2007年06月20日

柳田邦男著『人の痛みを感じる国家』

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 久しぶりに柳田さんの本を読む。しばらく柳田さんの本を読んでいなかったので、最近の柳田さんの傾向がこんな感じになっているんだと少々驚いている。ノンフィクション作家としての柳田邦男ではなく、どちらかと言えば「人の生き方」に言及されるようになっていた。それはどうやら前作2作から柳田さんの問題点であるようだ。ただ私はそれらの本を読んでいないので、この本にだけについて書いてみたい。
 この本では主に二つのことに言及されている。一つはケータイ・ネットの危険性、さらもう一つはに本の題名にあるように「人の痛みを感じる国家」についてである。
 話は前後しちゃうのだけれど、ケータイ・ネットの危険性については思うところがあるので、あとでいいたい。まずは「人の痛みを感じる国家」についてである。
 柳田さんは「この三年ほどの間に、水俣病事件をはじめ、公害、労働災害、薬害、原爆被災などの事件に関して。被害者の救済を求める裁判で、国の行政の不作為つまり怠慢を厳しく断じた判決が相次いでいる」ことについて、裁判所が国家や官僚が国民の健康と生命に対する意識の希薄さを断じたことは、ただごとじゃないというのである。つまりこれらの裁判はすべて行政の規制権限や認定基準が機械的すぎることへの不当性を訴えており、裁判所はそれを認めた形になっているのが最近の潮流だというのである。
 今までの日本の行政は国家の政策目標のために、その実現のためには犠牲者がでても無視して突き進んできた。国の経済発展を最優先にしてきた。ところが裁判所はそれにNGを出しつつある。ということは今後今までのような国策優先のためには多少の犠牲者が出ても仕方がないという論理がだんだんまかり通らなくなりつつあるということだろう。
 柳田さんはガンになった精神科医の次の言葉を引用する。「他人の痛みは何年でも耐えられるものです。今、自分が毎日襲ってくる痛みをかかえるようになって、そのことを身にしみて感じるようになりました」と。
 これまでの日本の官僚はこの精神科医がガンにかかる前の意識と同じだというのである。だから行政は自分の正当性を何年でもかかっていいから主張し、争ってきた。官僚には異動があり、2年もすれば担当を交替し、他者の痛みなど忘れられる。ところが被害者は病気や障害を抱え、10年、15年と裁判で戦っていく。そうこうしていくうちに被害者は長い歳月を待てずに死んでいくという残酷な現実がある。
 いまこそ、官僚は意識の転換をし、他者(国民)の痛みをこの精神科医のように身をもって感じる行政をすべきであり、「人の痛みを感じる国家」を創らなければならないと提言する。
 これについては確かにそうであろう。とにかく裁判が長すぎる。国家の政策がいつも完璧であれるわけがないこともわかるつもりである。片方をたてれば、もう片方がたたないこともあろう。ただ間違いは間違いだと素直に認めるべき態度は必要であり、つまらん主張や自己弁護を永遠と繰り返すことでは国民は納得しなくなってきている。それは社保庁の年金問題だって、そういえるんじゃないかと思う。おそらく今は国の政治のあり方、官僚の態度など、今までのようなやり方に方向転換を求められているのが、今なんじゃないかと思う。

 あと一つの問題である、ケータイ・ネットの危険性については、柳田さんは携帯電話やインターネットは著しく人間性を損なうというのである。その理由を以下のようにあげる。

①バーチャルな世界だからこそ描かれる凄惨な殺し合いやおぞましい行動なのに、それをあっさりと現実の世界に持ちこんでしまうという倒錯を引き起こす。

②世界を自分の思いどおりにあやつれると錯覚する全能感を持ってしまう。

③匿名による情報発信で誰かを中傷したり脅迫したりプライバシーを暴いたりしても、罪悪感を感じなくなってしまう。

 さらに柳田さんは岡田尊司さんの『脳内汚染』という本から「情報の毒性には、さらに恐るべきことがある。物質であれば、血液に入っても、血液脳関門(ブラッド・ブレイン・バリアー)と呼ばれる組織(いわば濾過膜)によって、脳内に入るのを防ぎ、脳の神経細胞を守る仕掛けがある。しかし、情報は信号であって物質でないから、眼や耳から入ったら、何のバリアーもなく、ストレートに脳を直撃することになる。
 こうして脳が情報に浸されると、その子どもの心にどのような影響が現れてくるか、その主な変化を挙げると、次のようになる。
▽我慢しようという意思がなくなる
▽行動をする際に、どちらにしようかなどと迷ったりする緊張感がない
▽他者に対する共感性が欠ける」とあげる。

 これらいわれていることは、別に目新しいことではなく、おそらく誰しも最近の事件などを思えば、その原因の深淵はここにあるんじゃないかと思っているのではなかろうか。
 そして匿名性に関しては、それを加速しているのが個人情報保護法であるという。柳田さんは「現代は、一方ではケータイ・ネットでの匿名の情報発信による人権侵害や中傷・誹謗や脅かしなど横行しているのと同時に、他方では公的機関が個人情報保護法を都合よく拡大解釈して『匿名社会』を形成しつつあるという、極めて危うい時代になっていることがわかる。この状況がさらに進むと、犯罪・事故・災害の被害者名(とくに死亡者名)が公表されなくなって、人々が不安にさらされる一方では、公務員などが自分たちの不利益になる情報や天下り状況などを隠してのうのうとしているという、暗黒社会がやってくるのは避けられないだろう。これは重大な事態だ」と警告する。
 その結果柳田さんは当時の小泉首相に「小中学校からパソコン排除を!」という手紙を出している。そもそも「パソコンを使いインターネットなどから入手する情報は単なる情報でしかない。情報レベルでの思考ははらわたに浸み、全身を揺さぶるほどの力を発揮しない」とネットからの情報入手に否定的だ。徹底した「現場主義」なのだ。その方が、「たちまち脳内の感性と思考機能がフル回転を始め、全身が揺さぶられることになる」と言い切る。
 そうかもしれない。そうかもしれないが、だからといってパソコンやネットが不要かという話にはならないだろう。だからこそパソコンを排除できるという論理はあまりにも無謀な論理だ。単にパソコンを排除しただけで問題は解決するのだろうか。いやそれより今の時代パソコンを排除することが可能なのだろうか?
 確かにネットには様々な問題がある。けど何でもありのネットだからこそ、ネット存在感があるのではなかろうか?そして私たちはインターネットという「パンドラの箱」を開けてしまったのである。ただ単に問題があるネット排除すれば問題が解決するというのは、あまりにも短絡過ぎるし、あれほど「セーフティーネット」と口酸っぱくいう柳田さんらしくない。
 陳腐な言い方かもしれないけれど、パソコンやネットの使い方が問題なのではないか。情報の選択の仕方に問題があるんじゃないかと思う。そもそも玉石混淆だからこそ意味があるのであって、問題があるから、すべてを切り捨ててしまう発想自体が危険だ。いいも悪いもあるから、それはいい、これは悪いといえるもんだろうし、そもそもいい悪いの判断は個人個人違うものだろう。すべては取り扱いの問題につきるんじゃないかと思うのだ。
 なんだかこの本を読んで柳田さんに失望しちゃったなぁ。


評価
★★


書誌
書名:人の痛みを感じる国家
著者:柳田 邦男
ISBN:9784103223177 (4103223170)
出版社:新潮社 (2007-04-20出版)
版型:219p 19cm(B6)
販売価:1,470円(税込) (本体価:1,400円)

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