2007年03月30日

トマス・ハリス著『ハンニバル・ライジング』 上巻

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 ハンニバルは琵琶を奏でながら待っていた。太刀で精肉業者のポール・モマンの下腹部X字に切り裂き、首を落とした。13歳の時である。む~ん、さすがハンニバル・レクター!
 詳しい感想は下巻を読んでから書こうと思う。
 

書誌
書名:ハンニバル・ライジング 上巻
著者:トマス・ハリス;高見浩訳
ISBN:9784102167069 (4102167064)
出版社:新潮社 2007/04出版 新潮文庫
版型:16cm 246p
販売価539円(税込) (本体価:514円)

2007年03月29日

司馬遼太郎著『街道をゆく』36巻

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 この巻は「本所深川散歩」と、「神田界隈」である。私はこの巻をこれで三度読んだことになる。考えてみると、今までこのシリーズを読むにあたり、本にある地図や週刊「街道をゆく」を見ながら、文章を追っていたが、この巻だけは、その必要がなく、すぐ情景が頭に浮かぶ。そういう意味で、この巻は身近なものであった。
 本所深川は高校がそこにあったので、ブイブイ言わせて歩いていたし(うそです)、半ば地元なので、ここに出てくる建物や神社、地名などは、あそこだ!とすぐ分かる。
 「神田界隈」は今の仕事場が秋葉原にあるし、また司馬さんがここで詳しく書く神保町界隈も昔の仕事場でもあった。
 昔本屋の店長を唯一やったことがある(以後、長がつく仕事がお断りしている)。大手町の第三合同庁舎、今の国税局が入っているビルの地下一階の10坪ほどの店であった。たかが10坪の店だけど、年度末など月商600万円ほど売上があったから、結構忙しかった。しかし日販は10坪の店などまともに面倒など見てくれないので、新刊、売れ行き良行書など配本してくれなかった。
 しかし客は横柄な公務員だから、自分が欲しい本がないと、何かと文句を言われる。また当時は私もまだ純粋だったから、任された店に新刊がないというのは本屋として恥ずかしいと思っていたので、仕方なしに自分で仕入をやった。朝から自転車に乗って、当時飯田橋にあった日販店売へ行って、その日発売の雑誌や新刊書、注文書を取ってきた。それを自転車の荷台に積んで、今度は神田村で仕入をして帰ってきた。それを春夏秋冬、晴れの日も、雨の日も、雪の日も毎日やった。雪が降った日に、仕入が多すぎて、スリップして神保町の交差点で転んだこともあった。
 また当時古本屋に興味を持ち始めた頃でもあったので、休日神保町にある古本屋を歩きまわった。
 そんな関係で、自転車で仕入をし、歩きまわったものだから、通りから一歩奥に入ったところまでよく知っている。だからこの界隈は私にとってもものすごく身近なところなのである。だから読んでいて楽しかった。とにかくこの巻に書かれていることを書くといくらでも書けそうだ。
 また昔ホームページを作っていた頃、「秋葉原の歴史」をおまけみたいなもので作った。その時もこの本を参考にして書いたので、今回はまったくこの本にこだわらず、書きたい。

閑話休題
 私は近頃本を読むとき、気になる文章があれば、付箋を貼る。以前は紙の付箋を貼っていたのだが、これ再利用出来ないので、いつも新しい付箋を持ち歩かなければならなかった。それで3Mから発売されているフィルム素材のPost-itを使うようになった。これは再利用でき、しかもブックカバーの裏にいくつも貼っておき、必要があればそこからはがして、貼ることが出来るので非常に便利なのだ。オススメです。で、今回もそうして読んでいたのだが、付箋だらけになっちゃって、まとめることが出来なくなっちゃったのだ。

 神田は学校(医学、法律)と本の町だ。本といえば、当然印刷業も栄える。司馬さんも老舗の精興社のことを書かれている。
 私は本のインクの匂いが好きだ。一昔前の本はページを指で触ってみると、文字のでっぱりが感じることができ、いかにも紙の上に文字が乗せられた雰囲気がある。今は多分コンピュータ化され、そんな雰囲気を感じられず、味気ない。
 本屋でアルバイトしていた頃、小さな左派の新聞社の印刷で働いているおじさんところへ本を配達していたことがある。確か岩波の「世界」とあとなんかの全集を配達していたと思う。
 おじさんはいつも原稿を見ながら、黒縁の眼鏡をずり下げて、金属活版の文字をひろっていた。手はいつも真っ黒であった。まわりは輪転機の大きな音が響き渡り、話をするにも大声じゃないと聞こえない。インクの匂いがフロアー中に漂っていた。私はここに配達に来るのが楽しみであった。
 大手町で店長をやっていたことは書いたが、この店は文房具も扱っていたし、名刺の印刷やはがきの印刷も請け負っていた。要は名刺やはがきの印刷注文を取り、それを印刷業者に依頼し、印刷してもらった後、お客に渡すということなのだが(その間の中間マージンはいただく)、店を引き継いだ時、取引していていた印刷業者はかなりいい加減なので、印刷業者を変えた。
 その業者はその人と奥さんの二人でやっておられたが、その人も金属活版の文字をひろって、印刷物の原本?を作って輪転機を回して印刷をしていた。できあがった印刷物を取りに行くと、いつも機械が回っており、傍らには金属活版で組んだ原本があった。ここでもインクの匂いが漂い、この人の手もインクで真っ黒であった。そしてこの人も本が好きみたいで、文庫本が山になって積み重なって隅に置いてあった。「機械が回っている間暇なんで、本を読むんだ。ここは本の問屋街(神田村のこと)なので、知り合いが本を安く売ってくれるからいい」と言っていたのを思い出す。
 あの新聞社のおじさんはまだ元気だろうか?本を受け取るとき、真っ黒な手をタオルで拭いて(といっても、そのタオルもすっかり汚れているので、手はきれいにならなかったけど)受け取ったのも思い出した。
 神田村界隈も再開発のため、あの小さな印刷屋さんは移転した。本の問屋さんもつぶれたり、移転してしまい、問屋の数が激減している。見上げると、オフィスビルだかマンションだか分からないが、高いビルが視界を遮るようになってしまっている。
 このあたりは都心の一等地なのだ。けど、江戸時代「護寺院ヶ原」と呼ばれた大きな野原で、追い剥ぎが頻繁に出る場所だったという。もちろん今はそんな面影はどこにもない。

『街道をゆく』34巻の「本所深川散歩」は週刊「街道をゆく」の29巻、「神田界隈」は7巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈36〉/本所深川散歩;神田界隈
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022564054 (4022564059)
出版社:朝日新聞社 (1992-04-01出版)
版型:486p 19cm(B6)
販売価:1,995円(税込) (本体価:1,900円)

2007年03月26日

司馬遼太郎著『街道をゆく』35巻

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 今回は「オランダ紀行」である。ここで何故オランダなのかという疑問がわく。日本史との関係でいえば、オランダは確かに関係が深い。江戸時代、鎖国の中、オランダとは長崎の出島で交易をしていた関係であった。司馬さんは長崎の出島を「暗箱にあけられた針でついたような一つの穴であった」というが、まさにその通りで、その針穴からオランダが日本に影響を与えた。
 だから司馬さんがこの地を訪れるのも分からないわけでもないが、ここではそうした日本との関係を無理に求めていない。(後半の「日蘭交渉史・私記」で荻生徂徠の思想に強引に求めている気配はあるが・・・)オランダといういう国がどんな国であったか、この紀行で感じている。
 「オランダ国の地面は火山がつくったわけでもなく、地殻変動によってできたわけでもなく、すべて人によってつくられたのである」と干拓事業で興った国であることからはじめ、この国がプロテスタントの国であることから、その精神がこの国を特徴つけていることを書きつづる。司馬さんはこのプロテスタントを信仰することで「神ほどはげしい電流はないが、それを在来ののように教会という変電装置を通さず、個人が神にいきなり結びつくという思想的装置だった。当然ながら、個人にはげしい電流がながれこむ。この電流をうけとめるために、個人は前時代とはくらべものにならぬほどに、自律的になり、信仰生活は敬虔になり、さらには欲望についても、くらしのすみずみまで倫理的になった」と規定する。そしてこの精神を受け入れたことで十七世紀オランダが「殺風景にいえば、オランダの自由やら許容性やら市民的権利は、ひとえに金もうけという実利から出発したといえなくはない」といえるほど、どの商業も灰神楽がたつように忙しく、人手が足らないくらい、人口百五十万人でヨーロッパ第一の国民所得を誇るまでになった。
 ただ、カネがカネを生むという金融の方に浮かれ、技術や製造業をおろそかにしたため、英国との間に工業技術の差が大きくなり始め、イギリスに取って代わられることになる。

