2007年07月29日

ジョン・ダンニング著『災いの古書』

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 元警官で古書店店主クリフ・ジェーンウェイの最新刊を読み終える。やっぱり本格派ミステリーは面白い。つまらん青春小説など屁みたいだ。
 さて、今回はクリフの恋人で弁護士であるエリンの昔の友人ローラ・マーシャルが夫殺しで逮捕されたことから物語は始まる。ローラの夫、ロバート・マーシャルはエリンの昔の恋人でもあった。
 ローラはエリンに弁護の依頼をするが、エリンにはためらいがあった。いくら昔の友人であっても、ローラはエリンの恋人であったロバートを奪った人物である。そのためエリンはまずクリフをローラの元へ行かせる。
 ロバートは蔵書家でもあった。調べてみると、本自体は大した値打ちのある本ではなかったが、そのほとんどに著者や有名人のサインがあった。つまり蔵書していたのはサイン本だったのである。
 ローラは最初自分が夫であるロバートを殺害したと自白したが、エリンやクリフ、そして地元の老弁護士のバリーはその自白に疑問を持ち始める。
 では誰がロバートを殺害したのか?そしてこの大量のサイン本は何を意味するのか?ロバートの蔵書を持ち出したバイヤーのおかげで、やがてこのサイン本に疑惑が生じ始める。
 う~ん、これ以上は書けない。書いちゃうとネタバレしてしまう。しかし、古本にまつわるミステリーは大好きだ。500ページもある本をあっという間に読んでしまった。
 これ以上話の内容には関われないので、違うことを書く。アメリカのミステリーは会話がやけに明るくて、ざっくばらんでいい。ロバートとエリンが恋人関係になった頃の話を次のように言う。

「そのとおり。あなたはアメリカの古書籍商協会に入り、各地で催される古書フェアに行くのよ。もちろん、私も同伴する。見習い兼、飢えた性の奴隷として」
「それはいい。特に最後のやつがね」
「皮肉を返したいところだけれど、あの晩、どちらがどちらを襲ったのか、思い出しちゃった」
「弁護士がすきそうな言葉を使えば、併発的な事態だったな。お互い同時にむしゃぶりついたぞ」
「あなたが玄関のドアをあけたとき、私、もう半分脱がされていたわ」
「ほんとうか?気がつかなかったな。それで通りにおっぽり出した半分は、なんだったのかな」
「パンティーは側溝のなか、ブラは消火栓に向かって放り投げたわ。ストッキング、靴、アクセサリーは歩道にまきちらしたのよ」
「どうりで気がつかなかったはずだ。きみはあの売春通りにすっかり溶け込んでしまっていたのさ」
「それで、いま、こういう関係になったわけね」

 なかなかじゃないですか!

評価
★★★★★


書誌
書名:災いの古書
著者:ジョン・ダンニング・横山啓明訳
ISBN:9784151704093 (4151704094)
出版社:早川書房 2007/07出版 ハヤカワ文庫
版型:15cm 558p
販売価:945円(税込) (本体価:900円)

2007年07月26日

川上健一著『四月になれば彼女は』

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 焼きが回ったついでに、「青春小説の名手が放つ純愛グラフィティの傑作」(とこそばゆい文句がこの本の帯に書いてあった)を読む。川上さんの本はエッセイ『ビトウィン』がかなり気にいっていて、それ以外に小説2冊を読んでいる。確かにこの2作の青春小説はそれなりに面白かったけれど、正直もういいやという感じではあったが、ついつい新作ということで買ってしまった。
 で、どうだったかというと、失敗であった。予想通りであった。だいたいもう青春小説なんて読む年齢じゃないのだ。私は。
 題名の『四月になれば彼女は』はサイモン&ガーファンクルの曲名だそうだが、さてどんな曲であったか記憶にない。家にサイモン&ガーファンクルのCDがあるが、かといって引っ張り出して聞く気にもならなかった。
 高校を卒業して、次に大学進学なり、就職なりする4月までのわずかの間の不安定な時期のことを書いた小説であるが、だからどうだというわけでもない。主人公の沢木圭太が友人の駆け落ちごっこにつきあうことから物語は始まる。そのあと、高校時代のけんか相手とけんかをしたり、友人や先生と会ったり、小学校の時好きだった女の子と再会したり、三沢基地にいるアメリカ兵とバスケットをしたり、童貞を捨てたいために、街の娼婦を捜し回ったり、アメリカ兵とのけんかに巻き込まれたりする1日を過ごす。
 そこには高校を卒業したという開放感と、高校を卒業をしたのだから早く大人になりたいという気持ちが、そうさせることを作者は書きたかったにかもしれない。
 沢木圭太は最初地元で就職する予定であったが、結局それもダメになり、めまぐるしかった1日が終わった後、東京へ行こうと決意する。
 次に朝、東京の大学に行く小学校の時好きだった女の子、二瓶みどりと再度会う。みどりが懐かしい小学校へ行きたいというので圭太は一緒に行く。校舎を見上げみどりは、「やっぱり小学生のころは楽しかったね」という。おいおい高校生の卒業したばかりで、小学校の頃を振り返るなよ言いたくなってしまった。
 自分はこの頃何をしていただろうかとふと思った。私は3年の10月にはもう大学が決まっていた(すぐ辞めちゃったけど)のでそれ以降、もう高校を卒業した感じで過ごしていた。だから圭太みたいに、高校卒業した3月から4月のわずかな期間ではなく、かなり長い期間自由に過ごしていたはずだ。そのためか圭太みたいな濃密な開放感や悩みなどなかったような気がする。とにかくこの頃には大した記憶がない。


