2007年05月31日

JR福知山線脱線事故被害者有志著『JR福知山線脱線事故―2005年4月25日の記憶』

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 この本を読みたいと思った動機は、この事故の被害者しか知り得ない事実、生の感情を知りたいと思ったからである。そこにはテレビなどのニュースでは知り得ない、きわめて人間的な感情があるのではないかと思ったのである。そしてそのことはかなり重要なことであって、人間のいいところ、悪しきところが明らかにされているものだと思うのだ。
 ニュースはどうしても取材関係者の意志が働いている。関係者の考えるところでニュースが作られている。事件全体の取捨選択がどこかゆがんでいる。マスコミ自身が正義の味方、あるいは被害を弁護する、または世論の先頭に立っている優越感みたいなものが目立つ。しかしそのニュースは被害者の存在感のないニュースになっている。
 いい例が次の会見である。たぶんご存じかと思う。

http://www.youtube.com/watch?v=htNQ8rT5hWA


http://www.youtube.com/watch?v=U6W2eC1J6DE


 この怒号をあげた記者は読売新聞大阪本社の社会部の記者と聞いたが、いったい自分を何様だと思っているのだろうか?
 これら記者が現場でとった行動がこの本にも書かれている。これを読むと、これが被害者の代弁者がとる態度かと言いたくなる。ごろつきと同じである。

「そこへひとりの記者が『1両目に乗っていた方はいらっしゃいますかぁ?』と入り込んできた。その場には乗客が40~50人程いたのだが、皆その言葉に凍りついた。『この状況が読めないのか!皆、話せる状態だと思うのか!』そんな目でその記者を皆無言で睨み付けた。もちろんすぐに警察官が制し追い出したが、何だか悔しくて涙が出た」

「しばらくして(診察終えて病院からタクシーで帰ろうとしても)、『病院のタクシーはみんな待機しているみたいで、なかなかつかまらへんわ・・・』と電話があり、(略)病院前にいたタクシーは、報道関係者が乗りつけて来たものだったらしいということがわかりました。仕方がないことですけれど、血だらけのスーツで足を引きずりながら、タクシーを探してJR尼崎の駅まで歩いた夫のことを思うと、なんだかやりきれない思いです」

「歩道に出てきた私は、周りを見回した。上空にはものすごい爆音のヘリコプターが数台。救助隊よりも早く来て、現場を撮影するカメラマン。『なんでカメラを回してるんやろ。先に救助ちゃうの?』という思いと同時に怒りが込み上げてきた」

 またマスコミは知りたいと思う国民は馬鹿だから、俺たちが正しい考えを教えてやるという高圧的な態度があるように思える。そしてやることは単純で、一人を徹底的に悪者にして責め立てるのである。今回事故を起こしたのはJR西日本であるから、すべてJR西日本が悪者して、単純化してしまうのである。事故の複合的原因など追究しない。
 そんな新聞で、2005年6月19日の投稿欄に「おや!」と思うものがあった。京都のノートルダム女学院中学高校の講師たちが高校1年生約160人この事故の背景や影響についてレポートの課題を出した。そのレポートの多くがJR西日本のスピードを優先する企業体質を事故原因として挙げたけれど、中には「JRも発着時間を決めていた人も、いつも急いでいる私たちもすべて加害者」「電車が2分でも遅れたら『遅い』と思ってしまうことで、運転士や役員を追いつめることになってしまった。過密な仕事をしていることを危ないとも思わず、忠告もしなかった私たちにも非がある」という記述があったという。
 これを読んだとき、私もそう思っていた。確かに安全を無視した企業体質がこうした大惨事を起こしたことはまがうことない事実だけれど、それを要求したのは、あるいはJR西日本にサービスとして求めたのは、私たちなのである。それが便利だと思ったことで、JR西日本を利用した一面はあるのではないかと思うのだ。だから悪人をJR西日本にだけ求めるマスコミの態度はどうしても納得のいかないものが私にはある。
 ただ、そうした住民の要求に応え、サービスを提供したJR西日本の責任はもちろん回避できないけれど・・・。
 そして事故にあった乗客も事故は何だったのだろうと振り返る人がいて、単純に事故責任をJR西日本だけに求めていない人もいたことを知って、なんか安心した。そこには次のように書かれている。

「事故の直接の原因がスピードの出し過ぎであることは明白ですが、その背景にはJR西日本という企業の体質、さらにはそういう企業の存在を容認してきた私達の社会があります。時間に追われ余裕のない生活を送る私たちの社会。あの事故はいったい何だったのか。私たちはあの事故から何を学ぶべきなのか。直接は公共交通である鉄道の安全運行の重要性でしょう。しかし本当に気づくべきは事故を引き起こすこととなった社会のありようではないのでしょうか。1分、2分を争う社会。効率ばかり優先される社会。私はそれとは別の価値観があることを頭で理解するのではなく心から『実感』したのです」と。

 さてこの事故は平成17年4月25日に起こった。死者107名(うち1人が運転手)、負傷者500人以上の大惨事である。
 原因は伊丹駅でのオーバーランから始まる。ここで戻ったことによる時間のロスを取り戻そうとそれ以後かなりのスピードを出したことにより、カーブを曲がりきれず脱線した。脱線前の車内の状況を乗客である被害者は次のように語る。

「その時、誰かの『ホームが無い』と漏らした声を耳にして窓の外を見ると、線路脇に雑草が生えている景色が目に入った。かなりオーバーランしてしまった様子に、木村と顔を見合わせた瞬間、今度はいきなり体を後ろに引っ張られた。再び皆が体勢を崩した時、電車がホームに向かってバックしている事に気が付く。ブレーキも大変荒かったので、『バックする前に一言車内放送でもいれるやろ、普通・・・』と一人で憤慨していたが、まあ、焦るのも無理はないかと思い直し、車内を見回した(略)会話をしながら周りの様子に違和感を覚えはじめたのは、窓の外を流れる景色のスピードがいつもより早く感じた為だった。しかも時折、がたがたと窓が鳴っている。私は普段この路線を使うが、今までにその区間でそこまでのスピードを出された事は記憶になかった。周囲からも、不安げな声が上がりだし、それと連動するように床から振動が伝わってくる。(略)客観的に見ても、訳のわからない不安感を乗客は感じている様だった」