 前回の「アイルランド紀行」では司馬さんはアイルランドの文学に重点を置いた。今回のオランダでは絵画に力を入れ、この地で生まれたレンブラント、フェルメール、ブリューゲル、ルーベンス、そしてゴッホと語る。私はこれが一番面白かったので、このことを書く。
 先ほどいったようにオランダはプロテスタントの国である。オランダがプロテスタントの国になったことはカトリックを否定したことになる。またプロテスタント信仰から、市民が勃興し、それまでの貴族がいなくなる。
 このことは画家にとってみれば、教会からの仕事をなくしたことになり、貴族からの依頼もなくなった。つまり、それまでの画家の仕事は教会に飾る聖書物語の絵を描くことであり、貴族やその家族の肖像画を描くことで生計を立てていたが、それが出来なくなった。
 更に商人的市民社会の成立は絵画史にも多大な影響をあたえた。商人である彼らは船乗りでもあった。船乗りとして荒海の北海に繰り出す場合、頼るべきものは自分の機敏さ、天候などについての鋭い観察力、操船のための技術など、たえず精神の集中力を求められた。こうした精神風土は「レンブラントの力学的構成力や、微かな光までとらえる描写力、それに人間についての執拗な関心と注意力」にも見られるようになる。
 また「商人というのは平素、商品の形や質感に過敏だから、いわば"写実"まみれたひとびとだから、絵がすこしでも、自分の顔に似てないとなると、
 『これじゃ、金を払えないよ』
 と、言いかねない。商人の世界は、注文した"商品"どおりのものが来なければ、契約違反として突っかえすか、金を払わないというのがふつうなのである」
 こんな環境でレンブラント絵は生まれたといっていいかもしれない。レンブラントがレンブラントたる理由はここにありそうである。
 バロック美術の大家ルーベンスにしてもそうである。司馬さんはバロック美術についての感想を次のように言う。
 「まことに、バロック美術はなまなましい。『聖書』のなかの人物や事件を描いても、聖者の傷口の白い脂肪まで感じさせ、逆さにはりつけされる場面でも、聖者の筋肉や刑吏たちの筋肉が、ただ一つの運動目的にむかい、奔謄するように動いている。
 聖なる女性が、しずかな宗教陶酔のなかにいる場合でも、目を天にむけ、むせかえるような性を感じさせる。なんと過剰なことか。
 肉体をうかびあがらせるため、明暗が誇張されている。ときに画面から人物が躍り出てきそうな恐怖さえ感じさせる。
 『おどろいたか』
 というのが、バロックの時代の画家たちのひそかな目的だったのだろう。ときにあからさまな、さらにはしばしば唯一の芸術的衝動だったかもしれない。
 ただし、こけおどしではない。
 きたえぬかれた技術の結果といっていい」

 ただあまりにも過剰な表現は、一方で「ひょっとするとこけおどしではないか」という意識ももたげてくる。そのためただ人間を深い愛情で見つめたブリューゲルやフェルメールの絵がいいと思うやつも出てくる。しかしどちらにしても技術はしっかりしているから、後は好みの問題だろうか?

 ルーベンスといえばフランダースの犬である。打ちひしがれた少年ネロとパトラシュが凍死する前にあったのが、ルーベンスによる三連の絵である。

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 ところでこのフランダースの犬は日本でしか人気がなく、オランダでは有名じゃないらしい。思わずそうなんだと思った。この場面を見るたびにかわいそうだと思うけどね。

 最後にゴッホである。どうやら司馬さんはゴッホのファンらしく、その思い入れは激しい。ここで司馬さんの奥さんみどりさんの「ゴッホさんは疲れるね」という言葉がやはり頭に残る。確かにゴッホの絵は見ていると疲れてくる。なぜかとかねがね思っていたのだが、司馬さんがものすごくうまく説明してくれているので、それを引用する。
「ゴッホは、精神を絵画にした。
 このことそのものが、異様であった。
 それ以前の、たとえば宗教画でいえば、荘厳さとか神秘的光景、または聖母の慈愛、あるいは神に対する敬虔といった心理的情景は絵画によって描写できた。それも一種の"説明"だった。
 そういう"説明"からいえば、ゴッホはいわば無茶だった。かれは自分の精神を、絵画で表現しようとした。自己の皮膚を剥ぎ、自己そのものを画面にひろげてみせたのである」と。
 そうするしかなかったのである。何故ならゴッホの頃はもう写真機が出現しており、レンブラントのような稀代の写実力を持っていればともかくとして、そうした能力がゴッホにはなかった。だから自分の精神を切り売りするしかなかったのである。これは見る側からすれば疲れる。これがゴッホの絵を見るときに感じる疲労感である。昔から感じていたゴッホの絵に関して感じたことをやっと見出した感じである。

 最後にこのシリーズの挿絵を描かれてきた須田剋太さんが亡くなれたことが書かれている(1990年7月14日午後5時28分)。
 司馬さんは須田さんが亡くなられたこと、連載開始から20年須田さんと一緒に街道を歩いてきたことしかここでは書かれていない。もし須田さんのことを書きつづれば、きっといろいろなことが思い出されだろうから、わざと短い文章で事実だけを書いたのだろうと思う。
 前回の「アイルランド紀行」から須田さんと司馬さんの会話がないなぁと感じていたのだが、司馬さんはアイルランドの気候が須田さんの身体によくないから一緒に来なかったと書いていた。このとき須田さんは体調を崩されていたのかもしれない。もし須田さんが司馬さんと一緒にゴッホの絵を見たらなんと言っていただろうかと思う。残念である。


『街道をゆく』35巻の「オランダ紀行」は週刊「街道をゆく」の54巻、55巻、56巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈35〉/オランダ紀行
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022562579 (4022562579)
出版社:朝日新聞社 (1991-03-10出版)
版型:497p 19cm(B6)
販売価:2,310円(税込) (本体価:2,200円)

2007年03月23日

司馬遼太郎著『街道をゆく』34巻

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 このシリーズも残り9冊となった。今この『街道をゆく』は読み直していることになっているのだが、実はこの巻以降、読んでいない。つまりこの巻で挫折してしまったのだ。ただ、36,37巻は読んでいる。
 どうして挫折したかというと、この巻の「大徳寺散歩」が私にとって歯が立たないものだったからである。大徳寺というお寺がどういうお寺であるかも知らないし、臨済禅というのもなかなか頭の中に入ってこなかったからだ。要するに難しかったということである。前回「○○散歩」という表題はちょっと休憩といった感じだと書いたが、感じとしてそうなのかもしれないが、今回は私には難しかった。