評価


書誌
書名:四月になれば彼女は
著者:川上 健一
ISBN:9784408534756 (4408534757)
出版社:実業之日本社 (2005-07-25出版)
版型:385p 19cm(B6)
販売価:1,890円(税込) (本体価:1,800円)

2007年07月21日

重松清著『カシオペアの丘で』上下

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 読む前から、この話の展開は予想できた。幼い頃、故郷に何人かの仲間がいて、何かを共有している。夢とか希望とか特別な場所とかそんなものを。だけど、一方で危ういものもどこかにある。
 そして仲間がバラバラになり、あるものはそのままそこに残り、あるものは故郷を離れる。そして故郷を離れた一人が不治の病にかかり、故郷に帰る。当時の仲間がそこに集まり、子どもの頃を語り、病気になった仲間の残りわずかな時間を新たに共有する。
 病気になったやつは自分の人生を振り返り、残された家族の思いを語ることで、お涙頂戴という話だろうと思っていた。そして話はほぼその通りの展開をする。
 おそらく若い頃ならこんな話など絶対に読まなかったはずだ。だけど、3年ぶりの新作と聞いて、以前重松さん本を読んでいたので読んでみたくなっていた。焼きが回ったとしか言いようがない。そして感動してしまったのだ。やれやれ俺も歳をとっちゃったんだなぁと思う。

 1997年、4人の小学生は後に自分たちで名付けた「カシオペアに丘」に上り、夜空に星を見に出かける。4人の名前は俊介、敏彦、美智子、雄司。彼らはいつかこの丘が遊園地になるといいと星に願った。
 4人は大人になった。カシオペアに丘には遊園地ができ、北海道に残った敏彦が園長になり、美智子は敏彦と結婚した。俊介と雄司は東京にいる。

 この話は、「ゆるしたい相手を決してゆるせず生きていくひとと、ゆるされたい相手に決してゆるしてもらえず生きていくひと」の話なのである。そのどちらも悲しくて、苦しい。

 まずは敏彦と俊介の話である。
 倉田千太郎が経営する炭鉱で事故がある。坑内では火災が起こっている。消防団である敏彦の父親は坑内に閉じこめられている坑員助けに行って、やはり坑内に閉じこめられてしまった。倉田千太郎は炭坑を守るため、そして炭坑に依存するこの町を守るため、坑内に水を注入して火を消す決断をする。そして敏彦の父親は死んだ。倉田千太郎は俊介の祖父である。
 敏彦はこのことを知った時、俊介とけんかになる。そのとき崖から落ちて、下半身不随となり車イスで人生を過ごすことになってしまった。以後ここにいられなくなった俊介は札幌から東京へ出る。
 偶然大学のキャンパスで美智子と雄司に再会し、俊介は美智子と暮らすことになった。そして子供ができたが、美智子は流産してしまい、俊介の元を離れる。美智子は北海道に帰り、敏彦と一緒になる。
 俊介にとって敏彦には背負いきれない負い目がある。自分は敏彦の父親を殺した祖父の孫であり、いくらけんかの上の事故とはいえ、敏彦を車イスの生活を強いるようにしてしまった。更に今は敏彦の妻である美智子との関係もある。俊介は東京で恵美と一人息子哲生の3人で暮らしていたが、末期の肺ガンに冒されていた。

 カシオペアの丘にある遊園地に遊びに来た川原親子がいる。川原、典子、そして一人娘の真由。その真由が典子の不倫相手に殺されてしまう。犯人が捕まる前は、川原は典子と二人で真由を失ったことを悲しんだが、その犯人が典子の不倫相手とわかったとき、典子は川原の元を去り、川原一人、娘の死を悲しみくれる。
 雄司はその川原を取材してた。川原親子がカシオペアに丘にある遊園地に遊びに来ていたことを知り、レポーターの神内美唄(ミウ)を連れて、敏彦と美智子に話を聞きに行く。ミウにも過去があった。車を運転していたとき、老婆をはねてしまった。過失は老婆の方にあったが、老婆はその後寝たきりになり、腎不全で死亡した。ミウは自分が事故を起こさなければこんなことにはならなかったと思い、事故の事実がミウ自身の心に深い傷を残した。

 そして倉田千太郎は自分の決断で、坑内にいる人を見殺しにしてしまったことを、その後ずっと思い悩み、苦しんできた。それは自分が老いて、痴呆が始まっても、いつまでも心に残った。

