2007年04月09日

司馬遼太郎著『街道をゆく』38巻

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「私は小学校の後半の三年間、重症の考古学少年で、奈良県の北葛城郡の冬田を歩いて石鏃(石器の矢ジリ)や土器の破片をあつめた。それらが集まるにつれ、学校ぎらいになり、頭の中が白いシーツのように真白になって、その上に置かれているものといえば、くろぐろとした石や土の置物ばかりだった。
 成績はむろん低落したが、元来競争心のない子供だったから、苦にはならなかった」と書かれている。
 この気持ち分かるのである。私は小学校の頃、地元で主催された考古学の集まりに出席したことがある。あるいは出席せざるを得なかったのかもしれないが、よく覚えていない。とにかくその集まりで、黒曜石の鏃をもらった。それを手にしたとき、妙な気持ちになったものである。もしかしたらこの鏃は古代人が作ったもので、これで動物をしとめたかもしれないと思ったのである。もちろん、子供にくれるものだから、そんなことはあり得ないと今では思うけど、当時はそう思い、古代のロマンに慕っていた。
 そうなのだ。考古学というのはそういう熱病を発するのである。その熱病が重症になると、抜き差しならない状況になってしまう。極端な話、人生を左右してしまう。
 たとえばこの本で紹介されている、「モヨロ貝塚」を発見した米村喜男衛さんにしてもそうだし、司馬さんが米村さんをシュリーマンにたとえているけど、そのシュリーマンにしても同様だ。私の知っているだけでも、たとえば岩宿遺跡を発見した相沢忠洋さんにしたってそうだし、考古学じゃないけど人類学の発見においても明石原人を発見した直良信夫さんも、なまじ発見してしまったことから自分の人生を大きく変えざるを得なかった。つまり考古学的発見は、熱病のウィルスみたいなところがある。この熱病にかかった人たちは、いわゆる専門家ではなく、その分純粋にロマンを夢見ることができる分、重症になるようだ。
 そんな子供の頃を一時過ごした司馬さんが、稚内から知床半島までの、オホーツク海に面した海沿いを歩かれている。このカタカナの「ノ」を逆にした感じのオホーツク海沿岸を「オホーツク街道」としてここで紹介しているのである。ここではたくさんの考古学的遺跡が発見されている。

 学校教育の弊害だろうと思うのだけれど、たとえば旧石器時代の次は縄文時代が来て、その後弥生時代、その後古墳時代が日本全国で均等に続くような教育を受けてきた。だけどよく考えてみれば、ある時急に時代が変わり、生き方や考え方、あるいは文化や価値観が一変してしまうことなどあり得るわけがない。しかもそれが日本全国で同時に起こるわけがない。このことを今回よく知らされた。
 日本はまわりが海で囲まれ、特に大陸側では、どこからでも日本に人が入ってくることができた。そこへイネを持ち込んだ人たちが来た。
 旧石器時代から縄文時代と採取生活をしていた原始日本人は、イネを持ち込んだ大陸側から来た人たちにだんだん北へ追い込まれていく。いわゆる弥生時代の始まりである。イネを栽培する場合、個人ではできない。またただ単にイネを植えれば育つものでもない。灌漑事業を何らかに形で行わなければ、イネは育たないのである。そのため王やカミを司る人間などをを中心にしてまとまって、イネの栽培を始める必要があった。またイネはたくさんの人の養う生産力があったため、ここでまとまった人たちの人数を更に増やしていきここに王権が発生し、強化される。このことが更に領域拡大に進み、南方から広まった稲作文化が北へ北へ進むことになる。ただしイネは南方系の植物であるため、北へ進むのには、いわゆる北限があった。従って日本全国が縄文時代から弥生時代に全国規模で変わっていったわけではない。このことは北海道の歴史に長い間縄文時代が続く理由でもあった。
 たとえば下の表を見てもらえれば分かるのだけれど、本州では弥生時代や古墳時代に入っていても、北海道では「続縄文時代」のままだし、その後奈良、平安鎌倉時代でも、北海道では「擦分文化」、「オホーツク文化」のままである。要はイネとは別な狩猟時代のままであった。司馬さんは次のように言う。「農耕民が広域社会をつくる。採集民がそういうムラをきらい、採集生活を持続させるため、辺境へ辺境へとゆく。東北の縄文人が北海道にゆき、やがて"続縄文化"といわれる文化をつくり、樺太にわたる。要するに、アイヌとは、異民族ではなく、縄文文化の末裔なのである」と。

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 北海道は本州とはまったく別な時代区分で古代が進んだということである。

 ところで先に言ったように日本は四方が海に囲まれている。従って、樺太から流氷に乗って、この沿岸にたどり着くこともできた。ということは先に言った東北にいたであろう縄文人とは別な民族がこの沿岸沿いに来ることもできたはずである。
 大陸側の黒龍江(アムール川)はその水量が多いのと、オホーツク海が陸地や列島で囲まれているので、いわば槽状をなしているため、淡水がたえず海上の上層をなしているらしい。その上層部の淡水が凍って流氷となる。そのため司馬さんは「冬、沿海州の大河である黒龍江の河口とこの島(樺太)の西岸との間の海峡(間宮海峡・タタール海峡)が凍るとき、水上交通が可能になる。冬のある時期だけはユーラシア大陸とつながって、人もモノも文化もソリに乗ってゆききしてきた。だから樺太は孤島ではなく、ユーラシア文化の一地方なのである」というのである。
 その上、この北海道のオホーツク沿岸はいくつかの川が注ぎ込む地域で、天の恵みとして、鮭や鱒が産卵のため遡上してくる。しかも鰊も来遊する。つまり食べ物得るために労することが少ない地域で、古代人にとってオホーツク海ほど宝の海はなかった。
 ここに本州とは異なるオホーツク人が住み着き、オホーツク文化が生まれることとなったのである。そのためここにはたくさんの古代人の遺跡が存在する。今回司馬さんは「北海道を"オホーツク文化"の場からみたい」といってこの海岸沿いを訪ね歩くのである。
 その"オホーツク文化"を広めたのが、米村喜男衛さんであり、米村さんが発見した「モヨロ貝塚」の存在であった。司馬さんは米村さんの発見をこの本で熱く語っている。それは考古学少年だった司馬さんだからこそそうさせるのであろう。読んでいて米村さんがこの遺跡にかける情熱がよく伝わってくる。「モヨロ貝塚」についてはネットで詳しい説明があったのでURLを載せておく。詳しくはここを参考にして下さい。(本州と北海道の考古学編年表はここにあるものを使わせてもらっている)

http://inoues.net/ruins/moyoro_kaiduka.htm


 それにしても司馬さんが言うように、「わりあい単一性が高いとされる日本民族・日本語も遠い古代において雑種だった」とこの本を読んでいてそう思う。だから司馬さんの「私ども日本人の体のなかに、北の海で海獣と格闘してきた"オホーツク海人"の血も入っている」という気分もよく分かる。
 司馬さんはこの旅を終えて、このシリーズではじめて「いい旅でした」と感謝の言葉を述べているけど、古代のロマンを子供の頃から感じていたからこそ、そう言われたのだろう。確かにこの狭い日本でも壮大な古代ロマンを感じさせてくれる1冊であった。


『街道をゆく』38巻の「オホーツク街道」は週刊「街道をゆく」の33巻に収録されている。


書誌
書名:街道をゆく〈38〉/オホーツク街道
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022566393 (4022566396)
出版社:朝日新聞社 (1993-08-01出版)
版型:514p 19cm(B6)
販売価:1,995円(税込) (本体価:1,900円)

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