 大徳寺にある山門(金毛閣という)があの千利休が秀吉に切腹を命じられた原因の門であることを思い出した。この山門は利休が建てたものなのだが、そこに自分の像を置いた。しかし山門を通る人たちは、その利休の足下を通ることになるので、当時の天下人秀吉も利休の足の下を通ることになる。それがけしからんということで、切腹を命じられてしまった。もっともそれだけで切腹はないだろうと思うから、この時期、秀吉と利休の関係が悪化していたのだろう。
 大徳寺は臨済禅の寺で、いわゆるわび、さびを重んじる寺なのだが、この門の派手さはちょっと異質な感じを与えるらしい。まして利休はそのわび、さびの大家だから、この寺にこんな派手な門を建てること自体、利休にどこかおごりがあったのではないかと司馬さんは言っている。
 大徳寺の特徴は大燈国師(1282~1337)以来きびしい禅風を守り、出来るだけ世間の喧噪から離れ、名刹や古刹が観光資源化しているこんにち、大徳寺は山内の一部を除いて俗化を拒んでいる。塔頭には「拝観謝絶」という木札を掲げて観光化を防いでいる。
 大徳寺は二十数寺の塔頭(「たっちゅう」とよむ)が本坊を包み込むように広がっているところで、その塔頭とは何かというと司馬さんが次のように説明する。
「"塔頭"ということばは、禅宗では多用される。臨済宗の各大本山のなかにある子院は"塔頭"とよばれるのである。
 塔もないのに塔頭というのはおかしいが、この場合の"塔"とは墓碑のことである(卵塔・五輪塔などをおもえばよい)
 高僧や施主の墓(塔)のほとりに庵をたて、亡き師に対し、生けるがごとく仕えたところから、塔頭ということばができた」と。
 要するに大徳寺にのまわりにいくつかの子院が取り巻いていて、全体として大徳寺をなしているということなのだろう。大徳寺は、一休や沢庵を輩出した。

 司馬さんは「室町といえば、現在の日本文化の源流がことごとくこの時代から興っているのである」という。茶もそうだし、わび、さびの意識、数寄屋普請もこの時代から始まった。面白い時代のようだが、如何せん私にはその知識がない。さらに仏教にしたって、ここの禅がどういうものなのかよく分からない。ここで司馬さんは「絶対他力の親鸞念仏と絶対自力の禅がうまれ、相まって日本文化にふかい影響をあたえた」というが、うまく私の中でイメージできない。
 このシリーズを読んできて、自分のいる国のことをよく知らないというのはどうしようもないと思う。せめて歴史ぐらいきちんと勉強しておけばよかったと思うのである。今回この巻の司馬さんの文章がうまくイメージ出来ないのもそこに由来する。以前は分からないから、いいやという感じで諦めてしまったけれど、日本人なのだからせめて日本史の常識ぐらい知るべきだと今は感じている。だから今回はこのシリーズを読破するつもりでもいる。私にとって司馬さんのこのシリーズは日本史の教科書みたいなものなのである。

 「中津・宇佐のみち」は日本に存在する八幡神の故郷を訪ねる旅である。
「この神は、もっとも早い時代に仏教に習合したから『八幡菩薩』などともよぶ。
 日本の津々浦々に多い神々といえば天神(天満)さんに八坂神社、それにお稲荷さんだが、わが八幡宮は、それを超えて、全国で四万余社といわれる。
 八幡神は十二世紀には清和源氏の氏神になり、その家系の源頼朝が鎌倉幕府をひらいてから、諸国の武士たちが八幡をまつるようになって、大いに流行した」と司馬さんは説明してくれる。
 その八幡神は、古代、豊の国(豊前と豊後。今の大分県)から興った。古代この地方で朝鮮半島から渡来した秦氏が水田を開いた。つまり八幡の"はた"は秦氏の"はた"で、八幡神は秦氏の農業神だったのである。それが奈良朝時代は神託をくだす神として天皇の宮廷には入り、そのあと源氏の氏神となり、武神となった。このあたりも渡来系の神さまが日本で変遷していくさまは面白い。司馬さんは薦神社、宇佐神宮を訪ねる。
 また中津は黒田如水が大名としていた土地であった。黒田如水というより黒田官兵衛というほうが私には懐かしい。黒田官兵衛は竹中半兵衛とともに秀吉の謀臣であった。司馬さんの『新史太閤記』で出てきたはずだ。また中津は福沢諭吉の生地でもある。
 中津での黒田時代は13年しかなかった。この後細川忠興から細川時代が始まるが、忠興・忠利も熊本に去る。その後譜代の大名、小笠原氏、奥平氏と続く。この譜代大名下での支配が福沢諭吉の思想に影響をあたえる。司馬さんはいう。
 「譜代藩の多くは、ぬしの徳川家康が天下をとることによってにわかにつくられた藩なのである。だからたいていは三河風の質朴さがあるものの、一面封建門閥制において教条的だった。
 しかも、譜代藩は転封が多く、土地の文化や風土とはどこかチグハクで、領民との一体感も多くはもっていなかった」とか「多くの譜代藩は、文化は差別だけが文化かと思わせるようだった」と。

 中津でも同様で、そんな風土を諭吉は腹ただしかった。密かに世の権威や神秘性というのに挑戦を試みた。かれの「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉はそうした不条理から生まれたといっていい。
 風土は何らかの影響を人物の性格にあたえるものだということを改めて知る。

『街道をゆく』34巻の「大徳寺散歩」は週刊「街道をゆく」の14巻、「中津・宇佐のみち」は34巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈34〉/大徳寺散歩;中津・宇佐のみち
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022555540 (4022555548)
出版社:朝日新聞社 (1990-04-10出版)
版型:353p 19cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2007年03月19日

司馬遼太郎著『街道をゆく』33巻

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 今回は、「奥州白河・会津のみち」と「赤坂散歩」の2編である。
 まずは「奥州白河・会津のみち」だが、会津のことを書く前に、私が興味を持ったのことを先に書く。山下りんのことである。

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彼女は常陸国(茨城県)笠間の生まれで、明治初期にロシアに留学し、イコンを描くことを学んだ女性画家であった。だいたいこの時期にギリシア正教会の宗教画であるイコンを描く画家が日本でしかも女性でいたこと自体が驚きであった。
 司馬さんはこの度の途中で、白河基督正教会聖堂という小さな教会を見つけ、ここに山下りんのイコンが50点ばかりあることを知り、彼女について書かれる。司馬さんもこの時期に山下りんという女流画家がいたことに驚かれ、「幕末・明治は、とても女流西洋画の画家を育てるような社会ではなく、それだけに彼女は天才である以上に奇蹟のようなかがやきをもっている」と書かれる。
 確かに週刊「街道をゆく」の3巻にある彼女の作品を見ていると、これが明治の初めの日本の女性の作品とは思えなかった。



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 山下りんは、絵の修行のため17歳で上京する。
「りんの例をみるにつけても、芸術上のーとくに音楽・絵画という純粋芸術の場合ー才能とは病名のことではないかと思ったりする。とりわけ大いなる才能が宿る場合、宿主の魂を高貴にする一方で、宿主をたえずつき動かして尋常ならざる人生を送らせてしまう」と司馬さんが書くように、りんの人生はこれ以後波乱の人生を歩むことになる。
 お茶の水にあるニコライ堂建てた神父ニコライはりんをロシアへ留学させた。りんは最初ルネサンス以後の西洋画を学ぶつもりであった。イコンそのものを「オバケ画」として激しく罵っているのである。
 私が知っているイコンは、確かにりんのいうように「オバケ画」というのも分かるような気がする。それぐらい拙い感じを受けてしまう。しかし何故当時のイコンが「オバケ画」なのかを司馬さんはうまく説明する。
「ごく一般的には、絵というものは、文章とは別趣の情報をひとにつたえるものである。宗教画の場合、描き手の個性が自由に展開されれば、受けとめ手である信者は、絵の中の個性の部分まで聖性としてうけとってしまうかもしれず、”危険な”ものになってしまう」だから、「聖性のみを表現するために、描き手を法則でしばり、無個性を強いたのであろう」という。多分これが正しいような気がする。「無個性を強いられた絵」だから、りんは「オバケ画」として受け取ったに違いない。
 私が見る限り、りんの作品は人間性が豊であり、その中にも神聖さを伴う。これを留学先のロシアの修道院でやれば異端として放り出されたであろうと司馬さんはいう。その上で、それを日本で許したニコライ神父はよほど大きな人物だった付け加える。
 それにしてもりんの作品をじっと見ていると、本当にこれが明治の初めの女性が描いた作品かと思うほど、ほれぼれしてしまう。

