2007年03月23日
司馬遼太郎著『街道をゆく』34巻
このシリーズも残り9冊となった。今この『街道をゆく』は読み直していることになっているのだが、実はこの巻以降、読んでいない。つまりこの巻で挫折してしまったのだ。ただ、36,37巻は読んでいる。
どうして挫折したかというと、この巻の「大徳寺散歩」が私にとって歯が立たないものだったからである。大徳寺というお寺がどういうお寺であるかも知らないし、臨済禅というのもなかなか頭の中に入ってこなかったからだ。要するに難しかったということである。前回「○○散歩」という表題はちょっと休憩といった感じだと書いたが、感じとしてそうなのかもしれないが、今回は私には難しかった。
大徳寺にある山門(金毛閣という)があの千利休が秀吉に切腹を命じられた原因の門であることを思い出した。この山門は利休が建てたものなのだが、そこに自分の像を置いた。しかし山門を通る人たちは、その利休の足下を通ることになるので、当時の天下人秀吉も利休の足の下を通ることになる。それがけしからんということで、切腹を命じられてしまった。もっともそれだけで切腹はないだろうと思うから、この時期、秀吉と利休の関係が悪化していたのだろう。
大徳寺は臨済禅の寺で、いわゆるわび、さびを重んじる寺なのだが、この門の派手さはちょっと異質な感じを与えるらしい。まして利休はそのわび、さびの大家だから、この寺にこんな派手な門を建てること自体、利休にどこかおごりがあったのではないかと司馬さんは言っている。
大徳寺の特徴は大燈国師(1282~1337)以来きびしい禅風を守り、出来るだけ世間の喧噪から離れ、名刹や古刹が観光資源化しているこんにち、大徳寺は山内の一部を除いて俗化を拒んでいる。塔頭には「拝観謝絶」という木札を掲げて観光化を防いでいる。
大徳寺は二十数寺の塔頭(「たっちゅう」とよむ)が本坊を包み込むように広がっているところで、その塔頭とは何かというと司馬さんが次のように説明する。
「"塔頭"ということばは、禅宗では多用される。臨済宗の各大本山のなかにある子院は"塔頭"とよばれるのである。
塔もないのに塔頭というのはおかしいが、この場合の"塔"とは墓碑のことである(卵塔・五輪塔などをおもえばよい)
高僧や施主の墓(塔)のほとりに庵をたて、亡き師に対し、生けるがごとく仕えたところから、塔頭ということばができた」と。
要するに大徳寺にのまわりにいくつかの子院が取り巻いていて、全体として大徳寺をなしているということなのだろう。大徳寺は、一休や沢庵を輩出した。
司馬さんは「室町といえば、現在の日本文化の源流がことごとくこの時代から興っているのである」という。茶もそうだし、わび、さびの意識、数寄屋普請もこの時代から始まった。面白い時代のようだが、如何せん私にはその知識がない。さらに仏教にしたって、ここの禅がどういうものなのかよく分からない。ここで司馬さんは「絶対他力の親鸞念仏と絶対自力の禅がうまれ、相まって日本文化にふかい影響をあたえた」というが、うまく私の中でイメージできない。
このシリーズを読んできて、自分のいる国のことをよく知らないというのはどうしようもないと思う。せめて歴史ぐらいきちんと勉強しておけばよかったと思うのである。今回この巻の司馬さんの文章がうまくイメージ出来ないのもそこに由来する。以前は分からないから、いいやという感じで諦めてしまったけれど、日本人なのだからせめて日本史の常識ぐらい知るべきだと今は感じている。だから今回はこのシリーズを読破するつもりでもいる。私にとって司馬さんのこのシリーズは日本史の教科書みたいなものなのである。
「中津・宇佐のみち」は日本に存在する八幡神の故郷を訪ねる旅である。
「この神は、もっとも早い時代に仏教に習合したから『八幡菩薩』などともよぶ。
日本の津々浦々に多い神々といえば天神(天満)さんに八坂神社、それにお稲荷さんだが、わが八幡宮は、それを超えて、全国で四万余社といわれる。
八幡神は十二世紀には清和源氏の氏神になり、その家系の源頼朝が鎌倉幕府をひらいてから、諸国の武士たちが八幡をまつるようになって、大いに流行した」と司馬さんは説明してくれる。
その八幡神は、古代、豊の国(豊前と豊後。今の大分県)から興った。古代この地方で朝鮮半島から渡来した秦氏が水田を開いた。つまり八幡の"はた"は秦氏の"はた"で、八幡神は秦氏の農業神だったのである。それが奈良朝時代は神託をくだす神として天皇の宮廷には入り、そのあと源氏の氏神となり、武神となった。このあたりも渡来系の神さまが日本で変遷していくさまは面白い。司馬さんは薦神社、宇佐神宮を訪ねる。
また中津は黒田如水が大名としていた土地であった。黒田如水というより黒田官兵衛というほうが私には懐かしい。黒田官兵衛は竹中半兵衛とともに秀吉の謀臣であった。司馬さんの『新史太閤記』で出てきたはずだ。また中津は福沢諭吉の生地でもある。
中津での黒田時代は13年しかなかった。この後細川忠興から細川時代が始まるが、忠興・忠利も熊本に去る。その後譜代の大名、小笠原氏、奥平氏と続く。この譜代大名下での支配が福沢諭吉の思想に影響をあたえる。司馬さんはいう。
「譜代藩の多くは、ぬしの徳川家康が天下をとることによってにわかにつくられた藩なのである。だからたいていは三河風の質朴さがあるものの、一面封建門閥制において教条的だった。
しかも、譜代藩は転封が多く、土地の文化や風土とはどこかチグハクで、領民との一体感も多くはもっていなかった」とか「多くの譜代藩は、文化は差別だけが文化かと思わせるようだった」と。
中津でも同様で、そんな風土を諭吉は腹ただしかった。密かに世の権威や神秘性というのに挑戦を試みた。かれの「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉はそうした不条理から生まれたといっていい。
風土は何らかの影響を人物の性格にあたえるものだということを改めて知る。
『街道をゆく』34巻の「大徳寺散歩」は週刊「街道をゆく」の14巻、「中津・宇佐のみち」は34巻に収録されている。
書誌
書名:街道をゆく〈34〉/大徳寺散歩;中津・宇佐のみち
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022555540 (4022555548)
出版社:朝日新聞社 (1990-04-10出版)
版型:353p 19cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)
- by kmoto
- at 20:31
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