2007年04月15日

大下智一著『山下りん―明治を生きたイコン画家』

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 この本も司馬さんの『街道を行く』を読んで、山下りんという人を知り、更に詳しく知りたいと思い探した本であった。この本は山下りんの評伝である。
 先の米村喜男衛さん同様、明治の日本人のひたむきさ、その情熱、偉大さ、さらに時代が時代だけに並大抵の苦労を強いられたことを知らされる。とにかく山下りんは描きたかった。その一心であった。

 りんは安政4(1857)年5月22日、常陸国笠間藩(現・茨城県笠間市)に、父重常、母多免の長女として生まれる。母多免が大変絵が好きであったことこらか、りんも幼い頃から錦絵を好んで描いていた。
 最初は浮世絵師国延の元で学びはじめるが、5日やめてしまい、次にやはり浮世絵師豊原国周の元で学婢、すなわち住み込みの弟子として入門する。けれど、5ヶ月目で「面白からぬ」目にあってそこを去る。
 その後円山派の月岡藍雪という日本画家も元へ行くが、この時期日本画は廃れに廃れ、こうした日本画を巡る状況にりんは見切りをつけた。りんの決断の早さ、人並み外れた実行力は生涯変わらず、そこには郷里笠間で「良師」が見つからなかったから、それを探す賢明な旅でもあった。そこには描くための行為しかない。
 その後りんは西洋画師、中丸精一郎の元で学び始めるが、中丸はりんにとって良き師であったようだ。
 そんな中、明治9年に工学寮美術学校、すなわち後の工部美術学校が開校され、そこへ何とか入学することとなる。
 工学部美術学校初代画学教師はイタリアのフォンタネージであったが、彼は「日本近代絵画の祖」として現代でも高く評価される人物だそうだ。当然りんにとっても良師であったはずで、著者はフォンタネージに学んだこの時期がりんにとって最も充実した時期ではなかっただろうかといっている。
 しかしフォンタネージは脚気に悪化を理由に任期半ばで帰国してしまい、後任にプロスベッロ・フェレッティという人物が赴任してきた。この人物、技術・人格とも劣り、りんも「言語にかかわらぬ大ヘタ者」と断罪している。学生はどんどん辞めていくが、りんはそれでも西洋画を学びたい一心でここにとどまる。
 そんな中、りんと共に工部美術学校に学ぶ女学生の山室政子との出会いはその後のりんの運命を決定づける。
 政子は神田駿河台の日本ハリスト正教会入学し、洗礼を受け、日本ハリスト正教会の長ニコライの援助でこの工部美術学校へ入学していた。ニコライは政子にイコンを描く画家にさせるためにここに入学させていた。
 政子とりんは生活が窮状していたという境遇が似ていたために親密になり、りんにハリスト教会に入信することを勧め、りんはニコライによって洗礼を受けた。
 ニコライには「日本の教会は日本人伝教者たちの事業」考えていたので、その一環で日本人のイコン画家を育てるために、ロシアへの留学生派遣を計画していた。最初はその候補が政子であった。しかし、政子は美術学校を退学して結婚してしまったため、りんに白羽の矢を立てたのであった。りんはこのニコライの野望は知らなかった。ただ彼女は、「自ら望み、懸命に学んだ『洋画』の技術が生かされる道があるならば、という一途な、しかし漠然とした『夢』があるだけ」でロシアへ留学した。
 明治13年、香港、シンガポール、セイロン、スエズ運河を通り、コンスタティノープルから、サンクト・ペテルブルグへ3ヶ月あまりかけてロシアに入った。
 しかしこの船旅は悲惨なもので、同行の人物のベビーシッターとして「奴レイ」のように扱われ、寝床もちゃんとした船室ではなく、食事も客の余り物であった。こうしてペテルブルグのノヴァジェーヴィチ復活女子修道院での生活が始まった。
 最初はエルミタージュ美術館での模写日々であり、りんにとっては喜びの日々過ごしていたが、そもそもりんの留学目的は洋画家にさせることことではなく、イコン画家させることであったから、エルミタージュ行きが急遽中止され、イコンの修行をさせられることとなった。
 ところでイコンにはビザンティンの流れをくんだ「ギリシア画」とルネサンス以降ヨーロッパ絵画の影響を受けた「イタリア画」があった。当然最初は「ギリシア画」であったろう。そして「イタリア画」が出てきたものと思われる。しかし19世紀後半、ロシアでは自国の古典的なイコンを見直そうという動きが強まり、西欧化されたリアルな表現より、古来イコンが持つべき精神的内容が重視されつつあり、当然りんのいた修道院にもその波が及ぶ。りんの日記にも、「此日画ノ事ヲ種々聞ユ イタリア画ヲ嫌ウ様子ナリ ギリシア画ノヲバケ画を好ムハ実ニカナシムノ次第ナリ」と書かれている。
 こうしてギリシア画中心の指導に変わっていく中、修道院では教師とりんとのあいだで確執が生まれ、大げんかになる。りんは精神的にまいってしまう。そのため5年の予定を2年で切り上げ明治16年帰国する。
 帰国後りんは、駿河台のニコライ女子神学校内宿舎に住み、ロシア語を教えたりしていたが、イコンはすぐ描いていない。日本におけるりんの最初のイコンは明治22年に描かれていて(現存していない)、その後来日中のロシア皇太子ニコライの誕生日を祝うため日本ハリスト正教会からイコンを描くように命じられている。図柄は「ハリスト復活」で最近エルミタージュ美術館で発見された。
 ニコライ堂にもいくつかの大作のイコンを描いているらしいが、関東大震災で焼失してしまった。帰国後、一時教会から離れた時期もあるが、りんは、およそ30年にわたりイコンを描き続けた。昭和14年、故郷の笠間で81歳の人生を閉じた。

 イコンは教会が示す手本に忠実に沿って描き出すことが伝統的習わしであった。聖像表現のルールに則って模写してあれば、たとえ印刷物であっても、祈りをなす上では「本物」のイコンと何ら変わらないとした。そのため山下りんが描くイコンも、基本的にロシアのイコンを模写であるという。りんにはイコン画家として自由にイコンを描く道はなかったのである。だから後に「ヲバケ画」と蔑んだ「ギリシヤ画」を模写もしているのだろう。
 ただ優しい顔ということで、「イタリア画」を主に選び、イコンを描く伝統を守りながら、その中で日本人好みの顔で描いているようにも思える。確かにこの本の口絵にあるりんのイコンを見ていると、どこか西洋人が描いたものとは違うと感じる。
 長いこと眺めていると、どこかちぐはぐな感じがしてしまう。それは絵の内容が聖書の中の物語でありながら、そこに描かれるキリストやその他の聖者が日本人好みの顔で描かれているからではないかと思うのだが・・・。
 もちろん、それは外野で偉そうに言っているだけで、明治のあの時代に、女性一人ロシアに渡り、イコンの修行を苦しみながらして、帰国後、イコンの伝統を守りながら、日本でイコンを書き続けたことは、やはり一種の狂気に近いものがあると思える。


評価
★★★


書誌
書名:山下りん―明治を生きたイコン画家
著者:大下 智一
ISBN:9784894532854 (4894532859)
出版社:(札幌)北海道新聞社 (2004-03-25出版) ミュージアム新書
版型:242p 18cm
販売価:1,155円(税込) (本体価:1,100円)

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