「私が利用しているこの快速電車は普段からよくダイヤが乱れていましたが、その日は定刻通りに電車がホームに入って来ました。しかし全く止まる気配が無く、ものすごい勢いで目の前を通過していったので『特急列車なのかな』と思いましたが、かなり行き過ぎてから急ブレーキをかけて突然止まりました。いつもなら目の前にあるはずの3両目は無く、ホームの右手に車掌の姿が見えました。この時点から何となく『この電車はおかしい・・・』と、漠然とした不安を感じていました。
 すると、荒っぽい運転で電車が逆方向に走り出し、いつもの位置よりも少し戻り過ぎた位置で停車したので、私の目の前には3両目の一番前のドアがなく、川西方向に少し歩きました。『この電車に乗っても大丈夫かな・・・』という気持ちを持ちながらも、エスカレーターから降りて来た若い女性2人が先に乗り込んだので、『電車だしそんな事はないだろう』と思い、そのままその電車に乗り込みました」

「オーバーランや急ブレーキ、急ぎ足の運転、そんないつもと少し違うちょっとしたハプニングを、関西弁のニュアンスで言えば『しゃあないなぁ』『しっかりせぇ』といった感じで笑っているような、本当に暖かいムードだったのだ。
 その空気が少し変化しだしたのは、塚口駅のあたり。ガタン、という大きな音とともに、電車が駅を通過する。車内がざわつき、車体が上下に揺れ、窓ガラスがガタガタと音を立てて軋みだした。時速100キロはゆうに超えているであろう速度だ。私たちは、『・・・速いな』『速いよな・・・』と少し不安げに声を揃えた。他の乗客も、ほとんどの人がひとりで乗っているにも関わらず、近く居る人と『ちょっと速いですよね』『速すぎないですか?』『大丈夫ですかね』と声を掛け合い始める。このとき初めて、車内にはっきりした緊迫感が生まれた」

「『ん?停まった?・・・ここ駅じゃないよなぁ・・・』窓の向こうは草っぱら。訳のわからないまま、電車は逆方向へ走り出しました。
 『ありゃー、オーバーランしてたんかぁ』それにしても逆走も結構なスピード。つり革をしっかり持ってないと倒れそうなほどでした。本来停まるべき伊丹駅に着いたとき、私の脳裏にはチラッと『この運転手大丈夫やろうか』とよぎりました。そして、走り出した電車はどんどん加速して行き、車内が何となくどよめき出しました。たまにしか乗ることのない私にはそれほど異常は感じなかったのですが、すでに毎日乗っている方はいつもと違うと感じられていたようです。そのどよめきで、私も初めて『そういえばすごいスピードが出ているきがするなぁ』と感じたとき、例のカーブにさしかかりました。
 『え!?、このスピード・・・曲がれるの』」

「一度大きな揺れがあり、立っていた乗客は笑いながらも大きくバランスを崩しました。信じられないことに、事故直前の異常な揺れを体験しても、乗客はまさか脱線するとは思わなかったのでしょう。仮に脱線しても『まさか自分が乗っている電車が・・・』という意識があったのでしょう。そのときまでは、尋常でない揺れを感じながらもつり革に必死につかまり、笑顔さえ浮かべていたのです」

 これを読んでいると、電車がオーバーランしたことで、この電車はおかしいと感じた人と、ちょっとしたハプニングと感じた人と別れるけれど、その後急に電車がバックしたこと、そして加速して尋常なスピードでないと感じたとき、みんなが不安に駆られる。しかし不安を感じたとしても、電車に乗ってしまった以上どうしようもない。しかしこの時点まではまさかこの電車が脱線するとまでは思っていない。そして電車は脱線した。
 脱線したときの車内の状況は乗客が乗っていた車両によってかなり違ってくるようだけれど、この手記を読んでいると、脱線し、車両がマンションに激突する瞬間は、ものすごい力乗客に加わり、人が振り落とされ、或いは飛ばされ、落ちてくる。
 「人同士がもみくちゃになりながら、痛みと衝撃に抵抗しようとしていました。まるで洗濯機の中にたくさんの人とともに入れられたような衝撃でした。まるでサンドバッグのように体中を殴られているような衝撃が続き、『どれだけ続くのか?』と思っていましたが、激しい大きな音と同時に衝撃も止み、それまでの轟音から打って変わって車内は静かになりました」

「揺れがおさまり、車体が停止すると、体の左側を下にして、地面に叩きつけられた。柔らかい。そっと下に目をやると、そこにはやはり人の山があった。誰の足か、誰の手か、誰の頭か、その下に一体何人居るのか想像がつかないほど、ぎっしりと積み重なっていた。暗い車内に背後から一筋の光が差し込み、充満したホコリが照らされて静かに光っている。気絶しているのか、死んでいるのか、呻き声すら聞こえない」

 と書かれている。人と人が重なり合って、うめき声があがり、か細い声で助けを呼ぶ。どのように救助されたのか。またその後どのようにして病院に運ばれたのか。そしてけがの状況とその治療がそれぞれ書かれている。
 ここには被害者の家族の手記も載せられている。被害者の記述も悲惨だが、事故を知らされた家族の不安がたまらない。自分の夫や娘がもしかしたらこの事故に巻き込まれた可能性があるかもしれないと思ったり、或いはとりあえずが大丈夫だけれどという連絡が被害者の携帯(この本を読んでいると携帯電話がかなり役立っていることがわかる)から連絡があるのだが、実際どんな状況なのかわからないだけにただ、おろおろする光景は、察してもあまりがある。顔を見るまで安心できない気持ちがよくわかる。

