2007年04月13日
米村喜男衛著『モヨロ貝塚』
司馬さん『オホーツク街道』を読んで米村喜男衛さんの書かれた本が読んでみたい思った。この本が14年前に出ているので、ここに紹介されている米村さんの著作がもしかしたら手にはいるかもしれないと思い、まずは紀伊国屋のサイトで検索したら、該当がないと出る。ということは新刊書店では手に入らないということになる。で、仕方がないので「日本の古本屋」で検索したらヒットした。で、手頃な値段でこの本を入手した。今から38年前の本であった。読んでみると面白い。その純粋さ、熱意がひしひしと伝わってくる。
米村さんは明治25年(1892)青森県津軽郡常盤村大字久井名館で生まれた。子供の頃は家の事情もあって、おばあちゃん子で、昔話や民話など聞いて育った。
「小学校の尋常科三年のときである。山手の畠で遊んでいた私は、偶然に、削ったように尖った形の石ころをひろった。
ついぞ見かけたことのない石だったので、ふしぎに思い、学校へ持っていって、佐藤良一という先生にたずねたところ、先生はびっくりしたよううすで、
『これはよいものを見つけた。これはたぶん大昔、まだ世の中に金というものがない時代には、このように石をかいて(割って)刃物にして使ったとのことである。これは、その頃のものかもしれない』
と教えてくれた。
これが私の石器を手にした初めであった。
それ以来、私は祖母からいろいろと話して聞かされたことが、大昔には実際にあったことのようであり、この石ころが何かそれに関係あるように思われ、私はそこに秘密のおもしろさというものを感じたのである。それからというもの、私はもっともっと集めてみよう、と一生懸命なった」
その後日露戦争があり、国内が不景気になり、米村家でもその波に襲われ、米村さんは学校を辞めて、働かざる得なくなる。米村さんは床場(床屋)で修行し働くようになった。このことは米村さんが手に職をつけることになり、後に北海道へ渡ってもその技術で糊口をしのぐことができることとなった。
米村さんは弘前で床場の小僧となり、修行を始める。一方で、職人達が遊び回る中、考古学の勉強を独学で続けていた。年季が明けてから東京へ出て、考古学の研究をしたいと思い、神田小川町の理髪店に勤める。
ここは神田の書店街が近いので、お金さえ出せば自分が欲しい本が手に入るという環境に喜びを感じていた。古本をあさり、徹夜して本を読み続けた。それこそ欲しい本を手にしたときは、なめるように読んだのだろう。そして東京大学人類学教室の鳥居竜蔵を訪ね、その指導を受けるようになった。
鳥居に指導を受けながら、米村さんは鳥居が初めて貝塚を発見したのはどこかと尋ね、その話を聞いているうちに、自分もどこかで貝塚を発見したいものだと思い始めた。
そんな中、神田の古本屋で鳥居が書いた『千島アイヌ』という本を手に入れ、いまだ原始的な生活を営んでいるアイヌ人を見てみたいという衝動に駆られ、明治40年に北海道に渡る。
ここでも理髪職人として函館で働きながら、アイヌの研究をするにはどこへ行けばいいか検討できた。アイヌ研究にはオホーツク海に面した網走いいと判断し、3日かけて網走へ向かった。そして網走川の川岸に厚さ1メートルもある貝塚の層を見つけ、棒の先でくずしてみると、貝殻の中から、石器や骨角器、土器などが出てきたのである。このときの米村さんは自分自身に「おちつけ、おちつけ」と言い聞かせたという。ついに米村さんは貝塚を発見したのである。「モヨロ貝塚」であった。
ただここは米村さんが最初に発見した場所ではなかった。ここは明治20年代に、学会には報告されてはいたが、大ざっぱな発掘しかされておらず、後はそのまま放置されていた。
そして米村さんは網走に定住してこの貝塚を研究しようと決意する。ここでも理髪師の技術が役に立つが、ただ雇われていては自由な時間持てない。そこで自分で店を持つことにした。店名を「ババーショップ」とした。子供たちが「ババーショップ、ババーショップ」と騒ぎ立てたことが評判になり、東京から来た床屋さんということで商売は繁盛した。
こうして床屋家業に精を出す一方、夜が明けきらぬ暗いうちに、遺跡へ出かけ、土器や石器、骨角器、人骨などを掘り出し、閉店後夜遅くまで参考書と首っきりで調べる毎日を過ごした。