 俊介、川原、ミウ、そして倉田千太郎がカシオペアに丘に帰ってくる。カシオペアの丘を離れて、時間がかなりたたったこともあり、それぞれの心の内部が変わり始め、「ゆるしたい相手」と「ゆるされたい相手」が再度時間を共有し、抜け落ちた時間を語ることで、今まで自分の負い目を自分で許せなかったことを、許し始める。相手も完全ではないけれど、許そうとする気持ちが生まれていく。それは俊介の余命少なくなってきていることが更にそうせざるを得なくした。それに触発されて、川原やミウも自分自身の心の変化が起こり始めた。
 そして相手を、自分を不完全ながら許そうという気持ちになった時、みんなはカシオペアの丘を去る。
「もうすぐ終わってしまう命がある。それを見送る命がある。断ち切られた命がある。さまよう命がある。静かに消えた命もある。その命が消えたあと暗闇をじっと見つめてきた命がある。そこから目をそらしてしまった命もある。身を寄せ合う命がある。孤独な命もある。満たされた命はない。どの命も傷つき、削られて、それでも夜空に星は光つづける」のである。


評価
★★★★


書誌
書名:カシオペアの丘で〈上〉
著者:重松 清
ISBN:9784062140027 (4062140020)
出版社:講談社 (2007-05-31出版)
版型:352p 19cm(B6)
販売価:1,575円(税込) (本体価:1,500円)


書名:カシオペアの丘で〈下〉
著者:重松 清
ISBN:9784062140034 (4062140039)
出版社:講談社 (2007-05-31出版)
版型:341p 19cm(B6)
販売価:1,575円(税込) (本体価:1,500円)

2007年07月12日

池谷裕二著『進化しすぎた脳』

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 この本について書こうと思い、書いていたのだがなかなかうまく書けずにいる。理系が全くダメな私にとって、この本のようにきちんと理路整然とまとめるのはかなり難しいのだ。何度か書き直しているうちにこんな感じになってしまった。

 私にとって、科学の最先端がいまどうなっているのか、こうした本はわかりやすく説明してくれるのでありがたい。読んでいて驚きと新たな発見があったし、知らなかったことを知る楽しさを教えてもらった。この本のオビに書いてあった文句、『しびれるくらいに面白い』という感覚を私も味あわせてもらった。
 この本は、著者の池谷さんが慶應義塾ニューヨーク学院高等部の高校生8名に行った脳科学講義の記録である。講義の参加者が高校生ということで、彼らにわかりやすく最新の脳科学がいまどこまで人間の脳にせまっているのが説明してくれる。ということは私にも比較的理解しやすいものとなっている。(もっともやっぱり難しいところはいくつかあったが、そこをさらりと流して読んでも、基本部分は何を池谷さんが言いたいのかわかった)

 私がこの本を読んで目から鱗といった感じで感じたことをいくつか抜き出したい。
 まずは一つめは、脳が他の臓器と違い、「働きがそれぞれの場所に別れて専門化している」ということである。「脳全体がいわば分業態勢をとっている」ということである。体のパーツの一つ一つが脳の中で分業されて機能しているということである。
 ということは逆に考えれば、『脳地図』(人間の体のさまざまな部位の機能が、大脳のどこに対応しているかを表す地図)は脳が決めているのではなくて体が決めているということになるらしい。つまり体のパーツが先にあって、そこをどの部分で脳が情報処理するかを割り当てているというのだ。そのため脳のかなりの部分が後天的なものというのである。
 たとえば腕がなくなってしまえば、脳自身も変わってしまう。つまり生まれ持った体や環境に応じて、脳は「自己組織的」に自分をつくりあげていくという。(ただこのたとえは生まれたときの話らしく、成人してからの話ではないらしい)
 ところでイルカの脳はかなり優れていて、脳のシワだけを見るとヒトより遙かに多い。だけど単純なことだけれど、ヒトとイルカはどちらが優れているかといえば、当然ヒトである。なぜそうなるかといえば、イルカには人間のような手もないければ指もないからだ。体がヒトほど優れていなかったために、イルカは自分の脳を十分に使い込めないでいる。その差が出ているのだという。つまり脳から見ればイルカの脳は「宝の持ち腐れ」だというのだ。だからイルカがもし素晴らしい体を獲得したら、人間はかなわないだろうと池谷さんはいうのだ。
 それではヒトは脳の機能を十分使いこなしているかというと、どうやらそうでもないらしく、やはり「宝の持ち腐れ」になっているという。つまりヒトの脳は進化の過程で他の体の部分より必要以上に進化しすぎているというのだ。進化は環境に合わせて進んできたのだけれど、それは体の話だという。そのため「脳に関しては、環境に適応する以上に進化してしまっていて、それゆえに、全能力は使いこなされていない」と池谷さんはいう。
 ではどうして脳は必要以上に進化してしまったかというと、「脳は、一見すると無駄とさえ思えるほど進化してしまっているけれど、でもそれは裏を返せば、将来いつか予期せぬ環境に出会ったときに、スムーズに対応できるための、一種の『余裕』だと考えることもできる。新しい環境や、もしくは進化や突然変異などで体そのものの形が急に変化してしまっても、余裕をもった脳は、依然これをコントロールすることができる」ようにするためだというのだ。だから「脳の過剰進化とは、いわば安全装置、そう、未来への予備みたいなものだ」ではないかと推察されている。これは一見言葉のロジックともいえそうだけれど、一方でそういう考え方ができるというのは、私にとって新鮮であった。だから、「脳はもっともっとポテンシャルを秘めている。<人間の体>という悪い乗り物に、残念ながら脳は乗ってしまった」というのは笑ってしまった。