 けがが回復しても、電車に対する恐怖はなかなか消えない事実も書かれる。

「事故後とはいえ仕事が休めないので通勤はするものの、平常心では電車に乗れなくなり、ラッシュ時の電車や快速に乗る事への恐怖が出てきた。できるだけ電車に乗っている時間が少ないルートを選んで通勤したが、必然的に乗り換えも多くなり、乗り換え毎にベンチに座ってはしばらくは動けず、大阪に出るだけで2時間はかかった」

「電車に乗っていて、普段よりも速いスピードや急な停車、小さな異常を少しでも感じたら、すぐ電車を飛び降りるくせがついてしまい、途中下車をする回数がだんだんと、増えてきました。いつでも降りられるように、快速電車には乗らず、普通電車ばかり乗るようになりました」

「電車に、JRに乗ることには、以前に比べると慣れました。でも、スピードやカーブ、そのいたる瞬間にも緊張感を持って乗車していることはなんら、以前とは変わっていません。『電車に乗ることに慣れた』のではなく、『我慢して乗ることに慣れた』のです」

 そしてやりきれないのが「サバイバーズ・ギルド」と呼ばれる本来負わなくてもいいはずの罪意識が生存者に生まれてしまうことである。「あの事故での『生』と『死』は何の理由もなくほんの少しの場所の違いで分けられたのである」そしてたまたま自分は生き残ってしまったという苦悩。または自分もけがをしていたため、助け出された他の乗客が成す術もなく目の前で命の火が消えていく光景を目にするしかできなかったことによる罪の意識。
 そのことが残された者の義務として、事故を風化させないために、事故の真相を語り続ける。
 この本は最初に書いたように、人間の愚かさを書いていると同時に、人間ってすばらしいなぁと思わせる尊厳も感じさせる本であった。


評価
★★★★


書誌
書名:JR福知山線脱線事故―2005年4月25日の記憶
著者:JR福知山線脱線事故被害者有志
ISBN:9784343004048 (434300404X)
出版社:神戸新聞総合出版センター (2007-04-25出版)
版型:333p 19cm(B6)
販売価:1,680円(税込) (本体価:1,600円)

2007年05月28日

海堂尊著『螺鈿迷宮』

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 なんだかんだと言って、この著者の新刊を読み続けている。不満はあるのだけれど、どうも気になってしまい、ついつい買って読んでしまう。
 でも今回は面白かった。もしかしたら今まで読んだこの著者の本の中でベストワンかもしれない。(もう1冊買ってあるので、それを読んでからじゃないと何ともいえないところはあるけれど)
 前作2作は東城大学医学部付属病院で起こる事件であったが、こうも大学で不祥事ばかり起こると大学の存続にも関わってきてしまうからか、或いは大学病院という限定されたところで起こる事件ばかりじゃ限界があるのか、今回は東城大学医学部付属病院から離れたところで話が進む。とはいっても完全に関係ない訳ではなく、東城大学医学部付属病院のサテライト病院である碧翠院桜宮病院にあの白鳥が挑む。
 ということで今回はあの愚痴外来の田口先生はほとんど出てこない。(2回ほどちょいと顔見せ程度あるが)その代わり東城大学の医学生天馬大吉が田口先生と重なる感じだ。天馬は医学部のリタイアを考えており、徹夜麻雀に明け暮れ、留年を繰り返していた。天馬は「時風新報」という弱小新聞社の支局で働いていた。そこには上司として幼なじみの葉子がいた。
 その「時風新報」に厚生労働省から桜宮病院の取材依頼がある。桜宮病院は、老人介護センター、ホスピス施設と寺院を一体化した複合型病院で、終末期医療の先端施設であったが、あまりにも死に関して意直線であったため、その経営には黒い噂が絶えなかったからだ。
 葉子は天馬が医学生であることから桜宮病院に看護ボランティアとして潜入し、取材を命令する。天馬は最初はそれを断っていたが、天馬は以前取材で世話になっていた病院買収関連のやくざの結城に麻雀で負け、借金の形にその取材をやらざるを得なくなる。結城は舎弟の立花善次が桜宮病院で行方不明になっているので探してほしいと依頼してきたのだ。

 天馬は桜宮病院に潜入するが、そこのドジな看護師の姫宮のおかげで骨折をしてしまい、しかもやけどまで負わされ、この桜宮病院に入院することとなる。そして皮膚科の医師として東城大学からあの白鳥が派遣され、天馬と白鳥、姫宮(白鳥の部下で先に桜宮病院に看護師として潜入していた)が桜宮病院の内情を探る。
 この病院はもともと軍の施設として建てられため、その異様さと次々と危篤状態に陥る患者たちが運ばれる螺鈿で飾られた病室が恐ろしさを増長していく。なぜここの患者は短期間の間に次々と死んでいくのか?立花善次はどこにいるのか?殺されたとすればなぜか?立花と桜宮病院との関係は?さらに立花は天馬とも深い関わりがあったことがわかってくる。
 今回は謎解きと恐ろしさがうまく話として構成されていたと思う。


評価
★★★


書誌
書名:螺鈿迷宮
著者:海堂 尊
ISBN:9784048737395 (4048737392)
出版社:角川書店 (2006-11-30出版)
版型:389p 19cm(B6)
販売価:1,680円(税込) (本体価:1,600円)

2007年05月23日

弓削達著『ローマはなぜ滅んだか』

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 この本、本棚の整理をしていたら、目についた。一度は読んでいるようである。調べてみると、確かに一度は読んでいる。どうもこの本は、岩波文庫版の『ローマ帝国衰亡史』の復刊後に出版されたようで、この復刻版が人気があって品切れを起こしたことも書かれている。しかし私の中にこの本の印象が全くない。だからもう一度読んでみようと思ったわけである
 読んでみて、私の中でそれほど印象が残らないのも何となくわかった。とにかく読みにくいのである。
 通常新書という媒体を使う以上、だいたいは読みやすく書かれる。しかしこの本はかなり比喩が多くて、その分抽象的で、わかりづらい。だから何となく読んで、そのままにしておいたのだろう。

