
今回は、「奥州白河・会津のみち」と「赤坂散歩」の2編である。
まずは「奥州白河・会津のみち」だが、会津のことを書く前に、私が興味を持ったのことを先に書く。山下りんのことである。
彼女は常陸国(茨城県)笠間の生まれで、明治初期にロシアに留学し、イコンを描くことを学んだ女性画家であった。だいたいこの時期にギリシア正教会の宗教画であるイコンを描く画家が日本でしかも女性でいたこと自体が驚きであった。
司馬さんはこの度の途中で、白河基督正教会聖堂という小さな教会を見つけ、ここに山下りんのイコンが50点ばかりあることを知り、彼女について書かれる。司馬さんもこの時期に山下りんという女流画家がいたことに驚かれ、「幕末・明治は、とても女流西洋画の画家を育てるような社会ではなく、それだけに彼女は天才である以上に奇蹟のようなかがやきをもっている」と書かれる。
確かに週刊「街道をゆく」の3巻にある彼女の作品を見ていると、これが明治の初めの日本の女性の作品とは思えなかった。
山下りんは、絵の修行のため17歳で上京する。
「りんの例をみるにつけても、芸術上のーとくに音楽・絵画という純粋芸術の場合ー才能とは病名のことではないかと思ったりする。とりわけ大いなる才能が宿る場合、宿主の魂を高貴にする一方で、宿主をたえずつき動かして尋常ならざる人生を送らせてしまう」と司馬さんが書くように、りんの人生はこれ以後波乱の人生を歩むことになる。
お茶の水にあるニコライ堂建てた神父ニコライはりんをロシアへ留学させた。りんは最初ルネサンス以後の西洋画を学ぶつもりであった。イコンそのものを「オバケ画」として激しく罵っているのである。
私が知っているイコンは、確かにりんのいうように「オバケ画」というのも分かるような気がする。それぐらい拙い感じを受けてしまう。しかし何故当時のイコンが「オバケ画」なのかを司馬さんはうまく説明する。
「ごく一般的には、絵というものは、文章とは別趣の情報をひとにつたえるものである。宗教画の場合、描き手の個性が自由に展開されれば、受けとめ手である信者は、絵の中の個性の部分まで聖性としてうけとってしまうかもしれず、”危険な”ものになってしまう」だから、「聖性のみを表現するために、描き手を法則でしばり、無個性を強いたのであろう」という。多分これが正しいような気がする。「無個性を強いられた絵」だから、りんは「オバケ画」として受け取ったに違いない。
私が見る限り、りんの作品は人間性が豊であり、その中にも神聖さを伴う。これを留学先のロシアの修道院でやれば異端として放り出されたであろうと司馬さんはいう。その上で、それを日本で許したニコライ神父はよほど大きな人物だった付け加える。
それにしてもりんの作品をじっと見ていると、本当にこれが明治の初めの女性が描いた作品かと思うほど、ほれぼれしてしまう。
さて、会津である。司馬さんは「なにから書きはじめていいのかわからないほど、この藩についての思いが、私の中で濃い」とか、「幕末・維新の会津藩について、つよい同情がある」と書くぐらい、会津藩について、あるいは会津についてこの紀行で触れないわけにはいかなかっただろうと想像する。
「会津藩にとっての最大の難事は、幕末、幕府が、ほとんど無秩序になった京都の治安を回復するために、会津藩主松平容保(1835~93)を起用して”京都守護職”にしたことである」
容保は体調が悪く、しかも京都守護職は自分には不向きと再三断ったが、幕府も執拗で、その命を受けざるを得なくなる。その時、容保は「わが家祖(保科正之)の遺訓に、宗家(徳川将軍家)と存亡をともにすべしとある。もはや遺訓に従って、火中に入るしかないと決心した」として、幕命を受け入れたという。
ここで「もし」という話をしたい。もちろん歴史に「もし」なんてないのだけど、司馬さんが考える「もし」は面白い。
