回はその点抑制がきいていて、読んでいて心地よく、笑いも素直に受け入れられた。
 別に自分のこの拙い文章を棚に上げて偉そうなことを言うつもりは更々ないが、前作と比べて文章に進歩が見られるとうれしくなる。

 さて、今回も不定愁訴外来の田口公平が勤める城東大学医学部付属病院で事件が起こる。その小児科の入院患者の牧村瑞人の父親が殺される。このオヤジ、リストラされてから、借金はするは、酒浸り、虐待と、どうしようもない状態で、殺されても仕方がないのだが、その殺され方が、まるで解剖でもされたような殺され方であった。
 その事件担当が厚生労働大臣官房秘書課付技官・医療過誤死関連中立的第三者機関設置推進準備室長(まったく何と長い役職なんだ!こんなの名刺に収まるのだろうか?)の白鳥圭輔の大学時代のポン友加納達也であった。加納は最新のデジタル技術を駆使して、殺人現場をパソコンで再現して、犯人を追う。まぁそれはそれでいいし、実際の捜査では多分使われているだろうと推測するが、でも小説としてこれをやられると面白くなくなる。
 つまり、こうしてデータを駆使して、パソコンの画面で再現され、そこのデータから犯人が誰であるか、その確率を算出し、そのデータに合致、もしくはそれに近い数値(たとえば身長とか、年齢、性別とか)の人間が犯人だとしてしまうと、もうそれだけで話が終わってしまい、面白くも何ともない状態になってしまう。これからの推理(警察)小説はリアルに描こうとすれば、多分こうした最新技術による謎解きと、小説の面白さをどう共存させていくか、大変なことになっていくのだろうと、この本を読んでいてそう思った。
 幸い田口や白鳥、加納のキャラクターが面白いので、何とかこの本は面白味を保っている。ただ前作同様、特殊な状況、非現実的、あるいは納得しがたいところで話の落ちがあるので、イマイチな感じになってしまう。


評価
★★★


書誌
書名:ナイチンゲールの沈黙
著者:海堂 尊
ISBN:9784796654753 (4796654755)
出版社:宝島社 (2006-10-21出版)
版型:413p 19cm(B6)
販売価:1,680円(税込) (本体価:1,600円)