 著者は序章で、なぜローマだけその滅亡を問うのかという。生者必滅の人の世にあって、ローマのみその訳を問うのはどうしてなのだろうかというのだ。言われてみれば確かにそうだ。
 しかしローマ滅亡の理由を問うには問う理由があるはずだ。その理由を著者は次のようにいう。「すなわち、ローマは、世界史上まれに見る長年月の間に空前絶後の大帝国を建設し、かつそれを、これまた比類のない長い年月の間維持発展させることができた、という事実が一つ。
 そしてまた、ローマを中心に帝国各地に放射し、辺境から人間や物資をローマに運んだローマの公道のように、これ以前の先進文明を吸収し、それを次代の諸世界へとそれぞれ伝えていったというもう一つの事実」をあげる。この二つの事実が「ローマは一日で成らず」、「すべての道はローマに通ず」のことわざが象徴的に言い表しているという。
 それではそうした大帝国を維持できたシステムとはどんなものであったのだろうか?以後「ローマ帝国の繁栄とは何か」、「道路の整備」、「ローマ帝国の経済構造」、「経済大国ローマの実態」「爛熟した文明の経済的基礎」とローマ帝国を経済的見地からその実態を解明する。その上で、その繁栄した帝国の文化が実は腐敗と退廃をもたらしたことを「悪徳・不正・浪費・奢侈・美食」、「性解放・女性解放・知性と教養と文化」で知らしめる。
 そしてやっと「ローマ帝国の衰退とは何か」、「第三世界(周辺)への評価の岐れ道」、「ローマはなぜ滅んだか」となる。
 確かに後半の3章のためにはローマの経済、文化の実態を知っておかなければ、その滅亡の過程がわかりづらい部分はあるにしても、正直退屈であった。
 で、やっぱりローマ帝国の滅亡理由が気になる。面白いと思った記述は次の通りである。
「共同体国家すなわちポリス(ローマのこと)まで発達した先進的共同体は、自己への同化力を周囲に拡散する磁力の中心のようなものであり、それにふれた発展度のより低い共同体はいわばその磁場の中におかれ、その質において磁力の中心へと吸い寄せられる、という運動方向を示している。
 また言いかえれば、ポリスは、周辺の共同体を自己へとまき込んでゆく渦巻の中心である。地中海沿岸地方及びそれをとりまく諸地方は、共同体国家すなわちポリスという磁場の中心とそれがつくる磁場、或いは渦巻の中心、そういう中心が多数に散在し、それぞれの中心にそれをとりまくペリフェリー(周辺)の共同体が吸い寄せられ、或いはまき込まれてゆく、そういう諸中心と、それをとりまく諸ペリフェリーによって構成されている」
 これがローマ帝国のシステムである。ローマから地中海沿岸地方とその領域を拡大した帝国は、これらを磁場の中心とし、さらに内陸へと広がっていった。
 ローマは恒常的に戦争状態であり、属州からの戦利金(品)と賠償金が国家収入のかなりの部分占めていたし、属州の人々は奴隷として扱われた。そしてその「支配の果実」はローマに集まり、一部の貴族に独占された。それを可能にしたのが「すべての道はローマに通ず」といわれる交通網である。まさしくローマは「磁力の中心」であった。
 属州の支配方法は、ローマ人と非ローマ人の二つの部分に分けた。そのローマ人の範疇は「ローマ人の枠を狭量に閉鎖することなく、賢明にも新しい成員を選び出してその枠を補う。だから、各地の砦を自分で守る必要はない、各地のもっとも権勢と実力をもつ人びとが、補われたローマ人として、自分たちの母市ローマをローマ人のために守ってくれる」のである。
 このことはローマがローマであるためには、地中海沿岸地方以外の「蛮族世界」が不可欠であったことを如実に語っている。そこからの実入りがなければローマは成り立たなかったのである。
 磁場の中心がローマを含む地中海沿岸地方であったときはローマは安泰であった。しかしそうでなくなったとき、ローマは滅びざるを得なかったのである。磁場の中心が「蛮族世界」に移ったのである。(この本はなぜ磁場の中心が「蛮族世界」に移ったのか具体的に言及していない)ただ「蛮族世界」の人々(ゲルマン民族)が「支配の果実」を求めてローマに集まったことでローマは滅んだ。
 ゲルマン民族がなぜローマを目指して移動してきたのか、かねがね不思議に思っていたのだが、それまであった磁場の中心がローマであり、そこにローマの「支配の果実」があったから、彼らはそれを求めてやってきたのである。そしてその果実はかなり毒を持っていて、それに毒されたゲルマン民族は、本来持っていた自分たちの特性を失い、結局ローマ同様滅びざるを得なかった。唯一ローマと距離を置いたフランク族が次の時代を担ったのである。


評価
★★


書誌
書名:ローマはなぜ滅んだか
著者:弓削 達
ISBN:9784061489684 (4061489682)
出版社:講談社 (1989-10-20出版) 講談社現代新書〈968〉
版型:241p 18cm
販売価:777円(税込) (本体価:740円)

2007年05月17日

志水辰夫著『生きいそぎ』

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 この本もお茶の水の丸善で、POPにつられて買ってしまった本である。(私にとってこの本屋は鬼門かもしれない)本の裏表紙に次のように書かれている。「定年を迎えたり、親しい友人が亡くなったり、親やきょうだいの法事に集まったりするとき、ふと胸をよぎるのは、幼かった頃のことや、最も輝いていた時期のことだ。人は皆、戻るべき故郷があるというけれど、戻ればそこは、変わり果て居場所さえもままならない。でもまた生きてゆかなければならない。老いに向かう人生の「秋」を叙情豊かに描く短編小説集」
 これを読んでちょっと読んでみようかなぁという気になった。歳のせいか、こういう「人生の『秋』」なんて書かれると、どうしても気になるのである。やばいなとは思っているのだけれど・・・。