 さて、会津である。司馬さんは「なにから書きはじめていいのかわからないほど、この藩についての思いが、私の中で濃い」とか、「幕末・維新の会津藩について、つよい同情がある」と書くぐらい、会津藩について、あるいは会津についてこの紀行で触れないわけにはいかなかっただろうと想像する。

「会津藩にとっての最大の難事は、幕末、幕府が、ほとんど無秩序になった京都の治安を回復するために、会津藩主松平容保(1835~93)を起用して”京都守護職”にしたことである」
 容保は体調が悪く、しかも京都守護職は自分には不向きと再三断ったが、幕府も執拗で、その命を受けざるを得なくなる。その時、容保は「わが家祖(保科正之)の遺訓に、宗家(徳川将軍家)と存亡をともにすべしとある。もはや遺訓に従って、火中に入るしかないと決心した」として、幕命を受け入れたという。

 ここで「もし」という話をしたい。もちろん歴史に「もし」なんてないのだけど、司馬さんが考える「もし」は面白い。
「もし、徳川慶喜が恭順せず、その領地も新政府にわたさず、箱根をもって第一防御線として、関東・奥羽・北越の諸藩をひきいて新政府軍と決戦したとすれば、日本史はべつの運命をたどったはずである」という。
 西郷隆盛が官軍を率いて東進していた頃、勝海舟は幕府の保有する軍艦で官軍の後方にまわり、攻撃をすれば、官軍はどうなっていただろうといったという。また西郷もそのことを怖れていたともいう。当時最大の軍艦保有者は徳川幕府であった。華々しく見える官軍など、当時大した兵力ではなかった。やろうと思えば出来たかもしれない。
 けれど、慶喜は舞台から自ら降りてしまった。その後を任された勝もそうしなかった。そのことは「維新の最大の功労者は慶喜だった」と司馬さんがいうのも納得しちゃう。
 しかし慶喜が舞台から降りた以上、新政府軍を一身に引き受けざるを得なくなったのが会津藩であった。
 明治維新が革命である以上、会津藩は革命の標的(当時でいう”朝敵”)にされ、会津攻めが革命の総仕上げとなってしまった。そうしなければ革命が成就しなかったからである。結局慶喜が舞台から降りたため、血祭りにされたといっていい。しかもこの戊辰戦争後でも、その激しさは続く。
「明治政府は、降伏した会津藩を藩ぐるみ流刑に処するようにして(シベリア流刑を思わせる)下北半島にやり、斗南藩とした。この地は三万石といわれているが、実質七千石程度で、そういう寒冷の火山灰地に一万四千二百八十六人が移った。藩士たちのくらしは赤貧というようななまやさしいものではなかった。あたらしい藩主容大(移住のときは生後一年四カ月)自身、衣服にシラミがわくという状態で、他は文字どおり草木根皮を食べた」という。
 これを司馬さんは「権力の座についた一集団が、敗者にまわった他の集団をこのようにいじめ、しかも勝者の側から心の痛みも見せなかったというのは、時代の精神の腐った部分であったといっていい」と断罪する。

 このシリーズを読んでいて、何度か明治維新という革命にふれられているけれど、当時の新政府は何も持っていなかったし、しばらくの間何も出来なかった。明治維新がなったときでさえ、徳川幕府が作った様々なシステムをそのまま使い続けていたことを知るし、幕府が行った行政を逆に否定することで、民政がおかしくなったことも書かれている。
 西郷にしても大久保にしても徳川の後どうするかという先のビジョンはなかったといっていいのかもしれない。とりあえず幕府を倒して、その後考えましょうというスタンスであった。そう考えると、明治を興した彼らを英雄視するのもいいが、果たしてそれだけでいいのだろうかと思ってしまう。二百年続いた徳川幕府の置き土産があったから、明治はなんとかやれた部分があることを知るべきではないかと思う。

 長くなった。「赤坂散歩」にふれなければならない。このシリーズは「○○紀行」、「○○のみち」、「○○散歩」と表題を書き分けている。最初はそれほど気にしてはいなかったが、「○○紀行」、「○○のみち」と書かれたものは、結構詳しく記述している。それこそ1冊の本としてまとめているくらいだ。しかし「○○散歩」となると、ちょっと休憩といった感じで、司馬さんの小説によく出てくる「閑話休題」みたいなところがある。けれど、その「閑話休題」が面白いのは言うまでもないだろう。
 この「赤坂散歩」から司馬さんの東京に関する紀行が始まるので、まずは散歩からはじめてという気分なのかもしれない。もちろんここの内容は興味深かったが、また長くなるのでやめておく。


『街道をゆく』33巻の「奥州白河・会津のみち」は週刊「街道をゆく」の3巻、「赤坂散歩」は29巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈33〉/奥州白河・会津のみち;赤坂散歩
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022555533 (402255553X)
出版社:朝日新聞社 (1989-11-30出版)
版型:384p 19cm(B6)
販売価:1,890円(税込) (本体価:1,800円)

2007年03月16日

J.M.シング著『アラン島』

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 司馬さんの本を読んで、この本のことを知り、読んでみたいと思った。
 ヨーロッパ大陸の西の果てである3つの島からなるアラン諸島、その過酷な自然、荒海に浮かぶ諸島のこの小島は、ほとんど耕地がない、剥き出しの岩盤であり、海岸線の多くの部分が 垂直の断崖となっている。主産業は農業と漁業である。
 そんな島をシングが訪ね、島の人々の生活ぶりや老人たちからいたずらな妖精たちの話を書きつづる紀行文である。ここでは学術的考察や歴史的背景など詳しくは書かれない。それ以上に自然の荒々しさ、そこで暮らす人間の尊厳が上回るのである。ここの人々は岩にしがみついて暮らしている。岩だらけの土地になんとか土を作り、農作物を育てる。司馬さんの本にも書かれていたことが、ここにも記述される。
「つい先日、この家の男たちが新しい畑をこしらえた。裏庭の石垣の下にわずかに盛り土があって、キャベツを植えている畑の隅にもうひとつの盛り土があった。おやじさんと長男が金鉱を掘るひとのような細心の注意をはらってこれらの盛り土を掘り返し、マイケルがその土を背負いかごに集めて、家の地所のなかでも風当たりの少なそうな岩畳のところまで運んだ。この島には車輪のついた運搬道具はないので、背負って運んだ土に砂と海藻を混ぜて合わせ、平たい岩畳の上に一様な厚さ敷き詰めて、畑としたのである」
 漁業にしたって、まわりは荒海である。いつも死と隣り合わせである。島の人々は「あたりまえさ。この島の人間はみんないつなんどき、とんでもなく危ない目にあって悲しいことになっちまうかわからないのさ」と言う。シングも「僕は、死の裁きが確定している男たちと語り合っているのだという思いがこみあげてきてしかたがなかった。この男たちはみな、何年かしたら、海で溺れて真っ裸の死体となって岩場に打ち上げられるか、さもなくば、ちっぽけな家で息をひきとった後、いま見たばかりのものすごい光景と同じ場面を墓地でくりかえしつつ、埋葬される運命を背負っている。そのことを僕は知っているのだ」と言わざるを得ない。それが現実なのである。
 そんな現実を半ば諦観しながら生きてはいるものの、それでもシングは「この叫びには、風や海を武器にして人間に戦いを挑んでくる宇宙と向かい合って孤独感を感じている人間存在のすがたも、あらわにされているようだ。島人たちはふだん物静かだが、死に直面すると、うわべによそおっている無関心や辛抱強さをすっかり忘れ、誰ひとりとして免れぬことのない運命の恐ろしさに向かって、あわれな絶望の叫びをあげるのである」と、人間として、声を上げて嘆く悲しみを書きつづる。思わず涙が出てきそうである。それでも生きていかなければならない。
 そんな自然の中で自分を見つめると、神経が針のように研ぎ澄まされるのかもしれない。シングが自分自身の存在感を次のように言う。
「孤独感ははかりしれないくらい大きかった。僕は自分の肉体を見ることもはっきり意識することもできなかった。僕というものは、波を、鳥たちの鳴き声を、そして、海藻の匂いを知覚することにおいてのみ、存在しているように思われた」と。