「もし、徳川慶喜が恭順せず、その領地も新政府にわたさず、箱根をもって第一防御線として、関東・奥羽・北越の諸藩をひきいて新政府軍と決戦したとすれば、日本史はべつの運命をたどったはずである」という。
西郷隆盛が官軍を率いて東進していた頃、勝海舟は幕府の保有する軍艦で官軍の後方にまわり、攻撃をすれば、官軍はどうなっていただろうといったという。また西郷もそのことを怖れていたともいう。当時最大の軍艦保有者は徳川幕府であった。華々しく見える官軍など、当時大した兵力ではなかった。やろうと思えば出来たかもしれない。
けれど、慶喜は舞台から自ら降りてしまった。その後を任された勝もそうしなかった。そのことは「維新の最大の功労者は慶喜だった」と司馬さんがいうのも納得しちゃう。
しかし慶喜が舞台から降りた以上、新政府軍を一身に引き受けざるを得なくなったのが会津藩であった。
明治維新が革命である以上、会津藩は革命の標的(当時でいう”朝敵”)にされ、会津攻めが革命の総仕上げとなってしまった。そうしなければ革命が成就しなかったからである。結局慶喜が舞台から降りたため、血祭りにされたといっていい。しかもこの戊辰戦争後でも、その激しさは続く。
「明治政府は、降伏した会津藩を藩ぐるみ流刑に処するようにして(シベリア流刑を思わせる)下北半島にやり、斗南藩とした。この地は三万石といわれているが、実質七千石程度で、そういう寒冷の火山灰地に一万四千二百八十六人が移った。藩士たちのくらしは赤貧というようななまやさしいものではなかった。あたらしい藩主容大(移住のときは生後一年四カ月)自身、衣服にシラミがわくという状態で、他は文字どおり草木根皮を食べた」という。
これを司馬さんは「権力の座についた一集団が、敗者にまわった他の集団をこのようにいじめ、しかも勝者の側から心の痛みも見せなかったというのは、時代の精神の腐った部分であったといっていい」と断罪する。
このシリーズを読んでいて、何度か明治維新という革命にふれられているけれど、当時の新政府は何も持っていなかったし、しばらくの間何も出来なかった。明治維新がなったときでさえ、徳川幕府が作った様々なシステムをそのまま使い続けていたことを知るし、幕府が行った行政を逆に否定することで、民政がおかしくなったことも書かれている。
西郷にしても大久保にしても徳川の後どうするかという先のビジョンはなかったといっていいのかもしれない。とりあえず幕府を倒して、その後考えましょうというスタンスであった。そう考えると、明治を興した彼らを英雄視するのもいいが、果たしてそれだけでいいのだろうかと思ってしまう。二百年続いた徳川幕府の置き土産があったから、明治はなんとかやれた部分があることを知るべきではないかと思う。
長くなった。「赤坂散歩」にふれなければならない。このシリーズは「○○紀行」、「○○のみち」、「○○散歩」と表題を書き分けている。最初はそれほど気にしてはいなかったが、「○○紀行」、「○○のみち」と書かれたものは、結構詳しく記述している。それこそ1冊の本としてまとめているくらいだ。しかし「○○散歩」となると、ちょっと休憩といった感じで、司馬さんの小説によく出てくる「閑話休題」みたいなところがある。けれど、その「閑話休題」が面白いのは言うまでもないだろう。
この「赤坂散歩」から司馬さんの東京に関する紀行が始まるので、まずは散歩からはじめてという気分なのかもしれない。もちろんここの内容は興味深かったが、また長くなるのでやめておく。
『街道をゆく』33巻の「奥州白河・会津のみち」は週刊「街道をゆく」の3巻、「赤坂散歩」は29巻に収録されている。
書誌
書名:街道をゆく〈33〉/奥州白河・会津のみち;赤坂散歩
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022555533 (402255553X)
出版社:朝日新聞社 (1989-11-30出版)
版型:384p 19cm(B6)
販売価:1,890円(税込) (本体価:1,800円)