2007年04月04日

司馬遼太郎著『街道をゆく』37巻

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 まずはどうでもいい話から始める。このシリーズが始まって以来、挿絵は須田剋太さんが受け持っていた。ところが前々回の時、亡くなられ、前回はピンチヒッターで桑野博利さんが受け持っていたが、今回から安野光雅さんが挿絵を描くようになっている。多分このまま最終巻まで安野さんの挿絵がこのシリーズを飾るはずだ。
 ところで、この巻の安野さん挿絵を見ていると、なんだか駅弁の飾りにある絵みたいな感じがしてしまい、個人的にどうもいただけない。確かにこの本の挿絵はモノクロなので、安野さんの描く線では細い感じがしてしまう。安野さんの絵はどうしても色が必要だと思う。そう考えると、須田さんの絵はモノクロの挿絵でも力強さが感じられ、存在感があった。まぁ好みの問題だから、どうでもいいことかもしれないが・・・。

 さて、今回は、「本郷界隈」である。実はこの界隈特に湯島天神界隈も書店員時代、自転車で走り回っていた。坂が多くて、しかも長い坂なので、ヒイヒイいいながら自転車を立ちこぎして走った。司馬さんと一緒にこの界隈を歩かれている編集部員の人が学生時代バイトで自転車で配達していたことがあって、「上り坂はできるだけ避け、横へ横へ、斜めへ斜めへ道をとるんです」とその頃の頃のことを言っているのがおかしかった。確かにそうなのである。まともに縦に坂を登ってばかりいると、ものすごい大変なのだ。

 明治新政府にとって、大学、特に医学部の設立は至上命題であった。それまでは和泉橋通りにあった医学所をそのまま使っていたが、和泉橋あたりは低湿地帯にあったので、いずれどこかに移転せざるを得なかった。
 その移転先の第一候補が上野であった。寛永寺や不忍池あたりをつぶして大きな病院を建てるつもりであった。しかしオランダのボードインが上野の森をつぶすことに反対した。西洋では森がなければ、わざわざ森を作るくらいなのに、こんなみごとな都市森林をつぶすなんてとんでもないという理由からであった。で、急遽本郷台にあった旧加賀藩邸を使用することになったのであるという。ここに東京大学の前身が生まれることとなったのである。
 ネットで東京大学医学部の歴史を調べてみると以下のようにあるので、記しておく。

安政5年(1858)
5月 江戸市中の蘭医82名の醸金により神田御玉ケ池に種痘所が設立された。
11月 種痘所は、神田相生町からの出火により類焼したが、 伊東玄朴の家などで業務を継続した。

安政6年(1859)
9月 種痘所を下谷和泉橋通りに新築し移転した。

万延元年(1860)
10月 幕府直轄の種痘所となった。

文久元年(1861)
10月 種痘所を西洋医学所と改称し、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となった。

文久3年(1863)
2月 西洋医学所は、医学所と改称された。

明治元年(1868)
7月 医学所は、横浜にあった軍事病院を下谷藤堂邸に移し、医学所を含めて、大病院と称すことになった。

明治2年(1869)
2月 大病院は、医学校兼病院と改称された。
12月 医学校兼病院は、大学東校と改称された。

明治4年(1871)
7月 文部省が設置され、大学東校は、東校と改称された。

明治5年(1872)
8月 学制が布がれ、東校は、第一大学区医学校と改称された。

明治7年(1874)
5月 第一大学区医学校は、東京医学校と改称された。

明治9年(1876)
11月 東京医学校は、本郷に移転した。

明治10年(1877)
4月 東京医学校は、東京開成学校と合併し東京大学となり、東京医学校は、東京大学医学部なった。

明治19年(1886)
3月 東京大学が帝国大学となり、東京大学医学部は、帝国大学医科大学となった。大学院が設置された。

明治30年(1897)
6月 帝国大学は、東京帝国大学となった。


閑話休題
 私は秋葉原の和泉町で仕事をしていることは以前書いた。その関係で和泉町に東京大学の前身があることを知って、興味を持っていた。これを見るとその歴史がよく分かる。神田御玉ケ池もよくテレビの時代劇に出てくるけど、その御玉ケ池はどうやら今の岩本町2丁目あたりにあったというから、今の仕事場に近い。 森鴎外の作品で『雁』に、神田和泉町にあった寄宿舎で、小間使いをしていた末造という人物が、小銭を貯めて、いつのまにか学生相手の金貸しなり、大学が本郷に移る頃には一人前の高利貸となったことが書かれているらしい。何かちょっと読んでみたくなった。

 今回司馬さんはこの界隈を文学散歩として歩いている訳じゃないといっているが、結果としてそういう感じになってしまっている。というか、そうならざるを得ないのではないかと思う。それほど明治以降この界隈には多くの文人が暮らしていた。週刊「街道をゆく」にどれほど有名な文人がこの界隈にいたか、マップとして載っている。

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 これを見ても、この界隈で暮らしていた漱石や鴎外、一葉などの作品から当時のこの界隈を思い知る方が現実的だ。いや彼らの作品から当時を思い描きながら歩かれているといっていい。

 ところで、弥生式土器というのがあるが、どうして弥生式というのだろうとかねがね不思議に思っていた。というのも、弥生式土器の前の縄文式土器は土器に縄の文様があるから、そう名づけられた聞いていたからで、今回この本郷界隈の弥生町というところから出土したからだと分かった。明治17年3月に3人の学生が発見したという。その発見に寄与したのは、ここ本郷台に大学が置かれ、多くの研究者が集まっていたから、ここにあった貝塚に目がいったのではないかと司馬さんは言っている。
 とにかく東京は明治政府がヨーロッパでも評判になるくらいの俸給で雇った外国人教師が集中した。そのため明治の東京は、あらゆる分野で欧化の魁をなした。つまり東京は欧米の文明を受容する装置に一手に担い、同時にそれを地方に配る配電装置の役割をした。前回の神田や本郷界隈はその中心であったのである。明治の有名人がこの界隈にあるのもうなずける。
 だから東京は当時きらびやかであったろう。それを司馬さんは漱石の『三四郎』から語る。「『三四郎』という小説は、配電盤にむかってお上りをし、配電盤の周囲をうろつきつつ、眩惑されたり、自分をうしないかけたりする物語である」と司馬さんはいうのである。
 一方で江戸の風情も語る。面白いと思ったのは、「どうも江戸期日本では神聖場所と遊び場所がセットになっていたらしく、岡場所は、神社の門前に多かった。市谷八幡前、麹町の平河天神前、神田明神前、それにこの根津門前まどである」という司馬さんの記述である。
 どうしてこういう場所に岡場所が栄えるのか、分からないわけでもない。多分門前にたくさんの人が行き交えば、こんな商売も生まれるし栄える。あるいは神さまと性が一体の部分もあるかもしれない。
 もともと「江戸は独り者が多かった。商家の奉公人や職方の見習いなど流入人口が多く、いわば女ひでりの街だった。このため遊里がさかえた」と司馬さんはいう。江戸は「女ひでりの街」だったという語り口は面白い。


『街道をゆく』37巻の「本郷界隈」は週刊「街道をゆく」の12巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈37〉/本郷界隈
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022565549 (4022565543)
出版社:朝日新聞社 (1992-12-01出版)
版型:374p 19cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

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