 この本は「人形の家」、「こういう話」、「五十回忌」、「うつせみなれば」、「燐火」、「逃げ水」、「曼珠沙華」、「赤い記憶」の8編の短編で成っている。ただ、どれもどうってことはなかった。今回は完全に丸善の文庫担当者にだまされたことになる。
 題名自体なんか人生の哀愁を物語るけれど、だいたいこれら作品で何を言いたいのかよくわからなかった。どの短編も、子供時代に何らかの問題のある過去を持っていて、それが大人になり、仕事などで忙しくなって、一時忘却の彼方に追いやれる。しかし現役をリタイヤしてから、時間をもてあますためか、忘れていた拭い去りがたい過去がむくむくと頭をもたげ、かつて自分の子供時代の故郷に帰り、それを振り返るというパターンである。ただそれだけである。だからなんだというのだろうか?人は人生の秋を迎えるとこうなるとでも言いたかったのだろうか?
 その上、
「同時にふたつ以上にことをすると、片方のことを忘れてしまう。最近割合そういうことが多いのだ。脳が現実の多様性に対応しきれなくなっている。こういうかたちで老いを目の前に突きつけられるのは、あまり気持ちのいいものではなかった」

「仕方ないさ。人間の歴史なんて、しょせん有限なんだ。その人間ごとに、自分が立ち会ってきた歴史を大事にするほかない」

「若者にはいつだって住みにくい世のなかなのだ」

 といった人間歳をとるとなる状態や、冷め切った考え方が作品にちらちらと顔をだす。あ~、嫌だ、嫌だ。ちっとも叙情豊かじゃない。


評価


書誌
書名:生きいそぎ
著者:志水 辰夫
ISBN:9784087460124 (4087460126)
出版社:集英社 (2006-02-25出版) 集英社文庫
版型:319p 15cm(A6)
販売価:579円(税込) (本体価:552円)

2007年05月15日

志水辰夫著『行きずりの街』

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 この本はこの本についている帯に惹かれて買った。そこには16年前の「このミステリーがすごい」の第一位の本だと書かれている。正直な話何で今頃本屋の目立つところに並んでいるのが少々不思議でもあったあった。お茶の水の丸善のPOPには16年後大ブレイクと書いてあった。私みたいにこのPOPを見て、買わされた客が多くいるのだろう。(それにしてもこの店のPOPに書かれている文句は結構触手が動いてしまうほど、うまい)

 さて16年前の「このミステリーがすごい」の第一位の本だというが、それほど色あせていない。だから結構話に引き込まれてしまう。
 郷里の塾の教え子であった広瀬ゆかりの伯母が祖母の病状が思わしくないので、今のうちにゆかりに会わせたいのでゆかりを探してほしいと波多野に頼み込むことから物語は始まる。
 ゆかりは孤児で、祖母の手で育てられていた。波多野の実家にも遊びに来た。高校卒業後、東京へ出て行ったが、波多野はゆかりの東京行きには彼女の性格を考えれば賛成できなかったが、本音のところでゆかりとこれ以上関わりたくもなかった。しかし東京でゆかりの消息がとれないと聞き、自分がゆかりを放り出してしまったのではないかという罪悪感に駆られ、東京に出て、ゆかりを探し始める。
 波多野は郷里に戻る前、都内の私立の名門学園の教師をしていた。しかし教え子の雅子と恋愛関係になり、雅子が卒業後結婚をする。それが高校でのスキャンダルとして扱われ、波多野はその高校を去った。そして雅子と別れて郷里へ戻ってきていた。
 ゆかりを捜しているうちに、ゆかりが角田という男に囲われていたことがわかる。この角田という男は波多野が去った後学園の経理部長をしていた男であった。ゆかりの行方を調べているうちに波多野は自分の追放劇が学園の陰謀であったことを知る。また、別れた雅子と再会する。
 ここから波多野は自分が追放された真相と学園の陰謀の究明が、ゆかりの行方を探るうちにあばかれていく。
 こんなに都合よく昔のことが関連するわけがないだろうと思いつつも、読んでいるうちに引き込まれていった。それに一介の高校教師がこんなにかっこいいわけないだろうとも思ったが、まぁ話としては面白かった。それに別れた雅子との会話ももの悲しく、その後の人生の哀愁がうまく描かれている。
 この本が本当に16年たってブレイクしているなら、それはミステリー的要素だけでなく、ハードボイルドの面も持っていて、しかも恋愛小説的要素を持っているからだろうか?過去の清算と再出発が最後に成就することもプラス要因かもしれない。
 ところでこの本のカバーのデザインがいい。


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 波多野が学園の教師をやっていた頃、雅子と夜隠れて会っている感じがよく出ている。あるいは探し当てたゆかりかもしれない。それほど雅子とゆかりがだぶる。


評価
★★★


書誌
書名:行きずりの街
著者:志水 辰夫
ISBN:9784101345116 (4101345112)
出版社:新潮社 (1994-01-25出版) 新潮文庫
版型:356p 15cm(A6)
販売価:579円(税込) (本体価:552円)

2007年05月14日

松井秀喜著『不動心』

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 これも以前書いたかもしれないが、私が日本のプロ野球をテレビで見なくなったのは、松井が大リーグに行っちゃってからで、面白みがなくなってしまったからだ。
 その松井が2006年5月11日、レッドソックスのマーク・ロレッタの打球をスライディングキャッチする際、左手首を骨折してしまった。連続試合出場記録1768試合で途切れてた瞬間でもあった。