 ここでは歴史的背景はほとんど書かれていないと書いたが、よく読んでみるとイギリスに搾取される姿も描かれている。ここでは自然だけでなく人間社会がもたらす過酷さも同時に存在する。
 州徴税官が警官を連れて列をなして島を訪れる。税を徴収する。取れなければ家財道具を引っぺがしていく。この寒冷の地で最も必要な暖炉でさえも。そんな人間の残酷さをシングは淡々と書くけれど、それがいかに残酷なことなのかもきちんと書き加える。
「暖炉が蹂躙されることはこの世の破滅に等しい意味をもつ。年間を通して激しい雨と霧の降らない週が一週間もない、灰色のこの世界では、子どもたちや若い娘たちが寄りつどう炉端は、各家庭のひとびとの意識に深く根を下ろしている。炉端がもつ意味は、より文明化された場所に住む人間には想像すら及ばないかもしれない」と。

 人が生きていく悲しみ、苦しみが凝縮されているこの島で、それでもしたたかに生きようとする島の人々。そんな島の人々は客人には優しい。「陸へ上がるやいなや、男たちが歓迎の意を表するために僕のまわりに集まってきた。そして、かわるがわる握手をもとめながら、冬には遠くまで旅をなさいましたかな、とか、たくさんの不思議をご覧なりましたかな、とか尋ねた後で、いつものように、いま世界では戦争はおこっておりますか、と尋ねたのだった」。


評価
★★★


書誌
書名:アラン島
著者:シング,J.M.栩木 伸明【訳】
ISBN:9784622080633 (462208063X)
出版社:みすず書房 (2005-11-10出版) 大人の本棚
版型:275p 19cm(B6)
販売価:2,625円(税込) (本体価:2,500円)

2007年03月13日

司馬遼太郎著『街道をゆく』32巻

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 今回は、「阿波紀行」と「紀ノ川流域」である。
 まずはこの紀行で不満なところを書きたい。地図が不親切なのである。特に今回は地図そのものが細かく非常に見づらい。だいたい今までも司馬さん一行が今どこのあたり通っているのか、ページを戻りつつ、見てみるのだが、よく分からないことが多かった。特に今回は余計に分からない。で、仕方がないので週刊「街道をゆく」を広げて、絶えず記述と場所を照らし合わせている次第だ。この『街道をゆく』は新装版も出ているのだが、新装版はどうなっているのだろうか?
 もともとどちらかといえば、失われた日本を訪ね、人里離れた地域を歩いているので、地図がしっかりしていないと分からない。しかも私の場合、日本地図に詳しくないので、余計である。

 さて、まずは「阿波紀行」である。司馬さんたちは徳島へ行くのに、大阪府の南端深日港から、フェリーで淡路島の洲本に渡り、淡路島からは大鳴門橋を渡って徳島に入っている。
 阿波徳島が日本で名をとどろかせるのは、阿波踊りと藍の栽培だ。ジャパンブルーといわれる藍染めの紺は、ここ徳島に豊臣時代に入ってきた蜂須賀氏は奨励し栽培と製造したらしい。もちろん現在は化学染料が入ってきて、藍染めは廃れる一方で、ここでもかつて盛時の頃の藍染め屋を訪ねている。その後高校野球で有名な池田高校がある四国奥地まで足を向けている。

 「紀ノ川流域」では、そのほとんどが根来寺の記述である。根来寺は盛時の室町時代に、院98、僧坊2700、寺領70万石、僧兵数万となり、紀伊・和泉・河内に一大勢力を誇ったのだが、秀吉の根来寺焼き討ち以後、廃れる。司馬さんが訪れたときも、経済的に厳しかったらしく、「官長さんの関尚道師も懸命の護持者のひとりで、自坊葉東京都江戸川の平井聖天ながら、はるかにこの総本山に来ておられる」と書かれていた。ん、平井聖天?どこかで聞いたことがあるぞと思い、自分の記憶をたどっていくと、分かった。私の子供たちが通っていた幼稚園が確か、平井聖天が経営していた?幼稚園だった。思わず、へぇ~、そうだったのか!そういえば園長先生の名前が関なんとかといっていたはずだ。妙なところで関係を見出した。
 しかし紀州の根来寺と関係あるのだろうか。真言宗には宗祖の空海の教えをそのまま引き継ぐ、高野山などの正統派として、「古義真言宗」と根来寺の開祖覚鑁がとなえる「新義真言宗」があるらしい。
 覚鑁は空海のはるか後の僧で、空海の『菩提心論』の中で「菩提心とはとりもなおさず密教浄土のことだ」と説いた。覚鑁はそれを発展させ「密厳浄土」ということを盛んにとなえた。この本によると、真言密教の本尊は宇宙そのもので、その宇宙の名を真言密教では大日如来と呼ぶ。修行者はそれに合一すれば即身成仏を遂げることが出来るというのが宗義であった。ところがこうして即身成仏を遂げるには厳しい修行をしなければならないので、誰でも成仏出来るというものではない。ところが平安中期頃から西方浄土信仰(そこにいる阿弥陀如来が一切の人間を救ってくれるという教え)が盛んになった。司馬さんによれば、この他力救済思想は釈迦にとってみれば、「飛び上がるほど非釈迦的思想」(つまりとんでもないということで)なのだが、その思想がどんどん広まっていく。覚鑁はこうした思想的状況下で、真言密教の主尊である大日如来が、不動の光明ではなく、救済するときは阿弥陀如来にかわり、厳格な修行をしなくてもそのまま密教浄土に生まれるという考えをとった。その覚鑁の教えを引き継ぐのが「新義真言宗」であった。
 しかし覚鑁は高野山の座主になっても、当然正統派から猛反発にあい、追われるように山を下り、根来に入り、教学復興の拠点として現在の位置に根来寺を開いた。
 以後根来寺は、繁栄し、僧兵を持ち、寺自体も一大城郭となった。貿易も行い、種子島から鉄砲生産の技術を得て、新兵器鉄砲をいち早く取り入れた。
 ここで徳川家康の存在がクローズアップされる。家康は秀吉との戦(小牧・長久手の戦い)で戦力的に非力な家康は、秀吉勢力圏を後方から脅かす反秀吉勢力と同盟を組む。その同盟者の一つが紀州雑賀党と呼ばれる紀ノ川下流の地侍連合と根来衆であった。ところが家康は秀吉と手打ちをしてしまい、秀吉傘下に入ってしまった。当然秀吉にとってみれば、根来はけしからんということになってしまい、秀吉に攻められ、多くのお堂や経文、宝物を焼かれてしまった。この時の火縄銃の弾痕が今でもはっきり残っているらしい。
 家康にとってみれば、根来衆に負い目が残った。家康の時代になって、その負い目から大いに保護をする。江戸やその付近に「新義真言宗」の寺が多いのもこうした理由による。その寺が平井聖天、成田不動尊、川崎大師などである。