 二番目は、自分が現在だと思っていたことが実は過去なんだということである。というのは、文字を読んだり、人がしゃべった言葉を理解したりするのに、脳では処理時間がかかっている。文字や言葉が目や耳に入ってきて、ちゃんと脳が情報処理ができるまでに、0.1秒、通常0.5秒かかるらしい。ということは、いま感じている現在は嘘で、0.5秒前世界になる。う~ん、0.5秒前とはいえ、今自分たちが認識している現在が実は過去なんだというのは驚きであった。
 しかも我々が見ている風景や文字など、実はちゃんと目からその通り見えている訳じゃないらしい。もともとその伝達機能には限界があって、さも実物のように見えていて、何ら不具合ないのは、脳がその不足している機能を補っているからで、そういう意味では人間は脳の解釈から逃れられないということになるというのである。
 では脳から支配は完璧かというと、ヒトの場合かなり曖昧だという。しかしそういう曖昧さが絶対的に必要なことらしい。たとえば、ある人物を写真のように完全に脳にインプットしてしまうと、次に会ったとき、服装や髪型が変わっただけで同じ人物とは認識できなくなってしまうというのである。脳が大まかな特徴を押さえることで、汎用性を持たせているということなのである。それを「汎化」という。そのことから記憶の曖昧さというのは応用という観点からするとかなり重要なことになる。
 人間の記憶力は他の動物から比べると例を見ないほどいい加減らしいが、それこそが人間の臨機応変な適応力の源といっていいらしい。そしてその曖昧さを確保するために、人間の脳はわざわざゆっくりと学習していき、その中で特徴などを抽出していくという。
 そしてこの「汎化」のために有利なプロセスが抽象化で、このような抽象的思考ができるのは、人間が「言語」をもっているからという。「言語」にはコミュニケーションの手段という側面と抽象的思考をするためのツールという側面を持つが、言語が抽象的思考をするためのツールという性格が「汎化」に役立っている。このことから「言語」を持ったことで、人間は応用力と環境適応力の高い動物とした。
 一方で記憶の曖昧さは、今まで思いもつかなかった別々の記憶を結びつける。これが想像と創造を生むのだ。これは正確性だけを求められるコンピュータでは望めない。

 三番目に興味を持ったのはアルツハイマー病の講義である。アルツハイマー病がなぜ発生し、その原因は何なのかを研究するにあたり、非常に明快な論理で研究が行われているのが、読んでいて気持ちいいくらいであった。
 それによると、アルツハイマー病に罹った人の脳を調べると、茶色いシミがあちこちに見え、このシミは健康な人には少ないと分かる。ということはこのシミ(老人斑)がアルツハイマー病の特徴ということになる。ならばこのシミがアルツハイマー病の原因に何らか関係しているのではないかと推論し、調べてみると、そこには「βアミロイド」がたくさん含まれていたという。この「βアミロイド」というのは猛毒で、シャーレで培養した神経細胞にこれを加えると、神経細胞が死んでしまうそうである。ではこの「βアミロイド」はどこから来るのかが次の段階になる。
 アルツハイマー病は約90%が遺伝と関係なく発生するが、残り10%は遺伝で起こるらしい。そしてその10%の患者の染色体の21番目に原因になる遺伝子が見つかった。これを「APP」という。そしてこの「APP」のアミノ酸の一部に「βアミロイド」に相当する42個のアミノ酸が含まれていたというのだ。ここで遺伝性アルツハイマー病は「APP」のアミノ酸の一カ所にミスがあり、「βアミロイド」が切り出されやすくなっているというのだ。つまり「APP」が切れて、「βアミロイド」となり、これが脳にたまり神経細胞を殺していくらしい。
 しかし「APP」の異常だけで説明できないアルツハイマー病が大多数であるので、他に原因があるのではないかということになっていく。そこで更に調べていくと、「プレセニリン」という酵素が「APP」の下の方を切るはさみの役目をしていることがわかった。一方「APP」の上部を切り取るのが「βセクレターゼ」で、二カ所切り取られることで「βアミロイド」が生まれるらしいというところまで分かってきたという。


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 ところで「βアミロイド」は、神経細胞を殺すというのだが、それはかなりの濃度がなければならないらしい。たぶんアルツハイマー病の末期には「βアミロイド」ががんがんに溜まっているのだろう。
 しかしわずかな数の「βアミロイド」でも痴呆は起こる。それがどうしてかというと、どうやら「βアミロイド」はシナプス(神経細胞の隙間)を攻撃をして、神経伝達の効率を下げ、脳全体の記憶力の低減を引き起こしているのではないかというのが最近の定説になっているそうだ。
 私が理解した範囲でいうとシナプスでは、送り手と受け手が決まっていて、送り手の方には神経伝達物質のグルタミン酸が詰まっている袋があり、そこからグルタミン酸を放出し、受け手に伝える。