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 この本はその骨折から125日間、手術、リハビリの間、松井秀喜というメジャーリーガーが何を考え、どうしてきたか、そしてそれを乗り切ってきたものは何かを、自身語ったものである。
 読んでいて感じたことは、松井自身がどんな状況下においても基本がぶれないというところがすごいなぁと思った。
 アクシデントなど自分ではどうにもできないことを思い悩むのではなく、自分自身をコントロールできるところで最大の努力をしていくこと。そしてそうしたアクシデントも「人間万事塞翁が馬」のことわざのように、人にとって何が災いで、何が福かはそのときだけではわからないもので、災い転じて福となすこともできることを切々と訴えている。松井自身、そうして過ごしてきたことを、自分の野球人生を振り返って語っていく。
 たとえば松井といえば甲子園で5打席連続敬遠が有名だが、あのとき、「打ちたい」、「勝負してくれ」と思ったという。結果全国制覇という夢が破れ去ったけれど、あの連続敬遠で松井秀喜は日本中から注目される存在となった。そのおかげで長嶋監督の目にとまり、巨人への入団となったのではないかと思うという。
 また読んでいて、へぇ~と思ったのは、松井は日本のプロ野球では阪神に入団したかったと知った。でも巨人に入団した。しかし何年かして、もう阪神の縦縞のユニフォームを着た自分が想像できなくなったという。逆に巨人に入団し、長嶋監督に鍛えてもらったことに感謝するのである。ドラフトで自分の夢がかなわなかったことを嘆くのではなく、まさしく「人間万事塞翁が馬」で前に進んできたと振り返る。

 ところで、今高野連が特待生を厳しく断罪しているが、おそらく野球での特待生がどうしていけないのか不思議に思っている人が多いんじゃないかと思う。野球がうまく、その才能がある生徒をどうして待遇しちゃいけないのだろうかと思う。野球がうまいだけじゃないだろう。さらに一流選手になるために、相当の努力をしてきているはずだ。野球馬鹿かもしれないけれど、一芸に秀でるためにはたくさんの汗や涙を流してきてそこまでなったはずだ。それに報いるのがなぜ悪いのかよくわからない。そうした能力のある選手をさらに強化してよりよい選手なるならそれでいいじゃないか。何も教科書を手にすることだけが教育じゃあるまい。むしろのほほんと高校生活を送っている奴からから比べれば、もっとシビアだろう。 松井がイチローと対談したときに、イチローが大リーガーで「吐き気を催すことがある」と言っていたという。それほど追い詰められて野球をやっている。松井も「ケタ外れの尊敬や待遇を受ける一方で、それなりのパフォーマンスを見せられなくなったときは、本当に容赦がない。むしろ多大な敬意や待遇を受けていればいるほど期待も大きいわけで、それがダメだったときの反動、結果が出なかったときの扱いはシビアです。これまでヤンキースに4年いただけで、それは痛切に感じます」という。だから結果を出さないとならないし、結果が出れば、尊敬も得るだろうし、莫大な年俸もその証となるものだと思う。高校球児だって同じだろう。結果が出なけりゃ、特待生の待遇だって外されるはずだ。
 少なくとも馬鹿になれない、どうでもいいやつが多い世の中で、一つのことに一所懸命努力していることに、報うことがなぜ悪いのか。できる人に結果を出した分、報うのは当たり前だ。だから松井にしてもイチローにしてもメジャーリーグで一流選手であれるんじゃないかと思う。いつまでも、「みんな同じ」という考え方は、すべてをだめにする。夢がなくなってしまう。(本当はこんなことを書くつもりはなかった。しかしあまりにも馬鹿な高野連の幹部に腹がたったので書いてしまった)


評価
★★★


書誌
書名:不動心
著者:松井 秀喜
ISBN:9784106102011 (4106102013)
出版社:新潮社 (2007-02-20出版)
版型:189p 18cm 新潮新書
販売価:714円(税込) (本体価:680円)

2007年05月09日

司馬遼太郎著『街道をゆく』43巻

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 この巻は司馬さんの絶筆となった。そのためページ数にして約100ページほどで、これからこの三濃、尾張の旅で信長、家康と話が展開するはずだったのが、尻切れトンボのようになってしまっている。仕方がないとはいえ、残念である。特に司馬さんの戦国物が好きな人にとってみれば、きっと面白いものなったのではないかと思う。

 これでこの『街道をゆく』43巻、全巻読破したことになる。このブログの記録を見ると、第1巻を読み終えたのが、昨年3月31日になっているから、約1年1ヶ月かかったことになる。もちろんこれにかかりっきりなったわけじゃなく、途中かなり寄り道をしてしまったから、こんなに時間がかかってしまった。でも、読んでよかったと思う。このシリーズは私にとって、日本史の教科書になったような気がする。あと、このシリーズのまとめでもある分厚い本を読んで、このシリーズの完結としたい。


『街道をゆく』43巻の「濃尾参州記」は週刊「街道をゆく」の50巻に収録されている。

評価
★★


書誌
書名:街道をゆく〈43〉/濃尾参州記
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022570345 (4022570342)
出版社:朝日新聞社 (1996-11-01出版)
版型:123p 19cm(B6)
販売価:1,019円(税込) (本体価:971円)