2007年02月03日

北尾トロ著『キミは他人に鼻毛が出てますよと言えるか』

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 これでトロさんの最後の本。しかしこれは最高に面白かった。回を重ねるたびに面白くなってきて、今回は本当にのびのびと書いているから、大笑いできた。この本のコンセプトは次の通り。
 日常生活のなかに「やってみたいけど、ちょっと勇気がいる」、「ついためらってしまう」些細で微妙な、ほとんどどうでもいいことで、やってやれないことはないが、少々度胸がいり、恥ずかしさに打ち勝たなければならないことを、今回やってみようということなのである。だから普通やらない。けれどどこかでやってみたいという願望がある。そういったことを今回トロさん自身がやってみようというわけである。
 具体的には、知らないオヤジに話しかけ飲みに誘う。ゴールデンウィークのお台場で孤独な男たちと人生を語り合いたい。公園で子供たちと遊びたい。電車でマナーの悪い乗客をしかりとばす。激マズそば屋でまずいと言う。馬券売り場のベンチを陣取るオヤジに着席権を主張する。ちょい知り他人に「鼻毛が出てますよ」と言う。皐月賞に30万円1点買いをして、JRAの封印付きの札束を手にする。人前で自作の詩を朗読する。就職活動をする。高校時代好きだった女の子に今になって好きだという。母親の恋愛時代の話を聞く。高校時代イジメた担任教師に謝るなどである。
 最初の2つは、確かに急に見も知らぬヤツが近寄って話しかけたら、そりゃあ警戒するわなと思うから、トロさんに話しかけられた側の態度は、怪訝な顔をして当然無視する。これは私もそうだろう。腹の中では「なんだこのオヤジ?」と思うはずだ。まず知らない人間が話しかけてくるなんてシチュエーションは想定していないからだ。
 大人が子供と遊びたいというのも難しい。確かに子供と遊ぶのって楽しい。昔息子が小学校の頃、一緒にバトミントンをやっていて、そこに息子の友達が来て、一緒に遊んだときことを思い出すと結構楽しかった。トロさんの気持ちはよく分かるが、今の時代変なヤツが多いから、子供の方も親や学校で嫌というほど注意されているはずだ。そんなオヤジが来たら充分警戒するだろう。そうそうつきあってくれるわけがない。まずは自分が変なおじさんでないことを相手に分かってもらう努力をしないといけない。それがなかなか難しい。何度か失敗し、やっとの思いで三角ベースの野球に参加させてもらっている。
 電車の中でのマナーの悪さは深刻だ。トロさんが遭遇したのはロン毛のあんちゃんたちで、携帯電話で大声で話すは、足を組んでそのかかとが当たるは、最悪である。トロさんもそうだし、その他の乗客も苦々しく感じている。注意したいけどつるんでいる奴らから逆ギレされるんじゃないかとか、いろいろ考えてしまう。怒りたい。怒らねばならぬとものすごい葛藤である。そして我慢ができなくなって「いいかげんにしろ!」と怒る。怒られた側は最初きょとんし、文句を言いつつ、静かになり、携帯をやめる。
 嫌だったのはこの後である。トロさんが電車を降りようとしたとき、このロン毛たちがトロさんを腹いせに押したのである。当然トロさんは前に手をついて倒れる。電車はそのまま駅を出る。そのとき電車の中の乗客たちがトロさんを見て、笑っているのである。さも余計なことをしたからそうなったんだといった感じで。マナーの悪い乗客より、こちらの方がたちが悪い。たぶんこれが現実なんだろう。
 近所のそば屋は夜遅くまでやっていて便利なのだけど、激マズの店である。そこでここは一発言ってやらねばと思い、悩むのだが、なかなか言えない。そりゃぁそうだ。まずいと思ったら、次から行かなければいいのだ。で、やっとの思いでトロさんが言った言葉は「味が濃すぎませんか」、「もう少しなんというか、食べやすい味にしてもらえば、ありがたいというか」である。まぁそんなもんだろう。お金を払っているのは客であるトロさんなんだからもっと言えるはずだけど、やっぱりここまでだろう。むしろよく言った方である。
