2007年04月25日

司馬遼太郎著『街道をゆく』40巻

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 今回は「台湾紀行」である。私は台湾について詳しいことは知らない。蒋介石が作った国だと長いこと思っていた。これがとんでもない間違いであったことを今回知る。
 今中国は台湾の存在を認めていない。「一つの中国」として、台湾を見ている。つまり台湾は中国本土の一部だと考えているわけだ。日本も田中角栄首相の時、「日中国交正常化」を整えたとき、台湾と断交した。それまで日本は、中国とは台湾を意味していたのが、これによって中国本土が中国としたのである。
 私は馬鹿だったから、台湾も蒋介石が作った国だし、同じ中国人の国なのだから、中国が主張する「一つの中国」は何ら問題のない主張だと思っていた。
 だけどよく考えてみると、中国が台湾は自分の国だというなら、台湾(中華民国)にとっても、中国大陸のすべてやモンゴルやチベットは台湾のものだと言えることになる。もちろんこれは台湾の人々が声を上げて言っている訳じゃない。司馬さん言う空想である。でも論理としては矛盾はない。ただ中国が台湾を自分の国だと主張する背景には、自国の国力にものを言わせているのところが感じる。
 司馬さんはこの紀行文で、台湾を通して、国家の起源論を考えている。

 清王朝にとって台湾は"化外の地"であった。要するに19世紀末までボートピープルや流民、棄民たちが暮らしていた島であった。国として清王朝が所有権を主張していても、ほとんど支配権などなかったといっていいようだ。言ってみれば歴史の空白地帯であった。
 1894年日清戦争が起こり、日本は台湾を植民地化した。以後50年に渡り台湾は日本の統治化に置かれた。日本は台湾を植民地化することで「文明」を持ち込んだ。児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造らが統治をし、八田與一という技術者が台湾に「文明」をもたらした。
 李登輝さんが面白いことを言っている。「植民地に対して宗主国というのは、自国いいところを見せたがります。シンガポールに対する英国もそうでしたし、台湾における日本もそうでした」と。これに対して司馬さんも同意し、「そういわれてみると、古いころの日本は国力の点では分不相応に、台北において上下水道など完備させている。いい格好をしてみせたかったのにちがいない」と言っている。
 日本の敗戦という形で太平洋戦争が終わり、日本は台湾から去ることになる。そこへ中国共産党に敗れた蒋介石が大陸から「中華民国」という国名を背負って泥靴で上陸してきた。彼らは支配階級を作り、ときに本島人を殺し、凌辱し、差別した。
 地生えの本島人にとってみればたまったものではない。「中華民国」がこの小さな島にのしかかり、陳儀以下の軍人・官吏は宝の山に入り込んだ盗賊のように掠奪に奔走し、汚職のかぎりをつくした。そのさいたるものが、1947年2月28日に起こった二.二八事件であった。
 司馬さんは「漢民族にとって歴朝の国家が皇帝の私物であったように、この台湾も、ながく蒋家に私物同然だった」と言い切る。本島人の間では「犬(日本人)が去って、豚がきた。犬はうるさいが、家の番はできる。豚はただ食って寝るだけだ」という悪口が流行ったという。
 1975年蒋介石が88歳で亡くなり、長男の蒋経国が総統となる。「蒋経国は私としての権力の命数をよく知っていたようで、総統就任以前から台湾人の俊才を抜擢しはじめた」という。
 蒋経国は1985年12月に「蒋家の者が権力を継承することはない」と公言した。更にその翌々年「台湾がやがて本島人たちのものになる」と発言し、同7月に40年近く続いた戒厳令を解除し、その翌年、1988年1月に死んだ。
 蒋経国は死の4年前に後継者に台湾人で学者でもあった李登輝を副総統にしていた。総統の死後、李登輝副総統が憲法の規定で、1988年1月に新総統に就任した。
 ここに「台湾のひとびとの表情が、一挙におだやかになった」と司馬さんは言うのである。
 これが台湾の現代史である。台湾は確かに大陸から来た、蒋介石たちに支配され、中国人の国であるかのような形になったけれど、彼らは最初から「中華民国」という国を背負ってここにやってきて、居座っただけのことであった。台湾の人たちが自ら作り上げた国ではなかった。つまり「一つの中国」ではなかったことになる。李登輝さんが総統になって初めて、自分たちの指導者を得たことになる。ここに中国本土の指導者が声高に主張する「一つの中国」には無理があることを知るのである。台湾は台湾なのである。

 私もそうなのだが、その国の歴史的背景を何も知らないで、知ったかぶりしてものを言うのは恐ろしい。

 それにしても、このシリーズを読んできて、司馬さんが入れ込み具合の強弱がよく感じる。今回の台湾紀行はかなり熱かった。その分台湾が抱える歴史的諸問題がよく分かり、中国が主張することが、そう簡単な問題でないことを知らされる。


『街道をゆく』40巻の「台湾紀行」は週刊「街道をゆく」の9巻に収録されている。


評価
★★★★

書誌
書名:街道をゆく〈40〉/台湾紀行
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022568083 (4022568089)
出版社:朝日新聞社 (1994-11-01出版)
版型:502p 19cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2007年04月16日

北尾トロ著『裁判長!これで執行猶予は甘くないすか』

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 この本新聞広告で見て購入した。最初、ほほ~、トロさんの本が文藝春秋からでるのかぁとちょっと感心しちゃった。まぁ、この本の第一弾が文春文庫から出て、今でも売れているというし、しかも最近はトロさんの本に刺激されてか、こうした裁判ウオッチャーによる裁判傍聴録がいくつも本屋さんで並んでいるから、関心が高いのだろう。特に近々裁判員制度が施行されるから余計なのかもしれない。だから第二弾となれば文春から出ても不思議じゃないが・・・。

 それはそれでいいのだけれど、どうも今回は大笑いできなかった。第二弾ともなると、いささか食傷気味だ。むしろ国民の血税を使って、こんな奴たちの裁判を永遠とやっているのかと思うと、いくら人権擁護のためとはいえ、いい加減にしろと言いたくなっちゃう。
 確かにトロさんの傍聴記は笑えるのだけれど、どこか素直に笑えなくなってきて、引きつった感じが残ってしまった。とにかく呆れちゃうのだ。
 たとえばワイドショーでメジャーな事件もここでは傍聴されているが、いくつか書いてみたい。