2007年05月08日

司馬遼太郎著『街道をゆく』42巻

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 話は急に始まる。その昔、現代国語の先生が「一生懸命」は間違いで、正しいのは「一所懸命」が正しいとくどいくらい言っていたのをふと思い出した。今広辞苑を引いてみると、一生懸命は「イッショケンメイ(一所懸命)の転」とある。つまりどちらも併用されているということらしい。
 ここに「一所懸命」の意味が説明されていたので書いてみる。
 8世紀の奈良朝からその後400年ほど続く平安朝は、律令制の世界であった。律令制は、公地公民が大原則でった。つまり農地、農民は国家の所有物と考えられ、ただ租税を納める機械としか見なされていなかった。当然重税に耐えかねて離散する者も多かった。 やがて例外として荘園という私有が認められるが、この私は公家や有力社寺の私領であった。つまり、農民は国の農民と荘園農民と別れたが、ここにもう一種類の農民が生まれる。墾田の農民である。この墾田は基本的に開拓者の永代私有が認められたが、有力開発者が離散した農民たちを集めて、山野を開いたのが現状であった。
 ところがおかしいことに、せっかく開墾した自分たちの土地を自分たちの所有とはせず、開発人たちは、いったんその農場を京の公家や有力社寺に献上し、自分たちはその土地の管理人になって、その土地を安堵してもらう方法をとるのである。その管理人のことを武士と呼ぶ。つまり土地の法的持ち主は公家で、自分たちは武装して農地を管理する立場に置いたのである。当然公家に気に入らないといわれて追い出されることもあったわけで、この管理人(武士)はいつも京にたいしておびえていた。だから管理人は自分たちの管理権を懸命に守っていた。そのさまを「一所懸命」といったのである。
 この日本人の美徳の一つのエートスになっている「一所懸命」という言葉の由来を知ると、土地に必要以上に経済的価値観を置く日本人の原点になっているように思えてくる。

 さて今回は三浦半島の旅である。ここで、鎌倉幕府とそれを開いた源頼朝に重点を置いて旅をされる。ただこの地は日本海軍の発祥の地でもあるので、多少その関係にも触れられる。私は今回鎌倉幕府と頼朝について書きたい。

 ところでこの鎌倉幕府というのもよくわからない。そもそも源頼朝という人物はどんな人なのだろうか?司馬さんのこの本を読んでいると、先の「一所懸命」のところで書いたように、この当時武士は公家の顔色をうかがいながら生きていた。絶えず京に対して不安を持っていた。そういう心配を一手に引き受けたのが頼朝であった。公家に対して口利きをしてやる存在であった。つまり「自分がなんとかしてやる」といったのである。どうしてそんなことが可能かといえば、代々京に顔がきいたのである。そして頼朝そうしたことが自分の存在感であったことをよく知っていたし、そもそも鎌倉幕府はそうしたことをすることで存在できた。頼朝は自分の力で幕府を開くほどの家臣団を持っていなかったのである。関東の武士団、たとえば北条氏、三浦氏などの力を借りて、鎌倉幕府を開くのである。考えてみると不思議な存在であった。司馬さんは次のように言う。「頼朝はただ一人でもって、坂東武士団の推戴をうけて世に立っている。主役は、坂東武士である」と。だから頼朝の弟である義経が平家追討の最大の手柄を立てても、自分の血族をもろ手を上げて招き入れることはできなかった。そうしてしまえば、坂東武士たちの信頼を失ってしまうのである。その結果、頼朝は義経を殺せざるを得なかったのである。そして頼朝にしても、その後を次いだ北条氏も坂東武士団の信頼がなければ、幕府の存在が危うくなるのである。このあたりは、徳川幕府とは大きく異なる。
 また板東武士団も頼朝の存在を、関東の紛争の裁き人としてしか見ていなかった。だから鎌倉幕府の主要な機関を一般の政務を扱う政所の他に、軍事・警察をつかさどる侍所、訴訟・裁判を扱う問注所を整備したのである。そのことを司馬さんは簡潔に次のように言う。

「坂東のひとびとが頼朝に期待したのは、統治者というよりも、―くりかえすが―関東の地で恒常的におこっている農地の所有をめぐる争いの裁き人としてであった。
 鎌倉での頼朝は、唯一の司法者として期待された。
 かれの死後、鎌倉幕府の司法面は、合議制が濃くなるが、在世中は、かれ一人がさばいた」

 また律令国家から武士団の利益を守り、武士団相互の紛争を公平に裁くために征夷大将軍になったのであった。征夷大将軍は辺境の政治について専決権が許されていたからである。
 こうして頼朝のことを読んでいくと、鎌倉幕府の初期はおびただしい血が流れている。それも頼朝一人の存在感を守るために、血が流されていった感がある。ところが頼朝の家系が絶え、権力が北条氏に移ると(司馬さんは鎌倉幕府はもともと頼朝と北条氏の合資会社という言い方をしている。これはなかなかうまい言い方だ)政権が安定したという。面白いのは北条氏は将軍とはならなかったことである。将軍は尊貴であればいい存在なので、わざわざ京の藤原摂関家や皇族から迎え、自分たちは執権職におさまり、実質政治の実権を握っていた。北条氏は実に現実的で地に足がついた存在であった。京からもらう官職は代々「相模守」だけであった。司馬さんは面白いことを言っている。このことは、「神奈川県知事が日本の宰領をつとめつづけたことになる」と。

 こうして鎌倉幕府の存在によって、土地制度が定まった。公地公民の律令制から土地が所有者のものとなった。いわば道理が安定した。道理の通る時代になった。「従って、ひとびとの物を見る気分まで現実的になった。
 絵画では絵巻物という形式が盛行し、物事を動くものとしてとらえた。彫刻も、リアリズムがよろこばれた。
 また思想も簡潔になった。
 仏教という、えたいの知れぬほど煩瑣なものからただ一つの本質がとりだされ、親鸞や一遍の教学になった」と司馬さんは鎌倉幕府の存在の意味をいう。鎌倉幕府はがわずか百五十年だったけれど、「この時代から日本らしい歴史がはじまると極論していい。もし平安朝の中央集権制がそのままつづいていたとすれば、日本史は中国史や朝鮮史とさほど変わらないものとなる」と言い切る。

『街道をゆく』42巻の「三浦半島記」は週刊「街道をゆく」の5巻に収録されている。

評価
★★★


書誌
書名:街道をゆく〈42〉/三浦半島記
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022569592 (402256959X)
出版社:朝日新聞社 (1996-06-01出版)
版型:371p 19cm(B6)
販売価:1,575円(税込) (本体価:1,500円)