掘り出した資料は、家の一部を改築して、郷土研究の資料室にし、展示した。 米村さんは床屋、発掘という毎日を過ごす一方、地元にとけ込むことも真剣の考え、床屋の補習学校を自分の店で開いたり、災害時の救護活動する網走救護団を作ったりした。もちろん発掘も進み自宅を完全に資料室して、「郷土室」とした。また同好の士とともに網走史辿会を作り、一緒に研究する。またアイヌの古老からアイヌの民話を聞いて、それを子供劇にして、地元の子供たちに演じさせたりもした。そしてここで結婚もされた。
おかしかったのは、奥さんのいささんが結婚後10日目に家出をしたことである。ある時、部屋にある箱の蓋を開けたら人骨がいっぱいであった。(奥さんは米村さんがただの床屋ではなく、アイヌの古代を研究する人だとしか聞かされていなかったのである)最初は別段気にもしなかったらしいが、一人になると骨がカチカチ音を立てているように聞こえ始め、そのうち化けて出てくるんじゃないかと思い、怖くなり、居たたまれなくなって家を出てしまったという。それを聞いた米村さんは慌てて奥さんの実家へ行って、話し合い、なんとか収拾がついたという。
同じようなことが、仲間と一緒に発掘した帰りに、飲み屋一杯やったときにも起こった。お金が足りなくて、後でお金を持ってくから、持っていた風呂敷の包みを置いていくと仲間が言ったのである。そこには発掘した人骨が入っていたのである。女将はそれを見てしまい、卒倒してしまい大騒ぎになったと女中が文句を言いに来たという。そりゃそうだわな。いくら遺跡から出土したものとはいえ人の骨である。考古学者ならともかく、普通の人なら、いきなりそれを見たら驚くに決まっている。
その奥さんも発掘された人骨の洗浄を進んでやられるようになったというし、東京から来る研究者をモヨロ貝塚に案内したり、本職の床屋もやるようになったという。
モヨロ貝塚を東京の研究者などに見てもらうのは、米村さんのとっても、また貝塚の評価という上でも、歓迎すべきことなのだが、もてなすのは米村さんである。費用は米村さんの自腹であった。まして戦後の食糧難の時代である。統制が引かれている。こんなとき一番苦労されたのは奥さんのいささんであった。そのいささんもがんで亡くなられる。
時代が「戦争」をはさんだ怪しい時代だったので、遺跡を守るために海軍とやりあったこともあった。こうしてモヨロ貝塚とともに米村さんは過ごすことで、地元でも、そして日本だけでなく海外の研究者とも親密な交流が生まれていく。そん中、米村さんの態度というか姿勢は、あくまでも控えめである。
発掘を通して、その展示方法をめぐって、博物館というものにかなり興味を持たれ、晩年海外に招待されるにあたり、その土地の博物館をいくとも訪ねられる。
貝塚のことは詳しいことは分からないけれど、司馬さんの本の時書いたような状況にこの貝塚はあるようだ。重複するが、この貝塚が時代的にどんなとこにあるのか知る上で重要なので、この本から抜粋する。
モヨロ貝塚では地層上部から順番に、アイヌ墳墓や竪穴跡、擦文式土器、オホーツク式土器、後北式(続縄文)、前北式(縄文後期)、北筒式(北海道式円筒土器の略、縄文中期、前期)、網走式土器(縄文前期)が出土した。これは何を意味するかというと、本州では縄文式の後、弥生式土器文化が発生したが、農耕に適さない北海道ではそのまま縄文式文化が続いたことを意味する。そしてやがて大陸や本州から金属器が伝来し、金石併用文化になった。それは年代的に奈良、平安、鎌倉時代まで及んでいる。
そして最初にここにいた人たち(縄文人)から、オホーツクからオホーツク人が来て、その後アイヌ人の中に移行していったことになる。移行というのはちょっとおかしいかもしれない。様々な民族がここで暮らし、最後にアイヌ人になったわけで、ある時は一緒に共存し、ある時は戦い、やがて相互に雑婚し、固有のものが薄れていったというべきだという。時代が画一的に、そして単純に連続しているのではなく、重なり合って動いていて、最後にアイヌ人として残ったというべきなのだろう。
評価
★★★
書誌
書名:モヨロ貝塚
著者:米村 喜男衛
ISBN:
出版社:講談社 (1969-10-08出版)
版型:246p 19cm(B6)
販売価:定価420円(古本860円で入手)
- by kmoto
- at 20:35
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