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 そして放出されたグルタミン酸は「グリア細胞」が回収する役目を負う。ところが「βアミロイド」は「グリア細胞」の働きを活発にし、放出されたグルタミン酸が受け手に伝わる前に回収してしまい、伝達効率を悪くする。ということは「βアミロイド」が脳に溜まり始めると、まずシナプスが先にやられるということになる。
 こう読んでいくと、アルツハイマー病の進行が脳の中でこのようになっているんだと分かった気がする。全く関係ないかもしれないが、先日テレビで放映された荻原浩さんの『明日への記憶』よりはるかに面白い。(要するに原作も、映画もつまらなかったということ)

 そして四番目に興味を持ったのがアルツハイマー病と進化の関係に言及した部分である。進化の頂点にいるヒトがアルツハイマー病で苦しんでいる。もし自然淘汰が進化を進めたなら、アルツハイマー病は自然淘汰されていいはずだと池谷さんはいう。でもアルツハイマー病は残ってしまった。なぜか?
 池谷さんは自然淘汰は、環境に有利な個体を子孫として残すという繁殖をターゲットにしている。しかしアルツハイマー病はほとんど歳をとってからの病気であって、その人たちはもう子孫を残してしまっている。だからアルツハイマー病は自然淘汰で消えなかったというのである。
 今の人間は長生きしすぎている。本来の寿命は50歳ぐらいだろう。もしそのくらいでヒトの寿命が終わるなら、たとえ「βアミロイド」が少しずつ脳に溜まっていっても、充分天寿を全うできるはずだ。長生きするからこんなしわ寄せ出てきたのだ。だから古代人の間ではアルツハイマー病はきっと問題視されなかったのではないかという。
 そこから更に、現代の医療技術では、どんな病気であろうと障害があろうと子孫を残すことができる。つまり現代の医療技術がなければ排除されてしまうはずの遺伝子を残すことができる。このことは自然淘汰の原理に反している。そういう意味ではヒトはもはや進化を止めてしまい、その代わり環境を自分たちに合わせて変えようとしているのではないかという考えていく。

 最後に個人的意見をいわせてもらえば、こうした脳のしくみや病気など様々な研究から、更に理論立てて研究を進めて行くにあたり、その思考方法はどこで生まれたものなのかということを考えたら、それは脳のなかで組み立てられたものであろう。ということは脳の研究が脳で考えられていることになる。これって、一体どこまで解明できることになるのだろうかと素朴な疑問が生じる。ヒトの脳をヒトの脳で考える。どこか無理があり、矛盾が生じることはないのだろうか?それこそメビウスの輪に迷う込むことになるのではないかなんて思っちゃったりするのだけれど・・・。


評価
★★★★


書誌
書名:進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線
著者:池谷 裕二
ISBN:9784062575386 (4062575388)
出版社:講談社 (2007-01-20出版) ブルーバックス
版型:397p 18cm
販売価:1,050円(税込) (本体価:1,000円)

2007年07月05日

饅頭本

 昨日の朝日新聞の夕刊に次のような記事が出ていて、ネットから拾ってみた。

自費出版でトラブル相次ぐ「本屋に並ぶと思ったのに」
2007年07月04日17時53分

 「全国に広く流通」「全国の書店から注文できる」などとうたった自費出版ビジネスをめぐり、著者と出版社の間でトラブルが持ち上がっている。著者のなかには「ほとんど店頭に並んでいない」と不満を訴える人もいる。4日午前、3人の著者らが、「本が店頭に並ぶと誤解させられて契約した」として、大手自費出版社を相手取り、出版代金計約800万円の賠償などを求めて東京地裁に提訴した。

自費出版した作品を広げる徳島県の男性。全国のはずが地元の書店などにしか並ばなかった
 流通する自費出版をめぐっては、約10年前に年間数百点規模だった出版点数が、06年に年間4000点を超えるなど、市場は拡大している。インターネットの普及や「団塊の世代」の大量定年で、自己表現の場を求める人が増えているためだが、出版が増えるに連れ、営業や勧誘手法に疑問の声が上がるようになった。

 自費出版は、自分史や小説、画集などを自費製作し、身近な人に配ることが多い。一方、流通版では、著者が出版費用を負担するのは同じだが、取次業者を通して書店の注文に応じて配本されたり、書店に置かれた専用棚に並んだりする。

 流通する自費出版を担う出版社は出版相談会や、賞を受賞すると無料で出版できるコンテストを開いて出版作品を募っている。書店への営業や広告宣伝をする分、やや割高で、500部製作で、100万~200万円が相場だ。

 原告の一人、徳島県の30歳代の男性は05年夏、この自費出版社のコンテストに応募。落選後の同年末に勧誘を受け、約150万円で500部を出版する契約を結んだ。翌夏、写真とイラストを組み合わせたアート集を出版したが、都内などの出版社の直営店のほか、地元百貨店内の書店など3店に並んだだけだった。

 男性は「東京や大阪など大都市圏の書店に並ぶと思ったからこそ出版契約を結んだ。そうでなければ契約はしていない」と不満を訴える。

 同社はコンテストの落選者にも自費出版を持ちかけることがあると明示しているが、落選作品に褒め言葉を並べる営業手法に疑問の声もある。

 滋賀県に住む別の男性は昨夏、写真コンテストに応募・落選した後に出版の勧誘を受けた。「営業担当者から『こんないい写真は手放したくない』とおだてられ、舞い上がってしまった」。男性は昨年末に500部製作の出版契約を結び、手付金の100万円を支払ったが、出版社側の流通方法への説明に不信感を抱き、契約取り消しを求めている。