 東京駅のコンビニ店長刺殺事件をご存じかと思う。この犯人の小松(仮名)が東京拘置所内で、「有名人の小松です」、「サインでもしましょうか」と自己紹介をしたという。そこで一緒になった奴が証人として出廷した。こいつ小松とも文通していたらしく、そこで小松が事件を反省していないから義憤にかられて、その手紙を「週刊現代」に公表したという。
 これに対して弁護側は「週刊現代」からいくら報酬をもらったのかと質問する。10万だと最初はいうのだが、それだけかと聞き返されると、もう10万もらったという。トロさんは「人間として許せないという義憤から告発したにしては、20万はもらいすぎかも」と思った瞬間、弁護側は手紙を公開した大きな理由は、お金が欲しかったからじゃないのと聞かれれば、この証人あっさりと認めてしまう。ここで弁護側に流れが傾き始めたのに、ミスを犯してしまう。それじゃどれほど無反省だったのか証人に聞いて、パチンコの海物語がやりたといっていたという証言を引き出してしまう。パチンコの具体的な機種を言わせちゃったから、犯人の小松がいかに無反省だったか、それを証明してしまった。つまり弁護にならなかった訳だ。

 またスーパーフリー事件というのもあった。その事件の被告が、検察にスーパーフリーから抜けて、再度大学受験をして、また戻ったことを聞かれると、答えた言葉が「また、いい思いをしたいなあと」思ったからと答える。(呆れる)そして「無理打ちとは泥酔状態女をマワすことで、和み打ちはまだ意識があって嫌がっていない状態でマワすことだ」と仲間内で使われる言葉の説明をいけしゃあしゃあと説明する。その上「意識がないと反応がなく、死体みたいで気持ち悪いのでヤリません」と馬鹿丸出しで言うのである。一流大学の学生がである。こんな奴一生刑務所から出しちゃあかん!しかもここには後日談が書かれていて、この被告の親は600万円の示談金を出したそうである。子も子なら、親も親である。

 もう一つ。法の華の福原法源のお言葉である。信者に自分の著作を最低3冊は読めと言ったそうなのだが、検察が自著が100冊近くあるけど、これ全部自分で書いたのかと聞かれれば、すべてゴーストライターが書いたと平気で言っちゃうし、それでもあなたの著作というのだからチェックぐらいするでしょうと質問されれば、1回も目を通したことがない。何故なら本を読むと眠くなるからと言うのだ。これを聞いた信者はどう思ったのだろうか?どちらかといえばそっちの方が気になる。

 ということで、ワイドショーで放送されない「その後」をこの本で知ることが出来るけれど、こんな被告を告発する検察も大変だ。
 また弁護人にしても、たとえば自転車籠に置き忘れられたバッグを盗むのを一部終始警官に見られているにもかかわらず、自分は交番に届けようとしていたのだから無実だと言い張る前科7犯の窃盗常習犯の裁判。犯人はどんどん交番から遠ざかっていたのに、平気で無実を主張する。これを弁護するのも大変だ。結局弁護人が言った言葉は「被告人の行為は怪しいかもしれませんが、大きく迂回しながら交番に向かおうとしていたにすぎず、無罪です」である。トロさんじゃないが「くはは。どんな回り道だよ。いくら代理人の立場でも、しゃべっていて恥ずかしくないのかね」と言いたくなる。
 裁判官も検察も、弁護士も、そして被告も被害者もみんな人間なのである。だから喜劇も悲劇も生まれるのだ。

 どこかのブログでトロさんの裁判傍聴記を不謹慎だと断罪し、かなりの不快感を示していたのがあったけれど、この人にとって裁判は神聖なものでなければならないのだろう。法というルールに沿って、きちんと判決が行われるものだという頭があるように思える。裁判官が判決を法に沿って下しているのだから、それは法治国家である以上絶対だという意識があるように思えてならない。
 でも、時に判決がおかしいんじゃないの?と思えることがある。世間の感情からかなりかけ離れた判決が下されるのは、法重視が生んだものだからである。
 もちろんきちんとした定規は必要である。だけどよく考えてみれば、法を作ったのも人間である。そして裁判官も人間、検察、弁護人も、そして被告、被害者傍聴者も人間なのである。そこには人間であるという幅というか、曖昧さ、言ってみれば感情がどうしても伴うはずである。だからそれに訴えてそれぞれの立場の人間が自己主張するのだ。その上で判断が下される。被告をどう思うかから始まって、それは法に照らし合わせれば、こうした判決になるというのが裁判の過程だろう。だったらトロさんが傍聴で感じたことが、不謹慎だと断罪できない。トロさんは裁判を傍聴して、感じたことを書いているだけのことだから、ある意味裁判に個人的ではあるけれど、参加していることになるのではないだろうか?私に言わせれば第三者が正義面している方が偽善者っぽい。

評価
★★★


書誌
書名:裁判長!これで執行猶予は甘くないすか
著者:北尾トロ
ISBN:9784163675602 (4163675604)
出版社:文藝春秋 2007/04出版
版型:19cm 236p
販売価:1,100円(税込) (本体価:1,048円)

2007年04月15日

大下智一著『山下りん―明治を生きたイコン画家』

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 この本も司馬さんの『街道を行く』を読んで、山下りんという人を知り、更に詳しく知りたいと思い探した本であった。この本は山下りんの評伝である。
 先の米村喜男衛さん同様、明治の日本人のひたむきさ、その情熱、偉大さ、さらに時代が時代だけに並大抵の苦労を強いられたことを知らされる。とにかく山下りんは描きたかった。その一心であった。