 相手のことを考えたりすると言っていいはずのことが、言えないのである。電車の中で「ブラのひもが見えていますよ」も言えない。言えばトロさんが言うように「このエロオヤジ」とあらぬ誤解をされかねないからである。笑ったのは次である。
「でも、まだブラはいい。夏になると、もっと絶望的な状況にブチあたるのだ。
 腋毛の剃り残しである。何日か手入れを怠っているうちにプチプチ伸びてきた腋毛。ノースリーブを着た相手はまったく気づかずに髪をかきあげたりしている。その一瞬を見逃さず、剃り残しを発見してしまったオレの目のバカバカ。
 言えん。絶対、無理だ。そして、その結果、彼女はヘタすりゃオフィスや通勤電車内で、男どもの好色な視線を浴び続けることになるのである」
 同姓の友達同士なら、それは指摘しあうのだろう。友達なら言える範囲がぐ~んと広くなってくるからだ。でも男同士でも、前にいる男の鼻毛が出ていること気になっても、やっぱり「鼻毛が出てますよ」なんて言えない。それを指摘された人はものすごいショックだろうと思うからだ。まぁ気になってもやり過ごすのが無難と言うことになっちゃうわけだ。
 とにかくどうしてこんなことを思うのかあきれちゃうのだけど、それが面白い。人前で自作の詩を読むというもの。
「これはたまりませんよ。自分がそれをやると考えただけで赤面っス。
 だってさあ、詩だよ。詩人の方々には申し訳ない、悪意などないんだけど、個人的には、これほど人に言いづらい職業は珍しいと思う。たとえば女のコに尋ねられたらどうするんだ。
『何をやっている人ですか?』
『詩人です』
『は?』
『詩人なんです』
『は、はぁ・・・・詩人さんですか』
 変わり者だと思われても女のコを責めるのは酷な気がする。だいたい職業を聞かれてためらいもなく『詩人』と答えるだけで、いまの日本では相当の開き直り、ガッツというものを要するのではないか」
 これは言えてる。もし私が相手の職業を何らかの理由で尋ねることがあって、尋ねたら「詩人」ですと答えられたら、次の言葉が出てこないと思う。
 でトロさんは自作の詩を披露するのである。これがまたよくわからない詩なのだが、それでも、詩を作り、披露することに一時はやみつきになってしまうあたりが面白い。
 長くなっちゃったけど、最後にもう一つ。トロさんが高校時代好きだった女の子(もう主婦で子供もいる)を何とか探し当て、高校時代好きだったことを告白するというもの。 再会して話しているうちに、もうかなり昔のことだから、割とさらりと言える。ところがその人からも「私も好きだった」と言われてしまう。そこから様々な妄想が始まる。もしあの夏好きだと言っていたら、自分の人生はどうなっただろうかといった感じで。問題は次の文章である。
「ぼくたちは、それからも精力的に話をした。外はとっぷり暮れてきて、あとわずかで夜に突入する。食事に誘うのが礼儀だろうか。いやいや。やめておこう。いまのテンションで食事なんかしたら、頭の中が17歳になったぼくは何をしでかすかわかりゃしない。クラス会などで再会した分別ある男女が、盛り上がって思わず不倫してしまうのは、きっとこんな状態のときだと思う。夢を見ている感覚なのだ。
 ぼくは吉野さんと不倫したいのか自問してみたけど、答えはノーだった。きれい事を言うわけじゃないけど、ぼくは彼女が幸せそうで満足なのだ」
 クラス会の後の不倫の過程は笑っちゃうが、後半は文章的にトロさんらしくない。でもこれはきっと本音なんだろうと思う。常識人なのだきっと。トロさんは・・・。