 元社員も「コンテストの応募者には、『表現がすばらしい』『発想がユニーク』などと褒め言葉を並べて出版を持ちかけた」と打ち明ける。

 一方、この自費出版社の社長は「著者の舞台を広げることがうちのテーマで、ベストセラー作家になった人もいる。作品ごとに全国の書店に営業をしているが、全国の書店に並べるとは約束していない。コンテストは本を出したい人のための賞で、うちの本は自信を持って流通できるものばかりと思っている」と説明する。

 流通する自費出版をめぐっては、同じように書店に並ぶことを売り物にしていた業界大手の碧天舎(へきてんしゃ)が昨年春に多額の出版費用を集めて倒産。約250人の出版が頓挫するなどのトラブルも起きている。

 ■「売れるものは少数」納得して契約を

 〈出版ニュース社代表で東京女子大講師の清田義昭さんの話〉 自費出版はだれもが自由に表現できるメディアで、出版や言論の多様性を担保する意味で出版点数が増えているのはいいことだ。内容も絵本や小説、写真集など多様化している。ただ、書店に流通しても売れるものは限られている。著者は売れるものは少ないと認識し、出版社側はどの書店にも並ぶわけではないときちんと説明し、お互いが納得して出版契約を交わすべきだろう。


 もし私が裁判員制度で裁判官になったら、即刻この訴えは却下である。理由は簡単である。どんな本を書いたのか知らないけれど、たかだが500部ぐらいで、全国の書店に行き渡るわけがないじゃないの。 それと仮に書店に配本されたとしても、その本を店に並べるかどうかの判断は書店員がする。あなたじゃないし、勧誘した出版社でもないのだ。だから、まずよほどのことがなければ置かない。ただでさえ、新刊の置き場所に困っているのだから余計である。知ってます?書店の返品率は約40%もあるんですよ!きっとあなたの本もこの中に入っちゃいますよ。
 この手の本を饅頭本というのをご存じだろうか?どうしてかというと、葬式のときに近親者に配る饅頭のように、「よろしかったら召しあがってくださいませんか」という領域の本だからである。そもそも100万から200万円のお金を出す以上、そのお金が惜しいなら、出版業界の内情ぐらい勉強しておけよといいたくなってくる。でなければ文句を言うなという感じだ。
 趣味で書いた俳句や短歌、あるいは絵など、一体誰が読んだり見たりするかというのだ!団塊の世代が引退して、それまでの人生を振り返った文章など、よほどのことがなければ面白みなどないだろうし、ましてお金まで出して買いたいなんて思わないのではないか?趣味のものは所詮趣味どまりだろうし、平々凡々の他人の人生模様など知ってどうなるというのだ。
 私の家にも死んだ義父がたぶんつきあいでもらっただろうと思える自費出版本が数冊棚にあるが、この手の本が嫌だなと感じるのは、読む側を無視した感覚が嫌なのである。自己主張しすぎる点が嫌なのである。自分の書いた本がものすごくすばらしい、あるいは自分が歩んできた人生がいかに波乱に富んで、その苦労を乗り越えてきたかをつづることで、自己陶酔しているのを感じちゃうのである。だから全国有名書店に自分の本が並ぶことを夢見ちゃう訳だ。ベストセラー作家気取りになっちゃうのだろう。
 私はよくブックオフに行くが、そこにも箱入り豪華本コーナーに明らかに自費出版本と思われる本が並んでいる。販売価格はだいたいが100円くらいだ。ということは、この手の本はその程度の価値しか見られていないということの証じゃないかと思う。そしていつでもそこにある。たぶんこの後は処分されるのだろう。
 さらに言わせてもらえば、あなた方は団塊の世代といって、苦労してきたのでしょ。だったら現実はそんなに甘くないくらい嫌というほど味わってきたんじゃないの。出版も同じですよ。ここに来て自分たちが味わってきた苦い現実を無視するのはおかしいと思いませんか?たとえこうした自費出版を請け負う出版社の詐欺まがいに近い勧誘広告を新聞などで見ても、それに乗ちゃいかんでしょう。
 出版もビジネスである以上、売れてなんぼのものだ。けれど自費出版は別だ。自費出版を請け負う出版社は、本を書いてみたいという人物を集めて、本を作らせ、その代金でビジネスをしているのだ。そのことを知るべきである。

 ちなみに佐野眞一さんの『だれが「本」を殺すのか』(新潮文庫)にも自費出版の現状と弊害が書かれている。やはり自費出版は飛ぶ鳥を落とす勢いで、そこでは自費出版の雄である文芸社のことが書かれている。それによると、文芸社の2003年の売上高五十七億円で、これは幻冬舎の六十億円よりは少し下回るが、河出書房新社や筑摩書房、平凡社の三十六億円よりはるかに上回っていて、利益の四億円はプレジデント社や医学書院にほぼ匹敵するという。それ以上に驚かされるのが出版点数で2002年の文芸社の出版点数一千六百七十四点で、これは講談社の二千九十九点についで第二位にランキングされるという。おそらく今年はもっとすごいペースで自費出版本が生まれているんだろうなぁ。
 そういえば、佐野さんの本によると、この出版社の受付には、すんなりとした足を伸ばしす美女が二人いて、色仕掛けでもしそうな感じで待っているそうですよ。