 りんは安政4(1857)年5月22日、常陸国笠間藩(現・茨城県笠間市)に、父重常、母多免の長女として生まれる。母多免が大変絵が好きであったことこらか、りんも幼い頃から錦絵を好んで描いていた。
 最初は浮世絵師国延の元で学びはじめるが、5日やめてしまい、次にやはり浮世絵師豊原国周の元で学婢、すなわち住み込みの弟子として入門する。けれど、5ヶ月目で「面白からぬ」目にあってそこを去る。
 その後円山派の月岡藍雪という日本画家も元へ行くが、この時期日本画は廃れに廃れ、こうした日本画を巡る状況にりんは見切りをつけた。りんの決断の早さ、人並み外れた実行力は生涯変わらず、そこには郷里笠間で「良師」が見つからなかったから、それを探す賢明な旅でもあった。そこには描くための行為しかない。
 その後りんは西洋画師、中丸精一郎の元で学び始めるが、中丸はりんにとって良き師であったようだ。
 そんな中、明治9年に工学寮美術学校、すなわち後の工部美術学校が開校され、そこへ何とか入学することとなる。
 工学部美術学校初代画学教師はイタリアのフォンタネージであったが、彼は「日本近代絵画の祖」として現代でも高く評価される人物だそうだ。当然りんにとっても良師であったはずで、著者はフォンタネージに学んだこの時期がりんにとって最も充実した時期ではなかっただろうかといっている。
 しかしフォンタネージは脚気に悪化を理由に任期半ばで帰国してしまい、後任にプロスベッロ・フェレッティという人物が赴任してきた。この人物、技術・人格とも劣り、りんも「言語にかかわらぬ大ヘタ者」と断罪している。学生はどんどん辞めていくが、りんはそれでも西洋画を学びたい一心でここにとどまる。
 そんな中、りんと共に工部美術学校に学ぶ女学生の山室政子との出会いはその後のりんの運命を決定づける。
 政子は神田駿河台の日本ハリスト正教会入学し、洗礼を受け、日本ハリスト正教会の長ニコライの援助でこの工部美術学校へ入学していた。ニコライは政子にイコンを描く画家にさせるためにここに入学させていた。
 政子とりんは生活が窮状していたという境遇が似ていたために親密になり、りんにハリスト教会に入信することを勧め、りんはニコライによって洗礼を受けた。
 ニコライには「日本の教会は日本人伝教者たちの事業」考えていたので、その一環で日本人のイコン画家を育てるために、ロシアへの留学生派遣を計画していた。最初はその候補が政子であった。しかし、政子は美術学校を退学して結婚してしまったため、りんに白羽の矢を立てたのであった。りんはこのニコライの野望は知らなかった。ただ彼女は、「自ら望み、懸命に学んだ『洋画』の技術が生かされる道があるならば、という一途な、しかし漠然とした『夢』があるだけ」でロシアへ留学した。
 明治13年、香港、シンガポール、セイロン、スエズ運河を通り、コンスタティノープルから、サンクト・ペテルブルグへ3ヶ月あまりかけてロシアに入った。
 しかしこの船旅は悲惨なもので、同行の人物のベビーシッターとして「奴レイ」のように扱われ、寝床もちゃんとした船室ではなく、食事も客の余り物であった。こうしてペテルブルグのノヴァジェーヴィチ復活女子修道院での生活が始まった。
 最初はエルミタージュ美術館での模写日々であり、りんにとっては喜びの日々過ごしていたが、そもそもりんの留学目的は洋画家にさせることことではなく、イコン画家させることであったから、エルミタージュ行きが急遽中止され、イコンの修行をさせられることとなった。
 ところでイコンにはビザンティンの流れをくんだ「ギリシア画」とルネサンス以降ヨーロッパ絵画の影響を受けた「イタリア画」があった。当然最初は「ギリシア画」であったろう。そして「イタリア画」が出てきたものと思われる。しかし19世紀後半、ロシアでは自国の古典的なイコンを見直そうという動きが強まり、西欧化されたリアルな表現より、古来イコンが持つべき精神的内容が重視されつつあり、当然りんのいた修道院にもその波が及ぶ。りんの日記にも、「此日画ノ事ヲ種々聞ユ イタリア画ヲ嫌ウ様子ナリ ギリシア画ノヲバケ画を好ムハ実ニカナシムノ次第ナリ」と書かれている。
 こうしてギリシア画中心の指導に変わっていく中、修道院では教師とりんとのあいだで確執が生まれ、大げんかになる。りんは精神的にまいってしまう。そのため5年の予定を2年で切り上げ明治16年帰国する。
 帰国後りんは、駿河台のニコライ女子神学校内宿舎に住み、ロシア語を教えたりしていたが、イコンはすぐ描いていない。日本におけるりんの最初のイコンは明治22年に描かれていて(現存していない)、その後来日中のロシア皇太子ニコライの誕生日を祝うため日本ハリスト正教会からイコンを描くように命じられている。図柄は「ハリスト復活」で最近エルミタージュ美術館で発見された。
 ニコライ堂にもいくつかの大作のイコンを描いているらしいが、関東大震災で焼失してしまった。帰国後、一時教会から離れた時期もあるが、りんは、およそ30年にわたりイコンを描き続けた。昭和14年、故郷の笠間で81歳の人生を閉じた。

 イコンは教会が示す手本に忠実に沿って描き出すことが伝統的習わしであった。聖像表現のルールに則って模写してあれば、たとえ印刷物であっても、祈りをなす上では「本物」のイコンと何ら変わらないとした。そのため山下りんが描くイコンも、基本的にロシアのイコンを模写であるという。りんにはイコン画家として自由にイコンを描く道はなかったのである。だから後に「ヲバケ画」と蔑んだ「ギリシヤ画」を模写もしているのだろう。
 ただ優しい顔ということで、「イタリア画」を主に選び、イコンを描く伝統を守りながら、その中で日本人好みの顔で描いているようにも思える。確かにこの本の口絵にあるりんのイコンを見ていると、どこか西洋人が描いたものとは違うと感じる。
 長いこと眺めていると、どこかちぐはぐな感じがしてしまう。それは絵の内容が聖書の中の物語でありながら、そこに描かれるキリストやその他の聖者が日本人好みの顔で描かれているからではないかと思うのだが・・・。
 もちろん、それは外野で偉そうに言っているだけで、明治のあの時代に、女性一人ロシアに渡り、イコンの修行を苦しみながらして、帰国後、イコンの伝統を守りながら、日本でイコンを書き続けたことは、やはり一種の狂気に近いものがあると思える。


評価
★★★


書誌
書名:山下りん―明治を生きたイコン画家
著者:大下 智一
ISBN:9784894532854 (4894532859)
出版社:(札幌)北海道新聞社 (2004-03-25出版) ミュージアム新書
版型:242p 18cm
販売価:1,155円(税込) (本体価:1,100円)

2007年04月13日

米村喜男衛著『モヨロ貝塚』

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 司馬さん『オホーツク街道』を読んで米村喜男衛さんの書かれた本が読んでみたい思った。この本が14年前に出ているので、ここに紹介されている米村さんの著作がもしかしたら手にはいるかもしれないと思い、まずは紀伊国屋のサイトで検索したら、該当がないと出る。ということは新刊書店では手に入らないということになる。で、仕方がないので「日本の古本屋」で検索したらヒットした。で、手頃な値段でこの本を入手した。今から38年前の本であった。読んでみると面白い。その純粋さ、熱意がひしひしと伝わってくる。