 本を読んでいて、こうした身近なことが書かれていると、ついつい詳しく書きたくなるが、根来寺と平井聖天の関係はこうして生まれたわけだ。


『街道をゆく』32巻の「阿波紀行」は週刊「街道をゆく」の41巻、「紀ノ川流域」は4巻に収録されている。

書誌
書名:街道をゆく〈32〉/阿波紀行・紀ノ川流域
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022555526 (4022555521)
出版社:朝日新聞社 (1989-06-20出版)
版型:305p 19cm(B6)
販売価:1,890円(税込) (本体価:1,800円)

2007年03月10日

司馬遼太郎著『街道をゆく』31巻

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 今回もアイルランド紀行である。司馬さん一行は直接アイルランドに入るのではなく、まずはイギリスに入っている。前回はそのほとんどがイギリス、及びイギリスとアイルランドの関係の記述がしめ、やっとアイルランドに入ったところで終わった。今回はそのアイルランドの西、大西洋に面するゴールウェイという町をダブリンからめざす。
 前回書き忘れたことがある。司馬さんは三つの美的倫理感情が日本史の流れの中であったのではないかという。それは『源氏物語』であらわされた「もののあわれ」、もう一つは『平家物語』における板東武者たちの「名こそ惜しけれ」だという。これに「明治の悲しみ」を加えている。
 この「明治の悲しみ」とは幕末から明治維新に欧米に派遣された留学生が異質の大文明にうちひしがれた気持ちをいっている。たとえばロンドンで英語の勉強してこいといって、ここに来た夏目漱石の例を出す。漱石はここへ来て、精神の病を発症したかのような状態になった。それくらいヨーロッパ文明にたたきのめされた。岩波版『漱石全集』の九巻に「文學論」が収録されているが、ここの序文の中に「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快なの二年なり。余は英國紳士の間にあつて狼群に伍する一匹むく犬の如く、あはれなる生活を營みたり。倫敦の人口は五百萬と聞く。五百萬粒の油のなかに、一滴の水となつて辛うじて露命繋げるは余が當時の状態なりといふ事を断言して憚らず」と書いているのを見ても分かる。
 昔、この全集の一巻に収録されている『倫敦塔』を読んだことがあるが、内容は忘れてしまったけれど、その暗さに憂鬱になったことだけはよく覚えている。その暗さはたぶん漱石の当時の感情から来るものなのではないかなんて思ったりする。それくらい当時の日本とヨーロッパ文明に歴然とした差があった。
 そのイギリスの華やかな文明に陰にアイルランドにおける搾取があったこと今回知った。ただでさえ自然が厳しい、不毛の地である。アラン島の記述は、どうしてこんな土地で暮らさざるを得ないのか、人間の尊厳さえ感じてしまう。
 農夫が畑を耕すのに鍬を振るうのだが、「カチンカチンと音を出して畑を耕していた」のである。それはほとんど土がなく岩ばかりの土地なので、岩と金属がぶつかる音である。その土でさえ、風が運んできた砂埃を集め、あるいは岩盤を砕いて作った砂利を集め、それに海藻を混ぜて作ったものであった。
 毛糸編みのアラン編みというのがあるらしいが、もとをただせば、アラン島の漁師の家々によって違った模様編みをすることで、家族が北の海で水死したとき誰だかわかるようにということで編まれた手法だそうだ。それくらい海も厳しい。司馬さんはいう。
「住みがたいほどの酷薄な土地に住んでいればこそ、人間の心は超越者に対して感じやすくなるのではないか。さらにいえば、神の恩恵を感ずることなしにこんな島に住めもしないし、げんにアラン島のひとびとは信心ぶかいのである」と。
 漱石がうちのめされたイギリスはこんな土地の人を搾取し、虐待してきた。ただ自分たちと違うカトリック信徒というだけで・・・。だからこそここに描かれるアイルランドの人々の反英感情はすさまじい。あるいはそういう感情を持つことが自分たちの存在感にもつながっていった。
 アイルランドが信心深いカトリックの国であること、文学の国であることは、そういう厳しい自然環境とケルト的要素がいまだ多く残っていること、そしてイギリスの支配が生んだものだろう。今回の紀行は今までの『街道をゆく』とは異質のものだと前回書いた。けれど私のとって一番思い入れの深いものとなった。
 今回の紀行を読んで、J・Mシングの『アラン島 』という本があることを知った。この本はこの島の苛酷な自然の中で独自の文化を育み、たくましく生きる島人たちの暮らしぶりを誠実に記録した紀行文学の傑作らしく、ちょっと読んでみたくなった。


『街道をゆく』31巻の「愛蘭土紀行Ⅱ」は週刊「街道をゆく」の51巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈31〉/愛蘭土紀行〈2〉
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022555519 (4022555513)
出版社:朝日新聞社 (1988-06-20出版)
版型:326p 19cm(B6)
販売価:1,890円(税込) (本体価:1,800円)

2007年03月08日

司馬遼太郎著『街道をゆく』30巻

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 今回と次回は「愛蘭土紀行」である。どうしてアイルランドなのか?これまでこのシリーズで度々海外へ出て行かれているけれど、訪れたすべての地域は何らかの形で日本の歴史に関連する地域であった。しかし、今回のアイルランドはほとんど日本の歴史と関係を持っていない地域である。週刊「街道をゆく」の巻頭に松本健一さんの解説に司馬さんには辺境を好むところがあると、済州島のところで書かれていた。多分これが司馬さんがアイルランドを訪れたいという気持ちだったのではないかと思う。
 辺境には、いつの時代から取り残されて、そのまま時間が止まってしまったところがある。だから昔の雰囲気を感じたければ、いわゆる辺境を訪ねれば、それを感じることが出来る。今回もそうした気分がアイルランド訪問となったのではないかと思われる。
 さらに今回は今までとちょっと趣が違うのは、歴史紀行というよりは、文学紀行といっていいほど、アイルランド文学の特色がどうして生まれたのかを考えられている。
 司馬さんは「アイルランドは三百数十万という人口の国ながら、才能-とくに文学においては-とほうもない大国である」という。『ガリヴァー旅行記』のジョナサン・スウィフト、オスカー・ワイルド、W・B・イェイツ、J・Mシング、『ユリシーズ』のジェームズ・ジョイス、サミュエル・ベケット、また日本で有名な小泉八雲もいる。この1世紀だけでも、イェイツ、ベケット、バーナード・ショー、シェイマス・ヒーニーと、4人のノーベル文学賞受賞者を出しているのである。こうした詩人、作家、演劇家を出す風土とはいったいどういうものなのか?なぜ世界の冠たる詩人、作家、演劇家が輩出できたのか?それをこの紀行で考えられている。