2007年05月04日

司馬遼太郎著『街道をゆく』41巻

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 「日本じゅうの道という道の束は、やがて一すじの細いみちになって、ここに尽きるのである」と、本州最北端の地、竜飛崎で司馬さんはいう。いかにもここでおしまいといった感じだ。伝説ではあの義経もここから北海道に渡ったということも書かれている。そこから更に大陸へ渡り成吉思汗となったというとんでもない話もある。
 司馬さんもここで書かれているけれど、高木彬光さんの『成吉思汗の秘密』は私も高校時代読んだことがある。主人公の検事さんが病気か怪我か忘れたけれど、とにかく暇を持て余していて、病室で義経が成吉思汗だったという歴史ロマンに夢中になる話だった思う。なんか懐かしかったので、冒頭に書いてしまった。

 さて、今回は下北半島、津軽半島の旅である。司馬さんは今回のこの紀行文のタイトルを「北のまほろば」と題名した。この「まほろば」という言葉はあまり聞き慣れない言葉である。
 説明によると、伝説の日本武尊が、異郷にあって、望郷の思いを込めて、自分の故郷である大和のことを「まほろば」と呼んだという。その上で司馬さんは、「私は、まほろばはまろやかな盆地で、まわりが山波にかこまれ、物成りがよく気持ちいい野として理解したい。むろんそこに沢山に人が住み、穀物がゆたかに稔っていなければならない」と、この「まほろば」にそうしたイメージを持たせている。
 しかし本州の最北端のこの地が「北のまほろば」とするには違和感がある。たとえば歴史上何度も飢饉を経験してきた寒冷でやせたこの土地に、「物成りがよく気持ちいい野」というのはいえないのではないかと思ってしまう。けれどそれはコメを主体とする農業にどっぷりつかってしまった影響による。以前にも書いたが、イネは南方系の植物だから寒さに弱い。そのためこの地で何度も「けかち(飢饉の方言)」に見舞われた。だから太宰治が自分の故郷をさして、「悲しき国」と『津軽』で嘆いたのである。
 しかし稲作が始まっていない縄文時代は違った。「山や野に木ノ実がゆたかで、三方の海の渚では魚介がとれる。走獣も多く、また季節になると、川を食べものほうから、身をよじるようにして、-サケ・マスのことだが-やってくる。そんな土地は、地球上にざらにはない」といい、「縄文時代、世界でいちばん食べものが多くて住みやすかったのが、青森県だったろうということを、私も考古学者たちの驥尾に付してそう思い、いわば"まほろば"だったと考えてきた」というのである。
 司馬さんは以前の「オホーツク街道」でもかなり熱かったが、今回も同様にかなり熱くこの土地を語る。はっきり言って「北方狂」とでもいえそうである。その「北方狂」が、この土地がコメを中心とした農業では、寒冷で、やせた土地であったがために、飢饉や凶作に見舞われるたが、先史時代(縄文時代)の採取経済の時代では、そんな心配がなく、自然豊かな土地であったと言わせるのだろう。更に「地下三尺に、他地方にない感覚のゆたかさを秘めているというふしぎな地でもある」と言わしめるような気がする。
 その地下にあの有名な三内丸山遺跡などいくつかの貴重な遺跡があることは周知の通りである。そしてその東北の地方のゆたかな文化が、太宰治、石坂洋次郎、葛西善蔵、棟方志功といった「他地方にない感覚」を持った人々を生むのであると考える。
 要は「日本史は、水田農耕がゆきわたった奈良朝時代あたりから、西方が優位になり、東北は夷(ひな)のあつかいをうけるようになった」だけのことじゃないかと司馬さんは強く主張されている。

 この地方における弥生式文化について、新たに知ったことを書きたい。
 先に書いたとおり、コメの性質上、古代東北地方には弥生文化が長いことなかったと思われていた。しかしこの東北に古代稲作(弥生文化)があったことを証明する土器や水田跡など見つかった。司馬さんは次のように想像してみる。
「北九州で水田を中心にできた村の次男坊たちが、つぎの適地をもとめてあらたな村をつくったはずである。さらにその次男、三男たちが、というふうに、世代があらたまるごとに適地から適地へと移り、この文化がひろまった。
 稲作は、食糧の不安を、いわば解消させた。
 よほどの魅力だったのか、弥生文化は日本列島をひた走った」

 青森県には縄文時代が続いていたほぼ二千年前に弥生前期の水田が出現していた。遺跡がそれを物語っている。弥生文化が、北九州から発して東進し、やっと今の名古屋あたりに達したころである。関東地方などはまだ縄文文化のときであった。しかし日本海側の津軽では弥生文化が来ていたのである。おそらく日本海岸を舟で移ってきたのだろう。
 しかし東北地方のこれらの弥生文化の孤島群はその後消滅してしまった。おそらく縄文勢力が圧倒的に多数だった時期に、少数派の稲作グループが力負けしたためではないか。そして豊かな自然が縄文人の養っていたから、わざわざコメを作る理由もなかったのかもしれないという。
 しかしいったん滅んだ稲作を、後の律令国家が稲作をせよこの地に再度勧めていくことになったのだという。ということはこの国家主導の稲作がやがてこの地方を不幸にしていったともいえそうである。

 司馬さんは今回太宰治の『津軽』を携えてか旅をなされているのか、とにかく太宰のこの作品から様々な津軽を引用する。この『津軽』も高校時代読んだけれど、また読んでみたくなった。


『街道をゆく』41巻の「北のまほろば」は週刊「街道をゆく」の24巻に収録されている。


評価
★★★


書誌
書名:街道をゆく〈41〉/北のまほろば
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022569004 (402256900X)
出版社:朝日新聞社 (1995-11-01出版)
版型:485p 19cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)