 米村さんは明治25年(1892)青森県津軽郡常盤村大字久井名館で生まれた。子供の頃は家の事情もあって、おばあちゃん子で、昔話や民話など聞いて育った。

 「小学校の尋常科三年のときである。山手の畠で遊んでいた私は、偶然に、削ったように尖った形の石ころをひろった。
 ついぞ見かけたことのない石だったので、ふしぎに思い、学校へ持っていって、佐藤良一という先生にたずねたところ、先生はびっくりしたよううすで、
『これはよいものを見つけた。これはたぶん大昔、まだ世の中に金というものがない時代には、このように石をかいて(割って)刃物にして使ったとのことである。これは、その頃のものかもしれない』
 と教えてくれた。
 これが私の石器を手にした初めであった。
 それ以来、私は祖母からいろいろと話して聞かされたことが、大昔には実際にあったことのようであり、この石ころが何かそれに関係あるように思われ、私はそこに秘密のおもしろさというものを感じたのである。それからというもの、私はもっともっと集めてみよう、と一生懸命なった」

 その後日露戦争があり、国内が不景気になり、米村家でもその波に襲われ、米村さんは学校を辞めて、働かざる得なくなる。米村さんは床場(床屋)で修行し働くようになった。このことは米村さんが手に職をつけることになり、後に北海道へ渡ってもその技術で糊口をしのぐことができることとなった。
 米村さんは弘前で床場の小僧となり、修行を始める。一方で、職人達が遊び回る中、考古学の勉強を独学で続けていた。年季が明けてから東京へ出て、考古学の研究をしたいと思い、神田小川町の理髪店に勤める。
 ここは神田の書店街が近いので、お金さえ出せば自分が欲しい本が手に入るという環境に喜びを感じていた。古本をあさり、徹夜して本を読み続けた。それこそ欲しい本を手にしたときは、なめるように読んだのだろう。そして東京大学人類学教室の鳥居竜蔵を訪ね、その指導を受けるようになった。
 鳥居に指導を受けながら、米村さんは鳥居が初めて貝塚を発見したのはどこかと尋ね、その話を聞いているうちに、自分もどこかで貝塚を発見したいものだと思い始めた。
 そんな中、神田の古本屋で鳥居が書いた『千島アイヌ』という本を手に入れ、いまだ原始的な生活を営んでいるアイヌ人を見てみたいという衝動に駆られ、明治40年に北海道に渡る。
 ここでも理髪職人として函館で働きながら、アイヌの研究をするにはどこへ行けばいいか検討できた。アイヌ研究にはオホーツク海に面した網走いいと判断し、3日かけて網走へ向かった。そして網走川の川岸に厚さ1メートルもある貝塚の層を見つけ、棒の先でくずしてみると、貝殻の中から、石器や骨角器、土器などが出てきたのである。このときの米村さんは自分自身に「おちつけ、おちつけ」と言い聞かせたという。ついに米村さんは貝塚を発見したのである。「モヨロ貝塚」であった。
 ただここは米村さんが最初に発見した場所ではなかった。ここは明治20年代に、学会には報告されてはいたが、大ざっぱな発掘しかされておらず、後はそのまま放置されていた。
 そして米村さんは網走に定住してこの貝塚を研究しようと決意する。ここでも理髪師の技術が役に立つが、ただ雇われていては自由な時間持てない。そこで自分で店を持つことにした。店名を「ババーショップ」とした。子供たちが「ババーショップ、ババーショップ」と騒ぎ立てたことが評判になり、東京から来た床屋さんということで商売は繁盛した。
 こうして床屋家業に精を出す一方、夜が明けきらぬ暗いうちに、遺跡へ出かけ、土器や石器、骨角器、人骨などを掘り出し、閉店後夜遅くまで参考書と首っきりで調べる毎日を過ごした。
 掘り出した資料は、家の一部を改築して、郷土研究の資料室にし、展示した。 米村さんは床屋、発掘という毎日を過ごす一方、地元にとけ込むことも真剣の考え、床屋の補習学校を自分の店で開いたり、災害時の救護活動する網走救護団を作ったりした。もちろん発掘も進み自宅を完全に資料室して、「郷土室」とした。また同好の士とともに網走史辿会を作り、一緒に研究する。またアイヌの古老からアイヌの民話を聞いて、それを子供劇にして、地元の子供たちに演じさせたりもした。そしてここで結婚もされた。
 おかしかったのは、奥さんのいささんが結婚後10日目に家出をしたことである。ある時、部屋にある箱の蓋を開けたら人骨がいっぱいであった。(奥さんは米村さんがただの床屋ではなく、アイヌの古代を研究する人だとしか聞かされていなかったのである)最初は別段気にもしなかったらしいが、一人になると骨がカチカチ音を立てているように聞こえ始め、そのうち化けて出てくるんじゃないかと思い、怖くなり、居たたまれなくなって家を出てしまったという。それを聞いた米村さんは慌てて奥さんの実家へ行って、話し合い、なんとか収拾がついたという。
 同じようなことが、仲間と一緒に発掘した帰りに、飲み屋一杯やったときにも起こった。お金が足りなくて、後でお金を持ってくから、持っていた風呂敷の包みを置いていくと仲間が言ったのである。そこには発掘した人骨が入っていたのである。女将はそれを見てしまい、卒倒してしまい大騒ぎになったと女中が文句を言いに来たという。そりゃそうだわな。いくら遺跡から出土したものとはいえ人の骨である。考古学者ならともかく、普通の人なら、いきなりそれを見たら驚くに決まっている。

 その奥さんも発掘された人骨の洗浄を進んでやられるようになったというし、東京から来る研究者をモヨロ貝塚に案内したり、本職の床屋もやるようになったという。
 モヨロ貝塚を東京の研究者などに見てもらうのは、米村さんのとっても、また貝塚の評価という上でも、歓迎すべきことなのだが、もてなすのは米村さんである。費用は米村さんの自腹であった。まして戦後の食糧難の時代である。統制が引かれている。こんなとき一番苦労されたのは奥さんのいささんであった。そのいささんもがんで亡くなられる。
 時代が「戦争」をはさんだ怪しい時代だったので、遺跡を守るために海軍とやりあったこともあった。こうしてモヨロ貝塚とともに米村さんは過ごすことで、地元でも、そして日本だけでなく海外の研究者とも親密な交流が生まれていく。そん中、米村さんの態度というか姿勢は、あくまでも控えめである。
 発掘を通して、その展示方法をめぐって、博物館というものにかなり興味を持たれ、晩年海外に招待されるにあたり、その土地の博物館をいくとも訪ねられる。