評価
★★★★


書誌
書名:キミは他人に鼻毛が出てますよと言えるか
著者:北尾 トロ
ISBN:9784344407992 (4344407997)
出版社:幻冬舎 (2006-06-10出版) 幻冬舎文庫
版型:307p 15cm(A6)
販売価:630円(税込) (本体価:600円)

2007年02月01日

北尾トロ著『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』

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 トロさんの本第三弾。この本以前持っていたはずなのに、探したのに私の本棚にない。で、仕方がないので、文庫本を買った。前作と比べこれは面白かった。

 この本は、トロさんが裁判所ウォッチャーとなって、大事件からこそ泥、詐欺、わいせつ事件、あるいは離婚訴訟などの裁判を傍聴したルポである。被告にとってみれば、死刑と無期では雲泥の差があるし、執行猶予がつくかつかないかでも同様であるから、それこそ必死に自分が犯した罪に対して、裁判官に様々な手段で訴えかける。それこそ人生がかかっているわけだから必死である。それが言い過ぎや嘘など、無理があるものだから、ほころびが出てしまい、逆に墓穴を掘ることになってしまう。
 そして裁判で人生をかけているのは被告人だけじゃない。検察、弁護人も同様である。検察も傍聴者(トロさんはギャラリーといっている)多ければ、俄然張り切っちゃうようだし、弁護人も、国選になれば裁判1日につきいくらとなので、やたら裁判を引き延ばしたりするらしい。被害者の側からすれば、そんないい加減なことをやられたんじゃかなわないけど、裁判官も検察も弁護人も人間である。毎日いくつもの裁判があり、それにいくつも立ち合うのだから、中にはだれてしまうことだってあるだろうし、それこそ人間の見たくない部分をあからさまに見てしまう訳だから、いい加減嫌になっちゃうのではないか。検察がいう秋霜烈日なんて、いつも持っていられるものじゃないのかもしれない。(そうでないことを祈りたいのだが・・・)
 それでもやっぱりここに出てくる被告人が面白い。通常我々は裁判に関わることはないから(これから先は違うようだが・・・)、事件の裁判が報道されれば、それに基づいて、どうしても被害者側に立って、判決を聞く。もしかしたら自分も加害者や犯罪者になる可能性があるにもかかわらず、そんなことは考えず、逆に自分が被害者になってしまう方を怖れ、もし自分が被害者の立場に立ったらと思うと、どうしても被害者の側でものを見るのである。だから厳罰を望むのだ。もちろんそれはそれでいいのだけど、加害者である被告はそうではない。特にじたばたする被告は、何とか厳罰から逃れたいから必死だ。けれどやっちゃうんですね。やりすぎちゃうんですね。嘘や涙、心にもない反省が、逆に検察や裁判官につかれちゃう。あるいはギャラリーであるトロさんに「こいつ絶対にやっている」、「またやるよ」と思わせたりする。
 笑ったのは、交通事故の裁判で、被告人は「申し訳ない」と言っているのだが、その被告人、右腕と背中に白抜きのドクロマークの入った黒のトレーナー着て、そう謝っているのである。トロさんは言う。「単なる傍聴人でさえ目を疑うデザイン。検察や裁判官が気がつかないはずがない。何も考えず、いつもの服を着ただけですってのは通らんよ。それはキミの事情。世間はそうは見ない。いくらうなだれていようとドクロ男。この服を選んでしまうデリカシーのなさに、事件に対する姿勢を嗅ぎ取ってしまうのだ。遺族の神経を逆なでしているとしか思えない」と。どこか間が抜けてしまうのだ。
 被告人になるヤツにはキャラクター好きが多いらしく、傷害致死で訴えられた男が、背中に笑顔のミッキーマウスがポーズを決めている白のスエットを着て証言台に立って、自分はやっていない言っている。トロさんはそれだけで嘘っぽい。自分が裁判官だったらミッキーの分は刑期が延びる。半年は追加したい。と言っているのも笑った。
 これらを読むと、ああ、やっちゃったぁ!と言いたくなる。そういえば最近同じ感想を持った。今話題の厚労大臣の「女性は子供を産む機械だ」という発言だ。社民党の議員が目くじらたてて言っているように、大臣が普段から女性蔑視の考えを持っているから、本音が出たと言っているけれど、果たしてその通りなのか、真相は本人しか分からない。けれどたとえ話であっても、これはしゃれにならない。このとき私は「ああ、言っちゃった!」と思ったのだ。別に大臣を擁護するつもりはないが、これなんかもある意味過剰な演出がそういわせたのではないかと思うのだが、どうだろうか・・・。人口統計を説明するにあたり、女性を子供を産む機械にたとえればきっと分かりやすいに違いないと思っちゃったんだろう。もしかしたらなかなかいい発想じゃないかなんて思ったかもしれない。もちろんちょっと考えれば、言っていい例えではないことなのだが、舞い上がっちゃったでしょうね。

 このように裁判はそこにいる人たちの人生を凝縮しているから、悲劇、喜劇、残酷、無慈悲、敗北等を垣間見せてくれる。それがトロさんみたいな裁判所ウォッチャーには不謹慎に見えてもたまらないのだろう。
 最初は裁判の傍聴がどういうものか、手探りで模索するのだが、慣れてくるとエスカレートしていき、もっと面白い事件はないものかとか、自分の興味のある裁判がどこかでやっていないかと探し回る。そしてそれに当たると、トロさんも俄然盛り上がって、検察や弁護人、あるいは裁判官のやりとりに茶々を入れていく。それが面白い。得てして裁判というのは堅苦しいもののように感じてしまうが、一方でこうした面もあることを思い知らされる。
 ところで、トロさんによると、裁判所は大人の美女の宝庫だという。その人たちを見てしまうと、渋谷なんぞションベンくさいらしい。
「女裁判官や弁護士のレベルの高さには唸ってしまうわけでして。みんな賢そうで、知性っつうものが感じられるのだ。日焼けなんか絶対にしていないし、薄化粧で髪型もセミロングとかロングを無造作に束ねただけ。ごまかしはきかないシチュエーションで発揮される美。これぞ本物だと思いませんか皆さん!
 驚いたことに検察官まで美形がいる。もう、唇が薄くて、ニコリともせず被告を追及。まさに研ぎ澄まされたナイフって感じよ。身なりは地味なのだが、白いブラウスなんかボタン2つハズレているだけでもドキドキだ」
 分かるような気もするが、これってトロさんのコンプレックスからくるもんじゃないかなんて、思っちゃうけど。
 

評価
★★★

書誌
書名:裁判長!ここは懲役4年でどうすか
著者:北尾 トロ
ISBN:9784167679965 (4167679965)
出版社:文藝春秋 (2006-07-10出版) 文春文庫
版型:333p 15cm(A6)
販売価:660円(税込) (本体価:629円)