2007年07月04日

半藤一利著『続・漱石先生ぞな、もし』

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 また半藤さんの本に戻る。話はちょっとずれるが、たまたまついていたテレビを眺めていたら、ショコタンが出ていて、「ギザカワユス」、「ギガントうまい」なんて訳のわからん日本語を使っている。ショコタン語というらしい。要するに彼女が作ったニホンゴなのだそうだ。彼女のブログでは頻繁に使われているらしい。私が「彼女の作ったニホンゴ」とカタカナにしたのは、日本語じゃないからで、ただ単におぞましく感じるからである。こんな言葉を共有するやつは正直馬鹿じゃないかとさえ思っている。
 司馬遼太郎さんが現代の日本語文をみんなが使えるようにしたのは夏目漱石だと言っていた。つまり口語と文語を一致させた文章を普及させたのは漱石だというのだ。それを半藤さんは司馬さん言葉を次のように引用する。

「明治元年以後の日本語の文章がいつ成熟したのか。私は夏目漱石で、最初の成熟を見たと思います。この成熟というのは、一つの文章で日米貿易摩擦について社説を書くこともできれば、自分の恋愛感情を小説にすることもできる、つまり多目的に使えるという意味の文章ですが、それを明治四十年前後に漱石がつくったと思っています」

 つまり漱石は誰でも参加できる文章日本語として小説を書いたというのである。そのためにはそれまでなかった言葉を苦労して造る。たとえば「不可能」、「反射」、「無意識」、「経済」、「価値」、「電力」、「評価」、「自由行動」、「生活難」、「正当防衛」「世界観」など、漱石の作品に見られる当時の新語を半藤さんは羅列していく。もちろんそれは漱石だけじゃなかっただろう。明治の文人はヨーロッパから輸入される言葉を日本語に当てはめる場合、それに該当する言葉がないことが多かったに違いない。だから新しい日本語を造らなければならなかったはずだ。半藤さんは「いま日本語の乱れを嘆く声はすこぶる多い。たしかに、明治の漱石・鴎外時代のきちんとした意味のある言葉を造る苦労も知らないで、勝手気儘に使いながらどんどん正確さから遠退いていく。新しい言葉を流行にまかせてポンポンとこしらえ、さっさと捨てていく。ワープロなどハード面の長足な発達で、言霊としての文字への怖れを失い、文章は日を追って機械的に味気なくなっていく。まこと昔の日本人の建設の苦労や守成のつらさを知らず、いまのわれわれは言葉を消耗品のごとくしてしまっている」という。まさにショコタン語なる馬鹿な言葉がそれにあたると思うのだ。言葉には当然はやり廃りがあると思うが、言葉をファッションのように造りだし、趣味や嗜好を同じくする人間だけの間使っているならともかく、いい気になってどこでも使う無神経さに無性に腹がたつ。言葉は言霊なのだ。

 さて、前作同様漱石のトリビアが続く。私の方も前回と同様にへぇ~と思ったことを書く。
 漱石の収入はどんなものだったのだろうか?つまり印税収入はどれくらいあったのだろうかということである。半藤さんの義父の松岡譲の計算によると、その死まで売れた部数は十万冊前後だという。えっ!そんなもんしか売れてないのと思ったけれど、どうやらそんなものらしい。そこからさらに計算すると漱石が生前受け取った印税は二万五千円程度で、これを今の相場に直すと、八千八百二十万円弱になり、月額六十六万円八千円になるという。これじゃ有名人で門下生が多かった漱石の生活は厳しかったようである。
 ところで今岩波書店から出ている文庫のカバーや以前出版された漱石全集の表紙に使われている朱地に文字が浮き出た模様がある。この模様を見れば、あっ漱石の作品だなとすぐわかるほど目立つものだ。これは漱石自らデザインをしたものらしい。その経緯が書かれていた。
 岩波書店の創業者岩波茂雄が漱石の『こころ』を出版させてほしい頼みに来た。それまで漱石の作品は春陽堂か大倉書店で出版されていたのだが、漱石は簡単に了承した。岩波書店は創業時は古籍商、すなわち古本屋さんであった。この申し出のあと岩波茂雄は「資金がありません。ついては(『こころ』の)出版費用もかしていただきたい」と言って、それも漱石は了承したのである。
 ここで半藤さんは推理する。『こころ』が自費出版に近い形の出版となれば費用は抑えないとならないと漱石は考え、「装幀の事は今まで専門家にばかり依頼していたのだが、今度はふとした動機から自分で遣って見る気になって、箱、表紙、見返し、扉および奥附の模様および題字、朱印、検印ともに、ことごとく自分で考案して自分で描いた」と『こころ』の序で書いている。それがあの朱地に文字が浮き出た模様である。あの独特な表紙のデザインがこうして生まれたことを初めて知った。