 貝塚のことは詳しいことは分からないけれど、司馬さんの本の時書いたような状況にこの貝塚はあるようだ。重複するが、この貝塚が時代的にどんなとこにあるのか知る上で重要なので、この本から抜粋する。
 モヨロ貝塚では地層上部から順番に、アイヌ墳墓や竪穴跡、擦文式土器、オホーツク式土器、後北式(続縄文)、前北式(縄文後期)、北筒式(北海道式円筒土器の略、縄文中期、前期)、網走式土器(縄文前期)が出土した。これは何を意味するかというと、本州では縄文式の後、弥生式土器文化が発生したが、農耕に適さない北海道ではそのまま縄文式文化が続いたことを意味する。そしてやがて大陸や本州から金属器が伝来し、金石併用文化になった。それは年代的に奈良、平安、鎌倉時代まで及んでいる。
 そして最初にここにいた人たち(縄文人)から、オホーツクからオホーツク人が来て、その後アイヌ人の中に移行していったことになる。移行というのはちょっとおかしいかもしれない。様々な民族がここで暮らし、最後にアイヌ人になったわけで、ある時は一緒に共存し、ある時は戦い、やがて相互に雑婚し、固有のものが薄れていったというべきだという。時代が画一的に、そして単純に連続しているのではなく、重なり合って動いていて、最後にアイヌ人として残ったというべきなのだろう。


評価
★★★


書誌
書名:モヨロ貝塚
著者:米村 喜男衛
ISBN:
出版社:講談社 (1969-10-08出版)
版型:246p 19cm(B6)
販売価:定価420円(古本860円で入手)

2007年04月11日

浅井 輝久著『ABC青山ブックセンターの再生』

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 この出版社は時たま、おや?と思う本を出版するので、ちょっと目が離せないところがある。今回も元書店員としてこの本を読んでみた。ただこちらが望んだ内容ではなかった。
 私は何故青山ブックセンター(以後ABCという)が倒産し、その後どうのような経緯をたどって再生したのか、そのあたりを詳しく知りたかった。けれどこの著者は自らがABCの幹部職員の社員教育を行っただけの人(経歴が面白く、元自衛官)なので、その中で知り得たABCの書店としてシステムがどういうものであったかを説明するのにかなりのページを費やしている。その独自性(そのほとんどが汎用的ではない)を自画自賛するだけであって、いってみればマスターベーションに過ぎない感じだ。(読んでいても苦痛であった)

 そんな中、どうしてABCが倒産したのかをわずかに書かれている。
 ABCの倒産は、いわゆる中小書店の倒産とはちょっと違うようだ。2003年度ABCは7店舗、総売場面積1437坪、総売上は43億円の独立系専門書店であった。書店としては黒字経営だったという。ただ利益のほとんどを銀行の借入金返済に回ってしまったので、栗田出版(取次)への支払が滞ってしまい、栗田が破産宣告を裁判所に申請し、本を引き揚げて倒産した。
 資金繰りの都合がつかなくなった理由として、ABCがいわゆるバブルを利用して銀行から多大な借入をし、バブル崩壊後そのツケを支払わされて、その犠牲になったのと、「出版バブル」の犠牲になったことのよる。
 90年代1万店の書店が廃業した。ところが書店の売場面積は増えている。それは小さな書店がどんどんつぶれても、その書店を上回る売場面積を持つ大書店が生まれたことによる。
 そこへ取次がシェアー争いを始める。1万店以上の書店つぶれていくのである。当然新規の大型書店の奪い合いが始まる。店舗数は激減しても、大型書店を取れば、売場面積でそれをカバーできるからである。そこで好条件取引をそれらの書店に打ち出す。それが「開店口座」というシステムであった。この「開店口座」というのは何かというと、この本では次のように説明する。

「新規出店に商品が1億円必要であるとした場合、仮に雑誌が1,000万円で、残りの9,000万円が書籍とすると、この9,000万円の書籍部分が開店口座扱いとなる。この9,000万円の支払を2年間据え置きで3年目から月300万円ずつ30カ月で支払うというものである」

 この「開店口座」は出店時の商品代金の支払いが先延ばしでき、初年度の経費が低く抑えられるため、出店のハードルを低くした。そのことがかえって大型書店の出店ラッシュを促すこととなった。
 しかし、本がばんばん売れていれば、先延ばしした取次への支払も可能だろが、出版不況で右肩下がりで売上が低迷し続ければ、3年後の支払はかなりきつくなる。そこにバブル崩壊で銀行の締め付けも加わる。これがどうやらABCの倒産理由のようだ。ここに中小書店が売上低迷で、資金繰りの困り倒産するのとは違うというのも納得できた。
 私がいたのは中小弱小書店だったから、大型書店だけに適用される「開店口座」なんて知らなかったけれど、なるほどこういうからくりがあったのかと知らされた。

閑話休題
「出版バブル」の一面に年間6万5千点を超えるアホみたいな新刊ラッシュがある。どうしてこんな膨大な新刊が出版されるのかその理由を書く。
 出版社は本を取次に本を納入すると、その代金が前金で入ってくる。そしてその本が返品されると、その代金を前納された代金を取次に返すことになる。ところが出版社はそのお金を返す代わりに、違う新刊を出して納入し、その代金と相殺するようになる。このシステムが「出版バブル」の元凶となる。つまり売れずに返ってくる本が多ければ多いほど、どんどん新刊を印刷し納入することとなるのである。これが年間6万5千点を超える出版物となったのである。自転車操業も甚だしい。

 だいたい私はABCが青山とか六本木とか華やかなところで、夜通し営業していて、有名人が贔屓にしている本屋で、ビジュアル系の本を数多く置いて、その手の人たちだけに支持されている本屋だと思っている。つまり一般的な本屋さんとはちょっと趣を異にする。当然私もそれほど興味がわく本屋ではない。倒産したときもチヤホヤされたから、いい気になったのだろうとさえ思っていた。だからABC独自の販売システムには基本的に興味がない。ただその根底にある考え方は、なるほど思える部分はあった。面白いなと思ったことを書く。

「書店で買う雑誌とコンビニで買う雑誌に変わりはないが、書店で買う時のプラスアルファ、少し得した感じをコンビニに求めることはできない。そして書店も巨大化し、あふれるほどの本があるだけで、なぜか落ち着けない空間になった。豊かそうに見えて、何かいつも足りないような感じ、そんな書店が増えつつある」と著者は書いている。これすごくよく分かる。先日新宿のジュンク堂へ行ったとき同じ感じがしたのだ。もちろんコンビニには最初からプラスアルファなど求めていない。
 そこでABCは「書店という器を、読者と本の作り手との出会いの広場にしたい。否、書店はそういう役割を果たすべきである。これがABCの書店を『出会いの広場』とするコンセプトである」という。そこで学芸員という独自のシステムを作り、彼らがお祭りの広場をお店に展開することでABCの個性を演出した。これがABCの強烈な個性となり、贔屓客が増えた理由なのだろう。ただし何度も言うように、これはABCでは機能したが、一般書店ではどうなのだろうかという疑問はわく。ただ、そういうコンセプトは一般書店でも形は違うにしても考えられつつあるのではないだろうか?