 その答えの一つとして、アイルランドに残るケルト的霊性があげられる。
 古代、ヨーロッパの中部や西部にはケルト(Celt)人が先住民として暮らしていた。彼らは鉄器時代には参加したが、広域国家を形成しなかった。家族あるいは部族単位で散居していたため外的に弱く、また歴史に強力な足跡を残さなかった。
 アイルランドは「シーザー(カエサル)も来なかった島」ともいわれ、ローマ世界の拡大者であるカエサルはイギリスまでは来たけれども、アイルランドまでその旺盛な征服欲は刺激されなかった。ヨーロッパ人にとって、ギリシア・ローマ文明は輝ける祖と考えられていて、アイルランドはそのギリシア・ローマ文明の及ばない地域として差別された感じで見られていた。
 ローマやその後のゲルマン人に負けたケルト人は混血しフランス人の原型を作ったし、他にはイギリス本土のグレート・ブリテン島にも残った。スコットランド人、ウェールズ人たちがそうである。また当然アイルランドにも残った。
 そこへ聖パトリック(385~461?)がアイルランドにやってきて、キリスト教の布教を始めた。彼は絶対神とその厳格な教義を押しつけることなく、土着のドルウド神々を大きく認めて、アイルランドの人々のキリスト教受容を容易にした。そのためアイルランドでは土着の神々が、妖精として生き残った。このため司馬さんは「この島にローマ文明が来ず、代わりにやってきたローマ・カトリックも、ここでは教義を包んだ風呂敷の結びをゆるやかにしたため、幻想を生むことができる山河になった」という。詩人のW・B・イェイツも、ジョナサン・スウィフト、あるいは小泉八雲の怪談や奇談にも、文学的風土として、アイルランドに残ったケルト的霊性に求められるのではないかと司馬さんは考えられているようである。

 もう一つの要因としてあげられるのは、反英感情と中世のようなカトリシズム、あるいはプロテスタント嫌いではないかという。
 アイルランドは聖パトリック以来カトリック教徒がそのほとんどとなったが、 そこへ産業革命を経た英国国教会(注1)のイギリスに支配され、徹底的に搾り取られる。もともと貧しい土地柄である。その上オリバー・クロムウェルの大虐殺のような宗教弾圧にもあう。司馬さんはいう。
「従って、ベイコンやラムのような人生の味を語る随筆文学がおこるはずもない。(そんな余裕などないのだ)
 アイルランドにあるのは、空気だけだったといっていい。
 あるのは、一枚の舌、それに激情。あるいは屈折した心。(反英感情)その屈折からくる華麗な言語表現だけであった」と。

 こうしてみると、ノーベル文学賞受賞者がこれほど多く出るのも何となくうなずけそうである。さらにもっといえば、ビートルズのジョン・レノン、ポール・マッカートニー、リンゴ・スターもアイルランド系である。
 一方産業革命を興したイギリスは、18世紀の世界史の中で、中心を担ったため、芸術などやっているひまなどなかったのである。

(注1)
 英国国教会は、もともとは、あのヘンリー8世が離婚劇から始まった。ヘンリー8世は王妃キャサリン(ヘンリー7世の妻でもあった)と離婚して、侍女アン・ブリンと結婚したかったのである。しかしローマ教皇庁は当然反対した。そのためヘンリー8世は離婚に反対するローマ教皇庁の指図は受けないと言い切って、独立し、国家教団を作ったのである。

 最後に司馬さんが、プロテスタントがどうして生まれて、それが何故商工業者に支持されるようになったのか、マックス・ウェーバーの理論を分かりやすく説明されている。それは先の阿部謹也さんがいう「個人」誕生にもつながるように思えたので、長くなるが書き残しておきたい。

「十六世紀、カトリックからプロテスタント(新教)が分離する。
 このあたらしい宗教運動とその教義は、産業や商品経済の盛行と不離なものだった。
 大ざっぱにいえば、当時(十六、七世紀)のヨーロッパ庶民にとってカトリック教徒であるということは、のんきなものだった。なにしろ教会が教会が神の卸し元になってくれていたのである。
 信徒たちは、神については教会にまかせきりで、それを頼りきったまま、口をあけたまま無知文盲でいることさえ可能だった。極端にいえば、自律的でなくとも、教会に行って罪を告解してさえいれば、あとは神父がよろしく神に対して処理してくれもした。
 ところが、十六、七世紀、もしくはそれ以前から、商品生産と流通がさかんになるにつれて、とくに都市のひとびとの頭の働きが忙しくなった。農村から出てきた者たちが、商人になったり、工房の親方、もしくは船の船長や会計係になったりすると、それ以前、農村の中で、教会と慣習にくるまれてのんきに過ごした日々がうそのように思われた。
 いわばべつの動物になったように、個人が矢おもてに立たされた。個人としての責任や義務だけで生きてゆかざるをえなくなったのである。
 もうひとつ言えば、自分のなやみを、教会に十把ひとからげに背負ってもらうようにいかなくなった。ともかくあたらしい社会は、個々の自律を要求した。たとえば銀行の書記たちが、たとえ一人でも自律的でなくなれば銀行業務という機械運動はストップせざるをえない。
『いっさいはこの銀行という建物が処理してくださいます』
 などと書記がそういって草っ原で昼寝をしてしまえば、世の中そのものも動かなくなってしまうのである。
 信仰の面でも、おなじだった。
『神さまのことはすべて教会だのみです』
 などと、商工業地帯のひとびとはいわなくなった。
 商取引は、あくまでも個人が個人に対しておこなう。神との取引も同様で、ローマ教会という中間業者を外して、神に対し自分自身がじかに取引せざるをえなくなった。それが、新教(プロテスタンティズム)というものだった。
 自然、新教は徹底的に自律を要求した。
 もはや神と自分のあいだには変電装置や避雷針がなくなった。神は雷のようにつねに垂直に個人の上にあり、罪や背教の行為については、神は轟々と落雷するようにじかに個人の上に落ちるのである。このため、新教の初期から十九世紀ごろまでのプロテスタントの信徒の典型は、凛乎として敬虔なものであった。
 この精神が、同時期に勃興してきたビジネス文明にも、よく適った。というよりも、初期ビジネス時代を動かした精神と、プロテスタントとは不離なものであった」

 こうしてプロテスタントがもたらした意味を司馬さんは定義するけれども、一方でカトリックもきちんと評価することを忘れない。
「カトリックは世界史上、偉大としか言いようのない宗教である。
 日本仏教とくらべてみるといい。日本仏教は十三世紀、鎌倉時代に大きな仕立てなおし(浄土真宗と禅などの成立)があったきりで、その教義はいかなる思想ともとも対決せず、むしろ退化してのんべんだらりとこんにちにいたっている様子であるのに対し、カトリックは時代ごとに手ごわい思想と血みどろに格闘し、そのつど手なおしをし、あるいは他の要素容れてきて、教義の繊維質が比類ないほどに強靱になっている」と。

『街道をゆく』30巻の「愛蘭土紀行Ⅰ」は週刊「街道をゆく」の53巻と52巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈30〉/愛蘭土紀行〈1〉
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022555502 (4022555505)
出版社:朝日新聞社 (1988-06-20出版)
版型:324p 19cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2007年03月07日

司馬遼太郎著『街道をゆく』29巻

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 今回は「秋田県散歩」と「飛騨紀行」である。正直な話、この両紀行、個人的に興味がわかない。要するにあまり関心がないのである。別にこの両地方を軽く見ているわけではないけれど、今の生活から遠く離れていること、自分の関心のある事柄がたまたまないという理由からそういっているだけである。こう見ると日本も広いものだ。いや、私自身が狭い中で生活しているということかもしれない。

 この両地方の特色を司馬さんはお酒にたとえているのが面白い。たとえば「秋田県散歩」では、東北地方を、「透きとおった怜悧さ。不合理なものへの嫌悪。独創性。精神の明るさ。独立心。名利のなさ。もしくは我執からの解放といった感じ」で、「人間の蒸留酒」が生まれているという。
 また「飛騨紀行」では、「山国で、高冷で、生産性がひくかったればこそ、文化が沈殿し、いい酒のように熟成された」と言うのである。
 そうした東北の「人間の蒸留酒」の典型として、陸羯南(明治の言論人)、原敬(平民宰相と呼ばれた)、高橋是清(財政家、蔵相)、狩野亨吉(明治期の非専門的な大知識人、京都帝大文科大学長)内藤湖南(明治の新聞論説筆者)らをあげているが、これに海軍の米内光政、井上成美も加えていい。彼らは薩長の閥をつくって、それによって保身をはかるということが一切なかった。あるいは狩野亨吉に見出された安藤昌益(1703?~62)もその典型だという。
 また飛騨地方が「いい酒が熟成された」地方だとして、無名の宮大工の仕事ぶりをあげる。
 きっとそれぞれの地方の風土がこうした人間を作り出したのだろうし、それを言いたくて司馬さんは名前をあげたのだろう。ただこうして名をあげられれば、なるほどと思えれば、私も日本史の知識がそれなりにあることになるのだろうが、悲しいことにそれがない。だからふ~んそうなんだとしか思えない。まったくお寒いかぎりである。もちょっと勉強しないといけませんね。