 日本近代史の通史などを読んでいると、時たま漱石の文明批評が引用されるのをたびたび読む。読むたびに結構鋭いなぁと思っていた。結構冷めた目で当時の日本の現実を見ていると思うのだ。今回もいくつか引用されている。
「吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果、不自由を感じて困っている」

「文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏みつけようとする」

「ことごとく切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるから、揃って神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから、自分の事と、自分の今日の、ただ今の事よりほかに、何も考えやしない。考えられない程疲労しているんだから仕方がない」

 これが明治時代に言われたことだと知らなければ、今でも通用しそうである。やっぱり漱石は読みたいな。


評価
★★


書誌
書名:続・漱石先生ぞな、もし
著者:半藤 一利
ISBN:9784167483050 (416748305X)
出版社:文芸春秋 (1996-12-10出版) 文春文庫
版型:324p 15cm(A6)
販売価:479円(税込) (本体価:457円)

☆品切れ(重版未定)の為、入手不能のようである。

2007年07月01日

北尾トロ著『ぶらぶらヂンヂン古書の旅 』

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 今回はトロさんの日本全国古本探しの旅の本である。本の題名である「ぶらぶら」は大した当てもなく、歩き回ることを意味するのだろうとはわかったが、「ぢんぢん」がちょっとわからなかった。あとがきを読んで初めて、古本屋を「歩きまわっているうちに人とも出会うし、予期せぬ体験もできたりする。なにより、いい店を発見し、ほしい本をつかみとる瞬間の、胸がヂンヂンたぎる瞬間がたまらない」とあったので「ぢんぢん」は「じんじんする」ことをいっていたんだとわかった。
 トロさんにとって古本屋さんで本を買うことは、自分の副業?のネットの古本屋のセドリも兼ねるので、我々が古本屋さんで本を探すのとはちょっと感じが違う部分があるが、それでも探している本が見つかったり、まったく知らなかった新しい発見があったりしたときの心躍る感覚は同じだろう。気持ちとしてよくわかる。それにわざわざここまで来たのだから、何か成果を出したと思う気持ちは、実際古本屋を歩き回ると確かにそう思う。
 そういうのが随所に書かれていて、ふむふむ確かにそうだと思った。これは古本屋で本を探した経験のある人しかわからないかもしれない。だから一定の成果があったとき、「小走りに駅に急ぎ、新宿行きのあずさに乗った。隣の座席に置いた、パンパンにふくらんだデイバックを叩いてみたら、ポンポンといい音がした」と書くトロさんの満足感がよく伝わってくる。

 ところでトロさんがやっているネットの古本屋さんは私も度々利用させてもらっている。ネットで自分のほしい本が日本全国の古本屋さんから探せる効率のよさがいい。しかし利用する側はそうしたことを重宝しているけれど、逆にネットの古本屋が広まることの弊害とでもいうのか、そのことが古本屋さんがもっている性格も変えつつあることも書かれていて、ちょっと考えちゃった。
 たとえば「市の中心部から距離のあるこの店でに来るのは、クルマに頼らざる得ない。以前はここの在庫に魅力を感じ、そうやって定期的にやってくる客も多かっただろう。ところがインターネットの登場で、ほしい本は自宅で検索、注文までできるようになった。ネットを使えばこの店など比較にならない、膨大な在庫から本を探すことができる。わざわざ時間をかけて、あるかないかわからない本を探しに店まで行く必要はないのだ。その中にはぼくがネットで売っている本だって入っているかもしれない。
 立地ではなく、店主の個性でもなく、置いてある本で勝負してきた店はより巨大化・システム化して新しい客を獲得する方法か、店売は見切ってネットで本をさばいていくかの選択を迫られている」と書いている。だから以前ここには古本屋さんがあったはずなのになくなっていたり、お店を訪ねても、明らかに本が動いていないことがわかるお店に何軒か出会う。その一因がネットにあるのではないかとトロさんは考えるのである。
 また「ネットの普及が古本価格の均一化を招いているとはよくいわれることだが、実際に地方を訪れてみると、改めて現実を痛感する。相場以上の値段ではないとはわかっていても、遠方から訪ねてきた人間としては、”わざわざここで買う”動機付けがないと手を出しにくい」状況になっているというのだ。古本は新刊書籍とは違い定価がないのだから、本の状態や希少価値、あるいはお店の店主のポリシーなどで、値段がまちまちであるのが、楽しいのだが、それがどこでも同じじゃつまらない。
 ネットの古本屋を利用する我々はその便利さだけをありがたく感じるけれど、古本屋さんに限らず、新刊書店の存在感は、トロさんの言うように「その店がもっている磁力といいますか、存在感みたいなものは行ってみないとわからない。空間の濃度もそうだ。ネットでいくらでも本が買える時代、わざわざ足を運ぶ意味はそこだろうとぼくは思う」というのは、その通り!と声を荒げて強く同調しちゃう。


評価
★★★


書誌
書名:ぶらぶらヂンヂン古書の旅
著者:北尾 トロ
ISBN:9784776300342 (4776300346)
出版社:風塵社 (2007-06-30出版)
版型:222p 19cm(B6)
販売価:1,365円(税込) (本体価:1,300円)