評価
★★


書誌
書名:ABC青山ブックセンターの再生―独立系専門書店が名前を残した理由(わけ)
著者:浅井 輝久
ISBN:9784289502103 (4289502105)
出版社:新風舎 (2007-04-05出版) 新風舎文庫
版型:223p 15cm(A6)
販売価:689円(税込) (本体価:657円)

2007年04月10日

司馬遼太郎著『街道をゆく』39巻

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 今回は「ニューヨーク散歩」である。この「ニューヨーク散歩」は司馬さんの親友であるドナルド・キーンさんのコロンビア大学の退官記念講演のため渡米したことによる。
 従って、キーンさんのコロンビア大学での業績が主にここに記される。そのためかこの巻はわずか221頁しかなく、内容も乏しいものであった。正直な話、わざわざこのシリーズに収録する必要があるのだろうかとさえ思える。
 せっかく司馬さんがアメリカに行かれたのだから、もう少し司馬さんの感想や史観がほしい。司馬さんには『アメリカ素描』という本が別にあるので、多分アメリカについてはそちらのほうが詳しいのかもしれない。
 ということで、今回はこれでおしまい。


『街道をゆく』39巻の「ニューヨーク散歩」は週刊「街道をゆく」の60巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈39〉/ニューヨーク散歩
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022567024 (4022567023)
出版社:朝日新聞社 (1994-02-01出版)
版型:221p 19cm(B6)
販売価:1,365円(税込) (本体価:1,300円)

2007年04月09日

司馬遼太郎著『街道をゆく』38巻

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「私は小学校の後半の三年間、重症の考古学少年で、奈良県の北葛城郡の冬田を歩いて石鏃(石器の矢ジリ)や土器の破片をあつめた。それらが集まるにつれ、学校ぎらいになり、頭の中が白いシーツのように真白になって、その上に置かれているものといえば、くろぐろとした石や土の置物ばかりだった。
 成績はむろん低落したが、元来競争心のない子供だったから、苦にはならなかった」と書かれている。
 この気持ち分かるのである。私は小学校の頃、地元で主催された考古学の集まりに出席したことがある。あるいは出席せざるを得なかったのかもしれないが、よく覚えていない。とにかくその集まりで、黒曜石の鏃をもらった。それを手にしたとき、妙な気持ちになったものである。もしかしたらこの鏃は古代人が作ったもので、これで動物をしとめたかもしれないと思ったのである。もちろん、子供にくれるものだから、そんなことはあり得ないと今では思うけど、当時はそう思い、古代のロマンに慕っていた。
 そうなのだ。考古学というのはそういう熱病を発するのである。その熱病が重症になると、抜き差しならない状況になってしまう。極端な話、人生を左右してしまう。
 たとえばこの本で紹介されている、「モヨロ貝塚」を発見した米村喜男衛さんにしてもそうだし、司馬さんが米村さんをシュリーマンにたとえているけど、そのシュリーマンにしても同様だ。私の知っているだけでも、たとえば岩宿遺跡を発見した相沢忠洋さんにしたってそうだし、考古学じゃないけど人類学の発見においても明石原人を発見した直良信夫さんも、なまじ発見してしまったことから自分の人生を大きく変えざるを得なかった。つまり考古学的発見は、熱病のウィルスみたいなところがある。この熱病にかかった人たちは、いわゆる専門家ではなく、その分純粋にロマンを夢見ることができる分、重症になるようだ。
 そんな子供の頃を一時過ごした司馬さんが、稚内から知床半島までの、オホーツク海に面した海沿いを歩かれている。このカタカナの「ノ」を逆にした感じのオホーツク海沿岸を「オホーツク街道」としてここで紹介しているのである。ここではたくさんの考古学的遺跡が発見されている。

 学校教育の弊害だろうと思うのだけれど、たとえば旧石器時代の次は縄文時代が来て、その後弥生時代、その後古墳時代が日本全国で均等に続くような教育を受けてきた。だけどよく考えてみれば、ある時急に時代が変わり、生き方や考え方、あるいは文化や価値観が一変してしまうことなどあり得るわけがない。しかもそれが日本全国で同時に起こるわけがない。このことを今回よく知らされた。
 日本はまわりが海で囲まれ、特に大陸側では、どこからでも日本に人が入ってくることができた。そこへイネを持ち込んだ人たちが来た。
 旧石器時代から縄文時代と採取生活をしていた原始日本人は、イネを持ち込んだ大陸側から来た人たちにだんだん北へ追い込まれていく。いわゆる弥生時代の始まりである。イネを栽培する場合、個人ではできない。またただ単にイネを植えれば育つものでもない。灌漑事業を何らかに形で行わなければ、イネは育たないのである。そのため王やカミを司る人間などをを中心にしてまとまって、イネの栽培を始める必要があった。またイネはたくさんの人の養う生産力があったため、ここでまとまった人たちの人数を更に増やしていきここに王権が発生し、強化される。このことが更に領域拡大に進み、南方から広まった稲作文化が北へ北へ進むことになる。ただしイネは南方系の植物であるため、北へ進むのには、いわゆる北限があった。従って日本全国が縄文時代から弥生時代に全国規模で変わっていったわけではない。このことは北海道の歴史に長い間縄文時代が続く理由でもあった。
 たとえば下の表を見てもらえれば分かるのだけれど、本州では弥生時代や古墳時代に入っていても、北海道では「続縄文時代」のままだし、その後奈良、平安鎌倉時代でも、北海道では「擦分文化」、「オホーツク文化」のままである。要はイネとは別な狩猟時代のままであった。司馬さんは次のように言う。「農耕民が広域社会をつくる。採集民がそういうムラをきらい、採集生活を持続させるため、辺境へ辺境へとゆく。東北の縄文人が北海道にゆき、やがて"続縄文化"といわれる文化をつくり、樺太にわたる。要するに、アイヌとは、異民族ではなく、縄文文化の末裔なのである」と。

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 北海道は本州とはまったく別な時代区分で古代が進んだということである。