 むしろ関心があったのはタブノキであった。これは以前何かに書いたと思うが今回も書きたい。司馬さんは、秋田の象潟にある寺、蚶満寺に司馬さんの戦友だった人が住職がいるのでそこを訪ねる。(この友人と司馬さんの会話がいい。余計なことは一切語らず、短い言葉で会話される。昨今やたら修飾語が多い会話がはびこる中、こういうのって、なんかいいなぁと思うのだ)
 このお寺の境内の一隅大きな樹がそびえていた司馬さんは最初樟だろうかと思い、尋ねてみると、タブの木で、クスノキに似ているから犬樟ともいうと教えられる。後で司馬さんが調べてみると、タブノキはクスノキ科ではあるが、樟のような芳香がない。そのかわり樹皮に渋があって、八丈島では樹皮のタンニンを使って褐色の染め物に使っていると分かる。
 私の住んでいるところにもこのタブノキがたくさんある。それもかなりの大木になっていて、区の保護樹になっている。実は私の家の前にも大きなタブノキがあり、たくさんの落ち葉を落としてくれるし、実もたくさんなる。そのため我が家の玄関先はしょっちゅう掃除しないとならない。またこの実が小鳥たちのいいえさになって、実のなる頃はうるさいくらいなのだ。(今はウグイスの止まり木になっているようで、今朝も「ホ~ホケキョ」と鳴いていた)
 休日に散歩をよくするのだが、その道すがらにも大きなタブノキがある。


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 そこに立て札があり、そこにはこの家が昔このタブノキの樹皮を使って抹香を作っていたと書かれている。樟ほど強烈な匂いは発しないにせよ、タブノキがクスノキ科に属するというのだから抹香ぐらい出来るのだろう。(後でネットで調べてみるとそうではなく、どうやらタブノキの樹皮はお線香の接着剤あるいは凝固剤として使われたようである)
http://elekitel.jp/elekitel/nature/2004/nt_28_tabu.htm


『街道をゆく』29巻の「秋田県散歩」は週刊「街道をゆく」の48巻に、「飛騨紀行」は46巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈29〉秋田・飛騨紀行
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022555496 (4022555491)
出版社:朝日新聞社 (1987-09-30出版)
版型:402p 19cm(B6)
販売価:1,995円(税込) (本体価:1,900円)

2007年03月02日

司馬遼太郎著『街道をゆく』28巻

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 また司馬さんの『街道をゆく』に戻る。今回は全編韓国済州島の旅である。司馬さんは韓国の友人や知人と一緒に済州島の各地を訪ねる。

 今回はこの内容からそれる。ただまったく関係ないわけでもない。

 私がかねがね疑問に思うことがある。それはどうしてあんなに韓国や朝鮮の人々がいつも感情的に怒っているのだろうかということである。私には韓国の友人がいないのでよく分からないが、テレビに映る韓国や朝鮮の人々がいつも感情的に怒っているように思える。なんであんなに激高するんだろうとさえ思ってしまう。もしかしたらそれが民族的特徴なのだろうかと思う次第だ。論理的に、あるいは行動に他を認めない鋭さを感じてしまうのだ。
 たとえば日本の戦争責任や靖国問題など怒りたくなる理由は分からないわけではない。確かに日本はこれらの人々を蹂躙してきた。それは動かし難い事実である。だけどそのことをいまだに、こと何かある度、非難し続けるその理由が、被害者としての言うべき権利があることは認めるにしても、それを言い続けることが果たしてプラスになるのだろうかと思えるほど過激な部分を感じてしまう。
 もちろんこのことは非難されることも承知の上で言っている。しかし彼らが激高して日本を非難すればするほど、我々は引いてしまうところがある。正直な話、いつまで言い続けるのだという思いさえしてしまう。司馬さんも次のように言っている。
「私自身は、韓国・朝鮮が固有の気品ある文化を連続させてきたという点で、世界でも数すくない民族だと思ってきたし、この民族への尊敬心をうしなったことがない。
 だから、自国が近代史の中で三十六年間やったこと(日韓併合のこと)を、一市民である私が一身に背負っていちいち韓国・朝鮮人に頭をさげて歩くなどはかなわない。そういうことなら、この国の土を踏んだり、あるいはこの民族のひとびとつきあったりするなどしない。そのへんが、私は図々しくできているのである」
 司馬さん自身も日本が過去にやってきたことの後ろめたさを充分感じているものの、本音の部分では「かなわない」と言っている。言ってしまったことで自分自身を「図々しくできている」といってなんとか言葉をやわらげるほど気を使っている。

 今回この巻で、韓国や朝鮮の人々の中にあるこうした気質の源泉の一つが、朱子学にあるのではないかと思えるくらい、司馬さんはしつこいくらい朱子学に言及される。司馬さんは「私は朱子学の不毛な理屈っぽさがきらいだから、このことにやや私情が混入しているかもしれない」と断った上で、李氏朝鮮500年間朝鮮の知識人の歴史に朱子学はマイナス要素を与え続けたという。
 李氏朝鮮は1392年に興り、1910年に終わった。その間朱子学を官学とし、他の思想を許さなかった。その思想的弾圧は凄惨なもので、朱子学以外の思想をもつ人に対して容赦なく弾圧し続けた。
 日本ではこの500年の間、室町の貿易時代があり、応仁の乱があり、戦国時代があり、織豊の天下統一があり、江戸時代があり、明治維新があり、日露戦争があったが、朝鮮はどっぷりと朱子学のつかったまま、文化的停滞をしたままであり、近代化の準備が遅れた。その弱点を日本は衝いたのである。

 司馬さんの説明によると、朱子学は極度にイデオロギー学で、正義大系であり、正邪分別論の大系でもあったとする。その得意とするところが、大義名分論で、何が正で、何が邪かということを論議することにあった。
 こうした大義名分論を始めると、カミソリのような薄刃を研ぎに研いで、自傷症のように自らも傷つけ、他も傷つけたりする。これが年代を経れば経るほど、正の幅が鋭くなり、ついには針の先端の面積ほどもなくなってしまう。その面積以外は邪なってしまう。
 これが今の韓国や朝鮮の人々のそれこそDNAに刷り込まれてしまい、彼らの気質となって残ってしまったのではないか、と私はこの本を読んで思ったのである。彼らの理屈っぽさはここに由来しそうだし、その議論の鋭さは、朱子学が求める鋭さと似ているような気がするのである。

 今回に限らず、このシリーズで何度か朝鮮における朱子学の悪影響を指摘してきた司馬さんがこの巻ではこれほどまでくどく朱子学を非難するのかよく分からないが、ただこうした歴史背景が韓国や朝鮮の人々に何らかの影響を与えたことは事実だろう。私はただ彼らの激しさ、鋭さがこのあたりからも由来するのではないか、とふと推察したのである。
 
『街道をゆく』28巻の「耽羅紀行」は週刊「街道をゆく」の44巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈28〉/耽羅紀行(たんらきこう)
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022555489 (4022555483)
出版社:朝日新聞社 (1986-11-30出版)
版型:398p 19cm(B6)
販売価:1,890円(税込) (本体価:1,800円)