 ところで先に言ったように日本は四方が海に囲まれている。従って、樺太から流氷に乗って、この沿岸にたどり着くこともできた。ということは先に言った東北にいたであろう縄文人とは別な民族がこの沿岸沿いに来ることもできたはずである。
 大陸側の黒龍江(アムール川)はその水量が多いのと、オホーツク海が陸地や列島で囲まれているので、いわば槽状をなしているため、淡水がたえず海上の上層をなしているらしい。その上層部の淡水が凍って流氷となる。そのため司馬さんは「冬、沿海州の大河である黒龍江の河口とこの島(樺太)の西岸との間の海峡(間宮海峡・タタール海峡)が凍るとき、水上交通が可能になる。冬のある時期だけはユーラシア大陸とつながって、人もモノも文化もソリに乗ってゆききしてきた。だから樺太は孤島ではなく、ユーラシア文化の一地方なのである」というのである。
 その上、この北海道のオホーツク沿岸はいくつかの川が注ぎ込む地域で、天の恵みとして、鮭や鱒が産卵のため遡上してくる。しかも鰊も来遊する。つまり食べ物得るために労することが少ない地域で、古代人にとってオホーツク海ほど宝の海はなかった。
 ここに本州とは異なるオホーツク人が住み着き、オホーツク文化が生まれることとなったのである。そのためここにはたくさんの古代人の遺跡が存在する。今回司馬さんは「北海道を"オホーツク文化"の場からみたい」といってこの海岸沿いを訪ね歩くのである。
 その"オホーツク文化"を広めたのが、米村喜男衛さんであり、米村さんが発見した「モヨロ貝塚」の存在であった。司馬さんは米村さんの発見をこの本で熱く語っている。それは考古学少年だった司馬さんだからこそそうさせるのであろう。読んでいて米村さんがこの遺跡にかける情熱がよく伝わってくる。「モヨロ貝塚」についてはネットで詳しい説明があったのでURLを載せておく。詳しくはここを参考にして下さい。(本州と北海道の考古学編年表はここにあるものを使わせてもらっている)

http://inoues.net/ruins/moyoro_kaiduka.htm


 それにしても司馬さんが言うように、「わりあい単一性が高いとされる日本民族・日本語も遠い古代において雑種だった」とこの本を読んでいてそう思う。だから司馬さんの「私ども日本人の体のなかに、北の海で海獣と格闘してきた"オホーツク海人"の血も入っている」という気分もよく分かる。
 司馬さんはこの旅を終えて、このシリーズではじめて「いい旅でした」と感謝の言葉を述べているけど、古代のロマンを子供の頃から感じていたからこそ、そう言われたのだろう。確かにこの狭い日本でも壮大な古代ロマンを感じさせてくれる1冊であった。


『街道をゆく』38巻の「オホーツク街道」は週刊「街道をゆく」の33巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈38〉/オホーツク街道
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022566393 (4022566396)
出版社:朝日新聞社 (1993-08-01出版)
版型:514p 19cm(B6)
販売価:1,995円(税込) (本体価:1,900円)

2007年04月04日

司馬遼太郎著『街道をゆく』37巻

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 まずはどうでもいい話から始める。このシリーズが始まって以来、挿絵は須田剋太さんが受け持っていた。ところが前々回の時、亡くなられ、前回はピンチヒッターで桑野博利さんが受け持っていたが、今回から安野光雅さんが挿絵を描くようになっている。多分このまま最終巻まで安野さんの挿絵がこのシリーズを飾るはずだ。
 ところで、この巻の安野さん挿絵を見ていると、なんだか駅弁の飾りにある絵みたいな感じがしてしまい、個人的にどうもいただけない。確かにこの本の挿絵はモノクロなので、安野さんの描く線では細い感じがしてしまう。安野さんの絵はどうしても色が必要だと思う。そう考えると、須田さんの絵はモノクロの挿絵でも力強さが感じられ、存在感があった。まぁ好みの問題だから、どうでもいいことかもしれないが・・・。

 さて、今回は、「本郷界隈」である。実はこの界隈特に湯島天神界隈も書店員時代、自転車で走り回っていた。坂が多くて、しかも長い坂なので、ヒイヒイいいながら自転車を立ちこぎして走った。司馬さんと一緒にこの界隈を歩かれている編集部員の人が学生時代バイトで自転車で配達していたことがあって、「上り坂はできるだけ避け、横へ横へ、斜めへ斜めへ道をとるんです」とその頃の頃のことを言っているのがおかしかった。確かにそうなのである。まともに縦に坂を登ってばかりいると、ものすごい大変なのだ。

 明治新政府にとって、大学、特に医学部の設立は至上命題であった。それまでは和泉橋通りにあった医学所をそのまま使っていたが、和泉橋あたりは低湿地帯にあったので、いずれどこかに移転せざるを得なかった。
 その移転先の第一候補が上野であった。寛永寺や不忍池あたりをつぶして大きな病院を建てるつもりであった。しかしオランダのボードインが上野の森をつぶすことに反対した。西洋では森がなければ、わざわざ森を作るくらいなのに、こんなみごとな都市森林をつぶすなんてとんでもないという理由からであった。で、急遽本郷台にあった旧加賀藩邸を使用することになったのであるという。ここに東京大学の前身が生まれることとなったのである。
 ネットで東京大学医学部の歴史を調べてみると以下のようにあるので、記しておく。

安政5年(1858)
5月 江戸市中の蘭医82名の醸金により神田御玉ケ池に種痘所が設立された。
11月 種痘所は、神田相生町からの出火により類焼したが、 伊東玄朴の家などで業務を継続した。

安政6年(1859)
9月 種痘所を下谷和泉橋通りに新築し移転した。

万延元年(1860)
10月 幕府直轄の種痘所となった。

文久元年(1861)
10月 種痘所を西洋医学所と改称し、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となった。

文久3年(1863)
2月 西洋医学所は、医学所と改称された。

明治元年(1868)
7月 医学所は、横浜にあった軍事病院を下谷藤堂邸に移し、医学所を含めて、大病院と称すことになった。

明治2年(1869)
2月 大病院は、医学校兼病院と改称された。
12月 医学校兼病院は、大学東校と改称された。

明治4年(1871)
7月 文部省が設置され、大学東校は、東校と改称された。

明治5年(1872)
8月 学制が布がれ、東校は、第一大学区医学校と改称された。

明治7年(1874)
5月 第一大学区医学校は、東京医学校と改称された。

明治9年(1876)
11月 東京医学校は、本郷に移転した。

明治10年(1877)
4月 東京医学校は、東京開成学校と合併し東京大学となり、東京医学校は、東京大学医学部なった。

明治19年(1886)
3月 東京大学が帝国大学となり、東京大学医学部は、帝国大学医科大学となった。大学院が設置された。

明治30年(1897)
6月 帝国大学は、東京帝国大学となった。


閑話休題
 私は秋葉原の和泉町で仕事をしていることは以前書いた。その関係で和泉町に東京大学の前身があることを知って、興味を持っていた。これを見るとその歴史がよく分かる。神田御玉ケ池もよくテレビの時代劇に出てくるけど、その御玉ケ池はどうやら今の岩本町2丁目あたりにあったというから、今の仕事場に近い。 森鴎外の作品で『雁』に、神田和泉町にあった寄宿舎で、小間使いをしていた末造という人物が、小銭を貯めて、いつのまにか学生相手の金貸しなり、大学が本郷に移る頃には一人前の高利貸となったことが書かれているらしい。何かちょっと読んでみたくなった。

 今回司馬さんはこの界隈を文学散歩として歩いている訳じゃないといっているが、結果としてそういう感じになってしまっている。というか、そうならざるを得ないのではないかと思う。それほど明治以降この界隈には多くの文人が暮らしていた。週刊「街道をゆく」にどれほど有名な文人がこの界隈にいたか、マップとして載っている。

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 これを見ても、この界隈で暮らしていた漱石や鴎外、一葉などの作品から当時のこの界隈を思い知る方が現実的だ。いや彼らの作品から当時を思い描きながら歩かれているといっていい。

 ところで、弥生式土器というのがあるが、どうして弥生式というのだろうとかねがね不思議に思っていた。というのも、弥生式土器の前の縄文式土器は土器に縄の文様があるから、そう名づけられた聞いていたからで、今回この本郷界隈の弥生町というところから出土したからだと分かった。明治17年3月に3人の学生が発見したという。その発見に寄与したのは、ここ本郷台に大学が置かれ、多くの研究者が集まっていたから、ここにあった貝塚に目がいったのではないかと司馬さんは言っている。
 とにかく東京は明治政府がヨーロッパでも評判になるくらいの俸給で雇った外国人教師が集中した。そのため明治の東京は、あらゆる分野で欧化の魁をなした。つまり東京は欧米の文明を受容する装置に一手に担い、同時にそれを地方に配る配電装置の役割をした。前回の神田や本郷界隈はその中心であったのである。明治の有名人がこの界隈にあるのもうなずける。
 だから東京は当時きらびやかであったろう。それを司馬さんは漱石の『三四郎』から語る。「『三四郎』という小説は、配電盤にむかってお上りをし、配電盤の周囲をうろつきつつ、眩惑されたり、自分をうしないかけたりする物語である」と司馬さんはいうのである。
 一方で江戸の風情も語る。面白いと思ったのは、「どうも江戸期日本では神聖場所と遊び場所がセットになっていたらしく、岡場所は、神社の門前に多かった。市谷八幡前、麹町の平河天神前、神田明神前、それにこの根津門前まどである」という司馬さんの記述である。
 どうしてこういう場所に岡場所が栄えるのか、分からないわけでもない。多分門前にたくさんの人が行き交えば、こんな商売も生まれるし栄える。あるいは神さまと性が一体の部分もあるかもしれない。
 もともと「江戸は独り者が多かった。商家の奉公人や職方の見習いなど流入人口が多く、いわば女ひでりの街だった。このため遊里がさかえた」と司馬さんはいう。江戸は「女ひでりの街」だったという語り口は面白い。


『街道をゆく』37巻の「本郷界隈」は週刊「街道をゆく」の12巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈37〉/本郷界隈
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022565549 (4022565543)
出版社:朝日新聞社 (1992-12-01出版)
版型:374p 19cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2007年04月01日

トマス・ハリス著『ハンニバル・ライジング』 下巻

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 えっ、なんでハンニバルの本に日本人や日本の古典が出てくるんだ!これは著者による「御神輿本」かと思った。
 ふと、フォーサイスの『ハイディング・プレイス』を思い出す。この本はフォーサイスが日本を舞台にして書かれた本だが、読んでいてなんかおかしいと感じる本であった。うわさではこれはフォーサイスが書いた本じゃないというのがあるらしい。(出版社がフジテレビ出版という。たぶんフジテレビが出資していた出版社なんだろう。フジテレビといえば例の「あるある」のねつ造問題があったが、もしかしたらこの本もねつ造だったかもしれない?)
 とにかく、外国小説に日本文化や日本人が出てくると、どうしても洋画で日本人が出てくる時のように、不自然な感じがしてしまうのである。
 さて、日本人の紫がハンニバル・レクターの叔父ロベルト・レクターの夫人として登場するのに驚きつつ、この本を読む。

 

ネタバレ注意


 この本はどうしてハンニバル・レクターが怪物ハンニバル・レクターになったか、その原因をエピソードとして、少年期の悲劇から解き明かす。
 リトアニアにあるレクター城(ハンニバル一族は貴族であった)でハンニバル・レクターたちは優雅に暮らしていたが、ヒットラーのソ連侵攻(バルバロッサ作戦)に巻き込まれる。ハンニバルは、父、母、家庭教師のヤコフ先生を失い、妹のミーシャと二人きりなる。そこへ対独協力者、俗に"ヒヴィ"と呼ばれるグルータスらに捕まる。彼らは腹をすかせていた。そして自分たちが生きるために妹のミーシャを食べた。そこでハンニバルの精神は壊れた。
 戦争が終わり、叔父のロベルト・レクターにひきとられたハンニバルは紫夫人とともに青年期を過ごす。
 しかしミーシャの復讐は忘れない。あのときの記憶が恐怖で凍り付いたままであるハンニバルは薬を使ってまでも思い出そうとし、ミーシャを喰らった奴らの顔を思い出す。後半はハンニバルによるマンハントである。
 復讐劇を行うハンニバルをパリの警視庁警視ポピールは言う。
「ハンニバルという少年は、1945年、雪の中で妹を救おうしたときに、死んだのだ。妹ミーシャと共に、彼の心も死んだ。じゃあ、いまの彼はいったい何者か?それを形容すべき言葉は、いまは何もない。便宜上、われわれは彼のことを"怪物"と呼ぶことにしよう」
 そしてグルータスを追い詰めたとき、衝撃の事実をグルータスから聞かされる。あのときハンニバルも妹の肉が混ざったスープを喰らったことを。
 訳者で解説者である高見浩さんはハンニバルがハンニバルである人肉嗜好の問題がここに生まれるという。


評価
★★★


書誌
書名:ハンニバル・ライジング  下巻
著者:トマス・ハリス;高見浩
ISBN:9784102167076 (4102167072)
出版社:新潮社 2007/04出版
版型:16cm 261p 新潮文庫
販売価:539円(税込) (本体価:514円)